仲間 最終章  ~ 鋳掛屋の天秤棒 ~

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  • #1

    六輔 (日曜日, 24 2月 2019 20:44)

    むかしむかし・・・
    人里離れた山奥に、狐の「キーちゃん」と兎の「ウーちゃん」、そして猿の「ルミちゃん」という仲良し3匹組がいました。
    仲良し3匹組は、どんな時でも一緒に助け合いながら暮らしていましたが、皆、同じ悩みを持っていたのです。

    (キーちゃん)「どうして私達の姿は獣なのかなぁ?」
    (ウーちゃん)「どうしてなのかしらねぇ・・・私達も人間の姿になりたいよね!」
    (ルミちゃん)「前世で何か悪いことをしたからなのかなぁ…」
    (ウーちゃん)「・・・そうなのかなぁ」
    (キーちゃん)「今からでも人の役に立つことが出来たらいいね!」
    (ウーちゃん)「うん、そうねっ!」
    仲良し3匹組は、毎日のようにそんな話をしていました。

    桜が散り、新芽が顔を出し、木蓮が満開になり、季節が段階を踏んで移って来た或る日のこと・・・
    (キーちゃん)「今日は、何をして遊ぶ?」
    (ウーちゃん)「“かくれんぼ”しよっ!」
    (ルミちゃん)「“かくれんぼ” “かくれんぼ” わ~い!」
    (キーちゃん)「じゃぁ“かくれんぼ”で決まりね! オニ決めのジャンケンしよ!」
    (仲良し3匹組)「じゃぁ~んけん…ポン!」
    (ウーちゃん)「キーちゃんが“オニ”ねっ!」
    (キーちゃん)「私がオニよ~! 早く隠れて~! 数え始めるわよ~! イ~チ、二~、サ~ン・・・」
    ウーちゃんとルミちゃんは、隠れる場所を探しました。

  • #2

    六輔 (月曜日, 25 2月 2019 19:25)


    ウーちゃんとルミちゃんは、森の中の方に向かって一緒に走りながら隠れる場所を探しました。
    (ウーちゃん)「どこに隠れたらいいと思う?」
    (ルミちゃん)「う~ん・・・」
    (ウーちゃん)「キーちゃんは見つけるのが上手だから、見つけにくいところに隠れないと、直ぐに見つかっちゃうよね?」
    (ルミちゃん)「う~ん・・・あっ、あそこの木の陰がいいんじゃない?」
    (ウーちゃん)「あそこ?・・・あっ、本当だ! 大きな木があるね。あそこに隠れましょ!」
    ウーちゃんとルミちゃんは、大きな樫の木の陰に隠れました。

    両手で両目を覆うって数を数えていたキーちゃんは、もう少しで「数え終わるよ~」と知らせるかのように、大きな声を出しました。
    (キーちゃん)「ハ~チ、キュ~…ジュウ!!」
    両目から両手を放したキーちゃんは、眩しさに少し顔をゆがめましたが、直ぐに笑顔を浮かべて二人の名前を呼びました。
    (キーちゃん)「どこに隠れたのかなぁ・・・ウーちゃ~ん! ルミちゃ~ん!」

    キーちゃんの声にウーちゃんは、思わず返事をしてしまいそうになりました。
    (ルミちゃん)「ウーちゃん! 返事をしちゃダメだよ!」
    (ウーちゃん)「そっか・・・見つかっちゃうもんね!」
    ウーちゃんとルミちゃんは、キーちゃんが自分達を探している様子を樫の木の陰からそーっと見ていました。

    (キーちゃん)「ウーちゃ~~~ん… ルミちゃ~~~ん・・・どこぉ~? どこにいるのぉ~~~」
    二人の名前を呼ぶキーちゃんの声は、森の中に響き渡りました。
    キーちゃんは何度も何度も二人の名前を呼んでいましたが、だんだんその声が悲しそうな声に変っていきました。

    (ウーちゃん)「ねぇ、ルミちゃん・・・なんかキーちゃんが可哀想だよぉ」
    (ルミちゃん)「だってぇ・・・だって“かくれんぼ”だもぉん… 仕方ないよ~」

    ウーちゃんとルミちゃんが、そんな話を大きな樫の木の陰していると、キーちゃんの前に一人のお爺さんが突然現れました。
    (キーちゃん)「あっ、お爺さん・・・こんにちは」
    (お爺さん)「あっ、・・・狐さん」
    (キーちゃん)「こんな山奥に、何か用事があって来たのですか?」
    (お爺さん)「用事があって来た訳ではないのじゃが・・・」

    ウーちゃんとルミちゃんは、その様子を樫の木の陰から見ていました。
    (ウーちゃん)「お爺さん、どこから来たのかなぁ?」
    (ルミちゃん)「こんな山奥まで来て、どうかしたのかなぁ・・・なんかとっても疲れているみたいよね」
    (ウーちゃん)「・・・うん」
    (ルミちゃん)「キーちゃんと何を話しているのかなぁ・・・」
    (ウーちゃん)「ねぇ、行ってみよう?」
    (ルミちゃん)「そうね!」
    ウーちゃんとルミちゃんは、キーちゃんとお爺さんのところに大急ぎで向かいました。

  • #3

    六輔 (火曜日, 26 2月 2019 20:22)


    ルミちゃんとウーちゃんが、息を切らしてお爺さんのところにやって来ました。

    (ルミちゃん)「ふぅ、ふぅ…お爺さん、こんにちは」
    (お爺さん)「あっ、…お猿さん」
    (ウーちゃん)「こんにちは、お爺さん…ふぅ、ふぅ」
    (お爺さん)「あっ、…ウサギさん」
    (ウーちゃん)「みんなで“かくれんぼ”をしていたんですけど、お爺さんがとても疲れた様子だったので、心配になって走ってきました・・・どうかしたんですか?」

    お爺さんは、心配そうに見つめるキーちゃんとウーちゃんとルミちゃんの仲良し三匹組に向かってこう言いました。
    (お爺さん)「旅の途中で道に迷ってしまったんじゃ」
    (ルミちゃん)「道に迷ってたくさん歩いて来たんですか?」
    (お爺さん)「もう三日も歩き続けているんじゃよ」
    (キーちゃん)「えっ? 三日も?…それじゃぁ・・・お爺さん、お腹が空いているんじゃないですか?」
    (お爺さん)「初めて会った私のような者を心配してくれるのかい? ありがとう・・・実は、お腹がペコペコなんじゃよ。 何か、恵んでいただけたらありがたいのじゃが・・・」

    仲良し3匹組は、顔を見合わせて一緒に返事をしました。
    「はい、お爺さん!」
    キーちゃんとウーちゃんとルミちゃんの仲良し3匹組は、人の役に立つことができると喜んだのでした。

    (キーちゃん)「お爺さん、食べ物を探してきますからここで待っていてください!」
    (お爺さん)「探してきてくれるのかい?」
    (仲良し3匹組)「はい!」

    仲良し3匹組は、食べ物を探しにそれぞれ別の場所に向かいました。
    狐のキーちゃんは、魚を捕まえようと川に向かいました。
    川に着いたキーちゃんは、じっと川の中を覗いていました。
    『あっ、いた!ヨシッ!・・・あっ、こっちにも!』
    狐のキーちゃんは、たくさんの魚を上手に捕まえました。

    木登りの得意な猿のルミちゃんは、高い木を見つけてそこに登りました。
    『ヨイショ!ヨイショ!・・・あっ、あった!』
    猿のルミちゃんは、たくさんの木の実を集めました。

    だけど、兎のウーちゃんは・・・
    川に入ることも木に登ることも出来ません。
    広い草原でウーちゃんは、考えました。

    『わたし、どうしよう・・・』

  • #4

    六輔 (水曜日, 27 2月 2019 19:52)


    「お爺さんのために、わたし頑張る!」
    と、自分を奮い起たせたウーちゃんは前を向いて走り出しました。
    ≪ピョン!ピョン!ピョン!≫
    ウーちゃんは、広い広い草原を一生懸命に走り廻りました。
    ≪ピョン!ピョン!ピョン!≫
    でも、ウーちゃんのウサギ跳びの速さでは、食べ物を捕まえることは出来ません。
    「どうしよう・・・」

    草原では食べ物を見つけることは出来ないと思ったウーちゃんは、森の中に入いりました。
    ウーちゃんは、森の中でも一生懸命に走り廻ってお爺さんの食べ物を探しました。
    ≪ピョン!ピョン!ピョン!≫
    「あっ!」
    ウーちゃんは、高い木の枝に美味しそうな木の実が生っているのを見つけました。
    「エイ! ソレッ!…ソレッ!」
    ウーちゃんは、風の抵抗を少しでも減らそうと、両手両脚をいっぱいに伸ばし、長い耳をピタリと背中につけて一生懸命にジャンプしました。
    ウーちゃんは、お爺さんのために何度も何度もジャンプをしましたが・・・
    どうしても届きませんでした。
    「・・・私には採れないよぉ」
    ウーちゃんは、悲しくて悲しくて涙が止まらなくなりました。
    たくさん涙を流したウーちゃんの目は、真っ赤になってしまいました。

    結局ウーちゃんは、食べ物を何も見つけることが出来ないままお爺さんが待つ場所に戻りました。
    ウーちゃんが戻ってきたときには、もうキーちゃんとルミちゃんは、お爺さんの前にいてとても嬉しそうに笑っていました。

    (キーちゃん)「お爺さん、魚をたくさん捕まえてきました!食べて下さい」
    (お爺さん)「ありがとう」
    (ルミちゃん)「お爺さん、美味しい木の実をたくさん採ってきました!食べて下さい」
    (お爺さん)「ありがとう」

    何も話すことが出来ずに黙ってうつむいているウーちゃんを見たお爺さんは尋ねました。
    (お爺さん)「ウサギさんは何を?・・・」
    (ウーちゃん)「わたしは・・・私は、何も採ってくることが出来ませんでした・・・ごめんなさい」
    (お爺さん)「・・・そっか」
    それでもお爺さんは笑みを浮かべてウーちゃんにこう言いました。
    (お爺さん)「一生懸命に走り廻って探してくれたのかい? たくさん汗をかいているのがその証拠じゃろう?」
    (ウーちゃん)「えっ?・・・でも私は・・・ごめんなさい」
    ウーちゃんは、自分の非力さを嘆き、お爺さんが優しく許してくれたことに余計に悲しくなりました。

    ウーちゃんは、どうしてもどうしてもお爺さんの役に立ちたいと考えました。
    真っ赤になった瞳を瞼で隠し、ずっと考えていたウーちゃんは、何かを決心したかのように「・・・そっか」と、小さな声を出してキーちゃんのところに行きました。

    (ウーちゃん)「キーちゃん・・・お願いがあるの」
    (キーちゃん)「なぁに? ウーちゃん」

  • #5

    六輔 (木曜日, 28 2月 2019 20:16)


    大きな葉っぱのお皿の上に魚を並べていたキーちゃんは、その手を止めてウーちゃんの話を聞きました。

    (キーちゃん)「お願いってなぁに? ウーちゃん」
    (ウーちゃん)「ここに火を焚いて欲しいの」
    (キーちゃん)「えっ? どうして?」
    (ウーちゃん)「キーちゃんが獲って来たお魚さん・・・お爺さんに焼いて食べて欲しいから…」
    (ルミちゃん)「そっか!さすがウーちゃん!よく気が付いたわね!」
    (ウーちゃん)「う、…うん」

    ウーちゃんとキーちゃんの話しを聞いていたお爺さんは、森の中に入って落ちていた木の枝を拾い集め、それで串を作りました。
    串を魚に上手に刺したお爺さんは、キーちゃんが焚いてくれた焚き火の周りにそれを並べて刺しました。
    魚たちは、ジュウジュウと音を立てて油を噴き出し、薄い焦げ目を作り始めました。
    狐のキーちゃんは、嬉しそうにその様子を眺めていました。

    (お爺さん)「ありがとう・・・いただくよ」
    お爺さんは、焼きあがった魚と木の実を美味しそうに食べました。
    その様子をウーちゃんは、まばたきをすることなくじっと見つめていました。

    と、それは突然のことでした。
    兎のウーちゃんは、お爺さんにこう言って燃え盛る焚き火の中に飛び込んでしまったのです。

    『お爺さん! 私のお肉を食べてください!』

    それは咄嗟の出来事でキーちゃんもルミちゃんもどうすることも出来ずにただ泣き叫ぶことしか出来ませんでした。
    「ウーちゃーーーーーん!!!」
    「ウーちゃーーーーーん!!!」

  • #6

    六輔 (金曜日, 01 3月 2019 20:05)


    兎のウーちゃんが焚き火に飛び込んでしまった姿を見たお爺さんは、それまで変えていた仮の姿を元の姿に戻して正体を現しました。
    お爺さんは、仏様だったのです。
    仲良し3匹組が、「私達の姿が獣なのは、前世で何か悪いことをしたからなのかな? 今からでも人の役に立つことができればいいな!」と話しているのを聞いた仏様が、お爺さんに姿を変えて仲良し3匹組の前に現れていたのです。

    仏様は、焚き火の前で泣き続けるキーちゃんとルミちゃんに優しくこう言いました。
    (仏様)「狐さん・・・猿さん…」
    (キーちゃん・ルミちゃん)「・・・はい」
    (仏様)「お前たちの優しい気持ちはよく分かった。次に生まれ変る時にはお前たちを人間にしてあげよう」
    (キーちゃん・ルミちゃん)「・・・仏様」
    (仏様)「それから・・・ウサギさんのこれ以上ない優しい気持ちを後世まで伝えるために、お月様にウサギさんの姿を残してあげよう」

    仏様は、兎のウーちゃんを月に昇らせました。
    キーちゃんとルミちゃんが夜空に輝く綺麗な月を見ると、そこにウーちゃんの姿を見つけたのです。
    (キーちゃん)「あっ、ウーちゃん!」
    (ルミちゃん)「お爺さんのためにお月様で餅をついているのね・・・ウーちゃん」

    この話が起源となって「月に兎がいる」と言われるようになったのです。
    (兎の捨て身の慈悲行に関する記述は「今昔物語集」にも収められている話です)

  • #7

    六輔 (土曜日, 02 3月 2019 20:44)


    こうして古代にあっては、日本だけではなく中国などアジアの各地で「月に兎がいる」と言われていたように、人類は皆、ずっと月に関心を寄せてきた。

    その姿は、時に誰かの顔のように真ん丸であり、また時には誰かの綺麗に整えられた眉のように細長くカーブを描き、フォルムを変えては満ち欠けを繰り返す。
    その色は、卯の花のように真白であったり、ほおずきのように赤ばんでいたり。
    真っ暗な大地を明るく照らし、人々の暗闇に対する恐怖を和らげ、月が贈り届けてくれる無償の光は、ずっと変ることなく人々の味方だった。
    それでも月は、何も語らずに寡黙であるが故に、古代の人達にとって謎だらけの代物だった。

    時は流れた。
    それとともに、古くからの言い伝えに疑問を抱く者が現れてきた。
    「月の陰は、本当に兎なのかな?」
    「何故、兎は動かないのかな?」
    と、そう考える者の他に、月以外の物にも疑問を抱く者が現れてきた。
    その疑問の対象は、夜空に輝く星だ。
    一切の灯りのない真っ暗な夜、夜空を彩る綺麗な星たちを毎日眺めていると、そこに「どうして?」という思いを抱く者が現れてきたのである。
    「星たちは、どうして時間とともにその位置を変えるのかな?」
    「星たちは、どうして季節によって並び方が違うのかな?」と。

    こうして古代の人達が、月や星の動きに「どうして?」と疑問を抱くようになったがために、そこに「学問」という文化が芽生えていったのである。

  • #8

    六輔 (日曜日, 03 3月 2019 20:41)


    人類は、他の生き物にはないものを持っている。
    それは「どうして?」、「分からないから、知りたい!」という感情だ。
    人間以外の動物が、「知りたい、調べたい」という感情を持つことはない。
    例えば、ペットの犬が自分を可愛がってくれるご主人様の帰りを待ち続けていたとしよう。
    そこにあるのは、大好きなご主人様に早く逢いたいという感情だけであって、いつもより帰りが遅いときに、「どうして今日は帰りが遅いのかな?」と、そう思うことはあっても、だからといってご主人様が遅くなっているその理由を調べたりはしない。
    ただただご主人様の帰りを信じて待つ。

    だが、人は違う。
    「どうして?」と疑問を抱けば、その理由を「知りたい」と思い、その理由を調べるための行動を起こすのが人間なのだ。

    月や星の動きに「どうして?」と疑問を抱いた古代の人達は、当然のようにその理由を「知りたい」と思うようになり、その感情を持ったがために人類は、自ら「文化」を芽生えさせ、「学問」を発展させていくことになったのだ。
    であるから、月や星に疑問を抱いた古代の人が最初に発展させていった学問は、当然「天文学」だったのだ。
    月や幾つもの星たちにロマンを抱き、その謎を解き明かしたいと願った多くの者達は「天文学者」となってその謎に挑んでいったのである。

  • #9

    六輔 (月曜日, 04 3月 2019 20:08)


    知恵を備えた人類は、様々な道具を手にしていった。
    それとともに「学問」も進化を遂げていったが、現代の望遠鏡のような道具が発明される前にあっては、天文学者たちは、口を揃えてこう言っていた。
    「地球が宇宙の中心にあって、他の天体が地球の周りを回っているのだ」と。
    だが、時が流れて行く間に、その考えは間違いだと唱えるものが生まれてきて、その者はこう言った。
    「太陽の周りを全ての天体が公転しているのだ」と。

    西暦1632年、日本では江戸時代になってようやく30年。
    第3代将軍、徳川家光が武家諸法度、参勤交代の制を整え、キリシタンを弾圧して鎖国体制を強化し、江戸幕政の基礎を築いていた頃のこと・・・
    「ガリレオ・ガリレイ」という天文学者が、罪人として裁判にかけられてもなお、こうつぶやいた。
    「それでも地球は動く」と。

    そんな時代から、天文学はさらに発展していき、様々な謎が解き明かされていった。
    ニュートンが「万有引力の法則」を考えだした。
    リンゴの木からリンゴが落ちるのを見て、ニュートンが「オー・マイ・ゴッド!」と、叫んだかどうかは知らないが、引力によって天体が引き寄せあうことで月が地球の周りを回り、地球が太陽の周りを回っているのだと説かれるようになった。
    ハーシェルが赤外線放射を発見し、アインシュタインが「相対性理論」を発表し、さらに人類は、宇宙にロケットを飛ばすようになった。
    そして、いつしか人類は、ロケットに乗って月に行ってみたいと考えるようになっていった。

    そしてそれは、ガリレオが「それでも地球は動く」とつぶやいて、社会的に抹殺された時代から300年以上も経った1969年(昭和44年)、日本ではザ・ドリフターズの「8時だヨ!全員集合」が放送開始され、いしだあゆみが「ブルー・ライト・ヨコハマ」を唄っていたころ・・・
    アポロ11号が人類初の月面有人着陸を果たした。
    遠い遠い昔の人達が考えようともしなかったことを人類は実現させたのだ。

    そして・・・

  • #10

    六輔 (火曜日, 05 3月 2019 20:14)


    キリスト教でイエス・キリストが生まれたとされる年の翌年を元年として数えるようになってから2019年が経った日本では、間もなく「平成」の時代に幕が下ろされようとしていた。

    平成・・・
    それは激動の30年間だった。
    平成の時代になったその元年、オフコースが解散をし、美空ひばりが人生最後のコンサートのステージに立ち、そして天国へと旅立った。
    「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!」の放送が始まり、「ザ・ベストテン」が放送を終了させた。
    新しい元号になって8%から10%に引き上げられることが決定されている「消費税」が、3%で初めて導入されたのもこの時だった。

    昭和30年代後半に生まれた者、あと数年で高齢者の仲間入りをしようとしている者にとっての「平成時代の30年間」は、結婚をし、仕事と子育てに追われていた30年間であり、新たな時代を迎えるにあたって、第一線で働く残りわずかな時間の過ごし方と、その後に迎える退職後の第二の人生設計を一生懸命に考え始めようとしていた時でもあった。

    「平成」という一つの時代が終わろうとしていた西暦2019年、ニール・アームストロング船長が初めて月面を歩いたときから半世紀、ちょうど50年が経った年。
    その時を待っていたかのように、一人の男の子がこの世に生を享けた。
    ごく普通の家庭に生まれたその男の子は、こう名付けられた。

    和住来翔(ワズミ・ライト)と。

  • #11

    六輔 (水曜日, 06 3月 2019 19:56)


    和住来翔(ワズミ・ライト)は、その時56歳になったばかりの和住藤子(ワズミ・トウコ)にとっての初孫だった。

    藤子の初孫が生まれたことを知った藤子の親友、天方千暁(アマカタ・チアキ)は、藤子に渡すためのお祝いを買うためにショッピングセンターに向かっていた。
    「お祝いには何がいいのかしらねぇ・・・やっぱりお洋服が無難なところかしら」
    と、国道の赤信号に停められた千暁は、ルームミラーに前髪を映し左手でそれを整えながら、まだ見ぬ親友の初孫の可愛らしい顔を思い浮かべて微笑んだ。

    ショッピングセンターに着いた千暁は、のんびり買い物を楽しもうとモール棟へと足を運んだ。
    その日は平日であったが、千暁の予想よりもはるかに買い物客で賑わっていた。
    おそらくは、3月1日に高校の卒業式を終えたばかりの娘を連れ添って来ているのであろうと容易に察しが付く母と娘の親子連れがたくさん目に付いた。
    千暁は、「そうよねぇ・・・男の子は母親と一緒に買い物になんか来ないもんね」
    と、母と娘の親子連れだけしか見当たらない光景に笑顔を取り繕った。

    モール棟内を進んで行って目に留まったレディースファッション店やインテリア生活雑貨店には、全部立ち寄った。
    特にレディースのファッション店の前では、
    「わぁ~ もうすっかり春よねぇ。え?もう夏物まで並べてある~」
    と、「空間コーディネート」に店全体をコントロールされた魅力的な商品のディスプレイに、店の思惑通り足を止めた。
    『何かお探しですかぁ~?』
    と、“猫なで声”を使い、販売成績を伸ばそうと笑顔を作って店員が近寄ってきた時には「大丈夫です」と、うまくそれをかわした。
    店内に流れるスローテンポなBGMに、自然と歩くスピードを緩められた千暁は、自分に似合いそうな洋服を見つけてはそれを手に取って、近くにある鏡にその姿を映したりしては「・・・違うか」と微笑んだりして自分一人の時間を楽しんだ。

    1階と2階の全てを見終えた千暁は、3階へと向かった。
    階段の踊り場付近を昇っているときだった。
    「・・・あれっ?」
    自分が子育てをしていた時代以降子供服を買うことも無く、忙しさにしばらくショッピングもしていなかった千暁は、久しぶりのモール棟にようやく気づいた。

    「え~ 子供服のお店ってこんなに無かったのかしら…」と。

  • #12

    六輔 (木曜日, 07 3月 2019 20:55)


    3階に進んでようやく子供服の専門店を見つけた。
    「あった! …良かったぁ」

    可愛らしいサイズとデザインの洋服がたくさん並べてあるその光景に、千暁の表情はほころんだ。
    店の前面には、もうすぐ卒園式や入学式を迎えるシーズンであることを象徴するように、子供用のフォーマルスーツが所狭しと並べられていた。

    千暁は、ゆっくりと店内を歩いて一通り商品を確認し、手すきと思われる店員を見つけて自ら声をかけた。
    「すみません…」
    『はい、何かお探しですか?』
    「お友達のところで初孫が生まれて、そのお祝いを贈りたいんですけど・・・何か、おススメしていただけません?」
    千暁が声をかけた店員は、まだ20代だと思われる女の子だったが、その受け答えはしっかりとしていた。
    『お友達のところで…それはおめでとうございます。男の子ですか? 女の子ですか?』
    「男の子です」
    『そうですかぁ・・・初めてのお孫さんじゃ、たくさんの贈り物をいただくことも考えられますよねぇ』
    と、店員は贈り物に丁度良いと思われる商品が並べてあるエリアに千暁を誘導し、自分も一緒に初孫誕生を喜ぶようにこう言った。
    『男の子の洋服もみんな可愛らしいですよねぇ・・・少しサイズの大き目な物を選ばれてはどうですか?』
    「大き目の?・・・なるほど~ 歩くようになってからのお洋服でも、喜んでもらえますかね?」
    『心のこもった贈り物でしたら、どんな物でも喜んでいただけますよ』
    「そうですよね!」

    『こんな感じのものはどうですか?』
    「わぁ~可愛い~ ・・・うん!これに決めちゃいます!」
    千暁は、店員が最初に薦めてくれた洋服がとても可愛かったことで、迷わずそれを買い求めた。

    「ありがとうございました。可愛らしい洋服が見つかって良かったです」
    『喜んでいただけるといいですね』
    そう言って、店員は笑顔で綺麗にラッピングされた商品を手渡した。

    店を出た千暁は、各テナントの商品をおさらいするかのように遠目に見ながらモール棟のセンター通路をゆっくりと歩いた。
    1階に戻った千暁は、モール棟に来た時には必ず買い求める「パステルデザート」の「なめらかプリン」を買ってその日予定していた買い物を終えた。

  • #13

    六輔 (金曜日, 08 3月 2019 21:05)


    買い物を思いのほか早く済ませることが出来た千暁は、1階のカフェやレストランが並ぶエリアを歩いていた。
    そのエリアは、ランチをしようという客で、他のエリアと比べて明らかに混雑していた。

    「お腹すいちゃったなぁ・・・せっかくだから食べて帰ろうかしら」
    と、「食」のエリア内を一通り見渡した千暁は、「ヴィ・ド・フランス」、「仙台牛たん・三代目文治」、そして「鎌倉パスタ」の三つまで絞り込み、最終的に「鎌倉パスタ」をチョイスした。
    「やっぱりパスタがいいかなっ!」と。

    店の入り口から中の様子を伺うと、平日でありながらもほぼ満席のようだったが、幸いなことに待つことなく店員に案内され、窓際の席に座ることが出来た。
    中に入って店内を見渡すと、モール棟に入って直ぐに目に付いた多くの親子連れが2人でランチを楽しんでいるようだった。
    「娘とランチかぁ・・・いいなぁ」
    と、羨ましそうに店内を見渡した千暁は、店員から渡されたメニューを「ありがとうございます」と丁寧に受け取った。

    千暁は、メニューに目を通すことなくそれをテーブルに置くと、鞄の中からスマホを取り出した。
    もしかしたらと「スマート・ニュース」のアプリを立ち上げ、「鎌倉パスタ」のクーポンを探した。
    「・・・やっぱり無いみたいね」
    と、期待とは裏腹に「鎌倉パスタ」にはクーポンが用意されていないことを確認した千暁は、テーブルに置いたメニューを再び手に取って、それに目を通した。
    直ぐに目に留まったのは「期間限定・生パスタ」という活字だった。
    千暁は、その中から「グリルベーコンとコーンクリームパスタ」を選んて注文した。

    千暁は、鞄の中からバンスクリップを取り出し、以前より少しロングにした髪を両サイドからすくってバックで束ねた。
    ブラシを使わず手ぐしの跡をあえて残したハーフアップは、不ぞろいな毛流れが今どきのおしゃれに必要な“こなれ感”をだし、千暁の魅力がさらに引き立てられた。

    『お待たせしました』
    「わぁ~ 美味しそう! ありがとうございます」
    と、丁寧に店員に言葉をかけた。
    混んでいたことで、待たされることを覚悟していたが、オーダーしてあっという間に料理が届いたことに笑みを浮かべた。

    パスタの本場イタリアでは、パスタを食べるときにスプーンは使わない。
    スプーンを使うのは、フォーク1本で上手にパスタを食べられない子供だけだと、最近になって知った千暁だったが、「ここは日本なんだし」と微笑んで、右手のフォークでパスタを巻き取り、左手に持ったスプーンで形を整えてから口へと運んだ。

    「うぅ~ん、美味しい~!」
    その日一番幸せそうに微笑む千暁がそこにいた。

  • #14

    六輔 (日曜日, 10 3月 2019 00:45)


    千暁は、今年56歳になった。

    56歳という年齢は、体に変化が現れると言われている男性と女性に共通した年齢だ。
    人間には“体の曲がり角”というものがあり、男性が8の倍数の年齢、女性にあっては7の倍数の年齢のときに体に変化が現れると言われている。
    白髪が急に増え始めたり、昔はすんなりこなせていた運動が、息切れがするようになったり、眠りがなんだが浅くなったりと、生活のいろんな場面で“体の曲がり角”を感じる年齢なのだ。
    ただ、千暁にあっては、それはもう少し先の話のようだ。
    見た目そのままに若さを保っている。

    派手な洋服を身にまとうことはなく、若い頃から常に控えめな出で立ちを好んできた。
    最近になって少し髪を伸ばしたこともあり、以前にも増して大人の女性の魅力を感じさせるようになった。
    何より笑顔がとても素敵だ。
    そこに千暁の笑顔があれば、誰であっても穏やかな気持ちになって心癒される。

    千暁は、とても心の優しい女性だ。
    いつも笑顔を欠かさないことが、千暁が優しい女性であることを裏付けている。
    真に優しい女性は、「自分がいつも笑顔でいる事で周りの人も笑顔になれる」ということをちゃんと承知している。
    「自分が暗い顔や嫌そうな顔をしていたら、周りの人までネガティブな気持ちになってしまうから」
    と、それを分かっている千暁は、人前ではどんな時でも明るい笑顔を絶やさない。

    千暁は、生まれ育った地元を離れ、今は小学生向けの「絵画教室」を開いている。
    そして、そこに千暁が優しい女性であることの証がある。
    千暁は、絵画教室に通ってくる小学生たちに大変好かれているのだ。
    小学生たちに対して上辺だけの優しさでも最初は好かれるかも知れないが、それは決して長続きはしない。
    上辺だけの優しさでは、子供たちには通用しないからだ。

    そして千暁は、気遣いができる女性だ。
    本当に優しい女性は気遣いが上手だ。
    気遣いは、相手の気持ちを穏やかにして、とても幸せな気持ちにさせてくれる。
    それは、気遣いが周りの人を笑顔にするからだ。
    本当に優しい女性は、常に周りを笑顔にしたいと思っているので、自然に気遣いが出来る。
    だからと言って、狙って気遣いをしている訳ではない。
    気遣いが自然であればあるほど、その気遣いは心の底からの気遣いということで、本当に優しい女性にしか出来ないものだ。
    千暁は、心の底から気遣いの出来る女性なのだ。

  • #15

    六輔 (日曜日, 10 3月 2019 19:28)


    久しぶりのショッピングからの帰り道、用事を思い出した千暁は寄り道をして、そこでの用を済ませてから自宅に戻った時には既に夕方になっていた。
    簡単な夕ご飯を済ませた千暁は、身体に備蓄されている日頃の疲れを癒すように温めの浴槽にお気に入りの入浴剤を入れ、ゆっくりとつかった。
    千暁は、毎日のシャンプーを欠かさない。
    シャンプーは髪の毛を洗うことだと思われがちだが、シャンプーの目的が頭皮の汚れを落とすことで、それを怠ると皮脂が蓄積され、かゆみや抜け毛の原因になってしまうことをちゃんと理解している。
    千暁は、綺麗な長い髪を丁寧にシャンプーし、さらに浴槽にゆっくりとつかった。
    入浴のひと時をゆっくり楽しんだ千暁は、シックな白藤色のパジャマを着て寝室へと向かった。

    千暁は、寝る前の読書を日課としている。
    読書を始めると、いつもであれば一日分のノルマを読み終える頃に眠気を感じ始めるのだが、その日はいつもと違って目が冴えていた。

    本棚の前に立った千暁は、そこに置かれた一冊のアルバムを手に取った。
    それは、千暁の高校時代の写真が収めてあるアルバムだった。
    友達とのスナップ写真やクラス全員で撮った集合写真が所狭しと貼られてある。
    千暁は、アルバムを愛おしそうに眺め、ゆっくり表紙をめくるのとほぼ同時にこうつぶやいた。
    「楽しかったなぁ…」

    この時に千暁が思い出したのは、38年前の高校時代のことではなく、半年前にあった高校のときの同窓会の様子だった。
    忙しさを逃げ口上に、同窓会への参加を躊躇っていた千暁だったが、友人からの熱烈な後押しに思い直し、初めて同窓会に参加した。
    そこには、顔を見ただけで一瞬のうちに距離も時間も飛び越えることが出来た友がいた。
    クラスメイトの誰もが自分を忘れずにいてくれたことに、望外の喜びを感じることが出来た同窓会だった。

  • #16

    六輔 (月曜日, 11 3月 2019 21:15)


    電車通学に憧れていた千暁だったが、結局、地元の高校を選んで毎日自転車で学校に通った。
    部活に明け暮れていた高校時代。
    その記憶は、毎日が滅茶苦茶楽しかった記憶しか残っていなかった。
    友達や先生に会いに行くため学校に通っていたあの頃。
    アルバムを開くと、当然ではあるが38年前の友の顔が並んでいた。
    アルバムに写る友の顔に、半年前に再会した友の顔がオーバーラップされた。
    「ウフッ、みんな変ってない」
    教室で仲良く一緒に過ごしていた旧友の笑顔がそこにあった。

    千暁は、生まれ育った地元から離れて暮らしている。
    それがために離れて暮らす同級生達と行き会うことはほとんどない。
    というよりは、同窓会で再会した友のほとんどが38年ぶりの再会だった。
    同窓会では、与えられた時間いっぱいに昔の話、現在の話、そして未来の話をした。
    どれだけ長い時間会っていなくても、まるでいつも一緒にいたあの頃みたいにバカみたいに笑いあえた。
    いくら話しても話し足りなかった。
    この時ほど、時間が止まればいいと思ったことは無かった。
    不思議な感覚さえ覚え、友情が距離によって左右される訳ではないことも深く実感した千暁だった。

    千暁は、アルバムの最初から最後のページまで、ゆっくりとめくりながら旧友の顔を笑みを浮かべて眺めていた。
    「あの頃は楽しかったなぁ・・・」
    そう、つぶやいてアルバムを本棚の元の場所に戻した。

    千暁は、ベッドに入って大き目な枕を背もたれにしてスマホを左手に持ち、綺麗な右手の細い人差し指でスマホの画面にある「アルバム」と書かれたアイコンをタップした。
    そこには、半年前に開催された同窓会の時に撮った何枚もの写真が収められてあった。
    千暁は、嬉しそうにスマホを眺め、スクロールを繰り返していたが、ある写真が画面に表示されたところでその手を止めた。
    「お話に夢中になっちゃったからなぁ…」
    と、スクロールを止めたスマホに映し出されていた写真には、友の笑顔の背景に食べれば良かった美味しかったはずの郷土料理がたくさん写っていた。

    再びスクロールを始めて友の笑顔を見返していると、自然と目頭が潤んできた。
    「やっぱり、地元はいいなぁ・・・また早くみんなに会いたい」
    そうつぶやいた千暁は、顔を上げ寝室の西側の壁に視線をやった。
    その視線の先には、「書」が飾られてあった。
    その「書」は、同窓会から帰って直ぐに、無性に筆を持ちたくなった千暁自身が書いたものだった。
    千暁は絵を描くことを生き甲斐に生きてきた女性だ。
    それでも知り合いに書道家がいたこともあって、「書」の道にも関心を持っていた。
    道具を丁寧に並べて、筆を持った千暁が友への思いを込めて書き上げた「四つの文字」。
    千暁は、それに視線をやり、故郷に思いを馳せ、そして友の顔を思い浮かべた。

    「朋友有信」という文字に。

  • #17

    六輔 (火曜日, 12 3月 2019 19:25)


    千暁は、同窓会から戻った翌日から、また直ぐに皆に会いたいという感情に襲われていた。
    「同窓会に参加して、本当に良かった。みんな、私のことをちゃんと覚えていてくれたし・・・次の同窓会ってまたあるのかしら。次はいつなんだろう?・・・同窓会があんなに楽しいと思わなかった! 早くみんなに会いたいなぁ」

    千暁は、そんな感情に襲われながらも、それに押しつぶされることなく普段の生活に戻る方法もちゃんと心得ていた。
    「私には、こっちでの生活があるんだもの・・・次の同窓会があることを期待して、その時まで頑張ろう!」と。

    千暁は、手の中にあるスマホの画面をもう一度スクロールさせて、一番お気に入りの写真を出した。
    その写真には、自分と嬉しそうに微笑む和住藤子(ワズミ・トウコ)が写っていた。

    千暁と藤子は3年間同じクラスだった。
    いつも一緒にいて、どんなことでも相談し合い、似た者同士であったがために、一人の男の子を同時に好きになってしまい、結局は同時に失恋をしたこともあった。
    千暁にとって藤子は、例え遠く離れたところに暮らしていても、ずっと親友としての存在だった。

    藤子にお祝いを渡すためには、地元に帰ることになる。
    その時の千暁は、藤子と会うことと同じぐらいに地元に戻れることが楽しみだった。
    千暁は、鞄から手帳を取り出し、自分のスケジュールを確認した。
    「いつにしようかなぁ・・・藤子の予定も聞いてみないと…」
    顔を上げ、嬉しそうに微笑む千暁の視線の先には、その日買ってきた藤子の初孫へのプレゼントが置かれてあった。
    「明日、藤子のところに電話して相談してみよっ!」
    そう言って千暁はベッドにもぐり込んだ。

  • #18

    六輔 (水曜日, 13 3月 2019 21:25)


    「親は子を守るものだ」

    その言葉に対して、異論を唱える人はいないだろう。
    ところで、「親は子を守るものだ」という言葉は、子供の何を何から守るということを言っているのだろうか。
    とても抽象的な言葉で、人によって感じ方が異なるはずだ。

    もし「親は子を守るものだ」ということが「子供が、親が心配する状況に陥らないように導く」、「子供が成人したときに、親が心配する状況に陥らないように導く」と考えて、それがために子供に何かを強要しているとするならば、それは間違えた子育てだ。

    確かに親が子供を守りたいと思う気持ちは理解できる。
    「子供には、痛い思いや辛い気持ちにならないようにしてあげたい」と思うのは、親として当然のことだろう。
    だが、親が子供の行動を必要以上にコントロールして、痛い思いをしそうな行動や辛い気持ちになりそうな出来事を回避させようとすると、親の「子供のことを守りたい」という気持ちとは裏腹に、逆に子供を苦しめることになってしまう。
    その原因は、そこに「親が心配しないで済む」という、親を中心にした考え方があるからだ。
    現代の親たちは、そのことに気づかぬまま子育てをしている人が多い。

    例えば、栄養不足になって成長が遅れないように残さず食べることを必要以上に強要したり、就職が決まらないことで自立が出来なくならないようにと良い学校に行くことを強要したり・・・

    誤解のないように先に言うが、それらのことを願うのが悪いということを言っているのではない。
    やり過ぎてしまうこと、そうするように子供を追い詰めてしまうことが悪いということだ。
    そんなふうに子供を追い詰め続けていれば、子供が思春期を迎えるあたりから「うるせー! このクソばばぁ!」と呼ばれるようになり・・・
    結果、子育てに目くじらを立てていた親が、必ず次のセリフを口にする時が来る。
    「子供のことを思って一生懸命にやってきたのに…」と。

    子供を守ることで必要なことは、怒鳴って強要するのではなく、親が知っている情報を惜しみなく子供に与えてやることだ。
    その親からの情報を採用するかしないか、採用する時期をいつにするかの判断は子供に任せておけばいい。
    子供を守りたいのであれば、子供を自ら成長し続ける自立した人間へと導いてあげればいいのだ。

    世の中に、こんなことを言う人がいる。
    自分の思うようにならなかった子供に対して、
    「私は、そんな子に育てた覚えはない!」と。
    このセリフほどみっともないセリフはない。
    何故なら、自分の思うようにならない子供に育てたのは、他の誰でもない、「覚えはない!」と言い切った親自身なのだから。

  • #19

    六輔 (金曜日, 15 3月 2019 06:17)


    「3歳までは、母親が育てないと子供に悪影響がある」、俗に言う「3歳児神話」というものがある。
    遠い昔から言い伝わる格言「三つ子の魂百までも」もその一つだ。
    3歳ごろまでに受けた教育によって形成された性質・性格は、100歳になっても根底は変らない。
    しつけや教育、そして人間に必要な心の情操教育は、生まれてから3年間でほぼ固定されるという、昔の人達が考えて言い伝えられてきたことだ。

    ほとんど目が見えない状態で生まれ、自分で移動することすら出来なかった赤ちゃんが、立ち、歩き、そして走り、言葉を覚えて言葉の意味を理解して自分の意志を言葉にして相手に伝えられるようになる。
    それだけ劇的な成長を遂げる“生まれてからの3年間”は、その後の成長の比ではない。
    ちなみにだが、人の脳は3歳までに80%が完成すると言われている。

    親が子供にしてあげること、それは、子供が求めるタイミングで、子供にとって最も適切な“手助け”をしてあげるということだ。
    ただし、親が先回りして何か特別な刺激を用意しすぎてしまったり、手を出し過ぎてしまったりすれば、それは子供の「自発性」を育む機会を失ってしまうことになる。
    子供の好奇心を伸ばしてあげるためには、出来るだけ自由な空間を与えてあげるのが良い。
    右も左も分からない子供にとって、見るもの、触れるもの全てが新鮮な感動に満ちているのだから。

    当然、親が子育てに無関心であれば、自ずと子供も興味を次第に失い、いろんな事に無関心になってしまう。
    TVやDVDに子育てを任せっきりにしたり、子供の目を見て話をしなかったり、そんなひとつ一つが子供の発達を阻んでしまう。
    子供は、親から様々なことを学ぶ。
    親の態度次第で、子供は如何様にでも成長するのだ。

    時代の流れとともに世の中は変わっていった。
    「女性は家にいて子育てを」という時代はいつしか終わりを告げた。
    そこにはいろんな要素があった。
    「男女雇用機会均等法」が定められたことや、「男女同権」の考え方が浸透していったのもその要因のひとつだろう。
    それと合わせて「3歳までは母親が育てるのがいい」という言い伝えは、いつしか「子供が安心して気を許せる大人がたくさんいる」、「保育園で仲間を作って遊ぶことが子供に良い影響を及ぼす」という考え方に変っていった。
    もちろん大人の都合でだ。
    そのことを非難する訳ではないが、今の母親は、躊躇することなく子供を早いうちから預けて働くようになった。
    それは年々増えて行き、当然、保育所問題が社会問題となっていった。
    両親共働きの家庭にあって、保育園の存在は絶対だが、両親に代わって子育てを支援するのは決して保育園だけではない。
    両親の身近にそれを「できる人」、「やらなければならない人」がいる。
    そう、祖父母、“じぃじとばぁば”だ。

  • #20

    六輔 (金曜日, 15 3月 2019 21:20)


    和住藤子(ワズミ・トウコ)は、“母一人子一人”で一人息子の翔琉(カケル)を厳しく育てた。
    厳しさの中にも、藤子の優しさが込められた子育ては、翔琉を立派な男に成長させた。
    母、藤子を大切に思う翔琉は、高校時代から地元に就職することを考えていた。
    「早く、母さんを楽させてやりたい」
    そう願う翔琉は、大学を卒業と同時に地元の企業に就職した。
    体育会系の翔琉であるが、ゴリゴリのガテン系のような男ではなく、雰囲気で言えば「太陽にほえろ!」の「ジプシー刑事」のような感じの青年だ。
    スマートな体型で、性格はまさに藤子譲り。
    その表情からも優しさがにじみ出ているそんな男だ。

    「早く、母さんを楽させてやりたい」
    という思いは、自然と結婚へと結びついた。
    26歳のときに高校時代の同級生、茉緒(マオ)と結婚した翔琉は、藤子との同居を望んだが、茉緒がそれを承知しなかった。
    結局、茉緒に押し切られる形で、翔琉は隣町にアパートを借りて新しい生活を始めた。
    藤子が「早く孫の顔が見たいなぁ」と口癖のように言っていたこともあって、翔琉は早く父親になって藤子を喜ばせたいと思っていた。

    そしてそれは、翔琉が結婚してから2年が経ったある日のことだった。
    藤子の携帯が鳴った。
    「あらっ、翔琉からだわ・・・珍しい」
    それは結婚してから、めっきりかかってくることが無くなった翔琉からの電話だった。
    『母さん、翔琉です』
    「久しぶりねぇ・・・元気してるの?」
    『うん!』
    「茉緒さんとは仲良くしてる?」
    『もちろんだよ!でさ、母さん・・・』
    「なに?急に改まって…」
    『母さん、俺、父親になるよ!』
    「・・・えっ? ホンと?」
    『あぁ! 母さんもいよいよお婆ちゃんになるんだよ!』
    「おめでとう」

    電話を切った藤子の両手は自然と上がっていた。
    「やったー!!!」

    藤子がとったポーズは、藤子が12歳の頃、栃木県の粟野町という田舎町からでた無名のプロボクサー「ガッツ石松」が、WBC世界ライト級王座を奪取したときにリングの上で両手を挙げて勝利の喜びを表した時の姿をしていた。
    後に、人はその時のポーズをガッツ石松がやったポーズだから「ガッツポーズ」と呼ぶようになったのだが。

    孫が生まれることを聞かされた藤子は、その日緩んだ顔が一日中治ることは無かった。

  • #21

    六輔 (土曜日, 16 3月 2019 21:56)


    その日翔琉は、茉緒(マオ)の定期検診に付き合うために仕事を休んだ。
    診察を終えた二人は、その帰り道に外食を楽しんでいた。

    『久しぶりだよな、こうして外食するの』
    「そうね・・・翔琉が心配性だから、『安定期に入るまでは!』って、あまり外出もさせてもらえなかったもんね(笑)」
    『そうだったな(笑)』
    「赤ちゃんが産まれたら、こういうお店にはしばらく来れなくなっちゃうね」
    『いやっ・・・母さんに子供を預けて、いつでも二人で来れるさ! 茉緒の子育てのご褒美にさ!母さんもきっと喜んで預かってくれるだろうし』
    「そっか!」
    『しかし、順調って聞いて安心したよ』
    「うん! 私も。 順調ですよ!って聞かされた時には、すごくホッとした」
    『あと5か月かぁ・・・』
    「翔琉は、やっぱり知りたい?」
    『うん? …あぁ、男の子か女の子かってこと?』
    「・・・うん」
    『そのことなら、茉緒の言った通り、どっちが生まれてくるか楽しみにして・・・男の子でも女の子であっても、俺達二人の愛の結晶にかわりはないんだからな!』
    「そうね!」
    『あぁ、そう言えば・・・昨日、母さんから電話があってさ、腹帯を買ったから取りにおいでって言われたんだ』
    「腹帯?」
    『うん!』
    「腹帯って、妊娠5か月目に入った最初の戌(イヌ)の日に、妊婦さんがお腹に巻くって・・・それのことでしょ?」
    『そうだよ!』
    「それだったら、私は、しないよ!」
    『えっ?・・・しないの?』
    「うん」
    『母さんが一生懸命に説明してくれたんだけどさ、犬はたくさん子を産んで、しかもお産が軽いから、それで昔から安産の守り神として人々に愛されてきたんだって。それで「戌の日」に妊婦さんと赤ちゃんの無事を願って安産祈願をするらしいんだけど、母さんも一緒に神社に行きたいなぁって・・・」
    『私ねっ、ネットで調べたの。腹帯をきつく締めすぎると、子宮内の血行が悪くなって胎児に悪影響が出てしまうこともあるんだって! きっと、翔琉のお母さんのことだから、昔ながらの“さらし布”タイプを用意したんじゃないの?』
    「・・・うん、“さらし布”って言ってた」
    『でしょ! そしたら、きつく締めすぎることだって十分に考えられるでしょ? 
    腹帯は日本古来の風習で、巻くと安産になるという言い伝えがあるだけで、医学的には特に必要ないものなのよ!」
    『そうなの?』
    「そうよ! 私達の大切な赤ちゃんが、腹帯のせいで何かあったらどうすんの?」
    『そ、そうだけど…』
    「今は、ガードルと一体化した安全なタイプもあるのよ!お医者さんと相談して、それが必要だってなったら、ちゃんとネットで買うから! だから、“さらし布”は、翔琉から断ってよ! 頂いて使わない方が悪いでしょ? 違う?」
    『・・・・・』
    「えっ? どうして返事してくれないの? 私と、お腹の赤ちゃんよりあなたのお母さんの方が大事だって言うの? 翔琉!」
    『ち、違うよ・・・分かった。明日、母さんに断るよ』

  • #22

    六輔 (日曜日, 17 3月 2019 07:05)


    その翌日、藤子の携帯が鳴った。

    『もしもし…母さん』
    「あぁ、どうしたの?翔琉・・・なんか元気ないけど・・・えっ? 茉緒さんに何かあったんじゃないんでしょうね?」
    『ち、違うよ! 茉緒は元気でいるよ。昨日、一緒に病院に行ってきたんだ。 順調だって!』
    「そぉう~ それなら良かった。で、どうかしたの?」
    『腹帯のことなんだけどさ…』
    「あっ、茉緒さん、喜んでくれた?・・・って、どうやら違うみたいねぇ・・・翔琉が元気ないところをみると…」
    『・・・ごめん、母さん』
    「今どきの若い人は、もしかして腹帯はしないのかな?」
    『うん、きつく締めすぎちゃったりすると、子宮内の血行が悪くなって胎児に悪影響が・・・って、そんな感じで言ってた』
    「・・・そっか」

    と、藤子が無言になってしまったことに翔琉は明るい声でこう言った。
    『あっ、母さん! 茉緒は、本当に喜んでいたよ! お母さんが私のことを心配してくれて嬉しいって』
    「・・・そう」
    『ホンと、ホンと!』
    「ありがとう・・・そう言ってもらえただけで・・・な~んだぁ、一緒に神社にお参りに行きたかったなぁ…残念」
    『俺がしっかり茉緒のことを守るから・・・だから母さんは安心して待ってて!』
    「まぁ、それは心強いこと(笑)」
    『俺の子供だからね!』
    「そうね(笑)・・・あ~ぁ、こういうのをジェネレーション・・・あれっ?」
    『もぉ、母さんったら! ジェネレーション・ギャップって言いたかったんじゃないの?』
    「あぁ、それ、それ! 今どきは“さらし布”の腹帯なんか使わないよね。翔琉が私のお腹にいるときは、私の母親が用意してくれた腹帯をずっと巻いていたのよ。 なんかね、腹帯でお腹が守られてるっていう安心感が好きで、ずーっと巻いていたの」
    『・・・そうなんだぁ』
    「翔琉が生まれてからは、その腹帯を“おんぶ紐”にしてさ・・・翔琉は、私の背中が一番のお気に入りで、すやすやと気持ちよさそうに眠っていたの・・・懐かしいねっ」
    『・・・母さん』
    「あっ! 大丈夫、大丈夫! 今どきは、機能の優れた抱っこ紐があるんでしょ? “さらし布”を使ってなんて、野暮なことは言わないから(笑)」

    電話を切った藤子は、目頭にいっぱいの涙をためてテーブルの上に視線をやった。
    そこには、綺麗な袋にいれられた腹帯が置かれてあった。

  • #23

    六輔 (月曜日, 18 3月 2019 20:41)


    初孫が生まれる、“じぃじとばぁば”になる年齢。
    近年は晩婚化が進み、よって初孫が生まれる年齢も高くなり続けていて、ある記事には、最近のその平均は61歳だと書かれていたのを目にしたこともあるが、若くして親になった者から歳を取って親になった者まで、祖父母になれる年齢は人それぞれだ。

    藤子と付き合いのある同級生の子達の多くは、早々と“ばぁば”デビューしていた。
    早い子であれば40代なかばには“ばぁば”になっていた同級生もいて、子供好きの藤子にとっては、羨ましい限りだった。
    同級生の子達が早いうちに“ばぁば”になれたのは、やはり娘を持つ同級生だった。
    「やっぱり、女の子は早いわね~」
    と、藤子は自分の子供が息子であることに“ばぁば”デビューが周りと比べて遅いことは仕方のない事だと思っていた。

    藤子が“ばぁばデビュー”することは、藤子の予想以上に周りの同級生達に知れ渡っていた。
    久しぶりに会った友達と、よくこんな話になった。
    『おめでとう~ 藤子』
    「えっ?」
    『“ばぁば”になるんでしょ?』
    「あぁ~ 誰かから聞いたの?…うん、ようやくみんなの仲間入りって感じ」
    『楽しみでしょ?』
    「うん!」
    と、そんなふうに同級生と会話をするときに、藤子が決まって言われるセリフがあった。
    既に“ばぁばデビュー”している同級生達は、口を揃えてこう言ったのだ。
    『孫は可愛いわよ~』と。

    藤子は、友達からそう言われ続けているうちに、だんだん違和感を覚えるようになっていった。
    「孫が可愛いのは当たり前じゃない!」
    と、そんな思いでいるところに、一足先に“ばぁば”になった小学校からの親友、渡瀬浩美がこう言ったのだった。
    『孫は可愛いわよ~ だって責任ないもの!』

    確かに、藤子もどこかで聞いたことのあるセリフだった。
    『だって責任ないもの!』
    だが、いざ身近な親友、浩美から聞かされてみると、
    「え~ 浩美ちゃんまでそんなこと言うの?・・・浩美ちゃんは子育てに熱心なお母さんだったわよねぇ。それなのに・・・どうして?」
    と、何故にそんなふうに言うようになってしまうのかと不思議でならなかった。
    藤子は、一人息子の翔琉(カケル)の子育てのときには、厳しく躾をしてきたと自負していた。
    厳しくしてきたからこそ、今の翔琉の生活があるのだと。

    孫の幸せを願わぬ者はいないだろう。
    当然、藤子は翔琉の子、来翔(ライト)の幸せを願うとともに、祖母としてしっかり面倒をみてやりたいと考えていた。
    そう考える者にとって『だって責任ないもの!』という周りの友達の言葉は、どうにも理解しがたいものだった。

    「私は・・・無責任には預からないわよ! しっかりと子育てに関わってあげなきゃ!」
    と、“孫もりデビュー”の日を指折り数えて待っていた。

  • #24

    六輔 (火曜日, 19 3月 2019 21:07)


    藤子の携帯が鳴った。
    ディスプレイに「千暁」と表示されていたことに、藤子は笑みを浮かべてスマホを手に取った。
    「もしも~し…千暁?」
    『藤子、久しぶりぃ~』
    「うん、久しぶりぃ~ 元気してるぅ?」
    『うん! 藤子は? 元気なんでしょ?』
    「うん!」
    『どう? 孫もりは?』
    「え~ まだ、退院してきたばかりだよ! まだ“孫もり”までいってないわよ!」
    『そっか、そっか(笑) でも、楽しみでしょ?』
    「うん! しっかりサポートしてあげたいと思ってるんだ!」
    『そっか。藤子らしい! あれっ? 私、大事な事聞いてない! お孫ちゃんの名前をまだ聞いてなかった!』
    「そっか、そっか。ようやく決まったよ! 来翔(ライト)! 未来の「来」に飛翔の「翔」って書くの」
    『え~ 素敵なお名前! 未来に羽ばたくのね!』
    「うん、パパとママの二人で考えたのよ」
    『そっか! あっ!パパの字を使ったのね? 確か、翔琉(カケル)君って、「翔」の字じゃなかった?』
    「そう! なんか嬉しいよね! 子供から孫に引き継がれていくって感じで」
    『そうね! 本当に素敵なお名前!』
    「うん! 孫もりにも気合いが入っちゃう!」
    『藤子ったら! あまり出しゃばっちゃだめよ! お嫁さんをたててあげなきゃね! 藤子はあくまでお婆ちゃんなんだから!』
    「は~~~い(笑)」
    『ねぇ、藤子・・・藤子のとこに行って来翔君の顔を見たいなぁって思ってるんだけど・・・来月の中ごろ、どう? 一か月も経てば、来翔君も外出できるでしょ?』
    「え? 千暁、帰ってきてくれるの?」
    『うん! だって、なんていっても親友・藤子様のお婆ちゃんデビューでしょ! お祝いしてあげたいんだもの!』
    「お祝いなんて気にしないでいいから、帰ってきてくれるなら嬉しいなぁ・・・来翔を見て欲しいし」
    『そうよね! じゃぁ、来月でいい?』
    「うん、分かったぁ、楽しみに待ってるね! 千暁」

  • #25

    六輔 (水曜日, 20 3月 2019 19:24)


    (千暁)「皆さ~ん、今日のレッスンはここまでです。お片付けをしましょう!」
    (生徒達)『は~い!』
    絵画教室のその日のレッスンが終わった。
    (生徒達)『先生、さようならぁ~』
    と、片付けを終えた生徒達が教室から出て行くなか、一人の女の子が千暁のところに近寄ってきた。

    『千暁先生!』
    「あっ、莉央(リオ)ちゃん、今日も上手に描けていたわよ」 
    『ありがとうございます、先生』
    「はい」
    『ねぇ、先生・・・』
    「うん?」
    『先生、なんか今日はとっても嬉しそうだったよ!』
    「えっ?・・・そぉう?」
    『何かあったの? だって、先生は何かあると、直ぐに顔に出るんだもん! 分かりやすいんだよ!』
    「え~・・・大人をからかうもんじゃないわよ(笑)」
    『でも、当たりでしょ? 今日の先生は顔に“嬉しい”って書いてあったよ!』
    「もぉ~ 莉央ちゃんったら! 莉央ちゃんには隠し事は出来ないわね! 当たりよ~! 実はねぇ、明日とっても楽しみなことがあるの!」
    『楽しみなこと?・・・何があるの?』
    「明日ねぇ、高校時代のお友達に会えるのよ!」
    『お友達?・・・ふぅ~ん、それが嬉しいこと?』
    「えっ?…そ、そうよ。お互い、遠く離れて暮らしているから、頻繁には会えないの。お友達のところでお孫ちゃんが生まれたから、明日お祝いを持って会いに行くのよ」
    『ふぅ~ん・・・お友達に会えることがそんなに嬉しいことなの? 私には分かんない』
    「・・・えっ?」

  • #26

    六輔 (木曜日, 21 3月 2019 20:06)


    昭和40年代とは違って、習い事をする小学生が増えているようだ。
    昭和40年代の頃には、“そろばん”と“習字・硬筆”ぐらいだった習い事も、今の時代は、そろばん、習字、ピアノ・エレクトーン、水泳、バレエ、英語……。
    最近ではダンスなど体を動かすスポーツ系も人気のようだが、少し指を折って数えてみただけで、いくつもの習い事を挙げることができる。

    習い事をする今の小学生の割合は、8割を超え9割に近いという記事を目にしたことがある。
    なかには、あれもこれもそれもと、複数の習い事をする小学生もたくさんいることだろう。
    「うちの子にどんな才能があるのか分からないから!」
    と、我が子の才能を見つけ、開花させ、伸ばしてあげたいと願い、いくつもの習い事に熱心に通わせる親。

    日本人選手が世界で活躍しているのを見れば、
    「ねぇ、あなたもあの選手みたいになれるかもしれないわよ! 好きなテニスをして何億円も稼げるのよ!」
    と、子供にいいところだけを伝えてテニスを習わせようとする親。

    「えっ?今度、学校でプログラミング教育が始まるの? それは大変! ほかのうちの子には負けられないわ!誰よりも先取りしなきゃ!」
    と、自分にはチンプンカンプンな「プログラミング」を習わせようとする親。

    大変結構なことだ。
    もちろん、そこに子どもの意志が伴っていればの話であるが。

  • #27

    六輔 (金曜日, 22 3月 2019 20:32)


    習い事は、子供の能力を高め、感性を豊かにしてくれる。
    習い事をさせることで子供自身が色々と経験でき、今まで見られなかった世界が見られることで視野がグッと広がることだろう。
    勉強で知識を増やすことも当然大切だが、学校以外の習い事という新しい世界での経験が子供の成長への刺激に繋がるはずであり、何より習い事を続けられたことで子供自身の自信に繋がることだろう。

    「美しい文字は自分自身の一生の宝物」と、誰が見ても美しいと感じる文字の書き方を教えてくれる書道教室では、綺麗な文字を書くための正しい姿勢と筆の持ち方を学べるだけでなく、礼儀や集中力も身につけることが出来ることだろう。
    学校では出来ない経験や機会を子供に与えてあげることで、それが今すぐ結果として出なくても、将来どこかで役立ってくれたらいいと、ほとんどの親はそんな思いで子供を習い事に通わせているに違いない。

    子どもは、自由な遊びを考え出す天才だ。
    自由であるが故に、自ら考え、行動をする力を培っていくのが子供だ。
    友達と力を合わせたり、時にはケンカをしたりして、人との繋がりを学んでいく。
    少なからず、今の50代以上の人間が子供だった頃はそうだったはずだ。
    だが今の小学生は、午後までの授業に、さらには宿題も出されるので結構忙しい。
    友と一緒に過ごす時間を減らし、親に決められた時間に沿ってだけ行動をしていれば、いつしか自発的に何かを考えたり、行動することが苦手な子になってしまうに違いない。
    家庭で過ごす時間を削って習い事に通い、宿題を後回しにし、睡眠時間を削って習い事を増やす。
    家計が大変だと、「子供の塾の費用が増えるから、あなたのお小遣いを減らすわよ!」と夫婦の会話が始まる。
    遊びたい欲求を押しつぶしてしまえば、どこかでその反動が出てしまうのは言うまでもない。

    今は、昔と比べていろんな物に不便さを感じなくなっている。
    “便利のカタマリ”の時代だ。
    様々な面で満たされていれば、生活や遊びにも自分で考え、工夫してみようという意欲は自然と損なわれてしまう。
    自分で考えだすことも、工夫することもその必要がないからだ。

    今日は水泳、明日はピアノ、明々後日は英語・・・土日も習い事の掛け持ちで予定がぎっしりとなれば、子供たちは、ただそれをこなすことに精一杯になってしまい、どんな体験も受け身になり、自分の意思で選ぶということが出来なくなってしまうことだろう。

    習い事に通わせることを否定しているのではない。
    子供の意志が伴ったなかで習い事に通わせることが大事なのではないかということだ。

  • #28

    六輔 (土曜日, 23 3月 2019 19:26)


    全豪オープン、全米オープンを制したO・N選手は、姉の影響で3歳からテニスを始めたと聞く。
    アサヒビールのCMに出演しているプロゴルファーのI・R選手にあっては、6歳の頃、父に連れられてゴルフ練習場に行ったのをきっかけに、ゴルフにのめり込んでいったのだそうだ。
    中学2年生でプロ入りを決め、最年少棋士記録を62年ぶりに更新したプロ棋士のF・S棋士にあっては、5歳のとき、初めて祖父母から将棋の手ほどきを受けた。
    祖母自身は将棋の駒の動き方を教える程度だったそうだが、F・S棋士は瞬く間に将棋のルールを覚え、将棋を指せる祖父が相手をしたのだが、直ぐに祖父は歯が立たなくなったそうだ。
    女性フィギュアスケートH・M選手にあっては、2歳でスケートリンクの上に立ち、他にアイスホッケー、水泳、体操、テニス、ピアノ、絵画教室まで掛け持ちしていたそうだ。

    卓球のF・A選手にあっては、元・卓球選手の母の元に生まれ、生後6か月でスイミングを習い始めた。
    卓球のラケットを母から初めてもらったのは3歳の時だったそうだ。
    身長の低いA選手は、ゴミ箱や並べた缶詰の上に乗って高さを調整し、平日4時間、休日にあっては8時間の練習を毎日欠かさず、週末になると泊まり込みで栃木県の有名な卓球クラブに出向いて練習を重ねて行ったそうだ。
    相手に負けると悔しくて泣きながら。

    これらの「道を極めた」彼、彼女達に共通して言えるのは、幼い頃から努力を続けてきたということだ。
    幼い頃から親がそれに付き合い、その費用も真似のできる額ではなかったはずだ。

    彼、彼女達は親の期待に応えた。
    応えられたのは、親が頑張ったからではない。
    “頂点に立ちたい”という本人の強い意志があったからだ。

    誰もが彼、彼女達と同じ時間の練習を重ねれば、彼、彼女達と同じポジションに立つことができるのだろうか?
    おそらく、それは無理なのだろう。
    頂点に立つことが出来るのは、ほんの一握りの人間だけだ。
    そして頂点に立った人間は、これからもたゆまぬ努力を続けていくことだろう。
    その世界で活躍し続ける限り。

  • #29

    六輔 (日曜日, 24 3月 2019 22:08)


    千暁の絵画教室は、二つのコースに分かれている。
    一つは主に低学年の子を対象にしたコースで、クレヨンや色鉛筆で好きな絵を描いたり、図工などの物を作る時間もあったりして、絵を描くことの楽しさや物を作る面白さを学ぶことが出来るコースだ。
    そして、もう一つのコースは、主に高学年を対象に、絵の具や油絵といった様々な絵画を学び、「表現」することの楽しさと「技術」を学ぶことが出来るコースだ。
    子供の芸術的感性を伸ばすことが出来るだけではなく、「表現力」や「想像力」をも育てることが出来る。

    千暁は、絵を描く技術だけではなく、習い事を通してできる友だちや先輩、そこで学べる礼儀や挨拶などもしっかりと教えたいという信念をもって子供達と向き合っている。
    教室には多くの小学生が通ってくる。

    莉央は、素直で可愛らしい小学6年生の女の子だ。
    活発な子とは言えないまでも、千暁が声をかければ常に明るく応えてくれる。
    洋服は、ブランド物ばかり。
    中でもPINK-latteのワンピースがお気に入りで、絵画教室に同じ洋服で来たことがないと思えるほど、常に新しい洋服を見にまとっている。
    おそらくは莉央の母親のお見立てなのだろうが、母親が一人娘の莉央を溺愛していることは容易に察しが付く。
    小学3年生から千暁の絵画教室に通うようになり、一度も休むことなく、莉央が描く絵は群を抜いて素晴らしいものだった。
    千暁は、莉央の才能を認め、ずっと熱心に指導を続けてきた。
    明るく素直な莉央だが、時折、千暁には理解できないことを口にすることがあった。
    そして、この日もそうだった。

    『お友達に会えることがそんなに嬉しいことなの? 私には分かんない』
    「えっ?・・・どうして? 莉央ちゃんにもたくさんお友達がいるでしょ?」
    『お友達?・・・うん、いるよ』
    「お友達と話していると楽しいでしょ?」
    『・・・う~ん』
    「え~ いつも休み時間とか帰る時にお友達と楽しそうに話しているでしょ?」
    『お話しているけど・・・でも、それってその時だけでしょ? みんなの話しに合せているだけだよ』
    「えっ?そうなの?・・・う~ん、それじゃつまらないでしょ? どんなことでも正直に話し合えるお友達がいたほうがいいと思わない?」
    『・・・思わない』
    「えっ、そうなの?・・・莉央ちゃん」

    この時の会話に千暁は、おおよその見当がついていた。
    莉央が、正直に話し合える友達がいなくてもいいと考えるのは、莉央の母親の影響であると。
    莉央の母親は、一歩間違えればクレーマーと言われてしまいそうなほどに、自分の考えを主張し、他の母親たちと会話を交わすことも無く、決して自分の考えを曲げようとはしない、そんな母親だった。

    少し前のこと。
    莉央が、お友達の挨拶を無視したことを気にかけた千暁が、「挨拶は大切なのよ!」と優しく諭したことがあったのだが、そのことを知った莉央の母親は、
    『莉央の躾は親の責任ですから! 先生は莉央に絵をしっかり教えるのがお仕事ですよね? よろしくお願いします』
    と、冷静沈着に千暁に言ってきたのだった。
    千暁は、ごもっともな話だと思い、母親に何も言い返さなかった。
    一抹の寂しさを覚えながらも。
    そんなことがあったばかりであったからか、この時の千暁は、莉央に友達の大切さを上手く伝える言葉を見つけることが出来なかった。

  • #30

    六輔 (月曜日, 25 3月 2019 21:42)


    千暁は、仕方なく話題を変えた。
    「ねぇ、莉央ちゃん・・・今度、コンクールがあるんだけど…」
    『コンクール?』
    「そう。『こども絵画コンクール』って言って、とっても大きなコンクールなの。私は、莉央ちゃんの絵がとても上手だから、そのコンクールに応募させてあげたいなって思ってるのよ」
    『ふ~ん・・・そのコンクールって上手に描けた絵しか応募できないの?』
    「えっ?・・・そ、そんなことはないわよ…」
    『じゃぁ、どうして私の絵が上手だからって言ったの? 千暁先生』
    「そ、そうよね。先生の言い方がヘンだったわね、ごめんなさい」
    『この教室の他の生徒達もそのコンクールに応募するの?』
    「えっ?…う、うん。応募したらどうかなって考えていたわよ」

    千暁は、莉央の切り返しに思わず嘘をついてしまった。
    千暁の考えは、莉央の作品だけを応募させるつもりだったのだ。
    理由は、いたって簡単だ。
    他にコンクールに応募できるに値する絵を描く生徒がいなかったからだ。

    莉央は千暁の返事にこう言った。
    『ということは、この教室に通うお友達、みんなライバルっていうことでしょ?』
    「えっ?・・・ライバル?」
    『だって、一緒に応募すれば、一緒に審査されるんでしょ?それで、上手な方が勝ち残っていくんでしょ? お母さんがそう言ってたよ』

    この時の莉央の言葉に、いろんなことが繋がった。
    莉央が『お友達に会えることがそんなに嬉しいことなの? 私には分かんない』と言い、『お話しているけど、それってその時だけでしょ? みんなの話しに合せているだけだよ』と答えた理由。
    それは、莉央の母親が莉央に教えているのは、友達や同級生と一緒にいる時には、それなりに合わせ、それでも結局のところは、同級生や一緒に学ぶ者は、全てライバルなのだと。
    そう莉央に教え込んでいるからこそ、今の莉央の言葉になったのだと思えた千暁だった。

    そしてこの後、莉央は、千暁が考えたこともなかったことを口にするのだった。

  • #31

    六輔 (火曜日, 26 3月 2019 20:42)


    莉央は、屈託のない笑顔でこう言った。
    『お母さんが言ってたよ!』
    「なんて?」
    『もし、コンクールに応募することがあったら、その時には千暁先生に良く調べてもらって、どういう絵を描いたらいいのか指導してもらいなさい!って』
    「えっ?・・・それ、どういうこと? 私に何を調べてもらいなさいって言ったの?」
    『コンクールの審査員の先生にも好みがあるんでしょ?』
    「えっ?好み?・・・そ、それは人間だもの誰にだって好みがあるわよね」
    『そっかぁ・・・じゃぁお母さんが言ってるのは正しいのね!』
    「正しい?」
    『お母さんは、こう言ってたよ! コンクールに応募するときは、千暁先生に審査員の先生の好みを調べてもらって、審査員の先生に選んでもらえる絵を指導してもらって描けばいいのよ!って』

    これまで50年近く絵を描き続け、いくつものコンクールに応募してきた千暁にとって、莉央の母親の言葉は、目からウロコが落ちると言っていいのか・・・
    千暁は茫然自失となって言葉を失った。
    そんな千暁を見て、莉央は首をかしげて尋ねた。
    『そうなんでしょ?…千暁先生』
    千暁は、「・・・まぁ、そうね」と応えるのが精一杯だった。

    その時の千暁にとっては、幸いなことだったのだろう。
    莉央は『あっ、いっけない! お母さんがお迎えに来てるんだ! 先生、私帰ります』
    そう言って慌てて教室を出て行く莉央を「また来週ね」と言って見送った千暁だった。

    教室で一人になった千暁は、「ふぅ~」と深い息を吐き、窓の外の景色に目をやった。
    これまでたくさんの生徒に絵を教えてきて、何度もコンクールに応募させてきた千暁は、莉央の母親が言ったようなことを一度たりとも考えたことがなかった。
    そして生徒の作品が、コンクールで良い成績に入れなかったときにも、決して審査員を疑うようなこともしたことは無かった。

    もちろん、莉央の母親の言葉が正解であるとは思えなかった。
    そんな指導をしてしまえば、間違いなく莉央の想像力豊かな絵が消えて無くなってしまうと、容易に想像がついたからだ。
    それでも、教室を営む者が生徒の親から求められれば、コンクールのための絵を指導してあげなければならないものなのかと自問自答した。
    「賞が獲れたらすごい自信になるだろうし・・・でも・・・」

    千暁に答えを出すことは出来なかった。

  • #32

    六輔 (木曜日, 28 3月 2019 00:25)


    しばらく窓の外の景色を眺めていた千暁だったが、ふと、高校時代からの親友、大類七海(オオルイ・ナナミ)のことが思い出されてきた。
    七海が部長を務めた吹奏楽部には逸話があったのである。

    七海は、高校2年の秋に吹奏楽部の部長になった。
    部長を引き受けた七海は、部員たち全員で話し合い、部の目標を持った。
    「全国大会で優勝しよう!」
    県内の私立の強豪校に屈し、関東大会にも出場したことのない学校が、いきなり全国のトップを目指すということに部員の誰もが無茶な目標だと思いながらも、それでも志を高く持とう!という七海の気合いに引っ張られて部員全員が厳しい練習に耐えた。

    七海が3年になったとき、吹奏楽部の顧問の先生が突然変わった。
    代わりに赴任してきたのは、若い男性教諭、田崎だった。
    「田崎先生」
    『うん? どうした大類』
    「私達は全国大会で優勝することを目標に頑張ってきました。そのつもりでご指導よろしくお願いします」
    そんな挨拶を皮切りに、最上級生になった七海は、部員を鼓舞しながら田崎が見守る中、練習を開始した。
    だが、田崎は七海の期待に応えるような指導を行ってはくれず、時折、「今のところは、こうアクションをつけた方がいいかもしれないね」と、七海には気づかないような細かなところにヒントを与えてくれる程度だった。

    大会まであと二か月になった時だった。
    田崎が熱の入った指導をしてくれないことに業を煮やした七海は田崎に詰め寄った。
    「田崎先生」
    『うん? どうした大類』
    「私達は真剣に全国大会で優勝したいと思って練習しています」
    『あぁ、それは分かってるよ!』
    「分かっていてくださるなら、もう少しご指導いただけませんか?」
    『う~ん・・・』
    そう考え込んだ田崎は七海にこう尋ねた。
    『なぁ、大類・・・』
    「はい」
    『大類は、部長として一生懸命に頑張っている。それは僕も、部員たちも全員分かっている。ひとつ尋ねるが、もし、大会で誰かがミスをしたとしよう。その時に大類はその部員を許してあげることが出来るかい?』
    「えっ?・・・」
    『答えにくいだろうから話してあげるけど・・・大類の頑張りが逆に部員たちを緊張させてしまってるんじゃないのかなぁ。「今のは違う!」って、ミスばかりを指摘して・・・人は誰でもミスをするんだ。もしかすると、大類だってミスをするかもしれない。もちろん、ミスをしようと思ってミスるんじゃないけどな』
    「・・・はい」
    『もう少し肩の力を抜いて、部員たち…仲間達を信じてあげたらどうだ? 大類が部員達を信じていないとは言わない。言わないが、ミスをするんじゃないかなと常にそれに怯えて音を出していたら・・・その気持ちがそのまま演奏に乗り移ってしまうんだよ。はっきり言ってあげよう。君たちの演奏はそれなりの技術を既に習得しているよ。あとは何が足りないのか・・・大類、部長のお前が考えてごらん』
    「・・・田崎先生」

  • #33

    六輔 (木曜日, 28 3月 2019 19:49)


    田崎の言う通りだった。
    七海は、部員のミスばかりに気をとられ、音を楽しむということをすっかり忘れてしまっていたのだった。
    田崎が初めて指導者らしいことを言ってくれたことに七海は尋ねた。
    「田崎先生、ひとつどうしても教えていただきたいことがあります」
    『うん?なんだい?』
    「審査員の先生方には好みがあるって聞きました。どう演奏すれば審査員の先生に高く評価されるんですか? 一番大切なことはなんですか?・・・教えてください、田崎先生」

    少しの間をおいて田崎はこう答えた。
    『君たちは、どういう演奏をしたいんだい?』
    「えっ?それは・・・審査員の先生方に高い評価を得ることが出来る演奏をしたいです。そのために一生懸命に練習を重ねてきました」
    『そっか・・・なら、話してあげよう。確かに審査員だって人間だ。もちろん好みもあるだろう。ただ、審査においてそれは「好み」ではないんだ。聞くポイントが違うだけなんだよ。審査員の先生が、クラリネット奏者だったのか、トロンボーン奏者だったのか、あるいは打楽器奏者だったのか・・・自分の専門分野に無意識のうちにシビアになって審査をしてしまうだけなんだよ。例えば、打楽器奏者だった審査員は、リズムにすごく厳しかったりしてさ・・・当然、審査員の中で意見が分かれることになるよな。だからそのために、いろんな楽器や専門分野の複数の審査員で審査するんだよ。公平な審査になるようにね』
    「・・・はい」
    『ところで大類は、審査員の先生方に高い評価を得ることが出来る演奏をしたいと言ったね?』
    「はい」
    『君たちは、審査員の先生の為に演奏するのかい?』
    「えっ?・・・そ、それがコンテストなんじゃないんですか?」
    『そうだなぁ、確かにコンテストで優勝できればそれでヨシ!となるだろう。でもな、大類・・・一番大切なことを忘れているんじゃないか?大類なら、僕に教えてもらわなくても分かるはずだぞ』
    「田崎先生、それって・・・自分達が本当にいいと思える演奏をすれば・・・それでいいんですよね?」
    田崎は、笑顔でうなずいた。
    『君たちは、楽譜に忠実に、つまり作曲者の意図をよく理解して、音楽に誠実に、そして・・・君たちは、“誰かに気に入ってもらおう”ではなく、自分達が本当に納得できる演奏をすればいいんだ・・・大類』

    その日を境に、吹奏楽部は変った。
    これまでミスを繰り返していた部員も、全く違った表情になりノーミスで楽器を奏でられるようになっていった。
    田崎もこの時を待っていたかのように、これまでとは全く違った本格的な指導を始めた。
    実は、田崎の吹奏楽に対する知識と経験は、部員の誰もが知らなかっただけで、全国トップクラスのところで経験を積んできていたのだった。

    七海を部長とする吹奏楽部は、見事に県予選、関東大会を勝ち抜き全国大会に出場した。
    そして・・・
    全国大会、最後の審査結果が発表された。
    七海の吹奏楽部は、全国・・・4位だった。

    大会を終え、会場の外に整列した部員達。
    保護者や関係者を前に、七海が一歩前に出て挨拶を始めた。
    「私達は、自分達が本当に納得できる演奏をすることが出来ました。結果は全国4位です。でも、4位で良かったと…さっき部員みんなで話し合いました。負け惜しみではありません。これまで頑張ってきた今の結果が4位であって、私達の吹奏楽部は先を見続けて頑張ることが出来るチャンスを与えてもらったと、そう話し合いました。これまで支えて下さってありがとうございました」
    生き生きとした表情で「ありがとうございました」と頭を下げた部員たちに贈られた拍手は、しばらく鳴り止むことはなかった。

    七海は、田崎の前に立って、深々と頭をさげた。
    「田崎先生・・・」
    『よく部員達をまとめてくれたな、大類・・・お疲れ様。全国大会まで来れたのは、君たちが、心の底から音楽を好きになってくれたからだ。これからの君たちの人生にとって、とても貴重な経験をしたはずだ。道に迷った時には、この経験を思い出すがいい。君たちなら大丈夫だ!』
    「はい、田崎先生!・・・ありがとうございました」
    七海は、頬を伝う涙で顔をぐしょぐしょにしながらも、田崎の前で笑った。
    七海が田崎と出会ってから一番の笑顔で。

  • #34

    六輔 (金曜日, 29 3月 2019 21:07)


    部活だけに明け暮れていた七海は、大学進学に特に何の目標も無く過ごしていた。
    だが、部活を終えたとき、ある思いが芽生えたのだった。

    「ねぇ、千暁・・・」
    『なぁに? 七海』
    「わたし、将来、高校の先生になることを目標に頑張ろうって決めたの!」
    『高校の先生に?』

    その時に七海は、田崎とのことを初めて千暁に話したのだった。

    『そっかぁ・・・田崎先生とそんなことがあったのね。とても素敵な話ねぇ』
    「うん。後になって校長先生からこっそり聞かされたんだけど、田崎先生って全国優勝した高校の吹奏楽部で部長をしていて、大学に行ってからも吹奏楽で有名なあの大学で主将を務めていたんだって」
    『そうなのぉ~ 普段、あんなにとぼけてる先生なのに?』
    「確かにとぼけてる先生よね(笑)」
    『え~ でも、田崎先生、そのことを七海や他の部員たちにも話してくれなかったの?』
    「うん」
    『へぇ~ そうなんだぁ・・・もしさぁ、「俺はこういう男だ!信じてついて来い!」って、言ってくれてたら、部員達はもっと目の色を変えて練習したんじゃないの?』
    「(笑)そのことは、私も考えてみたよ。でもね、それは無かったと思う。田崎先生は、私達に何が足りないのか、自分達で気づかせてくれて・・・それからは口癖のようにこう言ってくれたの。『自信をもって君たちの音を奏でるんだ!』って。きっと先生は、私達が創り出す音に自分の肩書なんか関係ないと思ってるのよね。 素晴らしい経歴を持った人に学びたいという人は多いと思うの。自分も同じようになりたい!って。でもね、それって指導者の技術を真似るだけなんだと思うの。あっ、もちろん素晴らしい技術を持った人を真似ることで上手くなっていくのよね。その指導者の技術を習得して、それが自分のものになって・・・もちろんそのことを私は否定しないよ。私だって、習い事をするならすごい先生に教えてもらいたいもん! でもね、田崎先生は・・・“私達の音”を大切にして指導してくれたんだと思うの。自分の肩書なんか関係なしに」
    『なるほどねぇ~ なんかその考え方って七海らしい!』
    「たいした技術のない私が、偉そうなこと言ってるね(笑)」
    『…あっ、そっか! 七海は、そんな田崎先生に憧れて田崎先生のような教師になりたいって思ったのね?』
    「うん!」

    志を持った大類七海は、一浪して田崎が通った大学に進学した。
    最上級生になったときには吹奏楽部の副主将まで努め、卒業後は目標の通り高校の教師になり、吹奏楽部の顧問に就いたのだった。

  • #35

    六輔 (土曜日, 30 3月 2019 19:12)


    莉央が帰った教室で一人になった千暁は、七海が田崎のことを語ったあの日のことを鮮明に思い出していた。
    「七海がもし、田崎先生という指導者と巡り合っていなかったら、きっとまったく違った人生を歩んでいたんだよね」
    そうつぶやいて千暁は、教室の壁に視線をやった。
    そこには、千暁を慕って絵画教室に通ってくる多くの子供達の作品が飾られてあった。
    千暁は、作品が貼られてある壁にゆっくりと歩み寄り、ひとつひとつ作品を見て行った。

    「哲也君・・・ここに通い始めた頃は、2色の絵しか描けなかったのに、今はこんなにたくさんの色を使って描けるようになったのよねぇ」

    「和枝ちゃん・・・大きさのバランスがうまく描けなかったのに・・・今はこんなに上手になって」

    「肇君・・・肇君は、いつも元気いっぱい!でも、とっても几帳面に描くのよねぇ」

    「範子ちゃん・・・範子ちゃんの想像力は、子供らしくてホンと素敵」

    「和弘君・・・絵までヤンチャ!(笑) でも、これが和弘君の絵なのよね。私にはこういう絵は描けないもの。このまま和弘君のいいところを伸ばしてあげたいなぁ」

    「智子ちゃん・・・智子ちゃんは私にいろんなことを聞いてくるのよね。時々、答えに困っちゃうようなことも。でも、そうやって成長してきたのよね。私、これからも智子ちゃんを応援するからね」

    「美徳君・・・この絵は、なかなか仕上げられなかった絵。何度も何度も自分が納得いくまで描きなおしていたわよね」

    「敏枝ちゃん・・・入ってきた頃はとっても泣き虫で。上手に描けなかったりすると、悔しくて泣いてばかりだった敏枝ちゃん。でも今は6年生になって、みんなのまとめ役。ありがとう、敏枝ちゃん。敏枝ちゃんのおかげで、わたし、いろいろ助かってるのよ」

    「靖子ちゃん・・・お母さんが離婚されて、月謝が大変になったからって相談にみえたことがあったわね。でも靖子ちゃんがどうしても続けたい!他は何もわがまま言わないから!って・・・お母さん、続けていいって許してくれたのよね。それを分かっている靖子ちゃんは、少しでも絵が上手になりたいって、いっつも一生懸命。これからも一緒に頑張ろうね、靖子ちゃん」

    全ての作品が、千暁の宝物だった。
    上手い下手など全く関係ない。
    どの作品も「僕は、私は、絵を描くことが好きです!」と千暁に語りかけ、思い思いに描かれた絵は、今にも壁から抜け出して踊り出そうとしているようだった。
    子供たちの一生懸命な想いが、千暁の頬に綺麗な涙を伝わせた。
    全ての作品の一つひとつに語り掛け、全てを見終えた千暁は「ふぅ~」と、細い息をゆっくりと吐いて、自分も帰宅しようとその準備を始めた時だった。

    「えっ?・・・」

  • #36

    六輔 (日曜日, 31 3月 2019 18:19)


    静かな教室にスマホのバイブ音が響いた。
    「誰だろう・・・」
    と、千暁がスマホを手に取ると、その画面には「藤子」という二文字が表示されていた。
    「あれっ、藤子からだわ。明日の予定のことならもう午前中の電話で決めたのに、まだ何かあったのかな?・・・あぁ~ “明日が待ちきれな~い”って、電話してきたのかな? もぉ~藤子ったら!」
    と、センチになっていた時に、そこから救いだしてくれる電話がかかってきてくれたんだと、気持ちを切り替えて明るく電話に出た。
    「もしもし、藤子ぉ~!」

    だが、藤子は決して“明日が待ちきれな~い”と、電話をしてきたのではなく、受話器の向こうで慌てた様子で話を始めたのだった。

    『ねぇ、ねぇ千暁・・・』
    「どうしたの藤子・・・なんか慌てた様子だけど、何かあったの?」
    『ビッグニュースが私のところに届いたの!』
    「ビッグニュース? どんなニュースなの?」
    『クラスメイトの城川君知ってるでしょ?』
    「うん、もちろん! 彼とはこないだの同窓会で話したわよ! 県庁に勤めているんだったわよね? 確か、ブログみたいなのを書いていて、藤子が毎日それを読むのが楽しみなんだ!って言ってた、その城川君でしょ?」
    『そう、そう!その城川君がね、しばらくブログは書けなくなるけどゴメンな!って、連絡くれたの。その理由がね・・・最初は、ちょっといろいろあってなって、ちゃんと話してくれなかったんだけど、気になるからちゃんと話して!って、お願いしたらさ・・・』

  • #37

    六輔 (月曜日, 01 4月 2019 19:15)


    『城川君ねっ、県庁を6月で辞めて選挙に出るんですって!』
    「選挙? 何の選挙に?」
    『9月の市会議員選挙だよ! 城川君の地元、北押崎の議員さんが今期で辞めるんだけど、その後継者として立候補する予定だった人が、急に出ないって言いだしちゃったみたいで・・・それで城川君が地元から頼まれて、断りきれなくなっちゃったんだって』
    「そうなの? え~・・・たまたま同窓会の時に城川君とそんな話をしたのよ。県庁を退職したら、議員にでもなるの?って。そしたらその時の城川君は、ぜーーーったいやらないよ!って言ってたのよ。でも、大変ねぇ・・・だって、これからその準備をする訳でしょ?」
    『そうみたい。つい、2、3日前に正式に決まったらしく、まだ、ごく一部の上司にしか話していないみたいで・・・城川君ねっ、今年の定期異動で異動になったんだけど、年齢的に長のつくポストにいて、直ぐに辞めるわけいかないから6月いっぱい勤めて・・・それで退職するんだって」
    『県庁を辞めてまでやるの? 議員の仕事もやりがいはあるんだろうけど・・・市会議員って大変って聞くわよ』
    「うん、城川君もそんなふうなこと言ってた・・・正直、このままあと4年勤めて退職後は小説でも書いて、あとは孫が大きくなったらキャッチボールの相手をしてって・・・でも、どうしようもなかったんだって」
    『そっかぁ』
    「まだ決まったばかりで誰にも話していなかったらしいんだけど・・・私が城川君のブログをずっと読んでいたのを知っていたみたいで・・・その人達には、他の人より先に知らせたいって思ったんだって」
    『そうだったのぉ。同級生のみんな、応援してくれるといいね』
    「うん、城川君もそうだといいなって言ってた。正式には、今週末に発表して、それから同級生にも知らせるって」

    こうして城川は、まだ誰にも話していないことを藤子に語ったのだった。
    そしてその準備に入るために、しばらくの間、ブログを休むことになることを詫びた城川だった。

    『まだ、内緒にしといてな、藤子。ライングループとかで知らせるのも、もう少し待っててくれ』
    「うん、分かった。何か手伝えることがあったら言ってよ、城川君!」
    『あぁ。一人でも多くの友達、知り合い、親戚・・・紹介してくれたらありがたい! しばらく書き込みを休むけど・・・選挙が終わったらまた再開するから』
    「今は選挙の準備に集中して! 体に気をつけて頑張って、城川君!」
    『あんがとな・・・9月の選挙が終わったら間違いなく続きを書くからな。 突然の知らせで驚かせてごめん。ずっと楽しみにして読んでくれていたのに・・・申し訳ない』

  • #38

    六輔 (火曜日, 02 4月 2019 06:21)


    世の中は、「ルール」で溢れている。
    道徳的ルール、社会的ルール、そして個人的ルール・・・
    人は様々なルールの中で生きている。

    ルールとは、時に面倒くさいものだ。
    ある会社が社員に新たな就業規則を提示すれば、途端に抵抗する社員が出て来る。
    そんなの会社が勝手に決めたことで、窮屈だ、息苦しい、面倒くさい、楽しくないという理由で。

    社会は、ルールがあるからこそ秩序が守られている。
    もし、社会の全てに「ルール」というものがなかったらどうなのだろうか。
    ルールが無ければ楽しいのかと問われれば、それは違うということに気づくはずだ。
    例えば、ルールのない野球をしたとしよう。
    1番から9番という打順(ルール)に関係なく、打率の良い選手だけが好き勝手に打席に立ったとすれば、当然そこにはブーイングが起きて、楽しい野球など出来るはずがない。
    お互いルールに従ってプレーするからこそ、そこに楽しさがあるのだ。

    ルールに縛られず自由に生きたいと思っていても、何故か人は、無意識のうちにルールを求めてしまう生き物なのである。
    それは、ある程度の不自由さがなければ、本当の自由が感じられないことを知っているからだ。
    そのために人は、自分なりのルールを作ったりもする。

    そんな世の中のルールがあるなかで、例えば、ある決められた日に嘘をついたとしよう。
    それが「嘘をついても良い日」であったにしても、嘘をついて良いのは午前中だけで、その種明かしはその日の午後のうちに済ませなければならないというのが「エイプリルフール」の世界共通のルールだ。
    そういう点では、今日のこの書き込みは昨日の「エイプリルフール」のうちに済ませておかなければならなかったのだが、勘が良い人ばかりであるだろうから・・・それ故、小説の正しい続きは今日になったという訳だ。

    「もしもし、藤子ぉ~!」
    と、明るく電話を受けた千暁だったが、受話器の向こうで藤子は小さな声で応えてきた。
    『千暁・・・』
    「えっ?どうしたの藤子・・・私は、てっきり“明日が待ちきれな~い”って、電話をしてくれたんだと思ったのに・・・何かあったの?」
    『千暁、あのね・・・』

    千暁は、小さな声で電話をかけてきた理由を話したのだった。

  • #39

    六輔 (水曜日, 03 4月 2019 19:06)


    「じゃぁね・・・藤子」
    そう言って千暁は電話を切った。
    「しょうがないよねっ・・・楽しみが1ヶ月延びただけだもん!」
    そう言って、直ぐに気持ちを切り替えた千暁だった。

    藤子の電話は、孫の来翔が熱をだしてしまったために、翌日の約束を1ヶ月先に伸ばして欲しいという話だった。
    電話の向こうで残念そうに話す藤子に、千暁は地元に帰れることを楽しみにしていたこともあって、
    「来翔君に会えなくても・・・」
    と、話をしてみたが、藤子が来翔を見せることが出来ないことにすごく落胆していたことから、藤子の申し入れを承諾したのだった。
    「そうね、来翔君がいなくちゃねっ」と。

    だが・・・
    実際のところは、藤子の話したことは事実とは異なっていたのである。
    藤子が千暁に話したことは嘘だった。
    実は、藤子が千暁に電話をする前に、藤子と翔琉の間でこんなやりとりがあったのだった。

    「母さん・・・」
    『どうしたの?翔琉』
    「あのさぁ・・・」
    『どうしたの? なんか言いづらそうだけど・・・』
    「実はね、明日、茉緒の友達がアパートに遊びにくることになって、来翔のことを母さんのところに連れていけなくなっちゃったんだ」
    『えっ?・・・』
    藤子は、
    『本当に明日なの?・・・』
    と、その次には、
    『母さんが、明日をどれだけ楽しみにしていたのか、翔琉に話していたわよね!』
    と、本音を吐き出したかった藤子だったが、やっとの思いでその言葉を飲み込んだのだった。

  • #40

    六輔 (木曜日, 04 4月 2019 19:24)


    来翔が生まれてからの藤子は、ちょっとした時間を見つけては、足繁く3人が暮らすアパートに通っていた。
    もちろん孫の顔見たさにだ。
    『茉緒さん…これ美味しいって聞いたから買ってきたの、食べて!』
    と、「秋茄子嫁に食わせよ」というばかりに必ず手土産を持って出向いていた藤子だった。

    はたから見ても、嫁と姑の確執があるようには見えない茉緒と藤子である。
    茉緒が藤子を嫌っている訳でもない。
    だが、藤子が嬉しそうに手土産を渡しても、茉緒は、
    「あっ、私これあまり好きじゃないんです! 翔琉さんに食べてもらいますから」
    と、嘘偽りなく、飾り気も無く藤子に言葉を返す。
    それは、茉緒が藤子に気にいられようと媚びを売ることはしないからだ。

    ちなみにだが、「媚びを売る」の「媚」という字は、女性が愛想を振りまく際に「眉」をしきりに動かしていた様子から「媚」という字ができたと言われている。
    小説の内容に関係のない話だが。

    明日来ることになっていた千暁が、どんな友人で、しかも来翔のお祝いのために遠路はるばる来てくれるのだと、ちゃんと茉緒にも話してあった。
    それ故、突然かかってきた翔琉からの電話に『悔しい』という思いが芽生えても不思議ではなかった。
    それでも藤子は心の中で、こうつぶやいて折り合いをつけた。
    『現代っ子だもんね! 今は昔と違うんだから…』と。
    そう考えなければ茉緒と上手くやっていくことが出来ないことを藤子は承知していて、茉緒に対して決して腹を立てないように努めていたのだった。
    何故なら、茉緒が来翔の母親であり、一人息子の翔琉のことは大切にしてくれる嫁だからだ。

    藤子は、翔琉にこう言って電話を切った。
    『茉緒さんのお友達が来るんじゃ、もちろんそっちが優先よね。母さんのお友達には・・・そうねっ、別の日に変えてもらうように連絡するから大丈夫よ』と。
    藤子は、力なくうつむいて「ふぅ~」と息を吐いた。

  • #41

    六輔 (金曜日, 05 4月 2019 19:55)


    それは、千暁との約束を先延ばしにしてから2週間が経った頃だった。
    藤子のところにまた翔琉から電話がかかってきた。

    「母さん・・・」
    『なに? なにかあったの?』
    「明日、来翔を頼みたいんだ! 大丈夫だよね?」
    『えっ?明日?・・・何時ごろ?』
    「夕方から茉緒と出かけたいから、4時ぐらいには俺が来翔を連れていくから よろしくね!」
    藤子は、直ぐに返事が出来なかった。
    何故なら、翌日は、高校時代の仲間達と千手山公園の花見に出かけ、二次会には駅前のカラオケ店に移動して、昭和のヒット曲を歌いまくって、日ごろたまったストレスを解消しよう!という約束があったからだ。

    矢継ぎ早に自分の言いたいことを伝えてきた翔琉に、藤子は抵抗を試みた。
    『母さんね、明日夕方から出かける用事があるの』
    「えっ? 用事って?」
    『高校時代のお友達とお花見に…』
    「え~ そういう用事だったら他の日にしてくれない?」
    『そんな簡単に私の都合で変えられないわよ』
    「変えられない? え~・・・母さんが来翔を母さんの家でみたいって、ずっと言っていたから、茉緒と相談して決めたことなんだよ! それに茉緒はずっと来翔の面倒をみていて、出かけることもできずにいたからすごい楽しみにしているんだよ・・・それなのに、ダメなの?」

    翔琉の話に藤子が思い浮かべたのは、出かけることが出来なくなって悲しむ茉緒の顔ではなく、可愛い孫、来翔の笑った顔だった。
    藤子は、二つ返事でこう言った。
    『分かったわ、連れてきなさい。母さんが責任をもって預かるから』と。

  • #42

    六輔 (土曜日, 06 4月 2019 15:05)


    翔琉が生まれた29年前、慣れない育児に奮闘していた藤子。
    生後間もない翔琉が泣き続ければ、お腹が空いたのか、オムツが汚れたからなのか、どこか痛いところでもあるのかと・・・その理由が何なのかと一生懸命に探し、あれやこれやと精一杯につくしてきた。
    自分の体調が優れないときなどには、正直、育児に疲れを感じ、置かれた環境から逃げ出したいとさえ思ったこともあった。
    それでも、時折みせる翔琉の笑い顔に不安と疲れが一気にかき消され、辛さを忘れさせてくれた。

    祖母になった藤子が、来翔の顔みたさにアパートに行ったときには、
    「あっ、来翔が笑ったよ! パパのことが分かったのね!」
    『ホントだ! 笑うと一段と可愛くなるよな、来翔は!』
    という翔琉と茉緒の会話に、
    『来翔は、まだ目が見えてないんだけどね』
    と、心の中でつぶやいて微笑んだ。

    自分が翔琉を育てていたころには、何も分からず無我夢中だった藤子だったが、祖母になった今は、赤ちゃんが新生児期から笑うのは“自分が笑うことで周囲が優しくしてくれる”という赤ちゃんの本能で、赤ちゃんなりの自己防衛手段だと学んでいた藤子だった。
    生後3か月を過ぎると視力も発達し、赤ちゃんは周囲の表情を感じ取って、笑顔を一つの情報として認識するようになり、親たちと同じ表情を作る様にと脳が指令を出すようになって赤ちゃんは笑うのだ。
    新米パパ・ママとなった翔琉と茉緒の姿を微笑ましく見守る藤子がそこにいた。

    藤子は、壁にかけられた時計に視線をやった。
    『みんな今頃、二次会のカラオケに移動した頃かなぁ・・・』
    久しぶりの仲間達との再会が果たせなかったことに、「ふぅ~」と深いため息を吐いて来翔に視線を移したときだった。
    すやすやと眠る来翔が眠ったまま笑ったのである。
    それに気づいた藤子は、まるで子守唄でも歌うかのように柔らかな口調で来翔にこう語りかけた。
    『来翔ぉ・・・あなたのパパもね、よく眠りながら笑ったのよ。「楽しい夢を見ているのかな?」なんて思いながら見ていたの。あのね、来翔・・・来翔のように眠りながら笑う様子を見て外国の人は「天使がくすぐった」とか、「エンジェルスマイル」って言うのよ。あなたの笑顔は、今の私にとっての宝物だからね・・・来翔』

    藤子が来翔に語りかけているのを知っていたかのように、話が終わるのと同時に藤子のスマホにLINEアプリの着信音が鳴った。
    藤子がアプリを起動させると、仲間達の楽しそうな集合写真が写し出された。
    と、同時に5人の女の子からメッセージが次々と届いた。
    「藤子が参加できないって知って、みんな寂しがってたよ!」
    「また早く同窓会やろうね!って、話になったからね」
    「次は藤子も参加できますように!」
    「藤子がいないと男子達が暗い! もぉ~、ジェラシー!!!(泣笑)」
    「孫もりが出来るなんて、私からしたら羨ましいよ! 今しかない時間・・・楽しんでね、藤子」

    藤子は、スマホに向かってこう言った。
    『みんな・・・ありがとう』と。

  • #43

    六輔 (日曜日, 07 4月 2019 22:29)


    千暁と藤子が会う日がようやくやってきた。
    結局のところ、その日は、一番初めに二人で決めた日から7か月も経っていた。
    千暁の都合が悪くなってしまったこともあれば、来翔が本当に熱を出してしまったり、藤子が体調を崩してしまったりと、延びに延びてようやくその日がやってきたのだった。

    藤子の家に着いた千暁は、笑みを浮かべて玄関の呼び鈴を押した。
    ≪ピンポーン≫
    『は~い』
    藤子の明るい声がドアの向こうから聞こえてきたことに千暁は、大きな笑みへと変えて扉が開くのを待った。
    『千暁ぃ~』
    「藤子」
    『久しぶりぃ~ 遠いところ、ありがとう』
    「藤子、久しぶりぃ~ 元気そうで良かった!」

    リビングに通された千暁は、『そこに座って』と案内されたソファーに座る前に、持ってきた包みを藤子に手渡した。
    「おめでとう、藤子…これ来翔君に」
    『え~ 気を使わないでって言ったのにぃ~ ありがとう』
    藤子は千暁から手渡された包みを嬉しそうに受け取った。

    ソファーに腰をおろした藤子が、渡された包みの中身を気にするようにしていたことに、千暁はこう言った。
    「開けてみて!」
    『うん』
    藤子は、包装紙を丁寧にはがし、専用の箱に入ったプレゼントを取り出した。
    『わぁ~ 可愛い!! コムサのお洋服!』
    「藤子に渡せるまでこんなにかかると思ってなかったんだけど、店員さんのお勧めもあってちょっと大き目なものにしたの。サイズが80だから、着れるのは、まだちょっと先になっちゃうと思うけど・・・」
    『ありがとう、千暁。こんな高価なお洋服・・・本当にありがとうねぇ、ママは大喜びだわ! このお洋服を着せて、早く一緒に来翔とお散歩がしたい!』
    「楽しみでしょ? お婆ちゃん!」
    『え~ そのお婆ちゃん!って言い方…やだぁ~!私は自分で“ばぁ~ば” って言ってるのよ』
    「“ばぁ~ば”かぁ。そうよね、まだ50代なんだものね(笑)」
    『あっ、来翔ねっ、いま隣の部屋で眠ってるの。すごく音に敏感な子で・・・もう直ぐ起きる時間だから、来翔とのご対面はその時でいい?』
    「うん!」

  • #44

    六輔 (月曜日, 08 4月 2019 20:37)


    藤子は、千暁から頂いた贈り物を置いてキッチンへと向かうために立ち上った。
    『紅茶でいい? 紅茶にぴったりなお菓子があるの』
    「わ~い!」
    千暁の喜ぶリアクションから2分後・・・藤子は二人分の紅茶とお菓子を持って戻って来た。
    「わぁ~ 美味しそう!」
    『知り合いの近所にあるお店のパウンドケーキなのよ。なんかね、お店での販売は今のところお休みしていて、オンラインショップの予約販売だけなんだって。知り合いが近所のよしみで特別に買えるんだけど…どう?って、言ってくれて・・・もぉ~、直ぐに千暁の顔が浮かんじゃったわよ!すごく美味しいのよ』
    「え~ そうなのぉ~ 嬉しい! ねぇ、ねぇ、どれがおススメ?」
    『え~、どれも美味しいわよ。お好きなのをどうぞ(笑)』

    千暁は嬉しそうに「ど・れ・に・し・よ・う・か・な・か・み・さ・ま・・・あれっ、一周しちゃった」と、12個セットで箱詰めされたパウンドケーキをひとつ一つ指差しなら、女性にとっての至福の時を楽しんだ。
    まるで10代の少女のように。
    「プレーン・・・チョコレート・・・あっ、これはドライフルーツね・・・ラムレーズンも捨てがたいなぁ・・・えっとぉ~・・・あっ、これにしよう!」
    と、千暁はクランベリーのパウンドケーキを手にとった。
    包みをゆっくりと開け、さらにそれ以上にスピードを緩めてパウンドケーキを口へと運んだ。
    選んでいる時からパウンドケーキへの視線を一度たりとも外さなかった千暁は、それを口に運んでからも決して視線を切るまい!と決めていたが、その思いは直ぐに打ち砕かれた。
    それは千暁の予想をはるかに超える味が口の中に広がって、思わず眼を閉じてしまったからだ。
    「美味しい~~~~~~~!!!」

    美味しそうに食べている人を見ると、その幸福感が自然と自分にも伝わり、伝播するものだ。
    何かに夢中になっている人、夢中で何かに打ち込む人を見て、人はそれに憧れたり、羨ましく思ったり、時には恋心まで抱いたりする。
    “リラックス”も“緊張”も、周りの人間に伝わり影響を与える。
    それは、食事であっても同じこと。

    食べる瞬間は、人が満たされる瞬間でもあり、緊張を和らげ、落ち着いた気分になる。
    だからだろうが、ビジネスや政治の世界でも、商談に使われるのは美味しい食事とお酒だ。
    お腹が満たされ、寛容になり気を許す。

    夢中で食事をする人を眺めていると、幼い子供を見るようにこちらも落ち着き、優しい気持ちになる。
    いま食べているものの味や匂いに体が正直に反応していることが「嘘をついていない」と見えるからだろう、とても誠実そうに見える。
    ご飯を美味しそうに食べる女性がとても魅力的に見えるのは、自分もハッピーな気分になれるからなのだ。

    千暁は、「私は幸せ~」と顔に書いたまま、口を止めることなくクランベリーのパウンドケーキを完食した。

  • #45

    六輔 (火曜日, 09 4月 2019 20:47)


    そんな千暁に、藤子は笑みを浮かべてこう言った。
    『嬉しいなぁ~』
    「えっ?・・・」
    『だってさ、それだけ喜んで食べてもらえたら、一生懸命に用意して良かったって思えるでしょ』
    「そっか」

    『・・・ねぇ、千暁』
    「うん?」
    『わたし、千暁の奥さんになりたい!』
    「えっ? なに? ど、どうしたの急に…藤子。 いきなりそんな告白されても・・・こ、困るよ~ どうしよう…」
    『(笑)千暁可愛い。でも、本当に千暁のような人と一緒に食事していたら、こっちまで幸せ感じちゃう』
    「えへっ(笑)・・・それって、褒められてるんだよね?」
    『もちろんだよ、千暁(笑)』

    と、親友が喜んでくれたことに、当然の会話が続いた。
    『ねぇ、千暁・・・あと11個も残ってるよ! この子たち、早く私を食べて~千暁~って待ってるわよ』
    「え~・・・11個も無理だよ~」
    『さすがにいま全部食べてとは言わないけど(笑)ねぇ千暁・・・私、千暁の親友を何年やってると思う?』
    「えっ?高校1年生の時からだから・・・歳がばれちゃうから、あんまり言いたくないけど…」
    『(笑)同い年の人に年齢を隠さなくてもいいと思うけど・・・40年を超えたのよ! 私、千暁のことなら何でも分かっているつもりなんだけど!』
    「はぁ~ ・・・それで…何が言いたいわけ?」
    『千暁、昔からレーズンが大好物だったわよね! しかも、そこに大好物があったら、必ず最後にそれを食べる! それが千暁だよ。さっきさっ、「ラムレーズンも捨てがたいなぁ」って、言ってたけど・・・捨てがたいじゃなくて、捨てられないっていう意味で言ったのよね。どう? 藤子様の洞察力に参ったでしょ(笑)』
    「すごい…藤子。そこまで読まれてたか」
    『さぁ、遠慮しないでどうぞ!』
    そんな藤子の言葉に甘えて千暁はこう言った。
    「ありがとう、藤子。じゃぁ、遠慮なくプレーンからいただきます!」
    『千暁ったら!(笑)』  

  • #46

    六輔 (水曜日, 10 4月 2019 20:17)


    パウンドケーキへのアタックが、ようやく落ち着いた千暁が、リビングの中を見渡すと、サイドボードの上に写真が飾られていることに気づいた。
    「あぁ、同窓会の時の写真だ!」
    『うん』
    「同窓会、楽しかったよねぇ」
    『そうねぇ』
    「わたし、藤子に背中を押してもらっていなかったら、同窓会には参加していなかったのよねぇ。ホンと、藤子には感謝してるのよ」
    『感謝だなんて。 私は、本当のことを言っただけ! 絶対に楽しいし、絶対に参加して良かったって思えるわよ!って。 嘘じゃなかったでしょ!?』
    「はい。藤子様のおかげでございます」
    『(笑)でも、ずっと楽しみにしていた分、終わっちゃうと寂しい感じよね』
    「うん、私も。楽しみっていうか、不安と期待とごちゃごちゃした気持ちのまま参加したけど・・・みんな私のこと覚えてくれていて嬉しかった」
    『当たり前だよ~ なんていっても千暁はクラスで二番目に可愛い女子だったんだもの』
    「はっ?二番目?そうなの? あれっ?みんな可愛いって有名なクラスだったけど・・・一番って誰だったの?」
    『決まってるじゃない!』
    「はっ?・・・」

    藤子のお茶目な表情に気づいた千暁はこう言った。
    『え~、自分はクラスで一番可愛かったと勝手に思っている藤子さんにお尋ねします』
    「・・・はい」
    『どうして、クラスで一番と二番に可愛かった女の子二人の恋は成就しなかったのでしょうか?』
    「わぁ~ そこを攻めて来たか! そ、それは・・・クラスで一番と二番に可愛かった女の子が同時に恋をしたその男の子は、隣のクラスで一番可愛い女の子が好きだったからです! はい、正解!」
    『うふっ、懐かしいね』
    「ホンとねぇ。 40年も経ってこんな話が出来るなんて、あの頃は思いもしなかったわよね」

  • #47

    六輔 (木曜日, 11 4月 2019 20:14)


    ソファーから立ち上がった千暁は、サイドボードの前まで行き、綺麗な写真立てを手に取ってその中に大切に飾られてある写真をしみじみと眺めた。

    「ねぇ、藤子・・・」
    『うん?』
    「また同窓会ってあるのよね?・・・あと4年後? 私達、4年後には還暦よね」
    『そうねぇ、私達もそういう年齢になったのよねぇ。きっとあっという間に60歳になって、その時にはみんなでお祝いかな? 還暦を迎えられたお祝い』
    「還暦のお祝いかぁ・・・若い頃にはそんなこと考えもしなかったのにね」
    『そうねぇ。でもさぁ、次の同窓会はきっと賑やかな同窓会になるよ。 男子は、赤いちゃんちゃんこと赤い頭巾で参加したりして(笑)。女子達も真っ赤なドレスとか、みんなそれぞれにお洒落を楽しんでね』
    「そっかぁ。なんかまだ想像つかないけど・・・」
    『歳とってからの一年って、若い頃よりも早く感じるようになったと思わない?』
    「うん、思う。 だんだん早くなってきた気がする」
    『なんでだろうねぇ・・・』
    「ホンと、どうしてなんだろうね。 4年後かぁ・・・その頃には来翔君も幼稚園に通っているのね」
    『わぁ~ 来翔が幼稚園!それこそまだ想像がつかないけど、きっとあっという間なんだろうなぁ』
    「そうよ、子供の成長はあっという間! でも、周りの人間だってそれと同じスピードで歳をとっているんだけどね」
    『わぁ~ あまり歳の話しはしたくないけど、そういうことかぁ』

    と、二人がそんな会話をしていると、隣の部屋から来翔の泣声が聞こえてきた。
    『あっ、来翔、起きたみたい!』
    と、藤子は早く千暁に愛しき初孫の来翔を見せたいと言わんばかりに、来翔のもとへと跳んで行った。

    来翔を抱きかかえて藤子が戻って来た。
    千暁はソファーから立ち上がり、藤子の隣に立って来翔を覗き込んだ。
    「わぁ~ 可愛い~~ 来翔君、初めまして。ばぁばのお友達の千暁お姉さんでちゅよぉ~」

    不思議だ。
    何故か、赤ちゃんの前にいくと、赤ちゃん言葉を使ってしまう。
    しかも自分のことを“お姉さん”と称してしまう。

    千暁も例外ではなく赤ちゃん言葉を使ったことに、藤子は思わず笑ってしまった。
    そんなことはお構いなしと、千暁は両腕を伸ばし、
    「ねぇ、ねぇ藤子、私に抱っこさせて」
    『はい、どうぞ』
    来翔は、藤子ばぁばの手をはなれ、自称“千暁お姉さん”の腕の中で抱きしめられた。

  • #48

    六輔 (土曜日, 13 4月 2019 07:13)


    この時の来翔は、生後8か月、既に離乳食も始まっていた。
    赤ちゃんは、離乳食を噛むことで口唇が鍛えられ、「ばー」や「ぷー」などの言葉を発することが出来るようになっていく。
    もうこの頃の来翔は「まんまんまん」など、特にマ行の音を多く発するようになっていた。
    千暁を特別な人物と判断したわけではなかったが、タイミングよく来翔が千暁にむかって声を発したのだった。
    『まんまんまん…うまっ、うまっ、あー、あー・・・』
    それで気を良くした千暁の赤ちゃん言葉は、さらにヒートアップした。
    「わぁ~ 千暁お姉さんのことが分かったでちゅかぁ~ 可愛いでちゅねぇ~ そうでちゅかぁ~ ご機嫌でちゅねぇ~」
    ご機嫌なのは、来翔以上に千暁の方であることは棚に上げ、顔をクシャクシャにして自分の腕の中で笑顔でいる来翔を見ていた千暁は、このままいつまでも来翔を抱っこしていたいという思いでいたが、その思いは藤子が言った真っ当な理由で打ち砕かれた。
    『オムツを替えてあげないと』
    「あっ、はい。もぉ~ 可愛すぎていつまでも抱っこしてあげたくなっちゃったわよ・・・はい、藤子ばぁば」

    来翔を渡した千暁は、藤子が来翔のオムツ替えをしている間、隣に並んでずっと見守った。
    「可愛いよねぇ」
    『うん。よく目の中に入れても痛くないって聞くけど、ホンと、その気持ち分かる』
    「ばぁばになったのねぇ・・・藤子」
    『うん』

    オムツ替えを済ませた藤子は、赤ちゃん用の布団を敷いてそこに来翔を寝かせた。
    すると来翔は直ぐに、下に置かれたことで機嫌を損ねたかのように泣き出した。
    『あぁ~ ごめん、ごめん来翔』
    と、直ぐに来翔を抱きかかえた藤子は、
    『パパとママは抱き癖がついちゃうとか言って、泣いても直ぐに抱っこしてあげないのよ。でもダメ!可哀相でしょ。だから、こうして抱っこしてあげるの!』
    と、言った千暁に藤子は笑みを浮かべてこう言ったのだった。

    「あぁ~ 藤子も“孫は可愛い、責任ないもの”っていう人になっちゃったか」

  • #49

    六輔 (土曜日, 13 4月 2019 07:14)


    千暁の言葉に藤子は、表情を曇らせて答えた。
    『えっ? 私は、そんな無責任な気持ちで来翔の子守りをしてないよ!確かに周りのお友達でばぁばになった人は、みんな口を揃えてそんなふうなことを言うけど・・・私は違うわよ!』
    「ごめん、ごめん。変な意味で言ったんじゃないのよ、藤子。もちろん、藤子がいい加減な気持ちで孫もりしているなんて思ってないわよ。でも・・・藤子も他のばぁばもみんな同じ! 可愛くて、つい・・・」
    『つい? だって、せっかく私がそばにいるんだもの。 私はしっかり来翔のことを子守りしているだけよ』
    「(笑)そこに“責任ない”っていう部分が入っちゃってるのよ、藤子」
    『えっ?・・・』

    腑に落ちない様子の藤子に千暁は、自分の考えを伝えたのだった。
    「藤子が一人息子の翔琉君を育てていたときは、きっと緊張もしていただろうし、躾もしっかりしなければと気合いも入っていたわよね」
    『…うん』
    「ばぁばになって来翔君を預かる以上、ケガをさせてはいけない、病気させては大変と、きっと翔琉君の時以上に気を遣っているはずよね」
    『…うん』
    「自分の不注意で来翔君にケガをさせてしまったりしたら、子供がケガをしてしまったことに心を痛める親、翔琉君と翔琉君のお嫁さんの思いも受け止めなければならないんだから、余計に責任があるって思うはずだもの」
    『もちろん、そう!』

    と、そこまで話した千暁は、柔らかい笑顔を浮かべて藤子にこう尋ねた。
    「藤子に一つ質問するけど・・・来翔君に好かれたいって思ってる?」
    『えっ?・・・』

  • #50

    六輔 (日曜日, 14 4月 2019 20:54)


    分かりきったようなことを何故尋ねるのかと、そんな表情を浮かべて藤子は答えた。
    『当たり前だよ~ だって、ばぁばだよ! 来翔に嫌われたりしたら、生きて行けない!』
    「(笑)そうね。ばぁばは、孫に好かれたいっていう気持ちが一番にあって、子守りをしちゃうのよね。でも親はそうはいかないでしょ!? 嫌われたりすることなんか全く考えもせずに、一生懸命に子供を躾ようとするでしょ? まずは躾が先! 時には泣きわめく子供を嫌でも叱ったり・・・でも、ばぁばのそういう場面って少ないのよ、きっと。それは親の仕事!とか言って。 泣くことで抱っこして欲しいと要求されれば、それに直ぐに応えちゃうだろうし、何か食べ物をせがんだりされれば「少しぐらいならいいかな?」って、それを勝手に正当化して孫に与えてしまったりと、全ては孫に好かれようとして・・・みんなそれは当たり前に思うことなのよね」
    『だってぇぇぇ・・・可愛い孫が望むんだもの』
    「そうね。だからばぁばになった多くのお友達が「孫は可愛い!責任ないもの」って、言うんじゃないのかなぁ・・・悪い言葉を使えば「いいとこ取り」。ばぁばは、甘やかし係!」
    『え~・・・』
    「でもね、藤子・・・来翔君にとって藤子は大切な存在なのよ。だって、自分の味方になってくれる人がいるんだもの。きっと優しい子に育つわよ…藤子のように」
    『・・・だと、いいけど』
    「来翔君は幸せ!藤子がいるんだもの。藤子は、翔琉君と翔琉君のお嫁さんの育児方針を尊重してあげながらの子育てサポーター役! ねっ、藤子」
    『・・・そうだね』
    「虫歯菌が移るから大人の箸でご飯を与えるのはダメだって頭では分かっていても…つい。一生懸命に親が躾をしても、ばぁばがそれを簡単に甘やかしたりしちゃうと、食事や睡眠の普段のリズムも乱れて・・・その軌道修正にはまた親が大変な思いをするようになっちゃうのよね。 いいとこ取りって、それは言い過ぎだったけど、それがばぁばなのかもね。たとえ過剰であっても可愛がってくれる人がいることは幸せなこと。来翔君も大きくなれば分かるのよね。ばぁばだから許されることだってね」
    『そっか・・・なんか勉強になったよ、千暁。確かにそうよねぇ…ついつい・・・だからなのねぇ、 “孫は可愛い、責任がないもの”って、みんなが口を揃えて私に言ったのは。気をつけなきゃねっ! パパとママが一生懸命に躾をしようとしているんですものね』

  • #51

    六輔 (月曜日, 15 4月 2019 20:21)


    藤子は、時計を見て思い出した。
    『あっ、いっけな~い。 ミルクの時間! 千暁、ちょっと抱っこしてて』
    「は~い」

    藤子は、翔琉から預かった来翔の哺乳瓶にキューブの形をした粉ミルクを入れお湯を注いだ。
    キッチンに行って、その温度を冷まし、自分の手の甲に降り掛けてその温度を確かめた。
    『お待たせ・・・千暁がやる?』
    「え?いいの? やったぁ~!」
    千暁は喜んで哺乳瓶を受け取り、そのまま来翔の口もとへと運んだ。
    「来翔くーん! ミルクでちゅよ~」
    来翔がミルクの時間を待ちわびていたかのように、哺乳瓶をくわえた姿に二人は笑みを浮かべた。

    ゴクゴクとミルクを吸い続ける来翔に視線を置いたまま藤子が話を始めた。
    『なんかさぁ、この頃色々考えちゃうのよねぇ』
    「いろいろ? どんなこと?」
    『簡単に言っちゃえば、これからの将来、どんなふうになって行くのかなぁって』
    「将来かぁ・・・」
    『テレビをつければ、虐待で幼い子供の命が奪われたニュースとか、子供が自ら命を絶ったみたいなニュースとか、いじめ問題で学校の先生が叩かれている話とかさぁ・・・私達が子供の頃には無かったわよねぇ・・・』
    「・・・うん」
    『インターネットも携帯も無い時代に育った私達とは違ってさぁ、便利さ故に、ネットでいじめがあったり・・・だんだん人と人との関わりが少なくなってきたっていうか、薄っぺらなものになってきたっていうか・・・な~んか、これから先、もっとそんなふうになっていくのかなって心配になっちゃう』
    「ほんとねぇ。来翔君の将来かぁ・・・20年後とか30年後には、私達には想像もつかないような時代になっているんでしょうねぇ」
    藤子は、細い息を吐いてつぶやいた。
    『30年後かぁ・・・翔琉が今の私達ぐらいの年齢になっている頃ねぇ。そして私達は・・・まだ元気でいれるのかしらね』
    「30年後じゃ86歳でしょ・・・元気でいたいね」
    『ホンとね』

  • #52

    六輔 (火曜日, 16 4月 2019 06:41)


    藤子は、時計を見て思い出した。
    『あっ、いっけな~い。 ミルクの時間! 千暁、ちょっと抱っこしてて』
    「は~い」

    藤子は、翔琉から預かった来翔の哺乳瓶にキューブの形をした粉ミルクを入れお湯を注いだ。
    キッチンに行って、その温度を冷まし、自分の手の甲に降り掛けてその温度を確かめた。
    『お待たせ・・・千暁がやる?』
    「え?いいの? やったぁ~!」
    千暁は喜んで哺乳瓶を受け取り、そのまま来翔の口もとへと運んだ。
    「来翔くーん! ミルクでちゅよ~」
    来翔がミルクの時間を待ちわびていたかのように、哺乳瓶をくわえた姿に二人は笑みを浮かべた。

    ゴクゴクとミルクを吸い続ける来翔に視線を置いたまま藤子が話を始めた。
    『なんかさぁ、この頃色々考えちゃうのよねぇ』
    「いろいろ? どんなこと?」
    『簡単に言っちゃえば、これからの将来、どんなふうになって行くのかなぁって』
    「将来かぁ・・・」
    『テレビをつければ、虐待で幼い子供の命が奪われたニュースとか、子供が自ら命を絶ったみたいなニュースとか、いじめ問題で学校の先生が叩かれている話とかさぁ・・・私達が子供の頃には無かったわよねぇ・・・』
    「・・・うん」
    『インターネットも携帯も無い時代に育った私達とは違ってさぁ、便利さ故に、ネットでいじめがあったり・・・だんだん人と人との関わりが少なくなってきたっていうか、薄っぺらなものになってきたっていうか・・・な~んか、これから先、もっとそんなふうになっていくのかなって心配になっちゃう』
    「ほんとねぇ。来翔君の将来かぁ・・・20年後とか30年後には、私達には想像もつかないような時代になっているんでしょうねぇ」
    藤子は、細い息を吐いてつぶやいた。
    『30年後かぁ・・・翔琉が今の私達ぐらいの年齢になっている頃ねぇ。そして私達は・・・まだ元気でいれるのかしらね』
    「30年後じゃ86歳でしょ・・・元気でいたいね」
    『ホンとね』

  • #53

    六輔 (火曜日, 16 4月 2019 20:30)


    藤子は、ミルクを飲み終えた来翔を千暁から受け取り、縦に抱きかかえて背中を“ポンポンポン”と叩いてゲップを促した。
    藤子のリクエストに直ぐに応えた来翔をそのまま抱きかかえ、ゆっくりと背中をさすりながら藤子は話を続けた。

    『ねぇ、千暁・・・』
    「うん?」
    『鋳掛屋の天秤棒(いかけやのてんびんぼう)っていう言葉を聞いたことある?』
    「鋳掛屋の天秤棒???・・・ある。確かぁ・・・出しゃばりな人のことをさすことわざじゃなかった?」
    『当たり~! よく知ってるね、千暁』
    「たまたまね」
    『昔は、鍋や釜は主に鋳鉄製で、でも昔の技術で作った鍋や釜は簡単にひび割れたり、穴が開いちゃったりしたのよね。だけど昔の金属はとっても貴重品だったから、穴が開いたからって簡単に捨てたり買い換えたりするわけにいかなくて・・・その壊れた鍋や釜の補修を請け負う人を「鋳掛屋」って呼んだのよね』
    「へぇ~ そういう細かな話までは知らない! え~ もっと聞かせて」
    『うん、分かった。それから「天秤棒」って、その言葉で想像できる通り、棒の両端に重い荷物をぶら下げて天秤のようにバランスをとって、それを肩に担いで・・・重い荷物を運ぶために作られた棒のことを「天秤棒」って言うのよね』
    「はい、はい」
    『鋳掛屋さんが補修した鍋や釜を運ぶときに使った天秤棒は、普通の天秤棒より長かったんですって。鋳掛屋が使う天秤棒の端が荷物より長く出ることから、出しゃばりな人のことを“鋳掛屋の天秤棒”って言うようになったそうよ』
    「へぇ~ そういうことだったのね。勉強になったわぁ」

  • #54

    六輔 (水曜日, 17 4月 2019 21:13)


    藤子の話に千暁の頭の中は、大きなクエスチョンマークが浮かび上がっていた。
    藤子は、千暁のそんな表情に気づいてこう言った。
    『ねぇ、千暁・・・もしかして勘違いしてる?』
    「えっ?・・・」
    『私が突然“鋳掛屋の天秤棒”の話をしたのは、来翔の親たちに対して私が出しゃばったことをしようとしているの?って思ったんじゃない?』
    「・・・うん。ちょっとそう思った」
    『(笑)違うわよ~千暁。ばぁばは大人しく、来翔の親たちのサポート役に徹するつもりよ!』
    「そっか(笑)」
    『私が“鋳掛屋の天秤棒” の話をしたのはね、人のことに口出ししたり、余計な世話をしたり、“ちょっかい”を出したり・・・そういう人って、昔はいたわよね。う~ん、例えば…仲人さんのように、あそこの娘にはあそこの長男坊がいいんじゃないのって、勝手に二人の仲を取り持ってくれたり・・・一歩間違えれば“おせっかい”になりそうなことも、結果的には“世話焼き”になって、人のためになるようなことをしてくれた人』
    「…うん」
    『まぁ、“世話焼き”と“面倒見が良い”も少しニュアンスが違うんだろうけど。“世話焼き”は、頼まれてもいない事を先走って、人の思惑を考えず、自分なりにいいように解釈して世話をする感じよね。でも、“面倒見が良い”は、他人が困っている時に、とことん最後までその人の困っている事に付き合ってくれて、助けてくれる人・・・なんとなく親分肌で、誰からも信頼されている人』
    「…うん」
    『今は、仲人さんに限らず、人の為に良かれと思って何かを言ってくれたり、世話をやいてくれたり・・・そういう人っていなくなってきちゃったって思うの』
    「そうねぇ…確かに」
    『近所の子供達が危険な遊びでもしていようものなら、それを真剣に叱ってくれたり、汗をいっぱいにかいて遊んでいる子達をみかけたら、ジュースを飲ませてくれたり・・・昔ってそういう人が当たり前にいてくれたと思うの。でもさ、今はへたに注意でもしようものなら、親が怒鳴り込んで来たり、うちの子に余計な物を与えてもらっては困る!って、感謝されることもなく・・・怒鳴り込まれてきたり、有難迷惑的に言われたりするぐらいなら、余計なことは言わなくなるのは当然よね』
    「そうねぇ。私だって良かれと思ってやったこと、言ったことが逆に注意されるんだとしたら・・・しなくなるわよね…確かに」
    『でしょ。わたし・・・そんな時代になったからこそ、来翔には人との関わりを大切にできる子に育って欲しいと思ってるの。“鋳掛屋の天秤棒”とまでは言わなくてもね(笑)』
    「そっかぁ、そういう意味で“鋳掛屋の天秤棒”の話しをしたのね」
    『うん。だって、私達が子供の頃って、普通に近所のおじさんやおばさん達に声をかけてもらったりしたでしょ? いまは、そんな光景を見かけることもないわよね』
    「そうねぇ」
    『人は一人では生きて行けないんですもの! 人との関わりってとっても大切だと思うの。来翔にはそれが分かる子に育って欲しいの』
    「そっか」

  • #55

    六輔 (木曜日, 18 4月 2019 19:47)


    “月に兎がいる”と信じられていた「古代」から月日が流れ、日本では江戸幕府が世を制していた頃、ようやく地球が動いているのだと主張する者が現れた。
    そしてさらに時が経ち、加藤茶が「カトちゃん、ペッ!」とやり始めた頃、人類が初めて月に降り立った。
    それから半世紀、ちょうど50年が経った2019年、来翔がこの世に生を享けた。

    来翔が生まれて3ヶ月が経ったとき、菅官房長官が新しい元号が「令和」に変わると発表し、その1か月後には令和元年がスタートした。
    令和がスタートして直ぐに話題になったのは、令和の「令」の字の最後の1画を「マ」のように書くのか、それとも真っすぐ下に下すのかということだった。
    それぞれに意味があるようなので調べてみるがいい。
    そうすればどちらが正しいのか知ることが出来るはずだ。
    ちなみに…「令」を使った字に「玲」があるが、この「玲」という字には、宝石がふたつ重なって綺麗な音を立てるという意味があるのだそうだ。
    な~るほど。
    名前に「玲」の字を使う人は、皆、宝石のよに美しい人ばかりだ。

    平成の時代から令和の時代へと移り変わって4年が経った西暦2023年1月。
    仲間達は、皆、60歳を迎えた。
    満60歳は、生まれた年の干支に還ることから「還暦」と呼ばれる。
    赤いちゃんちゃんこで知られる通り「赤」が長寿祝いの色だ。
    「還暦」を皮切りにしてその後の長寿の祝いには、その年齢に応じた呼び名と祝いの色が決められている。
    「還暦」の次は70歳になったときの「古希」だ。
    「古希」は、中国の詩の一節である「人生七十古来稀なり」に由来しているそうで、「紫」が長寿祝いの色だ。
    「古希」の次は77歳になったときの「喜寿」だ。
    「喜」という字の草書体が七を3つ重ねた形になり、七十七と読めることに由来しているそうで、「古希」と同じく「紫」が長寿祝いの色だ。
    と、あとは80歳の「傘寿」、88歳の「米寿」、90歳の「卒寿」、99歳の「白寿」、そして100歳の「百寿」と長寿祝いが続いていく。

    仲間達は、西暦2023年1月に開催された同窓会で、まずは「還暦」を迎えられたことを一緒に祝ったのだった。

  • #56

    六輔 (金曜日, 19 4月 2019 20:20)


    2020年の「東京オリンピック・パラリンピック」も無事に終わり、藤子がずっと楽しみにしていた「還暦」を祝う同窓会も終わって3か月が経った。

    そしてそれは、ソメイヨシノが綺麗に咲き誇る春、2023年4月。
    その日は、来翔の幼稚園の入園式だった。
    小さめの幼稚園や保育園では、保護者が入るスペースが多分にとれないため、両親以外の式への出席を遠慮して欲しいとするところは珍しくないが、幸いなことに、来翔が入園する幼稚園では、そういった制限は設けられていなかった。
    藤子は、翔琉の了解を取り付け、入園式に同席させてもらえるようになった。
    式場の最後列の席で式を見届けた藤子は、庭に出て、親子3人のカメラマンを務めた。
    『はい、チ~ズ!』
    藤子は、真新しい園児服に袖を通した孫の姿に目を細めた。

    「ばぁば、今日は来てくれてありがとう」
    『あれっ、ちゃんとご挨拶が出来て偉いね、来翔』
    「ねぇ、ばぁば…一緒に写真撮ろう!」
    『えぇ~・・・』

    藤子はしゃがんで来翔と顔の高さを合わせ、最高の笑顔と、そして両手の人差し指と中指でⅤの字を作って思い出の写真を来翔と一緒に撮った。
    『おめでとう、来翔』
    「ありがとう、ばぁば」
    藤子は、孫の成長を心から喜んだ。

    和住家では、そんなごくありふれた幸せな時間を過ごしていた西暦2023年、世間を賑わす大きなニュースが世界中を駆け巡った。
    それは、IT関係の社長が、芸能人のフィアンセを連れ添って月に旅行に行ったというニュースだった。
    その当時、豪華客船世界一周クルーズの費用が、一人2,000万程度だと言われていたが、9人搭乗したロケットが月に旅行をして帰ってくるのに総額750億円かかったというニュースに世界中が驚愕したのだった。

  • #57

    六輔 (土曜日, 20 4月 2019 20:49)


    『ねぇ、翔琉・・・』
    「うん?なんだい茉緒」
    『月旅行に750億円だって!』
    「あぁ、すごいなぁ」
    『9人で750億円って・・・一人80億円以上かかった訳でしょ? すごくない?』
    「あぁ、どう逆立ちしたって、俺達一般人には稼げないお金だよな」
    『夢のような話よねぇ~ 海外旅行だって思うように行けない人がたくさんいるのに・・・月に旅行って』
    「うん」
    『でも、来翔が私達ぐらいの年齢になった頃には、当たり前のように月に旅行する時代になっているのかもしれないわね』
    「そうだなぁ・・・そんな時代がいつかは来るんだろうなぁ」
    『私達は、そんな夢のようなことは叶えられないだろうけど、来翔が大人になったら絶対に“勝ち組”になって、叶えてもらいたいと思わない?』
    「“勝ち組”かぁ・・・そうだなぁ。きっと来翔なら“勝ち組”になれるさ!」
    『どうしてそう思うの?』
    「うん?決まってるだろう! 俺と茉緒の子供だからさ!」
    『う~ん、希望的観測だけど・・・でも、そうなってもらいたいわね!』
    「あぁ!」

    『明日は、来翔のお遊戯会ね』
    「うん! 楽しみだな!」
    『来翔、練習頑張ってるみたいよ』
    「そっか」
    『翔琉のお母さんも来るんでしょ?お遊戯会に』
    「あぁ。めちゃくちゃ楽しみにしているみたいだよ」
    『そっか。ねぇ、翔琉・・・』
    「うん?」
    『翔琉のお母さん…大きな声援を送ったりしないわよね? そんなことされたら、親の私達が恥ずかしい思いをするんだからね!』
    「たぶん、しないと思うけど・・・」
    『もし、そんなことするようだったら、翔琉からちゃんと言ってよ! 翔琉のお母さんに』
    「・・・分かったよ」

    茉緒が、いつまでたっても藤子のことを“お母さん”とは呼ばず、“翔琉のお母さん”と呼ぶことに違和感を覚えていた翔琉だったが、それを取沙汰すことを出来ずにいたのだった。

    翔琉に対して藤子の振る舞いを釘刺した茉緒は、続けて険しい表情のままこう言った。
    『あ、あと・・・自分の子供の番じゃないからって、うるさくしているお母さんとかがいたら、翔琉がしっかり注意してね!別によそのお母さんたちに見てもらいたいとも思わないけど・・・来翔が頑張ってステージに立っているんだからね! お願いね、翔琉!』
    「・・・分かったよ」

  • #58

    六輔 (日曜日, 21 4月 2019 20:28)


    来翔のお遊戯会の日。
    その日は、奇しくも千暁の個展の初日だった。

    個展を開くことをずっと目標にしてきた千暁は、3年間かけて個展に出展する作品を準備してきた。
    個展は千暁の住む町の貸画廊を選んだ。
    個展を開くには、それ相応の期間と費用が必要だった。
    会場を借りる費用、作品を輸送する費用、それから個展を開くことを知ってもらうためのプロモーション費用。
    さらには、個展開催中のスタッフの人件費から会場監視員などなど。
    特にプロモーションには、専門のスタッフに相談して十分な期間と費用を費やした。
    会場内に自分の作品をどのように展示するかのキューレーションには特に拘った。
    千暁は、これまでの絵描きとしての自分の軌跡を知ってもらいたいと「回顧展」の形式を選んで、自分が描いた作品を制作時代順にテーマを設けて展示した。

    千暁は、全ての準備を終えた個展会場を見渡した。
    「たくさんの方が来てくれたらいいなぁ・・・」
    そうつぶやいて会場をあとにした。

  • #59

    六輔 (月曜日, 22 4月 2019 20:10)


    緊張の初日を迎えた。
    そしてそれは、開場して直ぐだった。
    小学生の時に千暁の絵画教室に通っていた智子と靖子が母親と一緒に現れた。

    『千暁先生~!!』
    「あぁ、智子ちゃん…靖子ちゃん」
    『先生、ご無沙汰しています』
    「ほんとねぇ。4年ぶり?二人は高校一年生になったのよね? すっかり大人っぽくなっちゃって!」」
    『はい! 私達一緒の高校に入学したんです。もちろん一緒に美術部に入部しました』
    「え~、そうなの? 先生、嬉しいなぁ~ 絵を続けてくれているのね」
    『はい! 千暁先生に絵を描くことの楽しさを教えていただいたから・・・でも、コンクールですごい賞をいただけるような絵はまだまだ描けないんですけど…』
    「う~ん・・・」
    『あっ、コンクールで賞をいただくために絵を描き続けているんじゃないですけどね。あの頃、千暁先生に教えていただいた通りに(笑)』
    「もぉ~靖子ちゃんったら!(笑)」
    『千暁先生、私も靖子と同じ!』
    「もぉ~智子ちゃんまで!(笑)」
    そう言って三人は顔を見合わせて笑った。

    『では、あらためて・・・千暁先生、個展、おめでとうございます! 今日の初日をずっと楽しみにしていました!』
    「あれ、しっかりしたご挨拶ね。それなら私も! 本日は、ご来場ありがとうございます…って、なんかやっぱり堅苦しいね(笑)智子ちゃん…靖子ちゃん、来てくれてありがとう。先生とっても嬉しいわよ」

    少し遅れて智子と靖子の母親が二人並んでやって来た。
    『千暁先生、おめでとうございます』
    「あっ、智子ちゃんのお母さん…靖子ちゃんのお母さん。ご無沙汰しています」
    『おめでとうございます。もぉ~智子がどうしても千暁先生の個展に行く!しかも初日に!って、きかなかったんですよ』
    「そうですかぁ。ありがとうございます。今日は、ゆっくり観て行ってくださいね」
    『はい。私も楽しみにして来たんですよ。ゆっくり拝見させていただきますね』

    そんな挨拶を皮切りに、個展には初日から多くの客が千暁の作品を観に訪れた。
    それは、プロモーションをしっかり行った甲斐あってのことだった。

  • #60

    六輔 (火曜日, 23 4月 2019 21:14)


    個展では、多くの客が千暁に作品の説明を求めてきた。
    ただ、そのほとんどは
    「この絵にどうしてこのタイトルを付けたんですか?」
    「この部分はどうしてこの色になさったんですか?」
    といった質問や、作品を自分なりに評価して褒めるような会話をする者がほとんどだった。
    だが・・・

    それは、個展の最終日のことだった。
    歳の頃なら70歳を少し超えたぐらいの白髪でスーツ姿の男性が千暁に声をかけてきた。
    「すみません・・・」
    『あっ、はい』
    「ひとつお尋ねしたいことがあるのですが…よろしいですか?」
    『はい、どんなことでしょうか?』
    「あなたはこの絵を観てどう思われますか?」
    『えっ?・・・』

    それは千暁にとって初めての経験だった。
    自分が描いた絵をどう思うか?と、そんなズバリ尋ねられたことなど一度もなかったからだ。
    それでも千暁は、自分が描いた絵であるということを抜きにして第三者の目で冷静に評価し、その男性に答えを丁寧に返した。
    千暁の答えをうなずきながら聞いていたその男性は、ゆっくりと歩いてその隣に展示されてある作品の前に立ってこう質問をしてきた。
    「この絵は、公募展で受賞した作品とは違いますか?」
    『えっ?・・・あっ、はい』
    「やはりそうでしたか。少し絵に興味があるものですから・・・素敵な作品ですねぇ。公募展に出品するにあたって、何か特別な描き方をしたのですか?」
    『えっ?・・・特別な描き方?ですか?』

  • #61

    六輔 (水曜日, 24 4月 2019 22:11)


    一歩間違えれば、とても失礼な質問になりそうなものであったが、その男性の尋ね方はとても丁寧で、真にそのことを千暁から聞きたいと思っていることが伺えた。
    千暁は丁寧にこう答えた。
    『特別な思いというのが、どういうことを指しているのか分かりませんが・・・公募展で入選するためには、入選するための「戦略」も必要だと言われています。絵画に求められるもの・・・それは完成度や技術力、その他にもオリジナリティであったり。そして公募展においては、完成度の高い作品よりもオリジナリティを強く感じられる作品の方が評価されやすいと聞きます。そう聞きますが・・・私は、私が描きたい絵を私が描ける範囲で私なりに描いて応募させて頂きました』
    「ほぉ~ なるほどぉ。では、この作品は公募展に出品するために描いた絵ではないということなんですね?」
    『はい』
    「審査員はどう観るだろうか?と、そう考えたりはしなかったのですか?」
    『はい。確かにこういった個展でじっくりと観ていただく場合と、公募展のように多くの作品の中の一つとして観ていただく場合とでは、時に評価が異なるということも分かっています。それは審査の時間的な制約などがあってのことでしょうから、仕方のないことだと思っています。ですが・・・公募展に出品される、されないは、絵にとっては全く関係のないことですから』
    「絵にとっては? なるほどぉ、そういうお考えで・・・丁寧に答えていただき、ありがとうございました」
    と、千暁の絵に対する思いを聞いたその男性は、スーツの内ポケットにそっと手を入れ、取り出した名刺を手渡して柔らかな声でこう言った。
    「私は、こういう者です」と。

  • #62

    六輔 (木曜日, 25 4月 2019 20:07)


    渡された名刺を見た千暁は、そこに記してあった名前に、驚きのあまり言葉を正確に発することが出来なかった。
    『えっ・・・わ、わたし・・・た、た、大変生意気なことを申し上げて・・・』
    「そんなことありませんでしたよ、天方千暁さん。そのご様子は、私の事を知っていただいていたのですかね?」
    『も、もちろんです。ただ、ちゃんとお顔を存じ上げずにいたので・・・大変失礼な振る舞いをしてしまい、申し訳ありませんでした』
    「どうして私に謝る必要がありますか? 私も天方さんと同じ一人の絵描きですよ。ただ、あまり写真に撮られることを好まない偏屈者ですけどね(笑)」
    『ですけど・・・』

    その男性は、名の知れた画家で、日本で一番大きな公募展の審査委員長を長年務めてきた男だった。
    そう、千暁の作品を公募展で受賞作品に選んだまさにその当事者だったのである。
    『私のような者の個展にお越しいただけるなんて・・・本当に恐縮です。ありがとうございます』
    「私は、公募展でこの絵を一目見た瞬間に好きになりましてねぇ。とっても優しい気持ちにさせてくれた絵でした」
    『先生・・・ありがとうございます』
    「おやおや、私はあなたの先生ではありませんよ! ちゃんと九東唯誠(クトウ・ユイマ)という名前がありますから…その先生という呼び方は辞めてくださいね(笑)」
    『いやっ、でも・・・絵画の世界では、第一人者の九東先生ですから』
    「おやおや、それは困りましたね(笑)」
    『さっきは、分からなかったとはいえ、大変生意気なことを申し上げて、申し訳ありませんでした』
    「本当に謝る必要などありませんよ。あなたに会えて、あなたの絵に対する思いを聞くことができて本当に良かったと思っているのですから」
    『ですが・・・』
    「おやっ? ということは・・・もし、私が先に名刺を渡していたら、違った答えを聞かされていたのですかねぇ・・・」
    「えっ?そ、それは・・・それはありません。私が一番に大切にしている絵を侮辱することになってしまいますから。先に名刺を頂戴していたとしても、私は私の考えをお話しさせていただいたと思います」
    『そうですか、それは良かった』

  • #63

    六輔 (金曜日, 26 4月 2019 21:17)


    九東は、一目見て好きになった「公募展の受賞作品」と向き合い、目を細め何度もうなずいてこう言った。
    「本当に素敵な作品です」
    隣に立つ千暁は、あからさまに恐縮した様子で『ありがとうございます…九東先生』と応えるのが精一杯だった。
    と、九東は卒然とこんなことを口にしたのだった。
    「天方さん、もしこの絵を私に譲っていただけるというなら、う~ん・・・500・・・いやっ、1,000万円をお支払いさせていただきますが…」
    『・・・えっ?』

    無名の絵描きが描いた絵に、1,000万円という高額なお金を払ってでも譲って欲しいという九東の話は、天と地がひっくり返るような話だった。
    何故なら、日本では、現存する名の知れた有名な画家の絵であっても500万円という金額で取引されるようなことは滅多には無く、さらには、影響力の強い九東が高く評価した絵を描いた画家の絵は、その全てにそれ相応の値がつくようになるからだ。
    ようは、絵画の第一人者である九東が、計り知れない千暁の才能に惚れ込んだということなのだ。

    もともと千暁は、生計を立てるために絵を描いているのではなかった。
    それであるがため、自分が「画家」であるという意識も無く、今回の個展においても、開催費用を捻出するためにと、一部の作品に高いものでも5万円ほどの値を付けて展示していただけだった。

    5万円という値段をどう思うかは人それぞれだろう。
    材料費と額縁に3万円かかっていたとすると、残り2万円がいわゆる人件費だ。
    ひとつの作品を丁寧に仕上げる千暁が、その絵を完成させるまでに絵画教室の仕事の合間を縫ってほぼ毎日2時間、2か月間をかけていたとしよう。
    それを時給に計算してもらえれば、その額がどういうものか分かるはずだ。
    厚生労働省が示すその年の東京の最低賃金が時給985円であったときに、千暁が絵を描いたための報酬として得る金額は時給163円だ。

    昔は、画家も画商もなんの工夫もなく食べていけた時代だった。
    だが時代は変って今は、絵を簡単に買ってもらえる時代ではなくなった。
    絵画というものは基本的に贅沢品で、残念ながら生活必需品ではない。
    生活必需品ではない贅沢品を買い求める人は、そう多くいる訳ではなく、特に絵画の売買にあっては、それを買ってくれる顧客数がとても少ない分野なのだ。
    個展を開いても、そう簡単に絵が売れる訳ではない。

    絵画の値段の付けられ方は、例えばゴッホの「ひまわり」が100億だ!200億だ!は別として、大きさや使用する画材、もちろん画家の知名度などによっても異なってくる。

    これまでごく普通の相場で売買されていた画家の絵がそこにあったとしよう。
    その絵を観た九東がひとたび高い評価を述べた瞬間に、その絵だけではなく、その画家が描いた絵のほとんどが10倍にも100倍にも跳ね上がるのだ。
    それを知る多くの画家たちは、どうにか九東に認められようとやっきになって九東に近づいてくる。
    当然、九東がそう簡単に絵を高く評価することはないのだが。

  • #64

    六輔 (土曜日, 27 4月 2019 21:15)


    絵画の公募展には、審査基準というものがあるのだが、その基準が如何なるものなのか、応募する者は誰も知るところではないのだ。
    何故なら、応募する者がどんな基準で自分の作品が審査されるのかと調べたくても、公募展の募集要項に審査基準などは書かれていないからだ。
    それでも全国レベルの公募展になると「オリジナリティ」が重要になってくることが多く、そのことを誰もが承知しているかのように、「オリジナリティ」に溢れた作品の多くが応募されてくる。
    だが・・・
    千暁の作品に限ってはそうではなかった。
    何の変哲もない、ごくごくありふれた風景画だった。

    公募展の審査会の日、たくさんの作品が並べられた会場に10人の審査員が入って審査が始まった。
    九東を先頭に審査員たちは、時折手に持った資料に目を通しながら、次から次へと作品を評価していった。

    そしてそれは、出展作品の3分の2ほどの審査が終えたときだった。
    それまで歩みを止めて作品を見入ることがなかった九東が、ある作品の前まで行って、そこで「ほぉ~」と言って足を止めた。
    作品と正対し、九東が食い入るように観ていたのは千暁の作品だった。

    他の審査員たちも九東に合わせるように立ち止まり千暁の作品を見ていたが、立ち止まったままで動こうとしない九東にしびれを切らした一人の審査員がこう言った。
    『丁寧に描かれていますが、ありふれた風景画ですね。それに九東先生…この絵を描いた天方千暁さんという方は、資料を見る限り、他の公募展でも賞を受けた経験も無いようですよ』
    九東は「・・・そうですか」と応えたが、それでも千暁の作品の前から離れようとはしなかった。
    今までに感じたことのない感情が、九東の歩みの再開を許さなかったのだった。

  • #65

    六輔 (日曜日, 28 4月 2019 06:12)


    最終審査の時になった。
    当然、審査委員長である九東自ら審査基準を無視することは出来なかった。
    だが九東は、千暁の絵をもう一度ゆっくり観て欲しいと懇願し、他の審査員達の了承を得たえうで選出することを決めた。
    ただ、審査基準を守る意味で高い位置での賞を与える訳にはいかないと、九東は千暁の絵を「入選」としたのだった。

    九東は、自分の意見を通してまで入選させた絵を描いた天方千暁という無名の絵描きに会ってみたいと思った。
    千暁がどんな女性で、どんな絵を描く絵描きなのか知りたいと思ったからだ。
    「私の胸をあそこまで熱くさせた絵を描ける人であるなら、きっと他の作品も素晴らしいに違いない」と。
    九東のその思いは、3年掛かって実現することになった。
    九東のもとへ千暁が個展を開くという情報が届いたからだ。
    個展があることを知った九東は、あえて個展の最終日に行くことを決めた。
    それは、ある思いがあったからだった。
    そう、ある思いが。

    画家の個展には、数え切れないほど足を運んできた九東だったが、千暁の個展に向かう途中、初めてと言っていいほどの胸の高鳴りを覚えていた。
    千暁の絵を初めて観たときの感動を思い出していたからだ。

    会場に着いて直ぐに「あの女性が天方千暁さんだね・・・とても素敵な女性だ」と、少しの間、遠目に千暁の立ち振る舞いを観ていた。
    小学生たちが千暁のそばから離れず「千暁先生!千暁先生!」と言っている様子に、千暁が絵画教室を開き小学生たちを教えているのだろうと容易に察しがついた。
    九東は、ごく普通の客を装って会場の中へと入っていった。

  • #66

    六輔 (月曜日, 29 4月 2019 20:28)


    会場に入って直ぐに目に飛び込んで来た千暁の絵に九東はこうつぶやいた。
    「思っていた通りだ」と。
    「回顧展」の形式で制作時代順に設けられたテーマとそこに展示された作品に、九東は何度もうなずきながら千暁の絵を観ていった。

    会場の奥まで進んで行き、作品もあと数点になった。
    この時の九東は、全ての作品を観終えてから千暁に声をかけようと決めていた。
    「あ、あそこに飾られてありますね」と、3年ぶりに再会する「公募展の受賞作品」が展示してある場所を確認し、早く観たいと逸る気持ちを抑えて残り僅かになった作品を観ていた。
    と、ちょうど千暁がそばに来て、体が空いていることに気付いた九東は、よい機会だと予定を変えて千暁に声をかけた。
    「すみません・・・ひとつお尋ねしたいことがあるのですが、よろしいですか?・・・あなたはこの絵を観てどう思います?」
    その答えにうなずきながら、待ちわびていた「公募展の受賞作品」の前に千暁と一緒に立った。
    自分の感情をあえて押し殺して、九東は千暁に尋ねた。
    「この絵は、公募展で受賞した作品とは違いますか?」
    千暁が、公募展に出品される、されないは、絵にとっては全く関係のないことだと言ったことに深く感銘を受けた九東は、そこで名刺を渡して身を明かした。
    千暁の絵に対する思いを知り、再び「公募展の受賞作品」を観ていると、公募展で初めてその絵を観たとき以上の深い感情が沸き上がってきた。
    「素晴らしい・・・作者の思いがこの絵からは感じ取れる。それが私には伝わってくる」
    と、瞬きをすることも惜しむように観ていた九東は、今度は審査をした時とは違った感情に襲われたのだった。
    「この絵を自分のそばに置いて毎日観ていたい」と。
    その強い思いを九東は千暁の前で口にしたのだった。
    「天方さん、もしこの絵を譲っていただけるというなら・・・1,000万円をお支払いさせていただきますが…」と。

  • #67

    六輔 (火曜日, 30 4月 2019 19:55)


    九東唯誠(クトウ・ユイマ)という画家は、千暁にとって雲の上の存在だった。
    そんな日本を代表する画家から自分の描いた絵を高く評価され、しかも自分の絵を信じられない額で買い求めたいと言われたことに、千暁の思考回路は停止していた。

    そんな千暁に気付いた九東は、あえて急いで返事を求めようとはしなかった。
    無理もない話だと思えたからだ。
    自分のような画家が、無名の絵描きが開いた小さな個展会場に突然現れ、しかもいきなり想像もつかないような金額で絵を譲ってほしいと言ったとなれば、大抵の人は何をどう考えてどう処理すればよいのか分からなくなるだろう。
    そう考えた九東は、千暁に対して絵を譲ってくれるかの返事を求めようとはせず、隣に展示してある最後の作品の方に向かってゆっくりと歩きだした。

    千暁は、頭の中が真っ白になりながらも、それでもどうにか九東の言葉の真意を探そうと下を向いて考えていた。
    顔を上げると、そこに九東がいないことが分かった千暁は、隣の作品の前に立つ九東を見つけそこに向かった。
    千暁が九東の背後にそっと立つと、そこにはまるで不思議なエネルギー派を体に浴びせられて身動きを止められたかのように、微動だにせず、瞬きさえもせずに作品にくぎ付けにされた九東がいた。

    九東は、「こ、これは・・・」という言葉を小声で発し、そっと背広のポケットに手を差し入れ、ハンカチを取り出し目頭を押さえ、今にも零れ落ちそうになった涙を拭っていた。

  • #68

    六輔 (水曜日, 01 5月 2019 19:42)


    しばらく絵に見入っていた九東が、ようやく口を開いた。
    「天方さん…」
    『あっ、はい』
    「この絵を観ていると、私は・・・私は自分の故郷に帰りたくなりました」
    『九東先生の故郷にですか?』
    「はい、そうです。この絵は、あなたの画家としての全ての思いが集約されているのだと、私はそう感じます」

    最後に展示されてあった絵は、千暁が生まれ育った街の風景を想い描いたものであることなど、九東は知る由も無かった。
    それでもこの時の九東は、自分が生まれ育った故郷を思い出して目頭を熱くしていたのだった。

    「天方さん、私はこの絵を観ていると、老夫婦が仲睦まじく暮らしているところや、ここで皆が助け合いながら生きているところが思い浮かばれてきて、小さな子供達の笑い声までも聞こえてきます。昔の旧友のことも想い出されてきて思わず・・・私は一枚の風景画でこんな思いになったことなど一度もありません。とても素晴らしい作品です」
    『私は、自分の生まれ育った故郷が大好きなんです。この絵は、私が55歳のときに高校時代の同窓会に初めて参加して・・・同窓会から帰ってきて直ぐに描き始めた絵なんです・・・高校時代の仲間達を思いながら』
    「そういうことなんですねぇ・・・この絵のタイトルが“仲間”と付けられている理由は」
    『はい』
    「あなたは素晴らしい画家だ。こんなに素晴らしい絵と出会ったのは久しぶりです。さっきは公募展の受賞作品を譲って頂けるならと言いましたが・・・この絵は・・・先ほどの金額の2倍を払わせていただいてでも是非譲っていただきたくなりました」
    『えっ?・・・九東先生にそう言っていただけて、この絵、“仲間”は喜んでいると思います。ですが・・・申し訳ございません。この絵だけには、ずっと私のそばにいて欲しいと思っているんです』
    「この絵は喜んでる?・・・もぅ、あなたの話すことは、私には信じられないことばかりだ!」
    『えっ?』
    「いやっ、私が絵を高く評価させていただいたときに、絵を描いた本人ではなく、この絵…“仲間”という名のこの絵が喜んでいると、そう返してきた人など、一人もいませんでしたから。あなたは本当に心から絵を愛し、“仲間”を大切にしたいと思われているんですね」
    「はい。遠く離れて暮らす仲間達ですけど、何年間も会うことが無かった仲間達ですけど・・・仲間達は私を大切に思ってくれていました。その思いを絵に込めて・・・“仲間”は私にとってかけがえのない存在です」
    そう、笑みを浮かべて答えた千暁がそこにいた。

  • #69

    六輔 (木曜日, 02 5月 2019 20:08)


    九東は、千暁に聞いて確かめたくなった。

    「天方さん・・・一つ尋ねたいことがあるのですが…」
    『はい、どのようなことですか?』
    「先ほど話を聞かせていただいた公募展の受賞作品に、どうして・・・あなたは何故、公募展で受賞した作品であることを掲示しないのですか?」
    『えっ? ・・・あっ!』
    千暁は、九東が聞いてきた理由を直ぐに理解し、『申し訳ございません』と頭を深く下げ、自分の絵を高く評価してくれた当事者に対して心の底から詫びた。
    この後どれだけのことを非難されるのかと、うつむく千暁に九東はこう言った。
    「あっ、天方さん、誤解なさらないでください。私は、受賞作品であることを掲示していないことを決して咎めているのではないんです。受賞したことを誇らしげに、しかも過剰な掲示をする画家もいるのに、天方さんはそれをなさっていない。どうしてなのかなと思いましてね…」
    『理由ですか?・・・それは・・・あの絵だけを特別扱いして観てほしいとは思わなかったからです。私の絵には全て命が宿っていると思っています。作品は私の子供であり…いえっ、私自身です。同じ人が描いた絵の中でも傑作と呼ばれ優れた作品として特別な評価をされる絵もあれば、そうではない絵もあることはもちろん理解はしています。ですが・・・ここにある絵は、どの作品も同じ量の愛情を注いで描いた絵なんです。だからどの作品もみな仲間同士なんです。その命に違いはありません。「私だけ特別よ!」と、一つの作品だけに別の命を与えてしまえば、あの作品だけ仲間では無くなってしまうような気がするんです。もし、全部の作品が何かの賞をいただいていたとしたら、そう掲示をさせていただいていたかもしれませんけど・・・もちろん、受賞したことを掲示する画家の方達のことを否定するような気持ちは一切ありませんし、むしろ当然のことだと思います。逆にこうして私のように掲示をしないことは、賞を与えてくれた方々に対して失礼なことなのだと思います。私の画家としての知名度が上がって行かないことも分かっています。ですが・・・ここは私の個展会場です。ここにある全ての絵に同じ思いを持って展示をさせていただきました。それなので・・・でも・・・大変失礼なことをしてしまい、本当に申し訳ありませんでした、九東先生』

    深々と頭を下げる千暁に九東は柔らかな表情で言った。
    「頭をあげてください、天方さん。とても素敵な話を聞かせていただきました」と。

  • #70

    六輔 (金曜日, 03 5月 2019 21:09)


    申し訳なさそうにようやく頭をあげた千暁に、九東は丁寧に話をしていった。

    「天方さん・・・私は、あなたには感心させられることばかりですよ。あなたは本当に立派な人だ」
    『えっ?そ、そんな立派だなんて、とんでもありません。今になって冷静になって考えれば、九東先生に選んでいただいた恩を仇で返すようなことをしてしまったのだと・・・本当に申し訳ありませんでした』
    「天方さん・・・ですから謝るのはもう辞めてください。あなたは本当に欲の無い人だ。私はあなたのような画家と出会ったことがありません。幾千、幾万の絵を観て来た私が、公募展であなたの絵と出会って今までに感じたことのないような喜びを感じたんです。きっと、幾千、幾万の絵を観て来たからこそ、あの絵が他の作品とは違った魅力があることを感じたんだと思います。そして、今日、あなたの個展に来させていただいて、どんな有名な画家の個展であっても感じたことが無かった“何か”を感じていたんです。それが何なのかと知りたくて、話しを伺わせていただきました。あなたの絵に対する思いを伺って、少しだけ分かったような気がします。そして、私にとどめを刺したのがこの“仲間”です。あなたの絵がこれほどまでに私のことをひき付けたのは、全ては、あなた自身の人としての魅力だ。あなたの魅力が乗り移った作品だからこそ、私は今までに感じたことのないような喜びを感じることが出来たんですね。3年ぶりに公募展の受賞作品と再会ができて、“仲間”という素晴らしい作品、そして天方千暁という絵を心から愛する一人の女性に出会えたことに、心から感謝しています」

    『・・・九東先生』

  • #71

    六輔 (土曜日, 04 5月 2019 21:13)


    あまりにも驚きに何をどう返事すればいいのか全く分からなくなり、言葉を見つけることが出来ないでいる千暁に、九東はゆっくりと話を続けた。

    「私は、長年、公募展の審査委員長を務めて来ました。さらにはそれなりの立場で多くの絵に関わってもきました。目の前にある絵が、誰が描いたものであるのかは全く関係なく審査をしてきたつもりです。ですが・・・誰が描いた絵なのか、どこの賞をいただいた作品なのか、それを聞かされてしまうと、純粋に絵だけを観ているつもりでも知らず知らずのうちに頭のどこかで“誰の絵”“どこの受賞作品”として観てしまっていたこともあったのかもしれません。もちろん誰が描いた絵であるのかということは、こういった世界では重要なことになってしまいますけど。もし私が“サルバトール・ムンディ”という絵を『レオナルド・ダ・ヴィンチ』と全く同じ出来ばえに描いたとしましょう。それでも日本のちっぽけな画家の描いた絵では495億円という値は付かないんですよ。全く同じ出来ばえに描けたとしてもね。もちろん描かれた時代の違いはあるにしても。・・・それが絵画の評価のされ方…それも事実なんですよね」
    『そんな、九東先生がちっぽけな画家だなんて・・・偉大な先生です。先生のことはずっと尊敬してきました。今日、こうしてお話しをさせていただいていることが、私には夢のようです』
    「そう言っていただけるのは有難いですが・・・少し画家の話をさせていただいてもよろしいですか?」
    『はい』
    「例えば・・・私が審査委員長を務める公募展は、画家の登竜門として多くの絵描きたちが賞の獲得を目指して応募してきます。そのことはもちろんご存知ですよね?」
    『はい』
    「そこで受賞した絵描きたちは、受賞者という勲章をつけ、知名度を上げて一人の画家として世に出て行きます。私は、そのことは大変良いことだと思っているのですよ。どうしてだか分かりますか?」
    『・・・よく、分かりません』
    「そうでしょうね、あなたにはそういう野心が一切無いようですから」
    『野心?・・・』
    「いま、私は野心という言葉を使いましたが、私は絵描きたちの「有名になりたい」という願いが叶えられたことを良いことだと言ったのではありません。では何故、大変良いことだと言ったのか・・・それは、高い評価を得た画家が世に出て行くことによって、その画家が描いた絵が、絵を愛する人達の目に触れる機会が増えるからなんですよ。いい絵はたくさんあります。そしてこのことは良い悪いは別にして、知名度が上がることによって絵の価値も上がっていきます。画家たちはさらに努力して良い絵を描いていくことでしょう。さらに知名度を上げようとして。いま私が残念に思うことは、天方千暁という一人の絵描きが、これだけ素晴らしい絵を描いていながら、世間から正当な評価を得ることなく多くの絵を愛する人達の目に触れる機会を失っていて、埋もれてしまっていることが残念でならないんです。それ相当の価値を付けられたうえで、絵を愛する人の元で大切にされることも絵にとって幸せなことだと思いませんか? あなたが言ったように、この絵たちには命があるというのなら・・・違いますか? 天方さん」

  • #72

    六輔 (日曜日, 05 5月 2019 21:10)


    少しの間考えていた千暁だったが、笑顔でこう答えた。
    『私の描いた絵たちは、皆、絵を大切に観賞していただける人のところで幸せに暮らしています。あっ、今言った「観賞」は、もちろん鑑定の「鑑」の方の「鑑賞」ではありません。観賞していただける人なんて言い方をしてしまうと紛らわしくなってしまいますよね』
    「なるほどぉ、観る方の『観賞』ですかぁ」
    『はい』
    「私は、そんなふうに言われた方と初めて出会いました」
    『えっ?』
    「例えば・・・自然に咲いている草花を眺めて楽しむ程度であれば、あなたの言った「観賞」を使いますが、そこに人の手が加わって盆栽や生け花、フラワーアレンジメントなどになって芸術性が帯びてくると鑑定の「鑑」の方の「鑑賞」を使うようになります。天方さんはそれを承知で観る方の『観賞』と言ったのですね?」
    『はい。鑑定の「鑑」の字には、「これはどっちだろう」「良いものだろうか?悪いものだろうか?」と絵の価値を見分けようとする意味が含まれてくると思うんです。私の描いた絵を観ていただく人たちには、そう言った見分けなど抜きにして、ただ純粋に絵の持つ魅力を感じとっていただき、心を和ませ、優しい気持ちになっていただけたらと、そう思っていますので』

  • #73

    六輔 (月曜日, 06 5月 2019 20:00)


    九東は、右手で顎を幾度もさすりながらうなずいてこう言った。

    「なるほどぉ、あなたらしい発想だ。それでも、この絵は1,000万円の価値があるんだよ!と言われて観た方が、それを観ることが出来た感動も大きくなると思いませんか?」
    『それは・・・否定はしません。人それぞれだと思いますから。一枚の絵を観て特に何も感じなかった人が、その絵の値段を聞いた途端に、感動に変わることも時にはあるでしょうから。例えば、ピカソの絵は「わけが分からない」、「子供にも描けそう」と思われる方も多いですよね。少し前には、「ピカソより普通にラッセンが好き~」っていうお笑い芸人のネタもありましたけど。確かに誰が見ても綺麗で分かりやすいラッセンのイルカの絵に比べて、ピカソを普通に好きになれる要素を見つけるのは難しいと思います。それでもいざ“この絵はピカソの絵ですよ”と聞かされれば・・・ちょっと例えが極端過ぎましたね(笑)』

    「まぁ、確かにピカソの場合は特別ですかね。もともと数多く名画を描いていたピカソは、新しい絵の描き方を生み出した訳ですから。自然の立体的な風景を複数の視点から見た幾何学的な形で捉えて平面にそのまま表す画法・・・例えば、サイコロのある1つの面を見るときにはその反対側の面を見ることは出来ないのに、ピカソは全ての面を同時に描いて、見る側の視点を超えた物や人の本質に迫ろうとしたんです。誰もが描くような遠近法に縛られた描き方を壊して、全く新しい絵をね。 ピカソが活躍した時代は、ちょうどオークション市場が活性化してアートが“ビジネス”として見られるようになった時代でした。そこに新しい絵画様式を生み出したピカソが現れてくれたのは、まさに市場にとって待望の存在となった訳ですよ。多くの投資家やコレクター達に次々と作品が買われて・・・ある意味バブルともいえる状態で、ピカソの絵の値段は跳ね上がっていったんですよね・・・って、すっかりピカソの絵の話になってしまいましたね(笑)」

  • #74

    六輔 (火曜日, 07 5月 2019)


    千暁は、こう続けた。
    『先ほど九東先生は、この“仲間”を初めてご覧になっていただいたときに、老夫婦が仲睦まじく暮らしているところや、皆が助け合いながら生きているところ・・・旧友のことも想い出されてきて…とおっしゃっていただきました。まさにこの絵に私が込めた思いをそのままに感じ取って下さいました。こんな無名の私のような絵描きが描いた絵であっても、高価な値段がつけられていなくても・・・九東先生はこの“仲間”を観て感動してくれました』

    「確かに、あなたの言う通りです」

    『私は、作品の価格は作品の価値とイコールではないと思っています。もちろん素晴らしい名画を残した画家の絵が高価で売買されることを否定する訳ではありません。ありませんが・・・私は、素晴らしい美術品が、人の物欲によって力任せに値段が吊り上げられ、また、あわよくば、その絵を描いた者の没後に絵の価値が跳ね上がることを期待してコレクトしたり・・・結果、観賞用ではなく一歩間違えれば厳重に梱包され、暗い部屋に保存されてしまうような、そんなことを絵たちは望んでいないと思うんです。たとえ、由緒ある美術館で厳重な警備のもとに保管、展示されなくても、そばに置いて観たいという人に観てもらいたい。それが絵たちの本心なのだと思うんです』

  • #75

    六輔 (水曜日, 08 5月 2019 21:11)


    うなずく九東に千暁はこう尋ねた。
    『九東先生が“仲間”に信じられないような金額をおっしゃったのは、そばに置いて毎日「観賞」していたいという気持ちの大きさを私に伝えるために…そのためにおっしゃっていただいたんですよね?』

    「そうです。私は“仲間”をそばにおいてずっと見ていたい! それほどまでに素晴らしい作品だと思ったからです。 天方さん・・・私は名画と呼ばれる作品を沢山観て来ました。それらの絵の価格と照らし合わせてさっき言った額をつけさせていただいたんです。そこに他意はありません」

    『九東先生・・・そのように言っていただけただけで、胸がいっぱいです。ですが、私のような何の経歴もない絵描きが描いた絵には不釣り合いな額だと思います。公募展で受賞させていただいた絵も同じです。私の言っていることは・・・先生に対して大変失礼なことを申し上げているのですよね。先生のおっしゃったことを否定するような生意気なことを申し上げて、申し訳ございません』

    「天方さん・・・天方さんの気持ちはよく分かりました。あなたは、私のことを偉大な画家であると…尊敬していると言ってくれました。その言葉に偽りがないのであれば、これだけは信じて下さい。絵の値段については、今は私と天方さんの考え方が異なるのは仕方のないことです。ですが、公募展の受賞作品も、この“仲間”という絵も本当に素晴らしい絵です。正当な評価を得ていずれ世に出て行って欲しいと、私は一人の画家としてそう願ってやみません。どうか、私の言葉を信じて下さい」

    『九東先生・・・本当にありがとうございます。ここにある絵たちは皆、この個展が終わったら、私の絵を欲しがってくれているお友達のところに嫁いでいくことになっています。お友達のところできっと大切に観賞してもらえるはずです』
    「えっ? 嫁いでいく?」

  • #76

    六輔 (木曜日, 09 5月 2019 20:20)


    千暁のその言葉に、九東は必死に抑えていた気持ちを再燃させてしまった。
    「えっ? 嫁いでいく? ここにある絵が?“仲間”はさっきご自身のそばに置いておきたいとおっしゃっていましたが・・・受賞した絵は?まさか受賞した絵も誰かに譲ってしまうというのですか?私なら本当に…」
    千暁は、笑顔でこう答えた。
    『はい。実は公募展で受賞させていただいた絵は、もともと私の親友がとても気に入ってくれていた絵だったんです。親友に背中を押されて公募展への出品を決めた訳ですが、そこで九東先生の目に留めていただいて、賞をいただくことができました。ちょうどその頃親友は、初孫が1歳になった頃で、新米ばぁばとして頑張っていました。時々、孫との接し方に悩みながら。 そんな親友は、公募展に出展した絵が入賞したことを知り、もちろんこう言いました。「そんな作品もらえないからね!」って。でも、「応募するときの約束だったでしょ!」って・・・そういうことで、個展が終わったら親友のところに嫁いでいくことになっているんです』

    「あなたという人は、受賞作品までご友人に・・・分かりました。友達を大切にするあなただからこそ、ここまで素敵な絵を描けるんですね。私は、人の宝物を力に任せて奪い取るような男ではありません。どうぞこれからもお友達を大切にされて、素晴らしい絵を描き続けてくださいね」

    「はい、九東先生」と笑顔で応える千暁がそこにいた。

  • #77

    六輔 (金曜日, 10 5月 2019 22:04)


    九東は柔らかな表情でこう言った。
    「天方さん・・・もう少しだけお付き合いいただけますか?」
    『はい』
    二人は“仲間”の前を離れ、ゆっくりと歩き出した。
    九東は、会場にまだたくさん残っている小学生を見て、
    「天方さんは、教室を開いているのですね? たくさんの小学生があなたを慕って来ているようだ」
    『はい。小学生に絵を描くことの楽しさを教えています』
    「そうですかぁ。あなたのような素晴らしい心の澄んだ先生に学んだ生徒さん達は幸せだ」
    『私は、そんなふうに考えたことなど一度もありませんでしたけど…』
    「間違いなく幸せな子たちですよ。絵を描く技術を学んでいるだけではなく、人として大切なことをあなたから吸収している・・・私から言わせてもらえば、みんな金の卵ですよ」
    『金の卵?・・・そうですねぇ、先生のおっしゃる通りです』

    九東は、ある作品の前まで行くとそこで歩みを止めこう尋ねた。
    「天方さん・・・ぶしつけなことを聞いてもいいですかねぇ…」
    『あ、はい。なんなりとどうぞ』
    「この絵について尋ねますけど・・・この絵に欠点をあげるとしたらどこですか?」
    『えっ?…今度は自分が描いた絵の欠点を述べよということですね?(笑)』
    「確かにそうだね。答えにくかったら答えなくてもいいですよ」
    『いえっ、九東先生はこの絵の欠点をしっかり見抜いていらっしゃるんですよね? 先生が気付かれた通りだと思います。この絵は、男性の力強さみたいなものがしっかりと描かれていますが、背景の描き方に迷いがあったのだと思います。背景を描くことに決して手を抜いたとは思いませんが・・・人物と背景との描写のバランスが少しちぐはぐになっていると思います。それが逆に良いと評価されることもあるのでしょうが、この絵に関しては・・・きっとこの絵を描いた人間は、これで妥協せざるを得なかったのでしょうね』

    想像していた通りの答えが返ってきたことに九東は優しい笑みを浮かべてこう言った。
    「天方さん・・・ここに描かれている人は、あなたにとってとても大切な方なのではありませんか?」
    『えっ?・・・』

  • #78

    六輔 (土曜日, 11 5月 2019 21:00)


    九東の言葉に驚き、言葉に詰まった千暁だったが、九東が何故そう感じたのか知りたいと思った。

    『どうしてここに描かれた人物が、私の大切な人だとお感じになられたのですか? この絵にモデルはいないんです。ただ、男性の力強さを描きたくて描いた作品なのですが・・・』
    九東はさらに優しい表情に変えてこう答えた。
    「天方さん・・・私は、先に天方さんにお詫びしなければなりませんね。自分で描いた絵の欠点を述べよなどと、意地悪な尋ね方をしてしまって…」
    『いやっ、決して意地悪な質問などとは思いませんでした。私自身、完全に納得のいく仕上げが出来なかったのは事実でしたので』

    九東は、目を細め、人はこれ以上の表情をつくることが出来ないと言えるぐらいに穏やかな表情で絵に視線を送りながらこう話した。
    「天方さん・・・これから私が話すことは、この絵を見て私が勝手に感じたことなので、気になさらずに聞いてくださいね。本当に、感じたそのままのことを話しますので」
    千暁はゆっくりとうなずき『はい』と答えた。
    「私は、この絵にだけは他の作品には無い“違い”を感じたんです。先ほど私は、その違いをあえて“欠点”という言い方で尋ねた訳ですが・・・決して欠点などでは無かったのですね。あなたの描く絵は、全てあなたの思いが込められていて、その全てが私には伝わってきました。ですが、この絵だけには“違い”を感じました。それは・・・もしかするとあなた自身も気付いていないというか、或いは知らず知らずのうちに“想い”を隠そうとしていたのか・・・」
    『えっ?・・・想い?』
    「あなたは、この絵の人物と背景との描写のバランスが少しちぐはぐになっていると、自分の絵を評価されました。絵に対する評価の為所がとてもしっかりしていることに感心させられました。ただ、あなたはその後にこうおっしゃった。『妥協せざるを得なかった』と。あなたの絵の全てに妥協した箇所などありません。全ての描写にあなたの思いが描かれています。それは、あなたが絵を仕上げるのに、決して妥協をするような方ではないからだと思います。それでもあなたは『妥協せざるを得なかった』とおっしゃった。そのことで、分かったんです。あぁ、やっぱりここに描かれている方は、天方さんにとってとても大切な人だったのだと」

  • #79

    六輔 (日曜日, 12 5月 2019 20:01)


    九東は話を続けた。

    「この男性は、年の頃なら天方さんと同い年ぐらいの方なのですかねぇ。あなたが描きたかったとおっしゃった通り、男性の力強さが描かれています。とても素敵な作品です」
    『ありがとうございます』
    「さて…ここからは、あくまでも私の勝手な想像で、絵を観た者が勝手に感じたことを話しますので、もし違っていたとしても笑って許して下さいね」
    『…はい』
    「あなたは、この絵にモデルはいないとおっしゃった。確かにこの男性に目の前でモデルになっていただき、それを観ながら描いた絵ではないことは直ぐに分かりました。あなたの心の目で描いた絵であるのだろうと。ただ・・・その心の目で見たものは、この男性の若い頃のお姿なのではないのかな? 自分が年を重ねて来た分だけ、同じように年をとったと想像して描かれたのかなと、そう勝手に想像してしまいました」
    『・・・えっ?』
    「この男性は、とても心の優しい人なのでしょうね。男性の力強さだけではなく、男性しか持ち合わせてはいない“優しさ”がにじみ出ています。そして何より・・・“愛”を感じます。この絵を描いた方は、男性の力強さを描きたいと描き進めていたのでしょうけど、途中で気付いたのでしょうね・・・“想い”に。それでもその“想い”を必死になってかき消そうと何度も何度も背景を描き直して・・・それを繰り返しているうちに、結果、人物と背景との描写のバランスがちぐはぐになってしまったのではないのかなと。あなたは、そのことを妥協したと表現されましたが・・・そうではないですよね? 表に出してはいけない想いだと自分で決めた結果がこの絵の背景に描かれていますよね。他の絵は全て思いを受け取って欲しいと描かれてあるのに、この絵の背景だけは・・・そのことが私がこの絵に感じたこの絵だけの“違い”です。ですが・・・私にはその“違い”がとても素敵に感じられました。とても深い“愛”であると」

    九東の話は、図星だった。

  • #80

    六輔 (月曜日, 13 5月 2019 20:09)


    千暁は、九東の絵から感じ取るその能力、感受性にただただ驚き、こう答えた。
    『九東先生・・・あらためて先生の絵から感じ取るそのお力に、私は驚くばかりです』
    「まぁ、それが私の仕事のひとつでもありますからね。天方さん・・・これだけはお伝えしておきますね。私が想像していた通り、あなたは私の質問に「妥協」という言葉を選んで使いましたね。おそらくそう思われているんだろうと思ったので、私はあえて欠点はどこだ?と、そんな意地悪な聞き方をしたんです」
    『先生・・・』
    「ですが、今、私が話した通り、欠点などではありません。ですから妥協したなどとはもう・・・天方さん、あなたはこの絵を愛されていますよね?」
    笑顔で尋ねた九東に千暁も笑顔で答えた。
    『はい、愛しています。昨日よりも今日の方がもっと愛しています』
    「そうですか、それは良かった」

    『九東先生・・・』
    「はい」
    『先生は、私に絵の評価についてたくさん尋ねて来ましたね』
    「そうですね」
    『絵を評価するということはとても難しいことなんですねぇ・・・今日、あらためてそう感じました』
    「天方さんは評価と言いましたが、私は、絵の良い悪いを点数にしているのではないんですよ」
    『えっ?』
    「絵を描いた人の絵に込めた思いを感じ取ってあげることなんです。人はそれを評価という言葉で表現しますが」
    『絵に込められた思いを感じ取ってあげること・・・そういうことなんですねぇ。とても勉強になります』
    「天方さんは、それが出来る人です」
    『えっ?と、とんでもございません。私など人の絵を評価…あっ、絵に込められた思いを感じ取ってあげることなど・・・九東先生が私の絵から感じ取っていただいたようなことは、私にはとても出来ません』

    と、九東は凛とした表情に変えてこう言った。

  • #81

    六輔 (火曜日, 14 5月 2019 20:23)


    「私は、公募展であなたの作品と出会って、あなたに会って話してみたいと思いました。私にそう思わせるほど、あなたの作品は私の胸を熱くしました。そのあなたが個展を開くと伺って・・・もちろん、今日私がここに来た目的は、あなたの作品を買い求めるためではありませんでした。ですが、あなたの絵を毎日観ていたいという衝動にかられてしまいまして、あのようなお話をさせていただいてしまいましたが・・・先程もお話をさせていただきましたが、私はあなたのような画家と出会ったことがありません。今日、あなたの個展に来させていただいて、どんな有名な画家の個展であっても感じたことが無かった何かが、それが・・・それがあなた自身の“人としての魅力”であることを知りました。あなたは私の質問に嫌な顔をひとつも見せずに、私と同じ感じ方の話を聞かせてくれました。 天方さん・・・実は、いま私は人探しをしています。そのこともあってあなたの個展に来させていただいたんです」
    『えっ?・・・人探し…ですか?』

    九東は、凛とした表情でこう続けた。
    「私は、ずっとあなたのような画家を探していました。天方千暁さん、私はあなたの絵を描く才能だけではなく、あなたの絵に対する思い、あなたの絵に対する他人の評価への考え方・・・全てに魅了されました。ぜひ、私と一緒に公募展の審査に携わっていただけないでしょうか・・・この通りです」
    そう言って九東は深々と頭を下げた。
    『はっ?・・・公募展の審査?・・・私が…ですか?』

    千暁は、この時初めて理解し心の中でこうつぶやいた。
    『私に公募展の審査員?それで様々な質問をしてきて、絵の評価を喋らせたのね・・九東先生は』と。
    千暁は、あまりの驚きに全ての言葉を失った。

  • #82

    六輔 (水曜日, 15 5月 2019 19:44)


    本業のボクシングの賞金だけでは生活していくことができず、高利貸しの取立人のバイトをしながら日銭を稼ぐという、その日暮らしの生活を送っていた三流ボクサーがいた。
    ボクサーの名は、ロッキー・バルボアだ。
    自堕落な生活を送っていたロッキーだったが、そんな彼にも生きがいがあった。
    それは、近所のペットショップで働く女性、エイドリアンの存在だった。
    ロッキーは、エイドリアンに恋心を抱き、毎日ペットショップへ足を運んでは話しかけていたが、内気で人見知りが激しいエイドリアンがロッキーに心を開くことはなかった。
    それでも、ロッキーとエイドリアンは不器用ながら徐々に距離を縮めてゆき、やがてお互いになくてはならない存在になっていった。
    そんなある日、建国200年祭のイベントとして開催される世界ヘビー級タイトルマッチで、世界チャンピオン、アポロの対戦相手がケガにより出場が出来なくなってしまった。
    イベント関係者は代役探しに奔走するが、そんな時アポロがこう提案したのである。
    「全くの無名選手と戦うというのはどうだ?」と。
    そう、無名選手にアメリカン・ドリームを体現させることで世間の話題を集め、自身の懐の深さを知らしめようという算段だった。
    アポロは、「イタリアの種馬」というユニークなニックネームを持つというだけの理由で、ロッキーを対戦相手に選んだ。
    当然、絶対的な世界チャンピオンとの実力の差が歴然としていることからロッキーはその申し出を断った。
    だが、人気獲得のためにアポロは半ば強引にロッキーを説得、試合の開催を決めた。
    そんなロッキーを支えたのがエイドリアンだった。
    「今の自分には人生の目的、愛、そして支えてくれる人たちがいる」と、エイドリアンに気づかされたロッキーは、今まで経験したこともないような過酷な特訓を始め、それに最後まで耐え抜いた。

  • #83

    六輔 (木曜日, 16 5月 2019 20:10)


    試合前日の夜、「絶対に勝てない」とそれまで見せなかった弱音を吐いたロッキーだったが、最後にエイドリアンにこう言った。
    「もし最終ラウンドまでリングの上に立っていられたら、自分がただのゴロツキではないことが証明できる」と。
    そしてついにゴングが鳴った。
    余裕しゃくしゃくに挑発しながら一方的に攻めるアポロに、防戦一方のロッキーだったが、アポロが油断した隙をついてロッキーのパンチがヒットし、先にアポロがダウンした。
    ロッキーの予想外の善戦に、場内は異様な盛り上がりを見せ始めた。
    アポロの顔から余裕の表情は消え、試合は真剣勝負となっていった。
    そして迎えた第14ラウンド・・・
    ずっと控室で一人待っていたエイドリアンが意を決して会場に姿を現したときだった。
    ロッキーはアポロの強烈なパンチを受け、マットに沈んだ。
    だれもが致命的なダウンだと思った。
    セコンドのミッキーは「もう立ち上るな!」と指示し、アポロはようやく試合に決着が着いたとKO勝ちを確信した。
    だが・・・それでもロッキーは立ち上がり、不屈の闘志を剥き出しにして再びアポロに向かっていったのだった。
    最終ラウンドを迎え、場内にはロッキーコールが巻き起こっていた。
    最終盤はロッキーの猛ラッシュ、よろめくアポロを最後のゴングが救った。
    試合は判定に縺れ込んだ。
    試合の終わったリング上、ロッキーのもとに多くの報道陣が詰め寄りマイクを向けた。

  • #84

    六輔 (金曜日, 17 5月 2019 20:42)


    だがロッキーは報道陣など相手にもせず、ボロボロに傷付き目も塞がった状態で渾身の力を振り絞ってこう叫んだ。
    「エイドリアーーーン!!!」
    その姿は、「見てくれたかいエイドリアン、俺はやったよ、やったんだ!」と言っているかのようだった。
    エイドリアンもまたロッキーの名を叫びながら、ロッキーの立つリングへと向かっていた。
    判定結果は、僅差でチャンピオンの勝利、アポロは飛び上がって喜んだ。
    だが、ロッキーとエイドリアンの二人には勝ち負けなど関係なかった。
    ようやくロッキーのもとに辿り着いたエイドリアンはロッキーの胸へと飛びこんだ。
    「アイラブユー、ロッキー!!」
    「アイラブユー、エイドリアン!!」
    二人は熱く、そして固い抱擁を交わした。

    ところで・・・
    九東の誘いに千暁がどう応えたのかが語られぬまま、どうして突然ロッキーの話になったのか。
    そこには二通りの想像がなされていることだろう。
    ひとつは、九東の誘いがロッキーと同じように千暁のアメリカン・ドリームに繋がっていくに違いないという思い。
    そしてもうひとつは、九東が無名の千暁を誘った目的は、実は、アポロと同じように九東自身の懐の深さを世に知らしめようという“たくらみ”であり、千暁はそれに利用されようとしているだけなのだという勘ぐり。

    後者を勘ぐった人がいるとするならば、その人は世の中の縮図を良く知る人だ。

  • #85

    六輔 (土曜日, 18 5月 2019 19:58)


    九東唯誠(クトウ・ユイマ)は、藝術院の会員だった。
    藝術院は、芸術上の功績顕著な芸術家を優遇するための栄誉機関で、芸術の発達に寄与する活動をし、芸術に関する重要事項を審議して文部科学大臣や文化庁長官に意見を述べるのが仕事だ。
    院長1名と会員120名で構成されていて、その院長は、芸術に関し卓越した識見を有する者から会員の選挙によって選ばれ、文部科学大臣により任命されるのだ。

    九東が無名の絵描きを公募展の審査員に加えたいと言った話は、当然大きな波紋を呼んでいた。
    その噂を聞きつけた院長は、九東を呼び出した。
    「九東君・・・聞いたよ。君が無名の絵描きを公募展の審査員に加えたいと言ったことで騒ぎになっているらしいが・・・それは事実なのかい?」
    『はい・・・お騒がせして申し訳ございません、院長』
    「私は、それによっていろいろ議論をしてもらう分には全く構わないのだが・・・それで、その無名の絵描きという女性は、審査員になることを了承したのかね?」
    『・・・いいえ』
    「見込みはあるのかね?」
    『・・・分かりません』
    「そっか・・・うん?ところで、君がそれだけ惚れ込んだ絵描きとは、どんな人物なのかね?」
    院長の問いに、九東は千暁の全てを話した。

  • #86

    六輔 (日曜日, 19 5月 2019 20:57)


    院長は、真剣に話した九東に優しい表情を見せてこう言った。

    「なるほどなぁ・・・君はずっと私に言ってきたよなぁ。才能ある画家を掘り起こしていきたいと。でもなぁ、さすがに藝術院の会員でもない、しかも無名の絵描きをいきなり審査員に加えるというのは、少々乱暴ではないのかね?」
    『・・・はい。ですが・・・』
    「君の言い訳は聞かずして想像がつくよ! まったく君という人は・・・私は院長として君を支えてやりたいと思うが・・・いかんせん、多くの会員が納得することは難しいだろうからなぁ・・・」
    『・・・はい』
    「正直に言おう。私の後任には君が相応しいと思っていたのだよ。だが、このままでは・・・君もバカではないのだから、私がどういうことを言っているのか分かるだろう?多くの会員の反発をかっては、選挙には勝てんぞ!」
    『・・・・・』
    「君には困ったものだ。院長の席を投げ打ってでも、その無名の絵描きと絵画の世界を変えていきたいというのかね? 君がやろうとしていることを責めてもいないし、否定している訳でもないんだよ。だがなぁ・・・上に立って、芸術界全体を支えてくれると、私は君にそう期待していたんだよ。私を失望させるようなことはしないでくれ、九東君」

    しばらく黙って考えていた九東だったが、顔を上げ、凛とした表情で院長にこう言った。
    『申し訳ございません。天方千暁という一人の画家の描く絵の素晴らしさだけではなく、彼女の絵に対する考え方に惚れ込んでしまったものですから。彼女の了承は取り付けることが出来ませんでしたけど・・・これまで無かった新たな風を吹き込みたいという思いは変ることはないと思います。それによって院長の期待に応えられないことは、ただただお詫びすることしか出来ません』

    九東の決意が固いことを悟った院長はこう答えた。
    「そっか、分かった。相変わらずだな、君は。だが、君らしい話を聞くことができて良かったよ。私の後任にということは諦めるしかないようだが、絵画のことは君の手腕にかかっているんだからね、これからも頼んだよ、九東君」
    『はい、院長』
    九東は院長が差し出した右手に自分の両手を重ね合わせ、深々と頭を下げて院長室を後にしたのだった。

  • #87

    六輔 (月曜日, 20 5月 2019 20:26)


    「是非院長選に出馬して下さい、九東先生!」
    という、数多くの会員からのリクエストがありながらも九東が藝術院の院長を目指すことは無かった。
    それは、自分が院長の座について芸術界全体を支えることよりも、残された自分の人生、絵画に全ての情熱を注ぎたいという思いの方が勝っていたからだった。
    そして九東は、千暁に公募展の審査員になってもらうことを決して諦めず、足しげく千暁のもとへと通った。
    千暁が、そんな九東を邪険に扱うことは決してなかったが、九東の依頼を受け入れることもなかった。
    それでも二人が逢えば、絵についての互いの思いを語り合った。
    いつしか二人は、個展会場に一緒に足を運ぶようになり、絵が与えてくれる感動を共有するようになっていった。

    世界ヘビー級チャンピオンのアポロが、無名の選手だったロッキー・バルボアをタイトルマッチ戦の相手に指名したことは、ロッキーにとってみれば“鋳掛屋の天秤棒”のほか、何物でもなかったであろう。
    だが、アポロがちょっかいを出してくれたことによって、ロッキーの人生は大きく変わった。
    まさしくアメリカン・ドリームを手に入れた。
    手に入れることが出来たのは、ロッキーが、自らそのちょっかいに応えたからだ。
    エイドリアンに背中を押されて。

    そして、九東唯誠という男もある意味、千暁にとっての“鋳掛屋の天秤棒”だったのかもしれない。
    千暁が九東の願いを受け入れることはなかったが、九東と出会ったことで一人の画家として、そして一人の女性としても大きく成長していったことは紛れもない事実だった。

  • #88

    六輔 (火曜日, 21 5月 2019 22:02)


    西暦2027年、再び大きなニュースが世界中を駆け巡った。
    それは、4年前の2023年に人類初の月旅行を決行したIT関係の社長が、再び、元芸能人のフィアンセを連れ添って二度目の月旅行に行くというニュースだった。
    一度目は9人搭乗のシャトルであったが、二度目は15名搭乗とシャトルも進化していた。
    世界が驚いたのは、その費用だった。
    一度目は総額750億円という額に世界中が驚愕したが、二度目はその約半額だった。
    世界が驚いたのはその半額になったということではなく、IT関係社長が、2名を招待するという話だった。

    社長の記者会見を聞いた誰もが色めきだった
    「本当に、1,000万円を支払えば月旅行に連れて行ってくれるんですか?」
    社長は笑みを浮かべて「はい」と答えた。
    一人の費用に約30億円という巨額なお金は出せないだろうが、1,000万円を支払えば月に旅行が出来る、しかも申し込みに条件は無いというニュースが一気に世界中を駆け巡った。
    「こんなチャンスは二度とないぞ!」と。

  • #89

    六輔 (水曜日, 22 5月 2019 20:42)


    当然、申し込みは世界各国から集まった。
    サラリーマンを40年勤め上げ、いただいた退職金を使わずに貯めていた者などからも多くの申込者が現れた。
    当然、シャトルに乗って月に行くということに事故の不安が無い訳ではなく、そのことを理由に躊躇う者もいたが、こんなチャンスは二度とない!夫婦で一緒に行こう!と、夢を託して申し込みをした者も少なくはなかった。

    ちなみにだが、その当時、レギュラーガソリンが1リッター172円、消費税が12%の時代に、月旅行に申し込むためには5万8千200円の手数料を納めなければならなかった。
    しかも抽選に外れても手数料が返金されることはないのが条件だ。
    何故、5万8千200円という中途半端な金額だったのか、記者会見ではその金額について多くの質問がなされたが、社長がその理由を明かすことはなかった。
    当然、世間では5万8千200円が安いか高いかと物議が醸されたが、それでも、2か月間の申込期間で集まった応募数は、38万328人となった。

    ここで気づいた者もいるであろう。
    58,200円を支払って380,328人が申し込みをしてきただけで、221億円が集まったのである。
    IT社長が38万人超の申し込みがあることを見越して58,200円という額を設定した訳ではなかったが、結果的には、二度目の月旅行の費用の約半分はこの申込金で賄えることになったのだった。
    ちなみにだが、年末ジャンボ宝くじの1等当選確率は、2,000万分の1だが、月旅行の当選確率はその100倍の19万分の1になった訳だ。

    抽選は、IT社長が考えた、いたってシンプルな方法だった。
    抽選のために作られた大きな“ガチャポン”に1番から380,328番まで書かれたボールが入れられたボックスがグルグルと回され、IT社長がガチャ…ガチャ…と。
    その様子はインターネットでライブ配信された。
    見事幸運を手にしたのは、56歳の日本人女性と、38歳フランス人男性だった。
    防犯上、出発の日まで当選者の名前と顔が明かされることはなかった。

    月旅行から戻ってきたフランス人男性と日本人女性は、記者会見でそれぞれにこう語った。
    「チャレンジしたからこそ、幸運が自分のところに舞い降りてきてくれました」
    『私に“ちょっかい”を出してくれた人と巡り合えたことに感謝します』と。

  • #90

    六輔 (木曜日, 23 5月 2019 20:09)


    IT関係の社長が二度目の月旅行から帰ってきた西暦2027年・・・
    来翔は、小学3年生になっていた。
    3年生にもなると、何か用事があるたびに藤子の携帯に電話をかけてきては、甘えてくるようになっていた。
    藤子は、例えそれがおねだりの電話であったとしても、来翔から電話がかかってくることが楽しみでならなかった。
    そして、その日の電話もそうだった。

    「もしもしぃ~ ばぁば?」
    『はい、ばぁばですよ。来翔は元気ぃ~?』
    「うん!・・・ねぇ、ばぁば…」
    『なぁに?来翔』
    「僕ね、スポーツ少年団に入って、野球をやりたいんだ」
    『野球? へ~、すごいじゃない!』
    「うん!でね、ばぁば・・・ママにグローブとバットを買ってって頼んだら、ママが買ってあげてもいいけど、ばぁばならママのよりも、もっと高いグローブを買ってくれるわよ!って、言ったんだ・・・ねぇ、ばぁば、そうなの?」
    『えっ?・・・ママがそう言ったの?・・・そ、そうね。ただ、ばぁばはどういうグローブが良いのか分からないから・・・来翔が欲しいっていうやつを買ってあげるわよ』
    「ホンと?やったー!!! じゃぁ、ばぁばに買ってもらう!やっぱり僕のばぁばだ!」


    突然の余談で、物語には全く関係の無い話になるが・・・
    今日は、誰かとキスをしたか?
    今日、5月23日はキスの日だ。
    もし「まだだよ!」という人がいるならば、ぜひ、これから。
    きっと幸せな気分になれるはずだ。

  • #91

    六輔 (金曜日, 24 5月 2019 19:25)


    結局、入団するときに必要な野球道具一式、ユニフォームからスパイクまで藤子が買うことになり、来翔は無事にスポーツ少年団に入団することができた。
    年金だけの収入しかない藤子にとって、野球道具一式11万6千円の出費は大変だったが、孫可愛さに、『それが欲しいの?・・・うん、買ってあげる』と、来翔が望む物を拒むこともなく買い揃えてあげた藤子だった。

    そしてそれは、来翔がスポ少に通うようになってから半年が過ぎた頃のことだった。
    最上級生の6年生が引退し、チームは新人戦での勝利を目指して練習に励んでいた。
    そんな折、来翔が、また願い事があって藤子のところに電話をかけてきた。
    「もしもしぃ~ ばぁば?」
    『はい、ばぁばですよ。来翔は元気ぃ~?』
    「うん!・・・ねぇ、ばぁば…」
    『なぁに?来翔』
    「今度の日曜日に練習試合があるんだ!」
    『あ、そう。来翔が野球の練習を頑張っているのはパパから聞いてるわよ!』
    「でね、ばぁば・・・僕、初めて試合に出られそうなんだ!」
    『え~ 来翔はまだ3年生でしょ? それなのに試合に出られるなんてすごいじゃない!』
    「う~ん、4年生と5年生があまり人数がいないから。もし、4年生と5年生でケガをした人がいた時には、僕たち3年生も試合に出なきゃならないんだ」
    『そうなんだぁ。でもすごいね。野球を始めてまだ半年ぐらいなのに』
    「う~ん・・・でも、僕はあまり上手じゃないから・・・」
    『みんな誰でも初めはそうよ。あのイチロー選手だって、きっと野球を始めたばかりの頃は、あまり上手じゃなかったんじゃないの?』
    「僕とイチロー選手を同じにするのは辞めてよ!・・・ばぁば」
    『あれっ?そうだった? ごめん、ごめん来翔。たくさん練習をして、4年生、5年生…6年生になったときには、すごい上手になってるわよ!』
    「・・・だといいけど。ねぇ、ばぁば」
    『うん?』
    「試合を見に来てくれる?」
    『えっ?いいの? もちろん見に行ってあげたいよ!』
    「ホント? 来てくれるの? やったー!」
    『必ず行くよ。じゃぁさ、来翔・・・ばぁばが見に行くことをママに言っておいてね!』
    「うん、分かった! じゃぁね、ばぁば。約束だからね!」

  • #92

    六輔 (土曜日, 25 5月 2019 21:02)


    来翔と約束をしていた日曜日の朝を迎えた。
    目を覚ました藤子は、ベッドから起き上がって直ぐに寝室の遮光カーテンを開けた。
    『わぁ~ 天気予報は当たったね!』
    と、その日がとても好天であることが分かる朝の陽ざしに、藤子は笑みを浮かべた。
    藤子は、まるで小学生が楽しみにしていた遠足の日の朝を迎えたかのように、小躍りしながら着替えを済ませ、寝室を出て直ぐに台所に立った。
    『ヨシッ!』
    と、気合を入れて冷蔵庫を開けると、そこには前の日に買っておいたお弁当の食材が所狭しと詰め込まれてあった。

    実は、来翔に「ばぁばのお弁当が食べたい!」と、おねだりされていた訳ではなかったのだった。
    しかも、「母さんがお弁当を作ってもいい?」と翔琉に相談した訳でもなかった。
    翔琉に相談もせずにお弁当を作ることを決めた理由はひとつしかなかった。
    翔琉に相談して、「母さんがそんなことする必要ないよ!」と、あっさり言われてしまうぐらいなら、たとえそれが無駄になって、結局自分一人で食べることになったとしても可愛い孫のためにお弁当を作りたいと思ったからだった。

    『さて、頑張るわよ!』
    そう言って藤子は、冷蔵庫から大量の食材を取り出した。

  • #93

    六輔 (日曜日, 26 5月 2019 19:36)


    お弁当を作るのが何年ぶりなのか、それを思い出すことも出来ないくらいに久しぶりのお弁当作りだった。
    誰かのためにお弁当を作ることが、これほどまでに心躍らせることであることを思い出した。
    料理が得意な藤子であったが、普段、自分が食するための調理の仕方と、お弁当用に調理するのでは、微妙に味や硬さの加減が違って、そのひとつ一つを思い出すかのように、一品、そしてまた一品とおかずを仕上げていった。

    卵焼きには特に拘った。
    『ばぁばの卵焼きは美味しい!って、来翔が一番喜んで食べてくれるからなぁ・・・でもなぁ、どうしよう…』
    いつもであれば、カツオ出汁を入れる卵焼きも、その日のお弁当のおかずとしては、いつもより砂糖を多めにして、さらにマヨネーズを加えた。

    冷凍食品のおかずであっても、来翔が十分に喜んでくれることは容易に察しがついていた。
    それでも藤子は、手作りに拘った。
    豚ひき肉にパン粉、片栗粉、塩胡椒にチーズを加え・・・出来上がったのは、翔琉も子供のころに一番好きだった藤子お手製のミートボールだった。
    ウスターソースとケチャップ、コンソメ顆粒の配合のバランスが絶妙な藤子自慢の一品が仕上がった。
    そして鶏の照り焼き、鮭の塩焼き、カボチャの旨煮・・・すべては来翔の好きなおかずを並べて、孫への愛情をたっぷり詰め込んだお弁当が出来上がった。
    『来翔が食べてくれたらいいなぁ…』
    と、それを嬉しそうに眺めていた藤子は、出来上がったお弁当を保温用のバックに詰め込んだ。
    お弁当を作り終えた藤子は、部屋に戻って出かける身支度を始めた。

  • #94

    六輔 (月曜日, 27 5月 2019 19:54)


    紫外線のA波もB波もその量のピーク時を通り過ぎて、秋の柔らかな陽ざしが家の中に差し込んできていた。
    普通であれば紫外線に対して気の緩みがちな日だったが、藤子は、野球観戦に夢中になってしまう自分を想像し、紫外線対策を丁寧に施した。

    若いころからUVケアを怠らなかった藤子は、この時、64歳になっていた。
    この時代には、紫外線が増加すると水上、陸上の生態系や農業生産への影響だけではなく、人の健康への悪影響があることが科学的に立証されるようになっていた。
    紫外線を強く浴びることによって、シワ、シミだけではなく、皮膚がん、白内障、翼状片・・・さらには内臓疾患にまで繋がり、様々な慢性障害を引き起こすことが解明されており、それを知る藤子が紫外線への対策を怠ることはなかったのだった。
    それ故、藤子は64歳とは思えないほどの美肌の持ち主だった。
    藤子は、露出される肌の部分にはクリームを塗ってUVカットを施し、さらには100%完全遮光のプレーンハットをかぶって家を出た。

    『待っててね、来翔』

  • #95

    六輔 (火曜日, 28 5月 2019 20:57)


    家を出て直ぐにお隣の奥さんが声をかけてきた。
    「藤子さ~ん」
    『あっ、おはようございます』
    「今日はどこかにお出かけですか?」
    『あっ、はい。今日は、孫の野球の応援に』
    「あらぁ~、それは羨ましいことで。楽しい一日を過ごしてきてくださいね、藤子さん」
    『ありがとうございます。行ってきます』
    そんな些細な会話にも、自分に孫がいてくれることの幸せをしみじみと感じた藤子だった。

    車で20分ほど走って、来翔から聞かされていた河川敷のグランドに着いた。
    何台かの車が停車してあるところに車を止めた藤子は、後部座席に置いてあったお弁当を手にして車を降りた。
    車を降りると直ぐに、子供たちの声がグランドから聞こえてきた。
    『みんな元気ねぇ~』
    そう笑みを浮かべ近づいていくと、あることに気付かされた。
    『えっ?・・・』
    この時藤子は、保護者たちが皆同じTシャツを着ていることに気づいたのだった。
    『応援って、みんな同じTシャツを着るの?』
    と、保護者の中に揃いのTシャツを着ていない者を探したが、一人として見つけることが出来なかった。
    『どうしよう・・・』
    そのまま保護者達のところに合流することを躊躇った藤子は、そこに立ち止まって翔琉に電話をかけた。

    『もしもし、翔琉・・・』

  • #96

    六輔 (水曜日, 29 5月 2019 20:09)


    『私はここよぉ~!』
    と、手をふる藤子に先に気づいたのは茉緒の方だった。
    茉緒が翔琉に「あそこよ!」と言っているのがそのまま見えた。

    『もしもし、翔琉・・・』
    右手に持ったスマホを耳にあて、左手を大きく振る藤子を翔琉がようやく見つけた。
    「母さん、どうしたの?」
    『どしたの?って・・・来翔の応援に来たに決まってるじゃない!』
    「来るなら来るって言っといてくれたら良かったのにぃ」
    『あっ、う、うん・・・来翔から“応援に来て”って電話をもらってさ・・・』
    「そっか、来翔が電話をしたんだね」
    『でさ翔琉・・・保護者の皆さん、同じTシャツを着ているみたいだけど・・・母さん、そういうこと全然知らなくてさ・・・』
    「そうだよ!うちの少年団は保護者たちは皆同じTシャツを着て応援する決まりなんだよ!」
    『・・・そうだったのね』
    「来るって連絡しといてくれたら、母さんの分も用意しといたのに・・・」
    翔琉のその言葉に、藤子は
    『来翔に“ママに言っておいてね”って、ちゃんと頼んであったわよ!』
    と、口答えをしそうになったが、それを言ったところでどうなるものでもないと思った藤子は、その言葉を飲み込んでこう答えた。
    『ごめんねぇ、母さんが翔琉に電話一本しておけば良かったのよね…』と。

  • #97

    六輔 (木曜日, 30 5月 2019 21:32)


    『私だけ目立つのは嫌だなぁ…』
    と、そう心の中でつぶやいて藤子は、離れたところから試合を観戦することを即決した。
    『母さん・・・堤防の上から見てるからね』
    「…分かった」

    そう言って電話を切った藤子は、試合を観戦するのに適した日陰を探したが、河川敷のグランドに木陰のような丁度良い場所はなかった。
    同じTシャツを着て、ワンタッチテントの中で応援をする保護者達がとても羨ましく思えた藤子だったが、孫の晴れ姿が見れるならどこでも構わないと、それでもなるべく試合が見やすい場所へと歩いて行った。
    と、そこで藤子に不安がよぎった。
    『来翔が私のことを見つけることが出来なかったらどうしよう・・・』
    試合を見る場所を決めた藤子は、
    『来翔ぉ…ばぁばは約束通り応援に来たからね・・・ここにいるよ』
    と、少しの間、不安な気持ちでグランドを見つめていた。
    だが、その不安は幸いなことに直ぐに拭い去られた。
    藤子が来るのを楽しみにしていた来翔が早速に藤子を見つけ、グランドから大きく手を振ってくれたのだった。
    「ばぁば!」
    『あっ、来翔!』
    藤子は、自分が来たことに気づいてくれたことに胸をなでおろし、来翔の動きに合わせるように『頑張ってね、来翔!』と大きく手を振った。
    『良かったぁ』

    藤子は、持ってきた袋からシートを取り出し、堤防の芝生の上に自分のお尻が収まる分だけを広げて、そこに腰を降ろした。
    グランドを見下ろすと、両チームの子供たちが大きな声を出して試合前の練習を始めていた。
    そこには、子供たちの練習を見守る藤子の優しい眼差しがあった。

  • #98

    六輔 (金曜日, 31 5月 2019 20:20)


    小学生らしく、大きな声を出してキャッチボールをする選手たち。
    藤子は、その中に来翔の姿を探した。
    『えっとぉ・・・あっ、いた!』
    大好きな孫が、ユニフォームを着て野球をする姿を初めて見た藤子は、目を細め、しばらくその背中を見つめていた。
    5年生、4年生、そしてその向こうに3年生が並んでキャッチボールをしていたが、まだ野球を始めて数か月の来翔たち3年生と、上級生たちとの力の差は歴然としていた。
    素人の藤子にもそれは明らかに伝わった。
    それでも大きな声を出し、一生懸命に頑張る来翔の一挙手一投足に目を細め、『頑張れ、来翔ぉ』と、周りの人に聞かれずに済む限界の音量で藤子は声援を送った。

    特別に野球に詳しかったわけではなかったが、それなりにルールは知っていた藤子だった。
    来翔がボールを後ろにそらしてしまうたびに「あっ!」と、声が出てしまったが、直ぐに『一生懸命にやっているんだから!』と、来翔の頑張りを認めて、心の中で声援を送り続けた。

    練習が進んでいくと、指導者が熱を帯びてきたのか、怒鳴り声がグランドに響き渡り始めた。
    怒鳴り声はずっと続いていた。
    すると、思わず耳をふさぎたくなるような怒鳴り声が藤子の耳に届いたのだった。
    「おい、来翔ー!! そんなエラーをしているなら試合に出してやらないぞー!」
    『えっ?・・・そんな言い方をしたら来翔が可哀想だよ~』

  • #99

    六輔 (土曜日, 01 6月 2019 20:20)


    藤子には、直ぐに察しがついた。
    『あの人が監督さんなのね…なんかちょっと怖そうな人』
    と、見ていると、監督の怒鳴り声はさらにヒートアップしていった。
    『どうして、あんなに子供たちを怒鳴るのかしらぁ・・・子供たちはみんな一生懸命にやっているのに。これが子供のスポーツの世界なの?』
    と、監督が子供たちを怒鳴っている理由を、藤子は自分なりに探していた。

    ふと、相手チームに視線をやると、来翔のチームとは対照的に監督さんが怒鳴ることも無く、選手達には笑顔もあって、素人目にも楽しそうに野球をやっているように感じられた。
    『なんか、あっちのチームの子たちは、みんな楽しそう…』

    そんな思いでしばらく見守っていると、審判がグランドに姿を現し、両チームに向かって号令をかけた。
    「集合準備ぃ~~!」
    両チームの選手たちがベンチ前に一列に並び、審判の掛け声で一斉に走り出しホームベースを挟んで両チームが整列した。
    審判の掛け声で試合前の挨拶が交わされた。
    「試合を始めます、れい!」
    『お願いしまーす!』
    後攻めの来翔のチームは、挨拶を終えるとそのまま守備位置に向かって走っていった。
    来翔は、他の3年生と一緒にベンチに戻って、グランドに散った上級生たちに声援を送った。
    そんな様子を見守っていた藤子は、
    『来翔は途中から出られるのかな?』
    と、その時が来たときのことを想像して目を細めた。

  • #100

    六輔 (日曜日, 02 6月 2019 19:52)


    「プレイボール!」
    試合が始まると、一回の表に早速のピンチが訪れた。
    「あっ…」
    サードベースを守る5年生のいきなりエラーに、監督は大きな声でこう叫んだ。
    「どうして私が教えた通りにやらないんだ! 教えた通りにやらないからエラーをするんだ!」
    当然、保護者たちにも聞こえるようにその怒鳴り声はグランドに響き渡った。
    その様子を見せられた藤子は、
    『もし、エラーしたのが来翔だったら・・・』
    そう考えただけで胸が痛くなった。
    次に良いプレーをする選手がいれば、
    「そうだ! 私が教えた通りにやれば、そういう良いプレーが出来るんだ!」
    だが、監督から出されたサインを見落とす選手がいれば、
    「どうしてサインを見落とすんだ! 試合に負けたらお前がサインを見落としたせいだからな!」
    そんな怒鳴り声の連続に、藤子は試合を観ているのがだんだん辛くなっていった。
    それでもいつか来翔が試合に出るだろうと、その時だけを待って試合を見守り続けた。

    そしてそれは、試合が中盤にさしかった頃だった。
    歳の頃なら60歳後半か、70歳に手が届くかというぐらいの男性が藤子に声をかけてきた。
    「お孫さんの応援ですか?」
    『えっ?…あっ、…はい』
    その男性は笑みを浮かべて藤子にこう尋ねてきた。
    「もし迷惑でなかったら、隣で一緒に観戦させてもらってもいいですか?」
    断る理由が見つからなかった藤子は「はい」と答え、自分が敷いていたシートを最大に広げて、その男性が座るスペースを確保した。
    『どうぞ、ここに座ってください』と。

  • #101

    六輔 (月曜日, 03 6月 2019 20:35)


    「すみません、ありがとうございます」と、その男性は藤子がシートを用意してくれたことに礼を言い、藤子の隣に腰を降ろしてこう名乗った。
    「佐山(サヤマ)と言います」
    『あっ、和住(ワズミ)です。孫はまだ3年生で・・・佐山さんもお孫さんの応援ですか?』
    「いやっ、残念ながら私には孫はいません。私は子供達の野球を観るのが唯一の楽しみでしてね…」
    『佐山さんは、とても野球がお好きなんですね?』
    「正確には子供がやる野球を観るのが好きというところですかね。試合をご覧になっていてどうですか? 私の目には、和住さんがあまり楽しまれているようには見えなかったのですが・・・」
    『えっ? いやっ、そ、そんなことはないですけど・・・』
    「子供達は頑張っていますよね」
    『はい。私の孫はまだ3年生で、ベンチで声援を送っているだけですけど、それでもその頑張っている様子を観れただけでも良かったなと思っているんですよ』
    「そうでしたか。私は、毎週、週末になるとこうして球場に足を運んで・・・小学生時代から中学校、そして高校野球と・・・気になった選手がいれば、ずっと追いかけて観たりしているんです。いろんな球場に足を運んで、どこのチームにどんな監督さんがいて、どんな選手が頑張っているのかってね」

    そう言った佐山は、小さなため息のようなものを吐いてこう尋ねてきた。
    「和住さんは、試合をご覧になってどうですか?何か感じられましたか?」
    『・・・えっ?』

  • #102

    六輔 (火曜日, 04 6月 2019 20:16)


    藤子は、佐山のいきなりの質問に戸惑いながらも正直に答えた。
    『えっ?・・・あっ、はい。相手のチームはミスが出てもみんなドンマイ、ドンマイ!って笑って、楽しそうに野球をしているのに、孫のチームは監督さんに大声で注意されて・・・ちょっと可哀想に思えてきちゃいました。それでも、これがスポーツの世界なのかな? 強くなるためには仕方ないのかな?って、そんなことを考えながら観ていました』
    「そうでしたかぁ。それで険しい表情で試合をご覧になっていたんですね」
    『えっ?私、そんな険しい表情をしていたんですか?・・・お恥ずかしいです』
    「お孫さんのチームの監督さんは、ご自身が選手の時には、甲子園にも出場したことがある、この辺りでは有名な選手だったんですよ」
    『そうなんですかぁ、立派な方なんですね』
    「立派という意味がどこを指すのかよく分かりませんが・・・優秀だった選手が、優秀な指導者に必ずなるとは限らないですよ。あっ、あの監督が優秀ではないと言っているのではないですけどね」
    『優秀な指導者?ですか?』
    「あの監督さんは、自分がプレーしていた時には輝かしい成績を残してきました。もう20年近く前になりますが、あの監督さんが小学生の時から、中学、高校とずっと観てきましたからね。 私には、あの監督が怒鳴っている姿をみていると、「お前よりも俺のほうがいい選手だったんだ。だからお前のプレーはまだ俺にはかなわない。だから私を崇めろ、従え!」と、言っているように聞こえてしまうんですよね。特にサインの見落としは厳しく叱ります。試合に負けた時の原因をそこに印象付けるためだとしか思えないんですが。こんな話をしてしまうと、あの監督さんを非難していることになってしまいそうですが・・・土曜、日曜と、ずっと休み無しで子供たちに野球を熱心に教えているのは事実です。頭が下がりますよ。ただ、ひとつ残念なのは、プレーしているのは監督さんではなく、選手たちなのですがね。この辺では勝ちに一番拘る監督さんですから、仕方ないのかもしれませんけどね」
    『そうなんですかぁ・・・』
    藤子は、佐山の話に夢中になっていた。

  • #103

    六輔 (木曜日, 06 6月 2019 20:04)


    佐山は話を続けた。
    「子供たちの野球で、日が当たるのは指導者じゃないと思うんですがねぇ・・・その点、相手のチームの監督さんは全く違ったタイプの指導者なんですよ」
    『違ったタイプ?ですか?』
    「怒鳴ることは全くなく、認めて励まして子供達を応援するタイプですよね。監督自身、公立高校で硬式野球をやって、こうして指導者として戻ってきてくれた方なんですけど…」
    『佐山さんは、あちらのチームの監督さんのこともよくご存じなんですね』
    「あぁ、はい。私はいま、相手チームの監督さんが「認めて、励ます」と言いましたが、和住さんは「褒める」と「認める」の違いが分かりますか?」
    『えっ?「褒める」と「認める」の違いですか?・・・よく分かりません』
    「“褒める”は、相手の良いところを褒めることです。そこまでたどり着いたプロセスについても、良いところがあれば褒めます。それに対して“認める”は、相手の良いところと悪いところも含めて全てを認めることです。良いところは、当然褒めますし、さらに伸ばすように励まします。ですが、悪いところも認めていますから、本人が気が付いていなければ指摘する程度で、それを責めることはせず、その代わりにアドバイスをしながら励まします。相手のチームの監督さんはそんな監督さんですよ。ただ、ちょっと残念なことがひとつありまして・・・それは、全く勝敗に拘らないんですよ。もう少し子供たちに勝つ喜びを教えてくれたら、最高の指導者なのではないかと思うんですけどね(笑)」
    『勝敗に拘らない・・・それだと、応援している親たちから不満が出るかもしれませんね』
    「そうですね。よく選手たちの母親から言われているところを見かけますよ! 監督、うちの子のチームを勝たせてやって下さいよ!ってね(笑)」

  • #104

    六輔 (木曜日, 06 6月 2019 20:06)


    うなずきながら話を聞いていた藤子に、佐山はこう尋ねた。
    「いま、ここで和住さんのお孫さんのチームと、その対戦相手チームがグランドで精一杯に頑張っていますが、この先、中学、高校にいって野球を続ける選手が多いのはどっちのチームだと思いますか?」
    『えっ?いきなりの質問で・・・どうなんでしょうかねぇ。勝つ喜びを知った選手がさらに野球を続けるんですかね?だから孫のいるチームの方じゃないんですか?』
    「やはりそう思われますか? そうですよね、勝つことの喜びを知ることはやっぱり大切なことですからね」
    と、言った佐山は笑みを浮かべてこう言った。
    「ですが、断然、対戦相手チームの方が多いんですよ!
    『えっ?本当ですか?』
    「はい、残念ながら…お孫さんのいらっしゃるチームの子供たちは中学に行って半分に・・・そして高校に行って硬式野球をやる選手はほとんどいなくなってしまいます。逆に対戦相手チームの方は全員が中学に行って、さらには高校に行って硬式野球まで続けるんですよ。一人も辞めることなく」
    『えっ?・・・そうなんですか?』
    「これまで何年間も観てきましたから間違いないです。不思議ですよね。そしてさらに驚くのは、高校に行って優秀な選手が育つのは、自分の技術をこれでもかと教え込まれたお孫さんのいらっしゃるチームの子たちではなく、監督に認められ励まされ続けて、自分で一生懸命に考えてうまくなろうとして育った相手チームの選手たちの方なんですよ。小学校時代には、たいして目立たない選手だったとしてもね」
    『そうなんですかぁ』

    と、佐山は来翔のチームの保護者たちがいる場所に視線を移してこう言った。
    「お孫さんのチームは、保護者も大変なんですよね」
    『えっ?』
    「どうして全員お揃いのTシャツを着ているか分かりますか?」
    『いえっ、分かりません。どうしてなんですか?』
    「Tシャツを着ずに応援に来た親がいると、その親の子は試合で使ってもらえないからなんですよ。チームの輪を乱すとか言われて」
    藤子は表情を曇らせてこう言った。
    『まるで軍隊ですね』と。

  • #105

    六輔 (金曜日, 07 6月 2019 20:46)


    「軍隊ですかぁ…うまいことを言いますね、和住さん。まぁ、子供の野球が軍隊と同じだとまでは言いませんが、確かに指導者が権力を持ってしまうこともあるんですよね、残念ながら。 本来であれば権力ではなく、持つのは“責任”のはずなのでしょうが。 監督として上に立つ者は、“指導者” として子供達に間違った考え方や意識を植え付けてしまわぬよう指導に当たる責任があるはずなんですよね。ただ・・・お孫さんのチームの監督さんも初めからあんな感じで怒鳴る監督さんではなかったんですよ。ある時まではね。私はその時の試合を今でも忘れません」

    『昔、何かあったのですか?』

    「…はい。その当時、私はお孫さんのいるチームを一番に応援していましてね。この試合に勝てば、県大会出場が決まるという試合で、監督さんはエースピッチャーを温存したんですよ。結果、その試合に負けてしまい県大会には出場できなくなってしまって、保護者達からすごく罵声を浴びせられたんです。 私は、今でも思っています。あのとき、監督さんはエースを温存したのではなく、連投になっていたことで、ケガをさせないように投げさせなかったのだろうと。それでも保護者達から屈辱的な罵声を浴びせられた監督は、こう保護者に誓ったそうです。もう自分の責任で敗けるような試合はしない、だから監督を続けさせてくれと・・・それ以来というもの、監督は人が変ってしまったかのように、子供たちを怒鳴り、監督としての威厳を保護者達に知らしめるために同じTシャツを着させるようにもなり、自分に従わない者には、その子供にペナルティを与えるという権力を持ってしまったんですよね。監督は保護者達からのクレームに屈することがないよう、鎧をかぶってしまったんですよ」

    『大変な世界ですね。保護者達は指導者の方に全てお任せすればいいんでしょうけど・・・今は、昔と違って親に時間的な余裕があります。子育てにしっかり関わります。しっかりと関わるあまり、指導者に対して平気でクレームを言ってくる人も多いと聞きます。私の親友が絵画教室を開いていまして、そんなところでも親からのクレームがあるそうですから。今のような話を聞かされてしまいますと、どうにも残念でなりませんね』

    「そうですね。権力を保とうとして、勝利至上主義を優先する監督さんは結構います。勝つことで保護者からの苦情をシャットアウトすることが出来ますからね。保護者から見て良い指導者とは、子供にしっかりと技術を教える指導者。ですが、本当に良いコーチングとは、基礎だけをしっかりと教え、あとは子どもたちに判断をさせ、自ら練習に取り組ませる指導者なんです。ただし、子どもたちに自主性を持って行動をさせていると、失敗も多いし時間もかかります。かかりますけど、その“失敗”という経験をすることが出来るからこそ、そこに“成長”というものが生まれるんですよね。相手チームの監督さんはそれをちゃんと分かっている。野球を嫌いにならずに、ずっと好きなまま続けてほしいと願い、そのためには何を子供たちに伝えればいいのかと、それをしっかり理解して子供たちと向き合っているんですよね。ですが、勝利至上主義で育った選手は、指導者から教えられた通りにプレーしようとそればかりを考えて・・・自ら成長する力を養うことなど出来るはずがないですよね。 そんなところで教えられて野球をしていると、何かにつまずいた時に「お母さんが僕に野球をやらせたんじゃん!!僕はやりたくなかったのに!!」と、そんなふうに誰かのせいにして野球を辞めてしまう子供も・・・残念ながら、たくさんいるんです。 指導者が全て悪いと言っているんではないんですよ。保護者にもその責任があるんだと思います。相手チームの監督さんのような指導者に巡り合えることが出来た子供は、とても幸せですよね・・・そう思いませんか?和住さん」

  • #106

    六輔 (土曜日, 08 6月 2019 21:06)


    佐山の話に、藤子は深くうなずくことしか出来なかった。

    それまで藤子の隣に座っていた佐山は、立ち上る素振りを見せてこう言った。
    「なんだか、おせっかいな話をしてしまって申し訳なかったですね」
    『あっ、いえっ・・・野球の世界のことなど全く無知な私に丁寧に話をしていただいてありがとうございました』
    「私は、野球をやっている子供達がただ純粋に好きで・・・好きで始めたはずの野球を途中で嫌いになんかなってほしくないと思っているだけなんですよ。決して将来はプロ野球選手になって欲しいと、そんなことを願っている訳ではないのですが、野球を通して沢山のことを学んで欲しいと。和住さんのお孫さんには、ぜひ、野球を続けていただいて、たくましい大人に成長していただけたらと思います」
    『ありがとうございます。なかなか他の家の子供たちに、そんなふうに言っていただけることなどないと思います。そんなふうに言っていただけることは幸せなことですよね』
    「こうしてたまに野球をやっているお子さんと関わりのある方と話をさせていただくのは、最後に子供を守ってあげられるのは、親や和住さんのような祖父母だと思うからなんですよ。 和住さんは祖母という立場でしょうが、それでも子供達の良き助言者になってもらえたらと」
    『孫の良き助言者に!ということですかぁ・・普段、あまり意識しないことですよねぇ・・・しっかりと肝に銘じて孫と関わっていきたいと思います』
    「どうぞ、お孫さんを大切に見守ってあげてください、ご両親へのサポートと一緒に」
    『はい、ありがとうございます、佐山さん。佐山さんには、ぜひこれからも子供達の野球を見守り続けていただけたらと思います』

    互いに立ち上がって深々と頭をさげ、別れの挨拶を交わした。

  • #107

    六輔 (日曜日, 09 6月 2019 19:23)


    世の中には「ジンクス」というものを気にする人がいる。
    例えば、「茶柱が立ったから今日は良い事がある!」や「新しい靴を買った次の日に雨が降ると恋が叶う!」と、言ったように自分の幸運を前向きに考えさせるものもあれば、「夜に爪を切ると親の死に目に会えない」や「手の冷たい人は心が温かい」と、言ったようにその根拠がどこにあるのか良く分からないものも。
    また、「低く飛んでいるツバメを見かけると雨が降る」と言ったように、後になってその理由が、曇天の時は上昇気流が起こらないので餌になる虫が低空を飛んでいるからだとそこそこの根拠を見つけることができたものもある。

    もちろん野球にだってジンクスは存在する。
    「ラッキーセブン」もそのひとつで、そのジンクスは7回の攻撃で得点が入りやすいというものなのだが、そこには試合の終盤に入り先発投手の疲れが見え始める為という理由が当てはめられるだろう。
    だが、全く説明がつなかいジンクスがある。
    「選手が交代したポジションにはボールが飛ぶ!」だ。
    それは、スターティングメンバーから外れ、ずっとベンチを温めていた選手が、監督から交代を告げられて守備につくと、ほぼ間違いなくその選手のところにボールが飛ぶというジンクスだ。
    ボールが変わった選手のところに飛ぶ確率は100%ではないにしても、相当高い確率でボールが飛んでいく。
    その試合で、そのポジションにほとんどボールが飛んで行ってなかったとしても、選手が変わった途端にボールが飛ぶようになるのだから不思議だ。
    どうして変わった選手のところにボールが飛ぶのか?と問われたら、こう答えるしかないだろう。
    野球には“野球の神様”がいて、その神様が途中で変えてもらった選手に、
    「さぁ、与えてもらったチャンスだ! お前のところにボールを飛ばしてあげるから良いプレーをしてごらん!」と。
    そして野球の神様は、頑張っている選手には平等にチャンスを与えてくれる。
    だからこそ“ジンクス”として言われるまでに高い確率で変わった選手のところにボールが飛ぶのだろう。
    当然、藤子が見に行ったその試合でも野球の神様はジンクスを守ったのだった。

    佐山が去ったあと、藤子がグランドに視線を戻すと、試合は最終回になっていた。
    『あっ、来翔!』
    藤子は、最終回の守りにセカンドのポジションに向かう来翔の姿を見つけたのだった。
    本音は、大声で「来翔ー!」と叫んであげたい気分だったが、藤子はそんな気持ちを抑え、その代わりに心の中で声援を送った。
    『頑張ってーー!来翔ーー!』と。
    藤子は、緊張の面持ちで守備についている来翔を、両手を合わせ祈る思いで見守った。
    そして試合はあとアウトひとつで来翔のチームが勝利というときになった。
    相手チームの4番打者がバッターボックスに立ち、自分を奮い立たせるように大声を発した。
    「さぁ、来い!!!」
    初球が投じられ、4番打者が強くバットを振ると、その打球は来翔のいるセカンドに飛んでいった。

    『あっ! 来翔ーーー!!!』

  • #108

    六輔 (月曜日, 10 6月 2019 20:30)


    試合は終わった。

    「整列!」
    主審の号令で、両チームの選手がホームベースを挟んで整列すると、来翔は列の最後尾に並んだ。
    自分のエラーがきっかけとなって試合に負けたことを悔いる来翔は、両目に涙を一杯にため、相手チームの選手の顔を見ることも出来ずにただ茫然と立っていた。
    選手が整列したのに合わせ、応援席にいた保護者達も帽子をとって立ち上がったことに藤子もそれと一緒に立ち上がり、プレーンハットを右手に持った。
    審判の「ゲームセット!」の声で両チームの選手が「ありがとうございました」と帽子をとって挨拶すると、それに合わせて保護者達も、そして藤子も揃えて頭を下げた。
    相手チームへの挨拶を終えた選手たちは、保護者達がいるところの前に整列し、応援に来てくれたことに対する挨拶をした。
    「応援、ありがとうございました」
    堤防の上でその様子を見ていた藤子は、選手たちにねぎらいの拍手を送っていると、他の選手から一瞬遅れて頭を下げた来翔が涙していることに気づいた。
    『来翔・・・』
    藤子は、来翔のその姿を堤防の上から見守り、
    『来翔・・・試合に負けたのはあなただけのせいじゃないからね』
    と、そう心の中で声をかけてやることしか出来なかった。

  • #109

    六輔 (月曜日, 10 6月 2019 20:30)


    試合は終わった。

    「整列!」
    主審の号令で、両チームの選手がホームベースを挟んで整列すると、来翔は列の最後尾に並んだ。
    自分のエラーがきっかけとなって試合に負けたことを悔いる来翔は、両目に涙を一杯にため、相手チームの選手の顔を見ることも出来ずにただ茫然と立っていた。
    選手が整列したのに合わせ、応援席にいた保護者達も帽子をとって立ち上がったことに藤子もそれと一緒に立ち上がり、プレーンハットを右手に持った。
    審判の「ゲームセット!」の声で両チームの選手が「ありがとうございました」と帽子をとって挨拶すると、それに合わせて保護者達も、そして藤子も揃えて頭を下げた。
    相手チームへの挨拶を終えた選手たちは、保護者達がいるところの前に整列し、応援に来てくれたことに対する挨拶をした。
    「応援、ありがとうございました」
    堤防の上でその様子を見ていた藤子は、選手たちにねぎらいの拍手を送っていると、他の選手から一瞬遅れて頭を下げた来翔が涙していることに気づいた。
    『来翔・・・』
    藤子は、来翔のその姿を堤防の上から見守り、
    『来翔・・・試合に負けたのはあなただけのせいじゃないからね』
    と、そう心の中で声をかけてやることしか出来なかった。

  • #110

    六輔 (月曜日, 10 6月 2019 20:31)


    試合は終わった。

    「整列!」
    主審の号令で、両チームの選手がホームベースを挟んで整列すると、来翔は列の最後尾に並んだ。
    自分のエラーがきっかけとなって試合に負けたことを悔いる来翔は、両目に涙を一杯にため、相手チームの選手の顔を見ることも出来ずにただ茫然と立っていた。
    選手が整列したのに合わせ、応援席にいた保護者達も帽子をとって立ち上がったことに藤子もそれと一緒に立ち上がり、プレーンハットを右手に持った。
    審判の「ゲームセット!」の声で両チームの選手が「ありがとうございました」と帽子をとって挨拶すると、それに合わせて保護者達も、そして藤子も揃えて頭を下げた。
    相手チームへの挨拶を終えた選手たちは、保護者達がいるところの前に整列し、応援に来てくれたことに対する挨拶をした。
    「応援、ありがとうございました」
    堤防の上でその様子を見ていた藤子は、選手たちにねぎらいの拍手を送っていると、他の選手から一瞬遅れて頭を下げた来翔が涙していることに気づいた。
    『来翔・・・』
    藤子は、来翔のその姿を堤防の上から見守り、
    『来翔・・・試合に負けたのはあなただけのせいじゃないからね』
    と、そう心の中で声をかけてやることしか出来なかった。

  • #111

    六輔 (月曜日, 10 6月 2019 20:31)


    試合は終わった。

    「整列!」
    主審の号令で、両チームの選手がホームベースを挟んで整列すると、来翔は列の最後尾に並んだ。
    自分のエラーがきっかけとなって試合に負けたことを悔いる来翔は、両目に涙を一杯にため、相手チームの選手の顔を見ることも出来ずにただ茫然と立っていた。
    選手が整列したのに合わせ、応援席にいた保護者達も帽子をとって立ち上がったことに藤子もそれと一緒に立ち上がり、プレーンハットを右手に持った。
    審判の「ゲームセット!」の声で両チームの選手が「ありがとうございました」と帽子をとって挨拶すると、それに合わせて保護者達も、そして藤子も揃えて頭を下げた。
    相手チームへの挨拶を終えた選手たちは、保護者達がいるところの前に整列し、応援に来てくれたことに対する挨拶をした。
    「応援、ありがとうございました」
    堤防の上でその様子を見ていた藤子は、選手たちにねぎらいの拍手を送っていると、他の選手から一瞬遅れて頭を下げた来翔が涙していることに気づいた。
    『来翔・・・』
    藤子は、来翔のその姿を堤防の上から見守り、
    『来翔・・・試合に負けたのはあなただけのせいじゃないからね』
    と、そう心の中で声をかけてやることしか出来なかった。

  • #112

    六輔 (火曜日, 11 6月 2019 20:03)


    野球は残酷なスポーツだ。
    野球というスポーツは、傍目にはチームスポーツでありながらも、ひとり一人のプレーヤーが独立してプレーするがために、活躍出来れば周りから称賛され、選手に大きな感動を与えてくれるが、逆に大事なところでエラーをしたり、チャンスで打てなかったりした時には残酷な一面を突きつけてくる。
    「おまえのせいで負けた」と。
    たとえ周りの誰もが「おまえのせいで…」と言わなかったとしても、そのプレーをした選手自身は「自分のせいで負けた・・・チームメイトに申し訳ない」と、間違いなく自責の念に駆られることになるから残酷なのだ。

    野球は、一つ一つのプレーが積み重なってゲームが出来上がっていくスポーツだ。
    バッターボックスに立つのは一人で、一つのベースに立つのも一人だ。
    マウンドに二人のピッチャーが同時に立つことはなく、守備でひとつのボールを二人の選手が同時にキャッチすることもない。
    極論を言えば、個人競技が集まったスポーツ、それが野球なのだ。
    攻撃側のチームを考えれば分かりやすいだろう。
    チームの全員が「勝ちたい」、「勝利のために何かしたい」と思っていても、チームの勝利に近づくプレーを実質的に出来るのは、常にバッターボックスに立っている一人だけ。
    残りの選手はベンチの中で声を張り上げるくらいのことしか出来ないのだ。

    バッター、ランナー、ピッチャー、各ポジションを守る選手。
    みんなそれぞれ一人でプレーする。
    だが、その双肩にかかっているのは、一人の責任ではなく、チーム全体の勝敗への責任だ。
    高校野球、夏の大会。
    3年間の思いの全てを詰め込んで望む試合。
    ベンチに入れなかった選手の思いも背負ってグランドに立ち、ブラスバンドや野太い声の応援歌が鳴り響くなか、スタンドにいる観客、OB、そして駆けつけてくれた多くの仲間たちの視線を受けながら「チーム」を勝利に導くために全力でプレーする選手。
    その姿は本当にかっこいい。
    そのことを知っているからこそ高校野球ファンは多いのだ。

  • #113

    六輔 (水曜日, 12 6月 2019 19:56)


    来翔のチームの監督は、来翔が練習を頑張っているそのご褒美として守備につかせた。
    もちろん、来翔のところにボールが飛べば、エラーすることも想定内でのことだった。
    野球のジンクスを知る監督は、なるべくなら来翔のところにボールが飛ばないでくれと願って見守っていた。
    だが、野球の神様が来翔に与えてくれたものは、来翔にとってはチャンスではなく厳しい試練だった。
    最終回、ツーアウト。
    あと一つのアウトをとれば勝利のとき、相手チームの5年生、しかも4番打者の打った強い打球がセカンドへと飛んでいった。
    それまで来翔が体感したことのないようなスピードの打球だった。
    ただ、来翔の正面に飛んできたのだから、落ち着いてグローブを出せばさばくことが出来るボールであったのだが、来翔は恐怖心を感じてボールに向かっていくことが出来なかった。
    「あっ…」
    打球は来翔のグローブをはじいて外野へと転がって行った。
    そのボールをキャッチし、ファーストに送球さえすればゲームセットになっていたものが一打同点のピンチに変わった。

    エラーに厳しい監督ではあったが、まだ3年生である来翔を気遣い、
    「気にするな、来翔!」と声を掛けてくれた。
    だが、極度の緊張の中で監督の声が来翔に届くことはなかった。

    野球には他にも沢山のジンクスがある。
    それはエラーとフォアボールで出塁を許すと、失点に繋がるというものだ。
    そしてそのジンクスは見事に現実のものとなった。
    ネックストバッターの同点打に、フォアボールが重なり、気が付けば5失点してしまっていた。
    その間来翔は、ただただ「もう僕のところには来ないで」と祈り、声を出すことも出来ずにセカンドのポジションに立っていただけだった。

  • #114

    六輔 (木曜日, 13 6月 2019 20:20)


    保護者たちへの挨拶を終えた選手たちは、一列に整列すると監督の「座れ!」の声に半円状に監督を囲んで体育座りで座った。
    選手たちは一様に不安そうな表情を浮かべ監督に視線を向けた。
    選手たちは、監督からまず第一声に「お前らなにやってんだ!」と、怒鳴られるのを覚悟していたが、選手たちの予想に反し、監督は怒った様子もなく物静かに話を始めた。
    「負けてしまったなぁ…」
    拍子抜けもあって選手たちは返事をすることが出来なかった。
    一呼吸おいて監督は話を続けた。
    「今日の試合の結果が、今のお前たちの実力だということを良く知りなさい」
    『はい』
    その言葉に唯一反応出来たのは、5年生のキャプテンだけだった。
    「うん? キャプテンだけか? 他の選手には聞こえなかったのか?」
    いつもと違った監督に面を食らった他の選手たちはあわてて返事した。
    『はい!』

    監督は選手全員をゆっくりと見回し、そして一番はじで涙をいっぱいに溜めて座っている来翔を見つけるとそこで視線を止めてこう言った。
    「来翔・・・」
    『…あっ、は、はい』
    「次は、いいプレーが出来るさ、頑張れ来翔」
    『はい』
    か細い声で監督の言葉に返事をした来翔は、心の中でつぶやいた。
    『どうして監督は僕のことを叱らないのかな…』と。

  • #115

    六輔 (土曜日, 15 6月 2019 06:39)


    来翔に「次は、いいプレーが出来るさ、頑張れ来翔」と、いつもと違って優しく言った監督・・・
    名前は瀧野瀬紘一(タキノセ・コウイチ)、40歳、独身だ。
    突然、藤子の前に現れ、隣に座って瀧野瀬のことを語った佐山の話では、自己防衛のために選手を怒鳴る人間だと酷評されていた瀧野瀬だったが、実は、瀧野瀬がエラーした選手を厳しく叱るのには瀧野瀬なりの理由があったのだった。

    地元のスポーツ少年団で小学3年生から野球を始めた紘一は、根っからの野球小僧だった。
    小学、中学と軟式野球をやったが、当然、高校に行ってからは硬式野球をやりたいと思った。
    そして高校に行って野球をやるからには、当然、甲子園でプレーしたいと考えた。
    その頃、紘一の暮らす県では、白進学院高校が甲子園の常連校として君臨していたことに、紘一は、白進学院に進学するのが甲子園への一番の近道だと考えた。
    だが白進学院野球部は、特待で入学した選手以外の入部は認められない。
    「白進学院野球部出身!」という肩書欲しさに入部してきては、途中で問題を起こす生徒もいたために、入部に制限をかけざるを得なかったのである。
    白進学院の特待生として声をかけられるのは、小学、中学時代にクラブチームで硬式野球をやってきた一流選手ばかり。
    エリート中のエリート選手が集まった高校が、甲子園の常連校として君臨するのは、当然の帰結だった。
    甲子園に行くためには白進学院に進学したいと考えた紘一だったが、小学、中学と学校の部活で軟式野球をやってきた者に、白進学院はもちろん、他の私立高校からも声をかけられることはなかった。
    「俺みたいな選手が特待生になれる訳ないよな」
    と、紘一は、地元の普通高校に進学し野球を続けることを決心したのだった。

  • #116

    六輔 (土曜日, 15 6月 2019 22:08)


    紘一が入学した学校は、東庄町に在る唯一の高等学校、東庄(トウジョウ)高校だ。
    小さな町にある東庄高校野球部は、春・夏ともに甲子園に一度も出場したことがない弱小チーム。
    ここ数年、部員不足に苦しみ、大会では初戦敗退を繰り返してきた野球部だったが、礼儀を重んじ、地域のボランティア活動として週に一度の部員全員による学校周辺の清掃活動を長年続けている、それ故、地域から愛され続けている野球部だった。
    そんな東庄高校野球部だったが、紘一が入学した年に劇的に変わったのである。
    それまで長年勤めていた監督が退職し、代わって新任教師が野球部の監督に就いたのも野球部が変わった一つの要因だったが、チームを一気に変えたのは、紘一たち1年生だけで20人が入部してきたことだった。
    「1年が、に、に、20人?すげーな!」
    3年生も2年生も一様に驚いた。
    しかも、まるで互いに引き寄せられてきたかのように、中学時代にはそれなりに活躍した選手が集まってきたのだった。
    紘一もそのうちの一人で、軟式上がりでは将来有望な選手の一人だった。

    新しく監督に就いた先生は、着任早々、部員全員の前でこう言った。
    「やるからには甲子園を目指そう!」
    部員たち全員、監督の言葉はチームの士気を高めるためだけのものだと思った。
    「まぁ、高校球児の合言葉のようなものだよな!」と。
    だが、先生は大真面目だったのである。
    熱血教師の監督は、部員たちに厳しい練習を課した。
    始めのころはその厳しい練習に不満を言う部員がほとんどだったが、厳しさの中にも選手を思う指導が部員たちに受け入れられてくると、「監督を信じてついて行こうぜ!」と口にする選手が増えていき、チームは徐々に戦う集団へと変わって行った。
    ただ、東庄高校野球部が変わったのには、もうひとつの理由があったのである。
    それは、チームを支える一人の女子高生の存在だった。

  • #117

    六輔 (日曜日, 16 6月 2019 21:16)


    甲子園に出場したことのない東庄高校野球部の部員たちが、真面目に「甲子園に行きたい!」と口にするようになったのは、新しい監督が熱血指導でチームを牽引していたことだけではなく、そこに一人の女子マネージャーが居てくれたことが大きな支えになっていたのだった。
    紘一が野球部に入部したその年、一人の女の子がマネージャーとして野球部に入部してきた。
    小柄で細身、ショートカットに右の頬に出来る“えくぼ”が可愛い女の子、水嶋陽菜子(ミズシマ・ヒナコ)だ。

    陽菜子が野球部のマネージャーになったのには、一つ年上の兄の影響もあった。
    陽菜子の兄は、父親が監督を務めるリトルリーグで活躍し、それが認められて白進学院に特待生で入学。時期エース候補として期待されている選手だった。
    陽菜子は、小さい頃から優しい兄を慕い、兄が活躍する試合を応援しているうちに野球というスポーツの魅力を知り、自分が高校生になったときには野球部のマネージャーになりたいと思うようになっていった。
    そんな志を持った陽菜子が、いざ東庄高校へ入学してみると、野球部にマネージャーは存在せず、学校の説明でも野球部に女子の入部は無いという返答だった。
    だが、簡単に夢を諦めたくなかった陽菜子は、直談判するために監督がいる教員室を訪れた。
    『先生・・・私は1年5組の水嶋陽菜子といいます』
    「おぅ…どうした?何かあったのか?」
    『私を野球部に入れてください!マネージャーとして選手たちのために働きたいんです!』
    「マネージャーに?・・・残念だが学校が野球部への女子の入部は認めていないんだよ」
    『はい、そう聞きました。でも私はどうしても野球部のマネージャーになりたいんです!』
    「どうしても?・・・水嶋は、野球に対して何か特別な思いでもあるのか?」
    『えっ?・・・い、いいえ、特別に何かがある訳ではありません。私は純粋に野球というスポーツが好きなんです。ただ、それだけです』
    「そっか・・・マネージャーというものは、軽い気持ちで勤まるものではないんだぞ、水嶋。 どんなスポーツでもそうだが、好きだけで続けられるものではないんだ。精神的にもタフでなかったら・・・分かっているのか?」
    『はい、覚悟は出来ています』
    「・・・そっか、分かった。先生から校長に話してみる。もう一度聞くが、本当に大丈夫なのか? 嫌になったからやっぱり辞めます!という訳にはいかないぞ!」
    『はい。本当に覚悟は出来ています!』
    「分かった!」

    こうして陽菜子は、東庄高校野球部初の女子マネージャーになったのだった。

  • #118

    六輔 (月曜日, 17 6月 2019 21:03)


    憧れていた野球部のマネージャーとして入部を認められた陽菜子だったが、いざ、部活に出てみると、マネージャーの仕事をどんなふうに、また、どこまでやればいいのか全く分からなかった。
    『すみません、先生。何をやったらいいのか分からなくて…』
    「謝る必要はないさ、水嶋」
    『でも・・・』
    「仕方ないさ、誰でも初めてのことは分からないだろう? 分からないことは、分からないと正直に言う! それが水嶋のいいところだ。これからもそんな素直な水嶋でいてくれよ!」
    監督の言葉に陽菜子は、右の頬に“えくぼ”を浮かべ『はい、先生!』と明るく答えた。

    大学野球までプレーヤーとして活躍してきた監督は、マネージャーの仕事の大切さを良く知っていた。
    「水嶋・・・」
    『はい、先生』
    「マネージャーの仕事はな、道具の準備や後片付けだけじゃなく、選手の体調管理や・・・時には悩み事を聞いてやったりしなきゃならないときもあるかもしれない。水嶋なら出来るよな?」
    『はい、先生』
    自分が監督から頼りにされていることが嬉しかった陽菜子だった。

    「マネージャーの仕事は、私が水嶋に教える。あとは水嶋がどんなマネージャーになりたいのか・・・それは自分自身で考えなさい。部員たちはすごく頼りにしているみたいだからな」
    『はい』
    「大変な仕事を水嶋一人にお願いするようなときもあるかもしなれい。すまないな、水嶋」
    『そんな謝るのはやめてください、先生。私もチームの一員なんですから』
    「そうだな…水嶋の言うとおりだな。頼むな、水嶋」
    『はい』

    陽菜子は直ぐにチームに打ち解け、屈託のないのその笑顔はチームにとって無くてはならない存在になっていった。
    上級生の部員からも“ヒナちゃん”と可愛がられ、それに応えるように陽菜子は献身的にチームに尽くした。
    道具の準備、ノックが始まればヘルメットをかぶって監督の後ろにちょこんと立ち、監督の動きに合わせてボールを一つ一つ手渡し、練習の合間には部員たちに水分補給をさせ、部室の掃除から道具の手入れまで・・・
    正直、一人のマネージャーでは辛すぎる仕事量だった。
    それでも陽菜子が、ねを上げることも愚痴をこぼすこともなかった。

  • #119

    六輔 (火曜日, 18 6月 2019 19:33)


    陽菜子の献身的なサポートは、選手の頑張りを引き出した。
    「いつもありがとう、ヒナちゃん!」
    『練習お疲れ様でした、先輩。今日のノックはノーミスでしたね!』
    「お、おぅ~ ヒナちゃんにカッコ悪いところを見せられないからな!」
    『もう直ぐ大会ですもんね!』
    「そうだなぁ」
    『真面目に練習に取り組んできた先輩ですもの、きっと野球の神様がいい結果を与えてくれますよね!』
    「ありがとう、ヒナちゃん。俺、頑張るよ!」
    陽菜子の笑顔が、練習で疲れ切った部員たちを元気づけた。

    そしてそれは、3年生最後の大会、夏の選手権大会を1か月後に控えたある日のことだった。
    練習を終えると、陽菜子が監督室に呼ばれた。
    「水嶋・・・」
    『はい、先生』
    「今日もいい練習が出来た。いつもありがとな」
    『はい。大会まであと一ヶ月ですね』
    「そうだなぁ。水嶋には、色々な仕事を頼んで・・・一人で辛くないか?」
    『辛くなんかないです、先生。部員のみんなも率先して手伝ってくれたりして・・・私が感謝しているくらいです』
    「そっか、水嶋らしい答え方だな。ところで水嶋…」
    『はい』
    「実はな、水嶋にはずっと頼みたい仕事があったんだ。でもな、これ以上水嶋一人に負担をかける訳にはいかないと思ってさ…」
    『えっ? 私に頼みたい仕事って何ですか? 私に出来ることだったら…』
    「う~ん・・・水嶋は、スコアブックはつけられるか?」
    『スコアブック?・・・いいえ、つけられません』

    実は、この時の陽菜子は秘かに独学でスコアブックのつけ方を勉強していたのだった。
    それでも陽菜子は、監督の問いに『いいえ』と答えた。
    それは、野球のスコアブックは覚えることが多く、また、試合中に起きる様々なプレーを瞬時に書き留めなければならく、『つけられます』と答えられるレベルに達していなかったからだった。

    監督は、こう続けた。
    「水嶋・・・大会まであと一ヶ月しかないが、覚えてくれないか? 水嶋には記録員としてベンチに入って欲しいんだ」
    『えっ? 私が大会のベンチにですか?』
    「そうだ!」
    それは陽菜子にとって夢のような話だった。
    『試合中も選手たちのそばで声をかけてあげることが出来る!』
    そう思ったが、二つ返事で『はい』と答えられるほど甘いものではないと分かっていた陽菜子は、答えを返す事が出来なかった。

    監督はこう言った。
    「水嶋は責任感が強いからな。簡単に返事出来ることじゃないよな。 どうだ、2、3日考えて返事してくれないか?」
    『・・・はい、分かりました…先生』

    練習を終え、自宅に帰った陽菜子は、疲れ切った体を労わるようにゆっくりと入浴し、部屋に戻ると勉強机に向かうことなくベッドに潜り込んだ。
    ベッドに入って直ぐに湧いてきた思い、『どうしよう…』
    監督の願いを受け入れたい気持ちと、その責任の重さに心が揺らいだ。
    と、この時、陽菜子の頭の中に一人の部員が思い浮かばれてきた。
    『どう思う?・・・紘一』と。

  • #120

    六輔 (水曜日, 19 6月 2019 20:55)


    陽菜子がベッドの中で紘一を思い出したその理由は、至ってシンプルだった。
    今のチームにあってスコアブックをつけているのが紘一だったからだ。

    陽菜子はベッドの中でスマホを持ち、ディスプレイに一枚の写真を写し出した。
    それは、練習を終えたあと、部室でくつろぐ1年生部員数人と撮ったスナップショット。
    陽菜子は、その写真の隅で嬉しそうに笑う紘一に向かってこう言った。
    『私には、紘一みたいなこと出来ないよ』と。

    紘一は、3年生でショートを守るキャプテンの控え選手だった。
    そのプレーは、一年生でありながらキャプテンと肩を並べるほどのものだった。
    だが、いざ試合になって一つでもミスをすると、そのあとは消極的なプレーになってしまい、結果、ミスを繰り返してしまうという致命的な欠点を克服できずに補欠に甘んじていた。
    『ミスを気にせず思いきりプレーしなさい!』と、監督から何度指導されても、「ミスをしたら先輩に悪い」という変な責任感が紘一のプレーを委縮させてしまい、それが簡単に治ることはなかった。
    ただ、そんな欠点を持つ紘一だが、野球センスはずば抜けていた。

    ある練習試合のときだった。
    ベンチにいた紘一が、大事な場面の要所要所で内野に声をかけた。
    「先輩ー!! 三遊間意識しておきましょう!」
    『おぅ!』
    「先輩ー!! 一塁ランナー、意識高めでいきましょう!」
    『おぅ!』
    「先輩ー!! 次、エンドラン注意でいきましょう!」
    『おぅ!』

    紘一の声掛けは、ことごとく的中した。
    紘一がベンチから「三遊間意識しておきましょう!」と言えば、打球が三遊間に飛び、「一塁ランナー、意識高めでいきましょう!」と言えば、ランナーが盗塁してきた。
    紘一の声掛けは、まるで預言者の言葉のようだった。
    そしてそれがその日の試合に限ってのことではなかったことに、守備につく3年生たちは、紘一の声掛けに常に意識を高めに守っていたのだった。
    「ありがとう、紘一! お前が声をかけてくれていなかったら、さっきの三遊間の打球は捕れなかったよ!」
    『ナイスプレーでしたよ、先輩!』
    『おぅ!』

    試合を終えたあと紘一は監督に呼ばれた。
    「おい、瀧野瀬」
    『はい、先生』
    「今日も、なかなかいい声をかけていたな! お前が、ここぞ!という時に掛けてくれる声は、何度もチームを救ってくれているよ」
    『たまたまです』
    「たまたま? それにしてはお前の予想は相当高い確率で的中しているじゃないか」
    『はい、ですが・・・たまたまです』
    「事実、キャプテンもお前の声に反応していたために、あの三遊間の打球を上手く捕ることが出来たしな」
    『さすがキャプテンでしたよね』
    「そうだな・・・で、お前はどうしてあの時、三遊間にボールが飛ぶと予想したんだ? 」
    『それは・・・』

    監督は、この後の紘一の答えに驚愕するのだった。

  • #121

    六輔 (金曜日, 21 6月 2019 20:00)


    紘一は、その理由をゆっくりと話し始めた。

    『先生がよく話をしてくれるように、野球は確率のゲームですよね』
    「そうだな。 得点出来る確率の高い方法を選んで攻撃し、失点する確率が少ない方法を選んで守備をする。それが野球だな」
    『はい。それでどうしてあの場面でキャプテンに「三遊間意識しておきましょう!」と声をかけたかですけど・・・』
    「おぅ、どうしてそう思ったんだ?」
    『試合の展開、相手チームの攻撃の癖、バッターのスイング、今日のうちのピッチャーの調子、そして自分がキャッチャーならどういう配球をして、どう打ち取りたいか…そしてこれまでの配球から考えると・・・三遊間にゴロが飛ぶ確率が高いと思ったからです』
    「おい、今の話は本当か?」
    『はい』
    「瀧野瀬は、そんなにいくつものことを考えて・・・うちのキャッチャーの配球まで予想して結果を導き出し、そしてその答えを声にして伝えているのか?」
    『はい。ですが、本当にたまたまです。もちろん、全てが予想した通りになる訳ではないですし、高校生投手のコントロールは100%ではないですよね。インコースを狙って投げても、アウトコースに行ってしまうことだってあります。ですが、今日の先輩の投球のコントロールは完璧でした』
    「そうだな」
    『それと、うちのキャプテンは、三遊間に意識を強くもっていても、それとは逆方向の二遊間にボールが飛んでも大丈夫なように、意識の半分を残して守ってくれているので、安心して声をかけられるんです』
    監督は、あまりにもの驚きに言葉を失い、ようやく心の中でこう言った。
    「一年生で、ここまで野球を知っているとは。大学生だってそこまで考えてプレーしている選手は滅多にいない。瀧野瀬は野球センスの塊だ!」と。

    監督が黙っていることに不安になった紘一は尋ねた。
    『先生・・・僕の考えは間違えていますか? チームにとってマイナスになるようなことは声に出さないように注意しているつもりなんですけど・・・』
    監督は笑みを浮かべて言った。
    「いやっ、間違えてないさ。ただ、ここまで深く考えて声を出していたとは・・・驚いたよ、瀧野瀬」
    『良かったぁ』
    「一つ聞いてもいいか?」
    『はい』
    「もしかしてお前は試合中の全球のコースや球種を覚えているのか?」
    『なるべく覚えるようにしているんですけど・・・時々思い出せないときがあって・・・』
    「それならスコアブックを自分でつけたら、もしかしてもっといろんな予想がつくようになるか?」
    『はい!』

    こうして紘一がスコアラーとなり、監督のそばでサポートすることになったのだった。

  • #122

    六輔 (土曜日, 22 6月 2019 18:51)


    ベッドの中で写真に向かって『紘一どう思う?』とずっと眺めていた陽菜子だったが、瞼をゆっくりと閉じた瞬間、疲れにさらわれるように眠りについてしまった。
    翌朝、「おはよう…今日も頑張って!」と、キティちゃんのおしゃべり目覚まし時計に起こされた陽菜子は、毎日のルーティンを守って登校準備をし家を出た。
    駅まで10分、自転車を飛ばしながらも頭の中は
    『ベンチにいてみんなを応援したい・・・でも、記録員を自分に務められるのかな』と、心の葛藤が消えることはなかった。

    学校に着いて、授業中にも意識はずっとそのことばかりだった。
    6つの授業があっという間に過ぎ、ホームルームも終えた陽菜子は、部室へと向かった。
    女子マネージャー用の部室がなかったことに、陽菜子は女子バスケ部の部室の隅っこを間借りしていた。
    そこで上下ジャージに着替え、マネージャー用具一式を持って部室を出ると直ぐに真っ白な野球のユニフォームを着た部員が陽菜子に近寄ってきた。
    『あっ、紘一・・・どうしたの?』
    「あのさ、今日部活が終わったら、ちょっと話したいことがあるんだ」
    『えっ?…な、なに?』
    「大事な話なんだ」
    『えっ?・・・大事な話?』

    この時の陽菜子は、ここ1、2週間の紘一の様子を思い出していた。
    『紘一、私に何か話したいことでもあるのかなぁ…』
    と、そんなふうにずっと感じていた陽菜子だった。
    練習帰りに「あのさ…」と、呼び止められたこともあったが、紘一は「いやっ、やっぱり何でもない」と話をせずに立ち去って行ったこともあった。
    陽菜子は頭の中で、
    『紘一はやっぱり話したいことがあったんだ。でも、大事な話ってなに? …大事な話って…』
    と、一瞬にして様々な想像が頭の中を駆け巡った。
    そして、顔が紅潮してきたことに気づいた陽菜子は、慌てて平静を装って答えを返した。
    「わ、分かった、じゃぁ帰り校門のところでいい?』
    「ううん、分かった。よろしく!」

    グランドに向かって走り去った紘一の背中を追いながら、陽菜子は小声でつぶやいた。
    『ねぇ、紘一・・・大事な話ってなに?』と。

  • #123

    六輔 (日曜日, 23 6月 2019 21:24)


    部活中は、いつも通りにマネージャーの仕事をこなしていた陽菜子だったが、徐々に近づく紘一との時間に、胸の高鳴りを抑えることが出来なかった。
    グランドでは何事もなく練習を終え、いつも通りに部室に戻った陽菜子は、先に部室に戻ってきていたバスケ部女子との会話もそこそこに着替えを済ませ部室を出た。
    校門の前に着くと、そこに立っていることが人目につくと考えた陽菜子は、校舎の影に立って紘一が来るのを待った。
    待ち始めて20分、ようやく紘一がやってきた。

    「待たせてごめん!」
    『私も今来たところだよっ!』
    「ごめんね…」
    『そんな謝らないでよ、紘一』
    優しく謝ってきた紘一は、ユニフォームを着てグランドに立つ紘一とはまるで別人のようだった。
    紘一とは野球以外の話をしたことがなく、この時初めて二人きりになって紘一の違った一面を知った陽菜子だった。

    「急につき合わせちゃってごめんな」
    『ほらっ、紘一ったらまた謝ってる!』
    「そっか(笑)」
    『でも初めてだね、こうして二人でグランド以外で話すのは』
    「そうだね」
    『部室にいるときとか、他の一年生たちは結構気軽に話しかけてくるけど、紘一は・・・紘一は野球のことしか考えてないもんね(笑)』
    「まぁ、ユニフォームを着てる訳だし・・・野球のことしか考えていないのは普通だと思うけど…」
    『(笑)ごめん、ごめん。別にそれが悪いって言ったんじゃないんだよ、紘一』
    「そっか」
    『ねぇ、紘一・・・ところで大事な話があるって…なに?』
    「あぁ~そうだったね。う~ん…ここじゃなんだから駅前の喫茶店に行こうよ。あっ、でも陽菜子が電車一本遅れちゃうかな? としたら、やっぱりここで話した方がいいのかな?」

    高校に入学して3ヶ月、男の子と二人きりで話したことも、もちろん喫茶店や食事に行ったこともなかった陽菜子は、ときめきと恥じらい、また、どんな話をされるのかという不安な気持ちとで直ぐに返事が出来なかった。
    それでも、紘一とたくさん話がしたいという思いが陽菜子の背中を押してくれた。
    『電車、一本遅れるのは全然大丈夫だよ』
    「ほんと?」
    『うん、行こう!』

    不安な気持ちを消し去り、えくぼを浮かべ可愛らしく微笑みながら答える陽菜子がそこにいた。

  • #124

    六輔 (月曜日, 24 6月 2019 19:22)


    自転車通の紘一が自分の自転車を押し、二人は肩を並べて歩き始めた。

    「なぁ、陽菜子・・・」
    『うん? なぁに紘一』
    「今まで、面と向かって言えなかったんだけどさ…」
    『えっ?…なに、あらたまって』
    「いつもありがとうね」
    『えっ?何がありがとうなの?』
    「マネージャーのお仕事。部員のためにいつも一生懸命にさ」
    『あぁ・・・だって私が望んで野球部に入れてもらったんですもの。少しでもみんなの役に立ちたいって・・・野球部のみんな優しくしてくれるから…私の方こそありがとうだよ』
    「陽菜子の優しさにみんな甘えちゃってさ・・・一人で大変な時もあるだろう? なるべく陽菜子一人に負担をかけないようにしようぜ!って、一年はみんなで話しているんだ」
    『えっ? そ、そんなこと気にしないで。私も部員の一人なんだからさ!』
    「そうだな。これからも俺たちのこと、よろしくな」
    『私のほうこそ』

    「なぁ、陽菜子…」
    『うん?』
    「一度聞いてみたいと思ってたんだけどさ・・・陽菜子が野球部のマネージャーになりたいと思った一番の理由はなんだったの?」
    『一番の理由?・・・やっぱり一番は、野球っていうスポーツが好きだからかなぁ』
    「野球を好きになる何かのきっかけがあったの?」
    「きっかけ?・・・」

    陽菜子は、入部して3ヶ月が経っても監督はもちろん、部員達にも自分の兄が白進学院の時期エース候補として期待されている選手であることを言わずにいたのだった。
    他校の野球部員と兄妹であることを隠さなければならないことだと思った訳ではなかったが、もし、大会で戦うようなことがあった時には、余計な心配をかけたくないと、あえて自分から話さずにいたのだった。
    ただ、この時の紘一の質問に正直に答えるためには、そのことを打ち明けなきゃならないことに、陽菜子は戸惑った。
    『・・・どうしよう』

    困った表情を浮かべている陽菜子に気づいた紘一は尋ねた。
    「あっ、俺…俺、なんか変なこと聞いちゃったのかな?」
    『えっ? そ、そんなことないよ』
    陽菜子は、紘一には正直に話そうと思った。
    『あのね、紘一・・・』

  • #125

    六輔 (火曜日, 25 6月 2019 19:48)


    「そうだったんだぁ・・・白進学院の水嶋さんの妹だったんだぁ」
    『えっ? お兄ちゃんのこと知ってるの?』
    「知ってるもなにも、2年生で白進の1番を背負うかもしれないって噂されている選手だもん。 知らなかったら“もぐり”って言われちゃうよ(笑)」
    『ねぇ、紘一・・・私がこのことを話したのは紘一が初めてなの』
    「えっ? 監督にも話してないの?」
    『うん・・・だって…』
    「だって?・・・そっか、もし大会で白進学院と戦うようになったときに、監督や部員達に変な気を使わせないように…だね、陽菜子」
    『・・・うん』
    「この先も話さないつもりなの?」
    『・・・うん』
    「そっか、分かった。もちろん俺も話さないよ。だけどさ、もしかしたら自然と分かっちゃう時がくるかもしれないな」
    『・・・うん』
    「でも大丈夫、陽菜子の気持ちはみんな分かってくれるさ。だから何も心配せずに、なっ、陽菜子」
    『ありがとう、紘一』

    自分を気遣ってくれる紘一が眩しかった。
    『やっぱり、私が想像していた通り紘一は優しい』
    と、初めて二人きりで話せたことが嬉しかった陽菜子は、それまでずっと聞くことが出来ずにいたことを口にしたのだった。
    『ねぇ、紘一・・・ひとつ聞きたいことがあるの』
    「なに?」
    『紘一はどうしてサードへのコンバートの話を断ったの? 監督は紘一をサードのレギュラーで使おうとして言ったのは分かってるんでしょ?』
    「そ、それは・・・ショートが好きだからだよ」
    『嘘!』
    「はっ? う、嘘じゃないよ!」
    『じゃぁ分かった。100歩譲って紘一がショートというポジションが好きなことは認める。認めたうえでもう一度聞くけど・・・紘一は試合に出たいでしょ?』
    「も、もちろん出たいよ!」
    『じゃぁ、サードで使ってもらえば? 監督はきっと紘一をレギュラーで使ってくれるはずよ』
    「だ、だから・・・俺はショートが好きだから…」
    『それって、矛盾してるよ紘一。試合に出たかったら監督のコンバートの話を受けたはずでしょ?』
    「・・・・・」
    『じゃぁ、キャプテンがサードに行って、自分がショートのレギュラーになりたいと思ってるの?』
    「・・・えっ?」

  • #126

    六輔 (水曜日, 26 6月 2019 20:03)


    紘一は、真顔で答えた。
    「そんなこと思ってないよ! キャプテンに勝てる訳ないじゃん」
    『ねぇ、紘一・・・もしかしてだけど…もしかして3年生の先輩を蹴落としてまで試合に出たくないって思ってるの?』
    「そうじゃないけど…」
    『それならどうして…』

    表情を強張らせ、口を閉ざしてしまった紘一に、陽菜子は慌ててその場を取り繕った。
    『ご、ごめん・・・マネージャーの私が生意気なこと言って』
    「えっ? い、いやっ、陽菜子はチームを思って言ってくれてるって分かってるから・・・俺の方こそ、ちゃんと答えられなくてごめん」
    と、陽菜子は一番に可愛い笑顔をつくってこう言った。
    『ねぇ、紘一・・・甲子園に行きたいね!』
    「えっ? あっ、う、うん! 行きたい!」
    と、陽菜子は茶目っ気たっぷりにこう言った。
    『でもなぁ・・・紘一が甲子園に行くためには、まずは“チキン”を治さなきゃね!』
    「はっ?」
    『“チキン”を治さなきゃ!って言ったの』
    「なんだよ、それ!」
    『だって、紘一はここぞっていう時にエラーするんだもん。しかも紘一のエラーは全部悪送球! あれってチキンだからでしょ?』 
    「ち、違うよ。大事に行こうと思ってプレーすると・・・」

    口を尖らせて機嫌悪そうにしている紘一に陽菜子は言い過ぎてしまったことを反省し、いつもの優しい表情に変えてこう言った。
    『私ね、甲子園に行きたい。お兄ちゃんは、1年の夏から甲子園のベンチ入りメンバーに選ばれてさ・・・ねぇ、紘一、東庄高校野球部が甲子園に行くためには、お兄ちゃんの学校を倒さなきゃだめよね?』
    「そうだね・・・もう8年連続で甲子園に出場しているんだからね。今年も、来年も、再来年も・・・今年特待で入部したメンバーは、中学時代に全国大会で活躍したような選手ばかりだし・・・白進学院を倒さなきゃ甲子園には行けないよな」
    『倒す自信ある?』
    「・・・ある!って答えたいけど…」
    『そうよね、すごい力の差があるんだろうなぁって思う』
    「・・・うん」
    『でもさ、紘一が甲子園に行くチャンスは5回もあるんだもの。目標は甲子園! みんなで頑張りましょうよ、ねっ紘一』
    「そうだな!そのつもりで頑張るよ」
    『そのつもり? つもりじゃ、いやっ!』
    「(笑)分かったよ、陽菜子」
    顔を見合わせて微笑んだ紘一と陽菜子は、見えてきた駅前の喫茶店に一緒に視線をやった。
    「着いたね」
    『うん!』
    まるで恋人同士のような二人だった。

  • #127

    六輔 (木曜日, 27 6月 2019 20:29)


    店の中に入ると他の高校生の姿は無く、何故かホッとした二人は、窓際の席を選んだ。
    「ここでいい?」
    『うん!』

    直ぐにアルバイト風の女性の店員さんが水とおしぼりを持って現れた。
    『いらっしゃいませ。ご注文が決まりましたら声をかけてくださいね』
    「あっ、はい」
    慣れない喫茶店、しかも陽菜子が目の前に座っていることに緊張気味に答えた紘一だった。
    「な、なににする?」
    『う~ん・・・』
    「俺・・・アイスミルクにする。あっ、一応野球選手だからな!」
    『(笑)そっか。わたし・・・私はレスカにしようかな』

    オーダーした後は、雰囲気にのまれ言葉少なになってしまった紘一に陽菜子が先に口を開いた。
    『な、なんかさぁ、二人とも緊張してる?』 
    「別に緊張してる訳じゃないけど・・・」
    『ここまで来るときには、普通に話せたのにね…おかしいよねっ』
    「だ、だから別に緊張してないって」
    明らかな嘘だった。
    言っている方も言われている方も緊張していないはずがないと分かっていても、それを嘘だと正すことは出来なかった。
    と、こういうときはやっぱり男が!と、急に使命感を思い出した紘一が口を開いた。
    「お、俺さ、小学校3年から野球を始めたんだ。小学生の頃はすごく体が小さくて、体の大きな同級生に、投げても打っても敵わなくてさ・・・必死に練習したんだ」
    『負けず嫌いの紘一? だもんね』
    「そうだな。でも必死に練習したおかげで小学校の時は5年生から、中学の時も2年生から上級生に交じってレギュラーで試合に出れたんだ」
    『そうなんだぁ・・・活躍した?』
    「もちろんさ!」
    『へぇ~ 見たかったなぁ、中学生の頃の紘一のプレーも』
    「特別に上手かった訳じゃないけど…先輩に迷惑かけないように!って、そればかり考えてたなぁ」
    『そうねぇ・・・最上級生にとっては最後の大会になる訳だし・・・下級生が迷惑をかけられないっていうのは、みんな同じ気持ちなんじゃないのかな』
    「そうだな」

    と、普通に話していた紘一だったが、会話が一瞬途切れると「ふぅ~」と一つ息を吐き、目の前にあった水を一気に飲み干して緊張した面持ちに変えて急に切り出したのだった。
    「陽菜子・・・俺・・・好きなんだ」
    『・・・えっ?』

  • #128

    六輔 (金曜日, 28 6月 2019 19:57)


    いきなりの告白に顔を紅潮させ、言葉を探す陽菜子だった。
    黙っている陽菜子に紘一は、何故陽菜子が顔を赤くしているのかと、その理由を考えることもなくこう続けた。
    「好きなんだ・・・スコアラーの仕事」
    『・・・えっ? スコアラーの仕事?』
    「うん。スコアブックをつけながら、次のプレーの予想をしたりしてさ・・・監督の隣でつぶやくんだ。次、走ってくるかもしれませんね、とか、先輩の守備位置のこととか…」

    この時の陽菜子は、「俺・・・好きなんだ」と、修飾語の無い紘一の言葉を勝手に自分への告白だと思い込んでしまったことに落胆し、
    『そうよね、だって四六時中野球のことしか考えていない紘一が、私のことを好きになって、ましてやいきなり告白なんかしてくるはずないもんね』
    と、恥じている中での紘一の話は一切耳に届かなかった。

    「ねぇ、聞いてる?」
    『えっ?』
    「スコアラーの仕事ってやりがいがあるよな」
    『えっ?…あっ、うん』
    上の空で答えた陽菜子は、一瞬に顔の色を元の肌色に戻して心の中でこうつぶやいた。
    『でも、紘一はどうしていきなりスコアラーの話をしたの? もしかして先生から私を説得するように頼まれたの?』
    そう考えた陽菜子は、ストレートに尋ねることを決めたのだった。
    『ねぇ、紘一』
    「うん?」
    『どうしていきなりスコアラーの話をしたの? もしかして先生に頼まれたの?』
    「えっ? 監督に? 頼まれた? 俺が? 何を?」

    紘一の態度は嘘偽りないものだった。
    『先生に頼まれたんじゃなかったんだぁ・・・』
    と、理解した陽菜子は正直に全てを話し始めた。
    『ねぇ、紘一・・・』
    「うん?」
    『実はね、私、先生からお願いされたの…スコアブックを付けられるようになって、夏の大会には記録員としてベンチに入ってくれって』
    「えっ? それホンとなの?」
    『うん、ホンと。実はね、私、野球部に入って直ぐにスコアブックのつけ方の勉強を始めていたの』
    「えっ、そうだったんだぁ」
    『…うん。でもねっ、すっごく難しくてさ・・・しかも、練習試合でスコアブックを付けている紘一の様子を見ていると、ピンチになったときとかスコアブックを見ながら先生といろんな話をしているでしょ? あれってスコアラーの大切なお仕事なんだろうなぁって・・・私じゃ、スコアブックを付けるだけで精一杯でしょ?だから、先生から頼まれても簡単に受けられる話じゃないなって考えていたの・・・それに、いま、紘一からスコアラーの仕事がやりがいがあるって聞かされちゃったら、その仕事を奪うことになっちゃう訳でしょ?・・・だから』
    「だから、なに?・・・陽菜子」
    『だから・・・わたし断るよ、記録員になってベンチに入ること』

  • #129

    六輔 (土曜日, 29 6月 2019 20:33)


    紘一は、表面にいくつもの水滴が着いたグラスに入ったアイスミルクを一気に飲み干して話を始めた。
    「なぁ、陽菜子・・・」
    『うん?』
    「今日、俺、陽菜子に大切な話があるって言ったでしょ?」
    『あっ、…うん』
    「その話ってね、陽菜子が言った記録員の話なんだ」
    『えっ?そうなの?』
    「うん。陽菜子に記録員としてベンチに入って欲しいと思って・・・ごめんな、知らなかったんだ、陽菜子がこっそりスコアブックのつけ方の勉強を始めていたなんて。知っていたら・・・なぁ、陽菜子…」
    『あっ、はい』
    「ぜひ記録員としてベンチに入ってくれ! 先生から頼まれているなら尚更だよ!」
    『でも・・・』
    「でもなに? 俺に気を使う必要なんかないし、それに俺がベンチの中でやれることは、別にスコアラーじゃなくても出来ることだよ。陽菜子が記録員になってくれたとしてもこれまでと何も変わらないさ」
    『・・・・・』
    「もしかして不安なのか? 覚えるのが大変って」
    『・・・うん』
    「それなら俺が教えるよ。試合中も陽菜子の隣にいる。それならいいだろう?」

    陽菜子に紘一の話を断る理由は見つけられなかった。
    『本当に教えてくれる?』
    「あぁ、任せておけよ」
    『優しく教えてくれる?』
    「・・・なるべくな」
    『はっ? なるべく?なるべくじゃいやっ! 優しく教えて。だって、難しすぎるんだもん』
    「そうだなぁ、いろんなプレーを覚えなきゃならないしな。でも陽菜子なら大丈夫さ!」
    『そんな簡単に言わないで!』
    「簡単に言ってる訳じゃないけど・・・」

    『ねぇ、紘一・・・』
    「うん?」
    『一つ聞きたい! どうして、私にベンチに居て欲しいって考えるようになったの?』
    「そ、それは・・・」
    『なに?』
    「だから・・・」
    『だから、なに?』

  • #130

    六輔 (日曜日, 30 6月 2019 20:08)


    次の日の練習が終わった時だった。
    部員たちを整列させ、前に立った監督が話を始めた。
    「お前たちに話がある。実はな、水嶋には夏の大会に記録員としてベンチに入ってもらうことになった」
    部員たちからは歓喜に沸いた声が発せられ、その後に代表してキャプテンが口を開いた。
    『先生、自分たちは水嶋がベンチに居てくれたらとても心強いです』
    「そうだよな。水嶋がかけてくれる声はお前たちの力になるからな」
    『はい!』
    「実はな、水嶋は先生にもお前たちにも内緒でスコアブックのつけ方を勉強していたそうなんだ」
    『そうなのか?・・・水嶋』
    キャプテンの問いかけに陽菜子はうなずいた。
    『先生、自分たちは水嶋が陰でそんな努力をしていたなんて知りませんでした。すみません』
    「まぁ、お前たちが謝ることではないさ。水嶋に記録員になってくれと話した時、始めはいい返事がもらえなかったんだけど、今日、水嶋の方からやってくれると返事をもらったんだ。それでな、お前たちにお願いしたいことがあるんだ」
    『何ですか先生! 自分たちに協力できることなら何でもやります』
    「まぁ、そんな大それたことではないんだが・・・瀧野瀬…」
    『あっ、はい!』
    「水嶋にスコアブックのつけ方を教えてやって欲しいんだ。お前が一番分かっているだろうからな」
    『はい、分かりました』
    「それとだ、瀧野瀬と水嶋には、練習後のグランド整備や道具の手入れの時間を使って勉強会をやってもらうことになる。だから二人の分を他の部員たちみんなでカバーしあってやって欲しいんだ。キャプテン、それでいいな?」
    『もちろんです、先生。瀧野瀬に頼むのが一番だと思いますし、他に何かあれば全員で協力します。それが東庄高校野球部ですから!』
    「頼んだぞ、みんな」
    『はい!』

    その日、監督が話したことは全て陽菜子が条件として監督に伝えていたことだった。
    こうして、紘一と陽菜子の勉強会が始まった。

  • #131

    六輔 (月曜日, 01 7月 2019 20:26)


    『ねぇ、どうして三振のときに「K」って記号を使うの?』
    「どうして? どうしても! 三振は「K」! そう覚えてくれればいいから!」
    『わたし、それじゃいやっ! どうして三振が「K」なのか・・・その理由が分かった方が覚えられると思うから。ねぇ、どうして「K」なの?』
    「だから理由は関係なく覚えてくれよ」
    『あっ、約束が違う!』
    「えっ? 約束?」
    『優しく教えてくれるって約束してくれたでしょ!』
    「もぉ~・・・じゃぁ俺の知ってる限りで話すけど、それでいい?」
    『うん!』
    「三振を「K」で書くようになった理由はね、いろいろな説があるんだ。5を数えるとき「正」の字を書いたりするよね。「K」は3画でしょ。それでストライク・スリーを表すのに都合が良かったっていう説もあるし、アウトのことを1死、2死って言うときがあるでしょ。それで三振イコール打者の死、つまり打者を殺したの「KILL」の「K」を採ったっていう説もあるんだ。他にもたくさんあるらしいんだけど、実際のところは正確な理由は分からないみたいなんだ」
    『へぇ~そうなんだねぇ・・・ねぇねぇ、紘一』
    「うん?」
    『じゃぁさ、どうしてチャンスの時に代わるバッターを“ピンチヒッター”って言ったり、代わる走者を“ピンチランナー”って言うの? こっちのチャンスの時に代わって出場する選手なのに、ピンチって言われちゃったら可哀相だよ。“チャンスヒッター”って言ってあげて欲しい!』
    「ごもっともだね。…で、それも理由が知りたいっていうの?」
    『あれ~ 紘一、成長してるね! だんだん私の性格が分かってきた(笑)』
    「もぉ~ しょうがないなぁ…それはね・・・」

    こうして“知りたがり陽菜子”の性格に徐々に慣れていった紘一だった。
    そして、理屈さえ分かれば物覚えのいい陽菜子は、5日間の勉強会で紘一の持つノウハウを受け継ぎ、翌日の練習試合を迎えることになった。

    『ねぇ、紘一・・・』
    「うん?」
    『わたし、明日頑張るから』
    「あぁ、陽菜子なら大丈夫さ」
    『でも、初めて実際のゲームを見ながらスコアブックを付けるんだし、どんなプレーが起きるか分からないから・・・もしもの時はサポートしてね』
    「もちろんだよ」
    と、答えた紘一の笑顔を見た陽菜子は、少しだけ頬を赤くしてこう言った。
    『ねぇ、紘一・・・紘一はやっぱり優しいね』
    「はっ?べ、別に普通だよ!陽菜子に覚えてもらわなきゃ、ベンチにいて試合に集中できないからな!」
    『そ、そうだよね。ねぇ、紘一・・・』
    「うん?」
    『ちゃんと約束守ってよね!』
    「約束?」
    『忘れたとは言わせないからね! 私が明日の試合で紘一に助けを求めずに、一人でスコアブックを完璧に付けられたら、その時は・・・っていう約束』
    「えっ? そ、そんな約束したっけな?」
    『もぉ~とぼけちゃって! 大丈夫! 紘一は優しいから必ず約束を守ってくれるもん!』

    ひと際可愛い笑顔の陽菜子がそこにいた。

  • #132

    六輔 (火曜日, 02 7月 2019 19:50)


    大会まで一ヶ月を切り、練習試合も残すところ6試合。
    3年生を中心にレギュラーに選ばれた選手たちは、確約されている訳ではない“スタメン”を確実のものにしようと、そして、控えに甘んじている選手たちは、レギュラーに代わって“スタメン”の座を勝ち取ろうと必死になっていた。
    監督の教えは、学年を問わず部員全員の「チーム力」で勝ち上がっていこうというもので、その精神が浸透してきていたチームは、その日の練習試合に最高の雰囲気で完勝した。

    遠征先から学校に戻ってきた部員たちは、バスを降りると直ぐに整列し、世話になったバスの運転手に一礼した後、すぐさま監督を囲んだ。
    「いい試合だったぞ!」
    『はい』
    「今日はこれで解散とする。各自課題を持つ者は自主練に励んでよし!以上だ」
    『ありがとうございました』

    バスからおろした道具を一年生が中心になって運んでいるなか、陽菜子は一番後ろから付いて部室へと向かっていた。
    と、キャプテンが声をかけてきた。
    「ヒナちゃん!」
    『はい』
    「今日はどうだった? 初めてのわりには、しっかり記録員を務められたんじゃないの? やっぱりヒナちゃんがベンチにいてくれると俺たちは心強いよ」
    『・・・はい』
    「うん? どうした?なんか元気ないな…」
    『迷惑をかけずにやりたいと思っていたんですけど・・・結局、瀧野瀬君の力を借りてしまいました』
    「そっか。でも瀧野瀬もしっかりサポートしてくれていたし・・・残りの練習試合で完璧になるさ! なっ、ヒナちゃん」
    『はい、キャプテン』

    気が付けば、全部の部員が自主練をするためにグランドに向かっていた。
    『キャプテンも自主練するんですね』
    「あぁ、このグランドで野球をやれるのもあと一ヶ月だからな。ヒナちゃんは帰るんだろう?」
    『・・・いいえ。瀧野瀬君に言われたんです。今日の復習をやるって』
    「(笑)そっか、そっか。瀧野瀬らしいな!」
    『笑わないでください、キャプテン』
    「すまん、すまん。瀧野瀬にしっかり教えてもらって、大会は頼むよ、ヒナちゃん」
    『はぁ~い』
    と、キャプテンは優しく微笑んでこう言った。
    「なぁ、ヒナちゃん…」
    『あっ、はい』
    「瀧野瀬とお似合いだよ!」
    『えっ?お似合い?・・・な、なに言ってんですか、キャプテンは!』
    と、あからさまに顔を紅潮させてかみついた陽菜子にキャプテンはこう返した。
    「ヒナちゃんは分かりやすいな! 3年生はみんな応援してるんだよ、陰ながらな」
    『えっ?・・・応援?』
    「さて、俺は自主練! ヒナちゃんも頑張ってな! 復習!」
    と、グランドに向かって走りだしたキャプテンは、陽菜子の呼び止めを無視して振り向くことなく去って行った。
    『紘一と似合ってる?・・・応援?・・・わたし、紘一とは普通に接してきたもん! カマかけられたのよね。もぉ~』

  • #133

    六輔 (水曜日, 03 7月 2019 20:09)


    『よろしくお願いします』
    「そんな堅苦しい挨拶するなよ、陽菜子」
    『え、だってぇ・・・結局紘一に助けられちゃった』
    「無理もないさ、あんなプレー、そう滅多にあるもんじゃないんだから。それに教えたことはほぼ完ぺきに出来ていたじゃん! すごいよ、陽菜子の吸収力は」
    『でもさぁ・・・ごめんね、紘一』
    「どうして謝るの?」
    『紘一を試合に集中させてあげられなかったから』
    「そんなこと気にするなよ! 今日が初めての実戦練習なんだから、本当に上出来だよ」

    そんな会話を交わして陽菜子は、その日のスコアブックをバックから取り出しながら寂しそうにつぶやいた。
    『あ~ぁ、せっかく約束していたのに・・・紘一に助けを求めちゃった』
    「約束?・・・あぁ~」
    『ダメでしょ? 全部一人で出来なかったんだから…』
    「そうだな、そういう約束だったしな」
    『・・・ケチ(小声で)』
    「はっ? なんか言った?」
    『言ってない』
    「・・・言ったし…ケチって」
    『・・・聞こえたんだったら聞かないでよ!』

    「なぁ、陽菜子・・・」
    『うん?』
    「そんなふくれっ面は陽菜子に似合わないよ!」
    『どうせ、ブスだし! でも…似合わない?だったら教えてよ!紘一がどうして私にベンチに居て欲しいって考えるようになったのか。あぁ~でも紘一はきっとこう言うだろうなぁ・・・・教えてあげようと思ってせっかく約束していたのに、陽菜子がスコアブックを付けられなかったからなぁ・・・ってね』
    「当ったり~!!!」
    『ほらっ、やっぱり』

    と、しょげてうつむいた陽菜子の頭の上にポンと手を乗せて紘一はこう言った。
    「なぁ、陽菜子」
    『えっ?・・・』
    「陽菜子は東庄高校野球部の部員だろう?」
    『うん』
    「陽菜子はチームの大切な戦力なんだ。大会でも陽菜子の力をベンチに居て十分に発揮して欲しい」
    『はい』
    「それになっ、陽菜子・・・陽菜子に記録員になって欲しいと思った本当の理由はなっ…」
    『えっ?…ほ、本当の理由? 言って…紘一』

  • #134

    六輔 (木曜日, 04 7月 2019 19:36)


    グランドでは、部員がそれぞれの目的をもって自主練に励んでいた。
    と、部室から紘一が「じょ、冗談だよ! 勘弁してくれぇ~」と飛び出し、その後を追って陽菜子も飛び出してきた。
    『紘一~~~!!!』
    それを部員たちは、呆れ顔で見ながらつぶやいた。
    「あいつら喧嘩してるぜ!」
    『まぁ、喧嘩するほど仲がいいっていうからな。俺たちは、陰ながら応援してやろうぜ、なっ!』
    「そうだな…キャプテン」

    紘一を追いかけている自分に部員たちの視線が集まっていることに気づいた陽菜子は、我に返って足を止めた。
    『瀧野瀬く~ん! もっとちゃんと教えてよ~』
    陽菜子の演技を援護射撃するようにキャプテンが声を出した。
    「おい、瀧野瀬!」
    『あっ、はい!』
    「今日の復習は終わったのか?」
    『はい、終わりました』
    「それなら、お前も早く自分の練習を始めろよ! 気が散って自主練の邪魔だからさ!」
    『すみません、キャプテン!』

    「ヒナちゃん!」
    『はっ、はい』
    「瀧野瀬のティーバッティングに付き合ってやってくれ!」
    『はい、キャプテン!』

    そんなやりとりを聞いていた一年部員の山下が紘一に声をかけた。
    「おい、紘一!」
    『お、おぉ。なんだ山下』
    「ここ空けるからティーバッティングやれよ!」
    『いいのか?』
    「俺たちはバントの練習を始めるから」
    『そっか、すまない』
    「紘一は陽菜子の指導で、しばらく自主練も出来なかったろう?」
    『まぁ、そうだけど・・・』

    「おい、陽菜子」
    『あっ、はい』
    「今度は紘一の練習に付き合う番だぜ!」
    『うん!』
    「まったく、世話のやける二人だぜ!」
    『はっ?』

    山下が去ったところでティーバッティングを始めた紘一と陽菜子。
    「・・・陽菜子が追いかけるからキャプテンに叱られたし」
    『・・・紘一が変な冗談言うからだし』
    「・・・いいから早くトスしてくれよ!」
    『・・・分かった』

    互いの気持ちに気づきながらも、それを互いに口に出すことも、確認しあうこともなく、それでも二人の距離は確実に縮まっていったのだった。

  • #135

    六輔 (金曜日, 05 7月 2019 20:43)


    監督が変わり、紘一たち20名の一年生部員を迎え入れた東庄高校野球部は、それまでの野球部とはまるで別のチームのように生まれ変わっていた。
    ただ、チームが戦う集団へと変わっても、それまで先輩達が守り続けてきた“伝統”はしっかりと受け継がれていた。
    週に一度の街に出ての清掃活動と挨拶だ。
    それ故、ずっと変わらずに応援を続けてきてくれた熱烈なファンがいた。
    そう、町の人たちだ。
    野球部員を見かければ、「大会には応援に行くからね! 頑張ってね」と声をかけてくれる町民に、部員も必ず笑顔で応えた。
    『はい!頑張ります!』と。

    大会を一週間後に控えた日、監督からベンチ入りメンバーが発表され、同時に背番号が一人ひとり手渡されていった。
    「16番・・・瀧野瀬」
    『はい!』
    「頼んだぞ、瀧野瀬」
    『はい!』
    紘一は、ショートを守るキャプテンの控え選手として背番号16を背負いベンチ入りを果たした。
    そして、ベンチ入り20名の背番号を渡し終えた監督は、ゆっくりと陽菜子の前に立った。
    「水嶋・・・」
    『はい』
    「水嶋には無理なお願いばかりしてきてすまなかった」
    『そんなことありません・・・先生』
    「よく頑張ってスコアブックのつけ方を覚えてくれたな。記録員としてチームの力になってくれ!」
    『はい』
    スコアブックのつけ方を完璧に覚えた陽菜子は、約束通り記録員としてベンチ入りすることになった。

    陽菜子の前を離れ、中央に立った監督は部員たちを前にして話を始めた。
    「よく厳しい練習についてきてくれた。だからこそお前たちには勝って欲しい!試合でプレーをするのはお前たちだ!練習は嘘をつかない!お前たちなら大丈夫だ・・・つきなみな言葉になるが、悔いの残らない試合をしよう!」
    部員全員が、凛とした表情で監督の言葉に応えた。
    『はい!!!』

  • #136

    六輔 (土曜日, 06 7月 2019 20:07)


    いよいよ大会が始まった。
    夏の選手権大会は、新人戦や春の大会とは雰囲気がまるで異なる。
    クラスから応援部員が選ばれ、しかもブラスバンドが灼熱の太陽の下でスタンドに立つ。
    高校の部活動にあって、学校を挙げての応援団が編成されるといった特別な扱いを受けるのは野球部だけだ。

    試合は大会二日目の第二試合、対戦相手は奇しくも昨年と同じ明星(メイセイ)高校。
    毎年ベスト8以上に勝ち進む公立の強豪校で、昨年は、7回コールド8-0で完敗を喫している。
    東庄高校野球部をずっと応援し続ける町の人たちに、口に出して言う者はいなかったが、
    「また明星なの?・・・じゃぁ今年も一回戦…かなぁ」
    と、内心はそう思わざるを得ないような対戦相手だった。

    試合当日を迎えた。
    真っ白な大会用のユニフォームに身を包み、凛々しい顔でバスに乗り込む部員たち。
    校舎の前に並んだ応援団たちに「頑張れよー!」と見送られ、部員たちを乗せたバスは一足先に球場へと向かった。
    試合会場となる球場は、決勝戦が行われるメイン球場で、その球場での試合は地方テレビで生放送される。
    テレビ放映されることが嬉しい反面、緊張に拍車をかけるのも事実だった。

    部員たちは別のグランドでウォーミングアップをし、第一試合が9回に入ったのを見計らって3塁側ベンチ裏の選手控え通路に立った。
    だが、第一試合は負けていたチームの最終回の驚異的な粘りで延長に入った。
    「おい、延長だぜ!」
    7-2のまま勝敗がつくと思っていた東庄高校野球部員たちにとっては、予想外の展開だった。
    早くグランドに立ちたいという思いと、もしかするとこの試合が高校野球最後の試合になるかもしれないという思いが複雑に交差した。
    延長10回…11回…12回…
    前の試合が長引くことに、余計に緊張感が増し、第一試合の決着がつかぬまま緊張の時間だけが過ぎていった。

  • #137

    六輔 (日曜日, 07 7月 2019 20:07)


    陽菜子は、部員たちを少し離れたところから見ていた。
    『・・・みんな』
    全てが初めての経験だった。
    これまでに一度も見たことの無いような緊張した面持ちの部員たちに、陽菜子もいつしか高鳴る鼓動を感じ始め、小さな胸が張り裂けそうになっていた。
    『これが大会なのね…』

    部員たちは皆、口をきつく結び、普段は先頭にたって冗談を言い、チームの雰囲気を和やかにしているキャプテンまでもが、他の部員と一緒になって黙り込んでいた。
    試合前に緊張するのは普通のことだ。
    だが、選手が極度の緊張に見舞われないように、あるいは、そうなってしまったにしても平常心を取り戻させるのが監督の務めだ。
    百戦錬磨の監督であれば、いとも簡単にその時の選手たちに相応しい言葉かけが出来ていたであろう。
    だが、新任の教師で初めての夏の選手権大会に、監督自身が緊張に襲われ頭の中を真っ白にしてしまっていたのだった。
    延長に入ってから30分が経っていた。
    通路の暗めの照明が余計に部員たちの緊張感をあおった。
    時折、一塁側ベンチ裏の選手控え通路から聞こえてくる会話。
    それは対戦相手の明星(メイセイ)高校の選手たちが談笑する声だった。

    「まだ試合は終わらないのか」
    と、監督が時計をして左腕にはめた腕時計を見たときだった。
    「ウォーーー!!!」
    と、球場全体に地鳴りのような歓声が沸いた。
    それは、12回の裏に放たれたサヨナラホームランに沸く歓喜の声だった。
    歓声が鳴りやまぬままゲームセットを知らせるサイレンが球場に響き渡った。

  • #138

    六輔 (月曜日, 08 7月 2019 21:04)


    「ウォーーー!!!」
    球場全体を包む地鳴りのような歓声が鳴りやまぬうち、通路の奥の方から声が聞こえてきた。
    「試合終了だよ! 直ぐにベンチに入れるように準備して!」
    それは大会係員の声だった。
    第一試合がサヨナラホームランで勝敗が決したことに、東庄高校野球部員も興奮していた。
    「おい、サヨナラホームランだぜ!」
    その部員たちの会話を遮る大会係員の声だった。
    「さぁ、準備だ!」
    と、それまで口を開くことがなかった監督の促しに選手たちは応えた。
    『はい!』

    ベンチに入る扉が開けられ、東庄高校野球部の目に飛び込んできたのは、サヨナラ負けを喫した選手たちが嗚咽をあげて泣き崩れている姿だった。
    夏の大会に負けたチームのほとんどに見られる光景だ。
    一瞬にして緊張がピークに達した。
    それは、このベンチに入ってしまえば嫌でも試合が始まり、負ければ自分たちも同じような光景の中にあるかもしれないという、心の奥底にある不安が導いた緊張だった。
    当然、口では「やってやるぞ!」という言葉を発し、自分を奮い立たせている部員たちだったが、対戦相手が余裕をもってこの試合に臨んでいることを知ってしまった部員たちには、その不安な気持ちを全部拭い捨てることなど出来なかったのだった。

    先に相手チームのノックが始まった。
    東庄高校野球部員たちは、相手チームの戦力を知るために、ノックの全てを見ていた。
    「・・・上手い」
    全員が同じ気持ちになって見ていた。
    自分たちよりもレベルの高いノックに、さらに輪をかけて緊張感が高まった。
    心のどこかで「俺たちだって!」という、余所行きな気持ちが芽生えてしまっていたからだった。
    相手チームの7分間のノックがあっという間に終わると、次は自分たちの番になった。
    「いくぞ!」
    キャプテンの声に選手たちは応えた。
    『おーっ!』

    球場にアナウンスが流れた。
    「東庄高校…ノックの時間は7分間です」
    観客席から多くの声が飛び交った。
    『頑張れーーー!!!』

  • #139

    六輔 (火曜日, 09 7月 2019 22:31)


    東庄高校のノックが始まった。
    普通であれば先にノックを終えた対戦相手の選手は、ベンチから身を乗り出すようにして東庄高校の戦力を知るためにノックの様子を見ているはずだった。
    だが、対戦相手の選手たちの姿はベンチに無かった。
    ベンチの裏にある選手控え室に入ってアンダーシャツを取り換え始めていたのだった。
    それはまるで「見る必要ないよ!」と言っているかのようだった。
    どんなに鍛えてきたチームでも初戦は緊張するものだ。
    優勝候補と言われるチームが足元をすくわれるとしたら、そのほとんどが初戦である。
    対戦相手は、あえて東庄高校のノックを見ずに、リラックスした中で着替えを済ませていたのだった。

    相手チームの選手がベンチに誰もいないことは、東庄高校の全員が敏感に感じ取っていた。
    そして相手チームのレベルの高いノックを見た東庄高校の選手達は、蛇に睨まれた蛙のように身がすくんでしまい、ノックでは暴投、トンネルを繰り返し、あっという間に7分間のノック時間を消化してしまった。
    スタンドで見ていた誰もが、戦わずして試合の結果を予想した。
    「今年も、東庄高校は一回戦だな」と。

    ノックを終えた東庄高校野球部は、ベンチ裏にある選手控え室に入った。
    息を切らして監督は言った。
    「お前たち、どうした? もっとリラックスしてやりなさい!」
    その声掛けに部員たちは「はい!」と応えたが、明らかに覇気のない返事になっていた。
    それでも監督は、アンダーシャツを着替えながら試合に備える選手たちに、
    「いいか、平常心だ、平常心!」
    と、諭すように声をかけていた。

    その様子をずっと見守っていた陽菜子には、監督も選手たちもまるで借りてきた猫のように見えた。
    『・・・みんな』
    自然と陽菜子の中にある思いが芽生えてきた。
    『このままじゃ・・・みんな』
    その思いが陽菜子を奮い立たせ、気づけば思いもよらなかった声を発してしまったのである。
    『ねぇ、みんな・・・私を見て!』

  • #140

    六輔 (水曜日, 10 7月 2019 22:22)


    「はっ?」
    部員たちも監督までもが、いきなりの声にハッとして陽菜子を見た。
    陽菜子はホッペを膨らませてこう続けた。
    『ねぇ、どうして私を見て何も言ってくれないの!!!』
    誰もが陽菜子が何を言っているのか意味不明だった。

    代表してキャプテンが口を開いた。
    「なぁ、ヒナちゃん・・・ど、どうしたの?急に…」
    『だってぇ~ 今日の私を見て何か言ってくれてもいいのにな!って、思ったんです!』
    「えっ? 今日の?・・・ヒナちゃんを?」
    『はい! だって、今日はわたし、普段あまり着ないセーラーを着てるんですよ!  私のセーラー服姿を見るのは、たぶん、みんな初めてでしょ? 似合うとか…可愛いとか…いいねぇ~!とか… 誰も何にも言ってくれないんだもん、寂しい! 朝から着ていて、もう何時間も経ってるのに!』
    「・・・セーラー服?・・・あぁ、確かに」
    『クラスメイトのお婆ちゃんなんか、50歳の同窓会の時にセーラー服を着て司会をやったんですって! しかも、60歳になった時には夏用のセーラー服を着て!同窓会の司会ですよ、司会! (小声で)あれっ?・・・いま、60歳のお婆ちゃんのセーラー服姿の話をするところじゃなかったかな? まぁ、とにかく・・・いつものみんなだったら、必ず何か言ってくれるはずなのに…女の子は嘘でもいいから可愛いって言ってもらいたいのに…』

    いつもはジャージに身を包み、部員のおさがりの野球帽をかぶって部活に出ている陽菜子。
    だが、その日記録員としてベンチに入る陽菜子は、朝からセーラー服を着ていたのだった。
    普段の部員たちなら、陽菜子のちょっとした変化に直ぐに気付き、
    「頭、切ってきた? 似合うよ、ヒナちゃん!」
    と、声をかけてくれる。
    それに陽菜子は、明るくこう答えるのだった。
    『はい! 髪を切ってきました! 頭は切ってませんけど!(笑)』と。
    だが、その日、そんな余裕は部員たちには一切無かったのだった。
    そう、緊張のあまり。

  • #141

    六輔 (木曜日, 11 7月 2019 20:44)


    陽菜子が口を開こうとしたときだった。
    キャプテンが陽菜子よりも一瞬先に口を開いた。
    「なぁ、みんな・・・今日の俺たち、いつもの俺たちじゃないよな!」
    『えっ?』
    「だって、ヒナちゃんが言った通りだろう? 俺は初めて見たぞ、ヒナちゃんのセーラー服姿」
    『キャプテン! 俺もだ!』
    「いつもの俺たちなら・・・」
    『・・・確かにな』
    と、キャプテンは陽菜子に向かってこう言った。
    「なぁ、ヒナちゃん!」
    『はい』
    「可愛いよ・・・セーラー服」
    『ホンとですか? キャプテン』

    この時の陽菜子は、部員には「何も言ってくれなくて寂しい」と平気な顔をして言ったものの、正直なところは、小っちゃな胸をドキドキさせていたのだった。
    陽菜子は、心の中でこうつぶやいた。
    『良かったぁ…熊に耳をつかまれるかと思った』と。

    すると、キャプテンは部員たちのそんなやり取りを静観していた監督にいきなりの無茶ぶりをしたのだった。
    「可愛いですよね? 監督!」
    『はっ?・・・お、お、お、俺? いきなり俺に振るなよ~まったく。・・・でも、ありがとなぁ…水嶋!』
    「えっ?」
    『キャプテンの言う通りだ! 俺たちは、普段と違った水嶋に気づく余裕すら失くしていた。緊張のあまりにな。余裕がないままグランドに立ってしまったがために、ノックも酷いものになってしまった。 もし、このまま試合に入っていたら・・・俺たちは、一番大切なことを忘れてしまっていたんだ。戦う前から負けていたようなものだ! 俺達の一番は、これまで積み重ねてきた練習だ! 練習は嘘をつかない! 失いかけていた自信! 水嶋のおかげで思い出すことが出来たんだ! なっ、そうだろう、お前たち!』
    それまでと全く違った表情の選手たちが声を揃えて応えた。
    「はい!」
    次の瞬間、ベンチ裏の控室の空気が変わった。
    『さぁ、試合だ! 俺たちの野球をやろう!』
    「はい!」

    試合前の整列。
    ベンチ前には監督、部長先生、そしてその隣に陽菜子が立っていた。
    『いよいよ始まるのね』
    と、高鳴る胸に陽菜子は口元をギュッと結んだ。

    挨拶を終えて戻ってきた選手たちがベンチ前で円陣を組んだ。
    「いいか、もう一度言う。俺たちの野球をやろう!』
    『はい!』
    「積極的に振っていけ!」
    『はい!』

    相手チーム投手の7球の投球練習が終わった。
    東庄高校、トップバッターの桧山がバッターボックスに立った。
    『プレイボール!』
    主審の試合開始を告げる言葉と同時に、相手投手が第一球を投じられた。
    「ウ~~~」というサイレンとともに。

  • #142

    六輔 (金曜日, 12 7月 2019 22:25)


    「ありがとな、ヒナちゃん」
    『えっ?』

    それはバットを持ってネックストサークルに向かうキャプテンの声だった。
    『キャプテン』
    「ヒナちゃんのおかげで、冷静になることが出来た」
    『はい!』
    陽菜子は、スコアブックを膝の上に置き、顔を上げてキャプテンにエールをおくった。
    『いつものバッティングをしてくださいね、キャプテン!』
    「おぅ!」

    ネックストサークルに入って腰を下ろしていたキャプテンの前で、3番バッターの高橋がクリーンヒットを打った。
    「ウォーーー!!! ナイスバッティング、高橋!」
    「いいぞー! ドラえもん!!」

    仲間たちがキャプテンの前でチャンスを作った。
    キャプテンがネックストサークルで立ち上がり、バッターボックスに向かうと、盛り上がりを見せるアルプスから吹奏楽部の奏でる音楽が聞こえてきた。
    それは、山本リンダというセクシー歌手の曲、「狙いうち」だった。
    「狙いうち」・・・昭和の曲だ。
    陽菜子のクラスメイトのセーラー服お婆ちゃんがまだ11歳だった時の曲だ。
    セーラー服お婆ちゃんは、ウサギのぬいぐるみの耳を掴み、シャツの裾を腹の前で結んでヘソを出して踊っていた。
    ♪ ウララ ウララ ウラウラで~

    もちろん今どきの高校生はどんな歌手なのか全く知らない。
    それでもキャプテンのテーマ曲として「狙いうち」が流れていた。
    「♪ お前が打たなきゃ誰が打つ! かっ飛ばせ~ キャプテン!」

  • #143

    六輔 (土曜日, 13 7月 2019 23:21)


    東庄高校野球部部員一人ひとりにテーマ曲が決まっていた。
    木村は「サウスポー」、高橋は「タッチ」、鈴木は「暴れん坊将軍」、他にも「必殺仕事人」、「紅」、「ルパン三世」・・・
    みんな高校野球鉄板の応援歌だ。
    昭和の歌謡曲にアニメの主題歌、少し前に流行ったJ‐POPなど、昔懐かしいラインナップがずらりと並ぶ。
    不思議なことに長年の間、曲の顔ぶれはほとんど変わっていない。
    当然のことだが、今の高校生がリアルタイムで聞いた曲ではない。
    では何故、昔懐かしいラインナップがずらりと並ぶのだろうか。
    そこには、ちゃんとした理由があるのだった。

  • #144

    六輔 (日曜日, 14 7月 2019 08:08)


    実は、東庄高校もそうなのであるが、多くの学校の吹奏楽部は、野球部の選手本人に「曲は何がいい?」と聞くのである。
    吹奏楽部の面々も「違った曲で応援してあげたい!」と、「AKB」や「ももクロ」、「セカオワ」などの曲を用意する。
    だが、選手達のためにと、せっかく用意していても野球部員から返ってくる答えは、
    「俺、左投げだから、やっぱりピンクレディーのサウスポーかな!」
    と、返ってくる答えは何故かほとんどが懐メロだ。
    確かに、懐メロは甲子園で流れていて心地よい。
    これぞ、高校野球と言える応援歌だ。
    おそらくは聴き慣れているからなのだろうが。

    吹奏楽部から「他にもAKBとか出来るよ!」と、言われても
    『いやっ、俺はやっぱり「タッチ」がいいんだ! 頼むね!』
    と、本人が望むのであれば「・・・分かった」とならざるを得ないのである。

  • #145

    六輔 (月曜日, 15 7月 2019 19:57)


    懐メロが並ぶには、他にもこんな理由がある。
    それは、予算と時間の問題だ。
    予算は、楽譜を買う予算が無いという現実だ。
    吹奏楽部の楽譜は、曲によっては1曲3万円以上するものもある。
    それに比べて、懐メロは4~5千円程度で楽譜が手に入るのだ。
    もう一つの理由は練習時間だ。
    吹奏楽部のコンクールの時期と野球部の夏の選手権大会の時期が重なり、故に、野球部のための練習時間を多くとることが出来ないのだ。

    懐メロは、さほど難しくない曲が多い。
    吹奏楽部の強豪校ともなれば、数回楽譜をさらうくらいで直ぐに演奏できてしまう曲がほとんどだ。
    野球部員たちにとっては、自分が生まれる前の曲だろうが、歌詞を知らなかろうが、アニメを見たことがなかろうが一切関係ないのだ。
    「憧れの先輩がホームランを打ったときの曲だから!」
    いかにも単純バカが多い野球部員らしい理由だ。

    いつの年だったろうか。
    甲子園でアナ雪の「Let it Go」が流れた年があった。
    甲子園ファンは「おぅ~」と、新しい曲に興味を抱いたが、その翌年に「Let it Go」を演奏する学校は現れなかった。
    結局のところは、曲調もテンポも応援向きの曲ではなかったということなのだろう。

    キャプテンは、自分の前のキャプテンのテーマ曲がそうだったという至ってシンプルな理由で「狙いうち」に決めた。
    「狙いうち」の演奏が続くアルプスからは、悲鳴に近い声援が飛び交っていた。
    「頼むぞーーー! キャプテーーン!!! 打ってくれーー!!!」

  • #146

    六輔 (火曜日, 16 7月 2019 20:14)


    1回の表、1死1・2塁のチャンスで打席に立った4番バッターのキャプテンは、初球からバットを強く振りぬいた。
    「カキーーーン!!!」
    金属バットの甲高い音を残し、強く低い打球がピッチャーの足元を抜けた。
    セカンドとショートが必死に飛びついたが、そのグラブの先を抜けてボールはセンターへと達した。
    「ウォーーー!!!」
    アルプスから地鳴りのような歓声が沸いた。

    三塁コーチャーズボックスに立つ選手の右腕がグルグルと回され、それを見たセカンドランナー桧山は一気にホームへ。
    浅めに守っていた相手チームのセンターがダッシュ良くつっこみ、素早くバックホーム、ホームベース上でのクロスプレイ。
    主審が左手を水平に伸ばし、ランナーがホームインしたことを示した。
    『セーフ!!!』
    「ウォーーー!!!」
    再び、大きな歓声が沸いた。
    一塁ベース上には、ベンチからの声にガッツポーズで応えるキャプテンがいた。
    「キャプテーーン! ナイスバッティング!!!」

  • #147

    六輔 (水曜日, 17 7月 2019 20:14)


    後続が倒れ、一回の表、東庄高校は1得点で攻撃を終えた。
    ベンチに戻ってきたキャプテンをベンチ全員が笑顔で出迎えた。
    「ナイスバッティング、キャプテーーン!!!」
    『おっ! さぁ、落ち着いて守って行こうぜ!』

    キャプテンは、陽菜子に最高級の笑顔を見せ、グラブを持って守備位置へと走っていった。
    『みんな、いつもの通り落ち着いて~!』
    陽菜子の声に振り向くことはせず、手を軽く上げて背中で応えながら選手達は守備位置に向かった。
    ノックの時に見せたぎこちない動きは、一切消えて無くなっていた。
    ショートを守るキャプテンの声に、全員が元気いっぱいに応えた。
    『一つ一つ丁寧に行こうぜ!』
    「おーっ!」

    先発の高橋は、初回から丁寧なピッチングで一つひとつアウトを重ねていった。
    打たせて取る高橋のピッチングには、鉄壁な守備が絶対条件だった。
    守備位置では、自然と声が出た。
    まるで練習試合であるかのように、リラックスした東庄高校は、0点を積み重ねていった。
    スタンドから見守る東庄高校野球部ファンは、選手たちのノックとはまるで違うプレーに驚きながらも、このままリードが続いてくれることをひたすらに祈り続けていた。

  • #148

    六輔 (木曜日, 18 7月 2019 22:11)


    野球には様々なジンクスがあると説明してきたが、この時の試合にも“あるジンクス”が東庄高校の前に大きく立ちはだかってきたのだった。
    そのジンクスとは・・・「隅一(スミイチ)」だ。
    スミイチとは、初回にあげた1得点のみで、2回以降は無得点になっている試合のことだ。
    往々にして、初回に得点をあげると、それ以降得点できなくなることが多いのだ。
    まさに、この時の試合がその状態だった。
    幾度となく訪れるチャンスにも得点することが出来ずに、無得点が続いていった。
    こういう試合になって頭をよぎるのは、チャンスを何度もつぶせば、逆に相手に流れがいき、結局は失点をして逆転を許してしまうという試合の流れだ。
    応援に駆け付けた町の人たちは、野球の常識として、それを心配しながらスタンドから見守るしか出来なかった。
    「頼む! もう1点・・・なんとか得点してくれ! そうすれば勝てる!」と。
    回が進むにつれ、スタンドは異様な雰囲気に包まれていった。
    「このまま東庄高校を勝たせてくれ!」
    高校野球ファンの多くは、固唾を呑んで試合を見守っていた。

  • #149

    六輔 (金曜日, 19 7月 2019 22:49)


    試合は1-0で東庄高校1点のリードのまま終盤へと進んでいった。
    そして8回裏、相手チームの攻撃、それまでノーヒットに抑えられていた1番バッターがセンター前へのクリーンヒットで出塁した。
    トップバッターから始まる8回の裏の攻撃が勝負だと、相手チームが考えていた通りの展開になった。
    相手チームのベンチは湧き上がり、アルプスではその日一番の音量で楽器が奏でられ、灼熱の太陽が一番高いところまで昇り、それぞれの守備位置で守る東庄高校の選手を容赦なく照りつけていた。

    東庄高校のベンチではタイムを要求しようとした監督が一歩前に足を踏み出そうとして、それを止めた。
    ショートを守るキャプテンが2塁塁審にタイムを求めていることに気づいたからだ。
    キャプテンがマウンドに行くのを見た内野手全員が、一斉にマウンドへと歩み寄って行った。
    マウンドに投手を囲んで内野手全員が集まり、キャプテンは笑みを浮かべて口を開いた。

    (キャプテン)「あぢぃ~な」
    (鈴木)「えっ?…う、うん。暑いよな、夏だからな!」
    (高橋)「悪いな! トップバッターを出しちまったよ」
    (キャプテン)「悪いことなんかないさ!さすがトップバッターだよな」
    (高橋)「ずっと抑えてきたんだけどな…一番出しちゃいけないところで…すまん」
    (キャプテン)「だから謝るなって! 大丈夫だ、落ち着いて一つひとつアウトを取って行こうぜ!」
    (鈴木)「なぁ、キャプテン・・・やっぱりここはバントかな?」
    (キャプテン)「う~ん、そうだなぁ…」

  • #150

    六輔 (土曜日, 20 7月 2019 19:20)


    キャプテンがタイムを要求し内野手をマウンドに集めようとしていたとき、ベンチでは監督が伝令を出すべきか迷いながら、まずは自分の考えをまとめようと紘一を隣に呼んでいた。

    「おい、瀧野瀬・・・」
    『はい!』
    「ここはどう読む? やはりバントだと思うか?」
    『はい、定石で言えば・・・ただ、バントと決めつけるのは危険だと思います』
    「どうしてそう思う?」
    『2番バッターは俊足の左バッターです。ダブルプレーとなる確率は低いです。それに今日一番にタイミングが合っていますし。次の3番、4番がうちのピッチャーにタイミングが合っていませんから・・・むこうのベンチとしては、2番バッターに引っ張ってもらってノーアウト1・3塁を作りたいと考えるはずです。 もちろん、リスクはありますので、この場面でもしランナーを進められずに、後続も凡退したとなればベンチの責任と言われるでしょうからね。向こうの監督さんが2番バッターを信頼し、どこまで腹をくくれるかだと思います』

    紘一の読みは、相手チームの監督の心理を読み切ったものだった。
    「なるほどなぁ」
    『ここはバントしてくれた方がありがたい気がするんですけど・・・』
    「そうだなぁ・・・そのことを内野陣に伝えに行ってくれるか、瀧野瀬」
    『はい、でも・・・キャプテンも自分と同じことを考えて・・・それを内野陣に伝えていると思います。 キャプテンの表情はすごく落ち着いていますし・・・あのジェスチャーは・・・』
    「なるほどな、分かった」
    と、紘一の話を聞いた監督は、バントだと決めつけないよう指示を伝えるためのサインをマウンドに集まった内野陣に送ったのだった。

  • #151

    六輔 (日曜日, 21 7月 2019 23:34)


    石川県の星稜高校野球部監督に山下監督という人がいた。
    「心が変われば行動が変わる。 行動が変われば習慣が変わる。 習慣が変われば人格が変わる。 人格が変われば運命が変わる」
    という、高校野球ファンなら誰でも知る名言を残した監督だ。
    国民栄誉賞を受賞した松井秀喜選手を育てた監督さんでもある。

    東庄高校野球部の監督は就任一年目でありながらも、熱血指導と信念をもった人間味あふれる指導によって部員たちは変わっていった。
    その教えの根源にあるのが山下監督の残した名言だった。
    「お前たちは野球を通して、人間を磨いてきた。どこに出しても恥ずかしくない教え子たちだ。あとは自分を信じて強くなれ! お前たちには強くなれる権利があるんだ!」
    そう教え込まれていた東庄高校野球部の選手たち。
    ピンチになってマウンドに集まった6人の視線の先には、黙ってうなずく監督の姿があった。

    (キャプテン)「なるほど…どうやらベンチは俺たちの考えと同じようだな」
    (鈴木)「そうみてーだな」
    (キャプテン)「監督は、お前たちなら大丈夫だ!って、伝令も出さずに任せてくれたんだ!俺たちを信じてな」
    (桧山)「そうだな」
    (キャプテン)「その期待に応えなくちゃな!」
    (全員、黙ってうなずく)
    (黒岩)「高橋、初球はボールで行こう」
    (キャプテン)「そうだな、相手の様子をみるためにもな」
    (高橋)「分かった」
    (キャプテン)「いいか、苦しいのは俺たちだけじゃない。あっちも同じだ! 勝ちたいと思っているのも俺たちだけじゃない。それでも最後に勝ちをつかみ取るのは俺たちだ! 俺たちはそれだけのことをやってきた! そうだろう?」
    (全員)「おぅ!」
    (キャプテン)「自分を信じてプレーしよう!」
    (全員)「よっしゃ!」

    マウンドを囲んで6人が手をつなぎ、真っ青な空を見上げた。
    (キャプテン)「さぁ、行こう!」
    キャプテンの言葉で6人は自分のポジションへと戻っていった。

  • #152

    六輔 (月曜日, 22 7月 2019 23:14)


    『キャプテン…』
    陽菜子は、スコアブックを抱きしめ、祈る思いでグランドを見つめていた。
    陽菜子の隣で監督が「頼んだぞ、高橋・・・みんな」と、語りかけたその先でプレーは再開された。

    ピッチャーの高橋は、「ふぅ~」と息を吐き出し、ボールを胸の前にセットして静止し、一塁ランナーを目で牽制(けんせい)し、初球を投じた。
    「ボール!」
    初球は、内野で集まって確認した通り、外角いっぱいに外れたボールだった。
    バッターはバントをするかのようなジェスチャーを見せたが、ストライクを投げてこないことを予め知っていたかのように、平然と初球を見送った。
    キャッチャーの黒岩はうなずきながらピッチャーにボールを返球した。
    ここまでは想定内だった。
    ショートから高橋に声が飛んできた。
    「OK、OK! 次行こう、次!」
    『おっ』
    そうキャプテンの声に応えた高橋は、キャッチャー黒岩のサインを見た。
    黒岩が右手で出したシグナルは、「チョキ・パー・人差し指1本・薬指1本」という4種類だった。
    キャッチャーのサインには決まり事があり、塁上にランナーがいる時といない時では違うのである。
    この時の4種類のサインは、結局はストレートを外角低めに!というサインだった。
    ピッチャーの高橋は、黒岩のサインに二度うなずいた。

  • #153

    六輔 (木曜日, 25 7月 2019 21:24)


    ピッチャーとキャッチャーがサインを交換している間には、同じように攻撃側もバッターボックスにいる選手と塁上にいる選手が同時にベンチに視線をやって監督のサインを確認する。

    知らない人も多いかもしれないが、野球で攻撃側には少なくても20近いサインがあるのだ。
    送りバント、盗塁、ヒットエンドラン、待て、フィニッシュサイン、スクイズ、セーフティーバント、プッシュバント、バスター、ランエンドヒット、バントエンドラン、ダブルスチール、ディレードスチール、取り消し、偽装スクイズ・・・
    と、他にもまだまだある。
    そして監督が出すサインの出し方には、「フラッシュサイン」と「ブロックサイン」の2種類がある。
    「フラッシュサイン」は、耳、帽子、肩などある一点をカメラのフラッシュのように一瞬触ることでサインを送るもの。
    ただし、これは相手チームに見破られやすいため、さらに複雑にしたのが「ブロックサイン」である。
    「ブロックサイン」は、まず何かの「キー」を作る。
    例えば、帽子のつばをキーにしたとすれば、帽子のつばのその次に触ったところがサインとなるのだ。
    しかもそのルールは、試合毎に「キー」を変えたり、強豪校ともなれば一試合のイニング毎に変えるチームもある。

    ちなみにであるが、守備側もたくさんのサインを送っている。
    キャッチャーからピッチャーへ牽制のサインが送られたり、逆に内野手からキャッチャーへサインが送られたり。
    そして送られたサインに対して、アンサーを返すこともあるのだ。
    ピッチャーが帽子のつばを掴んだりしているのがそれだ。
    そしてこれは当然のことだが、ランナーやベースコーチが捕手のサインを見て打者にコースや球種を伝える、いわゆる「サイン盗み」は禁止されている。

    高橋と黒岩のサインが決まると、バッターボックスでベンチのサインにうなずいた2番バッターは、バットを短く持ち換えて、バントをするかのような構えをした。
    「バントするのか?」
    キャプテンだけではなく、内野陣の誰もがそう考えた。

  • #154

    六輔 (金曜日, 26 7月 2019 21:46)


    バッターのバントの構えに一番敏感にそれを感じ取ったのがピッチャーの高橋だった。
    高橋は、投げることに専念しなければならない場面で欲をかいてしまったのである。
    バッターの構えに瞬間、「よし!バントをさせてセカンドで刺してやる!」
    そう考えた高橋は、ランナーを十分に牽制しなければいけない場面で、その牽制をおろそかにして投球を開始してしまった。
    黒岩のサインはアウトコースであるはずなのに、欲をかいて投じた球は狙っていたはずのアウトコースではなくど真ん中へと向かっていった。
    投球を終えた高橋は、ダッシュ良くマウンドを降りようとしたその時だった。
    「あっ!」
    バッターがバントの構えからバットを普通に戻し、ヒッティングの構えに変えた。
    だが、問題はその前に起きていた。
    高橋が投球を開始したと同時に1塁ランナーがスタートを切っていたのである。
    ランナーがスタートを切ったことでセカンドの鈴木が慌ててベースカバーに走っていた。
    すると、バッターはそれを見透かしたように、がら空きになったセカンドにゴロを転がすバッティングをしたのである。
    スタートを切っていたランナーは迷わず3塁まで達していた。
    これぞバスターエンドランだ。
    そして、これが野球である。
    一瞬のすきをついて、仕掛けてくる。
    強いチームの常套手段だ。

    「やられた・・・」
    ベンチで監督は、小さくつぶやいた。

  • #155

    六輔 (土曜日, 27 7月 2019 20:32)


    「おい、瀧野瀬・・・」
    すかさず紘一が監督に呼ばれた。
    『…はい…はい…はい』
    「頼んだぞ!」
    『はい』
    監督から伝令を頼まれた紘一は、ベンチを出て直ぐに主審に対して両手でTの字を作ってみせた。
    『タイムお願いします』と。

    主審の「ターーイム!」の声とジェスチャーを確認して紘一はマウンドへと走った。
    紘一がマウンドにつくと、キャプテンを中心に円陣を組んで内野陣が待っていた。
    (紘一)「上手い事決められちゃいましたね」
    (キャプテン)「あぁ、さすがだよな。それで、監督からどういう指示を受けてきたんだ?」
    (紘一)「監督は、1点は仕方ないと言っていました。一塁ランナーを帰さないようにと」
    (キャプテン)「そっか、同点までは仕方ないということだな」
    (紘一)「はい、落ち着いて、悔いのないプレーをしろと。高橋先輩には、逃げずにこれまでと同じようにクリーンアップに向かっていけと」
    (キャプテン)「そっか、とにかく自分たちのプレーをしよう」
    (全員、うなずく)

    と、何か言い足りなさそうな雰囲気の紘一に気づいたキャプテンが、こう言った。
    (キャプテン)「おい、瀧野瀬」
    (紘一)「はい」
    (キャプテン)「何か言いたそうだな・・・お前のことは部員全員が認めているんだ。お前の考えがあるなら言ってみてくれないか?」
    (紘一)「・・・はい」

  • #156

    六輔 (日曜日, 28 7月 2019 20:59)


    (キャプテン)「間違いなく走ってくるっていうのか?」
    (紘一)「はい」
    (キャプテン)「しかも初球に?」
    (紘一)「はい」
    (キャプテン)「それで、どうすればいいんだ?」
    (紘一)「ショートとセカンドは前進守備をとってください。ただ、キャプテンはセカンドベースにぎりぎり戻れるところに守ってください。そして高橋先輩は、あえて牽制球を投げずに、外角高めに投げてください。しかも、一番のクイックで! とりあえず、黒岩さんのサインに二度ほど首を振ってください」
    (キャプテン)「おぉ~ ずいぶんと細かい芸当だな。おい、高橋…出来るか?あまりクイックは得意じゃないよなぁ」
    (高橋)「いやっ、瀧野瀬が言うなら頑張るよ! 一番のクイックをしてやるさ!」
    (キャプテン)「そっか、頼むぞ! 黒岩もここ一番のスローイングをしてくれ! リスクの高いプレーになるけど・・・ここを零点に抑えるために」
    (黒岩)「任せとけ!」
    (紘一)「守備側がダブルスチールを警戒するからこそ、一塁ランナー単独の盗塁の成功率が上がるんですよね! だからここは絶対にダブルスチールは無いと決めつけてプレーしてください!」
    (キャプテン)「分かった。これまで何度も瀧野瀬の野球センスに助けられてきた俺たちだ。こんな大事な場面だからこそ、お前の勘を信じるぞ!」
    (紘一)「はい!」

    タイムをとってマウンドに集まったとき、その別れ際に必ずやる儀式に紘一も加わった。
    紘一を含めた7人が手をつなぎ、真っ青な空を見上げた。
    (キャプテン)「さぁ、行こう!」
    6人は自分のポジションへと戻り、紘一は主審に深く頭を下げてベンチへと戻っていった。

  • #157

    六輔 (月曜日, 29 7月 2019 20:27)


    『監督行ってきました』
    「おぅ、ありがとう瀧野瀬」
    『監督、実は・・・』
    「うん? 何も話さなくてもいいよ」
    『えっ?』
    「瀧野瀬を中心に何か相談していたのは分かったからな」
    『はい、でも自分が勝手に・・・』
    「いやっ、俺は瀧野瀬を信頼しているからこそ、伝令に使っているんだ。お前の野球センスは3年生全員、いや、チーム全員が信頼を寄せていることだ。結果がどうなろうと、みんな納得するさ」
    『監督・・・』
    「責任は監督である俺にあるんだ! 瀧野瀬は何も心配するな」
    『はい、監督』
    「ただな、相手チームに悟られないようにと、話しているその芝居があまりにも下手でな、笑いを堪えるのが大変だったよ(笑)」
    『えっ?そんなに下手でしたか?』
    「あぁ。でもな、それだけお前たちにはまだ余裕があるということだと思ってな。自信に満ち溢れた表情をしていたよ、全員な」
    『はい』
    「あとはベンチから見守るだけだ」
    『はい』

    ベンチを守る部員全員がそれぞれに声を出し、守備につく選手を鼓舞していた。
    「リラックス、リラックス~!」
    ピッチャーの高橋は紘一からの指示通りに、セットポジションからそのまま初球を投じた。
    と、紘一の読み通りに1塁ランナーがスタートをきった。
    「よし!行ける!」
    紘一の指示通り外角高めに行ったボールを捕球した黒岩は、練習通りおちついてセカンドへ送球した。
    1塁ランナーが足から滑り込んだことで舞い上がった土埃の中にキャプテンの差し出したグローブが入った。
    「アウトーーー!!!」
    2塁塁審の右手がアウトを宣告するように大きく上げられた。
    「よっしゃー!!!」

  • #158

    六輔 (水曜日, 31 7月 2019 02:17)


    「瀧野瀬、よくやった!」
    『はい、監督』
    「よくあそこまで指示をしてきてくれたな」
    『一か八かでしたけど・・・監督が同点まではいいと言ってくれてたことで・・・でもさすが高橋先輩、黒岩先輩です』
    「そうだな、黒岩がよく落ち着いて送球してくれた。…っていうか、高橋のあんなクイック見たことないぞ!」
    『あっ、自分もです(笑)』
    「ここぞというところで、よくやってくれたよ!」
    『はい、でもまだここからです、監督』
    「そうだな」
    『1点負けている場面で、ここまでノーヒットの3番バッターに、どうするかですね』
    「そうだな」
    『監督ならどうしますか?』
    「う~ん・・・」
    『スクイズを考えますか?』
    「・・・そうだな」
    『悔いを残さないためだとすると、何球目にサインを出しますか?』
    「何球目?・・・悔いを残さないために?・・・」

    紘一の言葉の意味を落ち着いて整理した監督は、ベンチの一番前に立って、大きなジェスチャーでセンターを定位置から右に寄るよう指示を出した。
    相手の3番バッターの打撃を警戒するように見せかけて、実は、それはベンチからのサインだった。
    スクイズ警戒の場面でセンターを右に寄せれば初球、左に寄せれば2球目にウエスト(バッターのバットの届かないところにわざとボールを投げること)のサインだったのである。
    そしてベンチの指示を理解しましたというアンサーのためにキャッチャーの黒岩が立ち上がり、センターを定位置から3歩、右を守るように指示を出した。
    全ては整った。

    8回裏の攻撃、1死、ランナー3塁、3番バッターのカウント1-0から、高橋は1点のリードを守るために、渾身のストレートを投げた。

  • #159

    六輔 (木曜日, 01 8月 2019 02:37)


    高橋が投球を開始すると同時に3塁ランナーがスタートを切り、3番バッターはバントの構えにバットを持ち換えた。
    ベンチの読み通りのスクイズだった。
    高橋はサイン通りに外角に大きく外してストレートを投げ込むと、バッターは腕をめーいっぱいに伸ばして飛びついたが、バットは空を切り、ボールは黒岩のミットに納まった。
    「ヨシ!」
    スクイズを外されたことに気づいた3塁ランナーは慌てて止まり、3塁ベースに戻ろうと試みたが、すでに黒岩からサードを守る桧山に送球されていて、3本間の挟殺プレーとなった。
    カバーに走っていた高橋にボールが送球されたときには、3塁ランナーは既に逃げることを諦め、走ることを止めていた。
    高橋がボールを納めたグラブを3塁ランナーにタッチして、高々とグラブを挙げた。
    「アウトー!!」
    ノーアウト1・3塁のピンチが、たった2球でツーアウトランナー無しへと変わったのである。

    アリの巣をつついたような大騒ぎで喜ぶ東庄高校応援席と、それとは対照的に静まり返った相手チームのアルプススタンド。
    後続を高橋が落ち着いて押さえ、ラストイニング9回裏の攻撃もツーアウト。
    最後のバッターが打ったショートゴロをキャプテンが落ち着いて処理、ファーストへストライク送球。
    最後のバッターがファーストベースにヘッドスライディングしたその時には、1塁審判が大きく右手を上げ「アウトーーー!!!」と27個目のアウトをコールしていた。

    ホームベースを挟んで両チームが整列した。
    喜ぶ素振りを見せたのは一瞬だけで、負けた相手チームを気遣うように、東庄高校は静かに列を作った。
    泣き崩れる相手チームの選手たちも、最後までしっかりやろうというベンチからの声に応えるように、しっかりと列を作った。
    『ゲームセット!』
    主審の試合の終わりを告げるコールに、東庄高校野球部はホームベースの前に並んで、校歌を誇らしげに大声で熱唱した。
    試合時間、1時間58分。
    結果的には投手戦だった。
    スタンドで見守っていた高校野球ファンは、一様に東庄高校の勝利に驚きを隠せなかった。
    「お~い、東庄高校は変わったぜ!」と。

  • #160

    六輔 (木曜日, 01 8月 2019 20:46)


    試合後には地元新聞社、地方テレビ局の記者によるインタビューが待ち受けていた。
    勝利チームの監督とキャプテン、さらにはその試合での活躍が顕著だった選手としてピッチャーの高橋がインタビューに呼ばれた。
    キャプテンも高橋も生まれて初めての経験に、何をどう答えたのか記憶に残っていないぐらいに、緊張してインタビューを受けた。

    インタビューを終え、部員全員揃って球場の外に出ると、そこにはアルプスで声援を送り続けてくれた応援団、吹奏楽部の部員たち、そして仕事をほっぽり投げて応援にかけつけてくれた町の人たちが待っていた。
    「ナイスゲーム!!!」
    多くの声と割れんばかりの拍手に迎えられた部員たちは、最高の笑顔で迎えてくれた人たちの前に整列し、キャプテンが一歩前に出て挨拶をした。
    「応援ありがとうございました」
    『よくやった! このまま二回戦も突破だぜ!』
    挨拶を終えると同時に部員のところに駆け寄る仲間たちと熱い握手を交わし、試合後の疲れも感じず、勝利の喜びを共に分かち合った。

    そして、そんなひと時も落ち着き、帰りの身支度を始めようとした時だった。
    まるでその時をずっと待っていたかのように、相手校のキャプテンが東庄高校キャプテンに声をかけてきた。
    相手校のキャプテンは、泣いて目を真っ赤にはらし、声はかすれていた。
    「すいません・・・ちょっといいですか?」

  • #161

    六輔 (金曜日, 02 8月 2019 23:45)


    いきなり相手校のキャプテンがやってきて何事かと首をかしげていると、相手校キャプテンは、大事そうに持っていたものをおもむろに両手で差し出した。
    「これ受け取ってください」
    『えっ?・・・』
    それは、勝利を願って折られた千羽鶴だった。
    対戦相手の明星高校野球部関係者が祈りを込めて折った1,000羽の鶴が、綺麗にグラデーションをつけられて束ねられてあった。
    「自分たちの分まで、勝ち進んでください」
    短い言葉であったが、思いの全てが込められた相手校キャプテンの言葉だった。
    『はい、頑張ります』
    大事に千羽鶴を受け取ると、その光景を周りで見ていた多くの人達から拍手が沸き上がった。
    「ナイスゲーム!!!」
    戦いを終えた選手達を労うには、最高の言葉だった。
    両チームのキャプテンが握手を交わすと、さらに大きな拍手が二人を包んだ。
    「俺たちの分まで・・・」
    と、声を詰まらせた相手校キャプテンは深く頭を下げ、周りでそれを見守っていた東庄高校の生徒や町の人達に向かって、もう一度頭を下げると、小走りに去って行った。

    たまたま近くにいた陽菜子がキャプテンに声をかけた。
    (陽菜子)「負けた相手校のためにも、次もいい試合をしなきゃいけないんですよね、キャプテン」
    (キャプテン)「あぁ、そうだな」

    千羽鶴に視線をやったキャプテンは、次の試合に向けて闘志を新たにしたのだった。

  • #162

    六輔 (土曜日, 03 8月 2019 17:29)


    初戦を1-0で勝利した東庄高校の二回戦は、6日後だった。
    その間、軽めの練習を終えて帰宅する部員たち、その途中では町の人達から多くの声をかけられた。
    「おめでとう!」
    「次も応援に行くからね!」
    「次も絶対に勝ってよ!」
    「いい試合をまた見せてね」と。

    一回戦をいい形で勝ったことで、チームは自信をつけ、その自信が力となった。
    二回戦では白井田高校を3-2、さらに続く三回戦では私立の強豪校、慶愛学園を5-1で破った。
    一回戦の明星高校、そして三回戦の慶愛学園とも私立の強豪校であり、大方の予想をいい意味で大きく裏切る結果だった。
    「おい、今年の東庄高校の強さは本物だぜ!」

    快進撃を続けてきた東庄高校は、次はいよいよベストエイト進出をかけた試合となった。
    東庄高校が夏の選手権大会でベストエイトに進むとなれば、それはなんと40年ぶりのことだ。
    そしてそのベストエイトをかけた対戦相手は、8年連続甲子園出場している優勝候補の白進学院だった。
    そう、陽菜子の1歳年上の兄がいる高校だ。
    陽菜子の兄は、その夏、エースナンバーではなく、二番手投手の10番を背負ってベンチ入りしていた。
    ずっと王者として君臨し、今年甲子園出場を決めれば9年連続での出場となる。
    ショートを守る高田選手は、プロ注目選手で、試合には必ず数人のスカウトが、ネット裏を陣取って観戦している。

    白進学院は気の緩みもなく、これまでの試合を全てコールドゲームで勝ち上がってきていた。
    高校野球ファンであれば、次の東庄高校との試合の結果を100人中、100人が白進学院の勝利を確信するぐらい、両チームの力の差は歴然としていた。

  • #163

    六輔 (日曜日, 04 8月 2019 19:47)


    白進学院との一戦を翌日に控え、軽めの練習を終えた東庄高校野球部員は、練習後のミーティングに臨んだ。
    監督の「座ろう」の声に部員たちは一同にグランドにリラックスして腰を下ろした。
    陽菜子がマネージャーの仕事として、いつも通りに監督に椅子を差し出した。
    『監督、どうぞ』
    「いやっ、今日は俺もグランドに座るよ!」
    と、監督は笑顔で応えて、ユニフォームが汚れることを気にする素振りも見せずにグランドに座って選手たちと目線の高さを合わせた。
    監督は、自らも決意を固めるかのように「ふぅー」と大きく息を吐き、話を始めた。
    (監督)「明日は、いよいよ白進戦だな」
    (全員)「はい」
    (監督)「これまでのお前たちの戦いぶりは見事だった。本当に力をつけてくれた。強豪校に勝ってもおごることなく、自分たちの野球を続けてきてくれた。監督として、礼を言わせてもらうよ」
    と、いつになく神妙な言い方にキャプテンが普通を貫いた。
    (キャプテン)「監督! なんか、これが最後のミーティングであるかのような、そんな普段と違った話はやめてください」
    (監督)「そっか…そうだよな。明日の白進戦・・・特別変わった指示はない。これまで通り、東庄高校の野球をやろう!」
    (全員)「はい」
    (監督)「キャプテン…」
    (キャプテン)「あっ、はい」
    (監督)「部員たちに何か言っておきたいことはあるか?」
    (キャプテン)「あぁ~・・・」
    (監督)「何かあるならここで話しておきなさい」
    (キャプテン)「はい、分かりました」
    と、そう監督に返事をしたキャプテンは立ち上がり、部員たちの前に立った。

  • #164

    六輔 (月曜日, 05 8月 2019 20:07)


    キャプテンは、部員全員に語り掛けるように話を始めた。
    (キャプテン)「明日は俺たちが楽しみにしてきた白進戦だ。監督の言葉通り、俺たちの野球をやろう!」
    (部員たち)「はい」
    (キャプテン)「で、明日の白進の先発は誰だと予想する?瀧野瀬の考えがあるなら聞かせてくれ」
    (紘一)「あっ、はい・・・データを重視する白進ですので、2年生でベンチ入りしている背番号10、水嶋投手の先発の可能性が高いと思います」
    (キャプテン)「水嶋?どうしてそう思うんだい?」
    (紘一)「はい。うちの打線はキャプテンをはじめ、左バッターの打率が4割5分3厘に対して、右バッターは2割ちょっとです」
    (鈴木)「おいおい、瀧野瀬!」
    (紘一)「あっ、はい・・・」
    (鈴木)「いかにも右バッターの俺がチーム打率を下げているみたいな・・・って、実際にそうか(笑)」
    (紘一)「鈴木先輩には、堅実な守備でチームは何度も救われています」
    (鈴木)「お~ そっかそっか。俺の活躍がちゃんと分かっているならいいだろう!」
    (キャプテン)「(笑)まぁ、瀧野瀬の話を聞こうぜ!」
    (鈴木)「お~、すまんすまん(笑)」
    (キャプテン)「瀧野瀬、続けてくれ!」
    (紘一)「あっ、はい・・・」

    紘一は、自分の考えをゆっくりと確認しながら話を続けた。
    (紘一)「左バッターがここまで調子がいい訳ですから、やはりサウスポーの水嶋投手の先発が濃厚だと思います。キャプテンを筆頭に、うちの左バッターのファーストストライクの打率は6割を超えていますからね!」
    (キャプテン)「6割?…おい、俺たちはファーストストライクをそんなにヒットできているのか?」
    (紘一)「はい。監督の言葉通り『初球から思い切り!』ですよね。だから白進はうちの好調な打線、特に左バッターをどう抑えるかと考えてくるはずです」
    (キャプテン)「なるほどな」
    (紘一)「で…ちょっと言い難いんですけど・・・」
    (キャプテン)「うん?なんだ?瀧野瀬。言い難いことだろうが、なんだろうが、瀧野瀬が知っていることは何でも話してくれ!」
    (紘一)「…はい。水嶋投手の外角のスライダーは、左バッターにとって相当厄介なんだと思います。調べてみましたが、この夏の大会、水嶋投手は左バッターに対してヒットを1本も許していません」
    (キャプテン)「1本も?…おい、それは本当なのか?」
    (紘一)「・・・はい」
    (キャプテン)「そっかぁ」
    (紘一)「うちの中軸はキャプテンを中心とした左バッターです。この大会の打点は全て左バッターが叩き出しています」
    (キャプテン)「そうだったなぁ・・・ということは・・・おい、鈴木、桧山! 白進戦ではお前たち右バッターに頑張って打点を挙げてもらわないとな!」
    (鈴木)「そんないきなり無茶なことを言うなよ!これまで通り中軸の左バッターが打ってくれよ!」
    (紘一)「キャプテン!」
    (キャプテン)「どうした?瀧野瀬」
    (紘一)「鈴木先輩の言う通りだと思います。あっ、鈴木先輩達、右バッターが水嶋投手を打てないと言っているのではありません。うちの勝ちパターンを忘れないでください。桧山先輩や鈴木先輩達、右バッターがチャンスを作って、キャプテン達、左バッターが打点をあげて勝つのが東庄高校の野球ですよね?」

    部員全員が紘一の話に納得した。
    だが、その納得は同時に白進学院との試合が相当厳しい戦いになるということを認めなければならないことでもあったのだった。

  • #165

    六輔 (火曜日, 06 8月 2019 19:47)


    部員たちが一斉に静まり返るなか、監督がようやく口を開いた。

    (監督)「なぁ、キャプテン・・・」
    (キャプテン)「あっ、はい監督」
    (監督)「他のチームの左バッターが打てなかったからと言って、お前たちも打てないと戦う前からもう諦めてしまうのか?」
    (キャプテン)「いやっ、そうではないですけど・・・」
    (監督)「なぁ、瀧野瀬!」
    (紘一)「はい」
    (監督)「瀧野瀬のことだ、水嶋君の投球内容は、もう分析してあるんだろう?」
    (紘一)「はい」
    (監督)「やっぱりな。じゃぁみんなに聞かせてやってくれ! いい投手であることは誰もが理解しているところだ。瀧野瀬がどう分析しているのか・・・ぜひ聞かせてやってくれ」
    (紘一)「はい。水嶋投手は1年生のときから甲子園でも投げている素晴らしいピッチャーです。去年の甲子園での水嶋投手のピッチングと今年の夏の大会、2回戦の宇津城工業戦でのピッチングをビデオで見比べました。右バッターも左バッターも、基本は外角を中心に攻めてきます。外角のボール1個分の出し入れがとても上手いです。強打の宇津城工業が打てなかったのは、ボール球の見極めが出来ずに、それを振らされてしまったからです。そして、今年の夏の大会で際立っているのが、左バッターへの攻め方です。外角低め、140キロ前半のストレートでカウントを整え、決め球はストライクゾーンからボールになる外角のスライダー。球速は120キロ後半です。厄介なのはスライダーが縦と横の2種類あることです」
    (キャプテン)「スライダーが2種類?それはまた厄介な話だなぁ」
    (紘一)「・・・はい」
    (キャプテン)「それだったらスライダーを捨てて、ストレート狙いでいくしかないな!」
    と、そのキャプテンの言葉に紘一は強く反応した。
    (紘一)「キャプテン! 僕はそれでは水嶋投手は絶対に打てないと思います!」
    (キャプテン)「なんだとぉ~・・・」

  • #166

    六輔 (木曜日, 08 8月 2019 19:36)


    紘一がキャプテンに歯向かうような形になってしまったことに、そこはしっかりと監督がフォローした。
    (監督)「キャプテン!」
    (キャプテン)「あっ、はい」
    (監督)「まぁ、瀧野瀬の話を最後まで聞こうじゃないか」
    (キャプテン)「すみません監督、つい・・・でもキレのあるスライダー…しかも縦と横の2種類を投げられたら、そう簡単には打てないと思います。それならストレート狙いで! 間違っていますか?監督」
    (監督)「う~ん、そうだなぁ。確かに水嶋君のスライダーは超一流だ! でもな、瀧野瀬は何か根拠があって言ってるんじゃないのか?・・・そうだろう?瀧野瀬」
    (紘一)「・・・はい」
    (キャプテン)「すまん、瀧野瀬!つい、かっとなって・・・続きを話してくれ」
    (紘一)「はい。今年の東庄高校の勝ち方は打線がつながって、しかもキャプテンを中心とした中軸が打点の多くを稼いでくれています。僕は、白進学院との試合でのうちの得点シーンを想像してみました」
    (キャプテン)「得点シーン?」
    (紘一)「はい。桧山先輩が出て、鈴木先輩が送り、高橋先輩、キャプテンで得点する。そうです、東庄高校のいつもの得点パターンです。その時、左バッターであるキャプテンに対して、絶対に打たせたくないとなれば、絶対的に自信のある外角のスライダーを投げてくるはずです。おそらくストレートは見せ球です。ストライクゾーンには投げてこないと思います。ただ、ランナーのいない時には、ある程度打たれることも覚悟して、おそらくはストレートをストライクゾーンに投げてくると思います・・・あえて・・・ピンチの場面を抑えるための伏線です。それで負けたのが宇津城工業です。宇津城工業の中軸はうちと同じ左バッターが並んでいました。おそらくストレート狙いで試合に臨んでいたんだと思います。 そういう見送り方をしていました。初めからストレート狙いでいけば必ずここぞというところでスライダーで打ち取られてしまいます・・・ようは、得点できないということです。水嶋投手は9回をゼロに抑えるためのピッチングをしてきます。結構、ヒットは多く打たれます。ですが、ヒットを打たれた後のピッチングがずば抜けています。狙い球を絞らせないような、キャッチャーのリードもすごいですが・・・水嶋投手の絶対的な強みはコントロールの良さです。ストライクゾーンからボールになるスライダーをどうやって見極めるか・・・それにつきると思います。 それと・・・宇津城工業戦での投球は、バッターがスライダーを待っているのを分かっていてもあえてスライダーを投げていたと思います。それだけ自信があるということだと思います。だからこそ、水嶋投手が絶対的な自信のあるボール…スライダーを打たないことには、勝機は見えてこないと思います」

    (監督)「キャプテン・・・」
    (キャプテン)「あっ、はい」
    (監督)「しかし、瀧野瀬の観察力はすごいよな!」

    (キャプテン)「はい」
    (監督)「さて、瀧野瀬の言う通りとなると、どうやってボールになるスライダーを見極めるかだな」

  • #167

    六輔 (土曜日, 10 8月 2019 00:25)


    この場面では監督らしく、打撃指導が始まった。
    (監督)「まず、お前たちに言っておくことがある。お前たちは、いい投手を打てるようになるために、何万回もバットを振ってきたんだよな?」
    (全員)「はい」
    (監督)「6月以降の練習試合では、県外の左ピッチャーを見事に攻略してきた。確かに水嶋投手は格上のピッチャーかもしれん。でもな、気持ちで負けていたら打てるわけがない。違うか?キャプテン」
    (キャプテン)「はい、まずは気持ちでぶつかっていくことが大事だと思います」
    (監督)「そうだな。で…だ。水嶋投手を攻略するには、まずは全員バットを短く持ってコンパクトなスイングを心がけるよにしよう!」
    (全員)「はい」
    (監督)「ロングヒットはいらない! シングルヒットをつないでいこう」
    (全員)「はい」
    (監督)「バットを短く持つ分、いつもよりベースの近くに立たなければ、外角が届かなくなる。もちろん、そうすることで水嶋投手はインコースをついてくるようになる。そうだろう?瀧野瀬」
    (紘一)「はい、宇津城工業の下位打線はベースの近くに立っていました。それに対して水嶋投手はインコースの高めを見せといて、最後は外角低め・・・対角線で攻めてきました。おそらくは見たことの無いようなキレのあるスライダーに感じると思います。最後まで目を切らずに・・・」
    (監督)「そうだな、瀧野瀬の読み通りになると思う。いいか、逃げるなよ!腰を引いたら負けだ。ストレートに振り遅れてファールになっても構わない。くらいついていけば、試合後半にはタイミングもあってくるはずだ。空振り三振は歓迎だ!とにかくバットを振っていこう!」
    (全員)「はい」
    (監督)「ヨシ!明日、白進学院の先発が2年生の水嶋投手だったときの対策はこれでバッチリだな! うん? キャプテン…うちの紅一点、水嶋記録員に話しておくことはあるのか?」
    (キャプテン)「あっ、はい!」
    と、笑顔になったキャプテンは、陽菜子に向かってこう言った。
    (キャプテン)「ヒナちゃん・・・」
    (陽菜子)「は、はい」
    (キャプテン)「明日は、ヒナちゃんには申し訳ないけど・・・お兄さんを打ち崩して勝たせてもらうよ!」
    (陽菜子)「えっ?・・・」

  • #168

    六輔 (土曜日, 10 8月 2019 17:50)


    素っ頓狂な顔で陽菜子は応えた。
    (陽菜子)「あ、兄のこと・・・私、内緒にしてきて誰にも話してないんですけど、どうして知ってるんですか?」
    と、陽菜子は、自分の兄が白進学院2年の水嶋投手であることを唯一打ち明けていた人物を思い出した。
    (陽菜子)「あぁ~ 瀧野瀬君から聞いたんですか?…キャプテン!」
    (キャプテン)「はっ?・・・瀧野瀬には話してあったのか?」
    (陽菜子)「えっ?…あっ?…」

    藪蛇なことを言ってしまったと、陽菜子は顔を紅潮させた。
    (陽菜子)「ち、ち、違うんですか?」
    (キャプテン)「瀧野瀬の名誉のためにも言っておくけど・・・瀧野瀬は何も話してないよ! その雰囲気は瀧野瀬は約束させられていたんだな?内緒だよ!って(笑)白進の水嶋投手がヒナちゃんのお兄さんであることは、ヒナちゃんが野球部に入ってきたときからみんな知ってたよ!監督、そうですよね?」
    (監督)「あぁ、もちろん知ってたよ」
    (キャプテン)「ですよね!で、誰か知らなかった奴、いるか?いたら手をあげてみ」
    と、全員顔を見合わせるようにして、誰も手をあげる者はいなかった。
    (陽菜子)「え~、そうなんですかぁ・・・」
    (キャプテン)「変な気を使わせないように・・・そう思って部員には内緒にしていたんだろう?」
    (陽菜子)「・・・はい」
    (キャプテン)「瀧野瀬の予想では、先発はお兄さんだ。それでもヒナちゃんはいつも通りに東庄高校野球部員として俺たちの勝利の女神でいてくれるよな?」
    (陽菜子)「もちろんです! お兄ちゃんは、一度甲子園に行ってますから!これからの3年間は東庄高校の番です!」
    (キャプテン)「(笑)そっか。良かったよ、ヒナちゃんの気持ちが聞けて。ヨシ!円陣を組もうぜ!」
    キャプテンのその指示に部員全員、監督も立ち上がり円陣を組んだ。
    (キャプテン)「明日は俺たち全員がヒーローだ! 勝つぞ!」
    「ウォーーー!!!」という声が地鳴りのようにグランドに響き渡った。

    白進学院戦を翌日に控え、最後のミーティングを終えた東庄高校野球部。
    闘志を胸に、部員全員が明日に備えての自主練を始めていた。
    「やり過ぎるなよ!」と、監督から柔らかく諭された部員たちであったが、早めに練習が終わり、バットを振らずにはいられなかったのだった。

    (鈴木)「おい、キャプテン」
    (キャプテン)「なんだ?鈴木」
    (鈴木)「明日も頼むぜ! 俺が絶対にキャプテンの前にチャンスを作るからさ!」
    (キャプテン)「あぁ、任せとけ! 瀧野瀬に言われて目が覚めたよ! 俺は必ず打つ!」
    と、ミーティングをやる前とは明らかに表情を変えて自主練に励む部員たちがそこにいた。

  • #169

    六輔 (日曜日, 11 8月 2019 06:41)


    『瀧野瀬君・・・』
    それは、自主練でティ・バッティングをしている紘一の背中越しに聞こえてきた陽菜子の声だった。
    『瀧野瀬君…ごめん』
    「えっ?…」
    『さっきは疑ったりして、ごめんなさい』
    「あぁ…ぜんぜん気にしてないよ!」
    『えっ?気にしてない?…そ、そうなんだ』
    「あぁ。明日も記録員として頑張ってな」
    『う…うん』
    素っ気無く応え、再びティ・バッティングを始めた紘一に、陽菜子はそれ以上の声をかけることが出来なくなった。
    ユニフォームを着ている時の紘一は、野球以外のことを一切気にすることはなく、陽菜子がフランクに話したいと声をかけても、野球以外の話にはまったく興味を示さないのだった。

    ただ、その日に限っては、振り向いて帰ろうとした陽菜子を呼び止めてこう言ったのだった。
    「良かったな、水嶋」
    『えっ?・・・』
    グランドでは、決して笑わない紘一が、笑みを浮かべてこう言った。
    「みんな、先輩達もちゃんと水嶋の気持ちを分かってくれていたんだな」
    『えっ?…う、うん! ホンと良かった。瀧野瀬君が言った通りだったね、気にすることないさ!って』
    「そうだね。先輩たちも水嶋がベンチにいてくれるだけで心強いんだよ」
    『うん』
    「明日の試合もしっかり記録員として、チームの力になってくれよな」
    『任せといて!』

    と、紘一はバットを置いて、足元に転がったボールを拾い集めながらしみじみとこう言った。
    「なぁ、水嶋・・・」
    『うん?なぁに?』
    「東庄高校のここまでの快進撃はさ、60歳のセーラー服お婆ちゃんのおかげだよな」
    『はっ? 60歳のセーラー服お婆ちゃんのおかげ?』

  • #170

    六輔 (月曜日, 12 8月 2019 20:40)


    紘一は真面目な顔で言った。

    「あぁ。60歳のセーラー服お婆ちゃんがどんな人なの?って、想像したことで初戦にガチガチになっていたみんなの緊張が解けてさ・・・水嶋が話してくれたおかげなんだよな」
    『えっ?・・・』
    答えに詰まった陽菜子は『そっ…そうよね』と笑うことしか出来なかった。
    それだけを言ってまたティ・バッティングを始めた紘一を背中越しに見ながら陽菜子は心の中でこうつぶやいた。
    『ねぇ、紘一・・・確かに60歳のセーラー服お婆ちゃんってすごいよね。しかも夏用のセーラー服だもん。夏用っていったらさ、プニョプニョの二の腕を丸出しにして、スカート丈は膝上15センチでしょ?・・・少食でスタイルがいいか、あるいは、途轍もない大喰いだけど体質で太らないお婆ちゃんなのかのどちらかよね。たぶん…後者なのかな。途轍もなく大喰いなお婆ちゃん。でもね、紘一・・・私は、ついでに60歳のセーラー服お婆ちゃんの話をしただけなんだよ、ついでにね。キャプテンは私のセーラー服姿をちゃんと可愛いって言ってくれたのに。紘一には、私のセーラー服姿は・・・全く印象に残っていないんだね』
    と、ユニフォームを着ているときの紘一に、何かを期待することが間違いなのだと、笑うしかなかった陽菜子だった。

    陽菜子は、ひたすらにバットを振る紘一を、少しの間背中越しに見ていた。
    と、「ゴロゴロ…ゴロゴロ」という雷鳴と共に、大気が震えた。
    『ねぇ、らい様がきそうだよ』
    「らい様?」
    『いま、ゴロゴロって』
    「そっか」
    『らい様…金属バットは危険だからね!』
    「それぐらいは、俺だって分かってるよ!」
    『念の為に言ったの!』
    「そっか。早めに切り上げた方が良さそうだな!」」
    『そうね』
    二人がそんな会話をしているそばから、あっという間に雷雲が夏の日差しを遮り、「ピカッ」と光ってからの雷鳴が聞こえるまでの時間も短くなってきた。
    「うわっ、こりゃやばい! あがろうぜ」
    『うん』
    夏の風物詩のゲリラ豪雨が迫ってきていた。
    それはまるで何かを暗示するかのようだった。

    そう、この時の陽菜子は知る由もなかったのである。
    翌日の白進学院戦で紘一がある病を発病させてしまうことを。

  • #171

    六輔 (火曜日, 13 8月 2019 19:47)


    夕方のゲリラ豪雨の影響もなく、最高のコンディションで白進学院戦を迎えた。
    前日、ベストエイトのうちの4チームが決まっていたのだが、その顔ぶれは大方の予想通り、私立の強豪校がベストエイトに進出していた。
    残り半分の4チームを決する戦いがその日4試合が予定されていた。
    東庄高校VS白進学院は、大会メイン会場である県営球場の第一試合だった。
    白進学院には熱狂的なファンがいて、平日の試合にも関わらず多くの白進ファンが球場に押しかけてきていた。
    これまで東庄高校が戦ってきた3回戦までの雰囲気とは明らかに違っていた。

    試合前のノックを終え、ベンチに戻ってきた部員たちは、白進学院のノックをベンチから食い入るように観ていた。
    部員の誰もが、流れるような白進のノックに、言葉は適切ではないかもしれないが、見とれていた。
    「さすが白進!・・・うまい」

    三塁側のブルペンに視線をやると、背番号10の選手が試合前の投球練習をしていた。
    そう、紘一の予想通り陽菜子の兄が先発だった。
    (キャプテン)「瀧野瀬!」
    (紘一)「はい」
    (キャプテン)「瀧野瀬の予想通り、水嶋が先発だったな」
    (紘一)「はい」
    (キャプテン)「昨日のミーティングが活きるよう、しっかりバットを振ってくるからな」
    (紘一)「はい! 必ずキャプテンのところにチャンスが巡ってくるはずですから!気負わず、いつも通りにシャープに振りぬいてください、キャプテン!」
    (キャプテン)「おぅ、ありがとう。瀧野瀬が分析してくれたこと、しっかりと活かして必ず打点をあげるからな!」

    ジャンケンで勝った東庄高校は後攻を選び、試合前の7分間のノックは先に終えていた。
    ベンチ前では、ピッチャーの高橋が軽くキャッチボールをしていた。
    白進学院のノックも残りわずかとなったのだが、3塁側応援席からは今まで聞いたことのないような音量の応援が続いていた。
    (高橋)「いやぁ~ しかし賑やかな応援だな!」

  • #172

    六輔 (水曜日, 14 8月 2019 19:20)


    高橋と、そのキャッチボールに付き合っていた鈴木が3塁側の応援席に視線をやった。
    視線の先には、甲子園常連校のブラスバンドによる演奏、そしてチアリーディング部も加わった応援が、白進学院のノック時間の間、ずっと続いていた。
    (鈴木)「これが白進の応援かぁ…本当にスゲーな!」
    (高橋)「こんな応援を受けて、バッターボックスに立ったら、そりゃぁ気持ちいいだろうな」
    (鈴木)「そうだなぁ。でも、マウンドで投げていて、相手校の応援は気になるものなのか?」
    (高橋)「う~ん、まぁなぁ・・・あまり気にしない方だと思うけど、これだけ大きな音の中で投げたことないからなぁ…」
    と、高橋は3塁側の応援席にもう一度視線をやって、「ふぅ~」と息を吐いた。
    1塁側、東庄高校のベンチは、球場の雰囲気にすっかり飲み込まれてしまっていたのだった。

    白進学院戦は独特な雰囲気がある。
    白進が勝って当たり前。しかもその勝ち方が美しくなければ地元の高校野球ファンは納得しない。
    白進学院が人気を揺ぎ無いものにしている理由がある。
    それは地元の選手以外を入れないことだ。
    甲子園常連校の大阪の有名校や青森の有名校などなどは、県外から中学時代のスター選手をスカウトして引っ張ってくる。
    授業料ほか、もろもろ全てを免除するというスーパー特待の待遇で。
    青森の有名校は、9人のレギュラーのうち8人が県外から来た選手であったという年もあったほどだ。
    九州・熊本のある高校は、大阪で優勝した中学生のクラブチームの選手を丸ごとスカウトし、九州にこぞって連れ去っていき、当たり前のように甲子園に出場したこともある。
    私立高校には中学生をスカウトするために全国を飛び回っている職員を雇っている学校もあるほどだ。
    タレントの上地雄輔氏の話であるが、彼が横浜高校であの松坂大輔投手とバッテリーを組んでいたことは有名な話であるが、彼の場合、なんと38校もの野球推薦のオファーが来て、そのうちの半分は県外からのオファーだったそうだ。

    白進学院は違う。
    県外の選手を一切スカウトしない。
    地元の選手でチームを作り上げていくのが白進学院だ。
    しかも硬式あがりの早熟な選手を使うのではなく、軟式あがりの選手をじっくりと育ててチームを強くしていく。
    その年、プロから注目されている高田選手も軟式あがりだ。
    そういったことを高校野球ファンは知っている。
    知っているからこそ、心の底から白進学院を応援するファンが多いのである。
    そして自分の故郷の高校が、甲子園に行って勝ち進んでいくことを強く願い、声援を送り続ける。

    その日も多くの白進学院ファンが応援席を埋め尽くしていた。
    そう言った光景に、白進学院の選手たちは慣れている。
    常に注目を浴びているチームの宿命だからだ。
    だが、東庄高校の選手たちにとっては初めての光景だった。
    「俺たち、こんな雰囲気の中で野球をやるのかよ…」と。

  • #173

    六輔 (金曜日, 16 8月 2019 01:24)


    白進学院のノックが終わるのと同時に3塁側応援席のブラスバンドの演奏が止んだ。
    グランドでは、大会役員と白進学院のベンチ入り出来なかったメンバーによってグランド整備が始まっていた。
    試合開始までの僅かな時間。
    白進学院の選手たちがリラックスした表情でベンチに座っているところに、ブルペンでの投球練習を終えた水嶋投手が走って戻ってきた。
    と、それに気づいた陽菜子が口を開いた。
    (陽菜子)「あぁ、お兄ちゃん・・・なんか顔が緊張してる」
    (キャプテン)「えっ? そうなのか? 緊張しなきゃならない理由なんかないだろう? 大勢のお客さんだって、甲子園で経験済みなんだし…」
    (陽菜子)「きっと、東庄高校になんか負けたら大変! 抑えて当たり前だっていう変なプレッシャーを感じてるんじゃないですか?」
    (キャプテン)「(笑)なるほどなぁ・・・お兄さんとは連絡をとったのか?」
    (陽菜子)「(笑)もちろん、とっていませんよ! 例えば私からメールをしたとしても返事も返してこないと思いますよ。ライバルと気軽に話せるか!って、そういうお兄ちゃんですから」
    (キャプテン)「ふ~ん、そういうもんなのかぁ」
    (陽菜子)「あっ、それよりもキャプテン!」
    (キャプテン)「うん? なんだい、ヒナちゃん」
    (陽菜子)「今日は、なんかみんな緊張してま~す!」
    (キャプテン)「緊張?・・・そっかなぁ。リラックスしてると思うんだけど…」
    (陽菜子)「いやっ、緊張しまくりです!…ねっ、高橋先輩!」
    (高橋)「えっ? お、俺?」
    (陽菜子)「さっき、鈴木先輩と話していましたよね?白進のような大音量の応援の中で投げたことが無いからって」
    (高橋)「…うん」
    (陽菜子)「マウンドの上だと、すっごく大きく聴こえるんでしょうね」
    (高橋)「えっ?…」

  • #174

    六輔 (金曜日, 16 8月 2019 23:33)


    高橋は、陽菜子の言葉に渋々うなずいた。
    (高橋)「…そうだね」
    そんな二人のやりとりにキャプテンは黙っていなかった。
    (キャプテン)「おいおいヒナちゃん! そんな高橋が余計に緊張するようなこと言わないでやってくれよ!」
    (陽菜子)「違いますよ、キャプテン!」
    (キャプテン)「えっ? 違う?」
    (陽菜子)「だって、相手の応援がうるさいからって、耳栓をして守備につく訳いかないですよね?(笑)」
    (キャプテン)「そ…そうだな」
    (陽菜子)「大音量の応援が嫌でも聞こえてくるなら、だったら、自分の応援をしてくれてる!って、勝手に思っちゃえばいいんですよ!…勝手に!」
    (高橋)「な~るほど」
    (陽菜子)「せっかく県内№1の打線と対戦できるんですから、楽しまなくてどうするんですか? 向こうは甲子園常連校!打たれて当たり前。一つひとつアウトを重ねて行けば・・・楽しんじゃってください・・・高橋先輩!」
    (高橋)「そっか、分かった。打たれて当たり前! そうだよな、向こうは天下の白進だもんな! それに、俺みたいな球速の遅いピッチャーは見慣れてないかもしれないしな。ありがとうヒナちゃん、なんかすっきりしたよ!」
    そんな会話を聞いていた他の部員たちも、一同に緊張が和らいだようだった。
    (監督)「水嶋・・・」
    (陽菜子)「はい、監督」
    (監督)「ありがとな!選手の緊張をといてくれて。今日もまた水嶋に救われたな、本来であれば監督である私の仕事なのに。監督失格だよ!・・・いやっ?いや待てよ! 水嶋をベンチに入れた俺のお手柄ってことだよな! やっぱり名将監督は違うな!」
    (部員全員)「はいはい」
    と、いつものボケかましが始まった監督に選手たちは笑顔を取り戻したのだった。

  • #175

    六輔 (土曜日, 17 8月 2019 19:01)


    両ベンチから20人の選手が一斉に飛び出してきた。
    その時を待ちわびていた観客の大きな拍手に迎えられ、両チームの選手たちがホームベースを挟んで整列した。
    主審の「始めます」の言葉で互いに挨拶を交わすと、後攻めの東庄高校の先発メンバーはそれぞれのポジションへと走った。
    ピッチャーの高橋は綺麗に整備されたマウンドに立ち、「ふぅ~」と大きく深呼吸をして夏空を見上げた。
    与えられた7球の投球練習を始めようとプレートに足を乗せると、早速、3塁側応援席からブラスバンドの大音量の応援が聴こえてきた。
    「おぉ~ 思ったよりでかい音だな!でも、ヒナちゃんが言ってくれた通り、自分の応援をしてくれていると思って聴けば・・・って、これ甲子園でよく聴く曲じゃん!おぅ~ テンション上がるぜ!」
    と、思いのほか冷静でいられた高橋だった。

    投球練習の7球目をキャッチャーの黒岩がセカンドベースに立つ鈴木のところに送球、そのボールが内野を一周して最後にファーストを守る斎藤のミットに納まった。
    斎藤がボールをマウンドにいる高橋のところに届けに来た。
    「楽しんで行こうぜ、力まずにな!」
    斎藤が丁寧に両手でこねたボールを高橋に手渡した。
    『おっ!』

    高橋がキャッチャー黒岩のサインを覗き込み、直ぐにうなずいた。
    主審が右手を挙げ、高橋が投球モーションに入るタイミングを見計らって試合開始を宣言した。
    「プレイボール!!」
    試合前から決めてあった外角低めのストレートのサインにうなずいた高橋が振りかぶって第一球目を投じた。
    試合開始を告げる「ウ~~~~」というサイレンとともに。

  • #176

    六輔 (日曜日, 18 8月 2019 19:44)


    高橋が投じた初球は、狙い通りの外角低めのボールだった。
    「ヨシッ!」
    と、キャッチャー黒岩の感覚では、バッターが見送ってストライクとコールされる最高のボールだと思い、ボールを捕球しようとしてミットを出した、その時だった。
    今までに一度も体感したことのないスピードでバットがスイングされ、ボールはものの見事にセンター前に転がっていった。
    「えっ?あそこからバットが出てくるのかよ…」
    それだけバットスイングの速さが無ければボールをバットの芯でとらえることは出来ないタイミングだった。
    「・・・まじか」
    トップバッターの一振りで白進学院のレベルの違いと一緒に怖さを感じた黒岩だった。

    「高橋の最高のボールだったぜ! ふぅ~ こりゃぁ大変だ」
    と、マウンドを見ると、明らかに動揺した様子の高橋がいた。
    この時の二人は、言葉は交わしていなかったが、同じ気持ちでいたのだった。
    それは、これまでの試合は、さっきのボールを決め球としてバッターを抑えてきたということ。
    最高のボールを意図も簡単に打ち返されてしまったことに、この先、どれだけのヒットを打たれるのかと、不安が一気に襲い掛かってきたのだった。

    黒岩は、あえて笑顔を高橋に見せた。
    高橋も「仕方ねーよな! 白進のトップバッターだもんな!」
    と、脱帽だとしながらもこの先は簡単に打たせないぞ!と、そういう表情で黒岩を見た。
    白進学院は送りバントをほとんどしないと知る内野陣は、ダブルプレーを狙うシフトをとった。
    (キャプテン)「高橋! ゲッツー行こうぜ、ゲッツー!!」
    (高橋)「おぅ!」
    内野陣の落ち着いた言動を確認した黒岩は、キャッチャーボックスで二番バッターを迎えた。
    「おそらくは、初球から狙ってくるよな!」
    そう考えた黒岩は、高橋に縦に大きく曲がるカーブを要求した。
    高橋は、黒岩のサインにうなずくと、セットポジションから1塁ランナーを十分に警戒し、サイン通りに外角いっぱいにカーブを投げた。
    「ヨシッ!」
    黒岩は最高のボールが来たことにボールを捕球しようとミットを出した、その時だった。
    「カキーン!!!」

  • #177

    六輔 (月曜日, 19 8月 2019 19:43)


    高橋が投じた初球のカーブは2番バッターに「待ってました!」とばかりに撃ち抜かれ、ボールはものの見事に右中間を抜けて行った。
    1塁ランナーは3塁へ、そして打ったバッターは2塁まで達していた。
    試合開始2球でノーアウト2・3塁のピンチを招いてしまった。
    一番反省したのは打たれた高橋ではなく、高橋をリードする黒岩だった。
    「しまった…ここはボールから入るべきだった」
    そう思った黒岩は、申し訳なさそうに「すまん!」と顔の前に指を真っすぐに伸ばした右手をかざした。
    それを見た高橋も、自分こそ申し訳ないと黒岩と同じジェスチャーを返した。

    黒岩がベンチを見ると、内野は下がって守るようにと監督から指示が出た。
    通常であれば前進守備をとって、内野ゴロでの失点を防ぐ守備位置をとるところだが、1点を防ごうとすることで、さらに大量失点につながるような傷口を広げてしまわぬよう、内野を下げた守りを選択したのだった。
    高橋は「ふぅ~」と息を吐き、ネックストバッターに視線をやると、そこにいたのはプロ注目の高田だった。
    「ここで、こいつかよ…」
    その気持ちが働いてしまった高橋は、1球もストライクを投げることもできずにストレートのファーボールを与えてしまい、結果、ノーアウト満塁のピンチを招いてしまった。

    そんな状況になってしまったことに、ベンチでは紘一が監督から呼ばれた。
    「瀧野瀬!」
    『はい』
    監督から伝令を命じられた紘一は、ベンチを出て主審にタイムを要求し、それが認められるとダッシュでマウンドに向かった。
    それと合わせるように集まってきた内野陣。
    (高橋)「…すまない」
    (キャプテン)「謝るなって! しかし、すげーバッティングだな!」
    と、会話するところに走ってきた紘一が息を整えて口を開いた。
    (紘一)「大変です!」
    (キャプテン)「大変? 何が大変なんだよ。監督から何て指示されたんだ?」
    (紘一)「それが・・・」
    (キャプテン)「おい、早く言えよ!」

  • #178

    六輔 (火曜日, 20 8月 2019 20:31)


    紘一は、帽子で口元を隠して、笑いを必死にこらえてこう言った。
    (紘一)「監督からの伝達は、一言だけです!」
    (キャプテン)「何て?」
    (紘一)「今回もすごいっすよ!」
    (キャプテン)「だから、何て?じらすなよ!」
    (紘一)「一言・・・踏ん張れ!…です」
    集まっていた内野陣は皆、口元を帽子で隠し笑いを必死にこらえた。
    (鈴木)「この場面でそれが指示かよ?」
    (紘一)「・・・はい」
    (高橋)「どうやって踏ん張るのか、監督は何にも言わなかったのかよ?」
    (紘一)「僕も聞いたんですけど・・・とにかく踏ん張れ!って」
    (キャプテン)「相変わらずの監督だな。まぁプレイするのはお前たちだ!っていうのが口癖の監督だからな! ようは気持ちで負けるなっていうことを言いたいんだろうな…監督は」
    (紘一)「そうだと思います」
    (キャプテン)「とにかく踏ん張ってくれ、高橋!」
    (高橋)「あぁ、分かった」
    (紘一)「あっ、あと・・・」
    (キャプテン)「あと? なんだよ、瀧野瀬」
    (紘一)「水嶋が高橋先輩に言ってくれって・・・」
    (高橋)「ヒナちゃんが俺に?何て?」
    (紘一)「せっかくプロ注目の選手と対戦してるのに、逃げたら面白くないでしょ!って。相手は同じ高校生!打ち損じだってあるんだし…高橋先輩のカッコいいところ見せてください!って」

    紘一のその言葉でそれまで強張っていた高橋の顔が和らいだ。
    (高橋)「しまった、すっかり忘れていたよ! 3塁側のブラバンの応援を聴くの。せっかく俺のために応援してくれているのにな」
    (紘一)「そうですよ、先輩」
    (高橋)「なぁ、瀧野瀬」
    (紘一)「はい」
    (高橋)「ベンチに戻ったらヒナちゃんに言ってくれ! 見ててくれ!ってな」
    (紘一)「はい、分かりました。次は白進の4番ですよ、先輩! おそらく積極的に打ってくると思いますけど、コースさえ間違えなければ、どんないい当たりをされても野手の正面をついたり…結果は後から付いてきますから、先輩!」
    (高橋)「分かった」

  • #179

    六輔 (木曜日, 22 8月 2019 01:59)


    高橋は、内野陣がそれぞれのポジションに戻ったことを確認しながらロジンバックにそっと手を伸ばした。
    ロジンバックとは、名前の通りロジン(松脂・まつやに)が入った布製の袋で、ピッチャーがボールの滑り止めとして利き手に使う、あるいは、バッターがバットにふりかけて滑らないようにするために使うものである。
    マウンドの上で高橋は「ポン、ポン」と、利き手の上でロジンバックを転がし夏の真っ青な空を見上げてつぶやいた。
    「さて、楽しまなきゃな!」
    そしてロジンバックを丁寧に元の位置に置いて黒岩のサインを覗き込むと、3塁側応援席からブラスバンドの演奏が聞こえて来た。
    「おぅ、いいねぇ~」
    それは高橋自身がバッターボックスに立ったときに流れる曲、アフリカン・シンフォニーだった。
    アフリカン・シンフォニーは、まさしく高校野球の応援ソングの代表曲として知らない者はいない曲だ。
    高橋はアフリカン・シンフォニーに勇気をもらい、黒岩のサインに二度うなずいて投球モーションに入った。
    初球は、黒岩の要求通りの外角低めに外れたボールだった。
    大きくうなずきながら返球する黒岩に合わせるように、高橋も軽く一度うなずき、勝負の2球目のサインを確認した。
    「えっ?…」
    黒岩の要求は、スピードを抜いた縦に大きく曲がるカーブのサインだった。
    高橋は黒岩のサインに直ぐにうなずくことが出来なかった。
    何故なら、縦に大きく曲がるカーブは、見逃されればボールになる確率が高く、満塁であったこの場面では、ボールを2球先行させたくなかったからだ。
    だが、そんな高橋の気持ちを「分かっているさ!だけど、これだ!」というように、黒岩がもう一度同じカーブのサインを送ってきた。
    「分かったよ、黒岩!」
    と、サインにうなずいた高橋は、セットポジションから黒岩の要求通りのカーブを投げた。
    黒岩は最高のコースと高さであることに心の中で叫んだ!
    「ヨシッ!」
    と、そのボールを捕球にいったその時だった。
    「えっ?このタイミングで振り始めるのか?」
    1番と2番バッターと全く同じように、驚くべきタイミングで4番バッターがスイングしてきた次の瞬間、金属バットの甲高い音が聞こえてきた。
    「カキーン!!!」
    「あっ!」

  • #180

    六輔 (木曜日, 22 8月 2019 19:12)


    白進学院の4番バッターが、高橋が投じたカーブにうまくタイミングを合わせ、バットを鋭く振りぬくと、「カキーン!!!」という甲高い金属バットの音とともにボールはセンター方向へとはじき返された。
    黒岩が打球の行方を追うと、ボールが高橋めがけて飛んで行くのが見えた。
    と、次の瞬間、高橋は本能的にグラブを差し出した。
    すると、まるでボールが自ら飛び込んでいったかのように、高橋のグラブに打球が納まった。
    「高橋!」
    黒岩のバックホームの要求に高橋は冷静に対処した。
    それは「お、おい早く投げろよ!」と、黒岩が言いたくなるぐらいのモーションを付けて高橋はバックホームした。
    ホースプレイで3塁ランナーをアウトにし、黒岩はファーストに送球。
    1塁審判は間一髪のプレイに右手を高々と上げて「アウトー!!!」と宣告した。
    「ヨッシャー!」と沸き立つベンチで陽菜子は、スコアブックの4番バッターの欄に1-2-3と記し、1番バッターの欄にワンアウトを示すⅠを、そして4番バッターの欄にツーアウトを示すⅡを記し、小さくガッツポーズを決めた。
    見事なダブルプレイが成立した瞬間だった。
    それまで静まり返っていた東庄高校応援席は、目の前で起きた事が途轍もなくラッキーだと分かり、しかも失点せずにツーアウトをとれたことに大喜び。
    球場は初回から異様な雰囲気へと包まれていった。

    「ツーアウトーーー!!!」
    と、黒岩は右手で野手にアウトカウントを伝え、まだ気の許せない5番バッターへの配球を組み立てていた。
    この場面での黒岩の判断は早かった。
    ストレートを2球続けて簡単にツーストライクを稼いだのである。
    「この場面じゃ、簡単には打てないよな!」と、バッター心理をうまくよんだ配球だった。
    だが、そう簡単にアウトを与えてくれるバッターではないことは分かっていた。
    黒岩は心の中でこう叫んで高橋にサインを送った。
    「大丈夫だ!俺を信じてワンバウンドを放れ!」
    黒岩の要求はボールになる外角のスライダーだった。
    ワンバウンドになって、もし黒岩が取り損なえば、3塁ランナーをホームインさせてしまうことになるリスクの高いボールだった。
    うなずきながらサインを出す黒岩の気持ちはしっかりと高橋に伝わった。
    「頼んだぞ、黒岩!」と、サインにうなずいて高橋が投じた3球目、5番バッターのバットが空を切った。
    「ヨッシャーーー!!!」
    高橋はマウンドで小さくガッツポーズを決め、後ろから駆け寄ってきたセカンドの鈴木とグラブを重ね合わせた。
    (鈴木)「ナイスピッチ、高橋!」
    (高橋)「おっ!」
    1塁側応援席の声援はいきなりのマックスに達していた。

  • #181

    六輔 (金曜日, 23 8月 2019 19:45)


    ベンチで見守っていた部員たちが全員ベンチ前に飛び出し、守備から戻ってきたメンバーを両手いっぱいに広げて出迎えた。
    守備位置から走って戻ってきたレギュラーたちは、その輪の中に飛び込んできた。
    (紘一)「ナイスピッチングです、高橋先輩!」
    (高橋)「おぅ!」

    直ぐに監督がベンチ前に出て円陣が組まれた。
    (監督)「高橋、ナイスピッチング!」
    (高橋)「はい」
    (監督)「よく、私の指示通りに投げてくれた」
    (高橋)「えっ?…あっ、はい」
    この時、タイムをとってマウンドに集まっていた内野陣は、
    「私の指示通り?・・・指示って、ただ“踏ん張れ”だったくせに」
    と、思わず吹き出しそうになったがどうにかそれを我慢した。
    それだけ選手に余裕があった。
    選手全員の視線を一点に受けた監督は、一言だけを告げた。
    「思い切って振ってこい!」
    『はい!』
    監督がベンチに下がると、選手たちだけの円陣の中心でキャプテンが吠えた。
    (キャプテン)「初回を0点に抑えたのはでかいぞ! 流れはこっちに来てる。この回得点しようぜ!」
    (全員)「ヨッシャーーー!!!」

    円陣が解かれ、高橋がベンチに戻ると陽菜子が満面の笑みで迎えた。
    (陽菜子)「カッコ良すぎですよ、高橋先輩!」
    (高橋)「おぅ、約束通りヒナちゃんにカッコいいところ見せられて良かったよ。ずっとこの調子で抑えられるように頑張るよ」
    (陽菜子)「はい! この回はバッティングでもいいところを見せてくださいよ、高橋先輩!」
    (高橋)「あぁ!」

    1塁側では、東庄高校の応援が始まった。
    それは3塁側応援席の5分の1の人数で、その音量は比べ物にならないほどのものだった。
    それでも、熱気だけは負けてはいなかった。
    「いけー桧山!!」
    トップバッターの桧山が打席に立つと、桧山オーダーの「紅」が流れ始めた。
    ブラスバンドの紅の演奏に合わせ、スタンドでは生徒と、東庄高校野球部OB会の面々、さらにはその日も仕事をほっぽり投げて駆けつけてくれた町の人達が全員総立ちで大きな声援を送っていた。

    「さぁ、こい!」
    バッターボックスに立った桧山の視線の先には、陽菜子の兄が立っていた。
    「遠慮はしねーぜ、お兄ちゃんよ!」
    そう余裕の言葉を心の中で念じていると、キャッチャーのサインにうなずいた水嶋投手が大きく振りかぶって第一球を投じた。
    ストライクゾーンに来た球は全て振ろうと決めていた桧山は、一球目から振りにいった。
    「カキーン!!!」
    真芯でとらえられた打球が二遊間に飛んでいった。
    「ヨッシャー!!!」

  • #182

    六輔 (土曜日, 24 8月 2019 19:18)


    芯でとらえたその手応えと、飛んで行った方向に桧山はヒットを確信して1塁に向かって走り出した。
    勢いよく走り出してボールの行方に視線をやると、ショートを守るプロ注目の高田選手が横っ飛びするのが見えた。
    「おい、嘘だろっ?」
    並みの選手、いや、上手いといわれる選手であっても、そのコースに飛んだボールをキャッチすることは出来ないだろうというボールを高田選手は横っ飛びして伸ばしたグラブでキャッチしたのである。
    直ぐに立ち上がり、素早いモーションで高田はファーストへ送球。
    桧山は、セーフを確信してファーストベースを駆け抜けた。
    だが、一塁審判のジャッジは、右手を大きく上げた「アウトー!!」だった。
    「えっ? まじかよ…」

    ベンチで見ていた誰もが桧山のセーフを確信したが、もちろん、高校野球ではアウト・セーフのジャッジにクレームを入れることも、入れたところで覆ることも無い。
    タイミング的にはどちらとも言えるような微妙なタイミングであったが、一塁審判は右手を大きく上げた。
    高田選手の超ファインプレーに感化された訳ではなかろうが、少なからず一塁審判のジャッジに影響を与えた高田のプレーだった。
    ベンチに悔しそうな表情で戻ってきた桧山を全員が労った。
    「ナイスバッティング、桧山!」
    『おぅ! もう少し足が速ければなぁ…って、思ったけど・・・次は外野の間をぶん抜いてやるよ!』

    東庄ベンチは気持ちを切り替え、2番バッターの鈴木に声援を送った。
    「いけー、鈴木!」
    鈴木は小柄な選手だが、そこそこのパンチ力を持ったバッターだ。
    ただ、なかなかバットの芯でボールをとらえることが出来ずに、そのパンチ力を活かしきれないのが玉に瑕なのだが。
    鈴木は、やんちゃな男だったが、スキー場でリフトから落ちた女の子を見つければ「大丈夫ですか、どうぞ僕のこの手につかまってください、ハニー」と、声をかけて女の子を優しく抱き起してやるような、そんな一面もある男だ。
    ただしそれは、リフトから落ちた女の子が抱き起してあげられる体形であれば!の話だ。
    一人だけサイズが合わずに、やむを得ず他の部員と違った「赤パン」を履いているような女の子には無理な話だ。

    1塁側応援席からは、やんちゃな鈴木のテーマソング「暴れん坊将軍」の演奏が始まった。
    水嶋投手が投じた初球、ストレートがクロスファイヤーぎみにインハイをえぐってきた。
    主審は気持ちよさそうに「ストライーク!」とコール。
    鈴木は思わず心の声を漏らした。
    「速っっっや! こんな球、俺には打てっこねーし!」
    と、鈴木は次の2球目で得意の攻撃を仕掛けることを決めたのだった。

  • #183

    六輔 (日曜日, 25 8月 2019 17:50)


    マウンド上で自信に満ち溢れた表情で、キャッチャーのサインにうなずいた水嶋投手は、速いテンポで振りかぶり2球目を投じてきた。
    と、鈴木はそのモーションに合わせてバントの構えにバットを持ち換えた。
    鈴木が考えた得意な攻撃とは、左投げの水嶋投手に対しての、3塁線へのセーフティバントだった。
    1球目と同じ右バッターのインコースをえぐる140キロ後半のストレートに鈴木はバットを合わせた。
    「コン!」
    鈴木が差し出したバットの芯を絶妙に外したバントが3塁線ぎりぎりに転がった。
    三塁手が鈴木のバントの構えに反応し、勢いよくダッシュしてきてグラブを使わず右手でボールを掴み、そのままジャンピングスロー。
    鈴木と1塁ベースで間一髪のプレーになった。
    1塁ベースを必死に駆け抜けていた鈴木はセーフを確信して1塁審判を見た。
    と、1塁審判は両手を横に大きく広げてコールしていた。
    「セーフ!!」
    『ヨッシャー!!!』
    鈴木が小さくガッツポーズをしてベンチをみると、全員がガッツポーズをして嬉しさを表現していた。
    「ナイスバントー! 鈴木」
    東庄高校応援席も大盛り上がり。
    勢いそのままに3番バッターの高橋がバッターボックスに立ち、監督のサインを確認した。
    監督からのサインは「自由に打て!」だった。
    高橋は口をギュッと結んで水嶋投手を見た。
    「さぁ、甲子園を経験してきたピッチャーの球を見せてもらうよ!」
    高橋は、何の根拠もなかったが、何故か打てるような気がしていた。
    「よし、ストライクは全部振って行こう!」と、そう決めて構えた。

    水嶋投手は冷静に一塁へ牽制球を投じ、しっかりと間をとった。
    改めてキャッチャーのサインにうなずき投球モーションを開始した。
    初球は鈴木と同じインコース高めへのストレートがきた。
    不思議とバットがスムーズに出た。
    「カキーン!!!」
    真芯で捕らえたボールが右中間へと飛んでいった。
    打った高橋は心の中で叫びながら走り出した。
    「抜けてくれーーー!!!」

  • #184

    六輔 (月曜日, 26 8月 2019 19:15)


    スタンドでは、あたかもその声で高橋の打球が伸びるかのように、東庄高校ベンチと応援席からも声が飛んでいた。
    「抜けろーーー!!!」
    だが、白進学院の外野手は俊足揃い。
    県内屈指の選手が3人揃った外野守備は鉄壁だった。
    センターが高橋の打球に最短距離で走り、思いっきり腕を伸ばしグラブを差し出した。
    と、突然神風が吹いたかのように打球は勢いを落とすことなく伸びて行き、差し出されたセンターのグラブのほんの僅か先を抜けて行った。
    「ヨッシャー!!!」
    湧き上がる球場内で、1塁ランナーの鈴木は一気に3塁へ、そして打った高橋も2塁まで達した。
    「ウォーーー!!!」
    地鳴りのような歓声が上がった。
    甲子園当確の白進学院の初回の攻撃を0点に抑え、そして続くその裏の攻撃でいきなりのチャンスを作ったことに、1塁側応援席は大盛り上がり。
    逆に3塁側白進学院応援席は、東庄高校の見事な攻撃に静まり返っていた。
    「おい、東庄が私立を2つも喰ってきたのは、決してまぐれじゃねーぞ!」
    スタンドのあちこちでそんな会話が聞こえてきた。

    白進のキャッチャーがここはタイムを取るべきかと3塁側ベンチを見ると、白進の監督はしっかりしない水嶋投手に腹を立てていたのか、タイムを取るべく素振りも見せずに知らん顔。
    間を取ることなく、4番バッターのキャプテンがバッターボックスに向かった。
    1塁側スタンドでは、キャプテンのテーマ曲「狙い撃ち」が奏でられ、メガホンの叩かれる音でスタンドの熱気は最高潮に達していた。
    「頼んだぞー、キャプテン!」

    すると、天下の白進学院が初回から前進守備をとってきたのである。
    「えっ?ここで前進守備をとるのかよ?」
    と、誰もが驚く光景だった。
    白進学院が前進守備をとったのには、二つの理由があった。
    一つは、水嶋を一人前の投手に育てていくためには、ここで失点をさせる訳にはいかないということと、もう一つは、明らかに東庄高校の4番バッターを見下してのことだった。
    そう、左バッターであるキャプテンには打たれないという絶対的な自信から前進守備を選択した白進学院だった。

    バッターボックスに向かうキャプテンは白進学院のその守備体形を見て、笑みを浮かべた。
    「へぇ~ 4番の俺に前進守備をとってきたのかよ。なめられたもんだな」
    と、思いながらも、それがために力まないよう、気持ちを整理した。
    「勝負どころだ! 強い打球を打って内野の間を抜いてやる! そのために絶対に逃げない!」と。
    このチャンスの場面でキャプテンがそう考えを整理したことで、試合が大きく動くことになるのだった。

  • #185

    六輔 (火曜日, 27 8月 2019 19:22)


    キャプテンは、ベンチを一度も見ることなくバッターボックスに立ち、そしてバットを構えた。
    何故なら、高橋が二塁打を打ってワンアウト、ランナー2・3塁のチャンスが生まれた瞬間に、監督からこう告げられていたからだ。
    「キャプテン、ここはノーサインだ!お前に任せる。自信を持って振ってこい!」
    『はい!』

    バッターボックスに立ったキャプテンは、水嶋投手から視線を切ることなく監督の言葉をもう一度口ずさんだ。
    「自信を持って振る!!!」
    セットポジションから投じられた初球は、外角に大きく外れたボールだった。
    おそらくは、様子を見るための初球だったのであろう。
    ただ、腕をしっかり振ったそのボールの勢いは、キャプテンも初めて感じる速さだった。
    「速い!」
    スコアボードに表示された143㎞という球速以上に速さを感じたキャプテンは、一度バッターボックスを外して強くスイングをしてからまたバッターボックスに立って2球目を待った。
    すると、なんと白進学院は2球目にスクイズを警戒してウエストボールを投げてきたのである。
    1点たりとも与えないという意思を強く感じる1球に、スタンドはざわついた。
    「お~い、白進らしくねーだろうよ。1点や2点与えたって、直ぐにその何倍も取り返せるだろう?こういう場面で逃げるような白進を見たくねーぞ!」
    そんなヤジも飛び交った。
    ヤジは、当然マウンドに立つ水嶋投手にも聞こえていた。
    水嶋投手は、「ふぅ~」と息を吐き、口を真一文字に閉じて三球目のサインを覗き込んだ。
    と、水嶋投手はうなずくことなく首を横に大きく振った。
    キャッチャーのスライダーのサインに首を振ったのである。
    キャッチャーは水嶋投手が同意しないことに、仕方なく球種を変え外角低めのストレートのサインを送ったのだが、水嶋投手はそれにも首を横に大きく振った。
    「はぁ?」
    キャッチャーは水嶋投手の心理を読むと、答えは簡単に導かれた。
    「そっか、逃げずに真っ向勝負したい!っていうことなんだな、水嶋。分かった。思い切り腕を振るんだぞ!」
    そう考えてインコース高めのサインを送ると、「それですよ!」と言わんばかりに水嶋投手は大きくうなずいた。

    バッテリーがサインを交換する間、キャプテンはもう一度自分のバッティングを整理していた。
    「低く、強い打球を打つ! そのために絶対に逃げない!」と。
    意地と意地のぶつかり合った3球目が投じられた。
    と、投げた瞬間、水嶋投手はマウンド上で声を発した。
    「あっ!」

  • #186

    六輔 (水曜日, 28 8月 2019 18:05)


    水嶋投手がインコース高めを狙って投げたボールは、明らかにすっぽ抜けていた。
    投げた瞬間にその球筋がキャプテンの頭部に向かっていたことに、ネット裏で見ていた者は一様に「あっ!」と声を発した。
    「危ない!」
    見ていた人がそう思った瞬間には、もう手遅れだった。
    キャプテンは、水嶋投手のスピードボールに押されないようにと、タイミングを早目にとり、踏み込んで打ちに行っていたのだった。
    「あっ!」
    140キロを超えるスピードボールがキャプテンの頭部を直撃した。
    鈍い音とともに、頭部に当たったボールは足元に転がり、キャプテンはバッターボックス内で崩れ落ちるように倒れた。

    頭部へのデッドボールは、当たり所が悪ければ、最悪命を落とすこともある危険なものだ。
    デッドボールが頭部に当たってしまった場合に重要となるのは、当たったボールがどうなるかである。
    ヘルメットに弾かれて、ボールが遠くへ飛んでいくようであれば、頭部へのダメージはさほどない。
    だが、ヘルメットに弾かれることなくボールがその場に落ちるようであれば、それは最悪なケースをも覚悟しなければならないことになる。
    この時のキャプテンへのデッドボールは、その最悪なケースをも覚悟しなければならない方だった。
    お祭り騒ぎで応援を続けていた1塁側応援席はもちろん、球場全体が凍り付くように一瞬にして静まり返った。

  • #187

    六輔 (木曜日, 29 8月 2019 20:17)


    目を閉じて倒れこんだまま全く動かないキャプテンに、ベンチでは、ただただ無事を祈ることしかできなかった。
    陽菜子は、スコアブックのキャプテンの欄にデッドボールを示す記号の「D・B」を書くことも出来ぬまま、グランドに倒れたキャプテンを見つめスコアブックをギュッと強く抱きしめた。

    大会役員と一緒に球場内に控えていたドクターがグランドに現れた。
    脳震とうを起こしていたがために動くことさえ出来なかったキャプテンだったが、隣にドクターが来てようやく目を開けた。
    自ら起き上がろうとしたキャプテンだったが、直ぐに「動いちゃいかん!」とドクターに静止させられた。
    そのまましばらくの時間動かさないようにおかれ、タンカーが持ち込まれた。
    大会役員が5人がかりで頭部を固定したキャプテンをタンカーに乗せ、そのままグランドから消えて行った。

    ベンチで状況を見守っていた監督は、
    「この後は出場できないだろう」
    と、覚悟を決めざるを得なかった。
    それだけ頭部へのデッドボールが危険なものであると分かっていたからだ。
    そしてその考えは間違えではなかった。
    主審が1塁側ベンチにやってきて監督にこう告げた。
    「直ぐに病院に連れていくそうです。ドクターの診立てでは、当たり所がとても心配な場所なので、今日の退院はおそらくないだろうということです」
    監督は、主審の話に静かにうなずくことしか出来なかった。
    「代走を出してください」
    そう主審に促された監督はこう確認した。
    『臨時代走ではなく、交代で代走を出すということですか?』
    主審は神妙な顔つきでうなずいた。

  • #188

    六輔 (金曜日, 30 8月 2019 20:25)


    監督は、迷った。
    それは、代走に足の速い2年生を使って試合への出場機会を増やしてやるべきか。
    それとも代走から紘一を指名することで、いきなり守備からの起用とならぬようにするか。
    監督は迷った結果、後者を選んだ。
    「瀧野瀬・・・」
    『はい』
    「代走だ。そしてそのままショートの守りに入ってくれ」
    紘一が全く予期していなかった、しかも嬉しくもない交代であったが、それでも監督の指示を受け入れるしかなかった。
    『・・・はい』
    元気のない紘一の返事に監督は、部員たちを奮い立たせようとこう言った。
    「いいか、瀧野瀬・・・みんなも聞いてくれ。頭部へのデッドボールは、みんなも知っている通りとても危険なものだ。キャプテンはこれから病院に行くそうだ。おそらくは試合中に戻って来れないと思う。この試合・・・お前たち一人ひとりが強い気持ちで戦ってほしい。キャプテンの分までな」
    部員を代表して副キャプテンの桧山が静かに語った。
    「この試合をキャプテンの高校野球最後の試合にはさせねーぞ!」
    全員が無言でうなずいた。

    紘一はヘルメットをかぶり、ベンチ前で二度屈伸をして1塁へと走った。
    そして紘一が1塁ベースについたときだった。
    球場の外に、救急車のサイレンが聞こえてきた。
    それはキャプテンを病院に搬送するために迎えに来た救急車のサイレンだった。
    事の成り行きを見守っていた1塁側応援席では、救急車が来たことと、紘一が代走に出されたことで、全てを理解するしかなかった。

    キャプテンの退場で、東庄高校は大きなダメージを受けた。
    それは、レギュラー全員が3年生で、代わりに入る紘一が一年生だから頼りない、紘一の守備では不安だというそんな簡単な話で済むものではなかった。
    キャプテンは、4番バッターとして打つ方はもちろん守備でもチームの柱であり、どんなピンチを迎えようが、キャプテンが冷静に判断をしてチームを引っ張ってきたチームの司令塔だった。
    野生の世界で言えば、猿の群れが束になって力を合わせ、百獣の王ライオンに闘いを挑んでいたが、その途中で「次はここのエサ場! 田舎におでん屋が出来たから次はそこ!」」と次から次へとエサ場のハシゴを指示する大喰いのボス猿を腹痛で失い、それでも残ったメンバーで戦いを続けなければならないようなものだった。
    これまでの3試合の勝ち方が、全てキャプテンの力があってこそだと知っていた1塁側応援席は静まり返り、ただただキャプテンの無事を祈ることしか出来なかった。

  • #189

    六輔 (土曜日, 31 8月 2019)


    デッドボールで試合が中断されて10分近くが経っていた。
    間もなく試合が再開されるときになり、水嶋投手が静かに投球練習を始めた。
    そして、紘一が代走として1塁ランナーについたことで試合を再開させる準備が整ったのだが、ちょうどその時に聞こえてきた救急車のサイレンに、水嶋投手は投げることをやめてしまった。
    球場全体がキャプテンの無事を案じるような、そんな雰囲気で静まり返っているなか、水嶋投手はマウンド上でサイレンが聴こえてきた方角に視線をやり、立ちすくんでいた。
    それを見かねたショートを守る高田選手がマウンドに歩み寄って声をかけてきた。
    「水嶋・・・水嶋」
    『あっ、はい』
    「なに、ぼーっとしてんだよ! もう直ぐ試合が再開されるぞ、早く投球練習をしろよ!」
    『・・・はい』
    「向こうのキャプテンなら大丈夫だ、気にするな!」
    『…分かりました』と、水嶋投手は投球練習を再開させた。
    と、やめる前までは普通に投げられていたものが、再開後のボールは明らかにスピードが落ち、何球投げてもまともにストライクが入らなくなっていた。

    水嶋投手のコントロールの良さは超一流だったが、それでも1試合に一つや二つのデッドボールは普通に経験してきた。
    ただ、頭部へのデッドボールは初めてのことだった。
    水嶋投手の脳裏には、バッターボックスで崩れ落ちるキャプテンの姿が、くっきりと焼き付いて残っていた。
    「とんでもないことをしてしまった」
    救急車のサイレンを聴き、体を思うように動かせなくなってしまっていたのだった。

    キャプテンを乗せた救急車が、再びサイレンを鳴らして遠ざかっていった。
    その時を待っていたかのように、主審が試合を再開させると告げた。
    「プレイ!」
    ワンアウト満塁で試合が再開された。

  • #190

    六輔 (日曜日, 01 9月 2019 21:07)


    満塁になったことで、白進学院の内野陣は前進守備から中間守備へとシフトを変えた。
    キャッチャーは、当然のようにバッターから一番遠い外角を要求し、水嶋投手はそれに軽くうなずいた。
    投げられたボールは大きく外れ、キャッチャーがどうにか手を伸ばしてそれを押さえた。
    「肩の力を抜け! リラックスだ!」というジェスチャーとともに返球したキャッチャーは2球目も同じ外角のストレートを要求した。
    うなずいて投げられた2球目は、1球目よりもさらに大きく外れ、危うくワイルドピッチになるようなボールだった。
    そして3球目も・・・4球目も
    主審が4球目をジャッジしてコールした。
    「ボール、フォア!」
    フォアボールで5番バッターが出塁したと同時に3塁ランナーが先制のホームインをした。
    湧き上がる1塁ベンチで陽菜子は、赤のボールペンに持ち換えて2番鈴木の欄に得点を示す丸を塗りつぶし、小さくガッツポーズを決めてこう言った。
    「キャプテン・・・先制しましたよ!」と。
    湧き上がる1塁側スタンドでは、悲鳴にも近い声が飛び交っていた。
    「キャプテンの分まで頑張ってくれー! まだまだいくぞー!」

    6番バッターに対しても水嶋投手のコントロールが定まることはなかった。
    「ボール…ボール…ボール・・・ボールフォア!」
    そして7番バッターに対しても
    「ボール…ボール…ボール・・・ボールフォア!」
    スコアボードの東庄高校1回裏の得点の数字が2から3に変わったところで、ようやく白進学院のベンチから「タイム」の声がかかった。
    背番号18の選手が主審のところに走り寄り選手交代が告げられ、3塁側ブルペンで投げていた背番号11の投手がマウンドに走ってきた。
    「水嶋・・・」
    『…すみません』
    水嶋投手は、その言葉を発するのが精一杯だった。
    3年生の背番号11の投手にボールを渡して、水嶋投手はマウンドを降りた。
    普通であればそれまで投げていた投手がベンチに戻ってくるときには、それを労うようにスタンドから拍手が起きるところであるが、この場面ではそれも一切なく、ベンチに戻った水嶋投手に声をかけてくれる選手も一人もいなかった。

  • #191

    六輔 (月曜日, 02 9月 2019 20:01)


    8年連続で甲子園に出場している白進学院だが、今年のチームは昨年の秋、そして今年の春の大会で思うような結果を残せていなかった。
    それでも、チーム改革を続け、この夏の選手権大会では、優勝候補の筆頭と言われるまでにチームを作り上げてきた。
    甲子園に出場すれば、全国の強打者と対戦しなければならない訳だが、やはり強打者、チームの中心打者は左バッターが圧倒的に多い。
    その左バッターを力で抑え込むことができるピッチャーをつくることが、甲子園で勝ち上がっていく絶対的な条件だと監督は考えていた。
    そして一番に期待を寄せていたのが水嶋投手だった。
    エースナンバーである背番号1は3年生に背負わせたが、実質、エースとしてここぞという試合では水嶋投手を投げさせるつもりでいた。
    だから、監督は東庄高校との試合に迷うことなく水嶋投手を指名した。
    理由は、紘一が予想した通りだった。
    東庄高校の強さを本物だと認め、もし、この大会で負けることがあるとするなら、公立校の東庄高校のようなチームだと、そう考えて水嶋投手を先発させたのだった。

    初回、先頭バッターの桧山はショート高田のファインプレーに救われたが、続く2番鈴木のセーフティバントの内野安打、そして3番高橋の外野を抜ける2塁打で招いたピンチ。
    そこで絶対に抑えてやるという力みが手元を狂わせ、投げてしまった頭部へのデッドボール。
    それから3連続押し出しフォアボールの3失点で交代させられた水嶋投手。
    ベンチに戻ってきてずっとうなだれたままの水嶋投手に監督が強い口調で言った。
    「自分で招いたことだ! しっかり試合を見ろ!」
    ベンチの中の空気が一瞬にしてピーンと張りつめた。
    ただ、このときの監督は、頭部へのデッドボールが原因であったことに、それ以上に水嶋投手を叱責することは控え、心の中でこうつぶやいた。
    「水嶋・・・投手の宿命なんだ!自分で乗り越え、自分で強くなるほかないんだ。向こうのキャプテンが無事でいてくれることを信じて、今は試合のことだけを考えるんだ」と。

  • #192

    六輔 (火曜日, 03 9月 2019 19:28)


    水嶋投手に代わってマウンドに立った背番号11の投手には意地があった。
    最上級生でありながら、3番手か4番手の投手に甘んじ、甲子園に行けたとしても、ベンチ入り出来る確証もなかった。
    ワンアウト満塁のピンチに動じることなく小気味よいピッチングで後続を抑えると、「ヨッシャ!」とダッシュでベンチへと戻って行った。
    ここで代わったピッチャー次第によっては、さらに追加点を取られかねない場面で、その投球は見事だった。

    東庄高校が初回3点を先取して攻守交替となった。
    紘一が初めて公式戦の守りにつくときになり、緊張気味にグラブを眺めているところに鈴木が声をかけてきた。
    「おい、瀧野瀬!」
    『はい』
    「エラーは3つまで許してやるよ!」
    『えっ? エラーは・・・し、しないですよ!』
    「おっと、そっか。エラーしてもいいって言われていれば気が楽になるかと思って言ったんだけどな(笑)」
    『ありがとうございます、鈴木先輩! だけど自分はエラーしないです。だってさっき、桧山先輩が言ったじゃないですか。「この試合をキャプテンの高校野球最後の試合にはさせねーぞ!」って。この試合でのエラーは、致命傷になります。責任重大なのでエラーしないように頑張ります!』
    「そっかそっか、頼もしいな。お前の守備力はみんなが認めているんだ。楽しめよ、瀧野瀬!」
    『はい』

    2回表、守備位置についた東庄高校ナイン。
    高橋がマウンドで投球練習をする間、内野陣はゴロ捕球の練習をすることが許されている。
    1塁側スタンドの誰もが紘一の一挙手一投足に注目していた。
    「大丈夫なのか? 1年生で…」
    皆が注目するなか、紘一が普段通りにゴロを捕球し、キャプテンに引けを取らない矢のようなスローイングをしたことに、1塁側スタンドが沸き上がった。
    「おい、あの1年生、なかなかやるじゃん!」
    「頑張れよ~ キャプテンの代役! しっかりな!」
    グランドにはいい雰囲気が漂っていた。

    投球練習最後のボールが黒岩からセカンドに送られ、内野を周ってファーストの斎藤がボールを持って高橋のところにきた。
    「打たせていこうぜ!」
    『おぅ。鋭い打球がたくさん飛ぶと思うけど、よろしくな!』
    ボールを斎藤から受け取った高橋は、ショートを見ると、明るい表情の紘一がそこにいた。
    『気楽に行けよ、瀧野瀬!』
    「はい! 自分のところに打たせてくださいよ!」
    高橋の声掛けに明るく答えた紘一だったが、正直なところは緊張しまくりで守備についていたのだった。

  • #193

    六輔 (水曜日, 04 9月 2019)


    2回表、白進学院の攻撃が始まった。
    声を張り上げ、少しでも緊張を和らげようとしていた紘一に、“野球の神様”は容赦なく野球のジンクスを振りかざしてきた。
    「せっかく試合に出してもらえたのですから、練習の成果を見せてください」
    と、その回のトップバッターの打った鋭い打球を紘一の前に飛ばしたのである。
    球場の誰もが代わったばかりの1年生の守備を注目する中、紘一は落ち着いてゴロをさばき、ファーストへの正確なスローイングで打者ランナーをアウトにした。
    特別難しいゴロではなかったが、まだ1年生で公式戦初出場の紘一が無難にプレー出来たことに1塁側応援席からは割れんばかりの拍手が鳴り響いた。

    野球には、要所要所で大事な場面というものがある。
    そう、この時のショートゴロがまさしくそうだ。
    ここで紘一がエラーでもしようものなら、流れが一気に白進学院へと行きかねないところだった。
    代わって直ぐにゴロをさばくことが出来た紘一は、“落ち着き”と“余裕”という大きなアドバンテージを手にした。
    結局、三者凡退で白進学院の2回表の攻撃を無得点に抑えダッシュでベンチに戻ってきた選手たちに、1塁側応援席からの声援が飛んだ。
    「ナイスピッチング! 高橋」
    「いいぞぉ~! 一年坊主!」

    ベンチ前で出迎えた監督を囲んで円陣が作られた。
    「うちのペースだ! ピッチャーが代わってもやることは一緒だ! コンパクトなスイングでつないで行こう!」
    『はい』
    キャプテンの無事を信じ、東庄高校野球部は、王者白進学院との闘いに臆することなく挑んでいったのだった。

  • #194

    六輔 (木曜日, 05 9月 2019 19:24)


    高橋は、大きく縦に落ちるカーブを得意としていた。
    近年はあまり言われなくなったが、その当時は、その大きく縦に落ちるカーブを“ドロップ”と呼んでいた。
    “ドロップ”と聞いて“サクマ”を連想する者もいるだろうが、ここでまた余計な話をすると耳をつかまれそうなので、ここでは話を広げずに物語を進める。

    高橋は、決して速くないストレートと90キロ台のスローカーブで上手く緩急をつけてタイミングを外し、アウトを重ねて行った。
    それでも甘く入ってしまったボールはヒットされ、毎回スコアリングポジションにランナーを背負ってのピッチングが続いた。
    だが、毎回訪れるピンチも、桧山や鈴木、そして紘一までもが高橋に声を掛け、それに勇気をもらいながら、なんとか乗り切っていった。
    ツキもあった。
    ヒット性の打球も野手の正面に飛び、堅実な守りで高橋を盛り立てて行った。
    スコアは3-0、東庄高校が王者白進学院に3点をリードしたまま5回を終了した。

    野球は9イニングで行うゲームだ。
    その丁度中間になる5回終了時には、試合が中断されてグランド整備が行われる。
    両チームともベンチに入って後半戦への英気を養うために、しっかり水分補給をし、汗をいっぱいに吸ったアンダーシャツを着替えたりする。
    東庄高校のベンチはいい雰囲気でその間のインターバルを過ごしていた。
    と、そこに大会本部の係員がベンチにやってきた。
    「監督さん、ちょっといいですか?」
    部員たちは直ぐに察した。
    大会本部の係員がベンチに来たのは、キャプテンのことを話しに来たに違いないと。
    全員が大会係員の言葉を聴こうとしたが、監督と話すその声が小声でそれは叶わなかった。
    監督は神妙な顔つきのまま、大会係員の話に時折うなずき、そして最後に深々と頭を下げた。
    部員たちは、キャプテンの無事を信じ、監督の言葉を待った。
    すると監督は神妙な顔つきのまま静かに話を始めたのである。
    「みんな聞いてくれ・・・」

  • #195

    六輔 (金曜日, 06 9月 2019 20:31)


    監督は、「ふぅ~」と息を吐いてゆっくりと話を始めた。
    「いま、大会係員さんからキャプテンのことで話があった」
    『キャプテンは無事なんですよね? 監督!』
    「まぁ、落ち着いて聞くんだ、桧山!」
    『あっ、はい』
    「キャプテンは、脳震とうも落ち着き、今は安定していて普通に話も出来るそうだ」
    『ほんとですか、監督!』
    「あぁ。…ただな、当たった場所が場所なだけに、今日はそのまま入院になるそうだ。あまり心配しないようにと・・・」
    この時の部員全員が同じ思いだった。
    それは、出来ることなら試合中にキャプテンに戻ってきて欲しい。
    試合に戻ることが出来なくても、キャプテンにはベンチにいて欲しいと。
    だが、それが叶わなくなったと理解するしかない監督の言葉だった。

    うつむく部員たちを見た監督は、部員たちの気持ちを直ぐに察し、話を続けた。
    「係員さんがキャプテンから伝言を預かってきて、さっきそれを教えてもらった」
    『えっ?…キャプテンは何て?』
    「桧山、お前が代わりにチームを引っ張って行ってくれと、そう伝えて欲しいと言っていたそうだ」
    『あいつ・・・はい、副キャプテンですから当然です、監督』
    「頼んだぞ、桧山! それとな・・・」
    と、監督はうつむいたままの陽菜子の方に視線をやって話始めた。
    「水嶋・・・」
    『あっ、はい』
    「水嶋に気にしないようにと伝えて欲しいと言っていたそうだ」
    『キャプテン・・・』
    「キャプテンは、お兄さんがぶつけてしまったことを気にしているんじゃないかと、水嶋のことをすごく気にしていたそうだ」
    『キャプテンに何かあったら…私』
    「バカな心配をするな、水嶋!キャプテンなら絶対に大丈夫だ!」
    『・・・はい』
    「今までのようにチームを明るく元気にしてくれ!・・・そう言ってくださいと頼まれてきたそうだ」
    『キャプテン・・・私なら大丈夫です。デッドボールは仕方のないことだと思うので・・・この試合に勝って、キャプテンにまたバッターボックスに立ってもらいたいです』
    「そうだな!」
    監督は選手全員をゆっくりと見渡してこう言った。
    「いいか、このチームはキャプテンを中心にずっと頑張ってきたチームだ。水嶋が言ったように、キャプテンにはまだまだ高校野球を続けさせてやりたい。監督である私も同じ思いだ。もちろんお前たち全員が同じ気持ちだろう。だから・・・この試合に負けるわけにはいかない。勝とう! 勝って、準々決勝に進むんだ・・・キャプテンのためにな!」
    『はい!』

    グランド整備が終わって、東庄高校ナインが勢いよくベンチを飛び出してきた。
    1塁側スタンドからは、大きな声援が飛んだ。
    「このまま白進学院を破って甲子園だーー!!!」

  • #196

    六輔 (土曜日, 07 9月 2019 19:40)


    野球では点数が入りやすいイニングというものがある。
    初回と最終回、そしてこのときの6回がそうだ。
    5回が終わってグランド整備のインターバルが取られることで、試合の流れが変わることが往々にしてあるのだ。
    そして、まさしくこの試合もそうだった。
    それまで高橋を打ちあぐんでいた白進打線が、高橋攻略のためにスイングをコンパクトに変えてきたのだった。
    「カキーン!!!」
    「カキーン!!!」
    「カキーン!!!」
    いきなりの3連打でノーアウト満塁のピンチを招いてしまった。
    そして、次に迎えるバッターがプロ注目の高田選手となった。

    東庄高校のベンチからタイムが要求され、ベンチから2年生の伝令が飛んできた。
    内野陣がマウンドに集まったときには、いつもであればキャプテンが話すべきところ、桧山が口を開いた。
    (桧山)「監督・・・なんて? もしかしてまた『踏ん張れ!』だけか?」
    (伝令)「いえ、違います。高橋先輩に、逃げるな!低めをついて、ゴロを打ってもらえ。1点は覚悟の上で守備位置はセカンドゲッツー狙い、あとは内野陣がしっかり守ってやってくれと、そう伝えてこいと言われました」
    (桧山)「そっか・・・たまには監督らしいことも言うんだな(笑)」
    (高橋)「一打席目はまったくストライクの入らないフォアボール、二打席目もフルカウントまで行って、結局はくさいところを見送られての二打席連続でフォアボールだったけど・・・さすがにここは逃げる訳にはいかないよな…満塁だしな」
    (黒岩)「そうだな。コースを注意して・・・相手も同じ高校生だ! コースさえ間違わなければ、野手の正面に打ってくれるかもしれないしな」
    (高橋)「そうだけど・・・もし、打たれたらゴメンな!」
    (桧山)「勝負する前からそんなネガティブでどうすんだよ! そんな弱気なことを言ってるとまたヒナちゃんに叱られるぜ!」
    (高橋)「そうだな(笑)」
    (桧山)「それに、さっきもみんなで誓いあったろう? キャプテンの高校野球をこの試合で絶対に終わらせないって」
    (高橋)「あぁ!」
    (桧山)「ところで、黒岩」
    (黒岩)「なんだ、桧山」
    (桧山)「配球の方はどうするつもりなんだよ」
    (黒岩)「困ったことに、これまで通用していたスライダーに、すっかりタイミングを合わせてきたんだよな。あとはカーブをどこでどう使うかだ」
    (桧山)「そっか」
    (紘一)「おそらくですけど、ファーストストライクから狙ってくると思います」
    (黒岩)「瀧野瀬もそう思うか?」
    (紘一)「はい」
    (黒岩)「ストレートは見せ球! カーブ勝負で行くぞ、高橋!」
    (高橋)「分かった!」

    内野陣がマウンドからそれぞれの守備位置に戻って、試合が再開された。
    黒岩が導き出した初球の球種はカーブだった。
    高橋はそのサインにうなずいて、こう口ずさんでからボールをセットした。
    「キャプテン・・・一緒に甲子園に行こうぜ!」と。

  • #197

    六輔 (日曜日, 08 9月 2019 18:01)


    主審の「プレイ!」のコールで試合が再開された。
    高橋は、3塁ランナーに視線をやり、少しだけ間をおいて黒岩の要求どおりに外角低めへとカーブを投じた。
    キャッチャーのマスク越しに見えたボールが要求通りに低めにきたことに「ヨシ!」と、黒岩が言ったその次の瞬間だった。
    黒岩が今まで一度も感じたことのないバットスイングの風圧とともに「カキーン!」という甲高い音が聞こえ、物の見事に芯で捕らえられた打球がレフト方向へと飛んで行った。
    と、その瞬間、まるで時が止まったかのようだった。
    レフトを守る長谷川は、プロ注目の高田選手の打球が自分の守る方向に飛んでくるのは分かったが、打球を追うためのその足を直ぐに止めたのである。
    何故なら、その打球を捕ろうと追っても決して届かないところにあると直ぐに分かったからだ。
    打球は長谷川が見上げる遥か彼方を進み、レフトスタンド上段へと吸い込まれて行った。
    満塁ホームランと認知した3塁側応援席からは地鳴りのような声援が沸き上がった。
    「いいぞー!さすが高田だ! これぞ白進! 白進が負ける訳ないんだ!」
    沸き上がる3塁側応援席とは対照的に1塁側応援席は、「これが甲子園クラスなんだよ!」と実力を見せつけられ、静まり返って誰もが言葉を失っていた。

    逆転満塁ホームランを打った高田選手は、喜ぶ素振りなど微塵も見せずにグランドを一周し、4点目となるホームベースを踏んでネックストサークルで待つバッターとハイタッチを交わしてベンチへと消えて行った。
    甲子園のヒーローが、皆の期待に応え、普通であれば飛び跳ねて喜んでもよさそうな場面でも平然としているその様は、東庄高校応援席からもこんなことを言う者がいたほどだった。
    「カッコ良過ぎだよ」と。

  • #198

    六輔 (月曜日, 09 9月 2019 20:08)


    東庄高校応援席にかけつけていた町の人達は、一様に野球の怖さを知った。
    「一球で・・・でも、これが白進の真の姿なんだよな」と。
    それでもこれまでの東庄高校の快進撃に、町の人達の期待は、今までに味わったことの無いものになっていた。
    「東庄町から甲子園に・・・」
    そんな期待を胸に応援を続ける町の人達が、簡単に諦めることはなかった。
    「まだまだこれからだ! 絶対に諦めるなよ!大丈夫だ~!」
    と、応援席から声援を送り続ける人達の声が聞こえてきた。

    グランドでは内野陣がマウンドに集まり、高橋に声掛けをしていた。
    (桧山)「いや~ しかし飛んだなぁ…」
    (高橋)「・・・すまない」
    (桧山)「悪いボールじゃなかったよな? 黒岩」
    (黒岩)「あぁ、最高のボールだった。高田の方が一枚も二枚も上だって、認めるしかねーよな」
    (桧山)「そうだな。でもさ、高橋!」
    (高橋)「うん?」
    (桧山)「まだ試合は終わってねーぞ! 聞こえただろう? 応援席で声援を送り続けてくれている人たちの声がさ」
    (高橋)「あぁ、よく聞こえたよ」
    (桧山)「ここで諦めたらキャプテンに合わせる顔もねーぞ!」
    (高橋)「あぁ、そうだな」
    (黒岩)「ここからが始まりだと思って、また丁寧に投げて行こうぜ!高橋」
    (高橋)「分かった」
    (桧山)「キャプテンのためにもな!」
    (高橋)「おぅ!」

    手をつないで空を仰ぎ、ピョン!と、ひと跳ねして円陣を解いた内野陣は、それぞれのポジションへと戻っていった。
    高橋は、もう一度天を仰ぎ、「ふぅ~」と息を吐いて、耳を澄ました。
    「おぅ~ またアフリカン・シンフォニーが鳴ってんじゃん! テンション上がるぜ!さてと、逃げずに向かっていくぞ、黒岩!」
    そう心の中でつぶやいて、マウンドのプレートを踏み黒岩のサインを覗き込んだ。
    「はいよ!」
    戦意を失うことなく大きくうなずいて、大きく振りかぶった高橋の目は、初回のものと全く同じだった。
    逆転されても気落ちすることなく、次の打者に精一杯に腕を振って初球を投じた高橋だったが、白進打線が攻撃の手を緩めてくれることはなかった。
    「カキーン!!!」
    鋭い打球がセンター前へと向かって飛んで行った。

  • #199

    六輔 (火曜日, 10 9月 2019 23:36)


    初球を投げ終えた高橋は、自身も直ぐに守備体勢をとって備えていたが、鋭い打球は精一杯に差し出したグラブに納まることなく足元を抜けて行った。
    「しまった!」
    高橋が抜けて行った打球を目で追うと、ショートを守っていた紘一がまるで白進の高田選手の初回の守りをそのまま再現するかのように横っ飛びしてセンター前へと抜けそうな打球をキャッチした。
    「ファーストーーー!!!」 
    高橋の声が届くと同時に起き上がった紘一は、素早くファーストへと送球した。
    打者ランナーが1塁ベースにヘッドスライディングをし、土埃が舞い上がった。
    球場全体が一斉に1塁審判のジャッジに注目するなか、ほんの僅かばかりの間をおいて右手が大きく上げられコールされた。
    「アウトーーー!!!」
    高田選手に一歩も引けを取らない紘一のプレーに球場全体が沸いた。
    「すげーぞ、あの一年坊主! よくやったー!!!」
    紘一のプレーは1塁側応援席から声援を送り続ける人達に再び勇気を与えた。
    「あいつ、キャプテンの分まで働いているじゃないか! いける!行けるぞ、東庄高校!」
    グランドでは、セカンドを守る鈴木に頭をポンポンされてはにかむ紘一が、高橋にこう声をかけていた。
    「先輩! もういっちょう、俺のところに打たせてください!」

    そんな光景を見せられた白進学院のベンチでは、監督がスコアをつける記録員にこう尋ねた。
    「あのショートは、どこ出身なんだ?」
    『たぶん、軟式上がりだと思うんですけど・・・硬式では瀧野瀬という名前は聞いたことがありません』
    「・・・そっか。うちに欲しかった選手だな。今みたいなプレーが勝ち上がっていくには絶対に必要なんだ。試合の主導権を絶対相手に渡さないプレーだよ。よく覚えておけよ、お前たち!」
    監督の言葉に白進学院の選手たちは一斉に紘一に視線を送っていた。

    そして野球を知り尽くしている白進学院の監督の預言は、見事に的中するのだった。
    「いいか、今のショートのプレーで、試合の流れは再び東庄高校に大きく傾くこともあるんだからな! 絶対に気を抜くなよ!」
    『はい』
    紘一のプレーがこの試合を大きく左右するプレーであったことは、誰も知る由がなかった。

  • #200

    六輔 (水曜日, 11 9月 2019 20:10)


    紘一のプレーで勇気づけられた高橋のピッチングは、再び冴えわたって行った。
    白進打線を手玉に取り、面白いようにアウトを重ねて行った。
    そして試合は終盤へと進んで行き、東庄高校が3-4、1点ビハインドのまま8回裏の攻撃を迎えた。
    と、白進学院の守備の交代を告げる場内アナウンスが流れ始めた。
    「白進学院、選手の交代をお知らせします。9番中田君に代わりましてピッチャー・・・小林君…背番号1」
    そのアナウンスに3塁側応援席が沸き上がった。
    白進学院の背番号1を背負う3年生のエースの登板を告げるアナウンスだったからだ。

    白進学院は、その大会で一度もエースを登板させていなかった。
    そのことは、白進学院の強みの一つでもある。
    3回戦、4回戦あたりまでは2番手、3番手、4番手のピッチャーで勝ち上がり、エースを温存しておくのだ。
    そして準々決勝あたりからエースを投げさせ、最後にはしっかりと頂点に立つ。
    それが白進学院の常套手段だ。
    だが、白進学院のベンチは4回戦の、しかも試合途中の8回からエースを登板させてきた。
    試合前は、今日のエースの登板は絶対に無いと思って観戦していた白進学院のファンたちであった。
    何故なら、相手が公立で、しかも40年近くベストエイトにも進んでいない東庄高校となれば、一方的なコールドゲームで試合終了となると想像出来たからだ。
    だが、ふたを開けてみれば、5回終了時までは0-3、ようやく6回に高田選手の満塁ホームランで逆転はしたものの、それ以降は追加点をあげられない。
    終盤で東庄高校に1点を与えるようなことがあったら、この試合はどちらに転ぶか分からないと、そう考えてエースを登板させた白進学院の監督のその采配に誰もが納得した。

    マウンドに上がった白進学院のエース、小林投手が投球練習を始めた。
    その球筋は、それまで投げてきた投手とは明らかに違って見えた。
    「すげー」
    球場に応援にかけつけていた白進学院ファンからもため息に近い言葉が飛び交った。
    「ものが違うぜ!」
    小林投手の投球練習を見て、誰もが白進学院の勝ちを確信した。
    「東庄高校の選手には打てっこないぜ!」と。

    「プレイ!」主審のコールで8回裏の攻撃が始まった。
    主審は気持ちよさそうに初球をジャッジし、コールした。
    「ストライーク!」
    バッターボックスに立っていた8番バッターの長谷川は、思わず腰をひいてしまった。
    「こ、こんな球、見た事ねーよ!」
    2球目、3球目とストレート1本で勝負され、3球目に長谷川が初めてバットを振ったが、かすりもせずにバットは空を切った。
    続く9番バッターの黒岩も同じだった。
    「ストライーク、バッターアウト!」
    同じように3球三振でツーアウトとなった。
    東庄高校応援席では、見せつけられたその実力の差に、誰もが言葉を失った。

  • #201

    六輔 (木曜日, 12 9月 2019 20:58)


    東庄高校応援席では、「このピッチャーを打つのは無理だよ」と、既に諦めの言葉を発する者さえいた。
    口には出さずとも、心の中では大半の人が同じ思いにならざるを得なかった。
    それだけすごいピッチングを白進学院のエースが見せつけてきたのである。
    それは、白進学院のエースであるが故の投球でもあった。
    決して東庄高校を下に見ることもなく、目の前の相手に真剣勝負を挑む。
    それこそが真のエースであり、それがなければ白進学院のエースになる資格も与えられないのだ。

    ただ・・・
    球場全体が「勝負あり!」と、そんな雰囲気になっていた中、勝負を決して諦めていない男がいた。
    トップバッターの桧山だ。
    桧山は考えていた。
    それは、もしこの打席で自分が凡退するようであれば、それが高校野球最後の打席になるであろうということを。
    桧山は、小林投手のスピードボールに負けまいと、強くバットを振ることだけを考えてバッターボックスに立った。
    「さぁ来い! お前との勝負がしたかったんだよ、俺は」
    と、気合をいれバットを構えて初球を待った。
    「えっ?」
    桧山は、初球を見て驚いた。
    何故なら、ストレートが来るに違いないという予想に反して、スライダーを投げてきたからだ。
    「ほぉ~、それってちゃんと俺のことを警戒してくれているってことだろう? ありがてーぜ!真剣勝負をしてくれてさ」
    と、小林投手の投球を喜んだ桧山だったが、見せられた初球のスライダーのキレが半端なものではなかったことに、苦笑いするしかなかった。
    「決め球に今のスライダーをもう一回投げられたら、バットにかすりもしねーだろうな」
    そう考えると、答えは直ぐに見つかった。
    「ならばその前に…」
    桧山はストレート1本に絞って次の球を待った。
    と、その待っていたストレートが来た。
    素直に体が反応し、バットをスムーズに振ることが出来た。
    「カキーン!!!」
    桧山は第一打席で、ショート高田のファインプレーでヒット1本を損していたが、その時に「次は外野の間をぶん抜いてやるよ!」と言っていた。
    その通りの打球が外野へと飛んで行った。
    桧山は打球の行方に「ヨッシャー!」と、2塁を狙って走り出した。
    だが、1塁ベースを回ったときだった。
    「えっ?あの打球に追いつくのかよ」
    外野の間を抜ける確信のあった手応えだったが、白進学院の外野手はそれを許してはくれなかった。
    「まじかよ!」
    桧山は慌てて1塁ベースに戻るしかなかった。

  • #202

    六輔 (金曜日, 13 9月 2019 19:02)


    桧山が白進学院のエースの球をとらえたことに、東庄高校応援席は大盛り上がり。
    「いいぞー!桧山。続けー!鈴木!」
    ネックストサークルで桧山のヒットを見た鈴木は、「ふっ」と、息を吐きバッターボックスへと向かった。
    「桧山のヒットを無駄にはしねーぜ!」
    この時の鈴木は、既に覚悟を決めていた。
    「結局、俺にはこれしかねーよな」と。
    だが、そんな鈴木の覚悟を知っていたかのように白進学院のキャッチャーが三塁手に向かってジェスチャーをとったのである。
    それは「おい、こいつはセフティーバント注意だぜ!」というジェスチャーだった。
    それを見た鈴木は腹の中で笑うしかなかった。
    「そりゃそうだよな・・・こんな体の小さい選手が白進学院のエースの球を打てる訳ねーしな・・・仕方ねーか!」
    と、次の瞬間には、一度決めた覚悟を変えたのだった。

    キャッチャーのサインにうなずいた小林投手が1塁に立つ桧山を視線で釘付けにして第1球を投じてきた。
    と、鈴木は初回の攻撃と同じようにバットを持ち換え、バントの構えをした。
    もちろん、それを最初から予想していた三塁手が猛然とダッシュしてきた。
    投げ終えた小林投手もマウンドを降り、三塁線へとダッシュを始めた。
    と、鈴木はそれを知っていたかのように、バットを持つ右手を引いてバットの向きを変え、一塁線へのプッシュバントをしたのである。
    「あっ!」
    三塁線へのセフティーバントと決めつけてダッシュしたその逆の方向へボールを転がされたことに慌てた小林投手は、足を滑らせ倒れてしまった。
    一塁線へのプッシュバントに二塁手と、同時に一塁手もボールを追っていた。
    それに気づいた一塁手が慌てて一塁ベースに戻り、バントを処理した二塁手が投じたボールを取ろうとファーストミットをめーいっぱいに伸ばした。
    だが、タイミングが合わず一塁手がボールを取ることは出来ず、そのボールは外野へと転がっていった。
    桧山が三塁コーチャーを見ると、手をグルグルと回していることに、一気に三塁を陥れ、鈴木も自ら二塁へと走っていた。
    ツーアウトからの桧山のヒットに続いて、鈴木の内野安打と白進学院のエラーが重なって、一打逆転の場面が作り出された。
    「うぉ~」
    地鳴りのような声援が球場を覆っていた。

  • #203

    六輔 (土曜日, 14 9月 2019 19:42)


    ネックストサークルにいた高橋が監督に呼ばれた。
    「高橋・・・悔いのないように思い切りスイングしてこい!」
    『はい』

    球場全体が一番の盛り上がりをみせ、高橋がこの場面でどんなバッティングをするのかと、誰もが固唾をのんで見守った。
    マウンド上では小林投手が自分を落ち着かせようと「ふぅ~」と息を吐き、キャッチャーのサインを覗き込んだ。
    「えっ?・・・」
    明らかに小林投手の表情が変わった。
    しかし、小林投手は次の瞬間にはうなずいてボールを胸の前でセットし、第一球を投じてきた。
    「ボール」
    そして二球目も・・・三球目も「ボール」
    ようやく球場全体が、白進学院の選択した戦法を理解した。
    そうである。
    初回にツーベースヒットを打っている高橋との勝負を避け、キャプテンに代わって4番に座っている紘一との勝負を選んだのである。
    この場面では、白進学院のファンもその作戦を非難することは出来なかった。
    それだけ高橋のバッティングの良さと東庄高校の強さを認めざるを得なかったからだ。
    「ヒットを打っている3番バッターより、一年生との勝負を選ぶのは当然だよな。ここは勝ちに拘るべきだぜ」と。

    そんな戦況を冷静に見ている男がいた。
    そう、ネックストサークルで待つ紘一だ。
    紘一は、ツーアウト2・3塁になった瞬間、白進学院の作戦を既に予想していた。
    「おそらく高橋先輩との勝負を避け、俺との勝負を選択するんだろうな」
    さらには、心の中でこうつぶやいていたのである。
    「代打だろうなぁ・・・この場面は岩澤先輩しかいないよな」と。

  • #204

    六輔 (日曜日, 15 9月 2019 20:28)


    紘一がネックストサークルで考えていた通り、監督は紘一に代打を送るべきかと悩んでいた。
    練習試合では、こういった場面で代打要員として背番号15を背負う2年生の岩澤が良い結果を残していたからだ。
    岩澤は、監督からの声がかかる前に、もう既にヘルメットをかぶり、いつ代打に指名されても大丈夫なようにバットを持ってベンチに座って待っていた。
    それぞれの選手が、それぞれの場面で、それぞれの役割を持ち、それを常に誰もが自ら考えて試合に臨もうというチーム方針があったからだ。

    監督が悩むのには理由があった。
    それは、紘一に代打をおくった場合の9回以降の内野の守りのことだ。
    紘一を代えてしまえば、守備力がガタ落ちになってしまう。
    紘一にヒットを全く期待出来ないというなら悩むことなく岩澤を代打に送った。
    だが、練習試合での紘一のバッターとしての成績は、岩澤より劣るものの、決して引けを取らないバッティングを見せていたことが余計に監督を悩ませた。
    さらに監督は、
    「この場面を1年生には・・・」
    打てばヒーローだが、打てなければ「お前があそこで打っていれば…」と、一生言われ続けることになる。
    1年生の紘一に任せるには荷が重すぎるだろうという親心も芽生えていた。
    だが、試合を振り返ってみると、キャプテンの抜けた後を紘一がしっかりと代役を務めてきたこと、さらには、白進高田選手の満塁ホームランの後の紘一のファインプレーで試合の流れを相手に渡さなかったこと、全ての守備機会を無難にこなしてきたことと、前の打席でアウトにはなったものの鋭い打球を飛ばしていたこと。
    紘一のこの試合での貢献度は目を見張るものだった。
    監督は、こう決心した。
    「瀧野瀬がラッキーボーイになってくれるかもしれない! よし、あいつの目を見て決めよう」と。
    そう決めた監督はベンチを一歩出て紘一を呼んだ。
    「瀧野瀬!」

  • #205

    六輔 (月曜日, 16 9月 2019 18:34)


    名前を呼ばれるのを覚悟していたかのように、「瀧野瀬!」の監督の声に素早く反応した紘一は、ベンチに向かって歩き出した。
    と、監督のその真後ろに陽菜子が立っているのが目に入った。
    「以心伝心」という言葉があって、文字や言葉を使わなくとも、心と心が通じ合うことがあるとするなら、まさしくこの時がそうだった。
    球場のざわつきが一瞬消えて、静寂の中に陽菜子の声が聞こえてきたのである。
    「紘一、打って!キャプテンのために」と。

    紘一は、ハッとして自らを恥じた。
    それは、この場面で自分よりも相応しいバッターがいると考えたのは、プレイヤーとして恥ずべきことであると。
    野球をやる以上、一人のプレイヤーとして最後まで全力を尽くす。
    チームプレイに徹することは当たり前のことだが、大事な場面でどういう戦略をとるのかを決めるのは選手ではなく、監督なのだ。
    陽菜子の表情に、当たり前のことを思い出させてもらった紘一の表情は、全く別のものへと変わっていた。

    「瀧野瀬」
    『はい、監督』
    凛とした紘一の表情とその返事に監督の迷いは一瞬にして消えて無くなった。
    「瀧野瀬、この試合はお前がキャプテンの代役をしっかりと務めてきた。満塁ホームランの後、相手に試合の主導権を渡さずにここまで来れたのも、6回のお前のプレイがあったからだ。相手のピッチャーは甲子園で投げてきたピッチャーだが臆することはない。結果はどうなろうと全て私の責任だ。お前は何も考えずバットを振ってこい!」
    『はい!』

    紘一がバッターボックスに向かおうとすると、ベンチの中から声がした。
    「瀧野瀬! つなげよ! 俺はお前に続くからな!」
    その声の主は、ヘルメットをかぶり、いつ代打に指名されても大丈夫なように準備をして待っていた岩澤だった。
    岩澤は、紘一の気持ちが痛いほど分かっていた。
    「瀧野瀬・・・荷が重いのは俺もお前も同じだ。ここは監督がお前にかけたんだ。頼むぞ、瀧野瀬!監督のために。そしてキャプテンのため、チームのために!」
    そんな岩澤の心の叫びは、語らずとも紘一に伝わっていた。
    「岩澤先輩・・・はい!」
    振り向いた紘一の表情は、邪念のない高校球児の表情そのものだった。
    真摯に野球に取り組んでいる「野球小僧」という言葉は、紘一のためにあるのだと言われても、誰も否定することなど出来ぬだろう。
    紘一は、バッターボックスへと向かいながら監督の言葉を口ずさんだ。
    「何も考えずバットを振る!」

  • #206

    六輔 (火曜日, 17 9月 2019 20:02)


    スタンドで見守る観客のほとんどが、この8回裏の攻撃がこの試合の山場であろうと思って見守っていた。
    1塁側応援席では、声をからして声援を送り続ける人達が、ここで声を出さずにして、いつ出せばいいのだと言わんばかりに、大声を張り上げていた。
    「瀧野瀬ー!!!打ってくれー!」

    紘一がバッターボックスに向かって歩いていくと、3塁ベース上で桧山が、2塁ベース上で鈴木が、そして1塁ベース上で高橋が声を張り上げていた。
    「力を抜けー! お前の普段のバッティングをすればいいんだ! キャプテンに代わってお前が打つんだ!」
    紘一は、桧山、鈴木、そして高橋を見てそれぞれにうなずき、バッターボックスに入った。

    「ピッチングマシンを150キロに合わせて練習してきたんだ。速い球に負けないよう、しっかり振るぞ!」
    そう自分に言い聞かせてバットを構えて初球を待った。
    小林投手は淡々とした表情でキャッチャーのサインを覗き込み、一発でうなずいた。
    セットポジションから、クイックぎみに投げられた球は、コースも高さもいっぱいの最高のストレートだった。
    スコアボードに球速149㎞と表示され、球場全体がどよめいた。
    初球から打っていこうと考えていた紘一だったが、外角低めいっぱいにコントロールされたスピードボールに手を出すことが出来なかった。
    紘一は心の中で思わずつぶやいた。
    「速い! これが甲子園クラスのボールってことなんだ。しかし、コースもあそこまで外角いっぱいに投げられたら、ファールを打つことさえ・・・」
    紘一は「ふぅ~」と息を短く吐いて二球目を待った。
    小林投手は一球目と同じように淡々とした表情でキャッチャーのサインを覗き込み、一発でうなずいた。
    セットポジションから、クイックぎみに投げられた球は、コースも高さも初球と全く同じだった。
    「ヨシッ!!!」
    紘一は最高のタイミングで振りに行った。
    すると、ボールは途中から切れ味鋭く変化して、紘一のスイングをあざ笑うかのようにすり抜けて行った。
    「・・・消えた。あのスピードであの曲がり方をされたら、かすりもしないよ」
    二球であっという間に追い込まれた。
    すると、それまで感じていなかった緊張が紘一の体に襲い掛かってきた。
    それは初めて見るような切れ味鋭いカットボールを見せられて、「あんなボール、打てる訳ない」と、直感的に感じてしまったからだった。
    野球は心理状態が大切なスポーツだ。
    「打てる訳ない」と思っている選手が、むやみやたらにバットを振っても、当たるはずはない。
    そこにいくら気持ちが込められていようが、当たらないものは当たらないのだ。
    「どうやって打てばいいんだよ」
    その感情が、紘一を一気に追い込んだ。
    「俺には打てないです・・・キャプテン」

    と、その時だった。

  • #207

    六輔 (水曜日, 18 9月 2019 20:14)


    『しっかりしろ、瀧野瀬!』
    「…えっ?」
    突然聞こえてきた声に紘一は慌てて主審に向かい、
    「す、すみません…タイムお願いします」
    と、バッターボックスを外した。
    通常であれば認められないようなタイミングでのタイムの要求であったが、主審もこの状況にあってはやむなしと紘一の要求を認めた。
    「ターイム!」

    紘一は、バッターボックスを外し、バットを思い切り振った。
    すると、さっき聞こえた声がもう一度聞こえてきたのである。
    「しっかりするんだ、瀧野瀬! 俺との約束を守ってくれ!」
    『…キャプテン』
    それは、紛れもなくキャプテンの声だった。
    この時の紘一は、その声がテレパシーで話し掛けられたものが聞こえてきたのか、あるいは、実際には聞こえてなどいないものが、ただ聞こえたように感じただけなのか定かではなかったが、それでも、その声の主がキャプテンであることが分かった。
    『…約束?』
    紘一は、もう一度バットを振って“キャプテンとの約束”を思い出していた。

    それは、大会を1週間後に控えた日の練習を終えた後のことだった。
    『瀧野瀬、今日もいい守備していたな! 一日一日上手くなってるよ、瀧野瀬は』
    「ありがとうございます、キャプテン」
    『俺はお前がいてくれるから、安心して最後の大会を迎えられるんだ』
    「えっ? それってどういうことですか?」
    『うん? 大会中にケガをしない保証なんてないだろう? お前が控えにいてくれるから俺はケガを恐れることなく思い切りプレーすることが出来るのさ』
    「う~ん、なんかそれってキャプテンがケガをすることが決まっているみたいに聞こえちゃいますよ! うちのチームからキャプテンがいなくなったら、もうそこで戦えなくなってしまうじゃないですかぁ」
    『バカなことを言うな、瀧野瀬! 大会はレギュラー9人だけで戦うものじゃないんだ!お前たち全員の力が必要なんだ』
    「はい」
    『なぁ、瀧野瀬…』
    「はい…キャプテン」
    『俺は全力で試合に臨む。その結果、ケガをしてしまうかもしれない』
    「本当に縁起でもないこと言わないでくださいよ、キャプテン」
    『あぁ、そうだな。でもな、瀧野瀬…俺はお前を本当に頼りにしているんだ。俺に何かあったときは頼むぞ! 約束だからな…瀧野瀬』
    「・・・キャプテン。分かりました、任せといてください。だから安心して思い切り暴れちゃってください!」
    『やっぱり頼りになるな、瀧野瀬!』

  • #208

    六輔 (木曜日, 19 9月 2019 20:20)


    キャプテンとの約束が、まさか現実のものになろうとは、夢にも思っていなかったが、大会前にキャプテンが話していたことの意味を痛感した紘一だった。
    「すみません、弱気なことを言ってしまって」
    そう気持ちを入れ替えることができたとき、主審の声が聞こえてきた。
    『バッター・・・』
    「あっ、はい」
    『バッターボックスに戻ろう!』
    「はい!」

    紘一は、ヘルメットのツバに手をやって主審に一礼し、バッターボックスに戻った。
    「俺は逃げない! キャプテンと約束したんだ!」
    そう心の中でつぶやくのと同時に、キャッチャーのサインにうなずいた小林投手が投球を開始した。
    と、勝負所で力んでしまった小林投手の投げた三球目は、ショートバウンドとなった。
    キャッチャーが落ち着いてショートバウンドのボールをプロテクターでブロックして抑えたのを見た紘一は、3塁ランナーに「止まれ!」と大きなジャスチャーを送った。

    8回裏の攻撃ツーアウト満塁、バッターカウント、ワンボール・ツーストライク、勝負の4球目は外角いっぱいのストレートがきた。
    紘一はコンパクトにバットを振った。
    「カキーン」
    ファールボールがバックネットを直撃した。
    外角低めいっぱいに投げられたストレートにコンパクトなスイングで食らいついた。
    5球目は、4球目と同じコースからボールに外れるカットボールだった。
    スピードボールに負けぬよう振りに行った紘一だったが、2球目を見ていたおかげで、どうにかスイングを途中で止めることができた。
    主審の「ボール!」のジャッジに「ヨシ!」と、紘一が6球目に気持ちをやると、キャッチャーが主審にリクエストしてきた。
    「今のスイングしていませんか?」
    『えっ?』
    そのリクエストに主審は1塁審判を指さした。
    紘一は半信半疑で1塁審判見守った。
    「振っていないですよね」と。

  • #209

    六輔 (金曜日, 20 9月 2019 20:39)


    球場全体が1塁審判に注目した。
    1塁審判は右足を一歩前に踏み出して自信たっぷりに両手を広げた。
    「セーフ」
    そのジャッジに1塁側応援席は湧き上がった。
    「いけー、瀧野瀬! ボールは見えてるぞ!」

    カウント、ツーボール・ツーストライク、バッテリー間のサインが決まると、キャッチャーはインコースへと体を寄せた。
    「来い!」
    と、ばかりにミットを構え、小林投手はその構えられたミットめがけて渾身のストレートを投じた。
    それまでアウトコースばかりを攻めてきていた白進バッテリーが、一転、勝負球に選んだインコースのストレート。
    紘一は、思わず手を出すことが出来なかった。
    「しまった!」
    ツーストライクと追い込まれている状況にあっては、手を出さない訳にはいかないコースのボールであったことに、紘一はボールとジャッジしてくれることを願って主審を見た。
    「ボール!!」
    球場全体がどよめいた。
    スタンドでは、悲鳴に近い声援が飛び交っていた。
    「打ってくれーーー!!!」

    ツーアウト満塁、スリーボール・ツーストライク。
    フルカウントになった。
    紘一は、冷静に考えていた。
    それは白進バッテリーの癖と、小林投手の決め球が何かと。
    答えは簡単に見つかった。
    「ボールを投げる訳にはいかないこの場面では・・・アウトコース低めのストレートだ!」
    ただ、100%そう決めつける訳にはいかない。
    紘一は、アウトコース低めのストレートに意識を高めに7球目を待った。
    「ふっ」と短く息を吐き、肩の力を抜いてバットを構えた。
    「来い!」
    小林投手が投じた決め球の7球目は、紘一が予想した通りのアウトコース低めのストレートだった。
    紘一は、スピードボールに負けないよう速めにタイミングを合わせ、スイングを始めた。
    「カキーン」
    バットに当たるには当たったが、その場所は芯を外れたバットの先っぽだった。
    打球が力なくハーフライナーとなって飛んだ。
    「落ちてくれー!!!」
    紘一はそう叫んで走り出した。

  • #210

    六輔 (土曜日, 21 9月 2019 20:14)


    白進学院の二遊間が紘一の打った打球を必死に追っていた。
    前進守備をとっていたセンターも猛然と突っ込んできた。
    1塁側はベンチもスタンドも全員がヒットになることを叫び続けた。
    「落ちろーーー!!!」
    と、その願いが通じたかのように、打球はセカンド・ショート・センターの3人の野手のちょうど中間に落ちた。
    大歓声の中、桧山が同点のホームを踏んだ。
    「同点だ!」
    さらに、ツーアウトのフルカウントであったことで、ピッチャーの投球と同時にスタートを切っていた鈴木は、3塁ベースコーチが右手をグルグルと回すのを見て3塁ベースを蹴り、1塁ランナーの高橋は鈴木が3塁を廻ったのを見て、迷うことなく2塁ベースを蹴った。
    センターは強肩で有名な選手。
    あらかじめ前進守備をとっていて、突っ込んできた勢いそのままに芝生に落ちたボールを拾い、レーザービームのバックホーム。
    そのボールが少し1塁側にそれるのを察知した先にホームインした桧山は、
    「外だーー!!外に回り込めー!」
    と、両手を使って鈴木に指示を出した。
    桧山の指示に反応した鈴木は、上手く回り込んで左手を伸ばしながら滑り込んだ。

    球場全体が主審のコールを待った。
    「どっちだ!」

  • #211

    六輔 (日曜日, 22 9月 2019 19:22)


    主審は、ボールがキャッチャーのミットの中にあることを確認すると、右手を高々と上げた。
    「アウトーーー!!!」
    白進学院のセンターの補殺率はずば抜けて高く、この大事な場面でも例外なく見事な補殺を見せた。
    1塁側のスタンドでは、鈴木がホームでアウトになってしまったことを残念がったが直ぐに気持ちを切り替え、この大事な場面で同点タイムリーを放った紘一に大きな声援を送った。
    「よくやったぞ、瀧野瀬!」
    「スーパー1年生だよ、お前は!」

    ベンチに戻ってきた紘一をベンチ全員が笑顔で迎えた。
    「よく打ったぞ、瀧野瀬!」
    『はい』
    ベンチ前で水分をとり、桧山からグラブを渡された。
    「さぁ、これからだ! しっかり守って行こうぜ!」
    『はい、桧山さん』

    盛り上がる1塁側とは対照的に、スタンドの白進学院ファンからは、無名の公立高校にここまで接戦を強いられていることに腹を立てる者も現れてきた。
    「おい、ふざけんな、白進!」
    「エースを出して、同点にされてりゃ世話無いぜ!」
    異様な雰囲気に包まれたまま最終回を迎えた。

    と、投球練習を開始した高橋が突然足を押さえて倒れこんでしまったのである。
    「おい、どうした高橋!」
    走り寄った桧山に高橋は顔をしかめた。
    『つ、つった…』
    36度を超える真夏日の中、8回の裏、1塁ランナーだった高橋は、紘一のヒットで3塁まで全力疾走していたのだった。
    『痛っ! 痛ったたた』
    桧山がつった足を精一杯に伸ばし、どうにか痙攣はおさまり、高橋はようやく立ち上がった。
    と、その時だった。
    スタンドがざわつき、そして拍手が鳴り始めた。
    「おい、見ろよ!」

  • #212

    六輔 (月曜日, 23 9月 2019 20:35)


    3塁側白進学院のベンチから背番号6を背負った選手が、スポーツドリンクを持ってマウンドに駆けてきたのである。
    そう、満塁ホームランを打った高田選手だ。
    「これ、飲んでくれ」
    『えっ?』
    「お互いに最高な状態で勝負をしたいからさ」
    『…ありがとう』

    その光景を目の当たりにした球場に駆け付けた高校野球ファン全員から惜しみない拍手が贈られた。
    なかには、「無名の公立高校なんて言い方をしてしまって・・・自分が恥ずかしいよ。ピッチャー頑張れよぉ~」
    と、大声で高橋に声援を送る白進学院ファンもいた。

    コップ一杯に注がれたスポーツドリンクを飲み干して高橋は、高田にこう言った。
    「これ、ありがとう。でも、次は打たせないぜ!」
    『あぁ、ドリンクのご褒美に、もう1本ホームランを打たせてもらうよ!…大丈夫か?高橋君の足がつったおかげで打てたなんて言われたくないからな』
    「大丈夫だよ!」
    高田選手は、一瞬だけ笑顔を見せ、マウンドから全力疾走でベンチに戻ると、スタンドからは割れんばかりの拍手がなった。
    「いいぞー!これぞ高校野球!」
    「頑張れーー!!」
    1塁側応援席では、高橋のクラスメイトのセーラー服でそばかす・おかっぱ頭の女の子が、思わず高橋のあだ名を叫んでいた。
    「しっかりねー、ドラえも~~ん!!」

    主審が近寄って声をかけてきた。
    「大丈夫かい?高橋君」
    『はい』
    「投げてごらん?」
    『はい』
    両足を屈伸し、投球を開始した。
    『大丈夫です、すみませんでした』
    「君たちは最高のゲームをしているんだ。僕は最高のジャッジをするよ、頑張りなさい、高橋君」
    『はい』

  • #213

    六輔 (火曜日, 24 9月 2019 19:25)


    ネット裏には高田選手を追うプロ野球のスカウト達が大勢詰めかけ、高田選手がした行動に賞賛を送っていた。
    「誰に言われたわけでもなく、高田君が真っ先に動いていたな」
    『なかなか出来ることじゃないよな』
    「高田君は、人間的にも合格だな!」
    『最近、野球部員の不祥事とかが続いていただけに、なんともいい光景を見せてもらったよ』
    「そうだなぁ。サイン盗みだ!と、試合後に敵将の元に直接抗議に行くなんていう暴挙があったりして、高校野球だけではなく、日本球界でフェアプレーの意識が高まったのは事実だろうな」
    『あぁ。春の甲子園では、「自分のよけ方が悪かった」って、死球を自ら辞退したプレーが賞賛されていたよな」
    「甲子園に出ることだけを考えてやってるチームを見ることが多いから余計かもしれないが・・・こういうことを見せられると、しみじみ思うよ。やっぱり高校野球はいいなぁってな」

    スカウト達がそんな会話をしているなか、高橋の投球練習が終わった。
    内野を一周してきたボールをファーストの斎藤が持ってマウンドにやってきた。
    「ここからだな、高橋」
    『おぅ』
    「後攻めの俺たちの方が絶対に有利だからな…白進に勝とうぜ」
    『おっ!』

    高橋がロジンバックに手を伸ばすと、同点タイムリーを打った紘一と視線が合った。
    「頼むぞ、瀧野瀬」
    『はい、任せてください高橋先輩!』

    同点で迎えた最終回。
    この時を待っていたかのように、とうとう紘一がある病を発病させてしまうことを誰も知る由もなかったのだった。

  • #214

    六輔 (水曜日, 25 9月 2019 21:05)


    同点にされた白進学院の応援席では、それまで以上に熱のこもった応援が始まっていた。
    その応援を聞かされた高橋は、
    「おぅ~ 足のつった俺を心配して、白進の応援も全開になったな!」
    と、同点で迎えた最終回に緊張するどころか、余裕さえ感じながらマウンドに立っていた。
    黒岩とのサインも決まって、7番バッターへ初球のカーブを投じた。
    まだまだ下位打線には高橋のピッチングは冴えわたっていた。
    面白いようにバットは空を切り、1塁側応援席からは大きな拍手がなった。
    「いいぞー、高橋。この回、下位打線を3人で片づけて、9回裏の攻撃でサヨナラだぜ!」
    そして高橋が2球目に投じたインコースのストレート。
    バッターが強振するも、バットの根元にあたり、詰まった弱い打球がショートに飛んだ。
    「ヨッシャ!頼むぞ瀧野瀬!」
    と、キャッチャーの黒岩はバッターと一緒にファーストベースカバーへと走った。
    至って簡単なゴロに、誰もが安心して紘一のプレーを見守った。

    紘一は落ち着いて足を運んだが、そこに余裕があったがために、心の中でこうつぶやきながら捕球体制に入った。
    「簡単なゴロだ! スローイングは慎重に! ここでエラーは絶対に出来ないぞ!」と。
    いいリズムでゴロを捕球した紘一は、余裕をもって投げようともう一度つぶやいた。
    「ここでエラーは絶対に出来ない!丁寧にスローイングするぞ!」
    と、つぶやきながら投げた次の瞬間だった。
    「あっ!」
    紘一の送球は、紘一が狙った場所とは全く違う方向にいってしまった。
    ファーストの斎藤がジャンプを諦めるほど高いボールは、1塁ファールゾーンへと転がっていった。
    カバーに走っていたライトがようやくそのボールを掴んだときには、ランナーは既に2塁に達していた。

    野球にはエラーはつきものである。
    ましてや高校野球で、エラーが両チームとも無いという試合は滅多にあるものではない。
    内野手のエラーには2種類ある。
    一つはゴロを捕球する際にグローブに正確に捕球することが出来ないエラー。
    もう一つは送球エラー、暴投だ。
    野手が暴投をするときには、それなりの原因がある。
    ボールをしっかり握っていなかったり、汗でボールを滑らせてしまったり。
    この時の紘一はボールをしっかりと握り、汗でボールを滑らせることもなかった。
    「・・・どうして」
    紘一は何が起きたのか全く理解出来なかった。
    労せずして2塁に行ったランナーの隣で、茫然とたたずむ紘一がいた。

  • #215

    六輔 (木曜日, 26 9月 2019 20:24)


    何が起きたのか全く理解出来ないという紘一のその表情を見て、監督がつぶやいた。
    「あいつ、まさか・・・」

    監督は、ずっと紘一のスローイングに心配を寄せていた。
    「瀧野瀬は、ここぞ!という時にスローイングでミスをするんだよな。難しい体勢や間一髪でスローイングする時は完璧に投げるくせに、余裕があるときのスローイングは・・・あいつの真面目な性格が仇になっているんだよな。いざという時になってイップスを発症しなければいいんだが」と。
    それは、監督が大学でプレーしていた時に、紘一によく似た選手が試合中にイップスを発症させ、1イニングに暴投を3つ繰り返し、そのエラーによる失点で大事なリーグ入れ替え戦に負けてしまったという経験があったからだった。
    「あの時に似ている」と、監督はその時の事を思い出していた。

    知らない人のために説明を加えておくが、イップスとは、精神的な原因などによりスポーツの動作に支障をきたし、突然自分の思い通りのプレーが出来なくなる症状のことで、元々はゴルフの分野で用いられ始めた言葉だった。
    「このパットを決めれば優勝だ!」
    と、思った瞬間、パターを持つ手が全く動かなくなってしまうのだ。
    結果はご想像の通りだ。
    パターは全く入らず、優勝を逃してしまう。
    現代ではゴルフよりも野球で使われることが多くなった。
    特に投手と内野手は正確なボールコントロールが求められるため、死球や暴投などのトラウマからイップスに陥る場合が多いのだ。
    プロ野球の世界では、イップスを発症させてしまったことで引退に追い込まれた選手は一人や二人の話ではないのだ。

    監督は慌ててタイムを要求し、キャッチャーの黒岩をベンチに呼んだ。
    「黒岩・・・」
    『はい、どうしましたか監督』
    「実はな、瀧野瀬が心配なんだ」
    『どうしたんですか? あいつ、慎重になり過ぎて暴投してしまいましたけど・・・この中でプレーしているあいつを責める訳にはいかないですよね』
    「もちろんだ。瀧野瀬を責める気持ちなど一切ない。心配と言ったのはな、あいつ・・・イップスになってしまったのかもしれない」
    『えっ?イップス?…そ、そんなぁ・・・イップスで暴投したって言うんですか?』
    「あぁ。それでな、黒岩を呼んだのは、2塁ランナーへの牽制球を瀧野瀬に投げて欲しいんだ。イップスになっていなければ普通に高橋に返球出来ると思うが…おそらく瀧野瀬は・・・」
    『分かりました。とにかくやってみます』

    黒岩は、タイムをもらったことへの礼をするため主審に丁寧にお辞儀し、キャッチャーボックスに腰を下ろした。
    そして主審の「プレイ!」のコールとともに、セカンドへの牽制のサインを送った。
    「分かりました」
    と、紘一がアンサーのサインを返したことに、いいタイミングで高橋に牽制のサインを送った。
    「投げろ!」
    サインに合わせて体をターンさせた高橋は、素早い牽制球をセカンドベースめがけて投げた。
    紘一はその牽制球を捕球すると、普通に高橋に返球してきた。
    黒岩は「普通に投げるじゃん! 監督の思い過ごしだよ!」
    と、紘一の返球を見守っていると、そのボールが高橋の届かない場所へ投げられたことに、黒岩は慌ててカバーしてそのボールを捕球した。
    黒岩は「嘘だろう?嘘だと言ってくれよ、瀧野瀬」
    その思いで、もう一度同じ牽制のサインを出したのである。
    牽制球を捕球した紘一は、まるで金縛りにあったかのように動かない体に、やむを得ず投げることをやめて、マウンドまでボールを運んできたのだった。
    それを見ていた監督は、決断するしかなかった。
    「タイム願います!」

  • #216

    六輔 (金曜日, 27 9月 2019)


    ショートのレギュラーであるキャプテンが、頭部へのデッドボールで離脱し、さらにはキャプテンの控えとして2回の守りからショートについていた紘一が、こんな状態になってしまった非常事態に、監督は決断するしかなかった。
    大会中は何が起きるか分からないことから、いくつかの守備パターンを練習試合で試みていたのだが、監督はこの場面で一度だけ試していた守備パターンを選択したのである。
    「おい、田塚!」
    『あっ、はい監督…自分が伝令に行きますか?』
    「いやっ、違う・・・セカンドに入ってくれ!」
    『えっ? じ、自分がセカンドにですか?』
    「そうだ。瀧野瀬を下げて鈴木をショートにまわす。鈴木のあとにセカンドに入ってくれ!」
    『…わ、分かりました』

    交代を告げられた紘一がベンチに戻って来た。
    『監督、大事なところでエラーをしてしまってすみませんでした』
    「大丈夫だ、瀧野瀬。お前は本当によくやってくれた。この交代がエラーをしてしまったことでの交代ではないことは・・・お前なら分かっているよな」
    『・・・はい』
    「確かに大事なところでのミスだったかもしれんが・・・ここは先輩達が抑えてくれることを信じよう…瀧野瀬」
    『・・・はい』

    そんな東庄高校の選手交代劇に、スタンドでは
    「おい、東庄の監督は非情だなぁ。これまでチームを救ってきたあの一年坊主…たった一つの送球ミスで交代させんのかよ。同点タイムリーまで打っているのにさ」
    と、酷評する者が大半だった。
    だが、白進学院の監督だけは、タイムをとってその後に二度の牽制球を投げた事の成り行きを見ていてこうつぶやいた。
    「あれだけの選手はなかなか出てこないよ…同じ野球人として、病を克服してくれることを願うだけだ」と。

    マウンドに内野陣が集まっていた。
    (桧山)「なぁ黒岩…監督は何て言ってたんだ?」
    (黒岩)「瀧野瀬が・・・イップスに…」
    (桧山)「イップス?ホンとなのかよぉ・・・なるほど、それを確かめるための二度の牽制球だったわけだ」
    (黒岩)「・・・うん」
    (高橋)「そういうことなら、尚更だな!」
    (桧山)「尚更?どういうことだ、高橋」
    (高橋)「もし、この回に失点して、負けるようなことがあったらさ…俺は瀧野瀬のために絶対にこの回を抑えるよ!」
    (鈴木)「そうだな、あいつにここまで救われてきた俺達だ。ここは俺達全員で絶対に守ってやろうぜ!」
    (桧山)「おぅ! 代わったところにはボールが飛ぶからな、田塚」
    (田塚)「了解! 練習試合で一度しか守ったことのないセカンドだけど…」
    (桧山)「監督は、この場面を3年全員でなんとかしてくれ!って、考えたんだろうな」
    (田塚)「…そうだな。ここを絶対に0点に抑えて、キャプテンのためにも絶対にこの試合に勝とうぜ!」

  • #217

    六輔 (土曜日, 28 9月 2019 17:33)


    バントのサインをほとんど出さない白進学院の監督が、同点で迎えた9回、ノーアウトランナー2塁の場面では8番バッターに送りバントをさせてきた。
    「ファーストーー!!」
    キャッチャーの黒岩の指示通り、ファーストの斎藤がバントを処理し、ファーストベースのカバーに入った田塚に送球した。
    「アウト!」
    おそらくは試合中に使わないだけで、いざという時にはしっかりと決められるように練習をしているのだろうと思える見事な送りバントだった。
    ワンアウトランナー3塁になった時点で、黒岩は主審にタイムを要求した。
    『タイム願います』
    黒岩の要求を受け主審がコールした。
    「ターイム!」
    主審は1塁側ベンチに向かって右手で3を作って示した。
    それは3度目の守備タイムであり、もうこれ以降はタイムを掛けられませんよという意味だった。
    監督がマウンドに目を向けると、桧山が笑顔で右手で1をだし、続けざまに左手も使って6を示していた。
    「1?…6?…16?・・・瀧野瀬の背番号か? 桧山のやつ…まったく」
    監督は、桧山のとった行動の全て意味するところを直ぐに理解し、ほくそ笑んで紘一を呼んだ。
    「瀧野瀬…行けるか?」
    戸惑う紘一に監督はこう言った。
    「3年生たちはお前を…お前の野球センスを信頼し、力を貸してくれと言っているんだ!行ってこい、瀧野瀬」
    『はい、分かりました・・・ベンチの指示は?』
    「ベンチの指示? そんなものある訳ないだろう、瀧野瀬。お前の思う通りに話して来い!」
    『はい』
    ベンチを飛び出した紘一は猛ダッシュでマウンドへと向かった。
    内野陣のところについた紘一は、自分のせいで招いてしまったピンチをまずは謝ろうとしたが、直ぐに桧山がそれを制止した。
    (桧山)「大丈夫だ、瀧野瀬。何も言うな!頼りになる奴が来てくれたところで、話始めるとするか。まずは、ここでの満塁策をどうするかだ」
    (鈴木)「表の攻撃だけど、1点もやれないこの場面では満塁策が正解なんじゃねーの?」
    (桧山)「なるほど、一理あるな。瀧野瀬はどう思う?」
    (紘一)「確かに、足の速い3塁ランナーですから、9番バッターにゴロを転がされた時点で失点を覚悟しなければならないですよね。でも、満塁策をとった時点で3番の高田選手との勝負をしなければならなくなります。満塁で高田選手を迎えるのはリスクが高すぎます。ここは1点を失っても裏の攻撃で必ず取り返すっていう強い気持ちで臨んだ方がいい結果が付いてくるような、そんな気がします。攻めましょう、先輩!」

  • #218

    六輔 (日曜日, 29 9月 2019 20:00)


    紘一の考えを3年生全員が受け入れた。
    (桧山)「そうだな、瀧野瀬の言う通りだ、逃げていてもいい結果にはならないよな。きっとキャプテンがこの場にいても同じことを言うだろうな」
    (高橋)「よし、決まった。ところで瀧野瀬…」
    (紘一)「はい」
    (高橋)「この場面でスクイズはどれくらい警戒すればいい?」
    (紘一)「一番難しい質問ですね。あくまでもデータの上での話ですけど、白進学院の監督は公式戦でスクイズをかけたのは、就任した1年目に一度あったきりで、それ以降スクイズは無いはずです。他の学校であれば9番バッターだから…と、なるんでしょうけど・・・この場面でも絶対にないか?と聞かれれば、たぶん無いと思います!としか言いようがありませんが・・・警戒してボール先行になるのが一番いけないと思います」
    (黒岩)「しかしよく調べてくれているんだな、瀧野瀬・・・ありがとな」
    (紘一)「いいえ・・・この場面で9番バッターが考えてくるのは、右方向への打球だと思います。左バッターの右方向への打球が3塁ランナーは一番スタートを切りやすいですからね」
    (田塚)「おっと、そうなると俺の方か」
    (紘一)「はい。高橋先輩の投げる球種とコースで守備位置を変えてください」
    (田塚)「どう変えるかは、先輩に任せますって言うんだろう?」
    (紘一)「はい(笑)」
    (田塚)「分かったよ(笑)」
    (桧山)「よし、決まったな、配球は黒岩に全て任せる!」
    (紘一)「ツーストライクまではインコースのボールが来るのを待っていると思います。と、言いたい場面ですが、相手は天下の白進学院です。うちが外角中心に攻めてくるだろうとよんで、初球から外角に手を出してくることも十分に考えられます。インコースであれば少々のボールでも手を出してくると思います」
    (黒岩)「なるほどな」
    (紘一)「とにかくコントロールだけ間違いないように…」
    (高橋)「はいよ」
    (鈴木)「おい、瀧野瀬。俺のショートの守備もまんざらじゃねーってところ見せてやっから、良く見とけよ!三遊間に打ってくることだってあるかもしれねーからな」
    (紘一)「はい、鈴木先輩」
    (桧山)「おい鈴木! あんまりはりきり過ぎてバテんなよ!鈴木は直ぐにバテるからな!」
    (鈴木)「うるせー(笑)」
    と、普段は口数の少ない高橋が紘一に向かってこう言った。
    (高橋)「瀧野瀬・・・」
    (紘一)「はい」
    (高橋)「この試合・・・お前がいてくれたからここまで戦ってこれたんだ。ここは俺が絶対に抑えるからな!」
    (紘一)「高橋先輩・・・はい!!」
    円陣が解かれ、内野陣がそれぞれのポジションに戻り、最後に黒岩だけが残って高橋に声をかけた。
    (黒岩)「力むなよ、高橋」
    (高橋)「あぁ」
    (黒岩)「気持ちだけで抑えられる相手じゃねーしな」
    (高橋)「そうだな。でも俺は絶対にこのイニングだけはゼロに抑えたい」
    (黒岩)「お前の気持ちは全員に伝わっているさ」
    (高橋)「あぁ」
    (黒岩)「とにかく、ここはコントロール重視だからな!外のストレートから入ろう」
    (高橋)「あぁ。最高のストレートを投げてやるよ!」

    最終回は点が入りやすい。
    エラーで出したランナーは必ず失点につながる。
    変わった選手のところには必ずボールが飛ぶ。
    そんな野球にある様々なジンクスに立ち向かう高橋と黒岩のバッテリーは紘一のアドバイスもあって、初球は外角のストレートを選択した。
    高橋は、夏の青い空を見上げてこうつぶやいた。
    (高橋)「俺達を守ってください・・・野球の神様」と。

  • #219

    六輔 (月曜日, 30 9月 2019 19:53)


    白進学院がこの8年間、9回を迎えて勝利を決定的なものに出来ていなかったことなど一試合もなかった。
    試合前は接戦だと予想された相手にも、いざ試合を始めると5回で大差をつけ、強豪校にもコールドゲームで勝ち進む。
    それが白進学院の野球だった。
    だから、それを知るスタンドで見守る白進ファンは、東庄高校の強さを認めるしかなかった。

    東庄高校にずば抜けたスター選手がいる訳ではない。
    体格も白進学院の加圧トレーニングで作られた筋肉の半分もない。
    ちなみに、加圧トレーニングとは、腕や脚のつけ根を専用のベルトで締めつけ加圧し、血流量を適切に制限した状態で行うトレーニング法のこと。
    甲子園に出てくる最近の高校は、皆、ボディビルダーのような太ももをしているだろう。
    あれは皆、加圧トレーニングで作られたものだ。
    白進学院は昭和の早い時期からそれを取り入れて鍛えあげていたのだった。

    さらにエース高橋の投球はMAXでも120㎞どまり。
    近年では130キロ台後半のスピードが当たり前の時代になったが、高橋の球速はお世辞でも速いとは言えない、レベルのちょっとだけ高い中学生レベル。
    それでもここまでの3試合、うち2試合は私立の強豪校を破って勝ち上がってきた東庄高校の健闘ぶりは、他の県立高校に勇気を与えるものだった。

    夏の青い空を見上げて「俺達を守ってください・・・野球の神様」と、つぶやき覗き込んだ黒岩のサイン。
    決めてあった通りの外角ストレートのサインに大きくうなずいてボールを胸の前にセットした。
    3塁ランナーを目で牽制し、高橋が投じた初球は、完璧にコントロールされたボールだった。
    黒岩と高橋のバッテリー間では、おそらくは見送るはずだと思って投げた初球だったが、白進の9番バッターは外角を攻めてくるに違いないとばりに、迷いなくバットを振って来た。
    「カキーン!!」
    『あっ…』

  • #220

    六輔 (火曜日, 01 10月 2019 19:38)


    9番バッターが振り抜いたバットに気持ちよくはじき返された打球は、3塁を守る桧山の頭上をライナーで抜けていき、3塁線ぎりぎりに落ちた。
    誰もがヒットだと思いその打球を見守ると、それをジャッジした3塁審判が両手を大きく挙げてコールした。
    「ファール!!!」
    球場全体がどよめいた。
    「惜しいっ!」と悔しがる3塁側応援席と、対照的に「危ねー!」と、それを喜ぶ1塁側応援席。
    球場は一球ごとに戦況が変わっていき、まさしく「野球は筋書きのないドラマ」という名言を象徴するような試合の展開に観客は酔いしれていた。
    もちろん、最後は白進学院が勝つだろうと決め込んで。

    紘一はベンチでメガホンを使って声を張り上げていた。
    「高橋先輩、ナイスボールです!!」
    紘一の言葉がしっかりと耳に届いてそれを理解した高橋は、苦笑いでこうつぶやいた。
    「はいよ、瀧野瀬。だけど、応援席で声援を送り続けている人達には、たまったもんじゃねーだろうな。さてと、次はどうするんだい、黒岩」
    と、黒岩の外角低めへのカーブのサインに大きくうなずき、間をおくことなく二球目を投じた。
    と、投げて直ぐに高橋は叫んでいた。
    「まずい!」
    一番の大事なところで力んでしまったがために外角を狙って投げたボールが甘く入ってしまうことが分かったからだ。
    「カキーン!!」
    ストライクゾーンに入って来たカーブにバッターは反応してきた。
    肩口からのいわゆるハンガーカーブをとらえた打球がライトへと飛んで行った。
    外野のフェンスを越えるには飛距離は十分だった。
    外野にフライが上がったことで3塁ランナーは、ベースに戻ってタッチアップに備えフライを目で追った。
    バッターがホームランを確信して走り出したあと、黒岩はキャッチャーズボックスで打球を見ながら叫んでいた。
    「きれろー!!!」
    1塁審判が両手を膝に乗せ、フェンスに立つポールの内側か外側かをしっかりと確かめる体制をとっていた。
    1塁側応援席の悲鳴のような叫び声のなか、打球はポールのはるか上を越えていった。
    黒岩は、いやっ、東庄高校野球部とそれを応援する誰もが1塁審判が両手を大きく挙げて「ファール!!!」とコールしてくれることを信じて待った。
    と、その願いが通じたかのように1塁審判が両手を大きく挙げてコールした。
    「ファール、ファール!!!」
    2球続いての惜しい打球に3塁側応援席からはため息交じりの声が飛び交った。
    「おーい、いい加減に決めてくれよ」と。
    黒岩が高橋を見ると、意外と平然とした顔で自分で犯したコントロールミスを詫びていた。
    「すまん、すまん」
    それを見た黒岩は不思議とこう思えたのだった。
    「ついてるぜ、高橋。俺達・・・勝てるぜ!」と。

    昔の野球マンガでは、1球を投げるのに放送時間の30分では収まらず、結局、次の週までどうなるのかと心配し続けなければならなかった。
    そして、世間では衣替えの季節を迎え、女学生達は夏用から秋冬用のセーラー服へと衣を替える頃、一方では、温かいおでんを食し、過食を繰り返して体内にエネルギーとなる脂肪を蓄え、冬眠の準備に取り掛かった者がある頃・・・
    1か月半、約50日間も続いてきた東庄高校と白進学院との戦いにいよいよ幕が下ろされる日が来るのだった。

  • #221

    六輔 (水曜日, 02 10月 2019 20:01)


    黒岩に迷いはなかった。
    「3球勝負だ!もうコントロールミスは許してもらえねーからな!」
    と、心の中で叫びながら高橋に送ったサインは、紘一の言っていたインコースのストライクゾーンからボールになるスライダーだった。
    サインにうなずいた高橋に腕を振れよとジェスチャーをし、左バッターに黒岩自身が隠れるほどに、インコースに体を寄せた。
    「こい、高橋!」
    と、高橋が投げた3球目は黒岩がイメージしていた通りのボールだった。
    「よし、振れ!」
    という黒岩の声が聞こえたかのようにストライクゾーンからボールになったところを上手くバットを合わせてきた。
    「カキーン!!!」
    黒岩が「まじか」と驚くほど、コンパクトなスイングでボールをバットの真芯でとらえた打球がライナーとなって一二塁間へと飛んで行った。
    と、紘一に言われた通りに自分で守備位置を変えていたことで一二塁間への意識を強く持っていた田塚が、黒岩が「セカンドー!!」と叫ぶより先に横っ飛びしていた。
    球場全体の歓声と悲鳴と、様々な音が一瞬鳴りやんだようだった。
    横っ飛びしてライナーをキャッチした田塚は、直ぐに起き上がり、ランナーが飛び出していた3塁へ矢のようなボールを投げた。
    「アウトー!!!」
    一瞬にしてとったダブルプレーに地鳴りのような歓声が上がった。
    「ウォーーー!!!」

    「抑えたぜ、瀧野瀬!」
    と、ベンチを出て迎える紘一に高橋についで田塚もハイタッチで嬉しさを表現した。
    ワンアウト3塁のピンチを田塚のファインプレーでゼロに抑え、勢いそのままに9回裏の攻撃に入った。
    だが、白進学院のエース・小林投手の前にランナーを一人も出せぬままスリー・アウトとなり、あっという間に9回裏の攻撃を終え、試合は延長戦へと突入した。

    近年、高校野球では延長十三回からはタイブレーク制がとられるようになった。
    タイブレーク制とは、延長十三回に入ったら、無死一、二塁の状態で攻撃を始めるというルールだ。
    当然、得点は入りやすくなり、試合が動くことから試合が早く決することになる。
    目的は延長が長引くことで、選手が故障するリスクが高くなるため、延長回数を出来るだけ減らすというものだ。
    投手の肩への負担については「投球数制限をつければよい」という議論も存在しているが、投球数制限については、良い投手を複数そろえやすい強豪校が過度に有利になってしまうという見方が強く、さらにはツーストライクになるまでは絶対に打たずに球数を増やすという戦法をとる学校も出て来て、野球が変わってしまうと言われ、導入はかなり難しい状況だ。
    ただ、タイブレーク制がとられるようになったのは近年のことで、この時代は延々と18回まで続くのがルールだった。
    満身創痍の高橋に、延長に入ってからも白進学院の強力打線を抑える力は残っていなかった。
    だが高橋は、監督から「変わるか?」と何度尋ねられても決して「はい」とは返事をしなかった。
    桧山も受けていた黒岩も「最後まで高橋に投げさせてやってください」と、高橋の背中を押した。
    白進学院のエース・小林は、8回から投げ、8回には紘一のヒットで1点を与えてしまったが、それ以降はランナーを一人も許さなかった。
    そして・・・
    試合はあっけなく決した・・・そう、本当にあっけなく。
    延長14回、高田選手の2本目のホームランで5-4と勝ち越した白進学院が、14回の裏、東庄高校最後のバッター田塚を空振りの三振に打ち取って、ゲームセットとなった。
    ベンチで大粒の涙を流す東庄高校の選手たちに監督がその試合の最後の指示を出した。
    「胸を張って整列してこい!」と。

  • #222

    六輔 (木曜日, 03 10月 2019 20:55)


    東庄高校の40年ぶりのベスト8進出という夢は、白進学院の前に散った。
    この試合をキャプテンの高校野球最後の試合にはさせないという誓いは果たすことが出来なかったが、9回表、紘一が送球エラーで出塁させてしまったランナーだけは返さないという誓いは、3年生全員で守り抜いた。
    結果的には高田選手の2本のホームランでの負けに、1塁側応援席に詰めかけた人たちは、諦めるしかなかった。
    「高田は、これからプロに行く選手だもんな…高橋はよく2本のホームランによる失点だけで抑えたよ」と。
    試合最後に整列する高橋を見つめ、スタンドで涙する女の子がいた。
    それは1回戦からスタンドでずっと高橋を応援し続けて来たクラスメイトの知子だ。
    知子は、頬を伝う涙を拭おうともせず唇を強く噛みしめ、それでも最後には優しい顔になってこう言った。
    「お疲れ様・・・私の永遠の背番号1」と。

    白進学院との挨拶を終えた東庄高校野球部、キャプテンを除く選手19名、監督、部長先生、そして記録員の水嶋陽菜子が、1塁側応援席の前に並んだ。
    選手たちに大きな声援が飛んだ。
    「ナイスゲーム!白進学院相手に逃げることなくよくぞここまで戦った!」
    「甲子園も夢じゃなくなったぞー!」
    と、ある言葉が投げかけられたことで、3年生全員がグランドに泣き崩れてしまったのだった。
    「キャプテンもお前たちの頑張りを誉めてくれるはずだー!」という言葉で。
    桧山はグランドに両手をつき、「すまない・・・キャプテン」と、嗚咽をあげた。

    その年の選手権大会は、結果的に、白進学院が東庄高校に勝った後の残りの3試合を全て大差で勝ち、9年連続の甲子園出場を決めた。

    3年生引退となる「最後のミーティング」は、試合の翌日、キャプテンが無事に退院してきてから、学校のグランドで開かれた。
    (キャプテン)「高校野球、最後の公式戦…最後までお前たちと一緒に戦えなかったことだけは悔いが残るけど・・・俺はこのチームのキャプテンとしてプレー出来たことを誇りに思う。ありがとう…みんな」
    最後は全員が笑顔になれた。
    ただ、ミーティング中、一人だけ晴れない表情をしていた者がいた。
    紘一だ。
    紘一は、グラウンドに来て「最後のミーティング」までにまだ時間があったことで、何気なくキャッチボールを始めた。
    自分がイップスになってしまったことも忘れて遊び心でしたキャッチボールだったのだが、まったく自分の考えた場所にボールが投げられなかったのだった。
    「俺・・・もうボールが投げられないかもしれない」
    そう考えると、不安でたまらなくなっていたのだった。
    その光景を見ていた監督はこうつぶやいた。
    「瀧野瀬・・・秋の新人戦まで時間が無いんだ。何としても短期間で治ってくれないことには・・・お前抜きでの新チーム編成は考えられないんだ」と。

  • #223

    六輔 (金曜日, 04 10月 2019 19:36)


    新人戦は、翌年の春の選抜甲子園に選ばれる権利を勝ち取るための大会でもある。
    選抜甲子園大会の出場校は32校であるため、当然49都道府県があるなかにあっては、出場校が1校もない県が毎年生じる。
    毎年出場が保障されているのは東京都と北海道だけであり、逆に、成績の良かった府県からは2校以上選出されることだってある。
    それが選抜甲子園大会だ。
    選抜甲子園に選ばれるのに一番確実なのは、各県で開催される地方大会で決勝まで進み、その後に開催される関東大会や東北大会などでベスト4程度まで勝ち上がることだ。
    さらには、3年前、21世紀を迎えて新たな選考基準が追加された。
    それは「21世紀枠」と呼ばれるものだ。
    部員不足やグラウンドがない、豪雪地帯といったなどの困難を克服した学校や、ボランティア活動といった野球以外の活動での地域貢献で他校の模範となる学校が選出されるようになったのだ。
    現在は、出場校32校のうち3校が「21世紀枠」として選ばれるのだが、県大会でベスト8以上が何年も続いているなど、実力もある程度の選考の対象になっている。
    因みにであるが、小生の故郷である栃木県では、2006年に真岡工業が「21世紀枠」で出場して以来、栃木県から選ばれていない。
    なかなかな狭き門なのだ。

    夏の選手権地方大会に早々と負けたチームは、白進学院が夏の甲子園に行っている間、約1か月も早く新チーム作りに取り掛かれる。
    そのアドバンテージで白進学院に勝ち、春の選抜甲子園に選ばれようと、どこのチームも躍起になるのだ。
    東庄高校の監督もその気持ちは一緒だった。
    「うちが甲子園に行くには、やはり秋の新人戦で優勝するしかない」と。
    新キャプテンも決まり、新チームの練習がスタートした。
    夏休みであることで、朝から晩まで一日中、長く厳しい練習に部員たちは文句ひとつ口にすることなく耐えた。
    「自分達もやれるんだ!」という自信がついていたからだ。
    そんな中、紘一だけは別メニューを必死にこなしていった。
    だが、紘一の症状は一週間が過ぎても一向に治る気配すら無かった。
    そんな紘一に、監督はいら立ちさえも感じ始めていた。
    「どうして、これだけのことをやっても良くならないんだ!」と。

    そんな折、監督のところに一通の手紙が届いた。
    教員室の机の上に置かれてあった手紙を手にした。
    「うん?誰からだ?」と、差出人を見ると、それは白進学院の監督からだった。
    「えっ?白進学院は間もなく甲子園に出発する、そんな忙しい時期にいったい何の手紙なんだ?」
    と、椅子に座って、机の上に置いてある文房具セットの中からハサミをとって封を切り早々に手紙を読み始めた。
    手紙にはこう書かれてあった。

  • #224

    六輔 (土曜日, 05 10月 2019 07:06)


    前略 東庄高校野球部監督様
    我々、白進学院野球部は貴校に勝てたことで9年連続甲子園出場を果たすことが出来たと言っても過言ではないと、それだけ貴校との戦いは厳しいものでした。
    貴校の戦い方は、チームメイトを互いに信頼しあい、自分のプレイに一人一人が責任をもっているような、そんな感じを受けました。
    選手を信頼し、選手のやりたいと願う野球を、そのまま采配につなげていた監督には敬意を表したいと思います。
    さて、突然の敵将からの手紙に驚かれていることと思いますが、どうしても貴校の選手のことが心配で筆を執らせていただいた次第であります。
    その心配な選手とは、途中からショートを守り、8回裏にはうちのエースから同点タイムリーを打った瀧野瀬君です。
    監督は、9回表に送球エラーをしてしまった瀧野瀬君のことを交代させましたね。
    観ていたほとんどの人が「非情な采配だ!」と、言っていたと聞きましたが、監督、それは違いますよね。
    あの場面で瀧野瀬君を交代させた理由は、瀧野瀬君がイップスを発症させてしまったことで、それ以上、彼の野球人としての傷口を広げたくないために交代させたものと、私は思っています。
    おそらくは、それで間違いないですよね。
    イップスの原因は、これまで「精神的なことが原因」と言われてきましたが、どうやらそれは違っていたようで、「過度な同一動作」が原因なのだそうです。
    なぜ選手は過度な同一動作をしてしまうのかというと、それはしっくりいかない動作、違和感から一刻も早く脱したいという気持ちからなのです。
    何とかしなければ・・と焦りが生まれてきて、結果的に自ずと練習を過度にやり過ぎてしまうのです。
    野球への意識と価値観が高い選手程、更に言うなら、早めに改善を図るうえで、“ああでもない、こうでもない”と修正をやり過ぎてしまう選手程、イップスを発症させてしまうようです。
    イップスは、良かれと思って取り組んだ練習が、かえって投球動作の自動化プログラムを崩してしまった状態です。
    投球動作の自動化が崩れた状態まで達してしまうと、以前のフォームで投げられなくなります。この状態がイップスの始まりです。
    イップスは、普段プレッシャーのない状態でも、本人はどことなく動作に不具合を感じています。
    既に神経が混線してしまった状態にあった訳です。
    そこに過度なプレッシャーが掛かると、余計に動作に不具合が生じ、ますます制御不能な状態に陥ってしまいます。
    瀧野瀬君がまさにそうだったのだと思います。

    我々の野球部にもイップスを発症させてしまう選手が毎年必ず現れます。
    そこでうちの選手のイップスの克服方法をお伝えしたいと思います。
    と、次に書かれてあったことに、監督は目を点にして驚くのであった。

  • #225

    六輔 (日曜日, 06 10月 2019 19:40)


    手紙の続きにはこう書かれてあった。
    まずは、イップス症状が続く場合に、絶対にやってほしくない練習をお教えします。
    一つ目は、ネットスローです。
    2、3ⅿ前に防球ネットを設置し、そこにボールを投げ込む練習は、かえって逆効果です。リリースポイントを定める為にやらせる監督さんがいますが、私は絶対におススメしません。
    手先への過剰な意識を増やしてしまうだけだからです。
    二つ目は、シャドウです。
    利き手にタオルを持ち、そのタオルを振らせるシャドウは、腕でタオルを振ることばかりに意識が向かってしまいます。
    投げる行為は、腕を振ることではありません。
    闇雲にシャドウを行ったからといって、フォームが固まるわけでもありませんし。
    三つ目は、天井投げです。
    グランドに寝転がり、天井に向かって投げる行為は、ネットスローと同じようにかえって逆効果です。
    スナップスローをすることでイップスを克服させようとする監督さんがいますが、私は絶対におススメしません。
    四つ目は、遠投です。
    遠投が一番の逆効果です。
    肩肘への負担の高い「遠投」を行うと、故障に繋がる可能性が高いです。
    投げれば投げる程、本来の感覚から遠ざかってしまうと思います。
    最後になりますが、テイクバックやトップ位置の過度な修正練習は絶対に避けてください。
    おそらくはイップスをさらに悪化させてしまうことになるでしょう。

    ここまで読んだ監督は、手紙を置いてこうつぶやいた。
    「俺は、白進学院の監督が絶対に勧めないという練習・・・瀧野瀬に全部やらせてきたよ」
    事実、監督は紘一に一日でも早く克服して欲しいという一心で、様々な練習をさせていた。わらにもすがる思いで。
    だがそれが紘一を余計に苦しめていたのだと知り、絶句した。
    続きはこう書かれてあった。
    とにかく必要以上に投げることは避けて下さい。
    慌ててどのフォームが合うか?・・と、リリースポイントや肘の高さ、投げ方を変えたりしないことです。
    出来ればノースローが最高の練習になるはずです。
    私がここまで書いてきたことを守ったからといって、瀧野瀬君のイップスが治るという保証はありません。
    私は、一人の野球人として、瀧野瀬君のように野球に真摯に取り組む選手が好きです。
    彼のような選手は高校野球の宝です。
    そんな選手が、おそらくは必死になってイップスを克服しようと、あれやこれやと逆効果となるようなことをしてやいないかと案じ、こうして手紙を書かせていただきました。
    出来れば、この手紙が無駄であってくれたらいいと思っています。
    ですが、もし彼がまだイップスに苦しんでいるのであれば、どうかこの手紙を瀧野瀬君に渡してください。
    我々白進学院野球部は、瀧野瀬君のいる東庄高校野球部と決勝で戦い、そして勝って甲子園を目指したいと思っています。

    手紙を読み終えて監督は、同じ高校野球の指導者として、白進学院監督の手紙に涙した。
    「ありがとうございます…監督」と。

  • #226

    六輔 (月曜日, 07 10月 2019 19:14)


    まるで主人公が変わったかのように三か月半、100話以上も瀧野瀬紘一とその仲間達のことで物語は進められてきた。だが、思い出して欲しい。
    この物語のタイトルは、「仲間 最終章」~ 鋳掛屋の天秤棒 ~で、その主人公は、2019年に和住翔琉(ワズミ・カケル)と和住茉緒(ワズミ・マオ)の間に生まれた和住来翔(ワズミ・ライト)であったことを。
    野球と鋳掛屋の天秤棒がどんな関係があるというのか。
    ましてやこの物語は「仲間」の六章目でしかも最終章だ。
    物語は、月にまつわる話と一緒に進められてきたであろう。

    人里離れた山奥に暮らす狐の「キーちゃん」と兎の「ウーちゃん」、そして猿の「ルミちゃん」。仲良し3匹組は、どんな時でも一緒に助け合いながら暮らしていたが、皆、同じ悩みを持っていた。
    「どうして私達の姿は獣なのかなぁ?」、「私達も人間の姿になりたいよね!」、「前世で何か悪いことをしたからなのかなぁ…」と。
    3匹がかくれんぼをして遊んでいると、そこにお腹を空かせたお爺さんが現れた。
    困っている人を助けたいと、仲良し3匹組はお爺さんに食べ物を探し始めた。
    狐のキーちゃんは魚を捕まえ、木登りの得意な猿のルミちゃんは木の実を集めた。
    川に入ることも木に登ることも出来ない兎のウーちゃんは、結局何も探すことが出来ずに、悲しくて悲しくて涙が止まらなくなりウーちゃんの目は、真っ赤になってしまった。
    ウーちゃんは、自分の非力さを嘆き、お爺さんが優しく許してくれたことに余計に悲しくなった。
    ウーちゃんは、どうしてもどうしてもお爺さんの役に立ちたいと考え、出した答えは・・・『お爺さん! 私のお肉を食べてください!』そう言って燃え盛る焚き火の中に飛び込んでしまったのだった。
    「ウーちゃーーん!!!」「ウーちゃーーーーーん!!!」
    それは咄嗟の出来事でキーちゃんもルミちゃんもどうすることも出来ずにただ泣き叫ぶことしか出来なかった。
    兎のウーちゃんが焚き火に飛び込んでしまった姿を見たお爺さんは、それまで変えていた仮の姿を元の姿に戻して正体を現した。お爺さんは、仏様だったのだ。
    仲良し3匹組が、「私達の姿が獣なのは、前世で何か悪いことをしたからなのかな? 今からでも人の役に立つことができればいいな!」と話しているのを聞いた仏様が、お爺さんに姿を変えて仲良し3匹組の前に現れていたのだった。
    仏様はこう言った。
    「お前たちの優しい気持ちはよく分かった。次に生まれ変る時にはお前たちを人間にしてあげよう。それから、ウサギさんのこれ以上ない優しい気持ちを後世まで伝えるために、お月様にウサギさんの姿を残してあげよう」と、そう言って兎のウーちゃんを月に昇らせた。
    キーちゃんとルミちゃんが夜空に輝く綺麗な月を見ると、そこにウーちゃんの姿を見つけてこう言った。
    「お爺さんのためにお月様で餅をついているのね・・・ウーちゃん」と。

    物語は、それからも月にまつわる話と一緒に進められていき・・・
    主人公である来翔が生まれたときに56歳だった和住藤子(ワズミ・トウコ)は、孫の可愛さを知り、来翔を激愛する。
    途中、和住藤子の親友、天方千暁(アマカタ・チアキ)の話もあった。
    それは、千暁が念願だった絵画の個展を開き、そこに日本を代表する画家、九東 唯誠(クトウ・ユイマ)が登場し、千暁が描いた「仲間」というタイトルの一枚の絵を絶賛し、2,000万円で譲ってほしいとまで千暁に言ってきた。
    九東は、千暁の人柄を好きになり、九東自身が審査委員長を務める絵画展の審査員になって欲しいと懇願するが、千暁がそれを受け入れることはなかった。

    物語は、来翔の成長、藤子と嫁の茉緒とのしっくりこない嫁姑の関係、それとは関係の無いところで進む千暁の画家としての成長が描かれていた。
    さて、それなら瀧野瀬紘一と主人公、和住来翔との関係を覚えているだろうか。
    そう、来翔が入部したスポ少野球部の監督が、40歳になった瀧野瀬紘一だ。
    40歳になった紘一は、エラーした選手を厳しく叱る監督になっていた。
    ただ、それには紘一なりの理由があったのだった。

  • #227

    六輔 (火曜日, 08 10月 2019 19:00)


    白進学院監督の手紙を受け取った紘一は、涙し、そして心に固く誓った。
    「絶対にイップスを克服して、必ず白進学院を倒します。それが俺の監督さんへの恩返しです!待っていてくださいね、監督さん」と。
    そして見事、イップスを克服した紘一は1年秋の大会から3番・ショートでレギュラーになった。
    そして迎えた1年秋の大会、さらには2年の夏の大会のいずれとも白進学院と戦う前に敗退してしまった。
    だが、紘一が2年の時の夏の大会では41年ぶりにベスト8に進出し、さらにもう1勝してベスト4まで行った。
    もちろん、ベスト4への立役者は紘一だった。
    東庄町の人達は、紘一が最上級生になった時には必ず甲子園に行けると信じて疑わなかった。
    「東庄町から初の甲子園出場を!」と、町の有力者から多額の寄付もあり、そのお金でピッチングマシンを新たに3台購入するなど、東庄高校野球部の練習環境は良くなる一方だった。
    選手たちが町の人達の期待の大きさに押しつぶされやしないかと、監督がそれを一番に気に掛けるほどだった。

    紘一は、2年の秋からキャプテンになった。
    自分のことは二の次に、部を大事に思う紘一に部員たちはついていった。
    紘一が3年になると、ここ2年間の東庄高校の活躍ぶりを見て、優秀な部員が続々と入部してきた。
    「瀧野瀬先輩のようなプレイヤーになりたい!」と。
    そして紘一最後の夏の大会を迎えた。
    戦う準備は全て整えた。
    抽選の結果、春の大会でベスト4だった東庄高校は第3シードとしてFブロックに収まった。
    白進学院がAブロックに収まっていたので、決勝まで白進学院と対戦することは無くなった。
    紘一はこうつぶやいた。
    「ようやく監督さんに恩返し出来る時が来ました」
    紘一がそんなことを思っていることなど、知る由もない白進学院の監督もまた、抽選の結果を見てこうつぶやいていたのだった。
    「勝ち上がって来いよ、瀧野瀬君。決勝戦で会おうな」と。

  • #228

    六輔 (水曜日, 09 10月 2019 20:01)


    もうこの頃になると、紘一と陽菜子は、すっかり大人の二人になっていた。
    特に紘一がキャプテンになってからは、どんなことでも陽菜子に相談し、陽菜子もまた、紘一を頼った。
    いつしか二人揃って野球部の1本の太い柱を作り上げていたのだった。
    高1のときからずっと紘一に想いを寄せていた陽菜子に対して、紘一もようやく陽菜子がかけがえのない存在であり、その感情が「好きだ」という感情であるとはっきり気付いていた。
    二人の最後の夏の大会、第3シードの東庄高校は順調に勝ち進み、翌日は第2シードの市立棚橋高校と決勝進出をかけた準決勝となった。
    軽めの練習を終え、練習後の日課となっている、キャプテンとマネージャーの二人だけのミーティングになった。
    いつもであれば練習メニューや、一つの練習にかかった時間などを確認し、翌日の練習メニューに活かすためのミーティングであったが、その日は二人ともいつもと様子が違った。

    『練習、お疲れ様…紘一』
    「ありがとう…陽菜子」
    『いよいよ明日は、市立棚橋高校戦だね。去年の秋、市立棚橋高校に負けて白進学院と戦う前に春の甲子園の夢を絶たれた相手だもんね』
    「あぁ・・・まずは明日、棚橋高校に勝つ!それも目標に掲げて冬場の厳しいトレーニングにも耐えてきたんだからな。あっ!そういえば冬場で思い出したけど…俺の友達が女の子を連れてサファリパークに行ってその帰り道に“やまだうどん”を食べて帰って来た話をしたの覚えてる?」
    『…うん』
    「実はその話の続きがすごくてさ、後になって6組の女の子が…」
    『ねぇ、紘一・・・』
    「うん?」
    『ずーーーっと野球の話が続いていて、珍しく色恋話が始まると思ったら、お友達がサファリパークに行った時の話?』
    「だって続きがすごく驚く話だったから…」
    『ようやく試合から離れて、私の出番のところになったんだから真面目にやってよ!時々ぶち込んでくる「時事ネタ」とか「暴露ネタ」はいらないから!』
    「え? そうなの?」

    『ねぇ、紘一・・・』
    「なんだい?陽菜子」
    『高1のとき、紘一が私を誘ってくれて駅前の喫茶店に行ったときのこと覚えてる?紘一は「一応野球選手だからな!」って言ってアイスミルクを、私はレスカを注文したの』
    「女の子って、そういう細かなところまで良く覚えてるんだね。全部完璧っていう自信はないけど、俺もよく覚えてるよ」
    『あの時に、こう話したんだよ。紘一が甲子園に行くチャンスは5回もあるんだもの。目標は甲子園! みんなで頑張りましょうねって。そしたら紘一が、「そうだな!そのつもりで頑張るよ」って答えたから、私は「そのつもり? つもりじゃ、いやっ!」って、言ったの』
    「高1のときにそんな話をしたんだっけ?そっか・・・この大会が5回チャンスがあったうちの最後の5回目なんだよな」
    『そうね。紘一は私に約束してくれたんだよ! 陽菜子を絶対に甲子園に連れて行ってやるからって』
    「そっか・・・約束まであと2勝だ。東庄高校には市立棚橋にも白進学院にだって負けないものがある。だから負けるはずはないんだ!」
    『棚橋にも白進にも負けない?・・・負けないもの…負けないもの??? え~それってなぁに? 情けないなぁ、私にはそれが何なのか分からないよ・・・教えて、紘一』
    「それはねっ…」

  • #229

    六輔 (木曜日, 10 10月 2019 18:57)


    それまでいい雰囲気で話していた二人だったが、紘一は既に18歳になっていたにもかかわらず、どうしても乗り越えられない壁があったのだった。
    紘一は、陽菜子の問いに真顔でこう答えた。
    「教えな~い!」
    『はい!はい、出ました~~! 東庄高校野球部主将、瀧野瀬紘一選手による“すっとぼけ攻撃” 超ウルトラF難度の攻撃であります。皆さま、ご存じでありましょうか。今、このワザを私にかけられるのは、世界中でただ一人! はい!それは今、私の目の前にいる瀧野瀬紘一選手だけであります』
    「なぁ陽菜子・・・もしかして将来、実況アナウンサーを目指してんの? 上手い!」
    『いい加減、茶化さないで答えてよ! っていうか…紘一が私に記録員になってベンチに入って欲しいって頼んで来た、その本当の理由だって、丸2年経った今も聞かせてもらえてないんだからね!』
    「・・・それ言ったよ」
    『・・・言ってない』
    「・・・話したよ」
    『・・・聞かされてない』
    「・・・・・」
    『・・・・・』
    「・・・・・」
    『・・・じゃぁ、私が答える!』
    「…どうぞ」
    『棚橋にも白進にも負けないもの? それって日本一のマネージャー! ベンチにいて選手を支える記録員!・・・間違ってる?…紘一』
    「・・・間違ってないよ」
    『紘一が私が記録員になってベンチに入って欲しいって頼んで来た、その本当の理由は・・・紘一自身がいつも私にそばにいて欲しかったから!・・・間違ってる?…紘一』
    「・・・間違ってないよ」
    『ねぇ、紘一・・・』
    「うん?」
    『今のこと、紘一自身から聞きたい』
    「その必要ないよ!」
    『なんでぇ???』
    「だって・・・だって、今、間違ってないよって答えたじゃん!」
    『あのさぁ! 野球では何千人、何万人っていう多くの人に観られている中でプレー出来る人がさ、どうして私とのことになると、チキンなの?』
    「・・・チキンって言うな」
    『はぁ?いまなんて』
    「はい!はい、出ました~~! 東庄高校野球部マネージャー、水嶋陽菜子君による“本当は聞こえているのに聞こえてないふり攻撃” 超ウルトラF難度の攻撃であります。皆さま、ご存じでありましょうか。今、このワザを東庄高校野球部主将であります瀧野瀬紘一選手にかけられるのは、世界中でただ一人! はい!それは今、私の目の前にいる・・・」
    と、その時だった。
    紘一の目の前で向き合って話していた陽菜子が、紘一の胸の中に飛び込んできてこう言ったのだった。
    『目の前にはいないよ…紘一の胸の中だよ』と。

  • #230

    六輔 (金曜日, 11 10月 2019 19:35)


    紘一の胸の中で陽菜子は目を閉じてこう言った。
    『紘一・・・私を甲子園に連れていってね』
    「あぁ」
    『わたし、ずっと我慢してきた。ずっと、ずっと、ずーーーっと我慢してきたんだよ』
    「何を?」
    『紘一に私の気持ちを伝えるのを』
    「・・・そっか」
    『いま、伝えてもいい?』
    この時の紘一は、陽菜子が初めて感じるような男らしさをみせてこう言った。
    「だめだ!それは俺から先に伝える」
    『紘一が先に? ホンと?』
    「あぁ」
    『いつ?』
    「甲子園・・・甲子園に行くことが決まったら、落ち着いた時間がないだろうから、甲子園から帰ってきたら…かな。約束するよ」
    『もし…もしも甲子園に行けなかったら?』
    「それは無いから心配しないで大丈夫!」
    『そっか、そうだよね。どうしても今じゃダメなのね?』
    「あぁ。二人の夢・・・まずは一緒に叶えよう」
    『紘一・・・うん、分かった』
    紘一の言葉に安心した陽菜子は、それまで以上に体の力を抜いて自分の体を紘一に委ねた。
    すると、それを感じた紘一も陽菜子の背中に置いてあった両腕にギュっと力を込めて大好きな女の子を抱き寄せた。
    頬が火照り胸の鼓動を感じながら、互いが互いの心の中で名前を呼んでいた。
    「陽菜子・・・」
    『・・・紘一』

    紘一は胸の中にいる陽菜子の両肩に手を載せてそっと引き離し、目を閉じたままの陽菜子を見つめた。
    「陽菜子・・・」

  • #231

    六輔 (土曜日, 12 10月 2019 05:35)


    と、その時だった。
    目を閉じていた陽菜子はパッと紘一から離れて歌を歌い始めたのである。
    「い~けないんだぁ、いけないんだ~ぁ。先生に言ってやろう~ 部室で変なことをしようとしている人がいま~~す」
    そんな陽菜子の豹変ぶりに紘一はこうつぶやいて笑った。
    「お前は小・学・生・かぁ?!」

    どこかで秋祭りの練習でもしていたのであろうか。
    遠くで笛、大鼓の「おはやし」が鳴り響いていた。
    まさかその年の秋祭りが台風19号(ハギビス)の影響で中止になるとは、誰も知る由もなかったのだが。


    市立棚橋高校戦が始まった。
    序盤、両校とも決定打が出ず、0-0のまま後半に入った。
    紘一の打席は、全てファーボール。
    勝つためには手段を選ばないといった、市立棚橋高校の戦法に、スタンドに詰めかけた多くの高校野球ファンからブーイングが起き始めていた。
    ベンチの中で紘一は監督からこう言われていた。
    「これも一つの野球だ。お前には納得がいかないだろうが、我慢するんだ。必ずお前と勝負しなければならない時が来る! その時を待つんだ、瀧野瀬」
    『分かってます、監督。それに東庄高校は決して僕一人で戦っているのではありませんから!』
    「そっか。そうだったな」

    そしてスコア0-0のまま迎えた7回表の東庄高校の攻撃は、3番を打つ紘一からの攻撃だった。
    スタンドで見つめる観客は、それまで3打席とも敬遠ぎみのファーボールで紘一との勝負を避けて来た市立棚橋高校も、さすがに7回の先頭バッターとなれば勝負をしない訳にはいかないだろうと思って見守っていた。
    ところがだった。
    なんと、ノーアウトで1塁に紘一を出しても、後続を抑える絶対的な自信があるのだと言わんばかりに、紘一をファーボールで歩かせにきたのである。
    敵将は、紘一に長打を打たれることを避けたかったのだった。
    球場全体が異様な雰囲気に包まれ、市立棚橋高校の応援席でも顔をしかめる者がいたほどだった。
    大ブーイングが起きる中、「ファーボール、ランナー1塁!」と、主審がコールすると、紘一がバットを丁寧に置いて1塁に猛ダッシュしたのである。
    その様を観ていた人達から大きな拍手がなった。
    「おい、さすが東庄高校を引っ張って来たキャプテンだな! 普通じゃいらだってバットをぶん投げていきたくなるようなところだろう? 今日は一度もスイングさせてもらっていないんだぜ! これぞ、高校野球だ、俺は今日から東庄高校のファンになったぜ!頑張れー東庄高校!」
    これまでは紘一の次に打つ4番、5番バッターが完璧に抑えられてきた。
    紘一が1塁に立ち、続く4番バッターがベンチのサインにうなずき、すぐさま送りバントの構えをした。
    市立棚橋高校のベンチでは、4番バッターにバントの指示をしてきたことを見て、まんまとはまったとほくそ笑み、バントしやすいボールを投げてやれ!あとは5番、6番を打ち取ればいいんだ!というサインをキャッチャーに送った。
    ピッチャーがキャッチャーのサインにうなずき、セットポジションに入った。
    と、その時だった。

  • #232

    六輔 (日曜日, 13 10月 2019 21:23)


    1塁ランナーの紘一が、ディレードぎみにスタートを切ったのである。
    市立棚橋高校のベンチでは「しまった!止めろ!」と、ピッチャーに声を張り上げようとしたが、その時はもうピッチャーがホームへバントしやすいボールを投げていたところだった。
    バッターはバントをせずバットをひき、キャッチャーはセカンドには全く投げられず、紘一はあっという間にセカンドを陥れていた。
    「いいぞー!!」
    沸き上がる歓声のなか、紘一はセカンドベース上に凛々しい顔で立ちベンチの次のサインにうなずいた。
    紘一と一緒にベンチのサインを見た4番バッターは、今度は身体をピッチャーに向け、今度こそ送りバントであると、バットを構えた。
    市立棚橋高校のベンチは、まさかこの場面ではスチールは無いだろうと思いながらも、とりあえずの牽制のサインを送った。
    そして1塁手を思いっきり前進させ、紘一を3塁で刺してやるという守備体形をとってきた。
    それをみた4番バッターは、バットの先を前に出し、3塁線へのバントをする準備を整えた。
    市立棚橋高校のベンチは、ピッチャーに思いきり3塁線に降りて来いと指示を送り、全ての準備を整えて2球目の投球モーションを開始した。
    と、次は絶対に牽制球が来ないと決めつけたような鋭いスタートを切った紘一が3塁に盗塁を始めた。
    「まさか!」
    と、市立棚橋高校のベンチも守備陣も無警戒のなか、紘一は3塁ベースに滑り込み、平然とひざ下についた土を右手ではらった。
    鮮やかな東庄高校の攻撃に球場は地鳴りのような歓声が沸き上がった。

    ノーアウト3塁。バッターカウントノーボール・ツーストライクとなった状況で、4番バッターは引き続き、バントの構えをした。
    ストライクを投げれば、セーフティスクイズもありますよ!という構えに、市立棚橋高校は、結局最後までストライクを投げることが出来なかった。
    ノーアウト1・3塁になり、続く5番バッターも同じようにストライクを投げれば、セーフティスクイズもありますよ!とバットを構えた。
    結局、5番バッターに対しても最後までストライクを投げることが出来なかった。
    そして、ノーアウト満塁、6番バッターも同じようにストライクを投げれば、セーフティスクイズもありますよ!と同じようにバットを構えると、もう、ボールを投げられなくなった市立棚橋高校のベンチは、バントをさせてホームでランナーを刺すという戦略をとって来た。
    「サード!ファースト! 突っ込め!と、ベンチの指示通り内野が前進してくると、バッターはバントの構えから普通の構えに戻し、コンパクトなスイングで外野フライを打った。
    結局、これを二回繰り返し、犠牲フライで東庄高校が2点を先制したのだった。

  • #233

    六輔 (月曜日, 14 10月 2019 22:48)


    準決勝は幕を閉じた。
    結局のところは、2-0で迎えた9回表2アウト、ランナー無しの場面で紘一がバッターボックスに立つと、ブーイングに耐えきれなくなった市立棚橋高校のバッテリーがベンチに“勝負させてください”と懇願したことにベンチが折れ、紘一との真剣勝負がようやく実現した。
    市立棚橋高校のエースと紘一との真剣勝負は、フルカウントまでいき、相手バッテリーは決め球に外角低めのストレートを選択した。
    そのボールを紘一がフルスイングし、真芯で捉えた打球がライトスタンド上段へと突き刺さった。
    今大会、紘一の5本目のホームランだった。
    3-0となって、その裏の攻撃を3人で抑えてゲームセットのときを迎えた。

    試合終了後、ホームベースを挟んで両校が整列し、挨拶を済ませると、互いの健闘をたたえ合うように両校の選手が歩み寄った。
    紘一が市立棚橋高校のキャプテンと固い握手をしていると、エースが紘一のところに握手を求めて来た。
    紘一は棚橋高校のエースと握手を交わすと、手を掴んだままこう言ったのだった。
    「9回、ワンストライクから投げたあのスライダーは俺には打てないよ!」
    『えっ?』
    「野球を続けてくれよ! 次、お前と対戦できるときがあったら、絶対にあのスライダーを打ってやるよ!」
    立棚橋高校のエースにとって、最高の誉め言葉だった。
    「すまなかったな、瀧野瀬」
    『どうして謝るんだよ』
    「だって・・・」
    『いつかまたどこかで対戦しような』
    「・・・瀧野瀬」
    市立棚橋高校のエースは溢れる涙を拭おうともせずこう言った。
    「絶対に甲子園に行けよ!」
    『あぁ。それが市立棚橋高校っていう強豪校に勝った俺達の責任だからな』
    最後に市立棚橋高校のエースは紘一にこう言った。
    「俺は・・・俺は瀧野瀬紘一という選手と同じチームで一緒に野球がやりたかったよ」と。

  • #234

    六輔 (火曜日, 15 10月 2019 21:52)


    準決勝の第一試合は、東庄高校が3-0で市立棚橋高校を破り、初の決勝進出を果たした。
    そして、その30分後には第二試合で残り一枠の決勝進出をかけた闘いが始まったのだが、それは、くしくも前年度の決勝戦と同じ組み合わせだった。
    前年度は、10年連続甲子園出場を目指す白進学院と10年ぶりの出場を目指す日大五校が戦い、6-3で日大五校が勝って10年ぶりの甲子園出場を果たしていた。
    白進学院が10年連続の優勝を逃したのにはいくつかの要因があったが、一番の要因はエースが育たなかったことだった。
    実は、2年前に東庄高校戦で初回、4番バッターの頭部へのデッドボール後に3連続押し出しファーボールで降板した水嶋投手は、その後、公式戦のマウンドに二度と上がることが無かったのだった。
    キャッチャーのインコースのサインにうなずくことが出来なくなり、結果、投手として一番大事なメンタルを立て直すことが出来なかったのだった。
    その年の甲子園メンバーからも外され、結局は、3年になって投手から外野手へと転向した。
    野手としての活躍は目を見張るものがあったが、やはり投手陣の水嶋投手の抜けた穴は大きく、日大五校の前に10連覇の夢を絶たれたのだった。
    「王座奪還」という白進学院の今年にかける意気込みは並々ならぬものがあった。
    しかも今年のチームは、中学時代にボーイズリーグで全国制覇をした選手など、鳴り物入りで白進学院に入って来たメンバー揃い。
    戦前の大方の予想では、白進学院が勝つだろうという声が多かった。

    先に勝ち上がった東庄高校の選手達は、一般人は入れない選手控室に陣取って準決勝を観戦することになった。
    場内アナウンスでスタメンが発表されると、先発投手は日大五校がエースであったのに対し、白進学院は10番を背負った選手だった。
    それを聞いた東庄高校の選手達は、
    「白進は明日の決勝に備えてエースを温存したのか?それで日大五校に勝てるのかよ」と、ざわついた。
    部員達が様々なことを言い出したことにキャプテンの紘一が口を開いた。
    「どっちが勝ちあがってこようが、誰が先発してこようが、明日は俺達の野球をするだけだ!」
    部員達のモチベーションを保つためにそう言った紘一だったが、本心はこう思っていたのだった。
    「監督さん・・・恩返しできるときがようやくきたんです。勝ち上がってきてくださいね」
    と、「白進に勝って甲子園出場」という夢を叶えるべく、白進学院にエールを送っていたのだった。

  • #235

    六輔 (水曜日, 16 10月 2019 21:21)


    準決勝第二試合は、点の取り合いの展開となった。
    白進学院がホームランと長打で点をあげれば、日大五校は犠打とタイムリーヒットで得点を重ねていった。
    そして試合は終盤、8回の裏、5-5の同点で迎えた白進学院の攻撃ワンアウト、ランナー3塁という場面を迎えた。
    と、それまで黙って試合を観戦していた紘一がポツリとつぶやいた。
    「ここはスクイズがあるかもしれないなぁ…あるとすれば初球だな!」
    それを周りで聞いていた部員たちはもちろん、監督までもが反論したのである。
    (大下)「おい、紘一!送りバントすらしない白進だぜ!しかもバッターは前の打席でツーベースヒットを打ってる選手だ。それに、確か白進の監督は10年以上スクイズのサインを出していないんじゃなかったっけ?」
    (紘一)「スクイズは、白進の監督になってから一度だけ・・・14年前にな」
    (監督)「おい、瀧野瀬…私もスクイズはさすがに無いと思うぞ!瀧野瀬が次の展開を読む力に長けているのは知っているが、さすがにここでのスクイズは…」
    と、監督が言っているさなかに、3塁ランナーがスタートをきり、バッターがバントの構えにバットを持ち換えた。
    (監督)「おい、嘘だろうーーー!!!」
    白進学院が、公式戦14年ぶりとなるスクイズを敢行、見事成功させて6-5と勝ち越した。
    目の前で起きた現実をどうしても解せない大下は真顔でこう言った。
    (大下)「なぁ、紘一・・・もしかしてお前…白進のサインを知ってんのかよ?」
    (紘一)「ばーか!ここから白進のベンチは見えねーだろうよ!」
    (大下)「・・・確かに」
    (監督)「おい、瀧野瀬・・・私も大下と同じことを考えたよ。しかし、どうしてこの場面でスクイズかもしれないっていう考えが浮かんでくるんだよ?私には信じられんよ。理由を聞いても理解出来ないかもしれんが、とりあえず聞かせてくれないか…瀧野瀬がここでスクイズかもしれないと思った理由を」
    (紘一)「はい、監督。一番の理由は、今のバッターが打席を追うごとにスイングが大きくなっていたことです。おそらくは前と後ろを打つバッターが両方ホームランを打っていたことで“自分も”という気持ちが働いていたんだと思いますけど」
    (監督)「バッターのスイングが大きくなっていったっていうことに気付くのもすごいが、どうしてスイングが大きくなっているとスクイズになるんだよ?それが私には解らんよ!」
    (紘一)「(笑)そこは自分も勘でしかなかったですけど・・・たまたま前の打席はヒットを打てましたが、スイングが大きくなれば詰まる可能性が高くなりますし…詰まれば平凡な外野フライで、タッチアップも難しい打球になります。白進の監督の性格を考えると、そんな場面で選手に無言のメッセージを送るような気がしたんです。『違うだろう!』というメッセージを。バッターはサインを見て驚いたはずですが、直ぐに理解したと思います。監督が何を言わんとしているのか。監督のメッセージに気付かず、「どうして自分に打たせてくれないんだ!」というような選手は、おそらくはスタメンから外されると思います。これが白進の強さです」

    キャプテンになった紘一は、部員達に口癖のように言っていたのだった。
    「野球は先を読んでプレイするからこそ面白いんだぜ!もし、その予想が外れたとしても、予想をしていたがために体が反応することだってあるんだ。俺達は頭を使った野球をしようぜ!」と。
    ただ、この時だけは紘一の話を聞いて誰もが思ったのだった。
    「この場面でそんな予想を立てられるのは、紘一しかいないよ」と。

  • #236

    六輔 (木曜日, 17 10月 2019 20:14)


    スクイズで1点を勝ち越した白進学院は、その8回の裏ツーアウトランナー無しからも攻撃の手を緩めず、結局はそのイニングに一挙7点をあげ、コールドゲームを成立させて試合を終わらせた。
    (紘一)「白進に決まりましたね、監督」
    (監督)「あぁ。瀧野瀬は入部してきたときから言っていたんだよな…“白進に勝って甲子園に行きたいです!”って」
    (紘一)「はい」
    (監督)「いやぁ、しかしあの場面でスクイズを決め、ツーアウトランナー無しから怒涛の攻撃で一挙7点・・・これが白進の強さなんだな」
    (紘一)「はい。野球は一つのプレイで試合の流れがガラッと変わることがありますからね。まさしくあのスクイズのサインが白進の選手全員に響いたんだと思います。それを引きだした白進の監督の力はやっぱりすごいと思います」
    (監督)「ふ~ん・・・そっか。そんなにすごいと思うのか、白進の監督の力は」
    (紘一)「えっ?・・・あっ、はい」
    (監督)「ふ~ん・・・そんなにすごいのかぁ・・・なるほどなぁ・・・あれっ?東庄高校の監督はどうなんだろうなぁ」
    (紘一)「えっ?あぁ・・・東庄高校の監督も素晴らしい監督ですよ!最大のピンチを迎えたときに、ただ一言“踏ん張れ!”という伝言をわざわざタイムをとって伝令に持たせて送ってくる監督なんて、全国どこを探してもいないですよ!」
    (監督)「なぁ、瀧野瀬・・・」
    (紘一)「はい」
    (監督)「今のは東庄高校の監督のことを褒めた言葉だよな?」
    (紘一)「もちろんですよ、監督!」
    そんな二人の漫才のような会話を隣で聞いて呆れ顔の大下がこう言った。
    (大下)「監督!それに紘一も!」
    (監督・紘一)「…はい…はい」
    (大下)「試合終わったんだから、早く学校に戻りましょうよ、監督!」
    (監督)「おぅ、そうだな!瀧野瀬が余計な話をするから大下君に叱られてしまったじゃないか!」
    (紘一・大下)「…はい、はい」
    そんな会話で緊張をほぐした東庄高校の選手たちは、その場で円陣を組んだ。
    (紘一)「明日は、俺達がずっと目標にしてきた白進戦だ。俺から言う事はただ一つ!明日も俺達の野球をやろう!」
    全員が凛とした表情で選手控室を後にしたのだった。

  • #237

    六輔 (金曜日, 18 10月 2019 20:41)


    白進学院との決戦の日を迎えた。
    3年後に国体開催を控え、そのために今年改修されたばかりの県営球場が、ほぼ満席になるほど観客が集まっていた。
    前年度、10連覇を阻止された白進学院が王座を奪還することが出来るのか。
    あるいは、創部以来、初めての決勝進出を果たした東庄高校の甲子園初出場となるのか、観客は固唾をのんで試合開始の時を待っていた。
    スタンドを見渡すと、例年の決勝戦とはどこか雰囲気が違って見えた。
    決勝戦は、その相手校がどこであろうと、多くの卒業生と多くのファンを持つ白進学院を応援する者が、観客席の7割以上を占めていた。
    だが、この日のスタンドの雰囲気は明らかに違っていた。
    それは白進学院のファンが減ったからではなく、ここ2年の東庄高校の活躍ぶりとそのフェアなプレイに、高校野球を愛するファンがこぞって東庄高校の応援に駆け付けていたからだった。
    東庄高校野球部を愛する、地元、東庄町の住民の半分以上が全校生徒と一緒になって1塁側応援席を埋め尽くしていた。
    中には、高校野球を観るために初めて球場に足を運んだという東庄町の住民もいた。
    「これが球場かい、広くて綺麗で…まっず、おったまげたない~」

    そして、そのことは本人は一切知らなかったのだが、NPB日本プロ野球セ・リーグから3球団とパ・リーグ3球団、計6球団のスカウトが瀧野瀬紘一をお目当てにネット裏に陣取っていたのである。
    試合開始前に、そのスカウト達はこんな会話をしていたのだった。
    「昨日の市立棚橋高校戦、9回の最後の打席で打った右方向へのホームランはすごかったぜ!」
    『えっ?昨日も来ていたのか?』
    「あぁ。実はな、一昨年のドラフトで指名した高田選手を観にきていたとき、瀧野瀬君が1年生で試合に出ていてな・・・なかなかセンスのいい選手だなって思って、その時からマークしてきたんだよ」
    『いやぁ、うちは全然ノーマークでさ…昨日、絶対に見ておいた方がいい選手がいるぜ!って情報をもらって急遽、駆け付けたんだよ。試合前のノックを観させてもらったが、守りはAランクだな。スローイングのフォームがいい!』
    「遠投125m、50m走5秒8だぜ!」
    『50m走5秒8? 速いことは認めるが、まぁ、俺はその50m走のタイムは眉唾ものだと思っているからな』
    「眉唾?どうしてだよ?」
    『だって、50m走の日本記録は100mで日本歴代4位となる10秒02の記録を持つ朝原選手の5秒75だぜ。世界記録保持者のウサイン・ボルトでさえ、5秒47だ。それが高校球児はこぞって5秒8だ、5秒7だって。野球選手がみんな申告通りのタイムを競技場で出せたら、100mで日本人が9秒台を出すのに、そんなに時間はかからないだろうよ!俊足のひとつの基準なんだろうけどな』
    「確かになぁ。野球の場合はストップウォッチを持った人間による手動測定。しかも1歩目が地面についた瞬間から測定をスタートする方法で測定することが多いからな。自分のタイミングで自由にスタートを切るんだから、精神的にも走りやすいし」
    『陸上界からすれば、どれだけ適当な数字を報じてくれてんだ、メディアさんたちよ!って、ところだろうな』
    「・・・そういうことだな」

  • #238

    六輔 (土曜日, 19 10月 2019 06:59)


    スカウト達は、試合前のキャッチボールを始めた紘一を目で追いながら話を続けた。
    「まぁ、走塁の数字のことはいずれにしても・・・瀧野瀬君のバッティングは、今大会、既にホームラン5本。しかもそれなりのピッチャーから左にも右にも、バックスクリーンにも叩き込んでるぜ」
    『ほぉ~あんなに線が細いのに、どこにそんなパワーを秘めているんだろうなぁ』
    「確かに線は細いな」
    『まぁ、体は、プロに入ってからプロで戦える体を作ればいいことだが…』
    「彼はセンスの塊だよ!まぁ、観ていれば分かると思うから教えるが、彼の守備位置を変えるセンスは天才的だよ。あれだけの洞察力と野球勘に長けた選手は、大学野球…いやっ、プロ野球の選手だって・・・あそこまで先を読んで守備位置を変えられる選手はいないよ」
    『へぇ~ そんなにすごいのか』
    「センター前ヒットだ!と思って内野を見ると、瀧野瀬君がいつの間にか守備位置をセカンドベースよりに変えていて、普通なら抜けていくゴロを意図も簡単にアウトにするんだよ」
    『ほぉ~ そりゃぁ今日の試合を観るのが楽しみになったな』
    「しかも守備位置を変えているのは自分だけじゃなく、おそらく彼からのサインで外野手が守備位置を変えているんだと思う。ついでに話すが、相手がいつ、どんな攻撃をしかけてくるかというのも、彼からキャッチャーにサインがいって防いでいるんだと思う。見事なまでに相手の攻撃を封じ込めてしまうんだよ」
    『相手の攻撃を?』
    「あぁ。盗塁はもちろん、普通であればバントと思うところでのエンドランを見抜いたり・・・これは、今日、球場スタッフから聞いた話なんだけど、昨日の白進学院の試合を東庄高校は選手控室で観ていたんだそうだ。で、8回の同点の場面で白進がスクイズをやってきたんだけど…」
    『えっ?白進がスクイズを?』
    「あぁ。公式戦で14年ぶりのスクイズだったそうだ。で、驚くのはここからなんだけど、試合を観ていた瀧野瀬君が『ここはスクイズかもしれない!』って、見抜いたのを、そのスタッフが一緒に観戦していて目撃したっていうんだよ」
    『どこの高校も、白進がスクイズをやるなんて考えもしないだろうよ。それなのに瀧野瀬君は見抜いたっていうのかよ』
    「あぁ、そうだよ」
    『白進がスクイズをやったのもすごいが、どうしてそれを見抜くことが出来たんだろうか』
    「俺も同じことを思ってそのスタッフに聞いたんだよ。そしたら、俺達と同じように球場スタッフも関心があって、瀧野瀬君が話したことを聞いたみたいなんだよ・・・瀧野瀬君が話したその理由を知りたいか?」
    『あぁ、もちろん!』

    球場スタッフの話を聞かされたスカウトは、あまりの驚きに言葉を失った。
    「なぁ、すごいだろう・・・瀧野瀬君の洞察力と野球勘は」
    『びっくりだよ。そこまで深く野球を観ているってことなんだろうなぁ。センスだけでプロ野球選手になれるほど、プロは甘くないけど、なかなかいないよな、そんな選手』
    「そうだな。まっ、この試合は白進学院の監督の采配対瀧野瀬君の頭脳!さしずめそんなところだな・・・おっ、試合始まるぞ!」

    プロのスカウト6名が見守る中、大歓声に包まれた球場で、決勝の火ぶたが切られたのだった。

  • #239

    六輔 (日曜日, 20 10月 2019 21:00)


    白進学院、1回表の攻撃。
    東庄高校、2年生エースの君島投手が投じた初球145㎞のストレート。
    白進学院の先頭打者がフルスイングすると、打球はライナーでレフトスタンドに吸い込まれていった。
    試合が始まって僅か15秒。
    試合開始を告げるサイレンが鳴り止まぬ中、バッターは特に喜ぶ素振りも見せずに平然とダイヤモンドを一周していた。
    どよめく球場の中、茫然とレフトスタンドを見つめ、立ち尽くす君島投手のところに紘一が歩みよった。
    「見事に打たれたなぁ…」
    『すみません、キャプテン』
    「お前も全然成長してないなぁ・・・」
    『細心の注意を払って投げたつもりだったんですけど・・・すみません』
    「ば~か!違うよ(笑) 打たれたことを俺に謝ったってしょうがねーだろうって、何回教えたら覚えるんだよ。相手は白進だぜ!打たれたって何の不思議もねーだろうよ。大丈夫だ、うちはみんなで繋いで点を取るまでだ!」
    『はい』
    「緊張してないんだよなぁ?・・・あれ? 60歳のセーラー服お婆ちゃんの話、聞かせたよな?」
    『はい。東庄高校野球部の大切な逸話として、しっかり後世まで伝えるんだぞ!って、教えてもらいました…でも・・・』
    「うん?でもってなんだよ?」
    『自分には、どうしても分かんないんです』
    「何が?」
    『60歳のセーラー服お婆ちゃんって、どんな人なのか…全く想像がつかないんです。だって、60歳なんですよね?しかも夏用って・・・セーラー服って、可愛い女の子が着るものですよね? なんで60歳にもなって着たんですか? 周りの人は止めなかったんですかね?ところで本当にいたんですか?そんなお婆ちゃんが…」
    「それが本当にいたんだ。これは実話なんだよ! そのお婆ちゃんは50歳のときに秋・冬用のセーラー服を着て同窓会に参加したんだ。可愛い、可愛いって、同級生におだてられて気を良くしたお婆ちゃんは、次の55歳の同窓会の時には今度は夏用を着たいって言いだして・・・ただ、その時は周りの強い反対にあって着られなかったんだそうだ。『今回はしっかり食べるコンセプトだから!』って言われて。その時は、同級生が生花のコサージュを作ってくれて、それでどうにか納得して同窓会に参加したんだけど・・・あっ、そのことがきっかけでフラワーデザイナーになりたいと思って一念発起。56歳になったとき、公益社団法人フラワーデザイナー協会の三級デザイナー試験に見事に合格したんだ」
    『フラワーデザイナー?・・・セーラー服と関係ないんじゃ?』
    「そうだけど…もし、セーラー服の話を決勝戦のマウンドで話してたってことがバレたら、あとで何されっか分かんねーから…そういう情報もちゃんと入れておかねーと、耳つかまれて引きずり回されるだけじゃ済まねーかもしんねーし…って、話を戻すぞ! 55歳の同窓会の時にセーラー服を着れずに本心は寂しかったんだろうな。それで次の60歳の同窓会のとき、失意のお婆ちゃんは最終手段に打ってでたんだよ。“夏用のセーラー服が着れないんだったら、私は同窓会には出ない!”って。幹事会でゴネたんだとさ。まさにリーサルウェポン発射!だよな」
    『そんなぁ・・・』
    君島投手は、マウンド上で言葉を失った。

  • #240

    六輔 (月曜日, 21 10月 2019 20:56)


    君島投手は、紘一の話に涙ぐんでいた。
    『お婆ちゃんは、どうしても夏用のセーラー服が着たかったんですね。自分はそれを止めなかった周りの人が偉かったんだと思います。どんなお婆ちゃんなのか、会ってみたくなりました。きっと、とても可愛いお婆ちゃんなんでしょうね。とてもいい話です、キャプテン!』
    「そうだな・・・って、あれ? ここは感動して涙するシーンじゃなくて、笑いで緊張をほぐす場面のはずだぜ!」
    『笑いで? そんな一生懸命なお婆ちゃんを笑うことなんて自分には出来ません! でも、そんな感動実話を聞かせてもらったおかげで、緊張が解けた気がします、キャプテン』
    「そっか…まぁ、とにかくこの回は踏ん張れ!・・・って、あれ?・・・踏ん張れ?・・・そんなアバウトなアドバイスじゃ、どこかの監督みたくなっちまうな。まぁ、細かいことはいいだろう! とにかく決勝戦を楽しもうぜ!気楽に投げれば力みもとれて、お前本来の伸びのあるストレートがいくようになるさ!」
    『はい、キャプテン!』

    「あっ、あと一つ言っておくぞ、君島」
    『何ですか?』
    「今日は地上波のテレビで、いま、生放送中だからな!60歳のセーラー服お婆ちゃんを思い出して、ニヤけるなよ!それと、次打たれても情けねー顔すんなよ! じゃぁな!!」
    『・・・はい』
    余計なテレビのことまで話して、ショートのポジションに戻っていく紘一の背中を見ながら君島投手はこう言った。
    『1年半付き合ってきましたけど、キャプテンって優しいんですか?それとも本当は全然優しくないんですか?本当に時々分かんなくなります。だけど・・・不思議なのは、キャプテンと話すと落ち着くんですよね。とにかく大好きな野球を楽しみたいって、そう思えるんですよね。俺はキャプテンと野球がやりたくてこのユニフォームを着ようって決めたんです。だから・・・だから俺は・・・俺は、絶対にキャプテンと一緒に甲子園に行きます!』
    そう言って前を向いた君島投手の表情は、勇気に満ち溢れた表情に変わっていた。

  • #241

    六輔 (火曜日, 22 10月 2019 17:53)


    紘一の適当なアドバイスが効いたのか、その後の君島投手のピッチングは、本来のボールのキレと、抜群のコントロールを取り戻し、白進学院の強力打線を抑えていった。
    君島投手は、球威でグイグイ押すタイプではなく、打者との駆け引きと制球力で打たせて取るタイプ。
    よって守備力が重要になる。
    決勝に進んだ白進学院と東庄高校は、両校とも守りには絶対の自信を持っていた。
    さらに東庄高校のこの3年間は、高校生らしいプレイで観客を魅了してきた。
    どんな場面でも全力疾走、攻守交代も全力で、ベンチでは一切のヤジを飛ばさない。
    東庄高校のフェアなプレイで一番顕著だったのは走塁だ。
    例えば、セカンドランナーがリードする際には、ショートを守る選手がセカンドベースに牽制に入りづらくするために、2塁ベースと3塁ベースを結ぶ直線上よりも後ろにリードするのが普通なのだが、東庄高校の選手は決してそれをしない。
    守りの邪魔をするのはフェアじゃないと考えるからだ。
    また、東庄高校の選手は決してガッツポーズをしない。
    相手校のプライドを傷つけるようなことはしないと考えてのことだ。
    ガッツポーズをしない、ようは試合中に一喜一憂しないでプレイすることで、試合中の物事を冷静に見て、プレイに繋げているのだ。
    試合中は常に精神状態が一定に保たれている。
    「プラス思考」とはまた少し違うメンタリティーだ。
    相手に点を捕られたから、こっちが点を捕ったからと浮き沈みしない。
    1つのプレイではなく、ゲームに勝って喜ぶ。
    ヒットを打って喜んでしまえばそれは油断につながり、打てなくて落胆すれば次のプレイの精度を下げてしまうことを知っているのだ。
    時折、甲子園で三振を奪うたびに派手なガッツポーズと雄叫びをあげる投手を見かけることがあるが、観ている私にはただ鬱陶しく感じ、そういうことをさせている監督の見識を疑うことがある。
    ちなみにだが、剣道では試合中のガッツポーズ禁止のルールがあり、実際にそれで「一本勝ち」が取り消しになった例もあるのだ。
    東庄高校の選手たちのフェアな野球スタイルは、高校野球が教育の一環であるということを思い出させてくれるものだった。

  • #242

    六輔 (水曜日, 23 10月 2019 21:02)


    両校のスピーディーな野球は、白進が初回先頭バッターのホームランであげた1点をリードしたまま1-0で5回を終えた。
    5回を終了して、白進学院が初回のホームランを含む散発3安打。
    それに対して東庄高校は、紘一の2打席連続ツーベースヒットの2本だけ。
    打線が湿っていたという訳ではなく、それだけ両チームのエースが見事な投球をしていたのだった。
    両チームの監督とも、勝負は終盤だと考えていた。
    ピッチャーの球数によっては、継投を考えていた白進に対し、東庄高校は君島投手が5回を投げてまだ60球しか投げていないことに、継投は考えず完投を目指していた。

    グランド整備が行われている間のインターバル。
    東庄高校はベンチ裏に入り、監督を囲んで円陣を組んでいた。
    (監督)「ここまで互角の戦いだ。勝負は終盤!必ずチャンスが来る。集中して行こう!」
    (全員)「はい!」
    (監督)「キャプテンから何かあるか?」
    (紘一)「はい、監督。これからの守備位置の指示を出してもいいですか?」
    (監督)「構わん!キャプテンの思う通りに話してくれ!」
    (紘一)「はい」
    紘一は、監督に許可をもらって守備位置の話を始めた。
    「ここまで君島が本当によく投げてくれている。白進は初回にホームランであげた1点だけで追加点を獲れずにいることに、このまま“すみイチ”ではまずいと考えているはず。これから打線も3廻り目に入って、これまでとは違ったバッティングに変えてくるはずだ。一番確率が上がってくるのは、コースに逆らわないバッティングだ。センターを中心に、右バッターであればライト方向に、左バッターであればレフト方向に打ってくると思う。外野は、バッターとコースによって思いきり守備位置を変えてくれ。特に左バッターの時には、思いきり3塁線によって守ってくれ。もし、うちの極端な守備位置を見て、窮屈なバッティングをしてくるようなら、こっちのもんだが、白進の監督は窮屈なバッティングを極端に嫌う監督だ。コースに素直なバッティングを必ず指示してくるはずだから、バッテリーは、とにかくコントロールに気を付けて、打たせて打ち取ることだけを考えて投げてくれ。あとは必ず俺達が守る!」

    後半に向けて守備位置の確認をした東庄高校。
    残り4イニングに全てをかける選手達の気持ちは一つに結束した。

  • #243

    六輔 (木曜日, 24 10月 2019 20:26)


    グランド整備が終わり、6回表、白進学院の攻撃に備えて東庄高校のナインがそれぞれの守備位置についた。
    ショートのポジションについた紘一は2年前の白進学院との試合を思い出していた。
    「あの試合も6回だったよなぁ・・・」
    3-0と3点をリードして迎えた6回表にいきなりの3連打を浴び、その年のドラフトで2位指名を受けた高田選手に打たれた逆転満塁ホームラン。
    そのシーンをずっと忘れずに、次、白進学院と戦うときには、二度と同じ轍を踏まないと心に留めてきた場面だ。
    紘一は「ふっ」と、息を吐き力強くつぶやいた。
    「ここが勝負どころだ!」
    と、振り向いてレフトに何気なくサインを送ると、紘一のサインにうなずいたレフトは、守備位置を大きく変えた。
    君島投手が投じた外角ストレートを左バッターがはじき返した。
    「カキーン!!!」
    低いヒット性の当たりがレフトへと飛び、飛んだコースを見たバッターは、ヒットを確信して走り出した。
    だが、1塁ベースを回ったところでレフトがライナーをキャッチしていることを認知したバッターランナーは、力なく走るのをやめた。
    「おい…嘘だろう」
    球場で観ていたほとんどの人がヒットだと思った打球のその先に、既にレフトが待ち構えていたことに白進学院のベンチも驚きを隠せなかった。
    「おい、いつの間にあんな極端な守備をとっていたんだよ」

    続くバッターが3球目を強く打ち返すと、真芯でとらえたヒット性の打球が三遊間に飛んだ。
    と、次も同じようにそのヒット性の打球のその行き先を予め知っていたかのように、三塁手が大きく左によって、普通であれば三遊間ヒットとして抜けていくその場所で待ち構えていたのである。
    「おい、嘘だろう!」と、まるで前のバッターの再現フィルムを再生したかのようにバッターランナーは落胆し、「アウト!」とジャッジする1塁審判を恨めしそうに眺めた。

    ネット裏で観ていたプロのスカウト達も、目の前で起きている現実に驚きを隠せなかった。
    「これが、高校生の守りなのかぁ」
    『いやぁ、瀧野瀬君の洞察力と野球勘のことは先に聞いていたけど、ここまですごいとはなぁ、驚いたよ。確かに今のポジショニングは、ショート瀧野瀬君の指示だったよな。あそこまでサードが三塁線を空けたら、長打コースを作ることになってしまうからと、ほとんどのチームはやらない守りだよな。だが東庄高校は・・・あそこまで極端な守備位置に変えるからには、何か、根拠があるはずだよな。“野球勘”だけで片づけられる話じゃないよ』
    「確かになぁ…例え、根拠があるとしても、あそこまで極端に変えるんだから、勇気が必要だよな」
    『リスクの高い守り方だからな。だが、現実こうしてアウトにしているんだからすごいとしか言いようがないよ。こんな守りを本当に高校生がやるとはなぁ』

  • #244

    六輔 (金曜日, 25 10月 2019 07:00)


    6回表もツーアウトになり、プロのスカウト達は紘一の動きの全てに注目していた。
    『おい、今、瀧野瀬君が右手を後ろに廻したのは、外野手に守備位置のサインを送ったんじゃないのか?!』
    「たぶんそうだろうな」
    『おい、本当かよ!』
    と、ライトを守る選手が1塁線よりに移動し、極端に前進守備をとったのである。
    「おい、しかもセンターは左中間よりだぜ!あれで右中間を抜かれたら、この足の速いバッターなら下手したらランニングホームランになっちまうかもしれないぜ!」
    と、言ったその次の瞬間だった。
    『・・・まじか』
    力なく詰まった打球がライト前に上がったのである。
    前進守備をとっていたライトはそのフライをなんなくキャッチした。

    プロのスカウト達はあまりの驚きに固まっていた。
    「なぁ・・・普通の守備位置なら、3本ともヒットになっていたよな」
    『あぁ、間違いなくヒットだったな。今の浅いフライがライト前ヒットになって1点、さらにノーアウト1・3塁になっていただろうな』
    「だよな! ところで東庄高校は、これまでこんな極端な守備位置をとっていたか?」
    『いやっ、俺は気が付かなかったぞ。これだけ極端に守備位置を変えていたら、間違いなく気づいたはずだよな』
    「そうだよなぁ・・・ということは、この6回から極端な守備位置をとるようになって、しかもこの6回から東庄高校の…いやっ、瀧野瀬君の考えた通りの打球が飛んで、ヒット性の打球を全部アウトにしたっていうのか?」
    『・・・そういうことになるよな』

    プロのスカウト達がそんな会話をしている目の前を、東庄高校のナインが守備位置から全力疾走で帰ってきた。
    「なぁ・・・」
    『うん?』
    「東庄高校はさ、王者白進学院を相手に、決して気負うこともなく、ただ純粋に野球を楽しんでいるようだよな」
    『そうだなぁ。負けているにもかかわらず、“絶対に勝って甲子園に行くんだ!” “絶対に負けられないんだ!” っていう、どこか悲壮感のように感じてしまうような、そんな雰囲気は微塵もなく、ただ純粋に・・・大好きな野球を楽しんでいるんだろうな』
    「いろんなところで高校野球の決勝戦を観てきたけど、こんなさわやかな気持ちで観れたことは一度もなかったよ。実話をぶち込んできた奴に熊の引きずりスタンプを三連続で送りつけてやってスッキリ出来た気分だよ。この試合、どちらが勝つのかは野球の神様だけが知っているんだろうけど・・・なんか両チームとも頑張ってくれ!って、そう思える試合だな」
    『ここまでフェアな野球で、しかも勝負に出たかのように、いきなり極端な守備位置をとって見事にアウトにしてみせる。こんな観ているものが楽しくなるような野球・・・これを高校生がやっているんだから恐れいったよな』

  • #245

    六輔 (土曜日, 26 10月 2019 19:15)


    東庄高校の選手たちは、ベンチ前で監督の指示に「はい!」と、大きく応えると、今度は紘一を中心に円陣を組んだ。
    (紘一)「6回の守りは、監督の言った通り“攻撃の流れは守りから作る”という東庄高校の野球が出来たんだ。この回、1番から始まる攻撃だ。これだけたくさんの人が観てくれているんだから、俺たちの野球を観てもらおうぜ!」
    (全員)『ヨッシャー!!!』

    6回の裏、東庄高校の攻撃が始まった。
    トップバッターは、サードを守る3年の度井垣(ドイガキ)だ。
    バッターボックスに向かう度井垣に紘一が声をかけた。
    (紘一)「お前の好きなように打って来いよ、度井垣!」
    (度井垣)「あぁ。絶対に紘一の前にチャンスを作ってやるよ!」
    そう言って、左のバッターボックスに立った度井垣は、ファーストとセカンドが極端に後ろに引いて一二塁間を狭く守っていることに気づいた。
    (度井垣)「二打席とも、引っ張ってゴロを打っていたからな。ちょっと長打を狙いすぎていたよな。と、それを反省して、そっちがその気なら…」
    と、ベンチにいる監督と視線を合わせると、監督は“お前の好きにしろ”と言わんばかりに笑みを浮かべて二度うなずいた。
    度井垣は、心の中でこうつぶやいた。
    「ありがとうございます、監督。では、やらさせていただきます!」
    と、言いながら投じられたボールに、バットを合わせた。
    「コン!」
    見事なセフティー・バントが1塁線ギリギリに転がった。
    白進学院の内野陣は不意を突かれ、猛ダッシュで突っ込んできたが「捕っても間に合わない!」と諦め、転がされたボールがファールゾーンに切れることだけを願ってボールを見守った。
    ボールが止まったのは、ライン上だった。
    ボールが止まったのを確認した主審が「フェア!」とジャッジし、ファーストがボールを掴んだ。
    「ウォー!!!」という地鳴りのような歓声と、ベンチからの「ナイスバントー!!」の声に、度井垣は軽く笑みを浮かべて応えた。

    プロのスカウト達は、興味津々に東庄高校の攻撃を待った。
    「ここはバントだろうなぁ」
    『まぁ、定石から言えばそうだろうけど…』
    と、そんな会話をしていると、2番バッターのセカンドを守る戸野間(トノマ)が、ベンチのサインにうなずき、バットをバントの構えに持ち換えた。
    「やっぱりバントかぁ…」
    と、それは初球だった。
    1塁ランナーの度井垣がピッチャーの投球モーションに合わせてスタートをきり、戸野間はバットを普通に持ち換え、きたボールを強くたたくと、打球は右中間に飛んでいった。
    「まじか!」
    初球のバスターエンドランにプロのスカウト達も愕然とした。
    だが、その次の瞬間にはもっと信じられないことが起きたのである。

    因みにだが・・・
    その起きたこととは、アフリカ大陸の東、西インド洋に浮かぶマダガスカル島から仲間が日本に帰ってきたので、みんなで集まってアツアツ“湯気”たっぷりの“おでん”を食べようと計画していたが、残念なことに台風19号(ハギビス)の残した爪痕の影響で中止せざるを得なかったという話、ちょいちょい実話と時事ネタをぶち込みながら進むこの物語の悪い癖、それではない。

  • #246

    六輔 (日曜日, 27 10月 2019 22:52)


    ヒットエンドランが見事に成功した。
    戸野間の打った打球が、ヒットとなって右中間を転々としているのを見て、度井垣はセカンドベースを廻って3塁に向かった。
    だが、ベースを過ぎて直ぐに「しまった!」と、慌ててブレーキをかけ、踏みはぐってしまったセカンドベースに戻ったのである。
    度井垣は、セカンドベースを踏み直して直ぐに外野手の位置を確認すると、センターが既にボールに追いついていて、それからスタートしても間に合わないと判断した度井垣は、セカンドベース上で止まってしまったのだった。
    一番慌てたのは、その度井垣の行動を知った戸野間だった。
    「まじづらか?」
    と、セカンドベース近くまで走っていた戸野間は慌てて1塁に戻った。

    その光景を目の当たりにしたプロのスカウトの一人がこうつぶやいた。
    「おい、おい何やってんだ、東庄高校! そんな走塁をしていたんじゃ白進学院から点を獲ることなんて絶対に無理だぜ!」
    と、吐き捨てるように言ったその言葉に、紘一を追い続け、東庄高校の試合を何試合も観てきたスカウトがこう言ったのである。
    『今の度井垣君の走塁は、わざとベースを踏まなかったのかもしれないぜ!』
    「はぁ? わざと? そんなはずないだろうよ。エンドランが見事に決まって、ノーアウト2・3塁のチャンスになるところだったんだぜ! それをわざとベースを踏まずに戻るなんて、あり得ないだろうよ!」
    『まぁ、自分には度井垣君がセカンドベースを踏むその瞬間に歩幅を広くしたように見えただけだから、何とも言えないけどな…』
    「えっ?・・・それ本当か?」
    『まぁ、気のせいかもしれないけどな。ただ単に、歩幅が合わなかっただけかもしれない』
    「でも、わざと踏み外すことなんてあり得るかぁ」
    『もしさぁ、お前が白進学院の監督だったとしたら、ノーアウト2・3塁で2打席連続ツーベースヒットを打っている3番バッターの瀧野瀬君を迎えてどうする? 勝負するかい?』
    「えっ?・・・いやぁ、おそらくは瀧野瀬君との勝負は避けて満塁策を取るだろうな。この場面であれば、満塁策を取るのに“卑怯だ!”とブーイングを受けるような戦法でもないだろうし」
    『だろうな、自分もおそらくはそうするよ。瀧野瀬君と勝負するからには失点を覚悟しなきゃならないからな。最低でも1点。ヒットで2点・・・ホームランでも打たれようものなら3失点だ』
    「そういうことになるな」
    『ノーアウト満塁は点数が入らないと言われるよな。しかもこの試合の東庄高校の4番・岩城(イワキ)君、5番・里奈科(サトナカ)君、6番・犬飼(イヌカイ)君の3人とも、白進学院のピッチャーに完璧に抑えられている。スクイズという戦法もあるだろうけど、満塁ならホースアウトに出来るし、なにより白進のピッチャーのフィールディングの良さは折り紙付きだからな』
    「確かになぁ・・・でも、そのことを咄嗟に判断して、今みたいな走塁が出来るもんかぁ・・・彼たちはまだ高校生だぜ…」

  • #247

    六輔 (月曜日, 28 10月 2019 21:13)


    プロのスカウトが、セカンドベースに視線をやると度井垣がベースに立って「ゴメン」という仕草をネックストバッターの紘一に送っているのが見えた。
    そんな光景を見ながらスカウトは話を続けた。
    『東庄高校の野球ってさぁ、なんか面白いんだよなぁ。観ていてこっちがワクワクするっていうか・・・昨日の準決勝、瀧野瀬君はずっと敬遠ぎみのファーボールでさ、終盤、0-0の場面で回の先頭バッターのときも瀧野瀬君は歩かされて。球場は異様な雰囲気さ。そりゃぁそうだよな!観てる方からすれば卑怯だ!ってなるよな。でも、瀧野瀬君はふてくされることもなくバットを丁寧に置いて1塁に歩いたんだ。そこからの野球が見事だったんだよ。ほぼバントだろうという場面で、瀧野瀬君が2盗、3盗を決めてさ・・・結局、そのイニングは犠牲フライで2点を獲ったんだよ』
    「なるほどなぁ」
    『瀧野瀬君ばかりが注目されているけど、東庄高校の他の選手たちの野球勘もすごいよ。中距離ヒッターの度井垣君が、まさかセフティー・バントをしてくるとは白進学院も全く読めなかったんだろうな。おそらくは度井垣君自信のアイデアだったはずだよ。それに初球からバスターエンドラン。あれもおそらくは度井垣君からのサインをベンチが認めての攻撃だよ』
    「えっ?そうなのか?」
    『あぁ、おそらくな。東庄高校の試合を何試合も見ていて、なんとなくそう感じるんだよ。選手達が自ら考えて、ベンチで監督さんは“お前達のやりたい野球をやれ! 責任は監督がとる!”みたいなさ。白進もエンドランは少しは頭にあったんだろうけど、まさか初球にしかけてくるとは。白進学院のお株を奪う攻撃だったよな。さぁ、そして今の場面だよ。おそらくだけど、セカンドランナーの度井垣君は、あらかじめシミュレーションしていたんだと思うよ』
    「えっ?あらかじめ? どんな風に?」
    『エンドランの打球が外野を抜けて、ホームまで帰ってこれる当たりなら普通のベースランニングを、そしてもし、2・3塁で止まるような当たりなら、わざと踏み外してセカンドベースに戻る!って、あらかじめな』
    「だとしたらさぁ・・・」
    『そうだな。瀧野瀬君への信頼度は半端ないってことになるよな。瀧野瀬なら絶対になんとかしてくれる!ってさ。さすがにノーアウト1・2塁では、瀧野瀬君を敬遠して満塁にする訳にはいかないだろうからな。絶対に勝負してくるから、絶対に打てよ!って。これを高校生がやっているんだとしたら、すごいよな。でも、東庄高校の選手たちなら・・・決して不思議なことじゃないさ』
    「点数の入る確率が一番高い策を選んだ!っていうことなんだな」
    『そういうことだよ。野球は確率のゲームだからな』
    「これまでたくさんの決勝戦を見てきたけど、こんな観てて楽しい野球、ワクワクさせられる野球は久しぶりだぜ!」
    『いずれにしても楽しみだ。この試合を大きく左右する場面だからな』

  • #248

    六輔 (火曜日, 29 10月 2019 20:10)


    白進学院が要求したタイムが解かれ、マウンドに集まっていた内野陣もそれぞれのポジションに戻っていた。
    応援席では、東庄高校全校生徒が、肩を組んで左右に体を振りながら応援を続けていた。
    主審が紘一にバッターボックスに入るよう目で合図を送ってきたことに、紘一はヘルメットのツバに軽く触れ、静かにうなずいてバッターボックスに立った。
    白進学院バッテリーは、初球に外角に外すストレートを投げてきた。
    「ボール!」
    紘一は、ベンチに視線を送りサインを確認すると、監督の「好球必打」を意味するジェスチャーに二度うなずき、視線をピッチャーに向けた。
    白進学院バッテリーが二球目に選択したのは、外角のスライダーだった。
    紘一は、打ちに行ったが、途中でスイングを辞めた。
    「ストライーーク!!」
    そして三球目。白進学院バッテリーが三球目に選択したのは、インコースのストレートだった。
    詰まらせてゴロを打たせ、ダブルプレイを狙ったボールに、紘一は素早く反応した。
    両肘をたたんで、うまく捕らえた打球がレフトへ飛んだ。
    だが、コースギリギリに入ってきたインコース148キロのストレートをフェアゾーンに打つことは出来ず、ライナー性の打球はファールゾーンに落ちた。
    「ファール!!」
    3塁審判のジャッジに、球場全体がどよめいた。
    ここまではファールを打たせてカウントを稼ぐという、白進学院バッテリーの計算通りだった。
    そして四球目は、外角のストレートがボール1つ外れた。
    「ボール!」
    そして白進学院バッテリーが勝負の5球目に選択したのは、外角を出し入れする今度は外角いっぱいに入るストレートだった。
    「カキーン!!」
    紘一は、コースギリギリに投げられた最高のボールをファールするのが精一杯だった。
    「ふぅ」と息を吐き、6球目を待った。
    フルカウントにしたくない白進学院バッテリーだったが、勝負にスライダーを選んだ。
    コースギリギリから鋭く変化したボールが、キャッチャーの構えていたミットにそのまま納まった。
    紘一は、自信を持って見送って主審のジャッジを待った。
    「ボール!」
    ノーアウト1・2塁、スリーボール・ツーストライクになった。
    白進学院のピッチャーは、自身を落ち着かせようとマウンドに置いてあるロジンバックを手に取った。
    ポンポンと利き手にロジンを使い、それを丁寧に元の場所に戻すと、自分のところに打球が来たときのダブルプレイの手順を確認するように、自分と、そしてショートを指さして互いにうなずいた。

    球場全体が、白進学院と東庄高校の中心打者との真剣勝負に酔いしれ、勝負の7球目を固唾をのんで見守っていた。

  • #249

    六輔 (水曜日, 30 10月 2019 20:56)


    紘一は、ベンチにいる監督と視線が合うと、何気なくヘルメットのツバに右手を添えた。
    それに気づいた監督は、肩を上下させ「肩の力を抜け!リラックスだ!」というジェスチャーの最後に“パン”と両頬を両手で叩いて「行けー!」と右手を外野方向に大きく振った。
    白進バッテリーが勝負の7球目のサインを決め、2塁ランナーを目で牽制し投球動作を開始した。
    と、2塁ランナーの度井垣と1塁ランナーの戸野間が一斉にスタート切ったのである。
    「えっ?!」
    球場にいた誰もが驚くような場面でのランナーのスタートだった。
    そう、紘一がヘルメットのツバに右手を添えたのが監督へのサインであり、監督が“パン”と両頬を両手で叩いたのがランナーへのフラッシュサインだったのである。

    「エンドランだ!」
    と、白進学院の守りが気づいたその次の瞬間だった。
    「カキーン!!!」
    紘一が振りぬいたバットの真芯で捕らえた打球が右中間に飛んでいった。
    外野手が紘一の打球を捕球すれば、トリプルプレーにもなりかねない打球だった。
    だが、既にスタートを切っていた二人のランナーには、一切の迷いがなかった。
    「抜ける!」
    そう決めて二人のランナーは、打球を見ることなく走り続けていた。
    歓声が沸き上がる中、紘一の打った打球は失速することなく右中間を破ると、その間に度井垣に続いて戸野間が逆転となる2点目のホームベースを踏んだ。
    打った紘一は、2塁に足から滑り込み、戸野間がホームインするのを確認すると、立ち上がってユニフォームについたグランドの土を右手で払った。
    球場は歓声と悲鳴とが入り交じり、興奮のるつぼと化していた。

    目の前で繰り広げられた東庄高校の攻撃に、プロのスカウトはこう言った。
    「度井垣君はこうなることが分かっていて、それでわざとベースを踏み外したっていうことか?」
    『さぁなぁ・・・真実は彼達しか分からないからな』
    「今のエンドラン、どう思う?」
    『絶対に三振をしないっていう自信がなかったら、出せるサインじゃないよな。普通じゃエンドランは考えにくい場面だよ。だが、1塁ランナーの戸野間君まで返すためにエンドランを選択したんだろうな』
    「そういうことかぁ。瀧野瀬君のところで逆転までしたい! そういうことだな」
    『あぁ。このエンドランのサインも瀧野瀬君が考えたのかもしれないな』
    「本当かよぉ~ 高校生がこの場面でエンドランのサインを出せるか? 自分が三振したら一巻の終わりだぜ! そんな責任重大なリスクのあるサインを・・・失敗することなど全く考えもしないっていうことなのか」
    『おそらくはたくさんの失敗を繰り返してきて、たどり着いた今の自分のいる場所で精一杯のプレイをしたいと、そう考えているだけなんだろうな。これが東庄高校の野球・・・瀧野瀬紘一だよ』

  • #250

    六輔 (木曜日, 31 10月 2019 20:57)


    甲子園出場をかけた決勝戦は、6回裏、紘一のタイムリーで東庄高校が2-1と逆転し、それ以降は両チームとも得点をあげることが出来ず、東庄高校が1点をリードしたまま9回表白進学院の攻撃、ツーアウト・ランナー2塁の場面を迎えていた。
    あとワンアウトをとれば東庄高校の甲子園初出場が決まる場面まできたが、白進学院のねばりで一打同点の場面を迎え、たまらず東庄高校ベンチがタイムを要求した。
    監督からの指示を受けた伝令が全力疾走でマウンドに向かっているのを見て、紘一が先に話し始めた。
    (紘一)「なぁ、君島・・・」
    (君島投手)「はい、キャプテン」
    (紘一)「この場面で、監督は伝令を使って何を言ってくると思う?」
    (君島投手)「えっと…逆転のランナーを出さずに、このバッターで勝負だぞ!っていうことと、あとは球種とか、コースとかバッターの攻め方を伝令に伝えたんじゃないですか?」
    (紘一)「君島・・・それ多分間違いだよ」
    (君島投手)「えっ?」
    (紘一)「ほらっ、伝令が来たからみんなグローブで口元を隠せよ!」
    (君島投手)「はっ?」
    (度井垣)「早くキャプテンの言う通りにしろよ!」
    (君島投手)「何でですか?度井垣先輩」
    (戸野間)「いいから早く言う事を聞くづら!!」
    (君島投手)「戸野間先輩までぇ…わ、分かりました」
    マウンド上で会話を口の動きで悟られないようにグローブで口元を隠した内野陣。
    (紘一)「さぁ、準備は出来たぞ! 話してみ! 監督は何て言ってた?」
    (伝令)「そ、それがぁ・・・」
    (紘一)「言い難いのか?」
    (伝令)「…はい」
    しびれを切らしてファーストを守る犬飼が、こう言った。
    (犬飼)「可哀相だから紘一が代わりに言ってやれよ!」
    (紘一)「分かったよ。監督は、こう言ったんだろう? ただ一言・・・踏ん張れ!って」
    (伝令)「…はい、それだけ言われてきました」
    (君島投手)「は、はい!って・・・な、なんですかそれ?踏ん張れって、しかもそれだけって・・・決勝戦のこの場面で、伝令にわざわざ伝えさせる伝言なんですか?それが」
    紘一と度井垣と戸野間と犬飼の3年生部員は目を閉じて同時にうなずいた。
    「・・・うん」
    (君島投手)「先輩達は知ってたんですか? こういう場面で監督が伝令に伝える内容を」
    「・・・うん」
    (君島投手)「もしかして、先輩達は笑いを堪えるためにグローブで口元を隠しているんですか?」
    「・・・うん」
    (君島投手)「キャプテン・・・」
    (紘一)「なんだ、君島」
    (君島投手)「自分は、先輩達を本当にリスペクトしています」
    (紘一)「おぅ~ 英語でカッコいいな」
    (度井垣・戸野間・犬養)「おぅ~カッコいい、カッコいい」
    (君島投手)「だけど、時々分からなくなるときがあるんです」
    (紘一)「何が?」
    (君島投手)「どこまでが真面目で、どこからがふざけているのか・・・時々分からなくなるんです」
    (紘一)「バカだなぁ…俺たちはいつでも真面目さ! 君島、よく考えてみろ。あと一人を抑えれば甲子園だ!っていう場面で、伝令が飛んできて“絶対に抑えろ!抑えなかったら承知しねーぞ!”って、言われたらどうだ?」
    (君島投手)「えっ?・・・」
    (紘一)「監督は、いつでもそうさ。最後の責任は俺が取る!だからお前たちのやりたい野球をやれ!って。とぼけているようで、実は繊細な気遣いのある伝言なんだよ。それを俺たちは、分かっているからあえて笑ってあげるのさ。監督のためにな」
    (君島投手)「そうだったんですかぁ・・・分かりました、キャプテン」

  • #251

    六輔 (金曜日, 01 11月 2019 20:58)


    紘一は、円陣の中心で凛とした表情に変えてこう言った。
    (紘一)「相手も必死だ。死に物狂いで打ってくる。この場面、カウントによっては勝負をかけて走ってくるかもしれない。そうなった時には、外野に運ばれた時点で同点だ。内野ゴロでも、一気にホームに突っ込んでくることも考えられる。それが白進学院の野球だ。うちが足をからめて得点したように、必ず動いてくる。慌てずプレイしよう。俺たちはどんな場面であろうと、俺たちの野球をやるまでだ」
    (全員)「ヨッシャ!」

    円陣が解かれ、紘一だけがマウンドに残ってこう言った。
    「なぁ、君島・・・」
    『はい、キャプテン』
    「ここまでよく投げてくれたな」
    『どうしたんですか、あらたまって』
    「君島がいてくれたから俺たちはここまで来れたんだよなって思ってさ」
    『そんなことないですよ。キャプテンや度井垣先輩、犬飼先輩が打ってくれて、大量得点に守られて投げてきた自分ですから』
    「君島…勝負はここからだぞ。白進は簡単には勝たせてはくれないだろう」
    『・・・はい』
    「ただ、ここで打たれて同点にされても絶対に気落ちするなよ! もし同点にされたら、9回裏の攻撃は俺からだからな! サヨナラホームランで甲子園を決めるのもカッコいいだろうしな」
    『キャプテン・・・』
    「コントロールで勝負するのか? それとも思いきり腕を振って真っ向勝負したいのか?」
    『・・・・・』
    「試合を作ってきたのはお前だ。ここはお前の好きに投げろ! 打たれたって構わない。お前はまだ2年だ。打たれて覚えることだってあるさ」
    『そ、それじゃ・・・』
    「いいんだ。お前の好きに投げろ! 大丈夫だ、俺たちが守ってやるさ!」
    『キャプテン・・・』

    君島は、野球に真摯に向き合い、プレイで部員を引っ張る紘一に憧れ、紘一を目標に、そして常に紘一の背中を追ってきた。
    マウンドを去り、ショートのポジションに向かう紘一の背中に向かって、君島はこう語りかけた。
    『キャプテン・・・自分、正直、ここで打たれたらどうしようって、びくびくしていたんです。でもキャプテンと話して、例え、ここで打たれても最後には絶対に勝つんだ!って、そう思うことができました。真っ向勝負するんで、あとはよろしくお願いします…キャプテン!』

    『ふぅ』と息を一つ吐き、キャッチャーのサインにうなずいた君島は、主審の「プレイ!」のコールと同時に投球を開始し、腕を思い切り振って渾身のストレートを投げた。

  • #252

    六輔 (土曜日, 02 11月 2019 19:52)


    君島投手が外角いっぱいを狙って投げた渾身のストレートは、ボール2つ分甘く入り、白進学院のバッターはそれを見逃さなかった。
    「カキーン!!!」
    甲高い音を残し、鋭い打球が左中間に飛んだ。
    同時にスタートをきっていたセカンドランナーは、3塁を廻ったところで打球が外野を転々としていることを確認し、小さくガッツポーズをしながら同点のホームを踏んだ。
    打者ランナーはスライディングをすることなく、スタンディング・ダブルで2塁ベースを陥れていた。
    土壇場での同点劇に白進学院応援席は最高潮に湧き上がり「一気に逆転だ!!」と、さらにブラスバンドの応援は音量を増しチアリーダーの動きも最高に激しくなった。
    これが白進学院なのだ。
    「初めて決勝に進んできたような学校が、そう易々と行けるところじゃないんだよ、甲子園っていうところは!」
    と、言わんばかりに、最後の場面になって本領を発揮してきた白進学院は、同点になって明らかに選手の表情が変わっていた。

    押せ押せムードに飲み込まれ、マウンド上では君島投手が肩で息をしていた。
    と、ショートから声が聞こえてきた。
    「君島!」
    『あっ、はい』
    「学習したんだから、次はそれを活かして投げろ! お前なら大丈夫だ!」
    『キャプテン・・・』
    と、君島は大きくうなずいて「ふぅ~」と大きく息を吐いた。
    君島は、心の中で紘一の言葉の意味を考えていた。
    「学習したんだから、次はそれを活かして投げろ!」
    紘一がこの場面で言った言葉の持つ意味を直ぐに理解した。
    『すみません、キャプテン。簡単に抑えられる相手じゃなかったです。次は、コントールに気を付けます』と。

    あと1つのアウトをとってさえいれば甲子園初出場という場面で、王者白進はそれを許してはくれなかった。
    今度は一打逆転のピンチを迎え、バッテリーは慎重にサインを交換した。
    選択したのは外角にボールになるスライダー。
    要求通りに投げられたが、当然バッターは見送った。
    「ボール」
    次は外角のストレートを選択したが、2球目も主審の手は上がらなかった。
    「ボール」
    と、ショートからキャッチャーにサインが飛んだ。
    「間をとるための牽制を入れろ!」
    サイン通りに君島が2塁へ牽制球を投げると、そのボールをキャッチした紘一が、優しい表情と一緒に小さな声で「逃げるな、お前なら大丈夫だ!」とボールを返してきた。
    その声にうなずいた君島は、3球目に外角ストレートでワンストライクをとり、続く4球目のスライダーでファールを打たせた。
    勝負の5球目になったときだった。
    紘一は、内野陣に対して声をあげた。
    「行くぞ、勝負だ!」
    内野手全員が応えた。
    「ヨッシャー!」

  • #253

    六輔 (日曜日, 03 11月 2019 19:26)


    9回の表、白進学院の攻撃は、土壇場ツーアウトからのタイムリーヒットで同点に追いつき、なおも逆転のランナーを2塁において、カウントツーボール・ツーストライクになった。
    そしてそのときに紘一が発した「行くぞ、勝負だ!」の声。
    それは内野陣に対して、ランナーが走ってくるかもしれないからな!という紘一からのアナウンスだった。
    誰もがランナーが走ってきても慌てずプレイすることを心にとめ、勝負の5球目に備えた。
    バッテリーが勝負球に選択したのは外角低めへのスライダーだった。
    君島投手が投球を開始すると、紘一の読み通り、待ってましたとセカンドランナーがスタートをきってきた。
    サードの度井垣は、盗塁になった時のキャッチャーからの送球に備えるために右に守備位置を変えることをギリギリまで我慢し、バッターが打ってくることに備えた。
    「カキーン!!」
    甲高い音ととともに、鋭い打球が三遊間に飛んできた。
    実は、度井垣は、紘一からの“ランナーが走ってくるかもしれないからな”の声に、次、起こり得ることを予想していたのだった。
    「ランナーが動くなら、バッターは空いた三遊間を狙って強引に引っ張ってくるかもしれない!」
    と、そう度井垣が予想した通りの打球が三遊間を襲ってきた。
    「届けーーー!!!」
    そう念じて度井垣はめーいっぱいに横っ飛びした。
    だが、無情にもボールは度井垣のグラブの先を抜けて行った。
    既にスタートを切っていたランナーは、打球を見ずに3塁ベースを廻っていた。
    それは、東庄高校の甲子園初出場という夢を打ち砕く、逆転のランナーだった。

  • #254

    六輔 (月曜日, 04 11月 2019 20:28)


    3塁ベースを蹴ったランナーが目の前を駆け抜けていくのを見て3塁側白進学院応援席から「逆転だーー!!」という声が出た次の瞬間だった。
    サードの度井垣が追いつかなかったボールを紘一がショートの深い位置まで追いかけ、めーいっぱいに横っ飛びしてそれをキャッチしたのである。
    ネット裏にいたプロのスカウト達も一様に驚いた。
    「おい、あの打球に追いついたのか?」
    「でも無理だ!1塁は間に合わない!」
    紘一は、度井垣と全く同じことを予想していたのだった。
    「強引に引っ張ってくるかもな。もし、深いところなら1塁は間に合わないかもしれない。その時は…」
    紘一がボールをキャッチしたときにはプロのスカウト達が考えた通り、1塁への送球は絶対に間に合わないことは分かった。
    セカンドランナーが3塁ベースを既に廻っていることに気づいた紘一は、立ち上がってからオーバースローで送球したのでは間に合わないと、右ひざをついたままスナップをきかせて小さなスローでバックホームしたのである。
    プロのスカウト達は皆同じことを口にした。
    「あそこからあの体制のままスナップスローするのか!」
    紘一の投げたボールがホーム寸前で俊足のランナーを追い越し、キャッチャーミットに吸い込まれた。
    ランナーは右に回り込み上手くキャッチャーのタッチをかいくぐった。
    「どっちだ!」と、球場が静まり返った。
    主審はキャッチャーミットの中にボールがあることを確認し、右手を高々と上げてコールした。
    「アウトーーー!!!」
    大歓声の中、ベンチに戻ってくる選手達を応援席の誰もが労いの声をかけていた。
    「よく、守ったぞー!」
    「大丈夫だ、まだ同点だ」
    「この回で決めてくれー!」

    監督の前で円陣が組まれた。
    (監督)「簡単には勝たせてくれないよな。でも、よく同点でしのいでくれた」
    と、その時に白進学院の選手の交代を告げるアナウンスが流れた。
    「白進学院、選手の交代をお知らせします。9番、佐々木君に代わりまして…ピッチャー、不知火(シラヌイ)君、背番号11」
    「出てきたかぁ・・・」
    (監督)「白進は、同点においついて2年生の不知火君に代えてきたな。だが、やることは変わらない。積極的に打っていこう!」
    (全員)「はい!!」

    不知火投手は、2年生でありながらMAX160キロを記録したことのある、高校野球界で一番注目を集めているピッチャーだった。
    満を持しての登場に球場全体が沸き上がった。
    「これでもう白進が失点することはないぜ!」と。

  • #255

    六輔 (火曜日, 05 11月 2019 20:53)


    9回裏の攻撃前の円陣が解かれると、君島投手が、最終回に同点に追いつかれてしまったことを紘一に詫びてきた。
    (君島)「同点にされてしまってすみませんでした」
    (紘一)「白進打線と真っ向勝負するには、10年早かったな」
    (君島)「えっ?じゅ…10年早い? え?でもキャプテンは、試合を作ってきたのはお前だ!ここはお前の好きに投げろ!って言ってくれましたよね?」
    (紘一)「はっ? そんなこと言ったっけな?」
    (君島)「え~ 言ってくれましたよ…打たれたって構わないって」
    (紘一)「そうだったかな?…忘れた。白進のピッチャーが代わって、こっちの勝ち目は無くなっちまったかもしれないんだ・・・まっ、お前はよく投げてくれたよ」
    そう言って、ヘルメットをかぶった紘一は、9回裏の先頭打者としてバッターボックスに向かって行ってしまった。
    君島は、グランドで優しく声をかけてくれた紘一と、同点に追いつかれてしまってからの紘一とのそのギャップに愕然としていた。
    (君島)「キャプテンは、言ってくれましたよね “お前はまだ2年だ。打たれて覚えることだってあるさ”って。だから思いきり腕を振ってストレートを投げたんです・・・あれは嘘だったんですか?…キャプテン」
    と、視線を落としたその次の瞬間だった。
    代わった不知火投手が初球に投じた158キロのストレートに紘一はバットを振りぬいた。
    「カキーン!!」
    甲高い音を残し大歓声の中、紘一の打った打球が高々と舞い上がると、打球を見上げたレフトは、直ぐにボールを追う足を止めた。
    「サヨナラホームランだぁ!!!」
    歓喜に沸くベンチの中で、ただ一人、君島だけは何が起きたのか全く理解出来なかった。
    『おい、君島! 俺たちは勝ったんだよ、甲子園だ!』
    こんな時によく見かけるシーンは、勝ったチームの選手が一斉にベンチを飛び出し、ホームランを打った選手を抱きかかえ、「俺たちは1番だ!」と、高々と人差し指を天に伸ばして優勝を喜ぶシーンだ。
    だが、東庄高校は決してそれをしなかった。
    大歓声の中、紘一がサヨナラのホームインをはたすと、主審が両チームに整列するよう促した。
    そこで初めてベンチを飛び出した東庄高校の選手たちは、全員涙を流して整列した。
    「ゲームセット!」
    主審はそれだけをコールすればいいのだが、この時の主審は「ゲームセット」の後にこう付け足したのである。
    「ナイスゲーム!」
    両チームが歩み寄り、互いの健闘を称えあった。
    「甲子園でも勝ってくれよ、白進を破ったチームなんだからな!」
    『あぁ。』

    突然の幕切れに力を使い果たした君島投手は、挨拶を終えると膝から崩れ落ちた。
    と、そこに紘一が近寄り、君島の肩を抱きかかえてこう言ったのである。
    「君島…俺はお前との約束を守ったぞ! サヨナラホームラン! 頑張って投げていたお前のためにどうしても打ちたかったホームランだよ!」
    『キャプテン・・・カッコ良すぎますよぉ~』

    涙が溢れ、立ち上がれない君島投手を周りの選手が抱きかかえた。
    ようやく立ち上がった選手たちはバックスクリーンに向かって一列に並び、涙を流しながらも大きな声を出して校歌を歌った。

    「さくら若葉に青春の・・・」

  • #256

    六輔 (水曜日, 06 11月 2019 20:46)


    校歌を歌い終わった選手たちは、一斉に1塁側応援席へと走った。
    監督、部長先生、そして陽菜子もベンチから飛び出し、一緒に整列して挨拶をした。
    大歓声の中、スタンドでは生徒達が抱き合って喜び、町の人達は大きな涙を流し、声をからして最後の声援を送っていた。
    「よくやったー!」
    「おめでとう!!」
    「甲子園でも勝ってくれよー!」

    少し遅れて、2年連続で甲子園を逃した白進学院の選手たちが3塁側応援席に向かって整列し、挨拶していた。
    負けたことでヤジが飛んでも不思議ではない場面で、それは一切なかった。
    観客の全てが、東庄高校とのフェアな戦いぶりに、高校野球本来の感動を与えてもらっていたからだった。
    「ナイスゲーム」
    拍手が鳴りやむことはなかった。

    ネット裏にいたプロのスカウト達は、それぞれに紘一の評価を語り合っていた。
    「瀧野瀬紘一・・・甲子園で活躍できたら特Aだな」
    『そっかい? うちは、9回のあのスローイングと、不知火君の158キロのストレートをホームランした時点で特A確定だよ…1位指名に推したいぐらいだぜ!争奪戦になるくらいなら、いっそのこと甲子園で活躍してくれない方がありがたいよ』
    「ずいぶんと惚れ込んだなぁ」
    『あぁ、こんなスター性のある選手、久しぶりに見たからな!ここというところでの守りでチームを救い、打って欲しいと思う時に打ってくれる。卓越した野球勘を持ち、まさに内野の要「ショート」を守るためにユニフォームを着ているような選手だよ。うちの野村謙二郎の後継者だな。野村もおそらくあと1年、長くて2年だろうからな』
    「なるほど、広島さんはそういう事情があるのか」
    『まぁ、現場からは即戦力のピッチャーを探してきてくれ!って、言われているんだがな』
    「今年の高校生の目玉は、東北高校のダルビッシュ君と横浜の涌井君だよなぁ。即戦力とは言わないが、1、2年ですぐにエースになれる逸材だよな」
    『去年、大阪近鉄バッファローズから変わったオリックス・バッファローズさんは金子千尋投手、楽天さんが一場投手、ジャイアンツさんは野間口投手と自由獲得枠で1位指名が確定しているようだしな』
    「大学生と社会人は自由獲得枠があるからなぁ・・・いずれにしても早めに指名をしないと獲得できない選手の一人だな、瀧野瀬君は」
    『そうだなっ!』

  • #257

    六輔 (木曜日, 07 11月 2019 20:46)


    歓喜と涙の優勝決定後、グランドでは閉会式のセレモニーが行われようとしていた。
    両校の選手は、それぞれのベンチ前に並び、係員の指示を待っていた。
    全ての準備が整い、係員の先導で両校の選手はマウンドを挟んで横一列に並んだ。
    チームの先頭に立つ紘一は凛々しい表情で、その横に立つ副将の度井垣と犬飼は、普段はあまり見せない笑顔で、4番を打つ岩城と5番を打つ里奈科は目に涙をいっぱいにためて立っていた。

    閉会式では、まず高野連会長が大会の講評を述べた。
    「今年の大会は、雨の中での試合も数試合あり、大会関係者の皆様にはグランド整備を初め、様々な場面で多大なるご協力をいただきました。この場をお借りしてお礼を述べさせていただきます、ありがとうございました。 今大会は熱戦続きでした。1回戦から延長戦が続き、球場に足を運んでいただきました多くの高校野球ファンを魅了してくれました。特に印象に残った試合としては、準決勝の白進学院対日大五校との試合です。前年度の決勝戦と同じ顔合わせになった準決勝では、白進学院が昨年の雪辱を果たしました。聞きましたところ公式戦14年ぶりのスクイズだったそうで、勝ち越した後の見事な攻撃でそのイニングに一挙7点をとり、一気に試合を決しました。見事なベンチの采配とそれに応えた選手達の集中力に驚かされました。そして今日の決勝戦は息詰まる投手戦、堅い守りでスピーディーな試合展開、記憶に残る名勝負となりました。東庄高校の選手の皆さん・・・優勝おめでとう!東庄町から初の甲子園出場、町の方もたくさん球場に足を運んでいただいたと伺っております。たくさんの応援と温かい拍手に選手たちは励まされたことだと思います。東庄町のみなさん、初の甲子園出場おめでとうございます」
    あまりにもの大きな歓声に、会長は話を止めて、観客の拍手を東庄高校の選手達に聞かせた。
    「キャプテンの瀧野瀬君を中心にまとまりのあるチームでした。何より、賞賛を送りたいのは、東庄高校のフェアな戦いぶりです」
    さっきよりもさらに大きな歓声と拍手で、会長は再び話を止めざるを得なかった。
    「全力疾走、ヤジを一切とばさないベンチ、そして他の高校の模範となる走塁・・・全てのプレイが観る者全てに感動を与えてくれました。ありがとう! 王者白進学院を破っての優勝は、見事の一言に尽きます。わが県、わが故郷の代表校として甲子園でも思う存分に戦ってきてください。健闘を祈ります。最後に・・・最後にもう一言だけ、言わせてください。準優勝の白進学院の皆さん、そして初優勝の東庄高校の皆さん・・・感動をありがとう! 終わります」
    スタンドから両校に対して惜しみない拍手がいつまでも鳴り響いた。
    感極まって涙する東庄町の人達に聞こえてきたのは、閉会式のアナウンスを任された科沼高校野球部マネージャーの声だった。
    「続きまして、優勝校に優勝旗が授与されます。東庄高校代表1名、前に進んでください」
    球場に「表彰式得賞歌」が流れる中、紘一は帽子をとってそれを隣に立っている度井垣に渡し、一歩一歩しっかりとした足取りで進み、優勝旗を持った高野連会長の前に立った。
    互いに一礼をし、一歩前に出た紘一に深紅の優勝旗が授与された。
    球場全体が拍手で包まれる中、1塁側ベンチでは陽菜子がその様子を目に焼き付けていた。
    「紘一、おめでとう。私との約束をちゃんと守ってくれたね、紘一・・・大好きだよ」と。

  • #258

    六輔 (金曜日, 08 11月 2019 19:14)


    閉会式も終わり、紘一にはどうしてもやりたいことが残っていた。
    そう、それは白進学院の監督への挨拶だった。
    次々に求められるメディアのインタビューに応えざるを得ない状況に、焦りさえ感じていた紘一だったが、それは突然に訪れた。
    白進学院の監督自ら紘一のところに来てくれたのだ。
    「瀧野瀬君!」
    『監督! 監督にご挨拶がしたいと思って、なかなか監督のところに行けず、どうしようかと思っていたんです』
    「そっか・・・まずは優勝おめでとう!」
    『ありがとうございます』
    「君とこうして話すのは初めてだな」
    『はい』
    「今日の試合は、瀧野瀬君一人にやられてしまったよ!完敗だ。」
    『いや、そんなぁ…』
    「監督が若い監督に代わって、君達が入部してからの東庄高校の野球を観ていて、しみじみ思ったんだよ。勝つことだけを目標としていたんではダメだと。野球を通して何を選手達に教えればいいのか・・・逃げることを覚えた選手の先に何が残るのか・・・私にそれを思い出させてくれたのが東庄高校の野球であり、瀧野瀬君…君のプレイだよ。今日の試合は、どんな場面であろうと君とは勝負するようにうちのバッテリーには言ってあったんだ」
    『えっ?』
    「だから、6回のあのセカンドベース踏み忘れの演技には、思わず笑ってしまったよ。そんなことをしなくても、ちゃんと勝負するぞ!ってね」
    『あぁ、うちの度井垣の走塁のことですね・・・あれは…』
    「いいじゃないか。それだけ君がチームメイトから信頼されている証拠だ。ただな、あの度井垣君の走塁のおかげで、君と勝負しても同点で済むと思ったんだよ。二人目のランナーまでは返さないで済むってな。でも、あのエンドランにやられたよ・・・あれは瀧野瀬君からのサインだったんだろう?」
    『えっと・・・』
    「おっとすまん、スマン!敵にサインを聞くなど、あり得ない話だよな!(笑)」

    『監督・・・自分はずっと監督に恩返しがしたいと思って野球をやってきました』
    「私に恩返し?」
    『はい。今の自分があるのは監督からいただいた手紙のおかげです』
    「手紙?」
    『自分がイップスになって苦しんでいるときに、監督からいただいた手紙で立ち直ることが出来たんです。本当に感謝しています。自分は、決勝で白進学院さんに勝って恩返しがしたいと、ずっとそれだけを考えて練習してきました。今の自分があるのは監督のおかげです。本当にありがとうございました』
    「そっか、あの手紙のことか。私は君のような純粋に野球が好きでその好きな野球を楽しんでやりたいという選手が大好きでね。白進の選手達に君の名前は言わないが、君の話をいつもしているんだよ。君のような選手になれ!ってね」
    『監督・・・自分にはもったいない言葉です』

  • #259

    六輔 (土曜日, 09 11月 2019 19:42)


    監督は笑顔を見せて話を続けた。
    「そんなことないさ。君のような選手は野球界の宝だ! 君の目指すフェアで頭を使った野球をこれからも続けてくれ!」
    『はい、監督』
    「いよいよ君が目標にしてきた甲子園だな」
    『はい』
    「実はな、白進学院が甲子園に行っても行かなくても、8月末から始まるWBC U-18ベースボールワールドカップのコーチを頼まれているんだ」
    『えっ、ベースボールワールドカップって、12か国で戦う・・・やっぱり監督さんはすごいですよ。日本代表のコーチって、誰でも出来るもんじゃないですよね』
    「まぁ、そうだろうけど・・・でな、瀧野瀬君と一緒に野球がやりたいと思って・・・東庄高校が甲子園でベスト8以上に勝ち残ってくれたら、君を日本代表のメンバーに推薦したいと思っているんだ」
    『えっ?…ぼ、僕が日本代表にですか・・・』
    「どうした? レベルの高いところでプレイしたいだろう?」
    『・・・・・』
    「まぁ、そのことが変なプレッシャーになってしまったんでは申し訳ないから、あまり気にせず、甲子園でも普段通りの野球をやってきてくれ」
    『甲子園がどんなところなのか…楽しみです』
    「そっか。瀧野瀬君も聞いたことがあるだろう?甲子園には魔物が棲んでいると」
    『…はい。どんな魔物なのかは分からないですけど』
    「まぁ、甲子園球場に恐ろしい生き物が生存しているという訳ではなく、甲子園球場では時に信じられないプレイが出ることからそう言われていて、それが高校野球が面白いと言われる理由の一つでもあるんだがな」
    『はい、そう伺っています』
    「負けた敵将が言う言葉ではないが、臆することなく、普段通りの東庄高校の野球をやってきなさい。それが僕から君へのはなむけの言葉だ」
    『ありがとうございます、監督』
    「君のような選手には、将来は高校野球の監督・指導者になって欲しいと思うよ」
    『自分が高校野球の指導者にですか?…考えたことないですけど…』
    「まぁ、君のことはプロ野球界が放ってはおかないから、そんな話をしても無駄だがな。今日はスカウトが6球団から来ていたらしい。さっき、うちの高田を2年前に指名してくれたジャイアンツのスカウトが挨拶に来てくれたんだ」
    『えっ? そうなんですか? 不知火君はまだ2年生だし…あっ、エースの佐々木君を観に来ていたんですね』
    「はぁ? 君は真面目に面白いことを言うなぁ。欲がないというか・・・もう少し自分の実力を知った方がいいぞ! 君のことを観に来ていたんだよ! 6球団もな。うちの不知火からサヨナラホームランを打って、さらに高い評価になったことだろうよ。ジャイアンツのスカウトが君のことをべた褒めだったぞ!」
    『じ、自分が…プ、プロ野球にですか? 考えたこともないです』
    「まっ、急に出てきた選手だからな!って、僕は君の才能を1年生のときから見抜いていたけどな(笑)」
    『今は、甲子園のことしか頭にないです』
    「そうだ、それでこそ瀧野瀬紘一だ、俺が惚れ込んだ選手だよ!」
    『監督・・・』
    「頑張って来いよ、瀧野瀬!」
    『はい、監督』
    最後に二人は堅い握手を交わした。

  • #260

    六輔 (日曜日, 10 11月 2019 20:00)


    東庄高校が初優勝を飾った決勝戦。
    一塁側応援席の先頭に立って声を枯らして応援を続けていた人がいた。
    東庄町の須藤町長だ。
    須藤町長は、東庄高校の卒業生で、毎年、夏の大会には秘書官を連れ添って球場に応援に駆けつけてくれるほど、野球が好きな町長だった。
    普段はあまり無理難題を言わない須藤町長だったが、この時ばかりは秘書官も町長のリクエストへの対応に苦労せざるを得なかった。

    (須藤町長)「いやぁ、最高だ!」
    (秘書官)「おめでとうございます、町長!」
    (須藤町長)「全国に“東庄”の名を知ってもらう最高の機会が出来たよ」
    (秘書官)「本当ですね」
    (須藤町長)「もちろん甲子園にも応援に行くから、スケジュール調整は頼んだよ!」
    (秘書官)「は、はい…なんとか頑張ってみます」
    (須藤町長)「なんとか? 馬鹿なこと言っちゃ困るよ、君!私は決勝戦まで全試合応援に行くからね!」
    (秘書官)「ぜ、全試合ですか?…町長、さすがにそれは・・・公務を優先していただかないと…」
    (須藤町長)「公務を優先? こんな全国に“東庄”を憶えてもらえる機会…これ以上の公務があるかね? とにかくスケジュールは私が決める!町長として、いま私が最優先する仕事は東庄高校のバックアップだ! そうだろう?違うかね?」
    (秘書官)「あっ…は、はい」
    母校の初優勝に町長が興奮状態であると認知した秘書官は、この場では何を言っても無駄だと考えた。
    (須藤町長)「まっ、私のスケジュール調整で一番苦労するのは君だから、あまり無理なことは言わんが…とにかく一回戦には甲子園に応援に行けるように調整してくれよ!」
    (秘書官)「分かりました…町長」
    ひとまずは安心した秘書官だったが、それもつかの間、町長は、その日最大の難題を告げてきたのだった。

  • #261

    六輔 (月曜日, 11 11月 2019 20:58)


    (須藤町長)「交通は市民部だったね?」
    (秘書官)「はい、そうです」
    (須藤町長)「市民部長は、今日は球場に来ているのかね?」
    (秘書官)「今日は日曜日で、全部の部長が来ているはずですが…市民部長に交通のことで何か?」
    (須藤町長)「うん? 決まってるじゃないか! パレードだよ、パレード!」
    (秘書官)「パレードと申しますと?・・・えっ?東庄高校のパレードですか?」
    (須藤町長)「そうだよ!新東庄駅からのパレードじゃ、500メートルぐらいだなぁ…ちょっと短いな。JR東庄駅からの方がいいな! あの距離なら東庄町の人達、たくさんの人が沿道に立つことが出来るだろう」
    (秘書官)「ちょっ、ちょっと待ってください、町長。まず、町長のおっしゃるパレードは、いつおやりになりたいのですか?」
    (須藤町長)「今日に決まってるじゃないか!」
    (秘書官)「きょ、今日ですか?町長さすがにそれは難しいかと」
    (須藤町長)「こんなめでたいこと…パレードをやるのは当然だろう? オリンピック卓球でメダルをとった平山選手のパレードをJR東庄駅から市庁舎までやったじゃないか」
    (秘書官)「確かにやりましたが、東庄警察の許可と協力があってのことですし…とにかく、市民部長に連絡をとってみますが・・・」
    と、町長と秘書官がそんな会話をしているところに市民部長がタイミングよく自ら現れた。
    (須藤町長)「おぅ、部長!丁度いいところに来てくれた!実は部長に頼みたいことがあってな…」
    (市民部長)「もしかして、パレードですか?」
    (須藤町長)「おぅ、そうだ!よく分かったな!」
    (市民部長)「東庄高校が優勝したら、町長ならそういうことを考えるのではないかと…」
    (須藤町長)「さすがは市民部長だね!それでどうだい? 出来るだろう?…今日!」
    (市民部長)「町長からそんなリクエストが出たらと・・・実は、昨日のうちに東庄警察に確認をしてあります…結論は残念ですがNGでした。警察官の手配が当日ではどうにもならないということでした。東庄町のヒーロー誕生に協力してやりたいのは山々なのだがとおっしゃってくれたのですが・・・そういうことで、町長…今日のパレードは・・・さきほど、学校関係者に確認しましたところ、学校に来てくれる方がたくさんいた場合には、校舎の2階ベランダに選手を立たせて挨拶させたいとおっしゃっていました」
    (須藤町長)「そっか・・・分かった。無理は言うまい」
    町長と部長の会話を聞いて秘書官は思った。
    (秘書官)「部長がやることは、さすがに違うは」と。

  • #262

    六輔 (火曜日, 12 11月 2019 20:37)


    全国4,000校を超える高校で、わずか49校しか出られない夏の甲子園。
    厳しい地方予選を勝ち抜いて手にした「甲子園切符」は何にも代えがたい宝物だ。
    ただ、その宝物を手にした途端、学校関係者は「甲子園出場決定!」の歓喜に浸る間もなく甲子園に行く様々な準備に忙殺されることになる。
    学校にとって、やはり一番悩ましいのは「遠征費用」の調達だ。
    部員ら野球部関係者だけではなく、一般生徒・教員・保護者・OB会・後援会ら大勢の応援団のバスの手配、チケットから食費など、必要となる多額の経費を寄付金などで集めなければならない。
    ちなみにだが、責任教師1名・監督1名・ベンチ入り選手18名までは、大会主催者の新聞社が旅費と滞在費を支援してくれる。
    ただしそれは、1人1日4,000円の支援だ。
    当然、食費やホテル滞在費など、1人1日4,000円で賄えるはずもなく、結局のところは学校がそれを準備しなければならない。
    「1試合で1,000万円は必要。しかも勝ち進むことを想定して準備しなければならない」
    ということで、学校関係者は最低5,000万円の寄付金を集めることを計画した。
    だが、計画は立てたものの、それを現実集めるためには何をどうすればいいのかも分からなかった。
    初出場のしかも県立高校で、その寄付金集めのノウハウを持つ者もなく、学校関係者は早々に悲鳴をあげた。
    と、そんな折、東庄高校の校長室に1本の電話が入った。
    「もしもし・・・」
    それは白進学院の事務長からの電話だった。
    電話の内容は、白進学院の野球部監督からの進言で、ホテルの手配やバス会社との交渉、寄付金の集め方まで、甲子園に慣れた白進がそのノウハウを伝授したいという申し入れだった。
    「監督さんがそのようなことを・・・ありがとうございます」
    「はい…はい…よろしくお願いします」
    東庄高校の校長は、白進学院からの協力を二つ返事で受け入れた。
    野球部員の宿泊するホテルは、毎年白進が使っている京都市内のホテルですんなりと決まった。
    さらにバス会社も、白進の口利きで通常より割安で貸切ることが出来た。
    甲子園についてからの練習場の確保から、寄付をしてくれた方への記念応援グッズの発注まで、全て白進の事務長から指名されて東庄高校に駆け付けた事務員が手配をしてくれた。
    早々に準備した寄付金の案内状を、東庄高校卒業生全員に発送した。
    1口5,000円で何口でもという案内で、果たして5,000万円もの寄付金が、わずか10日間のうちに集まるものか。
    そればかりは白進から手伝いに駆け付けてくれていた事務員も皆目見当がつかなかった。
    もちろん町役場も協力体制をとっていた。
    町が全面協力体制をとってはくれたものの、それでも不安を払拭することが出来ぬまま時間だけが過ぎていった。
    だが、思わぬところで予想を大幅に上回る寄付金を手にすることが出来るようになるのだった。

  • #263

    六輔 (水曜日, 13 11月 2019 21:32)


    それは、寄付金を5,000万円集めなければならないとした期限の二日前のことだった。
    東庄高校の校長室に事務長が血相を変えて入ってきた。
    「こ、校長!」
    『どうしたんだね、慌てて』
    「き、寄付金の集まり具合を銀行に確認しに行ってきたんですが…と、とんでもないことになっています」
    『とんでもないこと? って、どういうことなんだね? まずは息を整えてからゆっくり話しなさい!』
    「す、すみません…あまりにも驚いてしまったものですから。実は、今日で既に1億円を超える寄付金が集まっています」
    『はっ? それは確かなのかね? 1,000万円と桁を間違っているんじゃないのかね?』
    「何度も確認しました。間違いなく1億円を超えています」
    『本当か? いったいどこからそんなに寄付金が集まったんだね?』
    「そ、それが・・・」

    これには深い事情があったのだった。
    事務長は上辺だけしか分からなかったが、一番の理由は「週刊ベースボール」という雑誌に東庄高校の特集が掲載されたことだった。
    「週刊ベースボール」は、多くの野球ファンが購読する雑誌で、その記事は、読者の興味を引くためだけの記事ではなく、きちんとした取材で、真実を伝えてくれる雑誌として、高校野球ファンも愛読する雑誌だった。
    その週に発売された「週刊ベースボール」で、甲子園出場校の紹介があり、その中で、東庄高校の特集記事が掲載されたのである。
    記事では、東庄高校のフェアなプレイが賞賛されていた。
    県立高校であり、小さな町の唯一の高校で、毎週月曜日朝の学校周辺の清掃活動を一度たりとも欠かしたことが無く、挨拶、礼儀、全てにおいて高校生の模範となる野球部であることが書かれてあった。
    さらには、王者白進学院を破った試合での瀧野瀬紘一の活躍ぶりがリアルに書かれてあり、読んだ者がまるでスタンドで観ているかのような描写がされてあった。
    ここまで書かれてあったとなれば、直ぐに想像がついたであろう。
    そう、その雑誌社へ情報提供をしたのは白進学院の監督だったのである。
    「東庄高校を特集してくれないかなぁ。初めての甲子園で寄付金を集めるのも大変そうなんだ…情報は全て私が提供するから」
    と、野球界のあらゆるところと深い人脈でつながる白進学院の監督からの依頼となれば、当然、相談を受けた記者がそれを邪険にするはずはなかった。
    「分かりました。いい記事を書かせてもらいますよ!」
    その流れで掲載された東庄高校の特集記事に、多くの高校野球ファンが心を打たれ、その記事の隅に書いてあった「寄付金の受け入れ先」の口座にこぞって寄付金を入金してくれたのだった。
    北は北海道から南は沖縄まで、全国誌の与える影響は絶大だった。

  • #264

    六輔 (木曜日, 14 11月 2019 18:57)


    事務長の報告を受けた校長は、手の空いていた事務職員に頼んで、すぐさま「週刊ベースボール」を調達し、自校の特集記事を読んだ。
    「なるほどぉ~ こんないい記事を書いてくれていたんだぁ」
    と、他人事のように「いい学校だぁ」と、感極まっていた。
    落ち着いたところで、野球部監督を校長室に呼んだ。
    「君に嬉しい報告なんだが、今日、事務長が確認をしてきてくれて、寄付金が想像もつかないほど集まっているらしんだ」
    『本当ですか、校長!』
    「あぁ。で、どうやら寄付をしてくれたのが全国の高校野球を愛する多くのファンなんだそうだ」
    『それはどうして?・・・』
    「思い当たらんのかね? どうやら「週刊ベースボール」という雑誌でうちの学校が特集され、その記事を読んだ多くの高校野球ファンが寄付金を送ってくれたようなんだ」
    『週刊ベースボール・・・そうだったんですかぁ。いくつもの取材を受けたものですから、その全てを校長に報告することが出来ずに・・・すみませんでした』
    「そんなことは謝らなくていいさ。君には野球に専念してもらい、裏方の仕事は他の先生方に頑張ってもらって・・・とにかく、良かったな」
    『はい、校長』
    「うん?ということは週刊ベースボールの記事をまだ読んでいないということかい?」
    『・・・はい』
    「寄付金を送ってくれた多くの方々に感謝する意味も込めて、この記事だけは読んでおきなさい。持っていって構わんよ!」
    そう言って、校長は監督の前に雑誌を置いた。

    自分の席に就いて、雑誌を開き、自分達のことが特集された記事を読み終えた監督は、ぽつりとつぶやいた。
    『この記事を書くには、誰か情報をくれた人がいたはず』
    監督は直ぐに察しがついた。
    『この情報を記者に伝えられるのは、一人しかいない!』と。
    同じ野球人として、憧れでもあった白進学院の監督の偉大さをあらためて知った東庄高校野球部監督だった。

  • #265

    六輔 (金曜日, 15 11月 2019 19:45)


    その日は、東庄高校野球部が甲子園に向けて出発する日だった。
    「頑張れ!東庄高校野球部」と書かれた横断幕の下に野球部員が並び、東庄駅の構内には、町の人達が見送りに訪れ、人がごった返していた。
    校長やPTA会長の挨拶を終え、最後に紘一がチームを代表してマイクを持った。
    「甲子園出場が決まってから、たくさんの方々に様々なご支援をいただき、大変ありがとうございます。甲子園では、出来る限り普段通りの野球をしたいと思っています。応援よろしくお願いします。本日はありがとうございました」
    短い挨拶であったが、心のこもった挨拶に会場は拍手の渦に包まれ、多くの声援が飛び交った。
    「頑張れー!!」
    「初出場なんてどこ吹く風だ!自分達の野球をやってこいよ~!」
    だが、中には一歩間違えれば圧力になりかねない、心無い声もあった。
    「東庄の名を全国に広めてもらえると思って、多額の寄付金を出したんだからな!惨めな負け方してきたら承知しねーぞ!」
    そんな声は、笑って聞き流すほかなく、紘一はこの時もこう感じていた。
    「東庄高校野球部は俺たちの野球部だったのが、甲子園が決まってからは、東庄高校野球部を応援してくれるみんなのものになってしまったんだよな」と。
    挨拶で「出来る限り普段通りの野球をしたい」と言ったのは、誰のためでもない、東庄高校野球部のために試合をしてきたいです!と、それを「普段通りの野球をしたい」と言い換えていただけなのであった。

    多くの人に見送られ東庄駅を出発した東庄高校野球部は、在来線から新幹線に乗り換えて、東京駅を出て45分、三島駅を通過してから3分ほど経つと車窓に富士山が見えてきた。
    (戸野間)「富士山は、やっぱカッコいいづら!」
    (岩城)「まるで俺のように勇ましいな、マウント富士は」
    (度井垣)「(笑)そうだな」
    と、度井垣は、窓際に座って考え事をする紘一に声をかけた。
    (度井垣)「おい、紘一…」
    (紘一)「…えっ? なんだい?」
    (度井垣)「さっきから黙り込んで何を考えているんだよ」
    (紘一)「あぁ~ 甲子園のこと。どんなところなんだろうなぁと思ってさ」
    (戸野間)「紘一が今から緊張していちゃだめづら! おいら達のキャプテンはいつもどっしりと構えてくれてなきゃダメづら!」
    (紘一)「そうだな(笑)すまん、スマン!」
    (度井垣)「俺たちは同級生だけど、でも紘一の背中をずっと追いかけてきたんだ。紘一が弱気になればチーム全体が弱気になってしまうことぐらい、俺たちに言われなくても分かっているのが俺たちのキャプテン…瀧野瀬紘一だからな!」
    (紘一)「そうだな。決して弱気になっているつもりはないんだけど・・・とにかく見たことの無い場所だからな。小学1年生で野球を始めて、ずっと目標にしてきた場所…甲子園。甲子園に立つことだけが野球を続けてきた理由じゃないはずなんだけど、いざそこで試合をするって考えるとさ…」
    (度井垣)「俺たちがやることは決まっているよなっ…紘一」
    (紘一)「あぁ、そうだな。甲子園でも俺たちの野球をやる! それだけだよな」

    この時の紘一は、度井垣達には話さなかったが、白進学院の監督と話した「甲子園の魔物」のことを考えていたのだった。
    「何もおきなければいいんだけど…」と。
    富士山に見守られながら、東庄高校野球部の乗った新幹線は、宿泊先の京都に向かって走り抜けていったのだった。

  • #266

    六輔 (日曜日, 17 11月 2019 00:22)


    その日、東庄高校野球部は、第86回全国高等学校野球選手権大会抽選会会場の大阪フェスティバルホールにいた。
    ホールには、49代表校の全選手と監督が並んで座り、その座席横に立てられた高校名を示すプラカードを見ると、錚々たる甲子園常連校が名を連ねていた。
    49代表校の抽選順は既に前日の予備抽選で決定していた。
    東庄高校は27番目、栃木県代表の県立宇都宮南高校に次いでの順番だった。
    49代表のうち、34校が1回戦から登場し、それに勝ち残った17校と、2回戦から登場する残りの15校が加わって32校になる。
    そこからの5試合に勝った高校が深紅の優勝旗を手にすることが出来るのであるが、当然、頂上を目指す高校は、2回戦からの登場を願って抽選会に臨んでいた。

    東庄高校は、大阪フェスティバルホールのほぼ中央に指定された座席に部長先生、監督、紘一、度井垣・・・と、順に並んで座った。
    (度井垣)「なんか緊張するなぁ…」
    (紘一)「あぁ、そうだな」
    (度井垣)「相手はどこになるんかなぁ…」
    (紘一)「まぁ、こればかりは考えてもどうにもならないからなぁ」
    (度井垣)「うちが相手と決まって喜ぶ高校もあるだろうな…初出場のうちとさ」
    (紘一)「あぁ、それはあるだろうな!おそらく48校、全部がそうじゃないのか? うちは、初出場の無名の県立高校だからな」
    (度井垣)「そんな喜んだ相手をギャフンって言わせてやりたいよな!」
    (紘一)「そうだな。とにかく、相手がどこになろうが、その県の代表校であることには違いない…俺たちは俺たちの野球をやるまでさ!」
    (度井垣)「そうだな!」

    抽選は順調に進んでいき、いよいよ27校目、紘一が抽選を引く順番になった。
    ステージに上がった紘一は、27と書かれた番号札を係員に渡し、「ふぅっ!」とひとつ息を吐いて、初めからそう決めてあった通りに右手を抽選箱の中にいれた。
    キャプテンのその様を東庄高校の選手たちは、固唾をのんで見守っていた。
    「どこだ・・・」

  • #267

    六輔 (日曜日, 17 11月 2019 20:24)


    東庄高校の選手たちが大阪フェスティバルホールで抽選会に臨んでいた頃、東庄高校の教職員たちは、学校の「礼法室」に集まって25インチのブラウン管テレビの前で相手校が決まる瞬間を待っていた。
    校長を中央に、その右隣に教頭、左隣に事務長が座り、他の教員はその後ろに横一列に並んで抽選会を見守っていた。
    (女子教員A)「抽選会から生放送するなんて、高校野球だけよね」
    (女子教員B)「ホンと、そうね」
    (校長)「さぁ、いよいよ東庄高校の番だぞ! おぅ~ 瀧野瀬君は、なかなかいい表情をしているじゃないか」
    (教頭)「ホンとですねぇ、校長。さぁ、いいところを引き当ててくれよ、瀧野瀬君!」

    ブラウン管の中の紘一が、抽選箱から引き抜いた右手を高々と上げた。
    (校長)「何番だ?」
    (教頭)「えっと・・・34番です!」
    (事務長)「34番は、大会5日目、第2試合の3塁側です」
    (教頭)「1回戦の最後の登場となる番号札です、校長」
    (校長)「そっか…そ、それで対戦相手は?」
    (事務長)「ま、まだ相手校は決まりません。33番はまだ空いています!」
    (校長)「ふぅ~ 緊張するなぁ」
    (教頭)「あと、残りは22校・・・どこになりますかねぇ」

    それからステージに上がって抽選クジを引いていくのは、皆、甲子園の常連校ばかり。
    各校のキャプテンが番号札をかざすたびに、礼法室にため息が流れた。
    (教頭)「次は天理高校かぁ・・・っと、違うな! 次は…報徳学園・・・次は…横浜高校・・・なかなか決まらないもんだなぁ」
    (校長)「あとどこが残っているのかね?」
    (事務長)「鹿児島実業、熊本工業、県岐阜商、明徳義塾・・・まだまだプロに何人ものスター選手を輩出しているような甲子園常連校ばかりです」
    (校長)「…そっか」

    徐々に対戦相手が決まって行った。
    天理対青森山田、浦和学院対広島商業、明豊対中京大中京、尽誠学園対東海大翔洋、報徳学園対横浜高校と1回戦から甲子園を沸かせてきた常連校同士の対戦が決まるたびに会場が歓声に包まれた。
    と、校長がさりげなく聞いてきた。
    (校長)「なぁ、教頭先生・・・」
    (教頭)「はい」
    (校長)「うちは白進学院さんを破った高校なんだから、出来れば対戦したくないと思われている高校に入るんだろう?」
    (教頭)「う~ん、それはどうでしょうか、校長・・・強い白進さんに勝っていることは分かっていても、やはり初出場校ですからねぇ」
    (校長)「えっ?やっぱりそういうことになるのかぁ。仕方のないことだな。いやぁ、しかし甲子園で名前をしょっちゅう聞く高校ばかりだなぁ・・・うん?ところであと何校残っているのかね?」
    (教頭)「・・・3校です」
    (校長)「その3校のどこかで決まる訳か・・・で、3校はどこなのかね?」
    (教頭)「初出場の鳥取商、京都外大西と・・・あと次、47番の弁慶高校です」
    (校長)「弁慶高校? 本当に弁慶高校が残っているのかね?」

  • #268

    六輔 (月曜日, 18 11月 2019 19:53)


    校長が驚く様を見て、女子教員Aが尋ねてきた。
    (女子教員A)「校長先生…弁慶高校でどうしてそんなに驚かれたんですか?」
    (校長)「弁慶高校は、去年の甲子園…春夏連覇で優勝した高校なんだよ!」

    女子教員Aには校長の話はピンとこなかったが、春夏連覇は途轍もなく大変な偉業なのである。
    甲子園は春と夏の大会があり、一年のうちにその両大会を続けて優勝した高校、いわゆる春夏連覇をした高校は、85年の歴史の中でたった6校なのだ。
    44回大会の作新学院、48回大会の中京商、61回大会の簑島高校、69回大会のPL学園、80回大会の横浜高校そして前年度85回大会の弁慶高校だ。
    高校野球にあまり詳しくない校長だったが、さすがに今大会の弁慶高校のことは把握できていた。
    (校長)「弁慶高校は、去年の春夏連覇のメンバーがほぼ残っていて、この大会の優勝候補の筆頭なんだよ」
    校長の話は正しかった。
    弁慶高校は、主砲・武蔵坊(ムサシボウル)とエース・義経(ヨシツネ)を中心としたチームで、二人とも2年生のときに春夏どちらの大会も初出場で、両大会とも全国制覇を成し遂げてしまったのだった。
    武蔵坊と義経が3年になった今年の春の甲子園は、義経の故障で地区予選敗退し、3期連続の優勝は逃していたものの、この夏の大会は義経も完全復活し、下馬評では校長の言った通り優勝候補の筆頭だった。

    47番目の弁慶高校が登場してきた。
    2年秋から弁慶高校のキャプテンとなった武蔵坊がステージに上がり、47番の札を係員に渡すと、残り3枚となった札のうちから、最初に手に触れた札を迷わず掴んで高々と上げた。
    大阪フェスティバルホールの選手達も、東庄高校の礼法室でテレビを観ていた教職員たちも皆、同じことを考えていた。
    「33番とだけは書かれていませんように」と。
    武蔵坊の右手に持たれた番号札がアップで映し出された。
    「33番! 大会5日目、第2試合の1塁側です」
    会場がどよめいた。
    どこのチームも弁慶高校だけは最低2回戦までは戦いたくなかったからだ。
    31番、32番を引いていた市立和歌山と宇都宮南高校は、明らかにがっかりした様子だった。
    1回戦を勝ち上がっても、次に弁慶高校が待ち受けていると考えたからだ。
    東庄高校の選手たちは複雑な表情で事の成り行きを冷静に理解しようとしていた。
    「相手にとって不足なし…そういうことだよな」
    と、口にするのが精一杯だった。

    東庄高校と書かれたボードを紘一が、そして弁慶高校と書かれたボードを武蔵坊がそれぞれに持って、二人並んで写真撮影を済ませると、紘一から先に手を差し出した。
    「よろしく」
    『こちらこそ』
    紘一と武蔵坊が固い握手を交わすのを見守っていた東庄高校の選手たちは、紘一の凛々しい表情に「俺たちも覚悟を決めようぜ!」といわんばかりに、表情を引き締めた。
    「やってやろうぜ!」と。

  • #269

    六輔 (火曜日, 19 11月 2019 21:09)


    2004年(平成16年)8月7日。
    「第86回全国高等学校野球選手権大会・開会式」には、阪神電鉄甲子園駅、早朝5時15分着の始発電車から観客がどっと押し寄せ、入場者数は午前8時を待たずして阪神甲子園球場の入場制限となる4万7千人を超えていた。
    その大会には、東北高校のダルビッシュ投手や横浜高校の涌井投手など、人気選手が数多く出場しており、さらには開会式当日から天理、広島商、中京大中京、尽誠学園といった近畿圏近郊の高校が登場するとあって、開会式から満員札止めとなる盛況ぶりだった。

    開会式がスタートする午前9時になると同時に、NHK杯全国高校放送コンテスト兵庫県大会のアナウンス部門で優勝した坪子芙美子さんの美声で大会の開会が告げられ、トランペットとトロンボーンによるファンファーレが鳴り響いた。
    関西吹奏楽連盟に所属する高校生、総勢200人を超える精鋭たちによる「全国中等野球大会行進曲」、現在は「大会行進曲」と呼ばれる入場行進曲の演奏が始まった。
    甲子園の入場曲は、ZARDの“負けないで”や、AKB48の“恋するフォーチュンクッキー”など、その年に流行った曲じゃないのかと思う人がいるかもしれないが、それは春の甲子園大会の話だ。
    夏の選手権大会は、毎年「大会行進曲」と決まっている。
    「大会行進曲」を聞けば、「あぁ、今年も甲子園が始まったな。我が故郷の高校はどんな活躍をみせてくれるだろうか」と、そう感じさせてくれることだろう。
    ついでに言えば、全国高等学校野球選手権大会の歌というものもある。
    それが「栄冠は君に輝く」だ。
    『雲は湧き、光あふれて 天高く純白の球今日ぞ飛ぶ 若人よいざ、まなじりは歓呼に応え いさぎよし、ほほえむ希望 あぁ、栄冠は君に輝く』
    誰もが耳にしたことのある曲だろう。

    晴れ渡る夏の青空と外野の芝生の鮮やかな緑とがコントラストとなって眩しく輝く甲子園球場のライトスタンドと一塁側アルプスの間に設けられたゲートから先導者、国旗、大会旗の順に入場し、それについで前回大会優勝校の茨城県常総学院のキャプテンが深紅の優勝旗を持って入場してきた。
    その年、茨城県代表の座を初優勝の下妻二校に奪われた常総学院は、選手18人で入場することが出来ずに、優勝旗を返還するためだけにキャプテン一人での入場行進となった。
    その年は第86回大会、下一桁が偶数回開催であったことから、前回大会優勝校に続いて南から順に49代表校が入場してきた。
    各校の校名の書かれたプラカードを持つのは、西宮市立西宮高等学校2年の女子生徒達だ。
    今では全国的にも珍しくなった濃紺のジャンパースカート姿が印象的だ。
    「プラカード・ガールになりたい!」と、西宮に入学する女子生徒も多く、毎年、その倍率は2倍、ときには3倍にお及ぶという狭き門だ。
    過去には、祖母・母・娘3代に渡ってプラカード・ガールを務めた生徒もいれば、抽選の縁で担当したチームの選手とプラカード・ガールが結ばれた恋もあるというのは有名な話だ。
    ちなみにだが、春の甲子園大会は西宮高校の女子生徒達ではなく、各校の生徒、ユニフォームを着られなかった野球部員などがプラカードを持って入場行進をする。

    沖縄代表の中部商、鹿児島実業、宮崎の佐土原高校、大分の明豊高校と入場が続き、35番目に東庄高校が入場してきた。
    キャプテン瀧野瀬紘一が、凛々しい表情で優勝旗を持って先導し、一番後ろで行進している2年生小平の「イチ・二ッ! イチ・二ッ! イチ・二ッ!」の号令に合わせて他の選手達も「イチ・二ッ! イチ・二ッ! イチ・二ッ!」と大きな声を出し、背筋をピンと伸ばして両腕を大きく振って堂々と入場してきた。

  • #270

    六輔 (水曜日, 20 11月 2019 20:50)


    抽選会の時と同じように、東庄高校の教職員たちは礼法室に集まり、テレビに釘付けになってNHKの全国放送に自分の教え子たちの雄姿が映し出されるのを待っていた。
    (女子教員A)「もう直ぐですね、校長先生」
    (校長)「そうだなぁ」
    (教頭)「いやぁ、しかし、たくさんの寄付金が集まったのだから、甲子園出場を契機にユニフォームのデザインを変えたらどうだろうかというPTA会長からの提案には、どうなることかと心配していましたが、現場の声で事が決まってくれて良かったですね、校長」
    (校長)「そうだなぁ。漢字4文字なんて今どき古臭い!英語にすべきだ!なんて言われて・・・だが、野球部の監督もキャプテンも即決だったからな。自分たちが東庄高校の伝統を変えるつもりはありません!このユニフォームだったから全国の切符を手にすることが出来たんです!って、そう言われたときには、校長である私がしっかりしなきゃいけなかったんだと、反省させられたよ」
    (教頭)「まぁ、PTA会長は県会議員でもあるわけですから…校長には思っていても言いづらいこともありますでしょうし・・・とにかく事が丸く収まってくれて良かったですよね。野球部の彼らにとって、甲子園出場は一つの通過点であって、伝統を変えるものでもなんでもないんですからね」
    (校長)「そうだなぁ。・・・おっ、次に入場してくるんじゃないのかね?」
    と、テレビの画面が入場ゲートを通過してきた東庄高校を映し出した。
    教職員から拍手が沸いた。
    甲子園の観客席からは“初出場”のアナウンスに温かい拍手が贈られていた。
    自分の教え子たちの雄姿が映し出されると、何人かの担任は嬉し涙を流していた。
    「もう少し勉強を頑張ってくれるとありがたいんですけど…こんな姿を見せられたら、何も言えなくなりますよね」
    『ホンとだねぇ。私のクラスの戸野間君なんか、あんな風でいて、とても礼儀正しくて、ピアノの才能はプロ並みですからね』
    「うちのクラスの度井垣君と岩城君もそうです。制服を着ているときは無口なくせに、クラスで何か困っている人でもいようものなら、自ら率先して手を差し伸べてくれて…筋の通らないことが大嫌いで、それでもクラスの和を乱すようなことはせず・・・私のクラスは、度井垣君と岩城君がいてくれるから、最高にまとまりのあるクラスでいれるんです」

    それぞれの担任が野球部員たちを褒める言葉を嬉しそうに聞いていた校長がこう言った。
    「みんな自慢の生徒達っていうことですね。甲子園に出たことで、これからはそれなりに関心を持たれる学校になっていきます。野球部に限らず。ちょっとしたことでも“甲子園出場校の!”って、肩書をつけられて言われるようになってね。いい意味で、先生方も全員が気を引き締めていかなきゃならないですね」
    校長の話にそこにいた全部の教員がゆっくりとうなずいた。

  • #271

    六輔 (木曜日, 21 11月 2019 20:50)


    出場校全49校が入場し、外野に882人の選手が並んだ。
    全校が揃ったことを確認した大会役員が合図を送ると、882人の選手が49人のプラカード・ガールに先導され、一斉にバックネット方向に前進を始めた。
    「俺たちが代表校だ、見てくれ!」
    と、言わんばかりに全員が凛々しい表情で一斉に進んでくるその様は、開会式で一番感動的なシーンだ。
    全員が内野まで前進してきて、決められた位置で一斉に止まると、球場に割れんばかりの拍手が鳴り響いた。
    テレビは、南から北の順に入場してきた全校を端からゆっくりと映し出していた。
    それを東庄高校の礼法室で観ていた一人の教員がこう言った。
    (女子教員A)「うちの選手たちは、他の学校から比べたら、みんな小さいですねぇ」
    (教頭)「あぁ、私も今それを言おうとしたんだが…明らかに他の学校とは体格が違うね」
    (校長)「そのことは野球部の顧問から聞いていたよ、チーム平均で身長が7センチも小さいんだそうだ。うちの選手たちの平均が171センチで全校の平均が178センチ。平均を超えているのはキャプテンの瀧野瀬君と、サードの度井垣君の二人だけ」
    (教頭)「そんなに違うんですかぁ…甲子園常連校は、大型選手をたくさん特待生で集めていますからねぇ」
    (校長)「まぁ、寂しい話だがそれが現実だからなぁ…選手を集めなかったら甲子園には出られない…そんな時代になってしまったんだな」
    (教頭)「そういう意味では、東庄高校が勝ち上がっていけたらいいですよねぇ。他の公立高校も勇気を持つことでしょう」
    (校長)「そうだなぁ。選手を集めることなどしなくても、頑張れば甲子園に行ける!特待生をたくさん集めた私立高校とだって互角に戦えるんだ!っていうところを、ぜひ見せてもらおう!…きっと彼達ならやってくれるさ」
    (教頭)「そうですね…校長」

    私立の強豪校は、ほとんどの高校が野球特待生を入部させているのだが、その特待生制度は学校によって色々である。
    鳴物入りで強豪校にスカウトされていく選手の噂を聞く限りでは、特待生の最上級の扱いとして「S特待」なるものがあるそうだ。
    入学金の免除はもちろんのこと、入学してからの3年間の授業料、施設費の免除まで、大部分を負担無しで学校に迎え入れてもらえるのだ。
    当然、そこには特別な扱いをするからうちに来て欲しいという、見え見えの狙いがある。
    だが、どんなスーパー高校生であっても、人間である以上、ケガや病気に見舞われることも無いとは言えない。
    野球が続けられなくなっても退学を迫る学校はほぼ無いらしいが、学費などの免除は中止されるのだそうだ。

    こんな話を聞いたことがある。
    「東北地方の強豪校の練習を見ていると、選手のほとんどが関西弁で話しているんだ」と。
    地方の私立高にとって甲子園に出る野球部は生徒を集める広告塔になっていて、高校は有望な選手を集めるためにあらゆる手を尽くす。
    野球特待が日本学生野球憲章で禁じられているにもかかわらず横行していることが社会問題となり、それを受けて「特待生は各学年5人まで」とする新たな制度がスタートしたのだが、そんなルールは直ぐに形骸化した。
    “成績優秀”や“母子家庭による経済的理由”ということにすれば、その5人の枠に数えなくて済むからだ。
    福島県では、連続出場を誇る高校がある。
    ちなみにだが、ほとんどの選手が福島県以外の出身だ。
    先に述べたが、そこが違うのが、東庄高校が決勝で戦った白進学院だ。
    白進学院に県外出身者は一人もいない。

  • #272

    六輔 (金曜日, 22 11月 2019 20:24)


    開会式を終えた東庄高校の選手達は、その日は宿舎に帰ってゆっくりと過ごした。
    TV観戦をする者、部屋でのんびりする者、宿舎の外に出てバットスイングをする者と、思い思いに自由時間を過ごした。
    そしてその翌日からは、弁慶高校との試合時間に合わせて10時から12時までの2時間、練習で汗を流すことになった。
    例年、白進学院が借りて練習しているその球場は、環境の整った球場で、選手達は練習に集中できると喜んだのだったが、その思いは直ぐに崩された。
    練習会場に多くのマスコミが待ち構えていたのだった。
    これが甲子園というところなのかと思っていたが、どうやらそうではないことが分かった。
    マスコミの目的はただ一つ、紘一の取材だった。
    あるプロ野球球団のスカウトが、「今年の一番の注目選手は瀧野瀬紘一君でしょ!」と、筆頭に紘一の名前を挙げたことがマスコミ各社に知れ渡り、そのことが引きがねとなって、多くのマスコミが練習会場に押し寄せたのだった。
    当然、マスコミは紘一へのインタビューを申し入れてきた。
    だが、そう言った部類の取材が何より苦手な紘一は、部長先生にお願いし、丁重に断った。
    「試合まで集中していたいので」
    と、そういう理由を言われてしまえば、ほとんどのマスコミは紘一へのインタビューを諦めざるを得なかったのだが、ある新聞社の記者だけは納得せずに、学校に対してクレームをいれてきたのだった。

    (女子職員A)「教頭先生…新聞社の記者さんから、うちの瀧野瀬君のことで話があるというのですが…」
    (教頭)「分かった、代わろう・・・もしもし、お電話代わりました。東庄高校教頭の名崎です・・・」
    (記者)「あぁ、スポーツ通信の古沢といいますけどね、おたくの瀧野瀬君を取材させてもらおうとしたんですけど、部長先生が頑として許可を出してくれないんですよ! こっちとしては、せっかく取材してやろうって言ってるのに、どういうことですかねぇ・・・困っちゃうんですよね。教頭先生から部長先生に言ってもらえませんかねぇ…」
    (教頭)「ところで、どういう取材なんでしょうか…普通の取材であればうちの顧問先生も断るようなことはしないはずなのですが…」
    (記者)「はぁ? なるほど~ 甲子園初出場ということで、もしやとも思いましたが・・・もしかして、教頭先生は、瀧野瀬君がどれほど注目されているのかご存じじゃないんですか?」
    (教頭)「うちの瀧野瀬キャプテンが注目? まぁ、うちの中心選手であることは間違いありませんが、特別に注目されるような選手では・・・」
    (記者)「(笑・笑・笑・笑)やっぱりそういうことかぁ。これだから、甲子園に慣れていない学校は困るんですよね」
    (教頭)「はっ? それはどういう意味ですか?」
    (記者)「甲子園常連校であれば、有望な選手の将来への道筋をたてたくて逆に向こうからあの手この手を使って売り込んでくるんですよ!うちの新聞の影響力は大きいですからね!」
    (教頭)「そういうことですか。それで、うちの顧問先生が取材を断った理由が分かりました。まずは、瀧野瀬本人がそう言った取材を好まないので、本人が顧問に断って欲しいと言っているんだと思います。個人的な取材であって、本人が望んでいないのだとしたら、それを学校から取材を受けるようにとは言えませんよね? ということなので、どうぞ、ご理解ください」
    (記者)「はぁ? ご理解ください? なにを血迷ったことを言ってるんですか…教頭先生!」

  • #273

    六輔 (土曜日, 23 11月 2019 23:20)


    その記者は悪びれる様子もなく、こう言った。
    (記者)「甲子園がこれだけ多くの人に注目されるのは、我々、マスコミの力があってのことなんですよ!将来有望な選手であるなら、あるなりにそれを知ってもらったうえで甲子園でプレイするのが礼儀っていうものなんですよ・・・甲子園というところはそういうところなんですよ! よく覚えておいてくださいねぇ~」
    教頭は、記者の言葉に呆れ果て、返す言葉も出なかった。
    (教頭)「・・・・・」
    (記者)「ねぇ、教頭! 聞いてます?」
    (教頭)「…聞いていますよ」
    受話器を持つ手を震わせ、こみ上げてきた怒りを必死に抑えようとするその様を後ろで見ていたのが校長だった。
    校長は、黙って教頭から受話器を奪い、黙って耳にあてた。
    (記者)「ですからねぇ、マスコミが取材をさせろって言ってる訳ですから、それに応えるのが当然のことなんですよ! 分かりますかぁ…甲子園素人の東庄高校の教頭先生」
    (校長)「いやっ、これは失礼しました。電話を代わらせていただきました。甲子園素人の東庄高校の校長です!」
    (記者)「こ、校長? おやおや、これは話が早い! 校長先生ともなれば、新聞社に協力するのは、当然理解してくれますよね?」
    (校長)「そうですね、甲子園大会に出場した学校の全てが協力し合うことで、甲子園がさらに良い大会になるというのであれば、惜しみなく協力させていただきます。ですが、さきほど教頭が申しましたように、個人的な取材となれば、これはまた話が違うことだと、我々はそう考えます。従いまして、学校で一番の責任者である私が、はっきり申し上げます。瀧野瀬本人が望まない取材は、お断りさせていただきます」
    (記者)「はぁ?・・・どういう学校なんですかねぇ、これだけ言っても分かってもらえないなんて、信じられませんよ! 甲子園に出た選手は記事に取り上げられることで、野球人としてさらに成長していける訳ですからねぇ・・・その芽を学校が摘んでしまうとは・・・生徒の将来のことなんて全く考えていないってことなんですかねぇ…あぁ、信じられませんよぉ~」
    校長も教頭と同じように受話器を持つ手を震わせ、それでも冷静な声でこう答えた。
    (校長)「ひとつだけ、私に言えることがあります。うちの瀧野瀬はただ純粋に野球が好きで、頑張って甲子園出場の切符を手にすることができました。彼は、高校生です。ひとりの野球選手、うちの部活動のキャプテンであって、甲子園の商品ではありません!!!彼には、自分で自分の道を切り開いていく力があると私は信じています」
    受話器の向こうで記者は短くこう吐き捨てた。
    (記者)「これ以上言っても無駄ってことですね。分かりましたよ…せいぜい、後悔しないでくださいね」

  • #274

    六輔 (日曜日, 24 11月 2019 18:26)


    校長は「ふぅ~」と長い息を吐き、受話器を置いた。
    (教頭)「校長・・・私が最後まで対応すべきところ…申し訳ありませんでした」
    (校長)「いやいや、こういう嫌な役回りこそ、校長である私の仕事なんだよ、教頭先生」
    (教頭)「校長…」
    (校長)「何も心配することはないさ。もし…もしもこのことが高野連で問題視されるようなことにでもなるなら、私は、身を賭して瀧野瀬君を守るよ!どこにでも出てゆく!逃げも隠れもせんよ!」
    (教頭)「校長…」
    (校長)「いやぁ~ しかしズバリ言われてしまったなぁ・・・甲子園素人の東庄高校ってな。間違いじゃないよな、なにせ初出場なんだからな(笑)」
    (教頭)「校長…私は校長のような立派な先生の下で一緒に働けたこと、誇りに思います」
    (校長)「そんな大げさなことじゃないさ! 仕方ないじゃないか、何をどう言ったって、瀧野瀬君自身は先生たちが知っての通りの生徒なのだからね。3年生になった今もただの“野球小僧”のままなのだからね(笑)」

    その日以降、マスコミから学校へクレームが来ることは無くなった。
    校長も教頭も、自分たちが“井の中の蛙大海を知らず”であったことを認めるとともに、世間の怖さ、大人のエゴを強く覚えたのだった。
    ただ、別の視点からみれば、この記者とのやりとりによって自分のところの生徒、瀧野瀬紘一が、マスコミからそれほどまでに注目される選手であったのだと初めて知った校長、教頭だった。
    (校長)「うちのキャプテンは、そんなに注目される選手だったのだね?」
    (教頭)「校長…実は、私は今日知ったことがあるんです」
    (校長)「なんだね?」
    (教頭)「白進学院との決勝戦には、プロ野球のスカウトが6球団もネット裏に陣取って観戦していたんだそうです」
    (校長)「もしかして?」
    (教頭)「はい、そうです。うちの瀧野瀬紘一を観るためにです。前もっていろんな情報収集をしているプロのスカウト達も、ほとんどの球団が、うちの瀧野瀬はずっとノーマークだったそうなんです。それが準々決勝あたりからの活躍が外に聞こえだして…プロのスカウトのそんな動きを聞きつけた新聞記者が取材を申し込んだんですよね。ただ、校長が言ったとおり、瀧野瀬君自身に全くそんな自覚が無いものですから・・・例え自覚があったとしても、瀧野瀬君は表に出るような選手じゃない・・・そう監督から聞いていますし」
    (校長)「そうだったのかね。とにかく、彼には甲子園を楽しんでもらいたい・・・私は、純粋にそれだけを願うよ…それでいいんだよな?…教頭先生」
    教頭は満面の笑みを浮かべて応えた。
    (教頭)「はい、校長」

  • #275

    六輔 (月曜日, 25 11月 2019 20:27)


    地元の普通の中学生達が地元の公立高校に進学し、文武両道で部活に励んでつかみ取った甲子園。
    地元に愛される東庄高校野球部を応援したいと思う町の人達は、こぞって観戦ツアーに申し込みをし、旅行会社が発売したチケットは、わずか3時間で完売となった。
    旅行会社が用意したバス70台、3,000人が前の日の夜に地元を出発し、それとは別に東庄高校の全生徒と学校関係者がバス28台に分乗し、ツアーバスとほぼ同じ時刻に学校を出発、片道、約11時間の長旅に出た。
    夜の高速道路は順調にバスを走らせ、到着予定時刻よりも大幅に早く着くことになったのだが、バスは甲子園手前のサービスエリアに停車し、そこで必要以上に休憩時間が与えられた。
    「えっ? このサービスエリアで4時間近く待つの?もう甲子園は目と鼻の先なのに…」
    当然、事情が分からない人たちからは苦情に近い悲鳴があがったが、それでもバスツアーの面々が自由には行動が出来ない理由があるのだ。
    それは、ただ一つ・・・駐車場の都合だ。
    駐車場にバスを入れられる時刻が決まっているため、いくら甲子園に早く着こうが、自由には入庫出来ずに、結果、手前のサービスエリアで時間調整をしなければならなくなるのである。
    「東庄高校を応援に来られた皆さんは幸せな方ですよ。これが第4試合にもなると、延長戦があったりして、さらに待たされることがありますし、何より、試合開始時刻にちゃんと間に合った訳ですから。交通渋滞にはまって、間に合わなかったという応援バスはしょっちゅうあるんですよ」
    というバス会社の説明にバスに乗ってきた町の人達も納得せざるを得なかった。
    その点、渋滞など一切関係のないのが鉄道や飛行機を使っての応援だ。
    須藤町長は、町民とのバスツアーを望んだが、70歳を超える町長にバスの長旅は過酷すぎて、その後の公務にも支障が出るという理由で、秘書官に説得され、渋々新幹線で前の日の夜に秘書官と一緒に大阪入りしていたのだった。

    甲子園への応援での移動手段で思い出されることがある。
    日本航空123便墜落事故だ。
    123便は、昭和60年8月12日午後6時過ぎ、大阪・伊丹空港を目指して東京・羽田空港を飛び立った。
    飛び立って直ぐに機体を破損した123便は、完全に操縦不能に陥り、迷走飛行の末、群馬県の御巣鷹山に墜落した。
    この事故では昭和の大スター坂本九氏が亡くなったことがたくさん報じられたが、乗客乗員524名うち520名が亡くなった中には、翌日の甲子園での応援を楽しみにしていた乗客がたくさん乗っていたのだった。
    「明日は、孫の雄姿が観られるよ」と。

    東庄町を前日の夜のうちに出発した面々は、道中、色々なことがありながらも、甲子園での応援が始まるまであと1時間となってようやくバスが駐車場に入り、バスを降りることが出来た。
    面々は、駐車場からおよそ1.3キロの道のりを歩かされ、ようやく甲子園球場が見えてきた。
    「あっ、甲子園球場だ! 着いたぞーーー!!!」

  • #276

    六輔 (火曜日, 26 11月 2019 19:18)


    東庄高校の生徒達も、東庄町の人達もほとんどの人が初めて直に目にする甲子園球場。
    甲子園球場は、蔦(つた)の鮮やかな緑に覆われていた。
    蔦は、夏の太陽の光を浴びて茎も葉も生命力に満ち溢れ、夢を掴んだ高校球児が集う球場に相応しい出で立ちで、応援に駆け付けた者達を迎えてくれた。

    実は、この甲子園球場の“蔦”には、こんな逸話がある。
    それは、東庄高校が甲子園初出場した2004年から3年後のこと、聖地・甲子園球場が改修されることになった。
    改修する条件の一つに、甲子園球場のシンボルである蔦を残したいということがあり、そこで考案されたのが“蔦の里帰り事業”だった。
    甲子園球場の蔦は、改修される前に高野連に加盟する4,000校を超える高校に贈られた。
    北海道のある高校では、冬場が零下20度近くまで冷え込むため、甲子園から贈られた蔦は校長室に置かれ、野球部員が一生懸命に水やりをし、枯れた葉を取り除いたりして懸命に栽培を続けた。
    入学式や文化祭では廊下に展示して理解を広め、「絶対に枯らさない!」を合言葉に成長を見守り続けた。
    そんな高校もあるなか、発表されたのが「全国の高校野球部が育てた蔦を植樹しよう」いう“蔦の里帰り事業”だ。
    そこに参加したのが北は北海道から南は沖縄までの233校だった。
    ちなみに、小生の故郷栃木県でそれに参加したのは県立鹿沼高校と県立藤岡高校の2校だけ。
    藤岡高校はその後に栃木南高校(現・栃木湘南高校)と統合されたため、栃木県内で甲子園の蔦を見ることが出来るのは、鹿沼高校だけだ。
    鹿沼高校の蔦は今も元気に育っている。
    夏場になると、バックネットを茎がよじ登り、バックネットの頂上まで達するその様は、その当時の監督の想いを思い起こすのに十分な成長具合だ。
    同校の南側に道路を挟んでホームセンターがあるが、そこに買い物にでも行った時には駐車場から北を向いて高校の南東の角に立つバックネットを見れば目に入るはずだ。

    “蔦の里帰り事業”に参加した233校の校名は、改修後の甲子園球場の入口付近にプレートとなって残され、その当時の鹿沼高校の監督の熱い想いは、甲子園の地で永遠に生き続けることとなった。
    そのことを後世に語り続けていくのが、いま残された者の役目なのだと小生は考える。

  • #277

    六輔 (水曜日, 27 11月 2019 21:23)


    東庄高校の全校生徒約1,200人と、3,000人を超える東庄町の人達の御一行は、甲子園球場3塁側の13番と14番入場ゲートに並んだ。
    13番・14番入場ゲートは球場の東側にあり、まだ午前中であったがために御一行は、夏の直射日光に容赦なく照らされて汗だくとなって入場を待った。
    「どうして直ぐに入場させてくれないんだ」
    と、事情を知らずに不満を口にする者もいたが、アルプススタンドで応援をする者は、球場に着いて直ぐに入場できる訳ではないのだ。
    アルプススタンドの応援団席は、前の試合が終わってそこで応援していた者が総入れ替えとなり初めて次の試合の応援団の入場が許されるのだ。
    その日、東庄高校と弁慶高校の試合の前、市立和歌山対宇都宮南高校の第一試合は11-6で市立和歌山が勝ち上がった。
    3塁側アルプス席から宇都宮南高校の応援団が出ると、直ぐに13番入場ゲートから生徒たちが、14番入場ゲートから町の人達がようやく入場を許された。

    入場ゲートで係のお兄さんにチケットを渡し、3階へと続く階段を登っていくと、甲子園上空の青空が目に飛び込んできた。
    心躍らせながら、アルプススタンドに足を踏み入れると、眼下にグランドが広がって見えた。
    初めて甲子園に訪れ、グランドを見下ろした者のほとんどが声を出す。
    「おぉ~」
    誰もが球場の大きさに驚くのである。
    そして野球をやっていなかった者でさえ、高校球児がこの球場に来ることを目標に頑張る意味を知るのだった。
    「こんな球場で野球が出来る・・・それだけで幸せなことだよ」と。

    気づけば、グランドでは東庄高校がノックに備えてベンチ前に出てきていた。
    甲子園で初めて見る、我が町の小さなヒーロー達が、とても輝いて見えた。
    「いいぞー!!!東庄高校頑張れ~」と、思わず声が出た。
    東庄高校がノックを先にやるということは、東庄高校が後攻であることを意味する。
    スコアボードに視線をやると、確かに先行に「弁慶」、そして後攻に「東庄」の二文字が書かれてあった。
    試合前、両キャプテンのジャンケンで先攻後攻を決めるのだが、弁慶高校キャプテンの武蔵坊がジャンケンに勝って先攻をとったのである。
    紘一は、試合前から監督と相談して、ジャンケンで勝ったら後攻をとろうと話していたので、結果、両校とも希望するところで収まったのだった。

    甲子園では、先攻後攻のどちらが有利かという話がある。
    短期決戦、負けたら終わりのトーナメント制の甲子園では、様々な要素が勝敗に関わる。
    ちなみだが、東庄高校が地方大会の決勝戦で戦った白進学院は、そのほとんどを先攻で勝利している。
    監督が「攻撃野球」を掲げ、攻める姿勢を前面に押し出して、ずっと低迷していた白進学院を復活させたのだった。
    一方、中にはこんな監督もいる。
    それは「県大会では後攻、甲子園は先攻で!」という監督だ。
    県大会では「負けたらどうしよう…」という高校生の心理が働く。
    そのときに一番怖いのがサヨナラ負けだ。
    後攻であればサヨナラ負けが無い分、精神的に楽だと後攻を選び、甲子園に行ってしまえばもうお祭りみたいなものだと、先攻を取ってどんどん攻めていくという考えなのだそうだ。

    紘一と監督は、甲子園に来てその翌日には話し合っていたのだった。
    「どうする?」
    『後攻がいいと思います。地方大会は全部後攻で勝ってきましたから。普段通りの野球をやりたいので…』
    「そっか、分かった」
    監督とそう決めていた紘一は、ジャンケンに負けたが、武蔵坊が先攻を取ってくれたことに心の中でこうつぶやいた。
    『ラッキーだぜ! うちの野球ができるよ』と。

  • #278

    六輔 (木曜日, 28 11月 2019 20:34)


    東庄高校のノックが始まった。
    県大会で何度も見てきた光景だったが、アルプスで見守る人達には夢のような光景だった。
    選手一人一人が輝いて見えた。
    県大会では、一つ二つのミスがあったが、甲子園のノックではノーミスで終えることができた。
    いつものように町の人達の一番前の席を陣取った須藤町長は冷静に分析していた。
    (須藤町長)「地方大会のときより上手くなっているみたいだな!」
    (秘書官)「はい、なんとなく私もそう感じました」
    (須藤町長)「いよいよ始まるんだね、我が町のヒーロー達の夢舞台が」
    (秘書官)「はい」
    須藤町長が秘書官とそんな話をしていると、可愛らしい女の子の声が聞こえてきた。
    『甲子園名物、かちわり氷はいかがですかぁ~』
    「かちわり氷」とは、透明の袋に400グラムの砕いた氷が入っていて、そこにストローがさされている。1袋200円で売られている夏の甲子園の名物だ。
    (須藤町長)「すみません、一つください」
    (女の子)「はい…200円になります」
    (須藤町長)「初めて甲子園に来たんだが、これだけは必ず買いたいと思っていたんだよ」
    (女の子)「ありがとうございます…はい、ちょうどいただきます・・・今日も暑くなりそうですから、熱中症には十分に気を付けてくださいね」
    (須藤町長)「おぉ~ ありがとう。君のような可愛らしい女の子から「かちわり氷」が買えて…きっと東庄高校の勝利の女神だな! 名前を聞いてもいいかね?」
    (女の子)「はい。殿馬治美です!」
    (須藤町長)「えっ? トノマ? 東庄高校のセカンドを守る選手も戸野間と言うんだよ」
    (女の子)「えっ?そうなんですかぁ。あまり聞き慣れない苗字ですよねぇ…って、実は・・・殿馬治美は自分で自分のことを呼ぶときのニックネームなんです(笑)…ドカベンがあまりにも好きなので…」
    (須藤町長)「ドカベン?・・・ドカベン?・・・君はそんなに大喰いなのかね?」
    (女の子)「えっ?・・・ち、違いますよ!本当のドカベンじゃなくて、ドカベンという野球漫画です!まぁ、大喰いかと聞かれれば…確かに大喰いですけどね(笑) あまりにもドカベンが好きで、それで「かちわり氷」の売り子のバイトをすれば毎日甲子園に来て野球が観れると思ったんですけど・・・考えが甘かったです(笑) だって忙しくてグランドを観ている時間なんてないんですもの…でも、この雰囲気の中でお仕事が出来て幸せなんです」
    (須藤町長)「そっか。甲子園は君のような女の子に支えられているんだね。頑張ってください…トノマさん」
    (女の子)「はい、ありがとうございます。お仕事しながら応援していますね…東庄高校のこと」
    (須藤町長)「ありがとう」

    町長と女の子がそんな会話をしていると、グランドではスターティングメンバーのアナウンスが始まった。
    「お待たせしております。本日の第二試合、両チームのスターティングメンバー、並びに審判をお知らせいたします。
    先攻は、1塁側、弁慶高校
    1番・センター 石毛雅也(イシゲ・マサヤ)君、背番号8。
    2番・セカンド 北光男(キタ・ミツオ)君、背番号4。
    3番・ピッチャー 義経雄一郎(ヨシツネ・ユウイチロウ)君、背番号1。
    4番・ライト 武蔵坊岳(ムサシボウ・ガク)君、背番号9。
    5番・ショート 仲根一(ナカネ・ハジメ)君、背番号6。
    6番・ファースト 渚恵一(ナギサ・ケイイチ)君、背番号3。
    7番・キャッチャー 雲竜五郎(ウンリュウ・ゴロウ)君、背番号2。
    8番・レフト 土門幸助(ドモン・コウスケ)君、背番号7。
    9番・サード 田中清美(タナカ・キヨミ)君、背番号5。

    続きまして、後攻は3塁側、東庄高校
    1番・サード 度井垣久貴(ドイガキ・ヒサキ)君、背番号5。
    2番・セカンド 戸野間誠(トノマ・マコト)君、背番号4。
    3番・ショート 瀧野瀬紘一(タキノセ・コウイチ)君、背番号6。
    4番・レフト 岩城利成(イワキ・トシナリ)君、背番号7。
    5番・センター 里奈科康夫(サトナカ・ヤスオ)君、背番号8。
    6番・ファースト 犬飼義広(イヌカイ・ヨシヒロ)君、背番号3。
    7番・キャッチャー 坂田三吉(サカタ・サンキチ)君、背番号2。
    8番・ライト 微笑三四郎(ホホエミ・サンシロウ)君、背番号9。
    9番・ピッチャー 君島義徳(キミジマ・ヨシノリ)君、背番号1。
    なお、第二試合の審判は、球審、軽部。
    塁審、一塁、高橋、二塁、大塚、三塁、小林
    以上四氏により行われます。試合開始まで今しばらくお待ちください。

    40,000人を超える観客がその時を静かに待っていた。

  • #279

    六輔 (金曜日, 29 11月 2019 19:33)


    両チームのノックが終わると直ぐに阪神園芸のグランドキーパーによるグランド整備が始まった。
    高校野球選手権大会期間中、全ての試合でグランド整備を請け負うのが阪神園芸だ。
    阪神園芸の仕事は、試合前にグラウンドを平らにならしたり、規則に沿ってラインを引いたりと、選手が最高のパフォーマンスを発揮し、安全にプレイできる環境を整える影的な存在ではあるが、なくてはならない大切な役割を担う仕事だ。
    グランド整備の仕事は、トンボ(土の部分を平らにならすTの字をした棒)かけ3年、水まき10年といわれるほど厳しい世界だと聞いたことがある。
    熟練のグランドキーパーの手にかかると、マウンドは絶妙な傾斜角度に仕上がり、程よい弾力のあるグラウンドに仕上がる。
    天候や気象条件でもグラウンドの状態が大きく変化するらしく、土を固めにしたり、または柔らかめにしたりと、細かい調整が必要になるといった“匠のワザ”が必要なのだそうだ。

    阪神園芸・・・甲子園での試合を支える最強グランドキーパー集団のその整備の美しさは、“見事”の一言でも言い現わすことが出来ないほど、とにかく凄いワザである。
    毎日、たゆまず手入れをしているからこそ保たれているクオリティ。
    芝はきっかり15ミリに刈り揃えられ、土をならす整備カーは、マウンドを中心に見事な円を描き、一糸乱れぬ散水は、グラウンドに虹をかける。
    何と言っても一番に驚かされるのは、雨の日のグラウンド整備だ。
    知人の息子が甲子園に出場し、その応援に小生が駆け付けた時のことだった。
    前の日から振り続いていた雨が朝まで続いていた。
    「おそらく中止だよな」
    そう思いながらもバスで甲子園に向かっていた。
    第一試合であったことで、球場について直ぐにアルプススタンドに入ったが、グランドは水浸し。
    野球経験のある小生には、この状態では野球は出来ないと直ぐに分かった。
    だが、それは突然に始まったのである。
    まだ小雨が続いていながらも、間もなく雨がやむと予想した阪神園芸のグランドキーパー集団が整備を開始したのである。
    「嘘だ! この状態で試合が出来るはずがない!」
    そう、思いながら手際の良い作業を続ける阪神園芸のグランドキーパー集団を見守った。
    雨を含んだ土を除去し、新しい砂目の多い土と入れ替える。
    ひたすらにその作業を続けていると、みるみるうちにグラウンドは整備され、わずか1時間遅れで試合が始まったのだった。
    「すごい! 凄すぎる!」
    整備を終えたグランドキーパー達は、イレギュラーバウンドがひとつも無いことを願って試合を見守った。
    そしてその願いは叶い、小生が観戦したその試合では、ただの一つもイレギュラーすることなく、選手達は持てる力通りのプレイを最後まですることが出来たのだった。

    近年、こんな学校が現れた。
    それは、毎回守備につく度に内野の選手はグラウンドの土を自分の素手でならしてイレギュラーバウンドを未然に防ぐのだ。
    それは和歌山県の高校であるのだが、そこのキャプテンはこう言った。
    「グラウンドには神様がいて、小さなことを疎かにしたらミスをするというのを、この3年間で勉強しました。野球に対する姿勢を、神様は一番見ているのだと思います」と。
    ちなみにその選手は5季連続甲子園に出場し、5季連続ノーエラーで甲子園をあとにし、その年、NPBからドラフト2位指名を受けたのだった。

  • #280

    六輔 (土曜日, 30 11月 2019 20:11)


    阪神園芸によるグランド整備も終わり、間もなく試合が始まろうとしているときだった。
    「冷たくて旨いな~」と、かちわり氷を堪能している町長の後ろの席からこんな会話が聞こえてきた。
    「なぁ、ラガーおじさんって知ってるか?」
    『ラガーおじさん?…あぁ、有名人物だからな』
    「喫煙所に行ってきたんだけどさ、そこにあるテレビを観ていたら、映ってたよ…ラガーおじさん!今日も来てるよ」
    『そっか、今日も来てるんだ。最初は、毎日甲子園に来れて羨ましいなぁって思ってたんだけどさ…』
    「あぁ、確かに。毎日らしいからな」
    『なんか、最近、問題になっているんだろう?バックネット裏の最高の席を私物化している!って。 こないだ読んだ週刊誌には、最高の席に座っていながら、最高の場面で居眠りをこいていたって…』
    「えっ? そうなのか?」
    『うん、そうらしい』
    「高校球児が真剣勝負をしているのに、最高の席で居眠りするなんて失礼極まりないよな!」
    『そうだなぁ。そんな奴に、高校球児の真剣勝負を応援する資格なんかねーよな!』

    盗み聞きをしようとしていた訳ではないが、真後ろの席からそんな会話を聞かされた町長は、首を突っ込まずにはいられなかった。
    「その話のラガーおじさんとは、どういう人なんですか?」
    『あれっ、町長、知りませんでしたか。 ここ数年、甲子園の全試合を同じ席に座って観ている人がいるんですけど、その人が決まって横縞のラガーシャツを着ているんですよ。それでラガーおじさんと呼ばれるようになったんですけど・・・甲子園は内野も全部自由席ですからね。徹夜で並んで、入場と同時にダッシュで毎日同じ席を確保するみたいですよ。センター方向からのテレビカメラには、必ずラガーシャツを着ている人が映っていますから、今度観てください』
    「ほぉ~ 全試合を・・・よほど高校野球が好きなんでしょうね」
    『そうなんでしょうけど・・・でも、ちょっとどうかと思いますよね。事実、試合中に半分近く居眠りをしていることもあるそうですから』
    「なるほどぉ~ それじゃ、そんないい席がもったいないですよね」

    ちなみにであるが、この年の甲子園から数えること14回、第100回記念大会から混雑緩和のためにバックネット裏の中央特別席が全席前売り指定席となり、バックネット裏前方には主に小中学生が無料招待される「ドリームシート」が導入され、それと同時にバックネット裏からラガーおじさんの姿は消えることになるのだった。
    なお、「ドリームシート」に招待されるのは、近畿2府4県の小中学生チームで、試合毎に入れ替えられるのだそうだ。
    野球少年にとって憧れの地、甲子園。
    その、一番最前列に座って観戦できるとあって、喜び勇んで球場につくと、係のおじさんから決まってこう言われるのだそうだ。
    「お行儀よく観るように!」と。
    きっと何か、大人の事情があるのだろう。

  • #281

    六輔 (日曜日, 01 12月 2019 19:52)


    シートノックを終えた東庄高校の選手たちは、ベンチ裏の部屋に入って、試合前の最後のミーティングに臨んでいた。
    (監督)「ノックは完璧だったな。きっと、甲子園に棲む野球の神様が、お前達を歓迎してくれているんだと思う。最高のグラウンドで最高のプレイが出来る、その準備は全て整えてきたんだ。自信を持ってお前達、東庄高校の野球をやってこい」
    (全員)「はい」
    (監督)「キャプテン、何かあるか?お前の言葉で部員達に何か伝えてやってくれ!」
    (紘一)「はい、監督」
    紘一は、一歩前に出て振り向き、部員達と体を向き合わせ、ゆっくりと一人ひとりの顔を見てこう言った。
    (紘一)「みんな、いい顔してるよ!」
    キャプテンのその一言で選手たちは、さらに表情を和らげ、全員が同時にうなずいた。
    (紘一)「俺たちはここに来ることが目標だったんじゃなくて、この球場で野球をすることを目標に頑張ってきたんだ。監督が言ってくれたよな。最高のグラウンドで最高のプレイが出来る、その準備は全て整えてきてあるって。緊張なんかしていたら、それだけこの球場で野球を楽しむ時間が減ってしまう。それが分かってさえいれば、やることはただ一つだ! 俺たちの野球をやろう!」
    (全員)「ヨッシャー!!!」

    阪神園芸の最強グランドキーパー集団によって綺麗に整備されたグラウンド。
    係員の合図によって、両校の選手たちはベンチを飛び出し、綺麗に整備されたグランドに立って試合開始前の準備を始めた。
    先攻の弁慶高校は全員がバットを振り、後攻の東庄高校の選手たちは、スタメンがグラブを持ってキャッチボールを始めた。
    先発の君島だけは、どうにも緊張が解けていないように思った紘一は、キャッチャーの坂田とキャッチボールをする君島のところに歩み寄って、耳打ちした。
    君島が「え~・・・」と、その耳打ちに対する処理に困っているのもお構いなしに、紘一はファーストの犬飼とキャッチボールを始めた。

    と、捨てる神あれば拾う神ありだと言わんばかりに度井垣が君島の横に立った。
    (度井垣)「おい、君島」
    (君島)「はい」
    (度井垣)「お前、いま紘一に何て言われたんだよ?」
    (君島)「白進のトップバッター以上のホームランを打たれるなよ!…って、そう言われました」
    (度井垣)「なるほど!君島は立ち上がりが悪いからなぁ。適切なアドバイスだな」
    (君島)「え~・・・なにもこの甲子園の初マウンドの直前に嫌な記憶を呼び起こすようなこと言わなくてもいいですよね。相変わらずキャプテンは優しいんだか、冷たいんだか分からないですよ」
    (度井垣)「(笑)それだけしゃべれるんじゃ大丈夫だな!お前をリラックスさせる紘一らしいつぶやきだからな。でも君島、よく思い出してみ!お前は、昨日紘一からこう言われていたよな。5点までは覚悟してるから気楽に投げろって」
    (君島)「はい」
    (度井垣)「まぁ、相手は前年度優勝校。メンバーもほとんど残っている。そんなチームと戦うようになったのは、キャプテンのクジ運の悪さのせいなんだからさ、打ち込まれて負けたときには、キャプテンのクジが悪かったんだ!って、開き直ってやりゃぁいいのさ」
    (君島)「(笑)そうですよね、度井垣先輩」
    (度井垣)「何も心配するな! お前が困ったときに必ずあいつが助けてくれる…それが瀧野瀬紘一なんだからさ!」
    (君島)「そうですよね…白進との決勝戦だって・・・打たせていくんで、守りはお願いします、度井垣先輩!」
    (度井垣)「はいよ!」

  • #282

    六輔 (月曜日, 02 12月 2019 20:52)


    4氏の審判がグラウンドに出てきた。
    甲子園の審判委員は、全国大会審判委員と各都道府県からやってくる派遣審判委員で構成され、1試合7人で試合が運営される。
    そのうちの4人がグラウンドに立ち、2人が予備審判員、残る一人が記者の質問や、他の審判員からの質問に答えるなどの役目を担う控え審判員だ。
    2人の予備審判員は、突発事故があった時に緊急出動するのはもちろん、ナイトゲームになった時には外野の審判員としてグラウンドに立つ。
    派遣審判委員は、約6年に1度、各都道府県に割り当てられ、甲子園で球審以外の全てのポジションを担当するのだそうだ。
    ちなみに、球審は全国大会審判委員が担当し、派遣審判委員が球審を務めることはない。
    当然、審判員は両校と利害関係の無い人がグラウンドに立つ。

    話は少し変わるが、審判は「レフェリー」と「アンパイア」の二通りの呼び方をされる。
    野球の審判は後者の「アンパイア」だ。
    「アンパイア」は所定の位置に立って判定を下す審判のことで、バドミントン、テニス、卓球、バレーボールなど、審判の位置が決まっている競技がそう呼ばれる。
    それに対して「レフェリー」は、選手の動きに合わせてフィールド内を動き回る審判のことで、バスケ、ボクシング、ホッケー、ラグビー、レスリング、サッカーなどがそうだ。

    話は戻るが・・・
    高校野球の審判委員になるには、まずは各都道府県の高野連に登録する必要があり、初めての登録の際には、出身学校の野球部部長の推薦が必要になる。
    それがどういうことを指すかというと、高校時代に野球部員でなかった者は、ほぼ、高校野球の審判委員にはなれないということになるのだ。
    無事登録された次には、高野連主催の講習会を受講しなければならない。
    そして、まずは練習試合の塁審や球審に配置され、経験を重ねた上で地区大会の球審を務めることが出来るようになるのだ。
    高校野球の審判委員が甲子園に派遣されることは、高校球児と同じように夢なのだが、派遣されるまでには大変な道のりが待っている。
    ただ、真面目にコツコツと審判委員の仕事をこなしてさえいれば、甲子園に派遣されることはそう難しいことではない。
    東庄高校と弁慶高校との試合は、全国大会審判委員が球審を務め、残りの3氏は東京都、福井県、そして宮崎県からの派遣審判委員が務めることになっていた。

    ベンチ前に並んでその時を待っていた両校の選手達は、4氏の審判がホームベースめがけて走り出したのを確認し、それに追随した。
    球場は、前年度優勝校の弁慶高校が登場するとあって、客席はほぼ満席状態。
    球場を埋め尽くした高校野球ファンから暖かい拍手が沸いた。
    「始めます!」
    球審の短い言葉に続いて、両チームは挨拶を交わした。
    「お願いします!!」
    深く一礼して頭をあげた紘一は、「行くぞ!」と声を発し、その声にスタメン全員が「ヨッシャー!!!」と応えて、それぞれのポジションめがけて全力疾走していった。

  • #283

    六輔 (火曜日, 03 12月 2019 20:00)


    各ポジションに散った東庄高校の選手達は、一週間前にあった甲子園練習のことをそれぞれに思い出していた。

    出場49校には、大会の始まる前の3日間を使って、実際に甲子園球場を使って練習する時間が与えられる。
    それが甲子園練習だ。
    各校に30分間が平等に割り振られ、それぞれ思い思いに練習することが許されるのである。
    練習日3日目の10時から10時30分までの時間割をもらった東庄高校は、まずはノックを行い、継いでシートバッティングを行った。
    そして練習時間が残り5分となったとき、後ろで監督が見守る中、2年生エース君島投手がマウンドに上がった。
    周りを見渡すと、マウンドがマンモス球場のその中心にあることが分かった。
    「ここに立って投げられるんだなぁ…」
    そう考えただけで嬉しさがこみ上げてきた。
    「どうだ?君島」
    『はい! 傾斜は僕好みの角度ですし…何よりここで投げられるだけで幸せなことですから』
    「そっか。それなら思う存分楽しまなかったら嘘になるよな」
    『はい、楽しみたいです。投げてもいいですか?』
    「あぁ、ずっと投げていたいだろうけど…今日は20球だからな!」
    『はい!』
    憧れの甲子園球場のマウンドに立った君島は、全力で20球、全ての球種を投げた。
    「投げやすい!」
    それがまずもっての感想だった。

    そして迎えた弁慶高校との試合、試合前の挨拶を終えた君島は、自分のポジションであるマウンドに向かった。
    足跡1つなく、綺麗に整備されたマウンドが君島を待っていた。
    甲子園練習の時とは明らかに違った感情がこみ上げてきた。
    「俺はこの場所に立つことが出来たんだ」
    そう思うと、感無量だった。
    一歩一歩マウンドの傾斜を登り、真っ白なプレートを踏んだ。
    ロジンバックを左のポケットから取り出し、それをプレートの後ろに丁寧に置いた。
    キャッチャーの坂田が球審から受け取った真新しいボールを投げてきた。
    「パン!!」と、いい音をたててそれをキャッチした君島は、グラブを左脇の下に挟んで、両手でボールをこねた。
    「ふぅ~」とひとつ息を吐いて坂田を見ると、キャッチャーマスクの下にある笑顔が見えた。
    「楽しもうぜ!」
    坂田がそう言っているのだと、直ぐに理解した君島は、4万人を超える観客の前で初めてボールを投げた。
    緊張感は無かった。
    甲子園練習で投げたときよりも、さらに投げやすかった。
    ピッチャーは、その日初めてマウンドに立ち、初回の投球練習の良し悪しをその日の調子のバロメーターにする。
    普段でも自信のあるコントロールが、さらに狙ったところにボールが行っているのが感じられた。
    「これで打たれたのなら、しょうがねーよな!」
    そう心の中でつぶやきながら、君島はセットポジションに変えて投球練習最後の7球目を投じた。

  • #284

    六輔 (水曜日, 04 12月 2019 19:06)


    7球目を投げ終えた君島は、ユニフォームのズボンの右ポケットに手を忍び込ませて、その日の朝のミーティングを思い出していた。

    甲子園に乗り込んでからの東庄高校は、毎朝、ホテルの朝食会場で朝食をいただく前に全員が集合してミーティングを行ってきたが、当然、試合当日となったその日も、朝6時からミーティングがあったのだった。
    (監督)「おはよう!」
    (全員)「おはようございます」
    (監督)「甲子園に乗り込んできて今日で10日目。いよいよ今日だな。一人のケガ人もなく、今日を迎えられたことが東庄高校にとっては何よりなことだ。今日の試合の結果がどうなるかは分からない。強い方が必ず勝つとも限らない、それが甲子園だ。ひとつアドバンテージをあげるとするならば、うちには失うものが何も無いということだ。弁慶高校は、前年度優勝校という肩書を背負ってやってきている。簡単には負けられないという肩書をな。でもうちは違う。自分達の野球を好きに出来る! それがうちのアドバンテージだ! それならそうさせてもらおうじゃないか…今日は思う存分、お前たちの野球を楽しんでくれ! いいな!」
    (全員)「はい!!!」
    全員が目を輝かせ、「やってやるぞ!」と思いを固めたときだった。
    (陽菜子)「監督!」
    (監督)「おぅ、どうした…水嶋」
    (陽菜子)「ちょっといいですか?」
    そう言って陽菜子が立ちあがり、部員全員を見渡して話を始めた。
    (陽菜子)「え~ みなさんにお知らせがありま~す! 今日は、君島義徳君の誕生日です!」
    (全員)「おぅ~!!!」
    『おめでとう、君島』
    「おめでとうございます、君島先輩」
    (監督)「確か、教頭先生も今日が誕生日だったぞ! 57歳のな! 57歳だぞ、57歳!!! もうあと3年で還暦だ! いや~ いつかは自分もそういう年齢になるんだろうけど・・・今日は教員全員が学校を空ける訳にはいかないって、教頭先生だけが学校に残っての応援なんだそうで、せっかく自分の誕生日なのに、甲子園に行けないって、私に愚痴をこぼしてきたからな(笑)」
    (陽菜子)「あのぉ・・・監督…私の話を続けてもいいですか?」
    (監督)「おっと、すまんスマン! 話を途中で止めてしまったな、続けてくれ!」
    (陽菜子)「はい、監督。それで、君島君のお誕生日のお祝いにマネージャーたちから何かプレゼントがしたいなと考えて…ここで贈呈式を行いたいと思います」
    (君島)「えっ? 自分にプレゼントを用意してくれたってことですか?水嶋先輩!」
    (陽菜子)「そうよ、君島君。前に来て!」
    そう言って、前に出てきた君島に陽菜子はプレゼントを手渡した。
    (陽菜子)「今日は頑張ってね! 甲子園で最高のピッチングが出来ることを17年前に野球の神様が決めていたのよ…きっとね。お誕生日おめでとう君島君!」
    陽菜子が君島に渡したのは、マネージャー5人でこしらえた手作りのお守りだった。
    フェルト生地を使ったもので、表に「楽しむ!」と糸で文字が縫われてあった。
    (君島)「こ、これ・・・もしかして・・・」
    (陽菜子)「そうよ、お守りよ!」
    当然、他の部員からのブーイングが起きた。
    「え~ 君島だけにお守り?」
    ブーイングが起きるのも無理はなかった。
    何故なら、地方大会前には監督、部長先生、そして部員全員に手作りのお守りが渡されていたからだ。

  • #285

    六輔 (木曜日, 05 12月 2019 20:15)


    部員たちが小声で「君島だけ?」と、残念そうに話す声を嬉しそうに聞きながら陽菜子はこう言った。
    (陽菜子)「もちろん、みんなの分もあるわよ!」
    (全員)「え?・・・やったー!!!」
    そんな展開に君島は当然異議申し立てをしてきた。
    (君島)「水嶋先輩…」
    (陽菜子)「なぁに?」
    (君島)「みんなの分もあるって・・・それじゃぁ、今日誕生日じゃなかったとしても、僕ももらえたってことですか?」
    (陽菜子)「もちろんよ!」
    (君島)「もちろん…って」
    (陽菜子)「誕生日だからチームの誰よりも先に渡してあげたんでしょ?・・・それじゃ不満だった?」
    (君島)「ふ、不満じゃないですけど…」
    (陽菜子)「本当だったら、部長先生!監督! そしてキャプテン、3年生の順番で渡していくところなのよ!それをチームの誰よりも先にもらえたなんて、名誉なことじゃない! 違う?」
    (君島)「違くないですけど…」
    (陽菜子)「なぁに?なんか不満そうだわね!」
    (君島)「本当に不満じゃないですけど…僕のためにプレゼントをって先に言われたら期待しちゃうじゃないですか。あっ、もちろんお守りは何より嬉しいです。嬉しいですけど…誕生日のプ、プ、プレゼントって・・・どうして先輩達は、そうやって一旦持ち上げといて、それで結局は僕を奈落の底に落とすんですか?その性格…直した方がいいですよ!」
    (陽菜子)「あら! 先輩達は?先輩達はって言ったのは、私だけじゃなくて、キャプテン達もそうだ!って、言いたいのよね? キャプテン、よく、言って聞かせてやって!」
    (紘一)「・・・やだ…面倒くせーし」
    (陽菜子)「もぉ~ そんなこと言わないで! ほらっ、キャプテン!」
    (紘一)「ったく面倒くせーなぁ。一言いいか?君島…お前がいじられキャラだからこうなるんだよ!」
    (君島)「いじられキャラ?」
    (紘一)「そうだよ!ったく、世話やけるよな。まぁ・・・でもな。今日は君島には一番頑張ってもらわなきゃならねーし・・・今日の試合…お前がもし弁慶高校に打ち込まれたとしても、誰も文句言う奴はいないはずだ。それはな、お前がチームのエースとして一番に努力していること、…みんな分かっているからだよ」
    (君島)「…キャプテン」
    (紘一)「俺たち3年生全員、そしてチーム全員がお前に望むのは、ただ一つ! 自分のピッチングを楽しんでくれ! それだけだ」

    マウンドで投球練習の7球を投げ終えた君島は、朝のミーティングのこと、紘一の言葉を思い出しながら、ユニフォームのズボンの右ポケットに手を入れた。
    ポケットの中で手に触れたのは、表に糸で「楽しむ!」、裏に東庄高校野球部と刺繍されたお守りだった。
    「先輩・・・やっぱり先輩達は最高の仲間です! そんな仲間の中に入って一緒に野球が出来る自分は幸せ者です。一生懸命投げるんで、守りはよろしくお願いしますね!」
    そう心の中でつぶやいて内外野を見渡すと、それぞれのポジションから視線を感じた。
    「度井垣先輩…岩城先輩…キャプテン…里奈科先輩…戸野間先輩…微笑先輩…犬飼先輩・・・」
    3年生に守られた君島は、唯一同級生のキャッチャーの坂田に体を向けてこうつぶやいた。
    「行こうぜ、坂田! 俺たちは、こんな最高なメンバーに支えられて投げられる日本一幸せなバッテリーなんだからな!」と。

  • #286

    六輔 (金曜日, 06 12月 2019 21:04)


    君島は、マウンド上でロジンをポンポンと転がしてこうつぶやいた。
    「3番・義経さん、4番・武蔵坊さんの前にランナーを出さないこと…それが失点を少なくする最良の方法!」と。
    キャッチャーの坂田のサインを覗き込むと、試合前に相談してあらかじめ決めてあった通りの外角のスライダーのサインが見えた。
    「はいよ!」
    と、うなずいて君島は、主審の「プレイボール!」の発生に合わせて投球モーションを開始した。
    甲子園名物の試合開始を告げるサイレンと同時に投じた初球は、128キロのスライダーが外角いっぱいに決まった。
    「ストライーク!」
    主審のコールにホッとした君島だったが、意外と余裕があった。
    「へぇ~ 甲子園のサイレンって結構長いんだな」と。

    ちなみにだが、甲子園のあのサイレンは、シートノックを始めるとき、試合開始の合図を知らせるとき、試合終了の合図を知らせるときの3回に加え、8月15日だけは正午に鳴らされる。
    終戦記念日に戦没者追悼のための黙とうを行うためだ。
    甲子園球場でサイレンが鳴らされるのは高校野球だけである。
    同じ甲子園で行われる他の競技、例えば阪神タイガースの試合のときにはサイレンが鳴らされることはない。
    どうして高校野球の時だけサイレンが鳴らされるようになったのか、その理由は正確には分かっていないらしく、球場内で働くスタッフや球場外で次の試合を待つファン、甲子園球場の最寄り駅の駅員らにサイレンで進行具合を知らせたのではないかという説もあるそうだ。
    いずれにしても甲子園を象徴するサイレンであることは間違いなく、その伝統はずっと長い間受け継がれてきたのだった。

    君島は、坂田の2球目のサインを覗き込みながら、試合前に紘一から聞かされていたことを思い出していた。
    「君島・・・」
    『はい、キャプテン』
    「弁慶高校の攻撃を最少失点に抑える方法を伝授するよ」
    『はい、お願いしますキャプテン』
    「気を付けなければならないバッターは3人だ!」
    『3番の義経さんと4番の武蔵坊さん・・・それとトップバッターの石毛さんの3人ですか?』
    「おぅ~ 君島も成長しているんだなぁ」
    『キャプテンに褒められても、なんかすんなり喜べない自分がいるんですよね』
    「なんで? 素直に喜べばいいだろう?」
    『な~んか・・・あっ、でも成長しているっていうことは、今の3人で合ってるっていうことですか?』
    「あぁ、その3人だ。弁慶の得点パターンで一番多いのはトップバッターの石毛が出塁し、軽々と盗塁、2番のバントで3塁へ。あとは義経が返して得点する。これが弁慶の得点パターンだ。あとは、ランナーをためて4番武蔵坊の長打で大量得点。いずれにしてもキーになるのはトップバッターの石毛だよ」
    『どうやったら抑えられますか?』
    「うちの度井垣より打率の高い選手だからな」
    『・・・ですよね。となると、簡単には抑えられないってことですよね』
    紘一は満面の笑みを浮かべてうなずいた。
    「あぁ、そうだ!」

  • #287

    六輔 (土曜日, 07 12月 2019 20:39)


    紘一が、トップバッターの石毛を抑える決定的な方法を君島に伝授することはなかったが、それでも内野の守備位置のことだけはこう告げていたのだった。
    「石毛はとにかく足が速い。この大会でナンバーワンの俊足だろうな。地方大会で一番に多かったのは内野安打だ。だから、うちは勝負に出る」
    『えっ?勝負に?』
    「あぁ。思い切り前で守る。左バッターの石毛の特徴は、三遊間にあえてボテボテのゴロを転がし、内野安打にしているんだ。定位置で守っていたら、どんなに素早い送球をしても間に合わない」
    『でも、そうすると・・・』
    「そうだ。ヒットゾーンが広くなる。度井垣との三遊間をあえて狙って強く低い打球を打ってくるかもしれない。そうなったら、いくら横っ飛びしても届かないだろうな」
    『・・・はい』
    「それを承知で度井垣と守備位置をその時に決める。石毛は初回の第一打席では、1球でも多くボールを観ようと、早打ちはしてこない。それはツーストライクからでも簡単にバットに当てられる。バットに当てさえすればセーフになる自信があるということなんだと思う。だから、ツーストライク以降に前進守備を取るようになると思う。君島は、石毛に対してはコースいっぱいに投げ分けること!それだけを考えて投げてくれればいい。あとは俺たち3年がなんとかする!」

    そんな話を思い出しながら坂田の出した2球目のサインに簡単にうなずいた。
    「はいよ!」
    と、投じた2球目は内角いっぱいの144キロのストレート。
    考えていた通り、石毛はピクリともせず平然とそれを見送った。
    「ストライーク!」
    主審のコールに『キャプテンの言った通りですね』と、つぶやきながらキャッチャー坂田からの返球を「パン!」とグラブでいい音を立てて受けとった。
    石毛との勝負はここからだった。
    コースを投げ分ける君島に対して、くさいところはカットされ、投げ損じを待つトップバッターには最適なバッティングスタイルをみせてきた。
    カウントはツーボール・ツーストライク、すでに8球を投げていた。
    と、ショートを守る紘一の声が聞こえてきた。
    「大丈夫だ! 絶対に俺と度井垣の間は抜かせねーからな!」
    その声で君島は9球目の球種を決めた。
    『お願いします、キャプテン!』
    と、投じた外角のストレートに石毛はコンパクトなスイングでバットを合わせてきた。
    「カキーン!!」
    快音を残し、低い打球が前進守備をとる三遊間に飛んだ。
    投げ終えた君島が打球を目で追うと、その先には横っ飛びしてボールをキャッチしようとする紘一がいた。
    『キャプテーーーン!!!』
    と、叫ぶのと同時だった。
    横っ飛びして伸ばした左手のグラブの一番先でようやく打球を掴んだ紘一は、体を全部起こすことなく左ひざをつけたまま、ファーストにワンバウンドの低い送球をした。
    ファーストの犬飼が両足を180度開脚し、グラブを持つ左手をめーいっぱいに伸ばしたちょうどそのグラブの位置に紘一の投げたボールがきた。
    犬飼がボールを捕球するのとほぼ同時に石毛がファーストベースを駆け抜けて行った。
    『どっちだ!!!』
    観客が見守る中、1塁審判は右手を高々と上げてコールした。
    「アウトーーー!!!」
    紘一のまるで大リーガーのような美技に甲子園は揺れた。
    『ウォーーー!!!』

  • #288

    六輔 (日曜日, 08 12月 2019 20:14)


    いきなりのファインプレーに球場のどよめきがしばらく止むことは無かった。
    3塁側アルプススタンドでは、拍手が鳴り続いていた。
    「いいぞー、キャプテーーン!!」
    『町長、見事なプレイでしたね!』
    「あぁ、素晴らしい! 今のプレイをこの甲子園で意図も簡単にやってのける瀧野瀬君は、東庄町の真のヒーローだね!」

    君島がマウンドを少し降りたところで『キャプテン、ナイスプレイ!』と声をかけると、紘一は小さく右手でその声に応え、何事もなかったようにショートの定位置へと戻っていった。
    甲子園球場が、今のプレイに湧き上がっていることが、全く自分には関係のないことであるかのように、一つのプレイに一喜一憂しないというチーム方針を、この甲子園球場の4万人を超える観客の前でも貫く紘一がそこにいた。
    紘一は、自分のスパイクで作ってしまったグラウンドの僅かな窪みを右手で丁寧に直していた。
    そんな姿を見ながら君島はポツリとつぶやいた。
    「相変わらずカッコ良すぎですよ! …キャプテン」と。

    その日もネット裏に陣取っていたプロ野球のスカウト達が、初回の紘一のいきなりのプレイに賞賛を送っていた。
    「完璧なプレイだったよな」
    『あぁ、今大会ナンバーワンの俊足、弁慶高校の石毛君に対して、東庄高校はツーストライクまではほぼ定位置で守り、ツーストライクになってからは三遊間が極端な前進守備。石毛君のバッティングを調べつくしてあるよな』
    「そうだな。石毛君の内野安打の多さは尋常ではない数。最後の決め球に選んだアウトコースのストレートに、東庄高校が前進守備をとったことで石毛君は軽打から強振に変え、あらかじめそれを分かっていたかのように、瀧野瀬君は三遊間よりにポジショニングを変え、それをギリギリのところで掴んで、ワンバウンド送球・・・完璧だったよな。野性的としか言いようのない野球勘は、簡単に真似の出来るものではないよな」
    『地方大会で見せたあの守備をこの甲子園に来て、当たり前のように普通にこなし、ファインプレーをしても何事も無かったかのように、騒ぎたてもしない。瀧野瀬紘一・・・高校生とは思えない落ち着きだよな』

    ネット裏には、紘一を一度も観たことのないプロのスカウトやスポーツ新聞の記者達も陣取っていた。
    そしてその記者達の中には、学校に対してクレームを入れてきた新聞社、スポーツ通信の古沢記者もいたのである。
    紘一のプレイを目の当たりにした古沢は、
    「ほぉ~ なるほど・・・これが甲子園ど素人の東庄高校…瀧野瀬紘一か」
    と、怪訝そうな表情を見せたのだった。

  • #289

    六輔 (月曜日, 09 12月 2019 20:01)


    甲子園での試合を語るうえで、避けて通れないものがある。
    “甲子園の浜風”だ。
    甲子園球場は海からの距離が約1㎞と近いところにある。
    そのため特に夏の甲子園では、海と陸の温度差が大きくなることで、南西からの強い風が頻繁に吹く。
    陸の方が暖まりやすく冷えやすいのに対し、逆に海は暖まりにくく冷えにくいという中学時代に習った「昼間は海風が吹く」ってやつで、その強い風が俗に言う“甲子園の浜風”だ。
    浜風は、時に秒速10mを超えるときもある。
    傘をさせないぐらいの強さの風だ。
    さらに高校球児を苦しめるのは、浜風は上空で舞うということだ。
    フライ打球の落下位置を予測するのが非常に難しい。

    ひと昔前にこんなバッターがいた。
    それは第73回大会のことだ。
    甲子園球場に強い浜風が吹く日の試合で、ある選手があえてアッパースイングで高い内野フライを打ち上げ、全力で走り出した。
    高く上がった打球に内野手は一時的にボールを見失い、ボールを見つけたときには強い浜風で落下位置を判断できず、さらには打球の回転によって軌道が変化し、結果、内野手は捕球することが出来なかった。
    ボールが内野に落ちたときには、既に打者ランナーはベースを一周し、ホームインしていたのだった。
    内野に落ちたランニングホームランだ。
    翌日の新聞には、その打球の軌道からこう名付けられて報じられた。
    「通天閣打法」
    それぐらいに“甲子園の浜風”は、厄介者なのだ。
    白進学院の監督が話していた“甲子園の魔物”の正体のひとつにこの“甲子園の浜風”があるのは言うまでもない。

    “甲子園の浜風”は、守備にとっては厄介者でも、右打者にとっては恵の風になる。
    何故なら、浜風は甲子園球場のライト方向からレフト方向に吹く風だからだ。
    左打者の打ったライト方向への打球は風に押し戻され失速し、外野フライに終わるのに対し、右打者の平凡なレフトフライが浜風に乗ってホームランになることだってある。
    弁慶高校の中心打者の3番義経、4番武蔵坊、5番仲根とも左バッターであり、地方大会でのホームランが全てライトスタンドであったことから、紘一は君島に対して「風があるときは逃げずにインコースで勝負しろ!」と伝えてあったのだった。
    さらに紘一は、野手に対して常に風の強さを頭に入れておくように伝えていた。
    スコアボード上で揺れる大会旗のその揺れ具合で風の強さを判断し、ポジショニングも風に合わせて変えようと決めていたのだった。

  • #290

    六輔 (火曜日, 10 12月 2019 19:34)


    紘一のファインプレイでワンアウトをとった君島は、続く2番バッターの北に対しては、ストレート勝負を挑んだ。
    ワンボール・ツーストライクからの勝負球の外角ストレートを一度はファールされたが、続く5球目のインコース高めのストレートで空振りを取った。
    そして、3番義経との最初の対決を迎えた。
    君島もキャッチャーの坂田も落ち着いていた。
    紘一に言われた通り、スコアボード上で揺れる大会旗の揺れ具合を見て、勝負球にインコースのストレートを選択し、義経をライトフライに打ち取った。
    君島は、初回三者凡退の最高の立ち上がりを見せた。
    ベンチに引き上げてきた東庄高校ナインを3塁側アルプススタンドの大きな拍手が迎えた。
    「おいおいおい! 最高な立ち上がりじゃないか!」
    「先取点はいただきだぜ!」

    初回の攻撃に気合を入れるための円陣をベンチ前で組んだ東庄高校の選手達。
    監督の話が終えると、君島が紘一に近寄ってきて初回の守りの礼を言ってきた。
    「ありがとうございます、キャプテン」
    『なにが?』
    「なにがって…決まってるじゃないですかぁ。トップバッターのショートゴロですよ!」
    『あぁ』
    「あぁ…って」
    『別に君島のためにプレイしてる訳じゃないし…だから礼を言われてもピンとこなくてな…スマン!』
    君島は、心の中でつぶやいた。
    「出た!…甲子園に来てまで相変わらずのこの冷たい態度。守備についているときの優しいキャプテンとギャップがありすぎですって。…ここまでいくと真面目にキャプテンは冷酷な人なのかもしれないな」
    と、思った次の瞬間だった。
    紘一がさりげなくつぶやいた。
    『君島が、俺が予想した通りに投げてくれているからさっきのプレイが出来るんだよ…』
    君島は、紘一のつぶやきに心の中でこう叫ぶしかなかった。
    「だったら、最初からそう言ってくださいよ!」と。
    君島は、この時初めて気づいたのである。
    「そっか…キャプテンは、甲子園に来たっていつもの通りだ!ってことなんだよな(笑)」と。

    1回の裏、東庄高校の攻撃は、トップバッターの度井垣、さらには2番の戸野間の二人とも義経のストレート真っ向勝負に歯が立たず、空振り三振を喫してすでにツーアウト。
    前年度の優勝投手の実力をいきなり見せつけられた3塁側アルプススタンドでは、次の3番の紘一までもが簡単に抑え込まれないことを願って声援を送っていた。
    「キャプテーン、なんとかしてくれー!」

  • #291

    六輔 (水曜日, 11 12月 2019 19:55)


    いつも通りに主審に軽く一礼した紘一は、スパイクで足元の土をならしてバッターボックスの一番後ろに立つと、義経がキャッチャーのサインにうなずいて、投球モーションを開始するのに合わせてバットを構えた。
    そしてそれは義経が紘一に対して投げた初球だった。
    義経が自信たっぷりに投げたボールが、紘一の胸元をえぐるようにインコース高めに入って来た。
    初球から打ちにいっていた紘一は、そのボールに対して肘をたたんで体を回転させ、バットの芯でボールをとらえた。
    「カキーン!」
    甲高い金属音を残し、ボールはレフト方向に大きな放物線を描いて飛んで行った。
    打球は4万人を超える観客が見守る中、レフトスタンドの上段に突き刺ささった。
    観客はその飛距離に度肝を抜かれ、一瞬言葉も発せなかったが、直ぐにそのすごさに絶叫した。
    『ウォー!!!』
    地鳴りのように沸き上がる歓声の中、紘一はガッツポーズをする素振りも見せずに淡々とダイヤモンドを駆け抜け、先制となるホームベースを踏んだ。
    甲子園の浜風など全く関係の無いホームランだった。

    ネット裏に陣取っていたプロのスカウト達は、紘一の打球に見とれ、しばし言葉を失っていた。
    (巨人スカウト)「高校生があそこまで飛ばすかよ・・・おそれいったよ、瀧野瀬紘一君」
    (中日スカウト)「昔よりバットの性能が良くなったとしたって、あそこまで飛ばしたのを、俺は観たことがないぜ」
    (巨人スカウト)「瀧野瀬君のバッティングは、金属から木製に変わったとしても、なんの問題もないだろうな。力任せに打つのではなく、バットにのせて運ぶような打ち方だからな」
    (ヤクルトスカウト)「あぁ。木製でもレフトスタンドの中段まで飛んでいたかもな」
    (阪神スカウト)「うちは初めて瀧野瀬君を見たけど・・・こんな選手が、甲子園初出場の県立高校にいたなんて、まったく驚いたよ。遅ればせながら、早速うちもドラ1候補に加えさせてもらうよ! 直ぐにうちの鳥谷を超える選手になるだろうよ」
    (ヤクルトスカウト)「一目ぼれってやつだな!」
    (阪神スカウト)「1回表のあの守備と、今のバッティングを見せられて、彼を評価できないようじゃ、お前の目は節穴か!って話だろうよ!」
    (ヤクルトスカウト)「確かにな!」
    (巨人スカウト)「残念だったなぁ、ライバルが増えて…広島さん」
    (広島スカウト)「まぁ、出来れば甲子園で活躍して欲しくないなんて言ってはみたものの、これだけの選手だ。実力通りの活躍が出来るのも、それも実力のひとつだからな。俺の気持ちは固まっているよ、誰が何て言おうが、ドラ1で推させてもらうよ」
    (中日スカウト)「守備はうちの井端以上だろうな。バッティングは…おたくの坂本君の技術を既に身に着けている感じだね、あのインコースの打ち方は」
    (巨人スカウト)「うちの坂本かぁ・・・将来は坂本以上に成長するかもしれないね。あのコースのボールをファールにせず、しかもあの飛距離だ。金属バットだとは言え・・・間違いないね、うちの坂本をはるかに超える選手になるよ」
    (日本ハムスカウト)「まぁ、おそらくうちの1位は東北高校のダルビッシュ君で決まりだろうけど…欲しいねぇ。瀧野瀬君を獲れたら20年はショートの心配をしなくて済むだろうな」
    (西部スカウト)「うちはチーム方針で3位までは投手で決まりだよ。1位は横浜高校の涌井君で決まりそうだけど・・・まぁ出来れば競合したくないから瀧野瀬君を獲りにいってくれるチームが多いほど、うちはありがたいね」
    (阪神スカウト)「地方大会の様子を誰か話してくれないか?」
    (巨人スカウト)「仕方ねーなぁ、じゃぁ俺が話してやるよ。地方大会はホームラン6本!打率6割3分だ」
    (阪神スカウト)「6割3分でホームラン6本? 何試合で?」
    (巨人スカウト)「5試合でだよ」
    (阪神スカウト)「ホンとかよー!!」
    (巨人スカウト)「あぁ。白進学院との決勝戦では、来年のドラフトの超目玉になること間違いなしの不知火君が同点に追いついた9回のその裏の守りから登板してきて、その代わり端の初球、158キロのストレートを打ってサヨナラホームランだよ」
    (阪神スカウト)「サヨナラホームラン?・・・スター性もこの上ないわけだ。うん?…っていうことは今のホームランは2打席連続ホームランになる訳だな」
    (巨人スカウト)「なるほど、そうだな! 両方とも価値あるホームランだよな」

  • #292

    六輔 (木曜日, 12 12月 2019 20:23)


    紘一のホームランで1点を先制した東庄高校だったが、続く4番の岩城が三振に倒れて攻守交替になっていた。
    2回の表、弁慶高校の攻撃は、注目のバッター4番・武蔵坊からの攻撃であったが、君島の丁寧なピッチングで武蔵坊は内野ゴロに倒れ、その後もランナーを一人も出すことなく試合はスピーディーに進んでいった。
    ネット裏に陣取ったスカウト達は、紘一の次の打席までは全く興味を示さず、話題は、その年から始まる「プロ野球志望届」の話になっていた。

    (西部スカウト)「この甲子園大会が終わって、その後のWBC U-18ベースボールワールドカップのメンバーが発表されるちょうどその日からだったよな…プロ野球志望届の受付は」
    (日本ハムスカウト)「そうだよな。特に高校生に対しては早めに提出してもらうように、学校の方にもお願いに行かなきゃならなくなるだろうな」
    (巨人スカウト)「幸いなことに、うちはその仕事を別のスタッフが担当してくれることになっているんだ」
    (阪神スカウト)「えっ? さすが巨人さんだなぁ…うちは下手したらスカウト陣が手分けしてお願いに行くようだよ」
    (西部スカウト)「いくらこっちが指名したくても、プロ野球志望届を出してもらえないことには手を出せなくなる訳だからな」
    (阪神スカウト)「…そうだよな」

    紘一が甲子園に出場した年、2004年はプロ野球界の変革の年で、一番大きく変わるのがドラフト制度だった。
    2004年のドラフトから「プロ野球志望届」を提出しない者は、プロ野球のドラフトの指名を受けることが出来なくなるのだった。
    「プロ野球志望届」の制度が導入された背景は、大学への進学、あるいは社会人野球を希望している高校生をプロ球団が強行指名してのトラブルが続出していたことだった。
    一番有名なのは、PL学園のKKコンビの件であろう。
    巨人入りを熱望する清原選手に対し、桑田投手は私立大学への進学を表明し、プロには絶対に行かないと言っていた。
    巨人の王監督から「絶対に欲しい選手」と名指しされ、相思相愛で指名間違い無しと言われていた清原選手と、私立大学への進学を公言していた桑田投手。
    甲子園最多勝となる20勝投手と、甲子園最多本塁打13本の選手が同じPL学園の同級生で、大親友というドラマ性もあった。
    世間が注目する中、事件は起きた。
    どうしても桑田投手を欲しかった巨人は、プロ入りを拒否していた桑田投手を強行指名したのである。
    他球団は、大学進学を希望する桑田投手の意思を尊重し、指名をしなかったなかで、巨人だけは本人の言葉を無視して強行指名に踏み切ったのだった。
    ドラフト会議後、会見で涙をボロボロとこぼしながら語った清原選手に世間の同情が集まり、それに対して桑田投手の「大学進学宣言」は他チームの指名を回避させるための目くらましで、巨人との間に密約があったのだろうと批判が殺到した。
    結局、清原選手は西部に入団し、プロ入りを拒否していた桑田投手も大学進学せずに巨人に入団したのだった。

  • #293

    六輔 (土曜日, 14 12月 2019 07:42)


    一人のスカウトが素朴な質問をしてきた。
    (阪神スカウト)「ところで、瀧野瀬君はプロ入りを希望しているんだろう?」
    (広島スカウト)「それが、全く分からないんだよ。探りを入れようと色々と手を尽くしてはみたんだけど・・・とにかく本人が『今は甲子園に集中したい』という理由でプロ野球関係者と会ってくれることもないし、新聞社の取材にも一切応じてくれないみたいでさ…まぁ、一人の高校球児なんだから、それが悪いことだとは言わんが・・・プロに行く意思があるなら、少しは話を聞いてくれてもいいと思うんだけど…俺たちが、今無理やり接触する訳にもいかないしな」
    (阪神スカウト)「これだけの活躍ができて、それでもプロに入るつもりがないっていうのか?」
    (広島スカウト)「それはないだろう! 大学に? 高卒内野手で1年目から活躍出来る逸材は、大学へ行って4年間を費やすより、直ぐにプロに進むべきだよ!」
    (西部スカウト)「まぁ、それは俺たちプロ野球界の人間のエゴに過ぎないけどな・・・それでもこれだけの選手は、プロ野球界全体にとっても“宝”だよな。ぜひ早くプロに進んで欲しい選手であることは間違いないな」

    と、巨人のスカウトは、各球団のスカウト達が思い思いのことを好き勝手に話しているのを聞いていたが、黙っていられなくなり口を開いたのである。
    (巨人スカウト)「まぁ、気心知れた俺たち同業者だから話してやるけど・・・俺な、2年前にドラフト2位で白進学院の高田君を指名させてもらった関係で、白進学院の監督さんとは懇意にさせてもらっているんだ。で、8月末から始まるWBC U-18ベースボールワールドカップあるだろう?」
    (広島スカウト)「あぁ、今年は韓国で開催されるやつな」
    (巨人スカウト)「今年、白進学院は東庄高校に敗れて甲子園を逃しているけど、監督は今年もWBC U-18ベースボールワールドカップのコーチを頼まれているんだそうだ」
    (広島スカウト)「ここ数年、白進の監督はコーチを頼まれているよな」
    (巨人スカウト)「で、色々話していて、白進の監督がこう言ったんだよ『東庄高校が甲子園でベスト8以上に進んでくれたら、瀧野瀬君をWBCワールドカップに推薦したいって。白進の監督は瀧野瀬君の才能を高く評価していて…何人ものプロ野球選手を輩出している白進学院であっても瀧野瀬君のような才能を持った選手はいなかったって。それと、特に瀧野瀬君の人間性を褒めていたよ』
    (阪神スカウト)「そうなんだぁ…でもさ、甲子園ベスト8以上に進まなくてもWBCワールドカップのメンバーに選ばれて当然だろう? っていうか、瀧野瀬君を選ばないようじゃ、高校野球ファンが黙っていないだろうよ」
    (巨人スカウト)「そうだな。まぁ白進の監督は同郷であることでベスト8以上と言ったんだろうけど・・・今日の1回の表裏の活躍で、誰も文句を言わなくなっただろうな」
    (広島スカウト)「そうだな」
    (巨人スカウト)「でな、ここからが大事なところなんだけど…白進の監督自身が瀧野瀬君と出会って、初心に戻ったって言うんだよ」
    (阪神スカウト)「えっ?…初心に?」

  • #294

    六輔 (土曜日, 14 12月 2019 20:22)


    巨人のスカウトは、白進の監督と話した時のことをひとつ一つ思い出すようにゆっくりと話を続けた。
    (巨人スカウト)「白進の監督さんはこう言ったんだよ…高校生の野球は観てもらうものであって、観せるものではないってね。高校野球は教育の一環であって、グラウンドは高校球児の人間形成の場。勝負から逃げることを教えるのではなく、勝負に敗れたときにどう立ち直っていくのかを教えるのが高校野球の監督の教育者としの仕事であって、決してプロ野球選手を作るのが仕事ではないってね」
    (広島スカウト)「なるほどぉ~ 深い意味のある言葉だなぁ」
    (西部スカウト)「偏見ではなく言うけど、地方の私立高校は甲子園に出るために遠く離れた地から選手を特待生として授業料を免除して連れてきて、寮に住ませる。選手を預かった監督さんは、当然、甲子園に出ることがその肩に至上命令としてのしかかる。学校は、甲子園に出て学校の名前を国営放送を使って全国に売り込むその広告塔としてお金を使って選手を集めてきている訳だからな。そのことは、地方の高校ばかりではなく、都会にある高校でも結果を残さなければ直ぐに監督を交代させられて首を切られるような学校もあるし…ある意味、結果が全ての世界だ。プロに注目される選手を一人でも多く育てて、それで学校の名前がさらに頻繁にメディアに出るようになれば、監督さんの株も上がるってことだ…まぁ少し言い過ぎだけどな(笑)」
    (阪神スカウト)「俺たちの仕事を振り返ってみるとさ、有望な選手が私立の強豪校に集まっていることから、私立の監督さんから少しでも情報を得ようとして、普段は私立高校巡り。その結果、瀧野瀬君のような逸材をしっかりと見ることも出来ずに甲子園で慌てて観ているようじゃ、スカウトとして失格だよな」
    (広島スカウト)「まぁ、瀧野瀬君のような選手が県立高校から出てくることが滅多にないことなんだから仕方のないことさ…そういう意味じゃ、俺だって瀧野瀬君の普段の練習態度やいろんな情報はまだ入手出来ていないからな」
    (巨人スカウト)「そのことなら白進の監督さんが太鼓判を押してくれたよ。瀧野瀬君は全てにおいて、一人の野球人として人間的にも素晴らし選手だってね。白進の監督さんは本当に惚れ込んでいたよ」
    (広島スカウト)「瀧野瀬君のどういうところを褒めていたんだい?」
    (巨人スカウト)「東庄高校のキャプテンとしてチームを引っ張り、決して逃げずにフェアなプレイで野球に取り組む瀧野瀬君のその姿勢、何よりも野球を楽しむところ…そこに魅かれたんだそうだ。勝つことだけに躍起になって、手段を択ばず勝ちに行く。そうなりがちな監督さんが多い中、東庄高校の野球を観ていて思い出したって言ってたよ。野球は投げてそれを打つ、そして得点をあげて失点を防ぐ、その時々の勝負を楽しむものなんだよなってね」
    (広島スカウト)「なるほどなぁ」
    (巨人スカウト)「白進の監督さん自身が野球人として立派な監督さんであることは、みんなが承知をしているところだろうけど、高校野球の本来の魅力を忘れていない監督さんに、そこまでのことを言わせた瀧野瀬紘一という選手は、よほど魅力のある選手なんだろうなぁ」
    (広島スカウト)「白進の監督さんの話はとても大事なことだよな。甲子園がただのプロ野球の登竜門だってなってしまったら、高校野球の魅力は半減してしまう。我が故郷の高校を応援するからこそ多くの高校野球ファンがある訳で、高校野球の魅力が無くなって高校野球ファンが減るということは、我々のプロ野球ファンも減ってしまうということだ。そのことを忘れずに、自分のところさえ良ければいいなんてさ、そんなふうにならないようにしたいもんだよな・・・せめて俺たちスカウト陣だけでもさ…」
    (阪神スカウト)「あぁ、そうだな」

  • #295

    六輔 (日曜日, 15 12月 2019 20:08)


    3回の表、弁慶高校の9番バッター・田中清美選手が君島投手のインコースストレートに詰まって平凡なゴロがショートに転がると、それを紘一がなんなくさばいてスリーアウトチェンジになった。
    君島は打者心理を読んだ上手い投球で、一人のランナーも出さずにここまではパーフェクトピッチングで弁慶高校を抑えていた。
    実は、そこには隠れた努力があったのだった。
    甲子園での初戦の対戦相手が弁慶高校と決まったその日から、義経のピッチング、弁慶高校の各バッターの特徴をチームで研究していたのである。

    それは勉強会が始まって二日目のことだった。
    弁慶高校の地方大会決勝戦のビデオを入手できた東庄高校野球部は、昼間の練習を終え宿舎に戻って、部員全員でビデオを観た。
    部員のほとんどは特に緊張することもなく、義経のピッチングや武蔵坊の打撃を観て、ただただ感心するしかなかった。
    「やっぱ、全国優勝は伊達じゃないよな!」と。
    ビデオを観終えると、紘一がこう言った。
    (紘一)「今日の勉強会はここまでだ!あとは各自ゆっくり体を休めてくれ!」
    (部員達)「おいぃ~っす!」
    (紘一)「あっ、二人を除いてな!」
    (度井垣)「二人って?」
    (紘一)「決まってんじゃん!」
    (度井垣)「あっ、なるほどな! お疲れ~ 頑張れよー、君島~、坂田~!」
    (君島・坂田)「えっ?居残りって、俺たちのことですか?」
    (紘一)「他にいるか?…」
    (君島・坂田)「・・・・・」
    (紘一)「いいからそこに座って、もう一回ビデオを最初から観るぞ!」
    (君島・坂田)「・・・ふぁ~い」
    (紘一)「返事が悪い!」
    (君島・坂田)「はっ、はい!!!」

    テレビの前に3人並んで座り、ビデオを最初から再生し黙ってそれを観ていた。
    当然、弁慶高校の攻撃のところだけを。
    と、ちょうど弁慶高校が得点をあげたイニングになると、紘一が突然口を開いたのである。
    (紘一)「外角低め・ストレート・ストライク」
    (君島・坂田)「・・・???」
    (紘一)「二球目、インコースのストレートを打って、バックネットへのファール」
    (君島・坂田)「???…えっ?」
    (紘一)「3球目、外のスライダーをライト前ヒット」
    (坂田)「キャ、キャプテン・・・もしかして…もしかしてですけど、一度ビデオを観ただけで、配球を全球覚えた!…なんて、そんなこと言わないですよね。たまたまこの場面だけ?…ですよね?」
    (紘一)「いやっ、139球、全球覚えているよ。なんなら、この先も全球今みたいに球種とコースと、それをバッターがどうしたのか…全部言ってやろうか?」
    坂田は言葉を失った。

  • #296

    六輔 (月曜日, 16 12月 2019 20:39)


    君島が口を開いた。
    (君島)「キャプテンが、配球を覚えていることは自分も知っていましたけど・・・今、ビデオで観た試合の、その全球を覚えているんですか?っていうか、覚えているって言うんだから、覚えているんでしょうけど・・・どうして覚えられるんですか? それが不思議でならないんです」
    (紘一)「どうして?…う~ん・・・じゃぁ聞くけど、お前たちは今ビデオを観ながら全部の場面で「自分ならこう攻める」とか、「自分ならこう打つ」とか、「たぶんここに打球が飛ぶだろう」とかって、先を読みながらビデオを観ていたか?」
    (坂田)「えっ?自分なら?ですか?・・・そんなふうに考えながら観ていませんでした。そうすることで覚えられるようになるものなんですか?」
    (紘一)「まぁ、初めて見るピッチャー、バッター達だから、どんなピッチングをしてどんなバッティングをするのかも分からないで観ている訳だ。当然、試合の最初の頃は自分の予想と結果はずれるよな。その時に何故ずれたのかを分析するんだよ。それを続けることで、徐々に見えてくるようになって、そのうちに配球や攻撃が自分の予想と一致するようになってくるんだ。ようは、ピッチャーが初回から最終回、ゲームセットになるまでの27個のアウトをとっていくストーリーを描くのさ。守備も同じだよ。ここでこういう打球が…ここではこうだって…もちろん、高校生がやる野球だ。コントロールミスもあるだろうし、全ての予想が完璧に当たる訳ではないよ。でもな、何度もお前達に話してやったと思うけど、あらかじめ予想をしていることで素早く反応できたり、ボールが逆に飛んできたとしても体は反応できるんだよ。完璧に当たる訳ではないところがかえって面白いのさ…それが野球だよ」
    君島も坂田も、あらためて紘一の野球理論に感服するしかなかった。
    (紘一)「おっと、この場面…義経が右中間にツーベースを打った場面だ! よく観ろよ、その後にどうすれば抑えられたのか質問するからな!」
    (君島・坂田)「え~~~」

    こんな3人の勉強会は毎晩続いたのだった。
    それで弁慶高校の各バッターの癖、得意なボール、苦手なボール、バッター心理・・・君島をリードするキャッチャーの坂田は、紘一から徹底的に頭の中に叩き込まれたのだった。

  • #297

    六輔 (火曜日, 17 12月 2019 20:26)


    東庄高校、君島・坂田のバッテリーが、弁慶高校の各バッターの打者心理を読んだ上手い投球で、一人のランナーも出さずにここまではパーフェクトピッチングで抑えてきたのに対し、弁慶高校の義経は、140キロ台後半のストレートと決め球のフォークボールで3回までの9つのアウト中、8個の三振を奪っていた。
    バットに当てたのは紘一のホームランと、8番微笑三四郎のセーフティ・バントだけ。
    それ以外のバッターは、義経のピッチングに全く歯が立たず、空振り三振を喫していた。

    (西部スカウト)「義経君は、いいなぁ」
    (阪神スカウト)「東庄高校で打てるのは瀧野瀬君だけってことなのか?」
    (広島スカウト)「いやっ、トップバッターの度井垣君は、それなりにアベレージを残してきた選手だし、4番の岩城君、5番の里奈科君、続く犬飼君だってシャープなバッティングを見せていたよ」
    (巨人スカウト)「義経君は、去年の全国制覇した時のボールよりはるかに精度があがっているな。特に決め球のフォークボールがいい」
    (西部スカウト)「今大会の優勝候補と言われているだけあって、義経君は東北のダルビッシュ君、横浜の涌井君に引けを取らないな。ここまでいいとは思っていなかったよ。もし、この大会でも好投が続くようだったら、ドラフト候補の一人に加わるだろうな。それぐらいにいいピッチングをしているよ」
    (巨人スカウト)「義経君の場合には身長が169センチと、プロで成功したピッチャーの平均身長から15センチ近く小さいのが唯一のウィークポイントだろうな。左腕投手ならヤクルトの石川投手や巨人の杉内投手のように小柄でも通用する投手はいるけど、右投手となるとなぁ・・・75回大会の里中投手のように165センチと小柄な右投手でも、地を這うようなアンダースロー、針の穴を通すコントロールで全国優勝した投手もいたよなぁ・・・身長が高い投手が有利である理由を「ボールの角度」と答える人が多いけど、実際には身長の高い選手でも阪神の藤波投手のようにスリークォーター気味に腕を振ってくる投手も多い。身長が高いことで一番有利に働くのは踏み出し幅が伸びることで打者との距離を詰められるところだよな。義経君はその点不利だ。それでもこれだけ三振を取れるのは、球の出どころをバッターから見えにくいように投げているからで、同じ腕の振りであれだけするどく落ちるフォークボールを投げられたら、バッターはたまったもんじゃない。いずれにしても義経君のフォークボールはプロでも通用するレベルだろうな。少なくとも2年生で全国制覇したときよりはるかにボールのキレがあがっているよ。東庄高校は初回こそ瀧野瀬君のホームランで先制したけど、この後は相当苦労するだろうな。何せほとんどのバッターがバットにかすりもしないんだからな」
    (西部スカウト)「確かになぁ。でも、強打の弁慶高校を完璧に抑えている君島君も、2年生ながらいいピッチングをしているよな。キャッチャーの坂田君のリードもいい。いずれにしても、両投手の4回以降、二廻り目に入ってからのピッチングが楽しみだな」

  • #298

    六輔 (水曜日, 18 12月 2019 20:34)


    4回表、弁慶高校の攻撃
    トップバッターの石毛が、ヘルメットのツバに左手を添え、丁寧にお辞儀をしてバッターボックスに入った。
    ほとんどのスカウトが攻守交替のインターバルに、気を許してのんびりしていた。
    と、阪神のスカウトが驚きの声を発したのである。
    (阪神スカウト)「おいおい、なんだよこの東庄高校の極端な守備位置は」
    (西部スカウト)「おぅ、打者二巡目からやってきたか」
    (阪神スカウト)「二巡目から?どういうことなんだい? 東庄高校はこういう極端な守備体形をとるのか?」
    (西部スカウト)「地方大会の決勝戦のとき、6回の守りから極端な守備位置に変えて白進学院の攻撃を見事に封じ込めたんだよ。ネット裏で観ていたスカウト陣が、皆、驚くほどの守りでね」
    (阪神スカウト)「ほぉ~ そうなんだぁ。いやっ、でもこの守備体形はちょっと極端すぎるだろうよ…あの外野の守備位置で予想とは別の方向に飛んでいったら、大変なことになるぜ!」
    (広島スカウト)「確かに誰もがそう思う守備体形なんだよな」
    (阪神スカウト)「ここまでの野球を高校生がやるのか?・・・俺はこんな高校生の野球を一度も観たことがないぜ」
    (巨人スカウト)「まぁ、甲子園で、しかも前年度優勝校を相手に東庄高校の野球がどこまで通じるのか、観さしてもらおうじゃないか」

    プロのスカウト達が、自分達の持ち得る知識で、自分達の目線で試合を見守る中、1番・石毛は、左中間に守備位置を変えていたセンターの正面に飛んだフライ、2番・北は、極端に前進守備をとっていた浅いライトフライ、そして3番・義経は、右中間に大きく寄っていたセンターにライナーが飛び、そこに飛んでくるのが分かっていましたよと言わんばかりに、3人のバッターともいとも簡単にアウトにしてみせた。
    東庄高校の極端な守りが、弁慶高校1番からの好打順の攻撃を軽々と封じ込めてしまったのだった。

    (広島スカウト)「どうだい? 阪神さん・・・東庄高校の守りは」
    (阪神スカウト)「いやぁ、これほどまでにズバリ的中するとはな…神がかってるよ! この守備位置を決めているのがベンチではなく、ショートを守る瀧野瀬君だってことなのか?」
    (広島スカウト)「そうだよ、これが東庄高校…瀧野瀬紘一の守りだよ」
    (阪神スカウト)「外野の守備位置も瀧野瀬君が指示しているっていうのか?」
    (広島スカウト)「そうだよ!」
    (阪神スカウト)「1番石毛君の打球は左中間、3番義経君の打球は右中間と、外野の定位置に守っていたら両方ともロングヒットになっていたぜ! それを意図も簡単にアウトにしてしまう野球勘というか…どうしてそんな位置で守っているんだい?と聞きたくなるぐらいに守備位置を変えて・・・本当に恐ろしい選手だな、瀧野瀬君は」

  • #299

    六輔 (金曜日, 20 12月 2019 00:00)


    試合は4回裏、東庄高校の攻撃になった。
    2番・戸野間から始まった攻撃だったが、義経の前に戸野間のバットは三度とも空を切り、打者11人で9個目の三振を喫して打ち取られ、ワンアウトとなった。

    (西部スカウト)「しかし、義経君は全く打者を寄せ付けないね! ここまで三振9個って尋常じゃないよな」
    (広島スカウト)「ますます次の瀧野瀬君との勝負が楽しみになったな。第1打席は、初球、インコース高めのストレートだったよな? 二打席目はどう攻めてくるかな?」
    スカウト全員が固唾をのんで見守る中、紘一が、丁寧にお辞儀をし、バッターボックスに入った。
    と、西部のスカウトが、それまで一度も使っていなかったスピードガンを右手に持った。
    (広島スカウト)「西部さんは義経君に興味を持ったのかい?」
    (西部スカウト)「まぁ、それもあるが、瀧野瀬君との勝負をしっかりデータで残しておこうと思ってな」
    キャッチャー・雲竜のサインにうなずいた義経が投じた初球は外角低め一杯のストレートだった。
    「ストライーク!」
    (西部スカウト)「146キロ! 完璧なコースだな」
    (阪神スカウト)「強気だなぁ、第一打席で打たれたストレートを投げてきたぜ。まぁ、でもあのコースに投げられたら、さすがの瀧野瀬君でも手を出せなかったな」
    二球目のサイン交換に義経は簡単にうなずいた。
    間を置かず、義経が投げ込んできた初球と同じ球種、同じコースのボールに、紘一はフルスイングで応えたが、キレのいいストレートに押されてファールボールがバックネットを直撃した。
    (西部スカウト)「148キロ! 初球と全く同じコースだぜ」
    (広島スカウト)「あのコースに続けて投げられる義経君もすごいが、さすがは瀧野瀬君だ。外角低めいっぱいのストレートにタイミングを合わせてきたな」
    (阪神スカウト)「義経君も真っ向勝負だな。さぁ、2球で追い込んで余裕のある弁慶高校バッテリーはどうする?」

    プロのスカウト達が、注目する中、弁慶高校バッテリーが3球目に選択したのは義経の決め球のフォークボールだった。
    ストレートと同じ腕の振りで投げられたフォークボールが、ストレートのタイミングで打ちに行っていた紘一を嘲笑うかのように、ホームベース付近に来てストーンと落ちた。
    「フォークだ!」
    と、スカウトが叫ぶ中、バッターボックスで紘一は、それが変化球だと分かると右足に重心を残し、ボールを手元まで引き付けてフォークボールをすくい上げた。
    「カキーン!!」
    快音を残し、打球は右中間の一番深いところに飛んでいった。
    (阪神スカウト)「でかいぞ!」
    (広島スカウト)「いやっ、あそこは浜風を受けて打球は伸びないところだ!」
    と、言っているなか、紘一の長打を警戒して深めに守っていたセンターの石毛とライトの武蔵坊が共にフェンスまで達し、そこで二人は紘一の打球を見送った。
    (広島スカウト)「おい、ほ…ホンとかよ・・・」
    甲子園2打席連続ホームラン、地方大会から数えて3打席連続ホームランに、そこにいたプロのスカウト全員が愕然として言葉を失った。
    地鳴りのような歓声の中、この試合、2度目のダイヤモンド1周を終えた紘一は足早にベンチへと消えて行った。

  • #300

    六輔 (金曜日, 20 12月 2019 21:39)


    スカウト達は、紘一のホームランに愕然として言葉を失いながらも、仕事としてそれぞれの手帳に、思い思いに紘一の凄さを書き残して、ようやく会話を始めた。
    (広島スカウト)「何キロだった?」
    (西部スカウト)「127キロだ! コースも高さも完璧なところに来たよな。それを右足に重心を残してすくい上げ、浜風を物ともせずに右中間の一番深いところに放り込んじまったよ」
    (広島スカウト)「阪神さんは初めて瀧野瀬君を観たから、驚きは半端ないだろうな」
    (阪神スカウト)「あぁ。言葉が見つからねーよ!これが瀧野瀬紘一かぁ…」
    (広島スカウト)「初回と今のホームラン…両方とも難しいボールだったぜ!決して義経君の失投じゃない。低めのボールをすくい上げてあそこまで飛ばすとは…恐れいったよ」
    (巨人スカウト)「あまりの衝撃に身震いがしてきたよ!PL時代の清原選手だって、あの右中間の一番深いところにはホームラン出来なかったぜ!ましてや初回と違って今はこの浜風だ! 並みの選手の打球なら浅いセンターフライに終わっていたはずだよ。白進学院との決勝戦のときからさらに飛距離が伸びているような気がするよ。どこまで進化するのか…うん?・・・よく考えてみたら、地方大会決勝戦で3打席連続のツーベースヒットのあとのサヨナラホームラン、そして甲子園に来てからの二打席連続ホームラン・・・六打席連続長打ってことだぜ!」
    (広島スカウト)「下半身の粘りとスイングの速さで、あそこまで打球が飛ぶんだろうな…これは“ドえらいこと”をやってくれたもんだな。大学生と社会人を含めて、ドラフトの一番の注目選手の座を自分の力で掴み取っちまったよ・・・瀧野瀬紘一は」

    そんな会話で全てのスカウトが紘一を絶賛しているなか、阪神のスカウトがおかしな事を言い出した。
    (阪神スカウト)「瀧野瀬君のバッティングにケチをつける訳じゃないけど、今の打席は弁慶高校のキャッチャー、雲竜君の配球ミスだよな」
    (西部スカウト)「うん?それはどうしてだい?外角低めいっぱいのストレートでツーストライクと追い込み、決め球には打ち取れる可能性の一番高いフォークボールを同じ外角低めから落としてきて・・・最高の勝負球だったろうよ」
    (阪神スカウト)「だって、ノーボール・ツーストライクだぜ! キャッチャーの雲竜君は1球か2球、ボールのコースに投げさせるべきだったよな」
    (西部スカウト)「なるほど・・・因みにだけど、これまで義経君は打者12人に対して9個の三振。うち、三球三振に打ち取ったのが4人もいるんだけど、それはどう説明する?その4人の三球三振も、ひとつボールを挟むべきだったと言うのかい?」
    (阪神スカウト)「そ、それは・・・瀧野瀬君とはレベルの違うバッターだったからで…別にボール球を挟まなくても良かったと思うけど…」
    (西部スカウト)「随分と都合のいい話だな」
    (阪神スカウト)「だって、結果的に打たれている訳だし・・・」
    (西部スカウト)「だとしたら今の場面、弁慶高校バッテリーが瀧野瀬君を3球勝負で三振に打ち取っていたとしたら、雲竜君の配球を褒めたのかい?」
    (阪神スカウト)「そ、それは・・・」

  • #301

    六輔 (土曜日, 21 12月 2019 20:07)


    そんな二人のスカウトの口論ともいえるやりとりに、仲を取り持ったのは巨人のスカウトだった。
    (巨人スカウト)「まぁまぁ、二人とも冷静になれよ。阪神スカウトさんは、確かピッチャー出身だったよね?」
    (阪神スカウト)「あぁ、そうだよ。それがどうした?」
    (巨人スカウト)「うん?今の話はピッチャー出身の人らしいコメントだなと思ってさ。俺たちが現役の頃ってさ、ピッチングコーチから「2ストライクに追い込んだら、必ずボールを投げろ!打たれたら罰金だ!」ってな感じで言われていたよな」
    (阪神スカウト)「あぁ、確かにそう言われていた」
    (巨人スカウト)「いやっ、実はな、俺はプロに入って直ぐに外野手に転向したんだけど、高校時代、大学時代はずっとキャッチャーでさ…2ストライクに追い込んで3球勝負で打たれた時は、キャッチャーの配球ミスだ!って言われるのが嫌で、必ずボール球を投げさせていたんだよ。ピッチャーは3球勝負をさせてくれ!って言っていたのにな」
    (阪神スカウト)「そのキャッチャーの心理…分かるよ。ピッチャーが一番悔いを残すのが2球で2ストライクに追い込んで3球勝負で打たれた時なんだよな。打たれてから「1球ボール球を挟んでおくべきだった!」ってね」
    (巨人スカウト)「2球で2ストライクに追い込んで、最後の決め球の前に1球ボール球を挟んで相手の目先を変える。例えば、目線を外に動かしといてからのインコースのストレート勝負だったり、ストレートの意識付けをさせといて緩い変化球で勝負したり…それなりに意味のあるボールになっているはずなんだろうけど・・・ひとつ面白いデータを教えてやるよ!」
    (阪神スカウト)「面白いデータ?」
    (巨人スカウト)「あぁ。今は随分と知れ渡っているようなので話すけど、うちの坂本いるだろう…坂本の打率はノーボール・ツーストライクの時の打率は.250。それに対してワンボール・ツーストライクの時の打率はなんと.319に跳ね上がるんだよ」
    (阪神スカウト)「えっ?そんなに上がるのか?」
    (巨人スカウト)「うん。よそのチームの選手を言うのもなんだけど、横浜の筒香だって.150から.270近くに上がっているはずだぜ」
    (阪神スカウト)「そんなふうに数字を出されてしまうと、じゃぁ、なんのためにわざわざボールを挟むんだい!っていう話になっちまうよな」
    (巨人スカウト)「確かにな。それはピッチャーの自己満足のためになんだろうな。結果的に打たれて悔しいはずなのに、1球ボール球を挟んでいただけで、やることをやって打たれたのだから仕方ないって…」
    (阪神スカウト)「そういうことになっちまうんだな」
    (巨人スカウト)「俺はずっと瀧野瀬君を見てきたからなんとなく分かるんだけど・・・今の勝負…瀧野瀬君もピッチャーの義経君もお互いに3球勝負だと分かった上で共に勝負を楽しんでいたんだと思うよ」
    (阪神スカウト)「えっ?…さすがにそれは無いだろう!」
    巨人のスカウトは阪神のスカウトの言葉に笑みを浮かべてこう言った。
    (巨人スカウト)「見てみろよ、義経君を。打たれてがっかりするどころか、すっきりした顔をしているだろうよ」
    (阪神スカウト)「・・・確かに」
    (巨人スカウト)「瀧野瀬紘一という選手は、例え打たれようが、こいつとは勝負をしたい! 相手にそう思わせるバッターなんじゃないのかなぁ…もちろん、監督さんの指示で勝負を避けなきゃならないピッチャーもいるかもしれないけど…義経君は“俺の決め球を打てるもんなら打ってみろ!”って。打たれた後のあのすっきりした顔は、“次こそ抑えてやるぜ!”っていう表情なんだと思うんだ」
    (阪神スカウト)「次こそは?・・・なるほどなぁ。高校生がこの甲子園球場でそんな勝負をしていたなんてなぁ…これが野球なんだよな。今の話で白進学院の監督さんが瀧野瀬紘一という選手に惚れ込んだって言ったのが少しだけ分かったような気がするよ」
    西部のスカウトがポツリとつぶやいた。
    (西部スカウト)「野球というスポーツの魅力をそのまま俺たちに魅せてくれる選手、瀧野瀬紘一。 新たなファンを獲得する意味でも、是が非でも欲しい選手だと評価するチームが続出するだろうな。これまでのドラフト1位指名の記録、野茂投手の8球団を間違いなく超えるよ!」と。

  • #302

    六輔 (日曜日, 22 12月 2019 20:08)


    第86回全国高等学校野球選手権大会、大会5日目第二試合、今大会最後の1回戦となった試合は、東庄高校君島投手と弁慶高校義経投手との投手戦となり、東庄高校が紘一のホームランであげた2点をリードして6回を終了した。
    なんとその時点で、試合開始から1時間15分しか経っていなかった。
    (西部スカウト)「早いゲームだな」
    (巨人スカウト)「両投手とも無駄なボール球が無いからな」
    場内のアナウンスが7回表、弁慶高校の攻撃を告げるのとほぼ同時に球場内がざわつき始め、甲子園は徐々に異様な雰囲気へと変わっていった。
    それは、野球を良く知る者であれば、決して口にしないことだが、試合の展開上、いやでもそのことを口にする者が現れてきたからだ。
    「おい、弁慶高校は一人もランナーを出していないぜ!」
    野球を良く知る者があえて口にしないのは、それを言い始めた途端に、ヒットやファーボール、エラーなどでランナーを出すことになるのを知っているからだ。
    (阪神スカウト)「君島君は、ランナーを一人も出してないよな!」
    (西部スカウト)「そうだな」
    (巨人スカウト)「この7回がポイントになるだろうなぁ。弁慶高校は1番バッターの石毛君からで、東庄高校は瀧野瀬君からだ」
    (阪神スカウト)「君島君は、地方大会でもこんなにいいピッチングをしたのか?」
    (西部スカウト)「準決勝の市立棚橋高校戦で完封しているけど、防御率は2.55。優勝候補の弁慶高校をここまで完璧に抑えるとは、予想外だったよ」
    (巨人スカウト)「君島君がここまで好投出来ているのは、弁慶高校のバッターを研究尽くしたからだろうな。各バッターへの攻め方、それに対しての守備位置のとりかた…完璧だよ。もし定位置で守っていたら、少なくとも5本はヒットになっていたろうな。おそらくは瀧野瀬君の頭脳があってのことだろうけど、考えたところにちゃんと投げている君島君を褒めていいだろうな」
    (阪神スカウト)「そういうことかぁ。この試合、これからどうなるんだろうなぁ」
    (巨人スカウト)「さっぱり分からんよ。高校生たちがいい意味で楽しんでいる野球を我々大人達も楽しみながら観戦させてもらおうぜ。弁慶高校は石毛君が出塁出来ないことには苦しいだろうけど、これで3廻り目だ!何か手を打ってくるはずだよ。このまま終わるようなチームじゃないだろうからな!」

  • #303

    六輔 (月曜日, 23 12月 2019 20:24)


    3塁側アルプススタンドでは、須藤町長が汗を一杯にかいて声援を送り続けていた。
    (町長)「いいぞー!!東庄高校! 頑張れー、東庄高校!」
    (秘書官)「町長、優勝候補相手に互角に戦えていますね!」
    (町長)「バカを言ってもらっちゃ困るよ、君! うちが2点をリードしているんだよ! 互角じゃないじゃないか!」
    (秘書官)「まったくその通りでした、すみません町長! しかも、うちのピッチャーは6回までに一人のランナーも…」
    (町長)「おい、君!よしなさい! その話をするんじゃないよ!」
    (秘書官)「えっ? ど、どうしてですか町長。君島君は完璧なピッチングをしているじゃないですか…」
    (町長)「だから素人は困るんだよ!」
    (秘書官)「えっ?・・・」
    (町長)「その話をするとな・・・あぁ、説明するのも嫌だよ! とにかく今まで通りに応援を続けよう!」
    (秘書官)「あ、はっ…はい」

    「甲子園あるある」の話で、「これまでパーフェクトです!」とアナウンサーが言った途端に記録が途切れ、そして途切れただけでは足りずにその試合に負けたという悪しき逸話があるのを野球好きの町長は、知っていたのである。
    当然、完全試合やノーヒットノーランといった試合は、投手にとってこの上ない素晴らしい記録だ。
    しかも前年度優勝校、今大会も優勝候補筆頭のチームを相手に、そんな大記録をやってのけるとなれば、大金星となるだろう。
    だが、3塁側アルプススタンドで応援を続ける人達の願いは皆同じだった。
    「弁慶高校に勝って欲しい」
    ピッチャーの記録はその次に来るものなのである。

    7回表の攻撃を告げる場内アナウンスに1塁側アルプススタンドの弁慶高校応援団が一斉に立ち上がり、校歌斉唱についで3塁側アルプススタンド東庄高校応援席に向かってエールを送ってきた。
    東庄高校応援団も全員が立ち上がって頭を下げ、弁慶高校のエールが終わるとそれに拍手で応えた。
    当然、その間も試合は進行していた。
    キーマンとなる石毛選手との対戦が気が気ではなかったが、最後までしっかりエールの交換を行った。
    幸いなことに、石毛選手との対戦はツーボール・ツーストライクで決着はついていなかった。
    3塁側応援席では、正面1塁側アルプススタンドに陣取る弁慶高校ブラスバンドの大音量の応援を体に浴びながらも、祈るように手を顔の前で組んでグラウンドを見守った。
    「抑えてくれー!!」

    君島投手が勝負の5球目を投げた。
    「カキーン!!」
    町長が思い出した悪しき逸話が再現されたかのように、バッターは君島のボールをはじき返した。
    「あっ!!!」

  • #304

    六輔 (火曜日, 24 12月 2019 20:32)


    はじき返された打球音とその勢い、飛んだコースで観ていた者は皆ヒットだと確信した。
    だが、ピッチャーの足元を勢いよく抜けて行った打球に紘一が飛びついてキャッチし、素早く立ち上がって一塁へ矢のよう送球をしたのである。
    ファーストの犬飼が左手を伸ばし差し出したファーストミットに紘一の投げたボールが吸い込まれたと同時に打者走者がファーストベースにヘッドスライディングで飛び込んだ。
    4万を超える観衆が固唾をのんで見守った「どっちだ!」
    一塁審判が、自信たっぷりにジャッジした。
    「アウトーーー!!!」
    またも紘一のプレイがチームのピンチを救った。
    大歓声が沸き上がる中、内野陣は何事もなかったかのように、ファースト、サード、セカンド、そして最後はショートの紘一のところにボールを回した。

    君島は続く2番バッターの北を意図も簡単に三振にきってとり、3番義経との勝負はスリーボール・ツーストライクのフルカウントまでいったものの、最後はボールになる低めのスライダーを振らせて義経も三振に打ち取ったのだった。

    7回は紘一のプレイに始まり、二つの三振で簡単にスリーアウトをとったことにスカウト陣の緊張はさらに高まった。
    (阪神スカウト)「この回もまた魅せてくれたなぁ・・・瀧野瀬君」
    (広島スカウト)「本当に惚れ惚れするね!」
    (阪神スカウト)「ちゃんと守備位置をセカンドベースよりに変えていたよな!」
    (広島スカウト)「俺もちゃんと見たよ。恐れ入った」
    (西部スカウト)「なぁ・・・」
    (巨人スカウト)「なんだい?」
    (西部スカウト)「あるかもしんねーな!」
    (巨人スカウト)「・・・うん」

    この時のスカウト陣は、キーマンとなるトップバッターの石毛を抑え、さらには3番の義経まで三振にきってとったことに、君島が大記録を打ち立てることを予想したのであった。
    (西部スカウト)「完全試合」
    (巨人スカウト)「あと6人だな」
    (西部スカウト)「あぁ」

  • #305

    六輔 (水曜日, 25 12月 2019 20:06)


    夏の甲子園は、試合展開そのものが筋書きの無いドラマであることは言うまでもないが、そのドラマを周りで彩る要素もたくさん存在する。
    その一つがウグイス嬢のアナウンスだ。
    超満員で盛り上がる甲子園球場のスタンドでは、飲み物を売る声やブラスバンドの応援など、様々な声が響いている。
    その中で、情報を観客に伝えなければならないためにウグイス嬢は、アナウンスに独特なイントネーションをつけるのである。
    7回裏、弁慶高校のナインがグランドに散り、マウンド上の義経が投球練習を終えるタイミングを見計らって、場内に澄み切った声のアナウンスが流れた。
    「7回の裏、東庄高校の攻撃は・・・3番、ショート 瀧野瀬君…背番号6」
    3塁側アルプススタンドからその日一番の拍手が鳴り響いたのは当然のこと、スタンドにいる4万人を超える観客からも、その時を待っていましたと分かる異様なまでの歓声が沸き上がった。
    この日、球場に足を運んでいた者の大半は、前年度優勝校の弁慶高校観たさに列をなして入場してきた観客がほとんどだった。
    当然、初出場の東庄高校の情報など何も持ち合わせず、大半の者が弁慶高校の一方的な試合展開になることを予想していた。
    だが、試合が始まっていきなりの紘一のファインプレー、そしてその紘一のレフトスタンドへの特大ホームラと、驚きに追い打ちをかける二打席連続のホームラン。
    さらには、君島投手の完璧なピッチングを見せられて、東庄高校の強さと紘一の才能を知らされたのだった。
    球場内は、3度目となる紘一と義経の対戦に期待を寄せる拍手と歓声で異様な雰囲気になっていた。
    と、その時だった。
    甲子園で未だかつてなかった現象が起きたのである。
    そのきっかけを作ったのは、東庄高校応援団長の決断だった。
    7回裏の応援を始めるタイミングを見計らっていた東庄高校応援団長は、ウグイス嬢のアナウンスに球場内を見渡すと、観客がこの後始まる紘一と義経の勝負を固唾をのんで見守っているのが分かった。
    「どうしよう…この回は弁慶高校にエールを返さないと・・・この球場の雰囲気の中でエール交換は…」
    そう考えた東庄高校応援団長は、独断で決めたのである。
    「よし、紘一の打席が終わってからエールを返そう!」。
    応援団長からその話を聞かされたブラスバンドの指揮者は、指揮棒で合図を出すと、ブラスバンドの部員は一斉に席に着いた。
    誰一人として「どうして?」と疑問に思う者はいなかった。
    座らされた理由が直ぐに理解出来たからだ。
    普段はグラウンドに背を向けて応援を続ける学生服を着た応援団もグラウンドに体を向けて席に座った。
    それを見た東庄町の人達の中には、
    「どうして最高の場面で応援を辞めたんだ!」と文句を言った人が数人いたが、直ぐに諭され、納得して席についた。
    「そういうことか」と。
    一方、7回の表に先にエールを送っていた弁慶高校応援団長も、東庄高校がとった行動の理由を直ぐに理解した。
    「よし、俺たちも・・・」
    そう言って、グラウンドに体を向けて席に座った。
    当然、両アルプススタンドの異変に気付いた4万人も、ほぼ一斉にその状況を飲み込んだのである。
    そう、球場内にいた全ての者が同じ気持ちになっていたのだ。
    「二人の勝負を見守りたい!」

    奇跡だった。
    甲子園がまるでメジャーリーグの球場のように鳴り物もメガホンを叩く音もせず、球音が直に聞こえるそんな雰囲気の中で、甲子園球場は二人の対戦が始まるのを静かに待っていた。
    それまで「かちわり氷、いかがですかぁ~」と、大声を張り上げていた殿馬治美も球場の異変に気付いて足を止め、アルプススタンドの一番上からグランドを見守った。
    「わたし・・・こんな試合初めてだよ」
    バイト先から配給された売り子用のピンクのユニフォーム姿が眩しかった。
    育ち盛りの太ももが、おそらくはサイズが合わずに自前の物に替えたのであろう“赤パン”から伸びていた。

  • #306

    六輔 (木曜日, 26 12月 2019 20:40)


    この時、NHK放送の実況を伝えていたのは、アナウンサー実況歴30年を誇る小野塚アナだった。
    小野塚アナは球場の事の成り行きに気づいて、テレビの向こうで見守る何千万人の高校野球ファンに向かってこう実況したのだった。

    (小野塚アナ)「みなさん・・・80年以上続いてきた高校野球、夏の甲子園大会の中で、このような場面が一度でもあったでしょうか。30年以上、実況を続けてきました私でも全く記憶がございません。我々は今、まさに甲子園の奇跡を目の当たりにしています。この甲子園の音が、テレビをご覧になっていられる皆さまに、伝えられているでしょうか。おそらくは伝わっていないことだと思います。その理由を申し上げるならば、この甲子園球場から全ての音…ブラスバンドの鳴り物、メガホンを叩く音、飲み物を売る人達の声までもが、消え去っているからです。この甲子園球場にいる全ての人が、東庄高校3番バッター瀧野瀬選手と弁慶高校前年度優勝投手の義経選手のこの試合3度目の対決を固唾をのんで見守っているのであります」

    球場の異様な雰囲気にキャッチャーの雲竜が球審に許しをもらってマウンドにやってきた。
    (雲竜)「義経・・・」
    (義経)「みんなが俺たちの勝負を楽しみにしてくれているようだな」
    (雲竜)「どうやらそうらしいな」
    (義経)「俺たちは2年連続全国制覇という目標を持ってこの甲子園にやってきたんだ。もうこれ以上、あいつの好きにさせる訳にはいかないよ」
    (雲竜)「そうだな! で、どう勝負する?」
    (義経)「俺はお前を信頼して投げてきたピッチャーだ。お前がリードしてくれた通りに投げるだけだ」
    (雲竜)「分かった。変な言い方かもしれないけど、あいつと対戦するのが楽しみっていうか…なんかそう思わせるバッターだよな…瀧野瀬ってやつは。あいつを絶対に抑えてやろうぜ!」
    (義経)「おっ!」

    雲竜は、時間をもらった礼に丁寧に球審に頭を下げ、キャッチャーズボックスについた。
    「プレイ!」
    球審の生の声が、球場に響き渡った。
    雲竜のサインにうなずいた義経は、大きく振りかぶって外角低めにカットボールを投げてきた。
    紘一は、コースギリギリに攻めてきたそのボールを見送った。
    ≪パシッ!!!≫
    「ストライーーク!!」
    キャッチャーミットにボールが収まる音と、球審のコールが静まり返った球場に響き渡った。
    1塁側アルプススタンドから短い拍手が沸き、直ぐにまた静まり返った。
    弁慶高校バッテリーが2球目に選択したのは、インコースストレートだった。
    ≪パシッ!!!≫
    「ボール!!」
    3球目は大きく縦に割れるカーブ。
    ≪パシッ!!!≫
    「ストライーーク!!」
    ストレートは見せ球に、変化球でカウントを稼ぐバッテリー。
    紘一は、初めて見る変化球に手を出すことが出来なかった。
    そして、それは勝負の4球目だった。
    外角のストレートが、ストライクゾーンぎりぎりにボール1個分低く入ってきた。
    紘一は、スイングにいったが、途中でボールと判断してスイングを途中で止めた。
    ≪パシッ!!!≫
    「ボール!!」
    どよめきが起きる中、一人のスカウトが声を発した。
    「おい、キャッチャーはどうしてハーフスイングのリクエストを求めないんだ!」

  • #307

    六輔 (金曜日, 27 12月 2019 20:56)


    紘一をずっと追い続けてきた巨人のスカウトが口を開いた。
    (巨人スカウト)「あれ?気づいていなかったのか?」
    (阪神スカウト)「えっ? 何を?」
    (巨人スカウト)「東庄高校と同じ高校がこの甲子園にもいたと思って嬉しく観ていたんだけど・・・東庄高校も弁慶高校も、ストライク・ボール、アウト・セーフっていう一度下されたジャッジに対しては、一切のアピールをしないんだよ」
    (阪神スカウト)「はぁ? だって、キャッチャーが球審に対して“今のはスイングしています! 1塁審判に確かめてください“って、アピールするのは普通の権利だろう? その権利を放棄するっていうのか?」
    (巨人スカウト)「審判がボール!と一度ジャッジしたものはボールなんだよ、この2校の選手達にとってはな。まぁ、二人の勝負が終わったらあとで話してやるよ!今はこの勝負に集中しようぜ!」
    阪神のスカウトは黙ってうなずいた。

    カウントツーボール・ツーストライクとなり、5球目には外角へのカットボール、6球目には意表を突いた内角へのスライダーがきた。
    紘一は、バットの真芯でとらえられずに、ファールするのが精一杯だった。
    甲子園球場には、義経が投じたボールと紘一が振ったバットが触れ合う「カキーン!!」という金属バットの甲高い音だけが響き渡っていた。
    二人の息詰まる攻防に4万人を超える観客は酔いしれ、その結末見たさに、瞬きをすることも惜しんでグランドに視線を送っていた。

    弁慶高校バッテリーは、7球目にインコース高めのつり球のストレートを投げてきて、紘一は、簡単にそれを見送った。
    その1球を見たスカウト陣の多くのは、最後の決め球にフォークボールを投げてくると予想した。
    (西部スカウト)「あと投げていないのはフォークだけだな」
    (阪神スカウト)「今のインハイは間違いなく次のボールへの布石だろうからな。ほぼ間違いなくフォークボールだろうな」
    野球を少しかじったことのある人間の多くは、阪神スカウトの考えと同じように野球のセオリーから次の球種をフォークボールだと予想していた。
    4万人を超える観客が見つめる中、義経は勝負の8球目を投げた。
    と、スカウト陣の誰もが驚きの声を発するボールがきた。
    「インハイのストレート!」
    弁慶高校バッテリーは、「まぐれでないなら、もう1本打ってみろ!」と、言わんばかりに、初回の打席でホームランされたボールを勝負球に選択してきたのである。
    「カキーン!!」
    ファールボールがバックネットを直撃した。
    (西部スカウト)「おい、インハイのストレートで勝負に来たぜ!初回に打たれたボールを投げてくるとは・・・」
    (巨人スカウト)「フォークボールを強く意識していたら、今のボールはプロのバッターでも空振りしていたろうな。二人の勝負は高校生の域を超えているよ」
    球場内のどよめきが、いつしか大きな拍手に変わっていた。
    それほどまでに二人の勝負は素晴らしいものだった。
    そして、弁慶高校バッテリーが選んだ最後の勝負球は、誰も予想のつかなかった外角低めいっぱいに落ちるカーブだった。
    ストレートのタイミングで打ちに行っていた紘一は、途中で体重を右足に残し、体の回転と右手の押し込みでボールをはじき返した。
    「カキーン!!」
    高々と舞い上がったボールは放物線を描いてバックスクリーンめがけて飛んでいった。

  • #308

    六輔 (土曜日, 28 12月 2019 21:45)


    (阪神スカウト)「行った! 行ったぜ!」
    (広島スカウト)「・・・行ったな」
    誰もが紘一の3打席連続ホームランだと確信して打球を見守った。
    打球を追っていたセンターの石毛が外野フェンスいっぱいまで下がって真上を見上げた。
    と、その時だった。
    甲子園の浜風がその時に急に強さを増した。
    (西部スカウト)「浜風だ! 浜風で届かないんじゃないか?」
    ボールは強い浜風に押し戻され、外野フェンスいっぱいまで下がって真上を見上げていた石毛のグラブめがけて落ちてきた。
    「パシッ!」
    紘一の打ったボールは石毛のグラブに納まった。
    「ウォォォー!!!」
    1塁側アルプススタンドは悲鳴に近い声を歓声に変えて湧き上がった。
    それとは対照的に3塁側アルプススタンドは静まり返った。
    「・・・うそだっ」

    二塁ベース付近まで全力疾走していた紘一は、センターの石毛がボールをキャッチしたことを確認すると、悔しがる素振りを見せることも無くベンチへとダッシュで戻って行った。
    マウンド上で義経は、センターを見つめながら笑みを浮かべてこう言った。
    「たまたま風が強くなって、それでようやく抑えられたってことだよな」と。
    スタンドからは二人の勝負に惜しみない拍手がおくられていた。

    義経と紘一の勝負に決着がついたことで、賑やかさを取り戻した甲子園では、3塁側アルプススタンドの応援団が全員立ち上がり、校歌を斉唱したあとに1塁側アルプススタンドに向かってエールを返した。
    そんな中、スカウト達はさっきの続きを話し始めていた。
    (西部スカウト)「しかし、これだけ見応えのある野球を高校生に見せられるとはなぁ」
    (巨人スカウト)「あそこでカーブを選択するとは驚いたよ。だが、それをあそこまで打ち返した瀧野瀬君のバッティングを褒めるべきだろうなぁ。浜風が強くならなければおそらく・・・あぁ、そう言えば、さっきの東庄高校は一切のアピールをしないって言ったことなんだけどさ…」
    (阪神スカウト)「あぁ、その話…続きを聞かせてくれよ」
    (巨人スカウト)「何試合か東庄高校の試合を見ていて、直ぐに気が付いたんだよ『もしかしてアピールをする気もないのか?』ってね。それを本人達に聞く訳にもいかず、その試合で球審を務めた人がたまたま面識のある人だったので聞いたんだよ。『東庄高校って、どうしてアピールしないんだ?』ってね。そしたらさ、その球審も分かっていて、東庄高校のキャッチャーに言ったらしいんだよ。『アピールすることは悪いことじゃないからな!』って。そしたらこう返されたんだそうだ。『審判さんに一度ジャッジしていただいたことを疑っていたら、楽しい野球ができなくなってしまうので…ならばアピールすることをやめようって決めたんです!』ってね。その球審は言葉が出なかったそうだ。一つのジャッジに対する責任の重さを再認識したって言ってたよ」
    (阪神スカウト)「楽しい野球かぁ・・・東庄高校のフェアなプレイ、全力疾走、ヤジを飛ばさない・・・すべては野球を楽しむためのものなんだよなぁ・・・うん?そう言えば、弁慶高校もそういうことなんだな?」
    (巨人スカウト)「そうみたいだな。前年度優勝というおごりも無く、フェアな野球をしているよな。そこに来て義経君の素晴らしいピッチングだ。まぁ、それを上回る瀧野瀬君のバッティング・・・観客は素晴らしい勝負を観れて最高だよな!」
    (西部スカウト)「ホンとだな」

  • #309

    六輔 (日曜日, 29 12月 2019 07:14)


    (巨人スカウト)「俺たちスカウトは、バックネット裏から試合を観戦することがほとんどだから、下手をすると見落としてしまうときがあるんだけど、この両チームのキャッチャーも素晴らしいよな」
    (西部スカウト)「キャッチングだろう?」
    (巨人スカウト)「気づいていたんだな。さりげなくすごいことをやっているよな」
    (阪神スカウト)「お、おい!俺は気づいてないよ…さりげなく何をしているっていうんだい?教えてくれよ!」
    (巨人スカウト)「キャッチャーミットを全く動かさないで捕っているんだよ」
    (阪神スカウト)「まじか?」
    (西部スカウト)「キャッチャーはピッチャーのモーションに合わせてミットを持つ左手首でタイミングを取らないと、うまく捕球できないのが普通だ。その時にミットが大きく動く訳だけど・・・坂田君と雲竜君はャッチャーミットを全く動かさない。一見簡単そうに見えて、実はすごい高等技術なんだよな」
    (阪神スカウト)「気が付かなかったなぁ~」
    (巨人スカウト)「ピッチャーからすればミットは“的”だ。動かないことで、間違いなく投げやすくなっているはずだ。最近では大リーグのキャッチャーの多くがそういうキャッチングをするようになったようだけど・・・日本のプロ野球でそれをやっているのは中日の谷繁捕手ぐらいだ」
    (西部スカウト)「プロのキャッチャーでも、それをやることで逆にパスボールが増えてしまったりして…結局、その技術を習得できずに断念するキャッチャーが多いのに、坂田君と雲竜君は・・・恐れ入ったよ」
    (西部スカウト)「それにもう一つ感心したのは、決してカンニングをしないというところだよな」
    (巨人スカウト)「あぁ、俺もそれは気づいていたよ。コースぎりぎりのボールを捕球する際にミットを動かしてストライクに見せかける・・・昔はそれを堂々とやっていたが、最近ではミットをあからさまに動かすと逆にボールとジャッジされる風潮もでてきたよな。それでもまだどうにか審判の目をごまかそうとして、分からないようにミットを内側に寄せるキャッチャーが多い。坂田君と雲竜君は“どうぞジャッジしてください!”と言わんばかりに正々堂々とミットを止めているよな」
    (西部スカウト)「攻撃側がボール操れるのは、バットに当たる瞬間だけ。その時間はまさに“ほんの一瞬”だよな。だけど守備側は、プレイ中はずっとボールと関わる訳で、だからこそ自分達の思い通りにボールを操れないといけない訳だよ。チームの「強い・弱い」は、攻撃側になったときに“ほんの一瞬”である時間をボールとどううまく関わるか。そして守備側になったときは、どれだけ自分達の思い通りにボールを操れるか。それが別れ目になるんだよな。だからこそ、ボールと関わる時間の長い守備の方が圧倒的に大事になるんだろうけど・・・」
    (巨人スカウト)「そうだな。しかし、さりげなく高等技術をこなし、一切のアピールも、ごまかそうとすることもなく…両チームともフェアなプレイで正々堂々と戦っている。こんな試合が今までにあったか? 球史に残る名勝負になるぜ、この試合。俺たちがしっかり見守ってやろうぜ!」

  • #310

    六輔 (月曜日, 30 12月 2019 18:53)


    結局、7回の攻撃は両校ともランナーを出すことが出来ずに、試合はいよいよ8回へと突入した。
    球場はいつしか超満員になっていた。
    前年度優勝の弁慶高校の一方的な試合だと予想していた者が、テレビ中継で試合経過を知り、多くの高校野球ファンが甲子園球場に駆け付けてきたのだった。
    8回を迎え、球場はより一層の緊迫感に包まれていた。
    3塁側アルプススタンドでは、町民の先頭に立って応援を続けていた町長も心臓バクバクの時間帯に入ってきていた。
    (秘書官)「いよいよ8回ですね」
    (町長)「・・・そうだな」
    (秘書官)「この回は4番バッターからですよ」
    (町長)「・・・そうだな」
    と、町長は母校の甲子園初勝利まであと2イニング、しかも6人を完璧に抑えれば完全試合という偉業達成という緊張感に耐えきれなくなり、トンチンカンな質問を秘書官に浴びせたのだった。
    (町長)「なぁ…」
    (秘書官)「はい」
    (町長)「野球はどうして左回り、時計と逆回りに走るんだい?」
    (秘書官)「・・・はっ?」
    (町長)「いやっ、ふと思ったんだけど…どうして右回りではなく左回りに走るようになったんだろうな?」
    (秘書官)「どうして?…ですか?…それは・・・あっ!陸上のトラック競技も左回りですけど、それと同じ理由だとすれば理由は分かります」
    (町長)「ほぅ、分かるのかね? じゃぁ聞かせてくれないか?」
    (秘書官)「は、はい。いいですがぁ…今ですか? 応援があるのでは・・・」
    (町長)「いいんだ。今がいい。ぜひ聞かせてくれないか?」
    (秘書官)「はぁ・・・では」
    と、秘書官は自分の話にはきっと上の空であると分かりながらも、町長のリクエストに応えて話し始めたのだった。
    (秘書官)「トラック競技などの左回りの法則については、人体のメカニズムと大きく関連しているという説があります。心臓が左側にあるので、遠心力による身体へのストレス軽減のために左回りなったであるとか、人間の体のウエイトが左側に寄っているので左まわりのコーナリングに適しているであるとか、人間の軸足は左足であるために、軸足が内側にあった方が回りやすいとか・・・」
    (町長)「ほぅ、それで? 続けてくれたまえ!」
    (秘書官)「は、はい。その左回りの法則はスポーツだけではなく、スーパーやコンビニ…ディズニーランドなんかも左回りの法則に従って作られているそうです」
    (町長)「ディズニーランド? ディズニーランドと甲子園は関係ないだろう」
    (秘書官)「えっ?・・・あっ、は、はい。そうですよね。因みにですが、盆踊りも左回りですし、フィギュアスケートでも左回りに回転する選手がほとんどですよね」
    (町長)「えっ?スケート?スケートがどうしたって? いいから話を続けてくれたまえ!」
    (秘書官)「あっ、は、はい。あぁ、こんな話もあるんですよ。「お化け屋敷」とか「ミステリーツアー」、あと「ジェットコースター」なんかはわざと右回りにすることで「何か気持ちが悪い」となって、恐怖感や気持ち悪さを増幅させているんだそうですよ。人間って面白い生き物なんですよね…町長」

    秘書官の左回りの法則の話が終わるのと同時だった。
    (町長)「やったよ、8回も3人で抑えたよ!」
    (秘書官)「良かったです、町長。あと1回ですね」

  • #311

    六輔 (火曜日, 31 12月 2019 08:12)


    8回裏、東庄高校の攻撃は、6番・犬飼、7番・坂田、8番・微笑と三者凡退に終わった。
    結局、8回を終わって打者26人、出塁出来たのは紘一の2本のホームランだけ。
    24のアウトのうち、甲子園記録である作新学院の江川投手に並ぶ8人連続を含む19個の三振、内野ゴロ4、外野フライ1の成績だった。
    ようは外野にボールを飛ばされたのは紘一の2本のホームランと紘一の大きなセンターフライだけという完璧な義経の投球だった。
    一方、弁慶高校は、打者24人で内野ゴロ12、外野フライ6、三振6という、君島投手の打たせてとるピッチングの前に完璧に抑えられていたのである。
    そして試合はいよいよ9回の表の攻撃を迎えた。
    春の選抜大会では2度達成されているが、夏の甲子園では未だかつて誰も達成したことの無い「完全試合」まであとアウト3つまでに迫っていたのである。
    否応なしに、東庄高校の選手達に緊張感が襲い掛かってきた。
    それでもどうにかリラックスしようと、選手間では冗談を言い合う余裕もあった。
    (度井垣)「犬飼のところにゴロが飛ぶのが一番恐ろしいぞ!」
    (犬飼)「いやっ、度井垣の大暴投が一番心配じゃねーの?」
    (戸野間)「誰がエラーしても恨みっこなしづら! 勝てばいいづら!」
    (里奈科)「戸野間の言う通りだよ。って、戸野間のトンネルも怖いけどな(笑)」
    (戸野間)「そんな縁起でもないこと言わないづら! 本当に勝てばいいづら!」

    ベンチでは互いに冗談を言い合ってリラックスしていた東庄高校ナインだったが、さすがに9回の表の守りにつくときはナインのほとんどがこう表現していた。
    「やべぇ~ 心臓が口から出そうだぜ!」と。
    7球の投球練習を終え、キャッチャーの坂田からセカンドに送球されたボールが内野を一周し、この時は最後に紘一のところに戻ってきた。
    紘一はボールを持ってゆっくりとマウンドに歩み寄った。
    「最後まで楽しめよ!」
    『はい、キャプテン』
    「まぁ、無理もないが誰もが緊張しているよな。それも一緒に楽しみに変えちまおうぜ…君島」
    『・・・そうですね。まさかこんな試合になるとは思っていなかったです…』
    「勝負は時の運だ!最後までどうなるか分からないから面白いんだ。俺もお前の後ろで試合を楽しんでいるからな!」
    『はい!…って、ここでは言ってくれないんですか? 打たれたっていいんだ!打たれて覚えることもあるんだ!って』
    「白進戦では、そんなことも言ったっけな(笑)」
    『でしたよね(笑)さすがにこの場面で60歳セーラー服お婆ちゃんの話も無いでしょうし…』
    「そうだなぁ…さすがに甲子園で60歳セーラー服お婆ちゃんの話はなぁ・・・あっ、そうだ! このイニングが終わったら新しい話を聞かせてやるよ!」
    『新しい話?…って、どういう話なんですか?』
    「あぁ~ このイニングが終わったらな!」 
    『え~ 少しだけでも聞かせてくださいよぉ』
    「う~ん・・・日光線には、席に座らずに“かかと”をあげたまま乗車するお婆ちゃんがいるっていう話だよ」
    『・・・はっ???』

    このイニングが終われば、時代が変わるかのように、東庄高校と弁慶高校の試合は幕を下ろすのであった。

  • #312

    六輔 (水曜日, 01 1月 2020 07:03)


    「明けましておめでとう!」
    『おめでとう!』
    「ゴメンね、待たせちゃった」
    『俺もちょっと前に来たばかりだよ』
    「そっか、ゴメンね・・・冬休みに入って…1週間ぶりだね」
    『うん』
    「教習所は終わったの?」
    『あぁ、あと学科試験を受けるだけ』
    「そっか」
    『勉強の方はどう?あと10日だね…センター試験』
    「とりあえず順調かな。ずっと部屋にこもって頑張ってきたから…久しぶりだよ、外の空気を思いっきり吸えるは」
    『そっか』

    神社の入り口に自転車を2台並べて置いた二人は、参拝の作法をきちんと守るように鳥居の前に立って一礼し、互いに左足から踏み出して鳥居の左よりをくぐった。
    両端に杉の木が立ち並ぶ参道を進んでいくと、拝殿の前に手水舎(てみずや)が見えてきた。
    手水舎の前に立った二人は、右手に柄杓を持って左手の指と手のひらを洗い、次は柄杓を左手に持ち換えて同じ手順で右手を洗った。
    そしてもう一度右手に柄杓を持ちかえ、左の手のひらに水をためて、その水で音を立てずに口をすすいだ。

    手水舎で心身の浄化を済ませた二人は、神前に進んで賽銭箱の前に立ち、二人それぞれに賽銭を差し出してから鈴を鳴らした。
    二人は姿勢を正して背中を平らにし、深く2度お辞儀をして胸の前で両手を合わせ、右指先を少し下にずらして柏手を2度打ち、胸前で両手を合わせてお祈りを始めた。
    小さな神社で、ちょうどその時間に他に参拝者がいなかったことで、二人は長い時間神様の前で手を合わせていた。
    息を合わせるように同時にお祈りを終えた二人は、最後にもう一度神様にお辞儀をし、互いに向き合って微笑んだ。

  • #313

    六輔 (木曜日, 02 1月 2020 07:36)


    参拝を終えた二人は、肩を並べて寄り添うように歩き出した。
    「ねぇ…」
    『うん?』
    「何をお願いしたの?」
    『無事に大学に合格できますようにって』
    「えっ?ホンと?・・・ありがとう」
    『何をお願いしたの?』
    「えっ?私はナイショ!」
    『はっ?・・・』
    「うそ。もちろん紘一のことだよ・・・お願いしたのは二番目だけどね(笑)」
    『そっか。同じだね(笑)』
    「はっ?・・・」
    『やっぱ一番は自分の大切な人達の健康でしょ!陽菜子のことも含めてね。だから陽菜子の大学合格をお願いしたのは二番目』
    「私もおんなじ(笑) 大切な人達の健康を真っ先にお願いしたよ…紘一のこともね」
    神社を囲む杉の木の隙間から、元日の穏やかな日差しが差し込んで二人を柔らかく包み込んでいた。

    陽菜子は、歩き出して直ぐに周りを気にして見回し、紘一にこう尋ねた。
    「ねぇ、紘一・・・」
    『うん?』
    「無い…んだね」
    『えっ?』
    「…おみくじ」
    『あぁ・・・ごめん、小さな神社だから…』
    「いやっ、いいのいいの。紘一の地元の神社にお参り出来きて嬉しかったし…」
    『あまり遠くの神社だと・・・陽菜子の受験勉強の邪魔をしちゃいけないと思って…』
    「分かってるって!ありがとう、紘一」
    『初詣のときって、おみくじを必ず引くの?』
    「うん!必ず…かな。あっ、そうそう。おみくじって、神社とお寺で違うの知ってる?」
    『えっ?・・・』
    「知らないんだぁ…」
    『・・・俺、理系だから』
    「(笑)あんまり関係なくない?」
    『関係あるし!理系はそういうこと知らなくてもいいんだし』
    「だから、一般常識として知っておいてもよくない?」
    『良くない!』
    「もぉ~相変わらず負けず嫌いなんだから!(笑)」
    陽菜子の笑顔が、穏やかな日差しに照らされて眩しく輝いていた。

  • #314

    六輔 (金曜日, 03 1月 2020 06:35)


    紘一は、少しだけ口を尖らせて言った。
    『だって、陽菜子は文系だから日本史とか得意だろうけど、俺は理系だから…』
    「え~ だって、高校1年のときに習ったことだよ。文系・理系にクラス分けされる前に習ったことだし…」
    『 (-_-)zzz 』
    「都合が悪くなると直ぐに寝たふりするぅ~ もぉ~(笑)知りたいでしょ?」
    『・・・知ってやってもいいよ』
    「なにそれ、まったく素直じゃないんだからぁ(笑)。 おみくじは神社にもお寺にもあることぐらいは知ってるでしょ?」
    『えっ?・・・あ、う、うん…もちろん』
    「でもそれぞれに微妙に違くて・・・おみくじのルーツってね、もともとはお寺から始まったのよ」
    『えっ?そうなの?』
    「うん!おみくじの起源の話を始めちゃうと長くなっちゃうから…う~ん・・・あっ!おみくじで面白い話を思い出した。 明智光秀! 明智光秀は、本能寺の変の前に京都のお寺で何度もおみくじを引いて戦局を占ったって昔の書物に書かれてあるのよ」
    『へぇ~』
    「お寺と神社の違いを話すには、ここに黒板でも置いて授業をやらないと教えきれないからやめておくけど・・・」
    『うん…難しい勉強は遠慮しておく』
    「(笑) おみくじについて簡単な言い方をしちゃえば…お寺のいいところを取り入れて神社でもおみくじを始めたって感じかなぁ・・・御朱印なんかも神社がお寺の真似をしたって言われているんだよ」
    『あぁ、確かに神社にもお寺にもあるよね…御朱印ってやつ』
    「御朱印の起源は、写経をしました!って、お寺にそれを持って行ったときの受付印みたいなものだったんだって」
    『へぇ~』
    「そのうちにだんだん写経していない人もいただけるようになって…」
    『なるほどぉ』
    「おみくじの話に戻るけど・・・明らかな違いは、お寺のおみくじが漢文、神社のおみくじが和歌で書かれてあるってことかな」
    『漢文?和歌? もうだめだ。俺のキャパを超えてるよ』
    「(笑) お寺は仏教の宗教施設、仏様よね。仏教は中国から伝わってきたとされる外来の宗教でしょ。仏陀を開祖として説かれた教えで、聖徳太子によって仏教の受容が広められて日本に根付いたとされているのよ。 それに対して神社は神道の宗教施設、神様よね。神道は日本起源の宗教で、多くの神様…山とか森とか石、神木といった自然や、特定の人物も信仰するのよ。お寺では仏様の像を見ることが出来るけど、神社では祀られている神様の姿を見ることは出来ないでしょ。それから・・・お寺には門があって塔が建っていて、お地蔵様がいたりするけど、神社は、門ではなく鳥居が建っていて…あっ、鳥居には二種類の形があるのよ。それぞれに意味があって…あと、神社といえば狛犬よね。稀にお寺に狛犬がいるところもあるんだけどね」
    『へぇ~』
    「“阿吽の呼吸”っていう言葉は知ってるでしょ?」
    『うん』
    「阿吽…始まりと終わりを現わすとされる言葉よね。阿吽の呼吸って、神社の狛犬…正確に言うと、獅子と狛犬から言われるようになった言葉なのよ。獅子と狛犬って神社の前に左右一対で置かれてあるんだけど、それぞれの口元が“阿吽”(あうん)の形をしているの」
    『?????』
    「口を開いている“獅子”が阿吽の阿形(あぎょう)、口を閉じている“狛犬”が阿吽の吽形(んぎょう)って呼ばれていたの・・・難しくなっちゃった?」
    『・・・うん』
    「ゴメン、ごめん(笑) でもさぁ、日本人って本当に信心深い国民なのよね。だって、元日の朝早くからたくさんの人が列をなしてお参りするでしょ。でも、どうやら神社とかお寺とかあまり気にしないで参拝している人も多いみたいなのよね。紘一はちゃんと理由があって神社に初詣をしようと考えたの?」
    『えっ?・・・自宅に一番近くて初詣できるのがこの神社だから…』
    「そっか。でもお参りしようって考えることが大事なことだから、気にしなくて大丈夫よ。 日本では、宗教法人の数で言うと、神社が確か…約8万社、お寺がそれよりちょっとだけ少なかったはずよ。初詣は神社だ、お寺だってあまり気にすることなくお参りしたりするけど、お葬式とかになると8割先の人がお寺のお坊さんにお世話になるのよね」
    『そうなの?』
    「高校生の私たちには、まだあまり身近な話じゃなかったわね。でもさ、日本の宗教って不思議じゃない? だってさ、結婚式は教会で牧師さんにお世話になって、子供が生まれたら今度は神社に行って名前を頂いたりして…で、亡くなったらお坊さんにお世話になる訳でしょ。不思議に思ったことない? 何故そうなったのかを勉強すると面白いわよ。神社でいえば「神宮」と「大社」の違いであるとか…私たちの世代は、日本最古の歴史書とされる“古事記”をどうして学校で習わなくなってしまったのか…とか。 紘一も今から勉強してみたら?・・・日本史」
    『(苦笑)遠慮しておく』

  • #315

    六輔 (土曜日, 04 1月 2020 21:41)


    二人が初詣に訪れた神社は、小高い山の中腹にあった。
    参拝を終えた二人は、杉の木が両端に立ち並ぶ緩やかな下り坂の参道を歩いてきて、神社の入口にある30段ほどの階段のところに立った。
    「わぁ・・・」
    『うん?』
    「空気が乾いているからかなぁ…すごく山なみが綺麗だね」
    『うん…あれが筑波山だよ』
    と、紘一が指さす方角に視線をやった陽菜子は笑みを浮かべた。
    「そっか、あれが筑波山なのねぇ…綺麗」
    蛙たちが体を凍てつかせて冬の間中眠る田んぼを、穏やかな日差しが照らしていた。
    元日の空には、3時間ほど前に一年の幸せを祈願する数えきれないほどの人が手を合わせたお天道様が真珠のように輝いていた。

    階段を降りてきた二人は、並んで鳥居をくぐり、同時に振り向いて鳥居に向かって丁寧に一礼をした。
    自転車を置いた場所に戻ってくると、陽菜子が紘一の方に体の向きを変えてこう言った。
    「紘一、今日は私のわがままを聞いてくれてありがとう」
    『俺の方こそ・・・受験勉強頑張ってな』
    「うん! 大学受験が終わったらドライブに連れて行ってね」
    『あぁ、もちろん! 大笹牧場に行こうよ!』
    「大笹牧場?…って、日光の?」
    『うん! ブラウンスイスのソフトクリームが有名なんだよ』
    「相変わらず、甘いもの好きの紘一だね(笑)うん、楽しみにしてるね!」

    陽菜子は真っ赤な手袋をとって、大人の女性になりかけの透き通るような綺麗な手を紘一に差し出した。
    紘一も軍手をとってそれに応え、4つの手が重なり合った。
    「あぁ…紘一の手あったか~い」
    『心があったかいからな!』
    「え~・・・手が冷たい人が心があったかいって聞いたよ」
    『それ、間違いだから!』
    「そっか…でも、私はちゃんと知ってるから大丈夫!」
    『なにを?』
    「紘一が、誰よりも仲間を大切にして、優しい人だって」
    『そ、そんな真面目に言われても・・・』
    「相変わらずの照屋さん!(笑)」
    『からかうなって』
    と、紘一の視線が自分の口元に向いていることに気づいた陽菜子は、胸の高鳴りを覚え少しだけ顔を紅潮させた。
    『陽菜子・・・』
    「は…はい」
    『リップ貸そうか?』
    「えっ?・・・リ…リップ?」
    『寒さで荒れちゃうよ』
    「荒れちゃう?・・・う、うん…大丈夫、リップ持ってるから」
    『そっか』

    重なり合った4つの手が離れ、陽菜子は真っ赤な手袋を、紘一は軍手をしてそれぞれの自転車にまたがった。
    「じゃぁね、紘一」
    『うん。しっかり神様にお願いしておいたから…絶対に合格できるから、緊張せずに試験を受けろよ!』
    「ありがとう、紘一」
    『じゃぁな、陽菜子』

    陽菜子は知っていた。
    陽菜子と別れて家路についた紘一は、決して振り向かないことを。
    その日もいつもの通り自転車を飛ばして帰っていく紘一の背中を見つめながら、陽菜子は甲子園での出来事を思い出していた。
    「どうして、あのとき・・・」

  • #316

    六輔 (日曜日, 05 1月 2020 17:46)


    それは、5か月前に甲子園で戦った弁慶高校との試合に起きたことだった。
    9回の表、弁慶高校7番・キャッチャー雲竜の打席の時だった。
    ツーボール・ツーストライクから君島が投じた外角のスライダーを雲竜がバットの先で引っかけてショートにゴロが飛んだ。
    平凡なゴロだった。
    紘一がいつも通りに鮮やかなステップで捕球体制に入りグラブを差し出すと、その手前でバウンドが変わったのである。
    観ている誰もが分かるようなあからさまに飛び跳ねるようなイレギュラーバウンドではなかったが、間違いなくバウンドが変わった。
    バウンドの変わったゴロは、紘一の差し出したグラブに納まることなく、グラブの土手に当たって3塁方向へと転がった。
    カバーに入っていたサードの度井垣がその打球を掴み、急いでファーストへ送球したが、打者走者の雲竜は既に1塁ベースを駆け抜けていた。
    初めてランナーが出塁したことに1塁側アルプススタンドは湧き上がった。
    「ウォーー!!!」

    ネット裏ではスカウト達が吠えていた。
    「ヒットだ!」
    『そうかもしれんが・・・エラーにすればノーヒットノーランが残っている!』
    公式記録員が判断を下すまで、甲子園球場は静まり返っていた。
    スコアボードにエラーのEとヒットのHのどちらが表示されるのかで大きな差があるのが分かっていたからだ。
    少しの間をおいてスコアボードに表示されたのは紘一のエラーだと告げる「E」だった。
    甲子園球場全体がどよめいた。
    「エラーじゃない!ヒットだ!」と吠えたスカウトはこう言った。
    「公式記録員が何をどう考えたかは知らないが、今のは間違いなくヒットだよ。ヒットかエラーかの判断は、「打球がイレギュラーバウンドしたこと」そのものではなく「平均的な野手の守備能力であればそのイレギュラーバウンドへの対応が十分に可能であったか」で判断されるものだ。今みたいにバウンドが変化されたらプロの内野手だって捕球は不可能だよ! それぐらい野球に携わる者なら分からなかったら・・・ピッチャーの君島君には気の毒かもしれないが、逆にあれをエラーと記録されたら、内野手が可哀そうなことになるよ。自分は甲子園のエラーがきっかけで、野球をやめざるを得なくなった選手を何人も知っているよ」
    『おいおい、縁起でもないことを言うなよ! 10年に一度、いやっ、20年に一度の逸材と言ってもいい瀧野瀬君が野球をやめるようなことにでもなったら大変だろうよ!』
    「まぁ、これだけの選手にそれは無いだろうけどな!」
    『いずれにしてもこうなった以上、どうにかこのまま東庄高校に勝ってもらいたいもんだな!』
    スカウト達は知っていた。
    こうした一つのことがきっかけとなって試合の展開が変わることを。
    だからこそ「このまま」と願わずにはいられなかったのだった。
    だが、そんなスカウト達の心配をあざ笑うかのように、試合は大きく動き出してしまうのだった。

  • #317

    六輔 (月曜日, 06 1月 2020 20:30)


    紘一がマウンドに来た。
    「すまん…君島」
    『謝らないでくださいよ、キャプテン。イレギュラーしていたじゃないですか』
    「えっ?・・・それを言うな、君島」
    『だって、自分は一番近くで観ていましたから・・・間違いなくイレギュラーしていましたよね。それなのに記録はキャプテンのエラーとされちゃって…』
    「いいんだ、本当に何も言うな、君島」
    『審判の方が、自分のノーヒットノーランを気にしてそうしたみたいで嫌ですよ。ヒットにしてくれた方が気が楽でしたよ』
    「君島・・・俺の事を思って言ってくれているんだろうけど、俺たちは、審判のジャッジは絶対だ!って、そう決めて野球を楽しんできたチームなんだ。だから、ジャッジのことをとやかく言うのはやめよう」
    『でも・・・』
    「君島・・・」
    『…そうでしたね、キャプテン』
    「ずっとそういう野球をやってきた俺たちだよな」
    『はい。自分はこの試合にピッチャーとしての記録は何も求めてないです。とにかくこの試合に勝ちたいです』
    「そっか」
    『いつもキャプテンに救われている自分ですから、ここは絶対に踏ん張ります』
    「分かった。いつも通りの野球をやろうな…君島」
    『はい、キャプテン!』
    ベンチからマウンド上の二人の様子を見ていた監督は、紘一との話を終えた君島が笑みを浮かべたことに安堵のため息をついた。

    マウンド上で君島は「ふっ」とひとつ息を吐き、この試合初めてセットポジションの形で坂田のサインを覗き込んだ。
    と、その時だった。
    ネット裏のスカウトが口を開いた。
    (西部スカウト)「おい、君島君はこの試合初めてキャッチャーのサインに首を振ったぜ!」
    (巨人スカウト)「あぁ、俺も気づいたぜ! えっ? おい、もう一度…何かが狂ったんじゃなければいいが…」

    この時の東庄高校の誰一人として、気づいていた者はいなかったのである。
    “甲子園の魔物”が牙をむいて東庄高校に襲い掛かろうとしていたことを。

  • #318

    六輔 (火曜日, 07 1月 2020 19:29)


    二度首を振ってようやく決まったサインにうなずいた君島は、セットポジションからセカンド方向に顔を向け、ランナーを目で牽制してからホームに顔を戻して1球目を投げた。
    「ボール!」 ボールは外角に大きくはずれた。
    二球目も首を一度振って二つ目のサインにうなずいた君島は、外角低めを狙ってストレートを投げたが、8番バッターの土門は自信満々にそれを見送った。
    「ボール!」
    結局、8番の土門に対して1球もストライクが入らず、その試合初めてのファーボールを与えて土門を歩かせ、ノーアウト・ランナー1・2塁とピンチを広げてしまった。

    (西部スカウト)「明らかにおかしいよな…君島君」
    (巨人スカウト)「瀧野瀬君のところに飛んだボールがイレギュラーバウンドしたのが・・・あれがもし“甲子園の魔物”の仕業だと言うのなら、もう誰にもどうすることもできないぜ…この試合」

    スカウト達の心配をよそに試合は続いていた。
    9番バッターの田中清美選手がバッターボックスに入って、ベンチのサインにうなずきバントの構えにバットを持ち換えた。
    セカンドランナーの直ぐ後ろに立つ紘一から牽制のサインが出ているのを確認したキャッチャーの坂田は、君島を落ち着かせるようにゆっくりと牽制のサインを送った。
    「分かった」と、うなずいた君島は紘一が牽制に動き出したタイミングに合わせて振り向きざまに牽制球を投げた。
    君島からの牽制球をキャッチした紘一は、ボールを君島に返球する際に「逃げずに行こうぜ!」と声をかけた。
    それは紘一から内野手全員に対してのサインだった。
    「ヨッシャー!」
    と、全員が応えると、坂田のサインにうなずいた君島が紘一に視線を向けた。
    と、紘一が3塁ベース方向へと走り出したそのタイミングに合わせてサードの度井垣とファーストの犬飼がホーム方向へと走り出し、それと合わせて君島は1球目を投じて自らもバント処理に走った。
    それは、明らかにバントをしてくるという場面で使うバントシフトだった。
    だが、全国制覇した弁慶高校も東庄高校のシフトを覚悟のうえで田中選手にバントのサインを送っていたのだった。
    ベンチの期待に応えた田中の絶妙なバントに東庄高校の内野陣は、3塁封殺を断念し、バッターランナーをアウトにするしかなかった。

    2-0、東庄高校が2点をリードして迎えた9回表、エラーとファーボールのランナーがバントでそれぞれ2・3塁に進塁した場面で、東庄高校ベンチは監督自ら主審に対してタイムを要求した。
    「タイム願います!」
    監督は伝令に指示を伝え、それを受けた選手がダッシュでマウンドに走ってきた。
    タイムが取られたのと同時にマウンドに集まっていた内野陣の輪に伝令が加わった。
    紘一は、もしやトップバッターの石毛を歩かせるような指示をもらってきたのではと、心配しながら伝令に訪ねた。
    (紘一)「監督はなんて?」

  • #319

    六輔 (水曜日, 08 1月 2020 19:43)


    伝令は、笑顔を作ってこう言った。
    (伝令)「いつもと変わらない自分達の野球をやりなさい!そう伝えるように監督から言われてきました」
    (紘一)「ということは・・・1番バッターと逃げずに勝負しろってことだよな?」」
    (伝令)「はい。1点は覚悟のうえで内野は定位置に守るようにと」
    (紘一)「そっか。相変わらず一切逃げない監督だな」」
    (伝令)「あと、悔いのないように自分のピッチングをしろ!そう君島に伝えるようにと」
    (君島)「分かった」
    (度井垣)「俺たちを信頼してくれている監督! そういうことだよな」
    (戸野間)「まったくづら! 君島も思いっきり投げるづら!」
    (君島)「はい」
    (犬飼)「こういう場面で落ち着いてプレイが出来るように、俺たちは練習を重ねてきたんだからな」
    (紘一)「犬飼の言う通りだ。俺たちは・・・俺たちの野球をやるだけだ!」
    (全員)「ヨッシャー!!!」

    円陣が解かれると、紘一だけがマウンドに残ってこう言った。
    (紘一)「君島…お前はずっと坂田を信頼して投げてきたからこそ、ここまで成長することが出来たんだよな」
    (君島)「…はい」
    (紘一)「それが分かっているならもうこれ以上言うことはない。お前はもう立派な東庄高校のエースに成長したんだからな」
    (君島)「キャプテン・・・さっきはどうして坂田のサインに首を振ったのか…自分でも記憶が無いんです。それだけ緊張していたんですかね? でも、もう大丈夫です。キャプテンの大好きな楽しむ野球を自分もやります!」
    (紘一)「そっか…頼んだぞ、君島」

    試合に勝利するための円陣を解いて、バッターに向き合う勇気を取り戻した君島は、「ヨッシャ!」と自分に気合を入れた。
    だが、前を向くとそこには一番警戒しなければならないバッターがバットスイングをしながら気合十分に待ち構えていた。
    「この場面でこのバッターかよ…でも俺は逃げないぜ!」
    と、置かれた状況をよく理解してから坂田のサインに一発でうなずいた。
    初球はボールのコースから入ってくる内角のスライダーが低めに決まった。
    「ストライーーク!!」
    『ヨッシャー!』と、心の中で気合を込め、二球目のサインにも一発でうなずいた。
    「はいよ!」と、投げたのは外角低めいっぱいのストレート。
    2球で石毛を追い込んだ。
    だが、石毛との勝負はそこからが大変だった。
    ストライクギリギリに投げたボールを見逃され、カットされ、また見逃され、カットされと、6球を投げてカウントはツーボール・ツーストライク。
    決め球に選択したインコース低めのストレートで勝負にいくと、それを真芯で捕らえられ、強い打球がセカンドの戸野間の正面に飛んだ。
    戸野間は落ち着いてそれを捕球し、ファーストへ送球した。
    「アウトー!」
    このプレイでツーアウトをとったが、その代償として弁慶高校に1点を献上した。
    結果論であるが、もし、内野が前進守備をとっていたら失点を防げたゴロだった。
    弁慶高校がノーヒットで1点を取ったことで、君島投手はノーヒットのままノーヒットノーランの記録を失うことになったのだった。

  • #320

    六輔 (木曜日, 09 1月 2020 20:32)


    君島は、マウンド上でスコアボードを見つめていた。
    それはスコアボードに記された弁慶高校の得点1を悔やむものではなく、その下にある東庄高校の得点2という数字に「まだ1点勝っているんだ…あとアウト一つ!」と、もう一度気合を入れるためだった。
    弁慶高校1塁側アルプススタンドでは得点したことに大騒ぎとなり、応援のボルテージは最高潮に達していた。
    一方、東庄高校3塁側アルプススタンドでは、ほとんどの生徒、町の人も両手を顔の前で合わせて祈るようにグラウンドを見つめていた。
    バッターボックスに2番の北選手が入った。
    君島は、コースを丁寧についていったが、球数も100球を超えて序盤ほどのキレが無くなっていたことで、空振りを取ることが出来なくなっていた。
    フルカウントとなって勝負の9球目、アウトコースギリギリにスライダーがきた。
    バッターの北はそれを打ちにいったが、途中でボールだと判断して途中でスイングをやめた。
    ストライクとコールされればそれでゲームセットだと、満員の観客が主審のコールを見守った。
    ほんのわずか主審の右手が動きかけた。
    「ヨッシャー!」と、東庄高校ナインが守備位置で声を出そうとしたその時だった。
    「ボール!!!」と発せられた主審の声にナインの誰もが動きを止められた。
    球審の右手が真上に上がって「ストライク!」とはコールされず、「ボール!」と判定されたことに、3塁側アルプススタンドで野球を良く知る者は「スイング!スイングしているぞ!」とハーフスイングのリクエストを求めて欲しいと叫んでいた。

    (西部スカウト)「どう思う?」
    (巨人スカウト)「何が?」
    (西部スカウト)「振っているように見えなかったか?球審にリクエストしていれば・・・」
    (巨人スカウト)「どうだろうなぁ。球審が自信を持ってボールとコールしていて、しかもそれをストライクと覆せば、その瞬間にゲームセットだ。1塁審判には酷なリクエストになっただろうな」
    (西部スカウト)「これで負けたりしたら…悔いが残るんじゃないのかなぁ」
    (巨人スカウト)「さぁ、それはどうかなぁ。悔いを残すようなことなら、こういったことを最初からやらないんじゃないのかな?…俺はそんなふうに思うけど。東庄高校の選手達はそういうことを全部吹っ切ってこのグラウンドに立っているんだと思う。そうしてきたからこそ、この甲子園にたどり着くことができたんだと…俺はそう思ってるよ」

    それまで3打席とも三振に打ち取っていた2番の北を結局ファーボールで1塁に歩かせ、ランナー1・3塁となって迎えるバッターは3番バッター、ピッチャーの義経となった。
    どんな選手であろうとも一番に緊張する場面で、君島は冷静にマウンドに立っていた。
    「今までやってきたことを信じて投げるだけだ!」
    そう自分に言い聞かせ、後ろを振り向いた君島は右手の人差し指と小指の2本を伸ばして「ツーアウト」とバックに声をかけた。
    8回までパーフェクトピッチングだった君島が1点は献上したが、優勝候補の弁慶高校にあとアウト一つで勝利するところまできたことに、超満員に膨れ上がった甲子園球場の観客は、試合の結末を固唾をのんで見守っていた。
    筋書きのないドラマもようやく終わりの時を迎えようとしていたのだった。

  • #321

    六輔 (金曜日, 10 1月 2020 20:19)


    9回表、弁慶高校の攻撃もツーアウト。
    同点のランナーを3塁に、そして逆転のランナーを1塁に置いて迎えたバッターは3番義経。
    この時の1塁ランナーの北には“グリーンライト”のサインが出ていた。
    言葉の由来が「信号機の青信号」である通り“グリーンライト”とは「進め」、「進んでも良い」と指示を与えることで、この時の北には、自分の判断で行けると思ったら盗塁して良いというサインが出されていたのだった。
    もちろんこの場面で盗塁を失敗すればそこでゲームセットだ。
    “グリーンライト”は、的確な状況判断が出来て足に絶対的な自信のある選手にしか出されないサインなのだ。

    ただこの場面、キャッチャーの坂田は冷静だった。
    「守備側が、ここで走ってくるはずがないと考えているからこそ成功する確率が上がるんだ。だから強いチームほどこういった場面で仕掛けてくるんだぞ」
    と、紘一から教え込まれていたことをしっかりと思い出していたのである。
    坂田は君島に1塁への牽制球のサインを送った。
    「よし、君島、もう1回だ!今度はクイックで!」
    この時、牽制を2度続けさせたのは盗塁を警戒していますよと弁慶高校に示すためだった。
    そして坂田は1球目のサインを送り、君島は坂田の考えを承知して大きくうなずいた。
    君島がセットポジションからクイックで投げたボールに、バッターの義経は、
    「北の足を警戒してストレートを投げてくるはず!」
    と、読んでストレートのタイミングで打ちに行き、その待っていたストレートが「来た!」とバットを振った。
    「カキーン!!」
    バッターの義経は思わず声を発した。「しまった!」
    そう、そのボールはストレートでは無かったのである。
    ストレートの軌道からボール1個分だけ横に曲がる小さなスライダーに手を出してしまったことを悔いる義経の「しまった!」の声だった。
    強い打球ではあったが、ごく平凡なファーストゴロが転がった。
    万事休すと1塁側アルプススタンドは天を仰いだ。
    ファーストの犬飼は心の中で「ヨッシャ!」と、気合いを入れ捕球体制に入った。
    と、その時だった。
    「あっ!!!」
    義経の打った打球が1塁ベースに当たってボールは大きく飛び跳ねた。
    犬飼は捕球体制からそのままジャンプし、グラブを持つ左手をめーいっぱいに伸ばしたが、ボールはそれを嘲笑うかのようにグラブの上を越えていった。
    その間に3塁ランナーの土門が同点となるホームベースを踏んでいた。
    予期せぬ方向に転がったボールに慌ててライトがカバーに走ったが、ボールはまだ1塁線ファールグランドを転々としていた。
    1塁ランナーの2番・北は、高校生ナンバーワンの俊足を誇る石毛と引けを取らない俊足の持ち主。
    3塁ベースに到達してもスピードを緩めることなく一気にホームに向かっていた。
    ファールグランドでボールを掴んだライトからカットに入ったファーストの犬飼が、精一杯にバックホームすると、ホームベース上でのクロスプレイとなった。
    「どっちだ!」
    球場の観客が見守る中、主審は両手を広げてコールした
    「セーフ、セーーーーーフ!!!」
    『ウォーーー!!!』
    地鳴りのような声援が1塁側アルプススタンドから沸き上がった。
    「逆転だーー!!」
    スコアボードにHが灯された。

    (西部スカウト)「しかし残酷だよなぁ…打ち取った打球がベースに当たって初ヒット、しかもそれが逆転打だぜ」
    (巨人スカウト)「…あぁ、そうだな」
    (西部スカウト)「これが・・・」
    (巨人スカウト)「“甲子園の魔物”ってことか…」
    (西部スカウト)「…そうかもな」

    紘一がマウンドでうなだれる君島のところにきた。
    (紘一)「君島…」
    (君島)「・・・キャプテン」
    (紘一)「まだ試合は終わってないんだ!ここで諦めたりしたら、代表校としての責任を果たすことが出来なくなるぞ」
    (君島)「…はい、キャプテン!」

  • #322

    六輔 (土曜日, 11 1月 2020 20:50)


    君島は、紘一の言葉に口を真一文字に結んでピッチングを続け、迎えた4番、武蔵坊をその日最速のストレートで空振りの三振に打ち取った。

    3塁側、東庄高校応援席では、受け入れがたい現実を突きつけられた。
    弁慶高校のあっという間の逆転劇に、天国から地獄へと突き落とされた3塁側アルプススタンドは、誰もが放心状態になっていた。
    それでも試合を諦めず、全力疾走でベンチに戻ってきたナインの姿に
    「おい、俺たちが諦めてどうするんだ! まだ試合は終わってねーぞ!さぁ、試合はこれからだ!」
    と、ナインを温かい拍手で迎え入れたのだった。
    「よくしのいだぞー!」
    「まだ試合は終わってないぞー! 大丈夫だ、お前達なら」
    「瀧野瀬につなげば、絶対になんとかしてくれるぞー!」

    9回裏、東庄高校の攻撃は、9番バッターの君島からだった。
    君島と互角の二番手のピッチャーがいれば、代打も考えられる場面だった。
    だが、監督は動こうとはしなかった。
    「頼んだぞ、君島」
    『はい』
    そう送り出されてバッターボックスに立った君島だったが、義経の決め球のフォークボールの連投に手も足も出ずに打ち取られ、ワンアウトとなった。
    3塁側アルプススタンドは、度井垣の出塁を信じて声援を送り続けた。
    「度井垣はこういう時に絶対になんとかしてくれる!」
    『度井垣ぃーーー!! まだワンアウトだ。お前が出て、なんとか瀧野瀬につないでくれーーー!!』
    アルプススタンドからの大声援を浴び、度井垣は「行くぞーー!!」と、声を発してバットを構えた。
    義経の投球モーションに合わせ、スピードボールに振り遅れぬよう早めにタイミングをとって打ちにいくと、待っていたストレートがど真ん中にきた。
    度井垣はボールを真芯でとらえることを確信し、「もらった!」とバットを振り始めた。
    だが、打ちにいったその途中でボールが視界から急に消えたのである。
    「えっ?…」
    度井垣のバットは空を切った。
    義経が投げたそのボールは、その日初めて投げたスプリットだった。
    それまで見たフォークとは明らかに違っていた。
    ストレートの軌道でいきなりストーンと落ち、視界から消えたのだ。
    スプリットは、フォークボールと同じように人差し指と中指にボールを挟んで握るのだが、フォークボールよりも少し浅く握る分、変化量は少なくなるが、スピードは増すのである。
    度井垣は空を切ったバットを眺め、つぶやいた。
    「まじか・・・あんなボール見たことねーよ」と。

  • #323

    六輔 (日曜日, 12 1月 2020 20:30)


    度井垣久貴
    久貴は、2つ年上の兄の影響を受け、小1から野球を始めた。
    親譲りの身体能力に加え、「お兄ちゃんには負けたくない!」という、負けん気の強さで、中学時代までエースで4番、チームの中心選手として活躍した。
    野球小僧が当然目指すところの「甲子園に行きたい!」という夢を持っていた度井垣は、白進学院から特待の話が来ることを信じて待っていた。
    だが、甲子園出場経験の無い私立高校からのオファーは来たが、白進学院からのオファーが届くことはなかった。
    「俺はそれだけの選手だったっていうことだよな・・・もう、野球なんかやらねーよ!」
    と、投げやりになっていた度井垣は、これといった目標を持つこともなく、親に勧められるままに地元の高校、東庄高校に進学した。
    入学して2週間が経った日のことだった。
    どこの部にも入部していなかった「帰宅部」度井垣は、放課後、何かに吸い寄せられるように野球部の練習するグランドに向かっていた。
    「さぁこ~い!!!」
    懐かしい野球部の声出しが聞こえてきた。
    度井垣は、グランドに着いて直ぐに理解した。
    「えっ? あそこにいるのが1年? あんなにたくさん入部したのかよ」
    みるからに真新しいユニフォームを着た20人先の集団が、2、3年生の横に並んでキャッチボールをしていた。
    と、度井垣は直ぐに気付いたのである。
    「あっ…あいつ・・・瀧野瀬だ」
    中学時代から注目されていた紘一が、まさか自分と同じ高校に入学し、しかも野球部に入っていようとは夢にも思わなかった度井垣だった。
    度井垣は、紘一の一挙手一投足に釘付けになっていた。
    「やっぱり上手いよ・・・あいつ」
    度井垣の中の野球に対するプライドは、紘一のプレイに音を立てて崩れて行った。
    と、同時に「やっぱり野球がやりたい」という本心に気づいた度井垣は、もうその次の日には野球部の門をたたいていた。
    入部を許された度井垣に一番先に声をかけてきたのは紘一だった。
    「北中の度井垣君だよね?」
    『えっ?俺のこと知ってるの?』
    「もちろんだよ!一緒に甲子園目指そうね」
    そう言って明るく笑う紘一に、度井垣は『あっ、う、うん…よろしく』と、返すのが精一杯だった。
    度井垣は、いつしか紘一を目標にプレイするようになっていた。
    「紘一と三遊間を組みたい!そして甲子園に行く!」
    それを目標に、毎日、厳しいノックを受けた。
    『歩幅をもっと狭く、右足のかかとからはいってごらんよ!』
    『一歩目が肝心だよ!常に先…先を考えてプレイしよう!』
    『グローブをもう一つ前から出して…』
    要所要所で声をかけてくれる紘一からのアドバイスを素直に聞き入れ、厳しい練習に耐え続けた度井垣は、みるみるうちに技術を上達させ、1年の秋から紘一と三遊間のコンビを組むサードのレギュラーを掴んだ。
    度井垣は、どんな時も紘一を支え、また紘一に支えられ、互いに切磋琢磨しあって技術を磨き合った。
    紘一のバッティング理論を全て吸収していった度井垣は、
    「俺は中距離ヒッターを目指す。長距離砲はお前に任せるからな!」
    と、自分はトップバッターとして生きる道を選んだ。

    9回裏、ワンアウト。
    目の前に立ちはだかる義経に視線をやり度井垣はこう言った。
    「俺が出て、絶対に紘一にまわすんだ!」と。

  • #324

    六輔 (月曜日, 13 1月 2020 20:14)


    度井垣は「ふぅ」と、自分を落ち着かせるように息を吐き、バットを構えて2球目を待った。
    義経の投球モーションに合わせて1球目と同じようにスピードボールに振り遅れぬよう早めにタイミングをとって打ちに行った。
    「来た!」
    待っていたストレートが今度こそ来たとバットを振り始めたが、それを嘲笑うかのようにボールは度井垣の視界から消えた。
    2球続けてのスプリットだった。
    続けざまに空を切ったバットに視線をやると、バットを持つ手が震えだしていることが分かった。
    超満員となった観客の視線を浴び、度井垣は、これまで一度も感じたことの無かった緊張感に襲われていた。
    「ここで打てなかったら、この打席が高校野球最後の打席になってしまうかもしれない。でも・・・俺にはあのスプリットは打てない」
    そう考えると、手の震えが増し、心臓の鼓動が激しくなった。
    見つめていたバットをゆっくり降ろしてくると、その先から自分に送られる視線を感じた。
    焦点を合わせると、そこにはベンチの中で自分の打席を待つ紘一の姿があった。
    「紘一・・・」
    と、度井垣と視線を合わせた紘一が、少しだけ笑みを浮かべて優しく二度うなずいた。
    度井垣は、ずっと一緒に戦ってきた戦友が二度うなずいてくれた意味を直ぐに理解した。
    「自分がやってきたことに自信を持て!…だよな、紘一」
    そう心の中でつぶやいて、度井垣も紘一に向かってうなずいた。
    と、結果を恐れることを辞めた度井垣の手の震えは一瞬で止まった。
    度井垣は「さぁこーい!!!」と、声を発し義経に視線をやった。
    サインにうなずいた義経は、それまでまったく同じ投球モーションで三球目を投げてきた。
    度井垣には微塵の迷いも無かった。
    「来た球を打つ!」
    義経が3球勝負で投げてきたのは、プロのスカウトの予想とは全く違う外角低めいっぱいのストレートだった。
    度井垣はボールを真芯でとらえることを確信し、バットを振った。
    「カキーン!!!」
    甲高い金属音を残し打球は右中間へと飛んで行った。
    あらかじめ守備位置を右中間よりに守っていたセンターの石毛が俊足を飛ばして最短距離でボール追っていた。
    3塁側アルプススタンドからの「抜けろーー!!」の叫び声に後押しされ、度井垣も声を発しながら走っていた。
    「抜けろーー!!」

  • #325

    六輔 (火曜日, 14 1月 2020 20:05)


    センターの石毛は、今大会ナンバーワンの俊足を飛ばして打球を追っていた。
    並みの選手であれば、おそらくは途中で捕球を諦め、外野フェンスからのクッション処理に回っていたであろう。
    だが、石毛はそのままスピードを緩めることなく打球に向かってダイビングしていた。
    「届けー!!」と、石毛が叫びながらめーいっぱいに腕を伸ばすと、ボールは地面すれすれにグローブに吸い込まれた。
    「どっちだ!」
    観客が見守る中、石毛はジャッジに走ってきた2塁審判に向けてボールの入ったグローブを見せた。
    「アウトー!!」
    2塁審判が右手を高々と挙げたことに球場が揺れた。
    『ウォー!!!』
    セカンドベース付近まで到達していた度井垣は、2塁審判がアウトを宣告していることを確認すると、ダッシュでベンチに向かって走りだした。
    この時の度井垣は、何故か悔しいという気持ちにはなっていなかった。
    それは、アウトにはなったが自分のバッティングが出来たことと、石毛のファインプレーを称える気持ちが強かったからだった。
    「ナイスプレイだぜ、石毛!」
    スタンドから大きな拍手が、ファインプレーをした石毛に対して、そしてダッシュでベンチに戻る度井垣にも送られていた。
    「センター、ナイスプレーー!!!」
    「度井垣ナイスバッティング! 惜しかったぞー!」
    度井垣がベンチに戻ってくるのと同時に紘一がベンチから出てネックストサークルに向かって歩き出した。
    二人は目を合わせ、共にうなずいた。
    互いの気持ちを確かめるために言葉は必要なかった。
    互いにネックストバッターの戸野間の出塁を信じてうなずいたのだった。

    ツーアウトとなって、3塁側アルプススタンドのほとんどの者が両手を顔の前で合わせていた。
    「頼む、戸野間。瀧野瀬まで回してくれ!」
    戸野間は、3塁側アルプススタンドからの大声援を背に起ちあがると、「チック、チック、チック、チック」と口ずさみながらバッターボックスへと向かっていた。

    戸野間 誠
    「秘打!白鳥の湖づら~!!」
    と、片足立ちでさらに右手一本でバットを高く上げるようなバッティングホームから、セーフティバントをしたりして相手チームだけではなくチームメイトをも驚かすような奇想天外な選手だ。
    だが、ただの変わり者ではなかった。
    ずば抜けた野球センスを持ちながら、中学時代にはピアノにも没頭していた。
    プロ並みの技術を持った戸野間だったが、どうしても克服できない大きな壁があった。
    それは、身長が低いことに合わせるように、手の指が短いことだった。
    短い指が、ピアノ演奏の邪魔をしていることに戸野間は決心した。
    それは、ショパンの“別れの曲”を普通の指使いで演奏が出来るようにするために、指のマタを広げる(いわゆる水掻き部分を切除する)手術を受けたのである。
    そんな戸野間の唯一の遊び相手は、本格的な音が出るように改造したおもちゃのピアノだった。
    それほどまでにピアノに没頭していた中学時代だったが、高校に進学して紘一と出会ったことで、野球部に入部することを決めたのである。
    それは、紘一が自分と同じぐらいにたぐいまれな野球センスの持ち主であることを知ったからだった。
    「こいつと野球をしたら楽しいづら!」

    普段、一生懸命さを決して表に出さない戸野間が、バッターボックスに入る前に振り向いてこう言ったのである。
    「紘一・・・絶対にお前につなぐづら!」と。

  • #326

    六輔 (木曜日, 16 1月 2020 06:12)


    戸野間がバッターボックスに入ると、3塁側アルプススタンドでは、
    「戸野間っ!戸野間っ!戸野間っ!戸野間っ!戸野間っ!」
    と、全員が肩を組み、左右に体を揺らして声の出る限りに声援を送り始めた。
    義経は、一呼吸おこうと振り向いて右手の人差し指と小指を立て、野手に「ツーアウト!」と、声をかけた。
    バックは、義経の声に凛とした表情で応えた。
    「守備は任せておけ!」
    と、その時だった。
    球場全体が異様な雰囲気に包まれ始めたのである。
    それは、高校野球を愛する観客のほとんどがネックストバッターに控える紘一と義経の4度目の勝負を望む思いが作り出したものだった。
    東庄高校の勝ちを願うものでもでもなく、また弁慶高校の勝ちを願うものでもなかった。
    フェアなプレイを続けてきた東庄高校の9回表に出た紘一のエラーで試合が動き出してしまったことに、それを挽回する機会を紘一に与えてやって欲しいという多くの者の思いだった。
    「野球の神様・・・どっちが勝ってもいいです。もう一度だけ…もう一度だけでいいですから二人の力の勝負を見せてください」と。

    球場の異様な雰囲気に包まれながら戸野間はバットを構えた。
    戸野間は、身長163センチと小柄な体に、さらにこれ以上は無理だと言えるところまでバットを短く持って義経に向かった。
    「来いづら!」
    初球からいきなり決め球のフォークボールが来ると、戸野間は「低いづら!」と、それを見送り、主審の『ボール!』のコールに小さくうなずいた。
    戸野間の選球眼はチームで一番だった。
    試合が始まって直ぐに審判の癖を見抜き、自分の身長に当てはめてストライクゾーンを決めると、絶対にボール球には手を出さない選球眼を持っていたのである。
    戸野間が『ボール!』と見送ったものは、間違いなく『ボール!』とジャッジされるのだった。

    2球目は、外角一杯にストレートが来たが、ヒット出来るコースではなかったことにそれを見送った。
    『ストライーク!!』
    3球目が高めに外れ、カウントがツーボール・ワンストライクになった。
    ここで戸野間の野球センスが導き出した次のボールの球種は、外角いっぱいのスライダーだった。
    その日、戸野間は3打席ともスライダーに打ち取られていた。
    「ここは絶対スライダーづら!」と、口ずさんでバットを構えると、戸野間の予想通りのスライダーが来た。
    「来たづら!」と、バットを振った。
    『カキーン!!』
    真芯でとらえた打球が、サードの頭上を越えていった。
    戸野間は「いったづら!」と、打球を見ずに1塁に向かって走り出した。
    球場に歓声が沸き上がった。だが、次の瞬間だった。
    戸野間が1塁ベースを蹴るその手前で1塁審判が両手を大きく上げてコールしたのである。
    『ファール!!!』
    審判に止められた戸野間はこうつぶやいた。
    「球速が2キロ落ちていたから、その分ファールになったづら」と。

    仕切り直しでバッターボックスに入った戸野間は、「ふっ」と息を吐き、バットを構えた。
    5球目はカーブが外れてフルカウントになった。
    この時の戸野間の頭の中にあったのは、度井垣の時にネックストサークルから観ていたスプリットの残像だった。
    「来るかもしれない・・・づら」
    勝負の6球目、腕の振りがストレートであると分かった戸野間は、低めいっぱいに来たボールを打ちに行った。
    だが、その途中でスプリットであると感じ、スイングを途中で止めてそれを見送った。
    戸野間は「ボール1個半落ちたから、ボールづら!」と、確信して主審のコールを待った。

  • #327

    六輔 (木曜日, 16 1月 2020 19:59)


    球場全体が主審のコールを待って静まり返っていた。
    3塁側アルプススタンドから「ボールだ!」と歓声が上がったその時だった。
    主審が右手を高く上げてコールしたのである。
    「ストライーーーク!!! バッター・アウトー!!!」
    『ウォー!!!』
    1塁側アルプススタンドからその日一番の歓声が沸き上がる中、戸野間はバッターボックスで自信を持って見送ったボールのコースを見つめたまま立ちすくんでいた。
    紘一は、戸野間の出塁を信じて待っていたネックストサークル内で高校野球最後の瞬間を迎え、そして東庄高校の甲子園の戦いは終わりを迎えた。

    飛び跳ね、抱き合って喜ぶ1塁側アルプススタンドと、負けを受け入れられずに茫然とする3塁側アルプススタンド。
    バッターボックスで「無」となって立ちすくむ戸野間のところに紘一が歩み寄り、そっと肩に右手をあててこう言った。
    『戸野間・・・整列だ。最後まで東庄高校らしくいこうぜ』
    「紘一・・・すまないづら」
    戸野間の頬を一筋の涙が伝った。

    勝利した弁慶高校は、東庄高校の戦いぶりを称えるように、喜びを現わすこともなくホームベース前に並んだ。
    「ゲームセット!」
    主審の声に両チームは礼をし、互いの健闘を称えるように全部の選手が歩み寄った。
    「野球は楽しいものだって、思わせてくれてありがとう…瀧野瀬」
    『俺たちも同じだよ。俺たちの分まで勝ち上がってくれよ…武蔵坊』
    両キャプテンが握手をしていたところにピッチャーの義経が歩み寄った。
    「試合には勝てたけど、お前との勝負は完敗だよ…瀧野瀬」
    『たまたま打てただけさ。優勝しろよ…義経』
    両チームに温かい拍手が送られていた。

    (西部スカウト)「野球って、こんなに残酷なゲームだったのか?」
    (巨人スカウト)「…そうみたいだなぁ」
    (西部スカウト)「皮肉なもんだよな。同じようなハーフスイングを東庄高校はボールとジャッジされ、弁慶高校はストライクとコールされてゲームセットだ」
    (巨人スカウト)「さっきも言ったけど、ジャッジのことをとやかく言っても始まらないだろう」
    (西部スカウト)「そうだけどさ・・・自分たちの野球を最後まで貫いた東庄高校・・・甲子園にいる野球の神様はそれを受け入れてはくれなかったということなのか?」
    (巨人スカウト)「・・・・・」
    (西部スカウト)「完全試合、ノーヒットノーランを逃した君島君の代わりに、義経君が1試合で三振22個という甲子園記録を作ったよ」
    (巨人スカウト)「まさしく天国と地獄という言葉が当てはまる試合だったな・・・でも俺は東庄高校の野球を認めたいと思う。結局は義経君の前に手も足も出なかった、瀧野瀬君以外は!という試合になってしまったけど、それだけのピッチングだったよ、義経君は。その義経君から放った2本のホームラン…いやっ、これもまた甲子園の魔物と言ってもいいのかもしれないが、その時に限って強くなった浜風に阻まれた3本目のホームラン。俺は、瀧野瀬君には将来のプロ野球をしょって立つ選手になってくれると、そう願うし、そう信じたい。白進学院の監督が惚れ込んだ選手だからではなく、俺自身がこれだけ惚れ込んだ選手は後にも先にもいない・・・それが瀧野瀬紘一だよ」

    スカウト達がそんな会話をしているなか、弁慶高校の校歌が終わり、両チームはアルプススタンドの前に挨拶に走った。
    アルプススタンドだけではなく、球場全体から両チームに温かい拍手が贈られた。
    「最高の試合をありがとう」
    紘一は、チームの誰よりも深く頭を下げ球場全体に鳴り響く拍手を体全体で受け止めていた。

  • #328

    六輔 (金曜日, 17 1月 2020 20:07)


    2004年、第86回全国高等学校野球選手権大会は、1回戦で東庄高校に逆転勝ちした弁慶高校が2回戦以降は決勝戦まで圧倒的な強さを見せつけ、2年連続の優勝を飾って幕を閉じた。
    1回戦、東庄高校を相手に三振22個の甲子園記録を作った義経は、2回戦以降も全試合に先発し、全試合完投、そして全試合を失点ゼロに抑え、さらには長打すら許さなかったという甲子園球史に残る快投を演じた。
    記録づくしの弁慶高校が、点を与えたのは東庄高校だけであり、義経が長打と打点を許したバッターは、今大会を通して紘一の2打席連続ホームランだけだった。
    甲子園大会は、筋書きの無いドラマを演出し、その中でも紘一と義経の勝負は球史に残る名勝負として高校野球ファンの胸に深く刻み込まれた。

    高校野球ファンは、夏の甲子園大会が終わると直ぐに始まるWBC U-18ベースボールワールドカップに関心を寄せていた。
    WBC U-18ベースボールワールドカップとは、アメリカやオランダなどの野球強豪国12チームで世界一を目指す大会であり、日本からは甲子園を沸かせたスター選手や、地方大会で注目された選手が集められ、縦縞のJAPANのユニフォームに日の丸を掲げて戦う大会であり、その年の開催地は韓国だった。
    甲子園での弁慶高校の優勝の興奮が冷めやらぬうち、直ぐにスタッフが召集され、「世界の頂点」を目指す代表メンバーの選出作業が始まった。
    優勝校の弁慶高校からは、甲子園の投手に関わるあらゆる記録を塗り替えた義経、そのピッチングを好リードで引き出したキャッチャーの雲竜、さらには高校生№1の俊足を誇るセンターの石毛の3選手が文句なしに選ばれた。
    その他の選手は、甲子園ベスト8まで残ったチームから選ぶことを基本に候補者がリストアップされ、さらには、地方大会で敗れはしたものの注目度の高い選手や甲子園でベスト8まで進めなかった高校からも、活躍が目覚ましかった選手がリストに加えられた。
    選考に苦労したのはやはりピッチャーだったが、候補者リストの中には、東庄高校の君島投手の名前もあがった。
    「弁慶高校を8回までパーフェクト、最終的に優勝校を1安打に抑えたあのピッチングは義経君の次に評価できるものだ。絶対に必要な選手だよ!」
    『君島君の実力は認める。だが、君島君はまだ2年生だ。新人戦を前に約1ヶ月間、チームを離れるのは酷だよ』
    という真っ二つの意見に分かれ、結局のところは後者の意見に賛成する者が多数を占めメンバー入りは見送られた。
    最終的に20人のメンバーに絞られ、その内訳は投手8人、捕手3人、内野手6人、外野手3人の精鋭達がジャパンの縦縞のユニフォームを着て戦うことになり、決定されたその日のうちに、20人の名前が各報道機関に知らされた。
    その情報をいち早くキャッチしたいと考えていたプロ野球球団のスカウト達は、それぞれにコネクションのある記者に連絡をとって情報を入手した。
    「もしもし、ジャイアンツの福田です。代表のメンバーを教えてください」
    と、この時の電話で20人のメンバーを知った巨人のスカウトは愕然とした。
    「どうして東庄高校の瀧野瀬選手の名前がないんだ!」

    代表メンバーに紘一の名前が無いことがどうしても納得のいかなかった巨人のスカウトは、WBC U-18ベースボールワールドカップのコーチとして参加する白進学院の監督のところへ直ぐに電話を入れたのだった。
    「もしもし…ジャイアンツの福田です」
    『あぁ…どうも』
    「監督!どういうことですか?」
    『その剣幕だと・・・何故私のところに電話をしてきたのか、察しがつきますよ』
    「ご察しの通りですよ、監督!いったいどういうことなんですか?説明してください!どうして瀧野瀬君の名前が代表メンバーの中に無いんですか?まさかベスト8に残れなかったからとか言わないですよね? 以前、そんなことをおっしゃっていましたけど…甲子園に出場していない高校の選手だって選ばれているんですから、それは無いですよね! いったいどういうことなんですか? 彼が選ばれなかったら、高校野球ファンが黙っていないですよ、監督!・・・ま、まさかケガをした? えっ?そうじゃないですよね?監督!」

    この後、巨人のスカウトは、白進学院の監督の話を聞いて激高するのであった。

  • #329

    六輔 (土曜日, 18 1月 2020)


    白進学院の監督が巨人のスカウトにどんな話をしたのかを語るその前に、少し物語からそれて世に溢れている“情報”について触れさせてもらう。

    人々は、様々な情報の中から自分が欲しいと思う情報を自分なりの方法で集め、真に必要な情報だけを自分の中に取り込みながら日々暮らしている。
    昔はNHKのニュースを観たり、新聞や雑誌などを読んだりして情報を集めていた。
    だが、時代は変わった。
    Googleなどの検索エンジンを利用して「わたし 大喰い 美味しい 益子」と、キーワードを入力するだけで“ゆるり”と、瞬時に欲しい情報を入手することが出来るようになり、さらにはLINE Facebook Twitter YouTube InstagramといったSNSからも多くの情報を得られるようになった。
    例えば、Facebookでは、同じ趣味や出身校、住んでいるエリアなどの共通点で見知らぬ者同士がつながって、互いの情報を交換することが出来るようなそんな便利な時代になったのだ。
    「見かけたわよ!・・・日光線で」
    『あげてたでしょ?・・・かかと(笑)』
    「うん! 美容のためなのかしらね?」
    『どうなのかしらね…もしかしたら山田太郎君に感化されたのかもね(笑)』

    どれだけ便利な時代になろうとも、そこにはとても残念なことがある。
    それは、様々な情報が溢れかえっている時代にあって、とても大事なことを知らずに情報を利用している人があまりにも多すぎるということだ。
    その大事なこととは、SNSの情報の中には多くの“嘘の情報”が混じっているということだ。
    世の中の多くの人はSNSの情報が“嘘の情報”であったとしても、それを疑うことなく鵜呑みにして、結果、デマに振り回されてしまう。
    例をあげてみれば「星座占いが13星座に変わる」というひと昔前の情報。
    「NASAが、12星座が本当は13星座だと発表したため、星座占いの星座が13に変更になった」
    という情報に対して、多くの者が“NASAが発表した情報なのだから”と、その情報を信じこみ、アメリカを中心にSNSや口頭で伝えられるうちに「NASAの新発見で星座が変わる」という壮大なデマになってしまったのだ。
    さそり座と射手座の間、12月1日から12月18日に「へびつかい座」を加えるというデマに踊らされた者も多かったことだろう。
    仲間との酒飲みのたびに「星座が変わんの知ってっけ?俺、へびつかい座になんせ!」と、自慢げに話していた者がいたことを小生は知っている。

    検索エンジンを利用して自分が望む情報を簡単に手に入れ、多くのSNSを閲覧し、そこに書かれてあることを全て鵜呑みにするのは個人の自由だ。
    だがしかし、もしその情報が“嘘の情報”であったとしたならば、その情報の陰で深い心の傷を負っている人がいるかもしれないということを忘れてはならない。
    そのことを世の中の多くの者が理解していれば、フェイクニュースが蔓延することもなくなることだろう。
    そしてもう一つ、SNSの特徴をあげるとするならば、SNSによって発信された意見に対しては「同調現象」が起きる可能性が高いということだ。
    「同調現象」とは、自分が望んでいたり正しいと思う事でも周りと違うと不安になってしまうため、自分の考えをまげて周りと同じになって安心するという現象のことだ。
    特に日本人は、集団行動を重んじ、空気を読むことを第一に考える人が多いため、「同調現象」を起こす傾向が強いのだ。

    SNSから発信された情報は、人を豊かにするだけではなく、時には人を傷つけたりするものであって、使い方によっては凶器になり得るものなのである。
    ちなみにだが、東庄高校が甲子園出場を果たした2004年は、Facebookやmixiなどのサービスが開始されるなど、まさしくSNS元年といえる年だったのである。

  • #330

    六輔 (日曜日, 19 1月 2020 20:08)


    “情報”についての話を続けるとしよう。

    前日に起きた世の中の様々な出来事を活字にして、雨の日も風の日も雪の日も必ず陽が昇る前に“情報”を届けてくれる「新聞」。
    テレビの普及とネットの発展によって新聞の速報性は失われてしまったものの、より多くの情報を盛り込み、一つの事件をさらに深く掘り下げて分析したものを届けてくれる、それが新聞だ。
    新聞には、朝日や読売、毎日といった全国紙の他、建設工業新聞のような業界紙やスポーツ紙、さらには、全国紙では扱わない地域密着のニュースを発信する地方紙もある。
    小生の生れ故郷では毎日新聞と深い関係を持つ「下野新聞」が県内シェア5割に近い数値で読者に支持されている。

    「新聞」の第一の使命は、日常のあらゆる場所で起きたニュースを世間の人々に素早く伝えることであり、当然、人々の「知る権利」を守るため公正中立な立場で正しい情報を発信することが求められている。
    それに対して、ボタン操作でいとも簡単に発信することが出来るインターネットの世界は、誰でも匿名で発信することが可能であるがゆえに、流される情報の質と信頼性に課題が多いのは先に述べた通りである。
    人々の「知る権利」は、報道機関の報道を通じて充足されているのであり、新聞は、単に事実を報道するだけではなく、深い取材に基づき、その背景や今後の影響までも言及する責務を負っている

    「違法性の阻却」という言葉を聞いたことがあるだろうか。
    その意味を辞書で調べるとこう書かれてある。
    『違法と推定される行為について、特別の事情があるために違法性がないとすること。法令による行為や正当防衛、緊急避難など』と。
    例えば、刃物で誰かを傷付ければ、それは傷害罪という犯罪となり法で罰せられることになるが、医師が医療行為としてメスで人を傷つけても傷害罪になることはない。
    まさしくそれこそが「違法性の阻却」であり、“人命を守るための行為”という事情があるため、人体を傷付けたという違法性が免除されるのである。
    実は、新聞も「違法性の阻却」という側面を持っている。
    医師は、手術用具の“メス” を使って実際に人の体に傷をつけるのに対し、新聞は、実際には人の体に傷をつけることはないが、「ペン」という名の“メス”で人の心を深く傷をつけることがある。
    だが、人をどれだけ深く傷つけようが、そのことで違法性を問われることはない。
    何故なら、そこには『新聞は公共のために、世の中のために良いことをしようとしている』という前提があるからだ。
    さらに言えば、新聞は「印象操作」という力も持っている。
    「印象操作」とは、読者に与える情報を意図的に操作し、恣意的な伝え方をして、読者が受け取る印象を制御しようとするものだ。
    新聞は、いとも簡単に「印象操作」を行うことが出来る。
    “レッテル貼り”がまさしくそうだ。
    ある人物などに対して一方的・断定的に評価をつけた報道をすることによって、読者を「印象操作」するのである。

    さて、物語に戻るとするが、白進学院の監督が巨人のスカウトに話した内容を知れば、物語の進行を中断してまで“情報”“新聞”について語った理由が分かることだろう。

  • #331

    六輔 (月曜日, 20 1月 2020 21:06)


    紘一がWBC U-18ベースボールワールドカップの代表メンバーに選ばれなかった理由を白進学院の監督から聞かされた巨人のスカウト・福田は、電話を切って深いため息をついた。
    電話を切ってしばらく放心状態の福田だったが、目を閉じて様々なことを頭の中で整理をすると、どうしても白進学院の監督の話に合点がいかなくなってきた。
    「本当にそんなことがあっていいものなのだろうか…」
    そう考えると、どうしても自分で確かめずにはいられなくなった。
    直ぐに確かめたいという衝動にかられた福田は、取るものも取り敢えずに家を飛び出していた。
    「瀧野瀬君に会って話がしたい。どうなるか分からないけど…とにかく会いに行こう」

    東京駅で新幹線に飛び乗った福田は、一駅を過ぎたあたりでカバンの中から封筒を取り出すと、それをそっとテーブルの上に置いた。
    そして封筒の中からA4サイズの書類を取り出すと、書類の中身を確かめる訳でもなく、ただうつろな眼差しでそれを眺めていた。
    その書類の上部にはこう書かれてあった。
    「プロ野球志望届」
    ちょうどその日は、プロ野球志望届の提出が可能となった日で、NPBのスカウトとしての立場で紘一本人と直接会って話すことが許される日でもあったのだ。
    福田は唇をかみしめ、そしてこうつぶやいた。
    「君はこれを書く資格がある選手なんだ・・・瀧野瀬君」と。

    東京駅を出て50分ほどが経っていた。
    新幹線を降りて改札を通ると、駅構内は夏休みとあって多くの家族連れが目に留まった。
    NewDaysのキオスクで嗜好のタバコだけを買い、腕時計で時刻を確認してから時刻表の前に立った。
    「えっと…東庄駅までは・・・えっ?あと50分もあるのかぁ」
    はやる気持ちを抑えられなかった福田は、タクシーに乗ることを選択した。
    東庄町が西の方角に位置することを知っていた福田は、駅の西口に出てタクシー乗り場へと向かった。
    鎌倉パスタ、日本橋からり、リトルマーメイドといった店を横目にタクシー乗り場まで進むと、そこには10人ほどの客が並んでいたが、タクシープールにはそれをはるかに上回る数のタクシーが列をなしていた。
    直ぐに列の最後尾に並ぶと、一人、また一人と客がタクシーに乗り込んでいき、それに合わせて前へと進んで行った。
    前に歩みを進めながら駅前に立ち並ぶビル街に目をやると、それは見慣れた景色だった。
    白進学院に足を運ぶのに何度も利用していた駅だったからだ。
    福田は、白進学院に来た時には必ず立ち寄る駅前の餃子専門店の行列を見てつぶやいた。
    「相変わらず混んでるなぁ…」

    前の客がタクシーに乗り込み、ようやく列の先頭に立った福田の前に、黒塗りのタクシーが停まった。
    年のころなら50代後半の人の良さそうな、どことなく「アナと雪の女王」に出てくる「クリストフ」に似ているドライバーがドアを開けて声をかけてきた。
    『はい、どぅもねぇ~』

  • #332

    六輔 (火曜日, 21 1月 2020)


    福田は、自分が急いでいるということをさりげなくアピールするように、後部座席に乗り込みながら行先を伝えた。
    「東庄高校までお願いします」
    『えっ?東庄高校ですか? 分かりました~』
    白進学院に足を運んでいたことで、その地の“なまり”は聴き慣れてはいたが、それを全く隠そうとはしない「尻上がり」のイントネーションに親しみを覚えた。
    「東庄高校に驚かれたようですけど…遠いんですか?どれくらいかかります?」
    『う~ん…3、40分ってとこかなぁ。この時間帯は電車が1時間に1本になっちまうんすよね。東庄町は田舎だかんねぇ~って、自分が住んでいる町っすけどね(笑)』

    福田は、職業柄、いろんな地を訪れてはタクシーを利用し、ドライバーに話しかけることでその地の様々な情報を仕入れるのを習慣としていた。
    ただ、それは愛想がいいドライバーの時だけで、しかも自分の職業は明かさずに話すのだった。
    何故なら、プロ野球のスカウトがウロチョロしているという噂が流れるだけで、選手に迷惑をかけてしまうことがあるからだ。
    この時のドライバーが屈託のない話しかけやすいドライバーだと肌で感じた福田は、明るく話しかけた。
    「仕事で時々来るんですけど…いいですよね、この地方の“なまり”。自分は親近感がわいて好きですよ」
    『あれ~ たまげたない~・・・自分は標準語を喋ってるつもりなんだきっと・・・そんなになまってっけ?』
    「(笑)はい」

    助手席前に掲示してあるドライバーの写真と名前の書かれた札を見ると、そこには満面の笑みを浮かべる写真の横に「軍清」と書かれてあった。
    「運転手さんのお名前は、なんて読むんですか?」
    『あぁ、よく聞かれんですよぉ~。グン・キヨシさん?とか、中にはグン・セイさん?とかって。それじゃどっかの割烹店みたくなっちまうやね(笑)・・・実はこれで「ツワモノ・キヨシ」と読むんですよ』
    「ツワモノ?って読むんですかぁ」
    『はい~。軍(ツワモノ)ですって自己紹介すると、ほとんどの人が“強者”を想像するようで・・・仕方ないんで、「自分が強いのはあっちの方だけなんせ!」って、ボケるんすけどねぇ~(笑)』
    福田もドライバーに合わせて苦笑いするしかなかった。
    「そうですか(苦笑)」
    ドライバーは、福田のリアクションに自分のボケがいまいちだったと思ったようで、交差点の赤信号に後ろを振り向いてこう言ってきた。
    『お客さん…ラジオをつけといてもいいですかねぇ? 実はお客さんがこれから行かれる東庄高校のニュースが流れるのを待っていたところだったんですよ』
    「あぁ、どうぞどうぞ」
    『すんませんねぇ~』
    そう言ってドライバーは、ラジオのスイッチをONにして、会話の邪魔にならない音量までボリュームを下げた。
    「東庄高校のニュースって、何かあったんですか?」
    『実はね、WBC U-18ベースボールワールドカップの代表メンバーが今日発表になるらしいんで、それがニュースで流れるのを待ってんすよ。東庄高校の選手が選ばれるはずなんでね』
    ドライバーの話に福田は思わず口走ってしまった。
    「それって、瀧野瀬紘一君のことですよね…」と。

  • #333

    六輔 (水曜日, 22 1月 2020 19:57)


    ドライバーは、驚いた様子でルームミラー越しに福田を見てこう言った。
    『あれっ、お客さん!これから東庄高校に行かれるってことは、もしかしてぇ~ プロ野球の関係者け? 瀧野瀬君が代表に選ばれた報告と、ドラフト指名の挨拶? そんな感じじゃないんですかぁ?』
    福田はハッとして慌てて身分を隠した。
    「えっ?…ち、違いますよぉ。私は高校野球が好きでしてねぇ。今年の夏の甲子園・・・東庄高校が本当に高校生らしいプレイをしていたので、テレビを観ながら応援していたんですよ。瀧野瀬君の2本のホームランには度肝を抜かれましたよ。東庄高校から代表メンバーが選ばれるとしたら、彼以外には無いと思ったんで」
    『いやぁ~ そうでしたかぁ。お客さんが瀧野瀬君のことをフルネームで呼ぶからてっきり・・・いやぁ、でも嬉しいですわぁ。東庄高校を応援してくれていたなんて』
    「正々堂々と前年度優勝校と戦って、で、結局は弁慶高校が全国制覇した訳ですからね・・・9回は本当に残念でしたけど。 今年の甲子園大会で弁慶高校から点を獲ったのは東庄高校だけ。エースの義経君から長打を打ったのも打点を挙げたのも瀧野瀬君だけでしたよね」
    『お客さん、本当に詳しいかっぺよ~! おったまげたわぁ』
    「お、おった、おったまげた?」
    『(笑)あっ、びっくらした?あっ? ・・・あぁ、驚いたってことですよ(笑)』
    「あぁ、そういう意味ですか(笑)」
    『いやっ実はね、自分、東庄高校の卒業生でしてね…甲子園まで応援に行ったんですよ。瀧野瀬君の2本のホームラン!目の前で観れて最高でしたよぉ』
    「へぇ~ あの試合、甲子園で観ていたんですかぁ。羨ましいなぁ。あぁ、途中、確か7回でしたっけ? ブラスバンドの応援も無い中…瀧野瀬君と弁慶高校の義経君の二人の息詰まる対決・・・どうでしたか?」
    『いやぁ、あの対決を生で観ることが出来た自分は幸せ者でしたよ。言葉で説明すると感動が薄っぺらになっちまいそうだから、人には喋らないようにしてるんですけどね(笑)』
    「テレビで観ていて、間違いなく3連続ホームランだと思いましたよ」
    『あれねぇ・・・どう言ったらいいんだか・・・打った瞬間に強く吹いたんだよねぇ・・・甲子園の浜風ってやつなんだべねぇ?』
    「そうだったんですかぁ」
    『瀧野瀬君はプロに行きますよね? ドラフト1位、間違いなしでしょ!』
    「えっ?・・・ど、どうなんでしょうね」
    『瀧野瀬君は間違いなくドラフト1位ですよ! いやぁ、近鉄に入団した時の野茂投手の時より、指名が多くても不思議はなかっぺ! 自分はジャイアンツの熱烈なファンなんで、ジャイアンツが1位指名してくれて堀内監督が当たりクジを引き当ててくれると信じてんすよ! 俺の勘は当たっかんねぇ~』
    「そうなんですかぁ」
    ドライバーの話は、まさにスカウト福田が願う通りの話だった。
    福田は心の中でこう言った。
    「自分もそう願っている当事者なんですよ」と。

    と、ちょうどその時だった。
    小さめに流れていたラジオからWBC U-18ベースボールワールドカップの代表メンバーが発表になったと流れてきた。
    『きたきた! ボリュームを上げさせてもらってもいいけ?』
    「あっ、はい」
    ドライバーが嬉しそうにラジオに手を伸ばすのを見た福田は、視線をゆっくりと車窓に移し、そっと目を閉じた。

  • #334

    六輔 (木曜日, 23 1月 2020 19:39)


    聴こえてきたのは、その地域で愛される地方の放送局だった。
    アナウンサー自身が高校野球の熱狂的なファンであることと、明らかに地元びいきであることが伺えるようなコメントを話し始めた。
    「え~ 番組の途中ですが・・・皆さんお待ちかねのニュースが、ようやく届いたようですので、ここでそれをお伝えしていきたいと思います。 8月30日から9月8日にかけて韓国で開催されるWBC U-18ベースボールワールドカップ。コーチとして白進学院の監督さんが参加されることは昨日お伝えしたところですが・・・え~今日、代表メンバーが決定され、発表になりました。 今年、わが故郷を代表して甲子園に出場した東庄高校・・・皆さんのご記憶にも鮮明に残っていることと思います! そうです、3番・ショートの瀧野瀬君の2本のホームラン! 甲子園球史に残ると言われた優勝投手・義経君との対決! 私は、あのシーンを思い出すだけで、どんぶり飯3杯は行けますね! ラジオをお聞きの皆さんもきっと私と同じ気持ちでこの放送を聞いていらっしゃることと思いますが・・・え~・・・はい、いま、私の手元にその名簿が届きましたので、ここでお伝えしたいと思います。え~・・・まずは、ピッチャーですね。弁慶高校、義経投手…これは当然ですよね。二人目が東北高校のダルビッシュ投手、はいはい。3人目が、はい、横浜高校の涌井投手ですね。みんなドラフト1位間違い無しと言われている投手ですね・・・と、最後は…地方大会で好投した大渡高校の佐々岡投手…投手は以上8人ですね・・・あぁ、わが東庄高校の君島投手は・・・2年生であることで、見送られたようですね。はい、そういうことでしょう? なにせ、優勝校の弁慶高校を1安打に抑えた訳ですからね…はい、これは2年生であることでと、納得するしかないでしょう・・・え~次はキャッチャーですね。はい、これまた弁慶高校から雲竜選手と、お~、甲子園には出場していない高校からも選ばれていますね。キャッチャーは以上の3人です。そして・・・」
    と、放送局のブース内でアナウンサーが書類をめくる音の後に一瞬の静寂が訪れた。
    アナウンサーは、明らかにテンションを下げて内野手の6人の名前を一気に読み上げ、黙り込んだ。
    と、タクシードライバーの軍は、
    「はっ?おい、アナウンサー! どうしたんだよ? 大事な選手がまだ呼ばれてないだろうよ! おい!」
    と、客の福田を乗せていることを忘れ、ラジオに向かって声を荒立てた。

    ようやくアナウンサーが言葉を選んで話し始めた。
    「え~・・・っと・・・はい。すみません。どういう訳か東庄高校の瀧野瀬君の名前がありません。すみません、メンバーは残り外野手・・・弁慶高校の石毛選手、横浜高校の仙道選手と、田上新城高校の山形選手の3人・・・以上全20人で決定されたようです。え~・・・失礼しました。まだ、どういうことか理解できませんでして・・・何か、東庄高校の瀧野瀬君が選ばれないような理由があったのでしょうか・・・はい、とりあえず・・・すみません。リクエストにお応えして・・・今年一番のヒット曲…一青窈さんのハナミズキをお送りします」

    ドライバーの軍はこうつぶやいた。
    「嘘だろう・・・噂は本当だっていうのかよ!」と。

  • #335

    六輔 (金曜日, 24 1月 2020 19:19)


    この時の巨人のスカウト・福田は、地元高校の選手を応援しながらも、代表メンバーから外れたことに落胆するドライバーを見て、自分が身分を隠していることを恥じる気持ちになっていた。
    「運転手さん…」
    『あっ、はい…す、すんませんねぇ~。瀧野瀬君が選ばれなかったのが、あまりにもショックで…』
    「いやっ、違うんです。 実は、運転手さんに謝らなきゃならないことがあるんです」
    『謝る? 謝られるようなことなんもなかんべよ?』
    「いや、それがあるんですよ。実は・・・私は読売巨人軍の者なんです」
    『えっ? ジャ、ジャイアンツの?』
    「はい。スカウトをしています福田と言います。私たちは職業柄、身分を明かさずに人と接するようにしているんです。それは、私たちのようなスカウトがウロチョロしているだけで、選手に迷惑をかけてしまうことがあるものですから…すみませんでした。先ほどは嘘をついてしまいました」
    『いやいや、そんなのくらねよ! えっ? で、東庄高校には何のようで?』
    「はい・・・実は、さっきのラジオで流れた情報を午前中のうちに聞かされていまして・・・で、どうしても瀧野瀬君が選ばれなかったことに納得がいかず・・・真実が知りたくてアポも無しに新幹線に飛び乗ったという訳なんです」
    『そだったんけぇ~ いっや、たまげたわぁ。えっ?聞いてもいいけ? スカウトの福田さんが来るっていうことは、我が後輩の瀧野瀬君は・・・』
    「はい。さきほど運転手さんが言った通りですよ。おそらく近鉄の野茂君のときよりも多くの球団が1位で指名してくるはずです。もちろん、我が巨人軍も瀧野瀬紘一君を1位で指名させていだくことになると思います。誰が何と言おうが…ナベツネ社長が違うことを言おうが・・・瀧野瀬君以外にはあり得ません。私は、これまでの野球人生の中で、彼以上の選手と出会ったことがありません。それだけの選手です」
    『いやぁ~ 涙が止まんなかんべよ~ 嬉しくてせ。あんがとねぇ』

    「で、ところで運転手さん…」
    『はい』
    「さっき、『噂は本当だっていうのかよ!』と、言っていましたよね? どういうことなのか聞かせてもらえませんか」
    『あぁ、噂のことね・・・って、その前にもう一つ聞かせてもらえねーかなぁ・・・9回に瀧野瀬君がエラーをしたんだけど・・・』
    「あっ、さっきはテレビ観戦していたと言いましたけど、あの試合、本当は甲子園球場のバックネット裏に陣取っていたんです。だから生で観ていましたよ・・・あのプレイ」
    『あれぇ、甲子園にいたんけ。で、プロの目でみて・・・あれはエラーけ?』
    「甲子園の公式記録員の方を非難するようなことになりかねないので、うかつなことは言えませんが・・・でも、高校野球を愛する者の一人として言わせてもらえるなら、間違いなくイレギュラーバウンドしていました。だからエラーではないと・・・」
    『そっけぇ…それを聞かしてもらって少しほっとしましたよ…福田さん』
    「分かりませんが、君島投手のノーヒットノーランの記録がかかっていた場面でしたからね・・・それが判定に影響を与えたとは言いたくはないのですが・・・」
    『そだねぇ・・・あぁ、それともう一つ! 東庄高校は、審判さんに対して一切のアピールをしないんだけど・・・それはどなんで?』
    「そのことですかぁ・・・それは東庄高校の選手たちが決めたことのようなので・・・でも、そのことで野球を楽しむというスタイルを貫いているんだと思いますよ。私はもちろん東庄高校の野球を認めています。本当に高校生らしい野球で、野球というゲームの楽しさをあらためて知らされたような気がしていますから」
    『そっけぇ…あぁ、救われたよぉ、福田さん。プロ野球関係者の人にそんなふうに言ってもらえるなんて・・・もし、噂が本当だとしたら、福田さんの話をみんなに聞かせてやってもらいたいべよ!』
    「えっ?それはどういうことなんですか? 軍(ツワモノ)さん」

  • #336

    六輔 (土曜日, 25 1月 2020 17:57)


    タクシードライバーの軍(ツワモノ)は、ゆっくりと話し始めた。
    『福田さんは、スポーツ通信は読むんけ?』
    「あぁ、スポーツ新聞の?・・・まぁ、職業柄、スポーツ新聞は毎日全紙目を通していますけど…それが何か?」
    『スポーツ通信の古沢っていう記者の書いた記事がことの発端になったんだよね』
    「スポーツ通信の古沢記者だったら、私も面識がありますよ。古沢記者も東庄高校の試合の時には、甲子園にいたようですけど…」
    『その記者が、東庄高校が負けた翌日の新聞に記事を掲載したんだよ』
    「えっ?東庄高校と弁慶高校の試合の翌日の新聞?…私も目を通していますが、古沢記者の記事はなかったように記憶していますけど…」
    『福田さんが目を通したという新聞は全国版でしょ…おそらく』
    「あっ、はい」
    『こっちで売られているスポーツ通信は地方版だから・・・そこにとんでもない記事が載ったんですよ』
    「とんでもない?」
    『東庄高校が9回に勝ちを逃した原因がいろいろ書かれてあったんです』
    「原因?どんなことが書かれてあったんですか?」
    『9回のあのエラーは、瀧野瀬君が自分のプレイに慢心していた部分もあってのことじゃないかとか、ハーフスイングをアピールしていればアウトになって勝っていた可能性もあるとか・・・甲子園に出場するからには地元の応援がある訳で、その期待に一生懸命に応えようとせずに、自分たちの理想の野球を追い続け、それにこだわったがために試合に負けた東庄高校…特に瀧野瀬君の責任は大きい…って』
    「ふざけるな!理想の野球をやることのどこが悪いんだ! 責任?なんで、そこに瀧野瀬君の責任が出てくるんだよ!」
    『あれあれ、福田さんを怒らせっちったね』
    「あっ、申し訳ない。あまりにも無責任な記事に思えたので。ちょっとすいません、少し頭を冷やさせてください」
    そう言って福田は、車窓の外に流れる景色を眺めながら白進学院の監督との会話を思い出していた。

    「どうしてなんですか? 監督!」
    『東庄高校が負けて、地元で騒ぎが起きたんですよ』
    「騒ぎ?どんな騒ぎが起きたっていうんですか?」
    『高校生らしくないプレイをして負けた!甲子園に出る資格なんか無かったんだとか、どう責任をとるつもりなんだ! 寄付した金を返せ!って、クレームの電話がひっきりなしに…』
    「はぁ?」
    『まぁ、理不尽なクレームをいれてくる人はどこにでもいますからね』
    「それにしたって、高校生らしくないプレイとはどういうことですか?彼達ほど高校生らしいプレイをしている学校は無いじゃないですか。そのことは監督だって分かっていますよね」
    『そうですね。でも結局・・・そのクレームを抑えるために、東庄高校は今度の新人戦の出場を辞退するという話になって…』
    「ちょ、ちょっと待ってくださいよ、監督! そんな理不尽な話がある訳ないでしょうよ」
    『・・・それが、実際にあるんだよ…福田さん』
    「えっ?と、ところでそのことと瀧野瀬君がWBC U-18ベースボールワールドカップのメンバーに選ばれなかったことが、どう関係するんですか?」
    『選考会では、当然、満場一致で瀧野瀬君を代表に選んだんだよ。でも、瀧野瀬君は、新チームがそんな状態で、自分だけワールドカップに出場することなんか出来ないって・・・私からも瀧野瀬君に直接話したんだけどね…一緒に戦ってくれって。でも彼の意思は固かったよ。理想の野球をやってきたのは自分に責任がありますからって』
    「そんなぁ・・・」
    『結局、WBCに出てもらうことは諦めて、彼に最後にこう言ったんだよ・・・野球は続けろよ!って・・・彼は、返事をしなかったよ』
    福田は言葉を失った。

  • #337

    六輔 (日曜日, 26 1月 2020 08:33)


    タクシードライバーの話と、白進学院の監督の話がつながったが、福田の頭の中には大きな謎が渦巻いていた。
    スポーツ通信社は、ジャイアンツの親会社の読売新聞と業務提携を結んでいることもあって、福田と古沢記者は面識があった。
    優秀な選手の情報を交換しあったり、何より古沢記者は、しっかりとした取材をもとに記事を書く記者として、福田自身、信頼を寄せていた記者だったのである。
    「どうして古沢記者は、瀧野瀬君を誹謗中傷するような記事を書いたんだろうか。まさしく新聞による「印象操作」以外のなにものでもない記事だ!」
    と、その謎をドライバーの軍(ツワモノ)が解いてくれた。
    『福田さん!』
    「えっ? あっ、はい」
    『しかしひどい話ですよね。瀧野瀬君が怠慢なプレイをしたとか、あり得ない話だし…』
    「そうですよね」
    『だいいち、あのプレイがエラーではないって、プロのスポーツ記者だったら、直ぐに分かりそうなもんすよねぇ。それなのに試合に負けたのは瀧野瀬君のエラーのせいだって・・・あの記事を読んだ人は誰でもそう思ってしまいますよ!』
    「・・・そうですね」
    『でねっ、なんであんな記事が出たのか知りたくて・・・自分の同級生の娘さんが東庄高校の教員をしているので、その友達に聞いてもらったんですよ。どうして東庄高校が目の敵にされるような記事が書かれたのかって。そしたら、これがひどい話なんですよ、福田さん』
    「ひどい話?」
    『はい。瀧野瀬君が注目されるべき選手だと知ったその記者が取材を申し込んだところ、断られたんですって。もちろん瀧野瀬君はその記者だけではなく、全部の取材を断っていたらしいんですけどね』
    「あっ、その話は私も聞きました。試合のことに集中していたいのでと断られたら、どんな記者だって遠慮するはずですよ…彼達はまだ高校生なんですからね」
    『そうっすよねぇ。だけどその記者は学校に電話をしてきて、教頭先生と校長先生にまで悪態をついたらしいですよ。新聞社の取材に協力するのは、当たり前のことだとか、甲子園ど素人の学校は困るとか・・・しかも最後に“後で後悔するなよ”的なことまで言ったとかって・・・福田さん…新聞社に協力するのって当たり前のことなんすか? それに協力しなかったら、こういうことになるんすか? 教えてくださいよ!!!』
    口調の激しくなった軍の質問に答えられなかった福田は、握りしめた拳を怒りに震えさせながら心の中でこう言った。
    「古沢さん・・・このことがあなたのプライドを守るためだというのなら、私は・・・いやっ、読売巨人軍は、絶対にあなたを許さないですよ」と。

    タクシーは東庄高校の校門前に到着し、軍は料金メーターを操作しながら最後にこう言った。
    『福田さん・・・』
    「はい」
    『世間は怖いですよね。自分の思うようにならないことがあると、直ぐに文句を言い出して・・・相当ひどいクレームがいくつも学校に寄せられたって話ですよ』
    「そうなんですかぁ」
    『日本人は、集団行動を大事にしたり、空気を読むことを一番に考える人が多いから、誰かが意見をするとその意見に同調して・・・もとはと言えば、あんな記事を書いた記者が悪いのに・・・瀧野瀬君の気持ちを考えると、おらぁ、悔しいっすよ、福田さん!』
    「…そうですね」
    『福田さん…俺は噂を信用しないですから!』
    「噂?」
    『瀧野瀬君は野球を辞めるという噂ですよ!こんなことで野球を辞める必要なんかないじゃないですか』
    「もちろん私も軍さんと同じ気持ちですよ! 彼はこれからのプロ野球をしょって立つプレイヤーなんですから!」
    『絶対に1位で指名して、クジを引き当ててくださいね!信じてますから』
    福田は、料金を渡したその手で、軍と固い握手を交わし応えた。
    「はい!」

  • #338

    六輔 (月曜日, 27 1月 2020 19:34)


    タクシーを降りた福田は、一期一会に感謝するように丁寧に頭を下げた。
    目を閉じると、直ぐに思い浮かばれてきた人の良さそうな軍(ツワモノ)の顔にこう言った。
    「野球の神様が引き合わせてくれたんですよね・・・軍(ツワモノ)清さん」と。
    タクシーが先の交差点を右折して見えなくなると、背広の胸ポケットから携帯を取り出した。
    こみ上げてきた“怒り”の感情を押し殺すように、携帯の電話帳を開き、〔スポーツ通信・古沢記者〕のところで動きを止め、気持ちを落ち着かせるために「ふぅ~」と、深く息を吐きながら通話ボタンを押して応答を待った。

    『はい、古沢です』
    「ご無沙汰しています…ジャイアンツの福田です」
    『あぁ、どうもどうも。お元気でしたかぁ? 夏の甲子園が終わってスカウトの方たちもとりあえずはひと段落でしょ。ところで福田さんから電話をくれるなんて珍しいですね…何かありましたか?』
    「WBC U-18ベースボールワールドカップの代表メンバーが決まりましたけど、古沢さんのところにも情報は入りましたか?」
    『はい、バッチリ届いてますよ』
    「メンバーを見て、どうです? 古沢さんの予想は当たってましたか?」
    『まぁ、ほぼ予想されていたメンバーなんじゃないですかね』
    「そうですかぁ・・・私は東庄高校の瀧野瀬君の名前が無かったことが不思議でしてね…古沢さんはどう思われました?」
    『あぁ、瀧野瀬君ねぇ』
    「ちょっと人づてに聞いたんですけど、スポーツ通信の地方版に古沢さんの記事を載せたんですってね。瀧野瀬君の記事」
    『あぁ、あの記事ねぇ。まぁ、瀧野瀬君の場合は間違いなくドラフト1位で指名されるんでしょうけど、高校生のうちからあまり調子に乗らない方がいいかと思いましてね。少しお灸をすえてやるために書いた記事なんですよ。最近、勘違いしている高校生が多いですからね! これからプロ野球人としてプレイしていくのに、メディアを粗末には出来ないんだとよく分かったと思いますよ。彼の将来のためを思って書いてやったんですよ。しかし、どうして選ばれなかったんですかね? ケガでもしたんですかね?』
    悪びれる様子も無く、当たり前に話す古沢に、福田はトーンを下げて言った。
    「ご存じないようですね・・・あの記事をきっかけに何が起きているのか」
    『はっ? あの記事をきっかけに? 何ですかそれ』
    と、この後、ことの成り行きを聞かされた古沢はこう言った。
    『別に、印象操作なんかしていませんよ!』
    「記事に書いてあったそうですよね? 瀧野瀬君の責任は大きいって」
    『だからって、野球をやめるべきだとは書いたつもりはありませんよ! 言いがかりも甚だしいよ!』
    「そうですか。まぁ、全国の高校野球ファンが、瀧野瀬君が代表メンバーに選ばれなかったことを知って、直ぐに騒ぎ出すでしょうからね」
    『えっ?…と、とにかく、私の記事には関係がありませんから!』
    「世論を甘く見ない方がいいですよ。自然と選ばれなかった理由が知れ渡って・・・ただの噂であってくれたらいいですね。もし、噂ではなく瀧野瀬君がこれで野球を辞めるようなことにでもなったら・・・うちの親会社…読売新聞の偉い方が決めてくれることでしょう・・・スポーツ通信とどう関係を保っていくのか」
    『えっ?そ、そ、そんな…うちが読売さんにそっぽを向かれたりしたら、死活問題になってしまいますよ』
    「今の時代は、SNSで世論が騒ぎ出しますからね…“私には責任はありませんよ”と、訴え続ければいいんじゃないですか…古沢さん」
    『SNSで?・・・』
    「新聞社にどれだけのプライドがあるのかは知りません。いやっ、会社ではなく記者個人のプライドなのかも分かりませんが・・・審判は全国の高校野球ファンが下してくれますよ。では失礼します」
    『ちょ、ちょっと待ってくださいよ、福田さん。私は別に・・・』
    そう言い訳を続ける古沢の携帯には、通話終了を告げる音が鳴っていた。

  • #339

    六輔 (火曜日, 28 1月 2020 19:10)


    その日の夕方には、テレビ各局で代表メンバー決定のニュースが流れた。
    原稿通りに何のコメントもつけずに読み上げたアナウンサーがほとんどだったが、読売系列の4チャンネルだけは、選考に異論めいたコメントを付け加えていた。
    「夏の甲子園大会が終わり、今度は世界一をかけた闘いが始まります。今日、WBC U-18ベースボールワールドカップの代表メンバーが発表されました。甲子園ベスト8まで勝ち残ったチームで活躍した選手を中心に、中には惜しくも地方大会で敗れた高校からも選出されています。投手8人、キャッチャー3人、内野手6人、そして外野手3人の計20人と、バランスの良い選出になっているかと思いますが…どうでしょう・・・甲子園優勝投手の義経投手から2打席連続ホームランを打った東庄高校の瀧野瀬君の名前が無いのがちょっと気になりましたけど、そう感じたのは私だけでしたでしょうか・・・いずれにしましても精鋭20人の選手が選ばれた訳ですので、日本代表として頑張っていただきたいと思います。それでは次のニュースに移ります…」

    夕方のテレビニュースが流れて直ぐだった。
    福田の言った通り、SNS上で多くの高校野球ファンが騒ぎ出した。
    「東庄高校の瀧野瀬君が選ばれない理由が分かんない!」
    「ジャパンの監督の目は節穴か?」
    「完璧なピッチングをした義経投手を打ったのは東庄の瀧野瀬だけだぜ!」
    「ジャパンは勝つ気がないのか!」といった声が世間に飛び交った。
    当然、事情を察する者からも投稿されてきた。
    「スポーツ通信の記事が発端で、東庄高校は新人戦に出られなくなったって聞いたぜ!そのことと関係あるんじゃねーの」
    「ということは選ばれなかったんじゃなくて、瀧野瀬君が辞退したってこと?」
    「おいおい、そのスポーツ通信の記事ってどういう記事なんだよ!」

    ネット上でそんな投稿が続くとそれは直ぐだった。
    1本の電話が鳴った。
    『はい、スポーツ通信社・編集局です』
    「古沢って記者に代われ!」
    『古沢はただいま取材で出かけております。どのようなご用件でしょうか?』
    「いない?じゃぁあんたでいいや。言論の自由だかなんだか知らねーけど…あんまりふざけた記事を書かない方が身のためだって、お偉いさんに言っとけよ!」
    『おっしゃっている意味がよく分かりませんが…』
    「分かんない?・・・WBC U-18ベースボールワールドカップのことで、ネット上でどんだけ騒がれているか調べてみろよ!」
    その1本の電話を皮切りに、電話が鳴りやむことは無かった。

    世間の激しい怒りは、納まることはなく、ワイドショーまでをも突き動かす事態まで発展した。
    古沢の記事は、取材申し込みを断られた腹いせに書かれた記事であったのではないかと糾弾されたスポーツ通信社は、世間の騒ぎの沈静化のために社長が自ら会見をするはめになった。
    (社長)「え~・・・我が社の記事で世間をお騒がせしていますことについて説明をさせていただきます。うちの記者は、一人の高校生を責めることを意図として掲載した記事では無かったということなので・・・まぁ・・・読んだ皆さんが勝手な想像をしてしまったようでして・・・まっ、ですが、世間をお騒がせしたことに対しましてはお詫びをさせていたく次第であります」
    (リポーター)「ということは、記事は悪くない!今回の騒ぎは読み手が悪いということを言っているんですね?」
    (社長)「いえっ、決して読み手が悪いと言っている訳ではないのですが・・・うちの記者も一人のプレイヤーを責め立てるような記事を書いた訳ではなかったものですから…まぁ、記事を読んだ方が・・・」
    (リポーター)「何を言っているのかまったく分かりませんね、社長! まず一つ確認させてください。そちらの記者が掲載したとおっしゃいますけど、記者は記事を書いただけで、掲載したのはスポーツ通信社の責任でということでよろしい訳ですよね?」
    (社長)「・・・そういうことになりますかね」
    (リポーター)「どうして記事を書いた記者がそこに座って謝罪しないんですか?」
    (社長)「謝罪という言葉は適切ではないと思いますが・・・ただ、世間を騒がせたという意味で不適切な記事を書いた記者であったと、昨日付けで解雇したものですから…」
    (リポーター)「記者を解雇した? いま社長は言ったばかりですよね?記者は記事を書いただけで、掲載したのはスポーツ通信社だと。であるならば、解雇されるべき人間は…社長!あなた自身なのではないですか?」
    (社長)「・・・・・」
    (リポーター)「記者の首を切りさえすれば言論の自由、新聞社の威厳も守れる! そう考えた訳ですね、社長!」
    会見で受けたその質問に、社長は答えられずに黙り込むだけだった。

  • #340

    六輔 (水曜日, 29 1月 2020 20:18)


    「また中断?」
    突然のことだが、この小説の最大の欠点によって、物語の進行がまた中断されることになりそうである。
    「中断されてしまうような欠点ってなに?」と、ぼやく声が聞こえてきそうだが、この小説の最大の欠点とは、リレー小説といいながらも、ひとつもリレーになっていないことだ。
    そのことによってこの小説(最終章)の著者である“六輔”なる者が、好き勝手に物語をあっちこっちへと振り回し、鹿沼高校の甲子園の蔦の話のような実話ネタを時折ぶち込みながら、軍(ツワモノ)清(キヨシ)のように誰かを想像させるような表現をしてみたり、殿馬治美という売り子をさりげなく登場させて、最後には全く違う展開になることを匂わせる前振りをしてみたり・・・
    読み手からしてみれば、物語をあっちこっちされたうえに、“仲間・鋳掛屋の天秤棒”というタイトルから、一体何を語りたい小説なのかと、理解に苦しむ展開になっている。
    それでありながら物語の進行を中断するというのには、しっかりとした理由があってのことであるはずなのだが、これまた「はっ?」と首をかしげられそうである。
    何故なら、ここでいきなり「税金」の話をするからだ。
    「どうしてこの期に及んで“税金”の話を聞かされなきゃならないの?」という声を無視しつつ、先に言っておく。
    もし、小説を読んでいる人の中に税について詳しい人がいるのであれば、間違った記述に対しては「それ違うよ!」と訂正の書き込みをして欲しい。
    それを伝えたうえで、それでは税の話を始める。

    税金の徴収方法には2種類ある。
    直接税と呼ばれる方法と間接税と呼ばれる方法だ。
    直接税は文字の通り、納税者が直接税金を支払うもので、所得税や住民税、法人税や事業税などがそうだ。
    それに対して、税金を実際に国や地方自治体に納める人と、その税金を負担した人が異なっているのが間接税であり、身近なところでの消費税がそうだ。
    あと3年ほどで還暦を迎える者が、令和2年にこの小説を読んでいると仮定して話すが、その者達が20代後半で結婚した頃、早い者であれば既に子育てに追われていた頃であったはずだ。
    「これからはお財布の中に1円玉が増えそうね」とか言いながら3%の消費税なるものを初めて納めて買い物をしたのは。

    これから31年前に消費税が3%で導入され5%、8%、さらに10%へと税率が引き上げられてきた経緯とその背景にあった政治の話をする。
    それは、あと3年で還暦を迎える者達が高校2年生のとき、チューリップが“虹とスニーカーの頃”を、サザンオールスターズが“いとしのエリー”を唄い始めた頃のこと。
    ときの内閣総理大臣、大平正芳氏が「消費税を導入しま~す」と、初めて国民の前で宣言した。
    だが、その年の総選挙では自民党に対する凄まじい逆風が吹き、「これはまずい」と思った大平氏は国民の前でこう言った。
    「やっぱり導入しません! やめま~す!」
    だが、その撤回もむなしく、自民党は選挙に惨敗した。
    多くの政治家達は、この時に学んだのである。
    「へぇ~なるほどぉ。 消費税を導入しま~すと先に宣言したら、選挙には勝てないんだね」と。

    それから9年が経った。
    ときの内閣総理大臣、中曽根康弘氏は「大型間接税は導入しませ~ん!」と公言して選挙に臨み、自民党は圧勝した。
    ところが中曽根氏は、舌の根の乾かぬうちに、その翌年には「売上税を導入します。税率は5%で~す!」と発表した。
    当然、国民は「中曽根は嘘つきだ!」と怒りだした。
    国民の怒りを収めきれなくなった中曽根氏は、結局、5%の売上税導入を断念した。
    そしてその次に登場したのが竹下登氏、ウィッシュのお爺ちゃんだ。
    竹下氏は、こう言った。
    「消費税を導入しま~す。でも、でもですよ、5%ではなく3%です!お得になったでしょ! しかも中小企業の皆さんは集めた税金を納めなくてもいいことにします。すごいでしょ!お得でしょ! さらにさらにですよ、法人税も引き下げちゃいますからね~!」と。
    国民は思った。
    「あれっ、今度は3%でしかも小さな会社は納めなくてもいい? それに減税もあるんじゃお給料があがるかもしれないわね。じゃぁ消費税導入は仕方ないのかなぁ」と。

  • #341

    六輔 (木曜日, 30 1月 2020 20:28)


    いきなり消費税の話を始めたのは、決して消費税の歴史を詳しく知ってもらいたいためではないので、竹下氏が消費税をスタートさせた後に、
    「せっかく集めた税金なのでやっぱり中小企業の人達も消費税を納めてくださ~い!」
    と、約束を破って制度を直ぐに変えたことや、その後を継いだ村山富市氏、橋本龍太郎氏、菅直人氏や野田佳彦氏の時のいきさつについては説明を割愛する。
    ただ、これだけは伝えておく。
    消費税を10%に引き上げますと打ち出した菅直人氏がその年の参院選で惨敗し、その後を引き継いだ野田佳彦氏は一度学んでいた“技”を使って成功したのである。
    「まずは8%にしてから将来10%にしま~す。しかも皆さんが生きるために必要となる食品についてはその税率を軽減しま~す。しかも、しかもですよ、法人税をた~くさん減らしちゃいますからね!」と。

    野田氏の後を引き継いだのが安倍晋三氏だ。
    安倍氏は直ぐに消費税を8%に引き上げたが、10%にするといった約束の期日が近づく度にその引き上げを延期し続けた。
    安倍氏は、国民に対して引き上げを延期する理由を一生懸命に説明したが、それに疑問を抱く者達が「選挙とのタイミングが合わなかったから先送りしてきただけだ!」と声を挙げたが、当然安倍氏は知らん顔。
    しかもそれに関する報道もあまりされずに、結局、先送りされてきた本当の理由は誰にも知らされぬまま。
    結局安倍氏は、2019年10月に消費税を10%に引き上げた。
    もちろん、安倍氏も学習能力のある政治家の一人であるが故、10%への引き上げと同時に国民が喜ぶ特典をつけた。
    その方法は二つだ。
    一つ目には法人税の減税を行い、まずは富裕層を納得させ、さらに二つ目として「ポイント還元事業」を実施したのだ。
    ポイント還元事業とは、中小規模の小売店などでクレジットカードや電子マネーなどのキャッシュレス決済をすればポイントで還元しま~すという制度だ。
    「ペイ・ペイ!は~い、ペイ・ペイ」とか言いながら。
    特典までつけて(ニンジンをぶらさげて)キャッシュレス決済を推し進めるのには、当然、政府の隠された狙いがあった。
    その“狙い”については、この物語の終盤に少し関わる話なので、ここでの説明は控えておく。

    このように税率を上げられてきた消費税という間接税は、所得の高低に関係なく税率は皆同じだ。
    それ故、税額に対する担税者の不公平感は起きにくいのだが、所得が低い層になればなるほど税負担率は高くなる。
    そりゃそうだ。年収1,500万円の人が10万円の商品を買って消費税1万円を払うのと、月10万円の年金暮らしの人が36回ローンで10万円の商品を買って消費税1万円を払うのとでは、その負担感は雲泥の差だ。
    一方、直接税である所得税は、消費税などの間接税と違って累進課税が課せられる。
    「富を一部の階層へ集中させずにみ~んなに広く分配しま~す」
    と、国の偉い人が考えてくれた制度だ。
    でも国の偉い人はちゃんと考えていて、富裕層の人達のために法人税をい~っぱい減らしてあげることを忘れない。
    と、そういう話をして誤解されては困るので言っておくが、法人税減税そのものを非難しているのではない。
    何故なら、法人税が減税されることで、従業員の給料が上がるかもしれない。
    資産投資が増えて会社が大きくなり、新たな雇用が生まれるかもしれない。
    日本の法人税は高いからと企業が海外に流出してしまうのを食い止められるかもしれないと分かっているからだ。
    海外の主要国が法人税の減税にかじとりをしているなかにあって、日本もそうするのは当然の成り行きなのだろう、国の偉い人はさすがだ。
    ただ・・・
    調べた限り、大企業や古い産業があまりにも優遇されすぎているのではないかと思ってしまい、
    「ちゃんと選挙で応援してくれる人へのご褒美なの?」
    「大企業の人って政治献金をたくさんしてくれるからなの?」
    と、危うくそんなおバカな想像をしてしまいそうになってしまう。

  • #342

    六輔 (金曜日, 31 1月 2020 19:59)


    2019年10月の消費税10%への引き上げで、一つだけどうしても気になることがある。
    それは、消費税を10%にする際に設けられた軽減税率の中身のことだ。
    国の偉い人は言った。
    「飲料食品と飲料食品のテイクアウトは8%に軽減しま~す!ちょっと複雑ですけど頑張って覚えてくださいねぇ~ あっ、それとこれは特別ですよ、特別! 週2回以上発行される定期購読の新聞だけは8%に軽減しま~す!くれぐれも新聞だけ! 本当に新聞だけですからね!」と。
    多くの国民は首をかしげた。
    「はっ?なんで? なんで新聞だけ特別? 何か意図があるの?」
    騒ぎ出した国民に対して国の偉い人はこう説明した。
    「新聞はね、国民の皆さんに政治、経済、社会、文化などの一般社会的事実をお知らせするというとても大切な役割を担っているんです。新聞の購入は、生きるために必要な情報を入手したり、知的好奇心を満たしたり、活字文化を楽しんだりする行動であって、普通の消費行動とは違うんです。だから国民の皆さんがニュースや知識を得るためのコストや負担を増やさないために軽減税率の対象にしたんですよ」と。
    多くの国民は思った。
    「なるほどぉ~ 雑誌や週刊誌は軽減税率の対象にはならないけど、国民の誰もが信頼を寄せている“新聞”だけは優遇してもらえたんだぁ。さすが国の偉い人が考えることは違うねぇ。まぁ、うちも新聞をとっていることだし、税金が上がらないんだから良かったことにしよう」と。
    国のお偉いさんの説明で「なんで新聞だけ?」という騒ぎは直ぐに収まった。
    そりゃぁそうだろう、新聞がそのことに関する記事の掲載を一切しないことで、国民の関心も直ぐに失せたのだから。

    ところが、国の偉い人が「所詮、国民の政治に対する関心なんてそんなものだよ」と高を括っていたのが仇となったのか、想定外のことが起きた。
    それは、38歳の若さで環境大臣に任命された小泉進次郎氏が突然動き出したのである。
    父は小泉純一郎氏、兄は小泉孝太郎氏、妻は“お・も・て・な・し”の滝川クリステルさんの小泉進次郎氏だ。
    いま、国民に一番人気のある政治家と言っても過言ではないだろう。
    その小泉進次郎氏が、ある報道番組の生放送中にいきなりこんな発言をしたのである。そう、あえて生放送中に。
    「私は新聞が軽減税率の対象っておかしいと思っています。私がいくらそう訴えてもテレビも新聞もほとんど報じてくれないんですよ。消費税増税を訴える新聞が、自分達だけ増税を負担しないのを報じないのはフェアじゃないですよね!どう思いますか?」と。
    生放送中に突然そうふられたTBSのキャスターは、言葉を発することが出来なくなり、結局、適当に話をそらしてその場を何とか乗り切った。
    テレビ局は新聞社の系列会社であり、同じようにその問題には触れられたくなかったからなのだろう。
    小泉進次郎氏の狙いは虚しく終わった。
    ちなみに、TBSのキャスターと小泉進次郎氏との間にそんなやりとりがあったことを他局の報道番組が取り上げることもなかったし、もちろん翌日の記事にした新聞社も無かった。

    かつてはNHKで社会部記者やニュースキャスターを歴任し、現在はフリーランスのジャーナリストとして活動する池上彰氏が、朝日新聞のコラムにこんなことを書いているのを目にした。
    「新聞が生活必需品であるというなら、電気、ガス、水道は何故対象にならなかったのか。そういった国民の疑問に新聞社はどう答えるのでしょうか」と。
    池上彰氏や小泉進次郎氏の発言に不満のある新聞社が、正々堂々と紙面で反論するだろうと多くの国民が関心を寄せていたが、そういった記事が掲載されたことは一度も無かった。

    そもそも軽減税率の対象に新聞を紛れ込ませる議論を主導したのは、公明党だったと言われている。
    聖教新聞と公明新聞の購読料は支持母体である創価学会にとって大きな収入源であったからなのだろうか。
    ふと思う。
    軽減税率の対象に新聞だけ特別扱いされていることを、国民のどれくらいの人が知っているのだろうかと。
    軽減税率で優遇された新聞社が、今後、政府に対して物申せなくなることがないことを願うばかりだ。

  • #343

    六輔 (土曜日, 01 2月 2020 19:53)


    またいきなり話が変わって申し訳ないが、日本の国家予算の話をする。
    「日本の国家予算はいくら?」と聞かれて、直ぐに「凡そ100兆円だよ」と答えられる人がどれくらいいるだろうか。
    自分が暮らす国のお財布の話なのに、多くの割合の人がそれに一切関心を持たないとは、あまりにも無責任な話だ。
    いやっ、無責任というより“オヒトヨシ”と言った方がいいのかもしれない。
    何故なら、自分達で納めたお金なのに「どうぞ、勝手に使ってください」と、自分の考えを一切主張しないのだから。
    そんな“オヒトヨシ”の人が多いことで、日本という国はどうなっているのかという話をしよう。

    100兆円の使い道を決めるのは、実は国民にとってとても大事なことなのだ。
    それがどれくらい大事なことなのか、国を学校に見立てて説明してみる。
    例えば、生徒会の限られた予算の配分を決める会議があったとしよう。
    そこでは、多くの部や愛好会が、少しでも自分たちの予算を多く獲得しようと一生懸命に声を発するだろう。
    「野球部は甲子園を目指しているのでたくさんお金が欲しいです!」
    「今年からサッカー部を作るので、新たな予算が必要です」
    「いやいや運動部だけ好きにさせませんよ、文化部だって! 今年からフラワーアレンジメント部を作りたいので!」
    と、激論が交わされるはずだ。
    ただし、その激論は部員全員で交わされる訳ではない。
    各部から代表者1名が参加して話し合いがされることになる。
    それぞれの部は、自分達の権利を必死に守ろうとして、少しでも頼りがいのある者に託すことだろう。
    「頼むぞ!俺に代(代)わって会議(議)に出てくれ!お前(士)が頼りだからな!」
    そう、この時に託される者こそが国会で言えば代議士(国会議員)となる訳であり、議論を交わす場が国会なのだ。
    予算をしっかり確保したいのであれば、自分のところの代表を適当に選ぶ訳にはいかないはずだ。
    だからもし、「俺が行く!」、「私が行く!」と、代表として会議に出席したいと言う者が複数人現れた時には、自分の思いをしっかり伝えてくれるのはどっちだろうかとよく考えて、どちらかに託す(投票する)ことになる、まさしくそれこそが選挙なのだ。
    野球部であれば、新しいバットを1本でも多く買えるようにと、代表者をしっかり選んで必死に訴えることであろう。
    だが、もしここでちゃんとした人に託さず、会議に出る人を適当に選んだとしたらどうなるだろうか。
    「えっ?野球部から会議に参加する人って〇〇さんなの? あの人なら楽勝じゃん! だってあの人って適当だし、ちゃんと喋れないでしょ? みんなで言いくるめちゃいましょ!」
    となって、結局野球部は予算を減らされることになるだろう。
    また、部の代表として選ばれし者が、部全体の声を届けるのではなく、個人的な目論みで会議に参加していたとしたらどうなるだろうか。
    「嫌よ!このままじゃ私だけ“赤パン”で卒業写真を撮るようになっちゃう! そんなの絶対にイヤッ! 私だけサイズが合わずに“赤パン”だったんだろう!って、男子にずーっと言われちゃう!」
    もちろんそんな個人的な理由で述べた意見など採用されるはずもなく、結局、女子バスケ部は予算を獲得できずに、ユニフォームを新調することが出来なくなるだろう。
    その女の子は50歳を過ぎてこう嘆くはずだ。
    「卒業アルバムって、どうして部活動紹介のページだけカラーなの」と。
    しっかりとした人がきちんと意見を言わなければ損をするだけなのである。
    世の中の仕組みはそうなっているのだ。

  • #344

    六輔 (日曜日, 02 2月 2020 20:08)


    ところで、国家予算の100兆円がどのように使われているのか、興味が湧いたので調べてみた。
    配分の多い順に拾ってみると、社会保障費34%、国債費25%、地方交付税16%、公共事業費6%、防衛費5%、子育て教育費5%だ。
    なるほど、如実に選挙の結果が配分の比率に現れているではないか。
    それがどういうことかと言うと、日本の将来を真剣に考えた配分ではなく、政治家達の思惑通りに配分されているということだ。

    政治家達が一番に大事にするのは、当然、自分の国会議員としての地位だ。
    「自分が国を変えなくて誰が変えるんだ!」とか言いながら。
    国会議員で居続けるためには、選挙で選ばれ続けなければならない。
    選ばれ方としては、衆議院議員であれば「小選挙区比例代表並立制」とかいう、頭の痛くなりそうな漢字が並べられた選挙制度によるのだが、その説明は割愛しておく。
    さて、選ばれ続けたかったらどうする?
    当然、選んでくれた人を大事にするだろう、「次も投票してね」と。
    だからこそ、先に言った配分の比率になり、社会保障費に一番多く配分される結果になっている訳だ。
    分かりやすく説明すれば、社会保障費は年金・医療・介護に使うお金であり、それを使うのは60歳以上の高齢者たちだ。
    少し厳しい言い方をすれば、政治家達にとって全体の投票率など全く関係ないのだ。
    低い投票率のなかでも、投票に行ってくれる人達、そう、高齢者たちさえ大事にしておけば、自分の身は守れるのだ。
    それは、こうとも言える。
    「自分に投票してくれない人は、選挙に行かなくても全然かまわない」と。
    選挙に行かない若者世代の予算はどうだ。
    将来を担うべき若者たちに配分される「子育て教育費」はたったの5%だ。
    多くの政治家達は、口を揃えて少子化対策が一番だ!と言っているが、本当に日本の将来を考えているのであれば、絶対にこんな配分にはならないはずだ。
    と、こういう話をすると、高齢者たちは口を揃えて言う。
    「政治家さんたちはしっかり日本の将来を考えてくれなきゃ困るわよ!」と。
    チャンチャラおかしな話だ。
    何故なら、高齢者たちは「自分達の身を削ってでも孫たちの世代にお金を回して!」とは言っていないからだ。
    もし、「自分達の身を削ってでも!」と思っているのだとすれば、自分の子供達にこう説教しているはずなのだ。
    「選挙に行かなきゃダメでしょ!あなた達のために働いてくれる政治家をしっかり選んで、孫たちが暮らしやすい日本にしてもらわなきゃダメなのよ!」と。

    ちゃんと世の中の仕組みを理解して、若い世代に対して「選挙に行かなきゃだめだ!」と説教している高齢者がどれだけいるというのだろうか。
    まずは高齢者たちが変わらなかったら、政治家たちが変わる訳はないのだ。
    「孫の将来が心配で~す」とか言っているジジ・ババは大嘘つきだ。
    何故なら、ほとんどのジジ・ババが「日本の将来のことは、将来になってから考えて!年金や介護を減らす予算なんて言語道断!」と思っているからだ。

  • #345

    六輔 (月曜日, 03 2月 2020 19:11)


    普通に生活をしている人であるならば、将来に全くの不安を持たないという人はいないだろう。
    「自分は、お金には困らないよ」という人であっても、自分の健康のこと、将来起きるかもしれない争いごとや増え続ける天災などに少なからず不安を抱えていることだろう。

    “人生100年時代”と偉い人が言った。
    多くの人々は、“人生100年時代”と言われたことに、特に喜ぶことも無く「へぇ~そうなんだ」と、素っ気無く応えた。
    「100歳まで生きれるよ!」と言われて人々が諸手を挙げて喜べなかったのは、健康のままお金に困ることなく100歳を迎えられるかどうか自信が持てなかったからだ。
    “人生100年時代”と言ったその偉い人は、続けてこう言った。
    「多くの人が100歳まで生きられる時代になるのだから、これまでとは異なる新しい人生設計が必要なんだよ」と。
    そんなふうに偉い人が説いたことで、人生に対する不安をより一層大きくした人達がいる。
    それは50代の人たちだ。
    「えっ?そんな…今更新しい人生設計が必要とか言われたって、私達の世代はもう間に合わないよ。年金だってちゃんと60歳から十分な金額がもらえると思って生活してきた私たちなんだから」と。
    さらにその者達の不安に拍車をかけることが起きた。
    金融庁が発表した“公的年金2,000万円不足問題”だ。
    普段あまり政治に関心を持たない若者達も、さすがにこの2,000万円不足問題には怒りだし、デモ行進を始めた。
    だが、その時の政府の対応が面白かった。
    何故なら「金融庁からのそんな報告なんか知らないよ!」と、報告書の受け取りを拒否したからだ。
    確かに、不思議だった。
    年金の不足額をどうして年金を担当する厚労省ではなく、金融庁が発表したのか。

    さて、その謎に答える前に、二つの質問をしたい。
    一つ目は至って簡単な問題だ。
    年金は何歳になったらもらえるの?
    そして二つ目は三択問題だ。
    年金とは、20歳からずっと積み立ててきたお金が戻ってくる“貯金”だと考えるのが正しいのか。(確かに未納者はもらえない)
    あるいは、働けなくなった人の最低限の生活を国が守ってくれるといった“生活保護”だと考えるのが正しいのか。
    もしくは、働けなくなったときに困らないように備えておく“保険” だと考えるのが正しいのか。
    さてさて、間もなく還暦を迎える者達には特に大きな問題であるので真剣に考えてもらいたい。

  • #346

    六輔 (火曜日, 04 2月 2020 19:35)


    質問を投げかけておきながらなんなのだが、ふと疑問が湧いてきてしまった。
    「新しい人生設計」が必要だと言うが、では、これまでの人生設計とはどんな設計であったのだろうかと。
    調べてみてなるほどと思った。
    これまでは“人生80年”を「20年間学び、40年間働いて、20年間休む」という「教育20・仕事40・老後20」の3ステージをそれぞれに幸せに生き抜こうという人生設計だったのだそうだ。
    そっか、“人生100年時代”になったことで20年間伸びた訳だ。

    さて、先の二つの質問に答えるとするが、まず、年金が何歳からもらえるのかというと、60歳から70歳の間で自由に選ぶことが出来るというのが正解だ。
    65歳を基本として、70歳まで繰り下げればその分額を増やして受給できるようになり、逆に60歳まで繰り上げれば、毎月の額は少なくなり、ずっと少ないままの額で亡くなるまで受給することになる。
    国が定めている現制度では、60歳から繰り上げ受給すると毎月の額が70%に減額され、65歳から受給して満額(100%)、70歳まで繰り下げてから受給すれば142%に増額されてもらえるようになる。
    ようは、70歳からもらう人は、60歳からもらい始めた人の2倍の額を毎月受給出来るようになる訳だ。

    「あれだけ納めたのだから、もらわずして亡くなるのはもったいない」
    「年金制度が破綻する前にもらっておこう」
    と考え、60歳から繰り上げて受給するのは個人の自由だ。
    だが、年金に関してはこんな言葉がある。
    「繰り下げて後悔するはあの世、繰り上げて後悔するはこの世」だと。
    それは、60歳から繰り上げて受給したとしても、65歳の満額になってもらい始めた人よりお得でいられるのは76歳までだからだ。
    76歳より長生きする人はおそらく後悔するのだろう。
    「やっぱり65歳からもらっておけば良かった」と。
    働いてお金を稼ぐことが出来なくなり、貯金も尽きたときにあてになるのは年金だけだ。
    日本人の平均寿命が80歳を楽に超えている現状にあって、76歳以降、少ない年金で100歳までの余生を楽しく暮らせる自信があるのなら繰り上げ受給するのが正解なのだろう。

    さて、ここまで話していくと、二つ目の質問の答えが見えてきただろう。
    年金は貯蓄でもなければ生活保護でもない。
    そう、“保険”だと考えるのが正しいのだ。
    年金とは、“長生きしてしまう”というリスクに対する備えなのだ。
    「そんな、長い間大金を積ませておいて、いまさら保険だ?ふざけるな!」
    と、言いたくなる人が続出しそうだが、でも実際にそうなのである。
    例えば自動車保険や医療保険をかけていた人が、その保険金をもらわなかったと残念には思わないだろう。
    無事故で元気でいられたのだから。
    年金もそれと同じだと言うのだ。
    予想よりも長生きしそうだとなったときに、年金をもらい始めればいい訳であり、受給せずに済むならそれが一番幸せなのだ。
    それが日本の年金制度なのだ。
    ただし人間には、平均寿命の他に「健康寿命」というものがある。
    健康で元気に動けるときに年金をもらうことを望むか、あるいは、運転も出来なくなり、ほぼほぼ家の中で暮らすようになっていても、年金はたくさんもらいたいとするかは、それぞれ各自で考えることなのだ。

  • #347

    六輔 (木曜日, 06 2月 2020 01:06)


    年金の話を続けるとするが・・・
    或る日、国の偉い人はこう言った。
    「日本はさらに人口が減り続け、65歳以上の人が4人に1人の時代から3人に1人の時代になる。そうなることで日本の将来は、働けなくなった65歳以上の高齢者1人をたった2人の現役世代で支えなければならなくなるのだ」と。
    新聞、テレビといったマスメディアは、何も疑うこと無く国の偉い人が言ったことをそのままの言葉で国民に伝えた。
    そんな暗い話を聞かされた若い現役世代の人達は、将来を悲観して心が折れそうになったが、国の偉い人はタイミングを見計らって国民にこう語り掛けたのだ。
    「将来、年金が破綻したりしたら大変なことになってしまいますよね。だから社会保障費を捻出するために税金を増やしますけど我慢して下さいね」と。
    国民の多くは、国の偉い人のその説明に消費税の税率アップを受け入れるしか無かったのだった。
    だが、ふと冷静になって考えてみると、国の偉い人はこうも言っていたことに気づいた。
    「年金破綻問題に対しては『マクロ経済スライド』という仕組みを既に確立してあるので、破綻するようなことはありません!」と。
    マクロ経済スライド・・・初耳の言葉であったので当然調べてみた。
    かいつまんで説明すると、将来の現役世代の保険料負担が重くなりすぎないように、保険料水準を法律で決め、さらには国が負担する割合を引き上げて、社会全体の公的年金制度を支える力(現役世代の人数)の変化と、平均余命の伸びに伴う給付費の増加というマクロでみた給付と負担の変動に応じて、給付水準を自動的に調整する仕組み、それを「マクロ経済スライド」という…らしいのだが、結局のところは、難しくて正直よく分からなかった。

    このように国の偉い人は、一方では「マクロ経済スライド」という仕組みを確立してあるので心配はいらないよと言っておきながら、もう一方では社会保障費を捻出するために消費税の税率アップを国民に納得させた訳だ。
    ようは、国の偉い人の思惑通りに国民の負担を増やすことで年金制度を保った訳だが、そうさせたところには“影の首謀者”がいることを知っておかなければならない。
    国の偉い人達に“国民の負担を増やすこと”で年金制度を維持させたのは、経済界、大企業の富裕層たちなのだ。
    それはどういうことかというと、年金の仕組みを説明すれば簡単に理解できるだろう。
    年金制度は、現役世代が納める保険料で運用されている訳だが、その保険料は本人と企業が半分ずつ支払うことになっている。
    だから企業側としては、保険料がアップさせられて企業の負担が増えることだけはなんとしても阻止したかった訳だ。
    「政治献金も払うし、次の選挙でも必ず応援するから、そこんとこよろしくね~」とか言いながら。
    世の中の仕組みはうまくできているのだ。

  • #348

    六輔 (木曜日, 06 2月 2020 21:08)


    また“公的年金2,000万円不足問題”に戻るが、このことは“人生100年時代”になったことに大きく影響しているのだ。
    金融庁は何を言いたかったかというと、新しい人生設計に変えようとしたときに、従来の人生設計から増えた20年間分を仕事に加算するのでは、80歳まで働き続けなければならないことになる。
    そうなったときには、おそらくはほとんどの人が80歳まで働く自信が持てずに、不安になるだけであろう。
    であるなら、“私的年金”を増やしたらいいのではないかと言いたかったらしいのだ。
    どうやら国の偉い人の説明を聞いているとそういうことらしい。
    “私的年金”とは、年金基金や企業年金などがそうらしいのだが、なるほど!国は“私的年金”を増やして欲しいがために“私的年金”への支払いを税控除の対象にしているではないか。
    ということは「国が推奨する新たな人生設計」は、20年教育→40年働く→60歳になってもう少し働ける人は年金をもらわずに働けるまで働いて!→そのあとは私的年金で補って、さらにその後の老後は公的年金に繋ぐという継続型をお勧めしたいのだろう。
    金融庁の仕事は、銀行と証券業の活性化だ。
    ようは、投資の世界をもっと盛り上げたいがために“公的年金だけでは2,000万円不足しますよ”と発表し、国民の貯金を“私的年金”などにまわしてもらいたかったのだ。
    それこそが金融庁が発表した“公的年金2,000万円不足問題”の正体であり、下手なセールストークであったがために国民を不安にしただけだったのだ。

    小生が就職した時代は、先輩達は55歳で定年退職を迎えていた。
    退職して直ぐに恩給をもらい始め、その頃の先輩達は現役時代から生活水準を下げることなく豊かな生活を続けられた。
    だが、時代は変わって、生活水準を下げなければ無理な時代になった。
    ものすご~くたくさん貯金してあるよという人は別だろうが。
    年金制度は、国民生活に大きく影響を与えるものであり、その制度・仕組みを決めるのは政治家達だ。
    国は、年金についてもっと説明責任を果たすべきだと考えるが、どうやら今の安倍政権では、それを避けているように思えてならない。
    ふと気づいたのだが、“消えた年金問題”が起きたのは一期目の安倍政権のときだったはずだ。
    それが原因で退陣に追い込まれたことがトラウマになっているからだとは思いたくはないものだ。
    もし、国が説明責任を果たさなかったとしても、国民には最後の切り札として“新聞”がある。
    新聞が国民の知る権利を守ってくれるはずなのだ。

  • #349

    六輔 (日曜日, 09 2月 2020 19:48)


    またいきなり話題を変えて申し訳ないが、一緒に中学生の頃に戻って選挙制度の歴史を辿ってもらいたい。
    「板垣死すとも自由は死せず」という言葉が、公民の教科書に載っていたのを覚えているだろう。
    自由民権運動を推し進め、後に大隈重信とともに日本最初の政党内閣を組織した板垣退助が残した言葉だ。
    そういった偉人たちの頑張りによって、日本国民に選挙権が初めて与えられたのは、1890年、明治23年のことだ。
    ただし国民の全員に与えられた訳ではなく、この時に与えられたのは、25歳以上の男子だけ、しかも税金をたくさん納めるている者だけだった。
    “貧乏人は口を出す資格なし”という時代だった訳だ。
    それから35年が経って25歳以上の男子全員に与えられ、20歳以上の男女に与えられたのは戦後になってからのことだ。
    何故、戦後になって急に女性にまで選挙権が与えられたのかというと、戦争で日本を破ったアメリカが、日本にはもう戦争をさせたくないと考え、女性に選挙権を与えることで子育てや福祉を主張する政治家を選ばせたかったからだと言われている。
    ただ、そんな政治的な背景があったことなど、学校の先生が教えてはくれなかっただろうが。

    その時代その時代の偉い人の頑張りで国民に平等に選挙権が与えられるようになったまでは良かったのだが、頑張った人達の願いも虚しく投票率は凄まじい勢いで下がり続けていった。
    そこで少しでも投票所に行く人を増やしたいと考えた国の偉い人は、投票時間を長くしたり、期日前投票の制度を充実させたりと幾つかの手をうったのだが、その最終手段として秘密兵器を投入した。
    なんと18歳から投票が出来るように年齢を引き下げたのだ。
    だが・・・それでも投票率向上の起爆剤になることは無かった。
    こうして日本の選挙制度は投票率が元に戻ることも無く今に至っている訳だが、それでも今の政治家たちは声を大にして叫ばない。
    「若者よ、選挙に行け!」と。

    こんな話を聞いたことがある。
    デンマークの若者たちの投票率はすさまじく高いのだと。
    デンマークでは教育にかかるお金は、大学卒業まで無料であることはもちろんのこと、なんと大学生には、勉強に集中させるという目的で国が月7万円のお小遣いを出してくれるのだそうだ。
    なるほど解せる話だ。
    自分たちの大切な権利を守ろうとして、若者は選挙に行くだろう。

    少子化の原因を、やれ晩婚化だ、未婚化だと今の現役世代のせいにしている政治家はたくさんいるが、そういう国にしてしまったのは政治家自身であり、それに気づいていないがために自分の身を削ってでも日本を守ろうとはしない、それが今の政治家なのだ。
    ただし・・・もう一度言うが、そういう政治家達を選んでいるのは高齢者たちなのである。
    決して政治家達が悪いのではない。
    そういう政治家を選んでいる国民が悪いのだ。

    ここまで話しておきながら、いまさら政治家を擁護する訳ではないが、国の将来を真剣に考えている政治家はたくさんいるはずなのだ。
    様々なことを学んで国のために働きたいと思っている政治家もたくさんいるはず。
    だが、民主主義において多数決のルールのもとでは何も出来ない政治家もたくさんいれば、長いものに巻かれているだけの政治家もたくさんいる。
    特別どこの政党を非難している訳でも応援している訳でもない。
    ようは、若い世代に選ばれた政治家でなければ、国は変わらないだろうと言っているだけなのだ。

    投票は義務か、それとも権利か。
    答えはもちろん権利だ、だから投票に行かなくても罰せられない。
    選挙権行使を法律で義務化すべきだと唱える人達がいるが、法律を作るのが政治家である以上、法整備されることを期待しても無理だろう。
    であるならば、メディアに期待するしかないのだが、選挙の前に、若者の気持ちを変えさせるようなテレビ番組も新聞記事も見かけたことが無い。
    学校の先生も教えてはくれない。
    お利口にしつけられた日本の若者たち(寝た子)を起こさせないために新聞だけが軽減税率の対象になった訳ではないのであろうから、新聞が世論を突き動かしてくれることを期待するしかないのだ。
    新聞社が政治家達に忖度(ソンタク)することなどあり得ない…はずなのだから。

  • #350

    六輔 (月曜日, 10 2月 2020 19:58)


    さて、いよいよ忖度(ソンタク)という言葉が出てきてしまった。
    「忖度」は、2017年流行語大賞に選ばれた言葉であるが、注目されるようになったきっかけが「森友学園問題」であったことから、言葉自体に悪いイメージがついてしまった。
    忖度とは、とても素敵な日本語であるはずなのに、政治の世界のゴタゴタのせいで悪いイメージの言葉となってしまって、「忖度」からしたらえらい迷惑な話なのだ。

    さて、どうして「忖度」という言葉がこれだけ騒がれるようになったのかを説明しようとした時に、避けて通れないのが「憲法改正問題」だ。
    これからその理由を知っている限りで話すが、大事なことを先に言っておく。
    小生は改憲派と護憲派のどちらでもない。
    我々には知らされていないことがあまりにも多すぎて、判断がつかないというのが正直なところだ。

    大概の人は、「憲法改正」について最近の国会で色々と議論されていることは知っているだろう。
    その国会でよく耳にする言葉が「憲法9条改正」だ。
    日本は、第二次世界大戦後、再び戦争の惨禍を繰り返すことの無いように決意し、平和主義の理想を掲げる日本国憲法の第9条に、「戦争の放棄」、「戦力の不保持」、「交戦権の否認」を定めた。
    ただし、「定めた」と言ったが、実際のところは第二次世界大戦で敗れ、GHQ(連合国総司令部)の言いなりに「作らされた憲法9条」なのである。
    戦争に敗れはしたが、日本は独立国である以上、主権国家としての固有の自衛権を持つべきだと、そう考えたのが自民党だ。
    そして最初にその先頭に立ったのがときの内閣総理大臣・岸信介氏、そう、安倍晋三氏のお爺ちゃんだ。
    自主的な憲法に変えることが自民党の悲願であるのだと、岸信介氏以降これまで数々の自民党総裁が憲法改正に挑んできた。
    だが、その度ごとに高い壁に阻まれ続けてきた。
    それは、憲法を改正するための条件が、異常にハードルが高いためだ。
    衆議院の3分の2以上、参議院の3分の2以上、そして国民投票で2分の1以上の同意を得ることが憲法改正の条件となっているためだ。
    まずは衆参両院で3分の2以上の同意をとること自体が厳しかったが、それでも決して諦めない政治家がいた。
    そう、岸信介氏の孫、安倍晋三氏だ。
    安倍氏は、祖父の叶えられなかった憲法改正を自分の政治信条とし、必ずやり遂げることを堅く心に誓っていた。
    安倍氏は、初めて内閣総理大臣になったとき、早々に動き出した。
    当時、自衛隊は防衛庁にあったのだが、防衛庁長官は防衛庁という組織のトップにすぎず「国の防衛」という重要な仕事を直接できる立場にはなかった。
    そのため安倍氏は、北朝鮮の弾道ミサイル発射や湾岸戦争、米国同時多発テロなど、世界の様々な脅威に的確に対応するためにという理由を訴えて防衛庁を防衛省に格上げしたのである。
    さらには引き続き憲法改正に挑もうとしたのだが、色々と焦り過ぎたのか、周りにつぶされ退陣に追い込まれていき、最後は突然の辞任表明で第一次安倍内閣は幕を閉じた。
    それから充電期間を経て息を吹き返した安倍氏は、満を持して再び内閣総理大臣に返り咲くと、二度目は慎重にことを進めていった。
    まずは、アベノミクスなるものを打ち出したのだ。
    国民の目を経済に向けさせ、それに成功したことをアピールした安倍氏は、いよいよ「憲法改正」に向けて動き出したのである。

  • #351

    六輔 (火曜日, 11 2月 2020 21:01)


    安倍氏にチャンスが訪れたのは、2017年の衆院選だった。
    与党が3分の2以上の議席を獲得することが出来たのだ。
    千載一遇のチャンスと考えた安倍氏だったが、目の前に大きく立ちはだかる障害が残っていた。
    そう、国民投票で2分の1以上の同意を得ることだ。
    時代が移り変わっても、世論の「憲法9条改正」がそのまま戦争に繋がるイメージを払拭することは難しいと言わざるを得なかった。
    安倍氏は考えた。
    「そうだ!国民投票が難しいのなら、憲法を改正するための条件を定めた憲法96条の条文を“国民投票は必要ない”と、変えてしまえばいいのだ!」と。
    安倍氏は妙案だと自画自賛した。
    だが、さすがにそれは禁じ手でまずいだろうと改憲派の者までもが騒ぎ出したのだ。
    これまで味方であった者達にそう言われてしまっては、さすがの安倍氏も96条の改正は断念するしかなかった。

    その次に安倍氏が考えたのは、憲法を改正するまでの間も有事に備えて“集団的自衛権”を行使できるようにしておこうということだった。
    自衛権が否定されない以上、その行使を裏付ける自衛のための必要最小限度の実力を保持することは憲法上認められるものだとしたかった安倍氏がとった行動がすごかった。
    なんと、内閣法制局にメスを入れたのである。
    内閣法制局とは、簡単に言えば「法の番人」だ。
    法律の条文を解釈しようとしたときに「そういう解釈をしてよいか、あるいはダメなのか」、それを判断する機関が内閣法制局なのだ。
    安倍氏は気づいた。
    「なんだ、内閣法制局のトップは私が任命出来るじゃないか!それなら現在の憲法のままでも集団的自衛権を容認できるという考えの者をトップに任命すればいいんじゃないか」と。
    直ぐにそれは実行され、安倍氏の思う通りに動く者が内閣法制局のトップに座った。
    「しめしめ」と思った安倍氏だったが、念には念を入れよと万全を期した。
    なんと安倍氏は、内閣人事局までも意のままに動かせるようにしたのである。
    内閣人事局とは、官僚の人事を司る機関だ。
    そう、官僚達が一番へこへこする機関だ。
    早い話が、国のお役人達は、内閣に首根っこを掴まれてしまった訳である。
    内閣の機嫌を損ねれば、自分がどこに飛ばされるか分からないと危機感を持った官僚たちは、すぐさま始めたのである。
    そう、政治家達へのご機嫌取り・・・忖度(ソンタク)だ。

    「忖度」という言葉が注目されるようになったきっかけが「森友学園問題」であったと言ったが、実は、その陰に隠れてもっと大きな忖度があったのである。
    それは、国会で野党の追及にあった内閣法制局がこう言ったのである。
    「集団的自衛権を「法律上あり」と判断した時の会議録はどこにも残っていません」と。
    このことこそが真の忖度だったのだ。
    だが、新聞の報道によって国民の関心は「森友学園問題」に向けられ、「集団的自衛権に関する会議録不明問題」で内閣法制局が国民の非難の矢面に立つことは無かったのだった。

  • #352

    六輔 (水曜日, 12 2月 2020 19:34)


    国家緊急権というものがある。
    戦争や災害など国家の平和と独立を脅かす緊急事態に際して、政府が平常の統治秩序では対応できないと判断した際に、憲法秩序を一時停止し、一部の機関に大幅な非常措置をとることによって秩序の回復を図る権限のことだ。
    その権限の根拠となる法令の規定が“緊急事態条項”と呼ばれ、憲法を改正する理由のひとつとなっている。
    最近の国会で自民党は、非常事態の際に政府に権限を集中させ、国民の権利を制限すると言っている。
    権限の集中は、確かに有事に対して迅速に対応が可能となるなど、効果的な場面もあるが、一歩間違えれば暴走してしまうというリスクもある。
    この権限を悪用した有名人物がドイツのヒトラーだ。
    その名を聞けば、あとの説明は割愛してもいいだろう。

    ここで尋ねるが、憲法を改正しなくても、国は徴兵令を出すことだって出来るということを知っているか?
    「笑わせないでよ!戦争なんか起きる訳ないし、憲法が私たちを守ってくれているんだから!」
    と、何も知らない人達の高笑いが聴こえてきそうだが、嘘ではないのだ。
    まず、これだけは認識しておくべきだ。
    戦争は、絶対に起きないという保証はどこにもないということ。
    いつ、核ミサイルが飛んできて、それをきっかけに戦争が始まっても不思議ではないのだ。

    確かに現在の憲法には、徴兵令を否定しているとされる条文がある。
    憲法18条だ。
    「何人も、いかなる奴隷的拘束を受けない。また、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない」という条文だ。
    だが、憲法18条があろうとも、国が国民を強制的に徴兵するのは簡単なのだ。
    法の番人である内閣法制局に「国を守る活動は苦役に当たらない」と解釈させればいいだけだからだ。
    忖度の大好きなお役人さんが内閣の人に言われれば、「そうですね、国を守る活動は苦役には当たりませんよね!」と解釈するかもしれない。
    そうなれば、徴兵令に従わなければならなくなるのだ。

    今の政府の考えが悪いと言っているのではない。
    いつどこで核ミサイルが飛び交うのか分からないのが、今の世界情勢なのだから、それにしっかりと備えなければいけないだろうと考えるのは当然のことだ。
    「今の自衛隊でも、孫の命は守ってもらえます!」
    と、100%の自信を持って断言するジジ・ババがいたとすれば、よほどのバカだ。
    だがしかし、バカなジジ・ババが悪いのではない。
    何故なら、ジジ・ババは世界で起きている様々な危機的状況を知らされていないだけだからだ。
    ようは、自分達の平和に対して関心を待たせようとしないメディアに責任があるのだ。
    国民の不安をあおることはいけないことか。
    いやそうではないはずだ。
    今の日本政府が、集団的自衛権と緊急事態条項を意のままに操っている現在、日本国民は、もっと国の安全に対して関心を持たなければいけないはずだ。

  • #353

    六輔 (木曜日, 13 2月 2020 07:10)


    小生は、生涯唯一無二の親友を失くしている。
    彼とは、高校1年生のときに出会い、高校を卒業すると同時に同じところに就職し、どんな時でも一緒にいてバカをやり、互いに支え合いながら生きてきた。
    彼はバカがつくほど正直者で、彼が人を裏切ったり、人を騙したりしたところを見たことが無い。
    自分のことより他人のことを大切にして生きてきたそんな彼の14回目の命日がもう間もなくやって来る。

    それは2006年2月19日、月曜日の寒い朝だった。
    出勤準備を終えて何気に携帯をみると、数えきれないほどの着信があったことに、何かただならぬ事があったのではと、不安なままにその当時職員課に勤務していた二つ年下の後輩に電話をいれた。
    『どうした?何かあったのか?』
    小生からの折り返しの電話に応えた後輩は静かに言った。
    「先輩・・・聞いてないんですね…」
    『えっ?どうしたんだよ!』
    「・・・亡くなったそうです」

    小生は後輩の言葉を信じぬまま、親友の自宅へと向かっていた。
    「嘘だ!嘘に決まってる」
    だが、親友の自宅に着いて、それが嘘ではなかったことを知った。
    「おい・・・おい、起きろよ! なに眠ってんだよ!」
    怒るような言葉を発していたのだと思う
    あとから駆けつけてきた友人に止められたことを覚えている。

    小生は、親友の死をずっと受け入れられないまま、悲しくてたまらなくなると、直ぐに親友の墓前にいって、一人で一方通行の会話をしていた。
    そんな日々を10か月もの間過ごしながらその年の年末を迎えていた。
    例年、あまり観ないNHK紅白歌合戦を、その年に限って観ていたときだった。
    初めて観るテノール歌手が登場した。
    クラシック音楽など全く関心の無かった小生は、
    「秋川雅史? 千の風になって?・・・知らないよ」
    と、チャンネルを替えようとしたが、何故か流れてきたイントロにその手を止められたのを覚えている。
    そして小生は、流れてきたテノール歌手の美声に、哀しみとも喜びともいえぬ感情に襲われた。

    「わたしのお墓の前で
    泣かないでください
    そこに私はいません
    眠ってなんかいません
    千の風に 千の風になって
    あの大きな空を 吹きわたっています」

    小生は、家族の目も気にせず大粒の涙を流していた。
    次から次へと溢れ出る涙に、親友の死を受け入れられない哀しみを洗い流してもらえたような、そんな感覚になっていた。
    おそらくは、その時に始めて思えたのであろう。
    「そっか…あいつは俺の中でずっと生き続けているんだよな」と。

  • #354

    六輔 (金曜日, 14 2月 2020 06:41)


    NHK紅白歌合戦の放送終了後、秋川雅史氏のもとへ多くのメッセージが寄せられたそうだ。
    「家族を亡くした悲しみに癒されました」
    「病気と闘う力をもらいました」
    全て“千の風になって”という曲の歌詞に対する感謝のメッセージだったそうだ。
    小生も同じ気持ちだった。
    あの時にあの曲を聴いていなかったら、もっと哀しい日々を送っていたに違いないと。
    そんな小生が、数年の月日が経ってから信じられないニュースを目にしたのだ。
    それは“千の風になって”で社会現象を起こさせたNHKに対してクレームが殺到しているというニュースだった。
    「NHKが放送したせいで、墓石が売れなくなった」
    「NHKが放送したせいで、お彼岸のお墓参りが激減した」
    「NHKが放送したせいで、お供えの花が売れなくなった」
    まったく理不尽な話だ。
    お彼岸に供える花の売り上げが落ちたことで、店が閉店に追い込まれたとでも言うのか。
    売り上げが落ちた理由の全てが“千の風になって”だと言うのか。
    直ぐに花屋を営む友人の顔が思い浮かばれた。
    「花屋は誰もそんな理不尽なことを言うのか?」
    答えは直ぐに見つかった。
    「我が友にそんなことを言う人はいない」と。
    人間とは賢い生き物だ。
    歌を歌った秋川雅史氏ではなく、放送したNHKに対してクレームを入れてくるのだから。
    おそらくは「自分はNHKの受信料を払っているから!」とでも言うのだろう。
    まぁ、立派な権利の主張だ。

    また、こんな話もある。
    小生の生れ故郷に「とちテレ」というTV局がある。
    そこの女子アナウンサーが、ちょっとでも派手な洋服でニュースでも読もうものなら、TV局に直ぐにクレームの電話がかかってくるというのだ。
    「気分を害した!おかげで体調を悪くした、どうしてくれるんだ!」と。
    こう言った電話が1本や2本ではないというのだから驚かずにはいられない。
    「一生、クレーム言って生きていけ!」と、ぶん殴ってやりたくなったが、それが出来ないのが日本だ。
    何故なら、言論の自由「言いたいことを言うこと」が認められている国だからだ。
    手を出した方が罰せられて、ことが終わるだけだ。

    ずっとこれまでメディアに対する不満めいたことを述べてきたが、NHKや「とちテレ」に対してそんな理不尽なクレームを平気で言ってくるような、視聴者たちもまた欠陥品なのだ。
    人は、日々情報に埋もれて生きている。
    正しい情報、間違った情報、賛辞の声、哀れむ声、文句・・・
    様々な情報を得たときに、それが正しい情報なのかと自分なりに咀嚼し、自分なりに考え、自分なりの意見を持つようになれば、悪意を持って放たれた情報によって人が傷付けられることが減っていくに違いないはずだ。

    物語の進行を中断し、税金や選挙、年金の話などもしてきたが、言いたかったことは単純だ。
    マスメディアの存在の重要性だ。
    マスメディアには、人の知る権利を守る責務がある。
    マスメディアが何かに忖度し、あるいは恐れをなして正確な情報を隠蔽してしまうようなことがあれば、国民は世界で起きていることや自分に降りかかるやもしれない危険までも知ることが出来なくなってしまうのだ。
    そのことを良く理解したうえで、我々には大事な役割がある。
    そう、マスメディアが報道機関としてきちんと機能しているのかを監視する役割だ。
    決してそのことを忘れてはならない。
    新聞が税の特別な扱いを受けるような時代になってしまったのだから。

  • #355

    六輔 (土曜日, 15 2月 2020 20:33)


    ジャイアンツのスカウト・福田が、紘一と会って初めて話すことが出来たのは、9月に入って後輩たちの新人戦が行われている球場のスタンドだった。
    『瀧野瀬君だよね?』
    「…はい」
    『突然話しかけてゴメンね、ジャイアンツのスカウトの福田といいます。初めまして』
    球場の観客席に座って、後輩たちの新人戦が始まるのを待っていた紘一は、隣に座って話しかけてきた男が、福田だと分かった途端に立ち上がり、そして両腕を伸ばして姿勢を正した。
    「あっ、は、初めまして。瀧野瀬紘一です。監督から話を聞いています。今日、こうやって後輩たちが新人戦に出場できるようになったのは、ジャイアンツの福田さんがいろいろと動いてくれたからだと…」
    『そんなことはいいんだ。まぁ、座ってくれよ、目立つしさ(笑)』
    「あっ、はい」
    ゆっくり座った紘一の顔を覗き込んで福田は尋ねた。
    『隣で一緒に試合観戦させてもらってもいいかい?』
    「あっ、はい」
    『こんなところまで追いかけてきてゴメンなっ。どうしても君と野球の話がしたくてさ…』
    「えっ?僕と野球の話をですか?」
    『うん。君のプレイをずっと見てきて…本音を言ってしまえば、君には是非ジャイアンツのユニフォームを着て欲しいという気持ちで一杯なんだけどな・・・まぁ、その話をする訳にはいかないようだから・・・ただ、君とはどうしても野球の話がしたかったんだよ…いち野球人としてね』
    「いち野球人として…僕と野球の話を…ですか」
    『あぁ。君の野球に取り組む姿勢に惚れ込んでいたんでね・・・ところで、本当に良かったね、東庄高校が無事に新人戦に出場出来て』
    「はい。後輩たちはただ単純に野球が好きな奴ばかりなので、大会に参加出来ることになって本当に良かったです。ありがとうございました」
    『さっきも言ったが、礼など言わないでくれ! 君に恩を売る気などないんだからさ…』
    「でも・・・はい」
    『こうしてスタンドで観ているより、グランドに立ってプレイしたいんじゃないのかい?』
    「あぁ…練習していないので、ゴロを上手くさばくことも出来ないでしょうし、バットを振ってもちゃんと当たらないと思います」
    福田は、紘一が甲子園であれだけの守備とバッティングをしていながら、そこまで謙遜して言ったことに驚きを隠せなかったが、話を合わせるように笑みを浮かべて応えた。
    『甲子園から帰ってきてまだ1ヶ月しか経っていないじゃないか(笑)』
    「そうかもしれないですけど・・・でも、練習は嘘をつかないですもんね」
    そう言って、グランドを見つめる紘一に、福田はこう言った。
    『君は、本当に野球が好きなんだね』と。

  • #356

    六輔 (日曜日, 16 2月 2020 19:53)


    両チームの選手が試合前の挨拶のためにベンチ前に出てきた。
    「あのっ…ちょっとすみません」と、福田に断りをいれて立ち上がった紘一は、ホームベース前に整列した後輩たちに合わせるように姿勢を正した。
    「始めます!」の主審の声に合わせて頭を下げた紘一は、続けて相手チームのベンチの方に体の向きを変えてもう一度丁寧に一礼した。
    『本当に君は礼儀正しいね。そういうことが自然と出来るんだから』
    「野球人として当然のことをしているだけです」
    『頭を深く下げて礼儀を重んじているようにしている学校はたくさんあるけど・・・観ていれば分かるよ、心の底から礼を尽くしているのが』
    「野球って、そういうところを重んじるスポーツですもんね」
    『そっか。学生野球では一番大切なことだな』
    「えっ?学生野球だけではなく、野球をやる全ての人にとって大切なことですよね?」
    『そっか、そっか。これは一本やられたな(笑)』

    福田は、挨拶を終えた紘一が席に座るのを待って話し始めた。
    『一切のアピールをしないという東庄高校のチーム方針は、こういった礼儀を重んじるところからきているのかい?』
    「えっ?一切のアピールをしない?・・・ちょっと、それは少し違う感じがしますけど…」
    『違う?』
    「はい。東庄高校がアピールをしないのは、一度、審判さんにジャッジを下していただいた『アウト・セーフ、ストライク・ボール、フェア・ファール』などのプレイに対してだけです。例えば、ランナー2塁の場面でヒットが出て、2塁ランナーが3塁ベースを踏み忘れてホームインしていたとしたら、そのことをサードの選手が3塁審判にアピールをしないとアウトにはならないですよね」
    『あぁ、確かにそうだね』
    「そういった時には、しっかりアピールをします。だから一切のアピールをしないというのは少し違うと思いますけど、でも・・・この場合って、3塁審判の方は2塁ランナーが3塁ベースを踏み忘れていることをしっかり確認しているからこそ、アウトとジャッジが出来るんですよね・・・でしたら守備側からアピールするのではなく、審判さんの方からホームインしたランナーに対して「君は3塁ベースを踏んでいないからアウトだよ!」と、言ってもらえるようになってくれたらいいなぁって思うんです。なんか、「僕は知ってるけど、守備側がアピールをしてこない限り、審判は黙っているよ!」って…そう感じてしまって、野球のルールの中でその辺だけが少し残念だなって思います」
    『なるほどなぁ…』
    「バッターのハーフスイングも同じだと思うんです。キャッチャーが主審にアピールをすれば主審から1塁審判さんにリクエストされて、判定が覆ることがありますけど・・・このことも、主審の方はスイングしているかどうかはジャッジせずに、ストライク・ボールだけのジャッジを先にして、もし、主審がボールとジャッジをしたときに1塁審判さんがスイングしていると思った時には、1塁審判さんが後からストライクにジャッジを変更するというルールにならないものかぁって思ったりもします」
    『なるほどぉ。そんなふうに考えたことも無かったけど…そうなったら野球がもっとスマートになるなぁ』
    「東庄高校野球部は、審判さんが一度下してくれたジャッジに対してはアピールをしないようにしようって決めてあるんです」
    『それは、審判さんの威厳を守るためにかい?』
    「もちろんそれもあります。けど、僕たちがそうしようって決めたのは、野球を楽しむためにです。審判さんのジャッジは絶対です。その絶対的なジャッジがあるからこそ自分たちは試合で真剣勝負が出来るんだと思うんです。他にも僕たちが野球の出来る環境を作ってくれているグランドを整備してくださる方など、全ての方への感謝の気持ちがなかったら、野球をやる資格はないんだと思うんです」
    『君たちはそこまで考えて・・・だからなんだねぇ…君たちの野球を観ていて感動出来るのは』

  • #357

    六輔 (月曜日, 17 2月 2020 18:58)


    話をすればするほどに、福田の紘一に対する評価は高くなるばかりだった。

    『瀧野瀬君…』
    「はい」
    『東庄高校の守備体形について、聞かせてくれないか?』
    「守備体形ですか?あっ、はい…どんなことですか?」
    『東庄高校は思いきった守備体形をとるよねぇ』
    「思いきった?…ですか? もし、他のチームがあまりやらないという意味でそう言ったのだとすれば、確かにそうかもしれないですね」
    『リスクを恐れずにと言った方が良かったのかな?』
    「リスク? 例えば、極端な前進守備をとっているところに頭を越されたら長打になってしまうとか…そういうリスクのことですか?」
    『そうだね』
    「自分たちはそれをリスクだとは考えないようにしているんです。東庄高校の守りは、失点を少なく出来る確率の高い方を選択しているだけです。もちろん予想と違ったところに飛ぶこともあると思いますけど、それを恐れずに先にある可能性にトライしているだけです」
    『なるほどなぁ…でも、どうしてあそこまで勘が当たるのか不思議でしょうがないんだ』
    「決して勘でそうしている訳ではないんですけど…」
    『そっか、そっか。勘ではなく、いろんなことを分析して導き出した答えで守っているんだね』
    「はい」
    『いやぁ、でも一度や二度ではなく、ほとんどの守備機会が当たるんだから、到底真似出来るものではないよ。ひとつ聞いてもいいかな?』
    「はい、なんですか?」
    『東庄高校は“野球のセオリー”に対してどう考えているんだい?』
    「“野球のセオリー”ですか? 例えば・・・ノーアウト・ランナー2塁のような場面では送りバントをすべきだとか、ノーボール・ツーストライクになったら、1球ボールを投げるとか…そんな感じのことですか?」
    『そうだね』
    「攻撃のときであれば、一番得点につながる作戦、守備のときであれば、失点を防ぐ最善の方法、いくつもある作戦のうち、一番多くの人が確率が高いと思っている“定番”の方法。それをセオリーと呼んでいるんだと思いますけど…」
    『確かに…瀧野瀬君の言う通りだね』
    「野球と言うスポーツは、ピッチャーの投げる1球ごとに“間” があって、考える時間のある“頭を使うスポーツ”ですよね」
    『そうだね』
    「そのことでベンチだけではなく、観ている人も『ここはバントだな!ここはスクイズでまずは同点にすべきだな!』って、自分なりに作戦をたてる時間が出来ることになって・・・セオリーを無視して得点出来なかったりすると“やっぱりセオリー通りに攻めるべきだった”と、場合によっては監督が批判の矢面に立つことだってありますよね」
    『あぁ、確かになぁ…』
    「失敗したときのことを恐れて確実に行こうと、セオリーと言われる戦法で攻めてくるチームはたくさんあります。でも、東庄高校にはセオリーなんてありません。その時その時に最善だと思える方法で攻め、守っています。例えば、ランナー2塁の場面では、ランナーを進めるために右方向への打球を意識的に打つチームは多いと思いますが、東庄高校はそれを「チームバッティング」だとして約束事にはしていません。その時のバッターがランナーを進めるという意識を強く持ってさえいれば、どこに打ってもいいんです。右方向に打たれるのを嫌って右バッターのインコースに投げてきたときには、思いっきりレフト方向に打っても・・・その結果、ランナーを進められなかったとしても、それはあくまで結果論です。それが東庄高校の野球です」
    『なるほどなぁ』

  • #358

    六輔 (水曜日, 19 2月 2020 07:16)


    福田は、思った。
    『これこそが瀧野瀬君の魅力なんだ』と。
    もっともっと紘一と話したいと思った福田は、スカウトであるという自分の立場を忘れて話を続けていた。

    『僕は東庄高校の試合を何試合も観ているんだけど・・・失敗を恐れないというか、どんな場面でも決して逃げずに勝負するといった野球…特に君のプレイを観るのが好きでさ、甲子園の、いやっ、地方大会からの君のプレイに魅了されっぱなしだったよ』
    「そんな魅了だなんて。たまたま練習通りに守れて、練習通りに打てただけです」
    『たまたま練習通りにって・・・あれだけのプレイとバッティングをしていながら、決して自分のプレイに驕(おご)らない選手も珍しいよ、本当に(笑)』
    「自分は、小学校3年生から地元のスポーツ少年団で野球を始めたんですけど、その時の監督の教えをずっと守っているだけです」
    『ほぉ~、どんな教えだったんだい?』
    「野球に限らず、どんな時でも“自分が一番だ”とは思うなと教えられました。自分が一番だと思っている人は、自分が正しく、間違っていないという思いが強くなって、考えの違う人と必ず言い合いになり、しかも相手よりも優位に立とうとする。自分が一番だと思い込んでいると、誰かが何かをしてくれたときに「やってくれてありがとう」という感謝の気持ちを持つことが出来ない人になってしまい、しかも自分よりも優れている人を見ると嫉妬にかられてしまう。「分からない」、「知らない」、「出来ない」と人前で言えない人になってしまって、結局はそのことで犯したミスが自分に跳ね返ってくる。野球が上手くなりたいと思っているなら、どんな時でも自分が一番だと思わないような人になりなさいって、そう教えられました」
    『なるほどなぁ・・・君の野球に対する謙虚な態度は、もう小学校の時から教えられていたんだなぁ』
    「はい。常に謙虚でいなさいと教えられました」
    『小学生に対して? 謙虚でいなさいって?』
    「はい。その時には小学生にも理解できる言葉で教えてくれていたんだと思いますけど・・・自分の中にも周りの人と同じように弱さや情けないところがあると認められるからこそ、周りの人の悪い点だけではなく、その人の優れた点や良さを受け入れて尊敬することが出来るんだと、そう教えられました」
    『なるほどぉ』
    「謙虚になって自分の弱さを知るということは、決して自分が他の人より劣っているんだと落胆したり、諦めることではないんだと、小学生でも理解できるように」
    『そっかぁ』
    「人は誰でも弱さや欠点があって、出来れば避けて通りたいと願うもの。でも逃げていたんでは自分の欠けているところを克服していくことは出来ない。自分の弱いところを受け入れて、相手の優れた点に目を留め、さらにそれを自分も吸収しようとする姿勢でいればこそ人は成長できるんだと教えられました」
    『瀧野瀬君は、素晴らしい監督さんに教わったんだなぁ』

    この時の福田は、白進学院の監督と紘一のことを話した時のことを思い出していた。
    『監督言ってたよなぁ…瀧野瀬君は、一人の野球人として人間的にも素晴らし選手だと。監督が惚れ込んで太鼓判を押してくれる訳だよ、ここまでしっかりした考え方を持っているんだからな』
    そんなことを考えていると、今度は福田の頭の中に、自分がプロ野球の世界にスカウトした多くの選手の顔が思い浮かばれてきた。
    それは、鳴り物入りでジャイアンツに入団してきたが、結局は1軍で活躍することなくプロ野球界から姿を消していった選手達の顔だった。

  • #359

    六輔 (水曜日, 19 2月 2020 20:01)


    野球をしている人なら多くの人が憧れ、目指しているのがプロ野球選手だ。
    しかし、簡単に誰もがなれる訳ではない。
    どんなに練習しようが、どんなに努力しようが、プロになれるのはごくわずかな選ばれた人間だけだ。
    高校生、大学生の野球部からプロ野球選手になれるのは、約3,000名に1人、0.03%の確率だと言われている。
    極めて低い数字だ。
    だが、その狭き門を通ったからと言って将来を約束されている訳でない。
    プロの選手になった者の集団の中で、さらにレギュラーを勝ち取る必要があるのだ。

    福田の隣の席では、紘一が後輩たちの躍動している姿に目を輝かせていた。
    「いいぞ~坂田!さすがは新キャプテンだぁ!」と、嬉しそうに声援を送る紘一の横顔を見ながら、福田は昨年のドラフト自由獲得枠でジャイアンツに入団した内海投手のことを思い出していた。

    今のドラフトは、プロ野球の球団が欲しい選手を指名する制度であって、当然、他の球団と競合した時には、くじ引きで交渉球団が決定される仕組みだ。
    だが、その当時のドラフト制度は、1球団あたり2名まで、社会人と大学を卒業した選手に限って希望する球団を選手の方から指名することが許された。
    一部の人間にだけ“逆指名”という特権が与えられていたのである。
    当時、高校3年生だった内海投手は、3年前のドラフトでオリックス・ブルーウェーブから1位指名されたが、ジャイアンツ入りを熱望し指名を拒んで社会人へと進んだ。
    そして3年経って晴れて“逆指名”という特権を得た内海投手は、ジャイアンツを逆指名し、鳴り物入りで入団してきた。

    その時に内海を担当していたのが福田だった。
    「内海君…」
    『はい』
    「君をドラフト1位で指名させてもらうことが決まったよ」
    『本当ですか、ありがとうございます』
    「いいか、内海君・・・プロ野球の世界は甘いものではないからな!気を緩めることなく努力を続けてくれよ!」
    『はい、福田さん!』

    だが内海投手は、自由獲得枠で指名されジャイアンツに入っただけで満足してしまい、福田との約束を守らず練習をあまりしない選手になってしまったのである。
    そう、まさに“天狗”になってしまったのだった。
    そんな内海投手に初心を取り戻させたのは、当時、末期がんで闘病中だった祖母の存在だった。

  • #360

    六輔 (木曜日, 20 2月 2020 19:36)


    それは、ジャイアンツの新人選手入団発表の日のことだった。
    10人の選手が、真新しいユニフォームに袖を通し、堀内監督と一緒にひな壇に並んでいた。
    内海は、球団の期待の大きさを示すように、背番号26を背負って、堀内監督の横に立って報道陣のリクエストに応えてフラッシュを浴びていた。
    そんな内海を会場の隅で見守っていたのが内海の祖母だった。
    祖母は、がんの痛みに耐えながら孫の入団発表の会場に駆け付けていたのだった。
    「おばあちゃん…」
    『あれぇ、スカウトの福田さんでしたよねぇ』
    「はい。今日はお孫さんの晴れ舞台ですね」
    『はいぃ。可愛い可愛いと甘やかして育ててしまったところもあるので、心配でしてねぇ…』
    「お孫さんなら大丈夫ですよ。しっかり練習をして直ぐに1軍で投げている姿をおばあちゃんに見せてくれますよ。そう、私と約束してくれましたからね」
    『そうでしたかぁ。よろしくお願いしますねぇ』
    入団会見が終わって、内海が祖母のところに飛んできた。
    「おばあちゃん…来てくれたんだね、ありがとう」
    『頑張ってね、テレビで応援してるよ』
    「任しといてよ、おばあちゃん!」

    そんな約束を交わしたおばあちゃんは、内海の1年目のシーズン途中で亡くなった。
    孫が一軍で投げている晴れ姿を一度も見ることなく。
    おばあちゃんの死に、絶望の淵に追いやられた内海投手は、野球を辞めることまで考え始めていたが、それを救ったのが福田だった。
    『内海・・・お前に言ってあったよな。天狗になって通用する世界ではないからなと』
    「…はい」
    『お前は、おばあちゃんと約束したんだろう?一軍で投げている姿を必ず見せると』
    「・・・はぃ」
    『だったら守れよ!』
    「えっ?・・・だって、もうおばあちゃんは・・・」
    『天国で見守ってくれているおばあちゃんに見せるんだよ!内海』
    「福田さん・・・」
    内海投手はそれ以来、全くの別人になった。
    プロとしてあるべき姿に気づいた内海投手は、日本一の人気球団から自由獲得枠で指名されたという肩書を投げ捨てた。
    2年目以降、どれだけの活躍をしたのかという説明は割愛するが、最多勝を獲った時でも「僕は自分のことを“すごい”と思ったことはありません。最多勝もたまたまです」と、球界のエースになった男が大真面目な顔でそう言った。
    後輩の模範となるよう、自らの行動を正し、報道陣に対しても丁寧な対応をとるようになった内海投手は、誰からも一目置かれる人間性を作って、長い期間、ジャイアンツのエースとして活躍したのだった。

  • #361

    六輔 (金曜日, 21 2月 2020 20:10)


    福田は、内海投手と紘一を重ね合わせていた。
    「内海が瀧野瀬君のような謙虚さを忘れずに1年目から練習を続けていたら、おばあちゃんに1軍で投げている勇姿を見せてやれたんだよな」
    と、入団発表のときに見せたおばあちゃんの笑顔が思い出され、一筋の涙が福田の頬を伝った。

    プロになってしまえば、内海投手のように天狗になって練習をおろそかにしても、それは自己責任であって、誰も咎めてはくれない。
    同じチームの選手を“蹴落とす”ということはしないまでも、ライバルが落ちていくことは、その分自分にチャンスが巡ってくることになるからだ。
    ピッチングコーチが一生懸命に説教しても、馬耳東風、馬の耳に念仏となる選手は少なくない。
    高校からプロ野球の世界に入ってくる多くの選手は、皆、中学、高校と注目され続けてきた選手ばかりで、ほとんどの選手がチームの中心選手となって、悪い言い方をしてしまえば、チヤホヤされて野球をやってきた選手達だ。
    全ての選手が、プロに入ってそれで満足してしまう訳ではないが、中には、1軍で活躍する超一流の選手と自分の実力の差を思い知らされて、早々に見切りをつけてしまう選手だっている。
    また、1軍で活躍することを目標に頑張り続けても、ケガに苦しみ、結局、大成できなかった選手もいれば、いきなり大人の世界に飛び込んで、勘違いしたまま選手生命を終える者もいる。

    福田は、ちゃんと理解していた。
    優秀な選手を見つけ出し、プロ野球選手としてスタートを切らせるまでがスカウトの仕事なのだと。
    それでも自分がかかわってきた選手には、入団した後までケアーを怠らなかった。
    福田は、「プロの世界はそんな甘いものじゃないんだ」と、選手達の延びきった鼻をへし折ることから始めた。
    それでも、鼻をへし折られようが、全く態度を変えることができない選手も少なくはなかった。
    高校から入ってきた選手には父親代わりとなって旨いものを食べさせたりもした。
    スカウトの年俸などたかが知れているのに。
    福田は思った。
    「瀧野瀬君のような謙虚な気持ちを少しでも持ってくれたなら・・・あいつらだって期待通りの活躍をしてくれたに違いないんだ。人間性を育ててくれる指導者と巡り合えるかどうか・・・そこが大事なんだよなぁ」と。

  • #362

    六輔 (土曜日, 22 2月 2020 20:35)


    弁慶高校・義経投手、東北高校・ダルビッシュ投手、横浜高校・涌井投手などWBC U-18ベースボールワールドカップの主力メンバー達は、大会が終わって韓国から帰国すると直ぐにプロ志望であることを表明し、早々に「プロ野球志望届」をそれぞれの高野連に提出していた。
    各スポーツ紙は、そんな甲子園のスター選手達の動きに合わせるように、プロ野球のどの球団が誰を一位で指名するかといった予想を報じ始めていたが、紘一に関する記事を掲載するところは一社もなかった。
    それは、紘一が自分の進路を明らかにしていなかったからであるが、スポーツ通信社の一連の騒動でどのスポーツ紙も紘一に関する記事の掲載に慎重にならざるを得なかったのだった。
    ほとんどのスポーツ紙は、どの球団が紘一をドラフト1位候補として考えているかという情報を既に入手出来ていて、記事として掲載出来るようになるのをずっと待っている状態だった。

    紘一に関する報道が一切無いなかで、SNS上では紘一に対する多くのメッセージが飛び交っていた。
    「東庄高校の瀧野瀬選手は、バカなスポーツ紙のゴタゴタ騒ぎのせいでWBCの代表にはなれなかったけど、間違いなく高校生ナンバーワンだよな」
    「絶対にプロになって欲しい選手だよ。どこの球団に行っても応援したいと思える選手だよな!」
    「弁慶高校の義経投手がプロ入りを表明しているんだから、瀧野瀬選手も高校からプロに行って・・・二人の勝負が楽しみだよな!今年の夏のあの名勝負の再現だぜ!」
    「早くプロ入りを表明してくれ~!」
    だが、そんな応援メッセージばかりではなく、紘一を非難するメッセージや紘一が野球を辞めるのではないかといった噂までもが、まことしやかに囁かれ始めていた。
    「東庄高校の瀧野瀬選手は、ただ単にもったいぶってるだけじゃねーの?」
    「すげー大学からオファーが来て、プロと大学で天秤にかけてんじゃねーの?」
    「いやっ、野球を辞めるって聞いたぜ!」

    SNS上で紘一に関する様々な憶測が飛び交っているなか、あるスポーツ紙は紘一がプロ野球関係者、社会人野球関係者、さらには大学野球部関係者の誰とも会うことを拒んでいるという話を聞きつけて、
    「東庄・瀧野瀬選手…野球を辞める? 全てのオファーを拒絶!」
    と、そんな大きな見出しで記事を掲載したのだった。

  • #363

    六輔 (日曜日, 23 2月 2020 18:54)


    紘一が野球を辞めるという見出しの記事に、プロ野球球界に激震が走った。
    「事実なのか?」
    だが、それを確かめたいと考えたプロ野球の各球団とも、紘一とアポをとることさえ出来ずにいた。
    しかも、スポーツ通信の古沢記者の問題で世間から注目を集めていた紘一に対しては、各スポーツ紙と同じようにどの球団も慎重にならざるを得ず、無理やりアポを取り付けるようなこともしなかった。

    どの球団も同じことを考えていた。
    「去年までだったら、瀧野瀬君の意思を無視してでも強行指名していたよな」
    と、その年からドラフト制度が変わったことを今更ながら悔恨の念にかられていた。
    それでも結局のところは、プロ野球全12球団がプロ野球志望届の書類一式を持って東庄高校に訪れてきた。
    「これを瀧野瀬君に渡してください。そして提出期限は10月3日だと伝えてください」と。

    高校からドラフト1位でプロに進むような選手は、小学生や中学生の頃から飛び抜けた活躍をして様々な“伝説”を残し、プロになることを意識して甲子園常連校に進学する選手がほとんどだ。
    そういった選手のことは、プロ球団もしっかりと早いうちから把握できていて、甲子園常連校でプレイしていてくれれば、後は何の苦労も無くスムーズにドラフトでの指名まで進むのである。
    それは、高校側と球団側が持ちつ持たれつと言ったところで常に良好な関係を保っているからだ。
    だが紘一の場合は、無名の県立高校から突然現れた選手であり、そのことで各球団とも深追いしづらくなり、そのことでほとんどの球団は、徐々に紘一以外の選手を1位指名に考え始めていったのだった。

    それでも諦めない男がいた。
    そう、ジャイアンツのスカウトの福田だ。
    その日福田は、東庄高校の新人戦1回戦が行われる球場に足を運んでいた。
    『もしや・・・』と、スタンドの一番上の席に座って待っているところに紘一が一人で現れた。
    『あっ! 瀧野瀬君だ』
    甲子園では坊主頭だった紘一も少しだけ髪が伸び、日焼けの残った顔はとても元気そうに見えた。
    福田は、迷った。
    「誰とも会いません」と公言していた紘一に、半ば無理やり話しかけてもいいものか。
    福田は、心に固く誓った。
    「スカウトの話はしない…彼と野球の話をするだけだ」と。

  • #364

    六輔 (月曜日, 24 2月 2020 19:21)


    球場で紘一と会うことが出来た福田は、自分に言い聞かせた通り、スカウトという肩書を下ろして紘一と“野球の話”を続けていた。
    だが、『君に恩を売る気はないよ、君と野球の話がしたいだけなんだ』と言ったのは口だけであり、本音を言えば直ぐにでも「君はプロ野球選手になるべきだ!」と説得したいと思っていた。

    この機会を最後に、もう二度と紘一と話すことが出来なくなってしまうだろうと考えた福田だったが、それでも本人の意思を無視して無理やり押しかけてしまった後ろめたさから、気持ちをぐっとこらえて冷静に会話を続けた。
    『WBC U-18ベースボールワールドカップは残念な結果だったね…テレビで観たかい?』
    「あっ、はい!観ました、観ました!義経君もダルビッシュ君も涌井君もいいピッチングしていましたよね~! 弁慶高校の石毛君のバッティングもすごかったですよね」
    この時の福田は、紘一から「見ていません」と、あっさり返されると思って質問していた。
    ところが、紘一は全く予想とは異なり、屈託のない笑顔で他の甲子園のヒーロー達の活躍を自分のことのように喜んでいた。
    スポーツ通信の記事さえなければ騒ぎが起きることもなく、自分が代表として出場していたはずのワールドカップの話に笑顔で応えられることが不思議でならなかった福田は尋ねた。
    『ワールドカップに出られなくて悔しかったんじゃないの?』
    「悔しい気持ちはありません」
    『えっ?』
    「だって、自分からお断りさせていただいたんですから…」
    『まぁ、そうかもしれないけど・・・君が3番を打ってくれていたら、日本が世界一になれたんじゃないかって、みんなそう言ってるよ』
    「福田さん…野球に“タラれば”はないですよ(笑)」

    明るく答えた紘一だったが、福田にはこう思えた。
    『悔しくないはずがないさ』と。
    ただ、それを紘一にぶつける訳にもいかなかった福田は、さりげなく話題を変えた。
    『今日の応援は瀧野瀬君だけ? 他の3年生は?』
    「あぁ…みんな受験勉強を優先して、今日は僕だけなんです」
    『戸野間君、犬飼君なんかも受験勉強?…えっ?度井垣君も?』
    「はい。戸野間は、ピアニストを目指して東京藝術大学音楽学部を、犬飼は小学校の先生を目指して地元の国立大学を、度井垣は…」

  • #365

    六輔 (火曜日, 25 2月 2020 20:26)


    度井垣の話をしようとした紘一を福田は慌てて制止した。
    『ちょ、ちょっと待って!度井垣君も受験するっていうのかい?度井垣君のところには大学から推薦入学のオファーが沢山来ているはずだよね? 僕のところに複数の大学から問い合わせがあって・・・度井垣君なら間違いなく1年生から活躍出来る選手だって答えたんだよ』
    「プロのスカウトさんのところに大学からそういう問い合わせが来るんですか?」
    『あぁ、度井垣君の場合は特別だよ。多くの選手を送り込んでいる私立高校であれば、推薦の枠とルートがあって簡単に決まってしまうんだけど、どうしても公立高校になるとね。弁慶高校との試合での度井垣君の守備とバッティングに光るものを感じた大学側から、問い合わせをもらったんだ。優秀な選手の情報は常に交換しあっているんだよ…まぁ、そういう人の繋がりを人脈と言ってしまえばそれまでだけど…頑張っている選手が埋もれてしまわないようにね』
    「そういうことなんですねぇ…度井垣は感謝していました。たくさんの大学に評価してもらえたことを。でも・・・」
    『野球での推薦入学ではなく、受験するのかい?…度井垣君』
    「はい。あいつ・・・医者を目指すんです。あんな感じの男ですけど、あれで結構頭がいいんですよ」
    『えっ?医者に?・・・そうなのかぁ』
    福田は、衝撃を受けて言葉を失った。
    度井垣と戸野間も大学で結果を残せば4年後に間違いなくドラフトにかかる選手だと評価していたからだ。

    紘一は、グランドに視線を下ろし、後輩たちの試合を観戦しながら嬉しそうに戸野間の話を始めた。
    「戸野間のやつ、天才なんです・・・ピアノ」
    『ピアノ?』
    「はい。全身に情熱をこめて、まるでピアノと戦っているかのように鍵盤を弾き続けるんです。学校の音楽室で何度か聴かせてもらったんですけど・・・音楽がよく分からない僕ですけど、なんか自然と涙がでてきちゃうんですよね」
    『へぇ~ 戸野間君にはそんな才能があったんだねぇ』
    「はい。間違いなく天才です! 戸野間には、天才ピアニストとして世界中の人々を感動させてもらいたいです」
    『そっかぁ』
    「東京藝術大学音楽学部って、すごい偏差値の高い大学なんですって。戸野間に言われちゃいましたよ! 紘一と出会ってしまったばっかりに、野球をやることになって、プロのピアニストになるのが少し遅れそうだって・・・勉強頑張ってくれ!としか返しようがなかったですよ(笑)」
    『なるほどね(笑)』
    「度井垣は・・・」
    と、紘一は、戸野間のときとは打って変わって表情を曇らせた。

  • #366

    六輔 (水曜日, 26 2月 2020 20:50)


    紘一は、表情を曇らせたまま話を続けた。
    「あいつ、中学時代に親友を失くしているんです」
    『親友を?…事故でかい?』
    「…いいえっ」
    『うん? 何か事情があるんだね』
    「はい・・・度井垣の親友は・・・医療ミスで亡くなったんだそうです」
    『えっ?…』
    「度井垣は、口数は少ないですけど、すごく仲間想いの奴で。亡くなったその親友と約束をしていたんです・・・一緒に甲子園に行こうな!って」
    『野球部の子だったんだね…度井垣君の親友って』
    「はい。僕も知っていました。度井垣とバッテリーを組んでいた奴で、すごい選手でした。東庄高校の甲子園出場が決まった時に度井垣が、自分だけが夢を叶えてしまったと言ったので、『お前の親友は、一緒に甲子園に行ってそばでお前のことを見守っていてくれるはずだ』って言ってやったんです。度井垣はしばらく黙っていたんですけど、こう言ったんです。『俺、甲子園から帰ってきたら猛勉強して医者を目指す!医療ミスで夢を絶たれるようなことを無くしたいんだ!…何年かかるか分からないけどな』って」
    無言でうなずく福田の頬を一筋の涙が伝った。

    福田は、紘一の話に言葉を失っていた。
    東庄高校の選手達のような野球人と出会ったことが無かったからだ。
    福田自身、中学高校大学とプロ野球選手になることを目標にして頑張り、晴れてプロ野球選手になった。
    引退後もスカウトという立場に変えて野球との関わりを続けている。
    福田がスカウトとして観てきた選手の全部が、自分と同じようにプロ野球選手になることを夢みて努力を続けていた選手達ばかりだった。
    言い方を変えれば、才能ある高校生や大学生は皆、プロ野球選手を目指していたということだ。
    紘一も含め、戸野間や度井垣までもがプロ野球になんのこだわりもないことが信じられなかったのだった。

  • #367

    六輔 (木曜日, 27 2月 2020 19:57)


    2年前の夏・・・
    福田は、ある高校生を追っていた。
    白進学院の高田選手だ。
    スカウトが球場に足を運んでプレイのチェックをするようになるのは、地方大会であれば準決勝ぐらいからだ。
    だが福田は、高田のプレイ見たさに、ベスト8をかけた試合にも球場に足を運んでいた。
    そう、その時の対戦相手が東庄高校だ。
    初回の東庄高校の攻撃、ショートを守るキャプテンが頭部にデッドボールを受けて退場し、代わって出場したのが紘一だった。
    まだ1年生だった紘一は、体格的には明らかに見劣りしていたが、福田は紘一の一つひとつのプレイに光るものを感じていた。
    一番印象に残ったのは、ピンチとなって内野陣がマウンドに集まっているときに、他の3年生ではなく1年生の紘一が喋っていることだった。
    「なかなかいないよな、あんな1年生」
    紘一に興味を持った福田は、何度も紘一を観に球場に足を運ぶようになっていた。
    そしていつしか福田は、紘一の魅力にとりこになっていったのだった。
    まるで生涯の恋人を見つけたかのように、必死に追い続けた。
    その紘一が、自分の隣に座って野球談議に付き合ってくれていることに、気持ちを抑えることが出来なくなっていた。
    『君はジャイアンツの・・・いやっ、どこの球団でもいい。プロ野球をしょってたつ選手になるべきなんだ! プロ野球選手にならないというのなら、どうしてなのか納得できる理由を聞かせてくれ!』と。
    もうこの時には福田の気持ちは固まっていた。
    『瀧野瀬君と腹を割って話したい』と。

    福田は意を決して話し始めた。
    『瀧野瀬君・・・』
    「はい」
    『まず君に謝らせてくれ』
    「えっ?何をですか」
    『君は、君と会って話をしたいという野球関係者と一切コンタクトを持っていないんだよね・・・にもかかわらず僕はこうして半ば強制的に君と話をさせてもらっている』
    「あっ、そんなことを謝ったりしないでください…福田さん」
    『いや、謝らせてくれ。僕は君と野球の話をさせて欲しいと隣に座ることを許してもらった。でも、どうしても君の考えを聞かせて欲しいんだ・・・僕は君をずっと追い続けてきたんだよ』
    「えっ?」
    『僕が君のことを初めて見たのは、君がまだ1年生でキャプテンに代わって出場した白進学院戦だったんだ』
    「えっ?あの時の試合に?」
    『あぁ。それ以来、僕はずっと君のことを追い続けてきたんだ。長年スカウトという仕事をやってきて、何千人という高校生を観てきた。君は僕の予想をはるかに超えるほど成長し続けてきたよ。そして今日、君の野球に対する考え方を聞かせてもらって・・・君には将来のプロ野球をしょってたつプレイヤーになってもらいたいと願っているんだ・・・だから、聞かせてくれないか…今、君が考えていることを』
    「…福田さん」

  • #368

    六輔 (金曜日, 28 2月 2020 21:33)


    紘一は、頭を下げる福田に話しかけた。
    「福田さん…頭を上げてください。 僕はプロ野球の関係者の方に福田さんのような方がいてくれたことにホッとしています」
    『えっ?』
    「正直なことを言いますと、多くの球団のスカウトさんが、僕の家に何度も電話をかけてきたり、学校の校門の前で待ち伏せされたり・・・皆さん、お仕事としてご自身の都合でそうなさっているんだとは思うんですが・・・福田さんはそういった方々とは違いました」
    『違う? どこがだい?』
    「う~ん、うまく説明できないかもしれないですけど・・・なんか、福田さんはご自身のことよりも僕のことを第一に考えてくれているような…そんな感じを受けたんです」
    『瀧野瀬君・・・』
    「僕は、小学3年生から野球を始めて、監督からたくさんのことを学びました。人に対する礼儀を真っ先に叩き込まれ、野球の上手い人間になる前に人格者になりなさいと。技術は努力次第でどうにでもなる。だけど、技術を身に着けること以上に、野球を通して学ぶべきことがあるんだと、そう教えられました」
    『君の小学生の時の監督さんにだね』
    「はい。僕は東庄高校に進学してたくさんの仲間と出会いました。度井垣、戸野間、犬飼、岩城、里奈科・・・僕が野球を続けて来れたのは彼達がいてくれたからです」
    『瀧野瀬君らしい話だなぁ』
    「福田さん…」
    『うん?なんだい、瀧野瀬君…』
    「僕は、野球というスポーツが好きです。投げて、打って、走って、守って・・・でも好きなのは、スポーツとしてプレイすることです。 人に見せるためにプレイすることを僕は望んでいません」
    『人に見せるため? それって、野球は続けるけど、プロ野球選手にはなりたいと思っていない・・・そう聞こえてしまうんだけど…』
    「・・・はい、そうです」

    福田は思った。
    『瀧野瀬君にそう思わせる何かがあるに違いない』と。
    福田は紘一の気持ちを和らげるかのようにゆっくりと話し始めた。
    『僕は、君のプレイを観るのが毎回楽しみでさ。高校生らしいプレイで決して飾らないのに、君のプレイはいつも輝いていた。僕は君の野球の素質はもちろんのこと、さっきも言ったが、君の野球に対する考え方に惚れ込んでしまったんだ。君にはプロ野球をしょってたつプレイヤーになってもらいたい…ただ純粋にそう願っているんだ。それが我がジャイアンツであってくれたら最高だけど…どの球団でプレイしようが、君は多くの子供達が憧れる選手になれる…そういう逸材なんだよ。どうか、そのことだけは分かって欲しい』
    「・・・福田さん」

    福田は、さらに表情を和らげて話を続けた。
    『さっきは正直驚いたよ』
    「さっき?」
    『WBC U-18ベースボールワールドカップに出場出来なくて悔しい思いをしているんだろうなと思っていたからさ』
    「・・・・・」
    『えっ? 黙っているっていうことは、違うのかい? やっぱり悔しかったんだね?』
    福田の問いに紘一はゆっくりとうなずいてこう言った。
    「ワールドカップに出場出来なかったことが悔しい訳ではないんです」
    『えっ?』
    「さっきも言った通り、自分からお断りした訳ですから・・・僕が悔しかったのは・・・」

    この後紘一は、それまで誰にも話さなかった「過去の真実」を福田に話したのだった。
    それを聞かされた福田は、深いため息をつき、
    『そんなことがあったんだね・・・瀧野瀬君』
    そう言って大粒の涙を流したのだった。

  • #369

    六輔 (土曜日, 29 2月 2020 19:26)


    4年に1度の閏(うるう)年。
    そして今日、2月29日は、4年間で生じた季節と暦のズレを修正する日だ。
    その時に合わせるように物語の時の流れも突然に変わってしまうのであった。
    月日が流れ・・・

    時は、平成19年、春。
    東庄高校を卒業した水嶋陽菜子は、お茶の水女子大学・文教育学部に進学し、もう間もなく3年生になろうとしていた。
    お茶の水女子大学は、偏差値70、東京にある文系の国立大学では東京大学、一橋大学に次ぐ偏差値の高い大学だ。
    文仁親王妃紀子様や「あすなろ白書」「東京ラブストーリー」の原作者である柴門ふみさん、NHKアナウンサーの井上あさひさん、料理愛好家の平野レミさんといった多くの著名人が卒業している。
    2年前のセンター試験に良い成績を残した陽菜子は、目標をしっかり持ってお茶の水女子大学に進学した。
    田舎を離れ、大都会東京で女の子の一人暮らしを始める陽菜子に、両親は自分たちの生活費を切り詰めて、セキュリティのしっかりしたマンションを借りて住まわせてくれた。
    ただ、マンションとは名ばかりでアパートとさほど変わらない3階建ての古い建物。
    それでもセキュリティだけはしっかりしていた。
    お茶の水女子大学の在学生のほとんどが、比較的裕福な家庭に育ったお嬢様が多いなか、陽菜子の大学生活は決して楽なものではなかった。
    親の苦労を少しでも減らしたかった陽菜子は、大学から許可をもらって喫茶店でアルバイトをしながら、それでも自分の目標に向かって頑張っていた。

    陽菜子がアルバイトをしていたのは、大学近くにある老舗の喫茶店「あんくる」だ。
    じっくり淹れられたこだわりの一杯と、アンティーク調の家具に包まれて時が止まったかのような気分を味わえるお店だ。
    名物のオムライスは、スプーンでつつくと外はプルプル、中はとろとろの絶品で、昔から足を運び続ける常連さんの心を惹き付けてやまない。
    深煎りの珈琲には、ミルクの代わりにホイップクリームが添えられるスタイルで、クリームをふんわりと乗せてゆっくり溶かしながら味わう客も多い。

    陽菜子は、大学の休みの日は終日、授業のある日は授業を終えたあとの夕方5時から閉店時間の9時まで働いた。
    生活を切り詰めて頑張る陽菜子の理解者である「あんくる」のマスターは、陽菜子の良き相談相手でもあった。
    マスターは、陽菜子の父親と同い年、どことなく俳優の三田村邦彦に似ていて、頭髪の半分ほどが白髪で口元には髭をはやし、一見無精そうに見えるが、身だしなみはきちんとしていて、客に話しかけられれば優しく応えるそんなマスターだ。

    その日、最後の客が帰ると、あと片付けをしている陽菜子にマスターが話しかけてきた。
    「ヒナちゃんもいよいよ3年生だなぁ…」
    『あっ、はい。早いですよね。大学生になってからの2年間はあっという間でした』
    「3年生になったら就活が始まるんだろう?」
    『・・・はい』
    「いい機会だからはっきり言っておくよ。目標をもってこれまで頑張ってきたヒナちゃんだ・・・まずは就活を優先しなさい。ヒナちゃんには卒業するまでここで働いて欲しいと思うけど、そうもいかないだろうなぁ…ヒナちゃんの一生のことなんだから、いつでも辞めてもらって大丈夫だからね」
    『えっ?…』
    「もちろん、辞めてほしくて言ってるんじゃないさ(笑)なにせ、ヒナちゃんの休みの日には、常連さんだって足が遠のくようになっちまったんだからな(笑)」
    『・・・マスター』
    「冗談だよ(笑)でもな、真面目に言うけど、就活が始まったらうちでのバイトは難しくなると思うから…寂しいけどな」
    『試験の前などはわがままを言わせてもらって、シフトを外してもらったりして、マスターには本当に感謝しています。マスターの言う通り、就活が始まると・・・自分の都合でシフトを決めさせてもらうようなわがままはこれ以上言いたくないので、その時は…』
    「わがままなんてそんな寂しい言い方するなよ、ヒナちゃん。これまでのシフトの半分でも3分の1でもいいから働く時間が取れるなら手伝ってくれよ、ヒナちゃん」
    『本当ですかぁ?・・・ありがとうございます、マスター』
    この時の陽菜子は、マスターの方から就活の話を切り出してくれたことが、陽菜子に対する思いやりからであるとちゃんと理解していたのだった。

  • #370

    六輔 (日曜日, 01 3月 2020 21:31)


    カウンターの中でマスターは、普段は客に出すことの無い特別な珈琲カップを二つ棚から取り出した。
    それを60度のお湯をはったステンレス製の桶で温めてからカウンターの上に並べ、そこにゆっくりと淹れたての珈琲を注いだ。
    「珈琲淹れたよ、ヒナちゃん。ここに座って」
    と、マスターはカウンターから外に出て、先に右側の席に座って陽菜子を呼んだ。
    『はい、ありがとうございます、マスター』
    陽菜子は、時々そんな風にマスターが淹れてくれる珈琲をいただくのが何よりもの楽しみだった。
    グリーンの美しいビードロ釉の珈琲カップに注がれたレギュラー珈琲は、香り、苦み、酸味に至るまでバランスの取れた正統派な味わいの一杯だった。
    『うぅ~ん…おいしぃ~』
    「いつもと変わらないよ(笑)」
    毎回そんな会話を交わして、二人は視線を合わせてから一緒に珈琲を飲んだ。

    東庄高校野球部マネージャーとして日焼けも気にせず働いていた頃の陽菜子とは打って変わってすっかり色白になり、一度も毛染めをしたことのないストレートの黒髪が後頭部の少し高めの位置でポニーテールに結んである。
    2年間という時間が、陽菜子を女の子から大人の女性へと変えていた。
    愛娘を愛おしく想う父親のように陽菜子を眺めていたマスターは、陽菜子が珈琲カップをソーサーに戻すタイミングを見計らってゆっくりと話しを始めた。
    「ヒナちゃんのお兄さんは、確かヒナちゃんの1つ年上って言ってたよね?いよいよ4年生になるんだね」
    『はい。白進学院時代にピッチャーから野手に転向して、大学に進んでからもずっと頑張ってきたお兄ちゃんですけど・・・絶対に今年のドラフトで指名されてプロに行くから!って、私に宣言していました(笑)』
    「妹に宣言することで、自分に言い聞かせたんだろうね…絶対にプロになるぞ!って」
    『きっとそうですよね。ずっとプロを目指してきたお兄ちゃんなので、頑張って欲しいです』
    「すごいな、兄弟にプロ野球選手がいるなんて」
    『まだ決まった訳じゃないですけどね(笑)』
    と、それまでは楽しそうに話していたマスターだったが、少し表情を曇らせてこう尋ねたのだった。
    「ところで・・・ヒナちゃんの将来の目標は、大学に入ったころと今も変わっていないのかい?」
    『えっ?・・・あっ…はい』
    少しだけ躊躇うように答えた陽菜子に、マスターは「そっか…」とだけ言ってゆっくりと息を吐いた。
    この時の陽菜子は、マスターが、そのことだけを尋ねてそれ以降何も言わなくなってしまった理由をちゃんと理解していたのだった。
    『ずっと心配してくれているんですね・・・マスター』と。

  • #371

    六輔 (月曜日, 02 3月 2020 20:17)


    「あんくる」のマスター、藤原涼輔(フジワラ・リョウスケ)は、40歳の時に脱サラして喫茶店のマスターになったのだが、その前職は、大手新聞社の敏腕記者だった。
    一橋大学・社会学部を卒業すると同時に記者になった藤原は、直ぐにその実力を買われて経済部や社会部といった最前線での活躍を続け、スクープを対象とした社内表彰の回数は、途中から数えるのをやめたほどで、将来を嘱望されて30代で支局デスクになった。
    “記者の仕事は夜討ち朝駆け”と言われるように、長い労働時間や不規則な生活を強いられても、ジャーナリストという仕事への情熱で常にモチベーションを保ち、記事を書き続けていた。
    だが、時代の流れと共に記者を取り巻く環境は変わって行った。
    その一つが、取材相手の尊厳を守れない記者が横行するようになっていったということだった。
    不祥事が起こり、謝罪会見が行われるたびに、尊大な物言いをして正義を振りかざして会見者を断罪する記者があまりにも増えてしまったのだった。
    もちろん不祥事については謝罪してもらわねばならないし、対策が不十分なら会見者が責められても仕方のないことだ。
    しかしそのことは、会見者の人間性までを否定していいということではないはずであり、そこを履き違えている記者が増え続け、藤原はそんな記者と会うたびに同業者として非常に不快な思いにさせられたのだった。

    そんな時代の流れに立ち向かうかのように藤原は自分らしい記事を書き続けた。
    ジャーナリストとしてのプライドがそうさせたのである。
    ジャーナリストは、時として社会正義を担うことがある。
    不正や犯罪に立ち向かう場面はもとより、日常の出来事などに対しても、ゆるぎない正義感をもっていることが求められ、さらに政治や権力に対しては、チェック機能を発揮するために、誹謗中傷や批判も恐れない反骨精神が必要となる。
    藤原は、どんな圧力にも屈しない精神力で社会に立ち向かっていた。
    カッコつけて言えば“弱きを助け強きを挫く”といったところだ。
    社会的な良識を備え、弱者にやさしく権力に屈しない正義感と反骨精神で記事を書き続けていた藤原だったが、ある時、藤原の記者人生を変えるようなことが起きたのである。
    社会部にいた藤原は、確かなところから得た情報により徹底した取材を続け、裏付けをようやく取り付けて悪事を暴く記事を書きあげた。
    それは政府与党、ある国務大臣の犯した汚職事件に関する記事だった。
    世間を揺るがす特ダネになるのは明らかだった。
    藤原は、信頼する上司に進言した。
    「この記事を出させてください」
    原稿を読み終えた藤原の上司は、静かにこう言った。
    『藤原、よくここまで調べたな・・・だがな、藤原…この記事を世に出すことは会社としておそらく無理だぞ』と。

  • #372

    六輔 (火曜日, 03 3月 2020 20:00)


    そういう返事があるかもしれないと覚悟をしていた藤原は、諦めずに上司に食らいついた。
    「自分もある程度の経験を積んできた記者ですので、“会社として無理だ”ということがどういう意味を持つのかは分かっているつもりです。ですが・・・国民の知る権利を付託されているのがジャーナリストです。私は、私益はもちろん社益や国益すらも離れ、自分が考える社会正義に基づいて切り込む姿勢を保ちながら記者を続けてきました。私たちマスメディアが真実から目を背けてしまったら日本の正義は誰が守るんですか? 私は、納得できません」
    藤原の話を黙って聞いていた上司は静かにこう答えた。
    『分かってくれ…藤原。 私は、君を失いたくないだけなんだよ』と。
    結局、藤原が取材を重ねて書き上げた記事が世に出されぬまま、国務大臣の犯した悪事は、事件になることもなく闇に葬られたのである。

    日を置かずして、藤原には辞令が発せられた。
    社長室に呼ばれた藤原に、辞令書を渡して社長は短くこう言った。
    「おめでとう・・・栄転だね」
    藤原が渡された辞令書に視線をやるとそこには自分の栄転先の地方支局名と役職名が書かれてあった。
    「奄美支局・営業部長」
    地方に飛ばされることを恐れていては自分の記事が書けないと腹をくくって仕事をしていた藤原だったが、奄美大島でしかも記者ではなく営業の仕事をしろと辞令がおりたことで決断するしかなかった。
    翌日、藤原は・・・
    「自分は、サラリーマンとして記者の肩書きが欲しかった訳ではありません。自分の正義を押し殺し、組織の利益だけを考える記者でいられなかったことをお詫びします。お世話になりました」と、そう言って辞表を部長の机にそっと置いた。
    と、部長は驚いた表情を作ってこう言った。
    『少しの時間だけ我慢すれば私が直ぐに奄美から本社に戻してやる。考え直しなさい…藤原君』
    その部長の言葉に藤原は表情を変えることなくこう返したのだった。
    「少しの時間だけで、会社が長い物に巻かれた状態が変わるのであれば考え直したいと思いますが・・・それはないと断言できるのかと思いますので・・・お世話になりました」
    藤原はそう言い残し、軽く頭を下げて部長の前から立ち去った。

  • #373

    六輔 (水曜日, 04 3月 2020 20:21)


    記者を辞めた藤原は、しばらくの間、次の仕事を決められずにいた。
    どこの組織にも属することなく働きたかった藤原には、自営業を始めるという選択肢しかなかったからだ。
    結局のところ“喫茶店のマスター”という仕事を選んだ訳だが、もともと記者をやっていた頃から自他共に認める珈琲ツウだった藤原の淹れる珈琲は、素人離れした代物だった。
    飲んだ者をうならせ、噂を聞きつけた者からは“今度飲ませてくれよ”とリクエストされるほどのものだった。
    だからという訳ではなかったが、喫茶店の経営を成り立たせるためには、客が喜んでくれる旨い珈琲を淹れさえすれば、それで良いものだと思っていた。
    だが、藤原のそんな考えは開店して直ぐに覆させられた。
    旨い珈琲を淹れるだけではなく、マスターの仕事として接客を求められることが想像していた以上に多かったのだ。
    藤原の人間性を知った客は、常連となって足を運んでくれるようになった。
    それは同時に多種多様な客が藤原に様々な相談事を持ちかけてくることになったということだったのである。
    そのことに、ただひたすらに戸惑うばかりの藤原だった。
    「何をどう返してやればいいのか…」
    悩みながら接客をしていた藤原だったが、ある日ふと、1冊の本の存在を思い出した。
    「そっか…あの本を読み返してみよう」
    藤原が思い出したのは、記者をやっていた時に“バイブル”としていた1冊の自己啓発本だった。
    何かに悩んだ時には必ず読み返していた本、それは、スティーブン・リチャーズ・コヴィー著の「7つの習慣 ~人格主義の回復~」という本だった。
    言わずと知れた世界的な名著であり、自己啓発に関連する書籍として日本で最も有名といっていい啓発本だ。
    サラリーをもらって働く者、かつ、電車通勤で読書が好きであるという人であればそのほとんどの人が読んでいると言ってもいい1冊だろう。
    あまりにも有名な1冊であるので内容を細かく説明するのはおこがましいかと思うが、藤原が喫茶店のマスターとして参考にした部分だけでも伝えることにしよう。
    著者であるスティーブン・リチャーズ・コヴィー氏はこう言っている。
    「長期的な成功者になりたければ、まずは人格を磨け」と。
    本は、その“人格”を磨くための基本的な原則として“7つの習慣”を説明している。
    「7つもあるのか…」と嘆きの声が聞こえてきそうだが、そう難しいことではない。
    藤原は“7つの習慣”のうちの“第5の習慣”の部分を何度も読み返した。
    “第5の習慣”とは、相手が自分の助言を受け入れてくれるようになるための習慣だ。
    スティーブン・リチャーズ・コヴィー氏はこう言っている。
    「まずは相手を理解することに徹し、そして自分を理解してもらうために共感による傾聴を身につけよ」と。
    コヴィー氏の言葉をそのまま書くと理解しにくいだろが、簡単な言い方をすればこうだ。
    人は得てして、自分の過去の経験を相手の話に重ね合わせてしまう。
    そのため、人の話を聞きながら同意したり反対したり、自分の視点から質問したり、助言したりしがちになる。
    人は、人の話を聞いているようで聞いていないとコヴィー氏は言う。
    何故なら、言われたことに対して何をどう返せばいいのかと考えながら聞いているからだと。
    とにかく共感するために、相手の言葉をそのまま繰り返し、次に相手の言葉を自分の言葉に置き換え、そして相手の気持ちを言葉にせよとコヴィー氏は言っている。

    コヴィー氏は人の話を聞きながら次のことを絶対にやるなと言っている。
    「探るな!」「解釈するな!」「評価するな!」「助言するな!」と。
    バカな父親が息子とこんな会話を交わすことがあるだろう。
    『お父さん・・・』
    「なんだ?」
    『僕もいよいよ就活を始める時がきたよ』
    「就活?そっか。ところで学校の方はどうなんだ?真面目に通っているのか? まぁ、私の息子だ!真面目に通っていることと思うが・・・父さんの時の就活はな、大変だったんだぞ!いいか、よく聞け!」
    バカな父親は、息子がせっかく話しかけてきたのに、いきなり探りを入れ、自分なりに勝手に解釈し、そして助言をする。
    これじゃ、相談をしようと思っていた息子も「・・・別にいいや」となるだけだ。

    本を読み返した藤原は、大きくうなずいてこう言った。
    「そうだったよな…まずは、お客さんの話に共感してとことん聞いてやることが大切なんだよな」と。

  • #374

    六輔 (木曜日, 05 3月 2020 20:15)


    40歳で「あんくる」のマスターになった藤原は独り身だった。
    藤原が35歳の時に最愛の妻と死別していたためだ。

    藤原が社会部でバリバリと記事を書いていたとき、妻は病に倒れた。
    長い闘病を強いられた妻は、見舞いに来る夫をいつも気遣っていた。
    「あなた…私は大丈夫ですから、仕事に戻ってください。あなたの書く記事を待っている人がたくさんいるんですから…」
    妻は、それが口癖だった。
    夫が自分を見舞った後にまた仕事に戻ることを知っていたためだ。
    それでも藤原は、毎日、欠かすことなく妻を見舞った。
    他愛もない話でも、妻と話すことが藤原の唯一の楽しみだったからだ。

    或る日、妻の病室を見舞う前に主治医に呼ばれた藤原は、そこで妻の余命を宣告された。
    手術をした際に、全部の腫瘍を切除出来なかったことを告げられていたことで少しばかりの覚悟は出来ていた藤原だったが、あまりにも短い時間の余命宣告に愕然とし、その日は、妻の病室に足を運ぶことがどうしても出来なかった。
    涙で瞼をはらした顔を妻に見せられなかったからだ。
    妻は、自分が入院してから見舞に来なかった日が一日たりとも無かった夫が、初めて顔を見せなかったことに、その理由をちゃんと察したのだった。
    「・・・そっか。先生に言われたのね」と。
    その晩、妻は手紙を書いた。
    それは、妻から夫に渡す最初で最後のラブレターだった。
    病でやせ細った手で、ようやく書いた手紙は、自分で笑ってしまうほど下手な字だった。
    「ごめんなさいね、あなた。ちゃんと力が入らなくて…だけど、笑っちゃうぐらい酷い字ね(笑)」

    翌日、見舞いに来た藤原が昨日の言い訳を始めたことに、妻はただ黙って夫の言い訳を聞いていた。
    夫の言い訳を聞き終えた妻は、優しく微笑んでこう言った。
    「あなた…お腹すいていない?」
    『えっ?…だ、大丈夫だよ! 会社の社員食堂でしっかり毎食食べているからね』
    「そっか・・・あぁ、あなたの大好きなカレー、作ってあげたいな」
    『退院したら毎日作ってくれよ。世界一旨いカレーをね』
    「うん」

    その二週間後のことだった。
    妻の容態が急変したと連絡を受けた藤原は、病院に駆け付けた。
    病室に入ると、医療装置に数えきれないほどの管で繋がれた妻がベッドに眠り、その横に医師と看護婦が立っていた。
    看護婦が優しくこう言った。
    『ご主人が来るのをさっきまで待っていらっしゃいました』
    涙をこらえ、妻の名を呼び続ける藤原に医師がこう告げた。
    「・・・今夜がやまです」
    医師の言葉に黙ってうなずいた藤原は、妻の手を握りしめてこう言ったのだった。
    「ずっとそばにいるからね」と。

  • #375

    六輔 (金曜日, 06 3月 2020 20:36)


    それから数時間後、妻は眠るように息を引き取った。
    亡骸にすがりひとしきり泣いた藤原が、ようやく妻から離れ、3人の看護婦が病室に入ってくると、藤原は病室の外で待つように促された。
    ご遺体を自宅へ戻す準備が整え終わると、また藤原は病室に呼び入れられた。
    ゆっくりとお辞儀をして病室に入ってきた藤原に、一人の看護婦が歩み寄った。
    それは、妻に一番寄り添ってくれていた看護婦だった。
    「これを・・・」
    『これは?』
    「奥様からお預かりしていたものです」
    『えっ?』
    手渡された真っ白な封筒をみると、そこには「大好きな涼輔さんへ」と書かれてあった。
    「3日前でした。 奥様が、もし私に何かあったときには看護婦さんから渡してくださいとおっしゃって・・・奥様には、ご自身でお渡しになられたらどうですかと申し上げたのですが、奥様は『この年になって夫にラブレターを出すなんて恥ずかしいから』とおっしゃって・・・」
    看護婦の言葉に藤原は、受け取った手紙を胸に抱きよせて膝から崩れ落ち、再び大粒の涙を流し始めた。
    看護婦は藤原の背中に手をあててこう声をかけた。
    「奥様が、ちゃんと読んでくれるか心配だなぁっておっしゃったので、世界一優しい旦那さんのことを信用なさっているんでしょ?と言うと、奥様はすごく嬉しそうな顔をなさって・・・」
    と、看護婦は必死に涙をこらえ、
    「30分ほどで車の準備が整いますので、その時にまたお迎えに上がります」
    そう言って看護婦は病室から出て行った。
    妻と二人きりになった藤原は、しばらく動けずに手渡された手紙をただ茫然と眺めていた。
    ようやく読む決心のついた藤原は、ゆっくりと封を切って便箋2枚を取り出した。
    心を静めるように「ふぅ~」と息を吐いて便箋を広げると、そこにびっしりと書かれてあった文字が、妻が精一杯の力を振り絞って書いたものであることが直ぐに分かった。
    涙で文字が滲んで読み始めることが出来なかったが、ようやく妻の書いた文字に焦点が合った。

    「涼輔さん 私があなたの妻になってから、あなたの顔を見ることが出来なかった日は一日もありませんでした。今日が初めてですね。連絡も無しに来てくれなかったのがどうしてなのか、ちゃんと分かっていますからね。ありがとう…あなた」
    その書き出しに、藤原は全てのことを理解すると、両手で顔を覆って嗚咽を漏らした。

    「初めてあなたに宛てた手紙。この手紙がきっと最後の手紙になってしまうことを許してね。
    本当は自分の言葉で、自分の口であなたに想いを伝えたかった。
    でもね・・・ごめんなさい、手紙になってしまって。
    あなたは、どんな時でも私を支えてくれた。
    あなたの愛で、私は生き長らえていたの。でも、それももうそろそろ限界。
    私の命はもう直ぐ尽きてしまう。
    だから、その前にどうしても伝えておきたくてこの手紙を書くことにしたの。
    あなたを愛してるって」
    大粒の涙が藤原の頬をゆっくりと伝った。

  • #376

    六輔 (土曜日, 07 3月 2020 20:00)


    藤原は頬を伝う涙を拭おうともせずに最愛の妻が残してくれた手紙を読み続けた。
    「あなたがこの手紙を読んでいるということは、私はもうこの世にはいないということですね。
    寂しいけど、仕方のないことです。
    でもね、私は、私の人生に悔いはないです。
    だって私は涼輔さんという最愛の人に支えられて、最期まで精一杯に生きてこれたんですもの。

    私は、いつもいつもあなたのことを心配していました。
    だって、誰よりも誰よりも頑張り屋さんなんですもの。
    体を壊さないように、ちゃんと食べてね。
    あなたの望みだったカレーライス・・・もう一度食べさせてあげられなかったのが心残り、ごめんなさい。

    涼輔さん
    私は、あなたの書いた記事を読むのが好きでした。
    私は、記者として頑張るあなたを尊敬していました。
    でもね、これだけは誤解しないで欲しいんだ。
    私が愛したのは、記者である涼輔さんではなく、誰にでも優しい涼輔さんだっていうことを。
    私は、向こうの世界で暮らすようになってからも涼輔さんのことを愛し続けます。
    ただただあなたの幸せを願いながら。
    だから、向こうの世界であなたを見守る私のことを泣かせるようなことだけはしないでね。
    あなたを必要とする人が現れて、その人が、あなたも必要と想える人であったなら、私に遠慮しないでその人と一緒になってね。
    これは、負け惜しみで言ってるんじゃないからね。
    私の本心。だって、あなたの一番の応援団長は、あなたの幸せを一番に望んでいるんですもの。
    だからちゃんとけじめをつけるために最期に言葉を贈りますね。

    私が愛する人は、あなただけ。
    私は、あなたの幸せだけを願う一人の女性に戻ります。
    ありがとう、あなた
    そして、さようなら」

  • #377

    六輔 (日曜日, 08 3月 2020 20:24)


    妻を亡くした藤原は、悲しみを振り払うように仕事に没頭した。
    そして、あの事件に出くわした。
    政府与党、ある国務大臣の汚職事件を記事にすることが出来なかったことで、結局、記者を辞めた藤原だったが、会社を辞めるその背中を押してくれたのは妻の残してくれた手紙だった。
    藤原は、敗北感で辞めたのではなかったのである。
    真実を伝えられない記者に成り下がってしまえば、間違いなく自分を嫌いになり、そんな自分になってしまえば、自分を見守ってくれている妻を泣かせることになってしまうだろうと思ったからだ。
    「そんな俺のこと…お前は嫌いだよな」と。

    藤原は喫茶店のマスターになることを選んだ。
    組織の中でもがき苦しみながら、自分らしさを見失ってまで生きていきたくなかったからだ。
    喫茶店「あんくる」は、立地的に恵まれていた訳ではなかったが、旨い珈琲が飲めると噂が広まって、常連客が足繫く通う店になっていった。
    藤原は「あんくる」をオープンさせてからずっと、店がどれだけ忙しかろうが、客をどんなに待たせようが一人で店を切り盛りしていた。
    だが、自分も年をとってきたことで客をさらに待たせるようになってしまうかもしれないと考えた藤原は、ここが潮時と接客を手伝ってくれるアルバイトを雇うことにした。

    平成17年4月のある暖かな日、藤原は手書きの“アルバイト募集”の張り紙を店先に貼りだし、いつもの通りに開店の準備をしていると“カランコロン”と、ドア鈴が鳴って女の子が入ってきた。
    「こんにちは」
    『あっ、まだお店は始まってないんだ、ごめんなさい』
    と、藤原は顔をあげて入口を見ることもせずに、来客を簡単にあしらった。
    「あのぉ、張り紙を見たんですけど・・・」
    『えっ?・・・あっ!』
    自分が張り出した“アルバイト募集”の張り紙を見て来たのだと理解した藤原は、顔を上げて入口に視線を向けると、そこには見覚えのある顔の女の子が立っていて、驚きのあまり思わず声を発してしまった。
    『美代子…』
    美代子とは、亡くなった妻の名だった。
    入口に立つ女の子が、出会った頃の妻にそっくりだったのである。
    「えっ?」
    『・・・あっ…も、申し訳ない、君があまりにも知り合いとそっくりだったので』
    「準備中だとは思ったんですけど、外の張り紙を見て…」
    『えっ? あ、アルバイト? そっか・・・いやっ、まだ貼ったばかりでさ、あまりにも早く君が来たものだから…』
    「水嶋陽菜子といいます。この4月にお茶の水女子大に入学したばかりです」
    と、アルバイトの面接に不慣れな二人は、ぎこちなく面接らしきものを始めていた。

  • #378

    六輔 (月曜日, 09 3月 2020 20:07)


    観察力に長けている藤原は、自己紹介をする陽菜子が素直で実直な女の子であるだろうと感じていた。
    『入り口で話すのもなんだから、まずはそこに座って(笑)』
    「えっ?…あ、はい!」
    藤原には、明るい返事で応える陽菜子がとても輝いて見えた。
    お茶の水女子大に入学したてだった陽菜子は、まだ都会には馴染んでいないあどけなさの残る女の子だった。
    テーブル席で緊張している陽菜子に、藤原はリラックスするように声をかけた。
    『珈琲いれるから、ちょっと待ってて』
    「あっ…は、はい。すみません」

    『はい、これ飲んで』
    「ありがとうございます、いただきます・・・わぁ~、美味しいです!」
    遠慮することなく出されたものを素直に喜んで頂く陽菜子が少し幼くも感じたが、そんなところまでもが出会った頃の妻にそっくりであったことに、さらに親近感がわいた藤原だった。
    陽菜子が珈琲を飲み終えた頃、本来の目的を思い出した藤原が尋ねた。
    『アルバイトの面接に来てくれたんだったよね?』
    「はい!」
    『えっと・・・確か、こういう時って履歴書を持ってくるんじゃなかったのかな?』
    「えっ?・・・そ、そうですよね…ごめんなさい。大学の帰り道に、たまたま張り紙を見つけて、つい・・・履歴書持って出直してきます」
    『(笑)僕も君もこういったことに慣れていないってことだね。いいよ、いいよ。とりあえず幾つか質問するから答えてくれるかい?』
    「はい!」
    『元気いいね(笑) 出身はどこ?』
    「東庄町です!」
    『(笑)しかし君は楽しい子だね。大都市ならまだしも、いきなり都道府県名を省いて町名だけで答える人も珍しいと思うんだけど・・・それだけ自分の故郷に誇りを持っているってことでいいのかな?』
    「す、すみません。そうですよね・・・でも、そうです。私は東庄町に生れ育ったことに誇りを持っています!」
    『そっか。以前の仕事の関係で東庄町がどこにあるのかたまたま知っていたからいいんだけど・・・去年の夏の甲子園大会に出場した東庄高校のある東庄町でいいのかな?』
    「そ、そうです! わ、私・・・」
    『うん?』
    「あ、実は東庄高校野球部のマネージャーをしていました。去年の夏の甲子園大会では、ベンチにいて記録員をしていました」
    『へぇ~ そうだったのかぁ』
    と、陽菜子は自己PRを兼ねて、野球部のマネージャー時代の話を始めたのだが、明るく屈託のない陽菜子の笑顔に亡くなった妻の顔が重なって、藤原の頭の中では、妻と出会った頃の想い出が走馬灯のように浮かんでは消えていた。

    『水嶋さんだったね』
    「はい」
    『一応、履歴書を持ってきてくれるかい?…バイトの初日でいいからね』
    「・・・えっ?」
    『ちょっと話しただけで、君の良さは十分に分かったよ。お茶の水女子大といえば、勉強もおろそかに出来ないだろうから、君が働ける時間だけでいいから、一緒に働こう』
    「ホンとですか?ありがとうございます」
    『水嶋陽菜子さんだったよね?・・・ヒ、…ヒナちゃんと呼んでもいいかな?』
    「はい! えっと・・・わ、私は…」
    『マスターとでも呼んでよ』
    「はい・・・マスター(笑)」
    こうして二人は出会ったのだった。

  • #379

    六輔 (火曜日, 10 3月 2020 20:26)


    藤原は昭和37年、鹿児島に生まれた。
    有名人で言えばトム・クルーズや筧利夫、三上博史や風間トオルといった俳優、藤井フミヤや久保田利伸といったミュージシャン、叶恭子や麻木久仁子、風見しんごや小川菜摘といったタレントと同い年だ。
    日本で初めてオリンピックが開催されたのは、藤原が2歳のときだった。
    ちなみだが、開会式の行われた10月10日は、後に体育の日という祝日になった。
    それから56年後、2020年に再度開催される東京オリンピックは7月・8月の真夏に開催されることになるのだが、何故、マラソンレースを北海道に移転してまで真夏のくそ暑い時期に開催されるのか知っているか。
    全てはコカ・コーラや時計のオメガといった金持ちスポンサーの都合なのだ。
    アメリカでは、9月10月はフットボールのシーズン開幕や野球のメジャーリーグのプレイオフといった他のスポーツイベントと視聴者を取り合うことになり、欧州ではサッカーシーズン真っ盛りと重なるからだ。
    開催国でありながら力の無い日本は何も言えず、結局は選手のためではなく企業のために7月8月の真夏に開催するのだ。
    ちなみにのちなみにだが、聖火リレーは3月26日の福島を皮切りに、小生の故郷では3月30日に聖火が走り抜ける。
    聖火リレーの様子はSNSで動画の投稿が禁止されていることぐらいは承知していると思うが、沿道沿いにあるスポンサー以外の、例えばSEIKOのマークの入った時計台は布で覆われて人の目に着かないようにされてランナーが走り抜けるといったことをどれくらいの人が知っているだろうか。
    と、またつまらぬ話をしてしまったが。

    高度成長期の昭和40年代に幼少期を送った藤原だったが、その暮らしは決して裕福なものでは無かった。
    それでも藤原の両親は、苦労してでも中学、高校と優秀だった藤原を東京の大学に進学させてくれた。
    親の苦労を知る藤原は必死に勉強した。
    一橋大学を卒業し、大手新聞社に就職、大学時代から付き合っていた美代子と結婚したときには30歳になっていた。
    二人の間に子供は恵まれなかったために35歳の時に妻と死別した藤原は独り身となった。
    定年まで記者をしているのだろうと脇目も振らずただただ仕事に没頭していた藤原が、事情が変わって40歳で記者を辞め「あんくる」を始めた訳だが、ふと気づくと周りには誰もいなくなっていた。
    仕事と妻の看病に時間を割いていた藤原には、友と呼べる存在すらなかったのだった。
    しかも両親とも鹿児島で早く他界しており、自分自身に兄弟姉妹もなかった藤原は、天涯孤独の身になっていた。
    甥姪もいなければ従妹すらいない。
    自分を看取ってくれる人もいなければ自分の葬式を出してくれる人もいないことを覚悟していた藤原だった。
    記者をやっていた時には、仕事上で多くの人と会話を交わ日々だったが、「あんくる」のマスターになったときには、藤原が口を開くのは、客と交わすごくごく普通の世間話か、常連客からの悩み事相談への返答ぐらいになっていた。
    そんな藤原が陽菜子と出会ったのは43歳のときだった。

    一方、大学の勉強とアルバイトに追われ、プライベートな時間をほとんど持てなかった陽菜子には、当然、異性と知り合う機会も無かった。
    他のクラスメイト達は、女子大という優位性をフルに活用して頻繁に合コンに出かけていったが、陽菜子がそれに加わることは一度も無かった。
    だからという訳ではないが、陽菜子が東京に出てきて心を許して話すことが出来る男性は、唯一、藤原だけだった。
    18歳の陽菜子と43歳の藤原。
    親子ほど年の離れた二人が、何かに引き寄せられるかのように出会ったのだった。

  • #380

    六輔 (水曜日, 11 3月 2020 20:14)


    藤原と陽菜子は、客のいない時を見つけては、よく二人で会話を交わした。
    もちろん、初めから親しく話すような間柄であった訳ではないが、取り留めのない話をしているうちに、藤原の方が陽菜子との会話を望むようになっていったのだった。
    それは、最愛の妻・美代子の若かりし頃にそっくりな陽菜子と話すことで寂しさが紛れたのと同時に、心癒されたからだった。
    また、陽菜子も藤原との会話が楽しみでならなかった。
    藤原がいろんなことに物知りで、聞いているだけで勉強になり、とにかく楽しかったからだ。

    『ヒナちゃん』
    「はい」
    『ヒナちゃんは寄席に行ったことはあるかい?』
    「寄席?・・・落語を聞く寄席のことですか? 行ったことないです」
    『厳密にいうと寄席って落語だけじゃないんだ。寄席には講談、漫才、漫談、曲芸…と、バラエティーに富んだプログラムになっているんだよ』
    「へぇ~ 初めて知りました」
    『落語って聞いてどう? 年配の人の娯楽だって思うかい?(笑)』
    「う~ん、決して年配の人だけとは思わないですけど…」
    『僕は、お店が休みの日には一人で寄席に出かけるんだ』
    「え? そうなんですか? マスターが落語が趣味だなんて知らなかったです」
    『趣味というまでではないけど…気楽に行けるところなんだよ、寄席って。日本の伝統芸能のひとつだけど、決して気合いを入れて行くところじゃなく、新幹線の時間まで余裕があるから、ちょっと聴いていこうかって、そんな感じで途中からでも入れるし、普段使いで行ける雰囲気の場所なんだよ』
    「そうなんですかぁ…日曜夕方からやってる『笑点』に出てくる三遊亭円楽さんとか、林家木久蔵さんとかが落語家さんですよね?」
    『そうだよ』
    「三遊亭って円楽さんの他にも好楽さんと小遊三さんがいて、林家とか、あっ、あと春風亭…なんとかさんっていう人もいますよね?あの三遊亭とか林家とか春風亭って苗字なんですか?」
    『あれは屋号…正確には亭号って言って、苗字にあたる部分だね。落語家さんを呼ぶときに「三遊亭さ~ん」とか「春風亭さ~ん」とかって呼ばないんだよ。屋号で呼ぶのはおかしいからね。下の名前で呼ぶのはそのためなんだ』
    「そっかぁ。確かに「三遊亭さ~ん」って呼ばれていないですよね。でもその屋号が違うのは、落語の種類が違うからなんですか?」
    『そういうことじゃないんだ。落語には江戸で誕生した「江戸落語」と、京都や大阪で誕生し、関西弁で話す「上方落語」の二つがあるんだ。江戸落語には三遊派、柳派、三笑派があって、上方落語には桂一門、笑福亭一門がうまれ、その後さまざまな流派に分かれて行ったんだよ』
    「落語家さんの屋号って、た~くさんありそうですもんね」
    『そうだね。それとね、落語は5つの団体に分かれているんだよ』
    「5つの団体ですか?」
    『そうだよ。代表的なのが「落語協会」と呼ばれる団体で、林家木久扇さんとか、本格派の噺家さんが多く所属しているところ。二つ目が「落語芸術協会」…桂歌丸さんが会長を務める団体で、テレビにも出演する噺家さんが多くいるところだね。3つ目は「落語立川流」…談志師匠のカリスマ性によって落語会に一席を投じた団体だね。4つ目はさっきヒナちゃんが言った『笑点』の司会の三遊亭圓楽師匠が落語協会を脱退したのちにつくった「圓楽一門会」。最後の5つ目は「上方落語協会」といって大阪の落語家さんたちのほとんどが所属している団体だよ。江戸落語が“粋さ”や“色気”のような表現力が豊かでまさに芸術的なのに対して、上方落語は、そうは言っても笑いがなければ始まらないって…ほら、関西の方って“笑ってなんぼ”って感じでしょ。コテコテの笑いを重んじるのが上方落語なんだよ』
    「へぇ~ マスターって本当に詳しいんですね」
    『う~ん、そういうことを学んだ上で落語を聞くと、また違った楽しみ方ができるからね。僕は古典落語が好きだからさ』
    「古典落語ってどういうのを言うんですか?」
    『江戸時代から明治時代、大正時代にかけて作られた落語だよ』
    「そんな昔に作られた話を? 今の時代になっても落語家さんが話しているんですか?」
    『あぁ、そうだよ。筋書きを知ってる落語を聞かされることだってしょっちゅうさ』
    「一度聞いた話を何回聞いても面白くないんじゃないですか?」
    『う~ん、それがそうでもないんだよ。人によって表現が異なったりしてさ…まぁ、落語ってそこが楽しいんだけどね』
    「へぇ~、そうなんですかぁ」

  • #381

    六輔 (木曜日, 12 3月 2020 21:09)


    陽菜子が「落語についてもっと聞かせて欲しいです」と笑顔を見せると、藤原は嬉しそうに『うん』と応えた。

    『落語家さんたちって着物を着て座布団に座って演じるよね』
    「はい!落語家さんって決まって着物を着ていますよね」
    『着物はね、洋服と比べてどんな服装も想像しやすいんだよ。これがスーツを着て女性を演じられても違和感しかないだろう?』
    「あぁ、確かにぃ~」
    『着物を着て、さらには声の大きさや目線の角度を変えることで、間近にいる人と話しているのか、遠くの人に呼び掛けているのかイメージしやすいようにしたりして、いろんな工夫で観客の想像力を助けているんだよ』
    「そっかぁ。落語ってそういうところを楽しむものなんですねぇ・・・わたし、落語って一つも分からないんですけど、何か有名なやつってあるんですか?」
    『う~ん・・・例えば・・・じゅげむじゅげむ ごこうのすりきれ かいじゃりすいぎょの…とかって聞いたことない?』
    「あ!それ知ってます。東庄高校野球部の部員が、緊張をとるために早口言葉を言ってました・・・えっと・・・パイポパイポのポンポコリンとか言って」
    『(笑)それを言うなら、ぱいぽぱいぽぱいぽのしゅーりんがん しゅーりんがんのぐーりんだい・・・って続くんだけどね(笑)』
    「(笑)ポンポコリンじゃなかったですね」
    『これってね、ようやく子供を授かった親が、子供の名前を決めるのに悩んで、お寺の和尚さんのところに相談にいって、そこで縁起のいい言葉を幾つか紹介されたんだけど・・・結局、どれにするか迷った末に紹介された全部の言葉、136文字を子供の名前に付けてしまったっていう話で…』
    「えっ? 野球部員が言ってた早口言葉って、あの全部が一人の子供の名前だったんですか?」
    『そうだよ(笑)』
    「え~ 面白~い。なんかすごい興味が湧いてきましたぁ。マスター、もっと他の話を教えてください!」
    『僕が好きな演目はね…まぁ有名どころでは皿屋敷とか、死神、時そば、初天神とか。でもね、何度聞いてもその度に感動する演目があるんだ・・・それは、芝浜って言うんだけどね…』
    「しばはま?」
    『そうだよ、芝浜・・・昔、天秤棒一本で行商をしている魚屋がいたんだ。その男は、腕はいいがとにかく酒好きでさ、飲みすぎては失敗ばかり。そんな男が、その日も女房に朝早く叩き起こされて、嫌々ながら芝の魚市場に仕入れに向かったんだ。だけど、早く行き過ぎたために市場はまだ開いていなくて…男は、誰もいない美しい夜明けの浜辺で顔を洗い、タバコを吹かしていると、男の足元に革の財布を見つけるんだ。それを拾って開けてみると、中には目をむくような大金が入っていて、男は有頂天になって自宅に飛んで帰り、さっそく大酒を呑んだんだ』
    「え~…拾ったお金をもらっちゃったんですかぁ?その人」
    『そうだねぇ、それって泥棒だよね。でね、男の女房は、男が酔っ払って寝ているうちに、長屋の大家のところに相談に行ったんだ。大家は女房にこう言ったんだよ。「盗人は死刑だよ! 財布は私が拾得物として役所に届けておくから、旦那には財布なんて最初から拾ってない!夢を見たんだろう!と言い張りなさい!」ってね』
    「それで、うまくいったんですか?」
    『うん。翌朝、二日酔いで起き出した男が拾った財布の金のことを訴えるが、女房は、そんなものは知らない、夢を見たんだろうとしらを切りとおしたんだ。男は、家中を引っ繰り返して財布を探したけどどこにも無い。結局男は、夢だったのだと諦めるんだ。それで、男はこのままじゃいけねぇと心を入れ替えて一念発起、酒を断って死にもの狂いに働きはじめたんだよ。それで懸命に働いた末、三年後には表通りにいっぱしの店を構えることが出来て生活も安定したんだ。そしてその年の大晦日の晩に男は、女房の献身をねぎらって頭を下げたんだ。すると女房は、三年前の財布の件について告白をはじめ、真相を男に話したんだよ。実は、拾ったのは夢じゃなく自分が大家に頼んで役所に届けてもらったってね』
    「えっ? 黙っていれば分からないでうまくいっていたのに…話しちゃったんですね。怒ったんでしょうね…旦那さん」
    『う~ん、それがね、実は三年経っても落とし主が現れなかったため、役所から拾い主にお金が下げ渡されて戻ってきたんだよ。女房はそれも一緒に打ち明けたんだ』
    「すご~い!」
    『旦那にひどく怒られることを覚悟していた女房だったけど、男は、女房を責めることもせず、道を踏み外しそうになった自分を真人間へと立直らせてくれたことに強く感謝するんだ。旦那に感謝され嬉しかった女房は、懸命に頑張ってきた夫をねぎらい、久し振りに酒でもと勧めたんだ。酒を断って三年間頑張ってきた男は、女房の勧めを拒んだんだけど、女房がそれでも勧めるもんだから、「おめぇが言うから飲むんだからな!」と、杯を手にしたんだ。そして酒が並々つがれた杯を口元に運んだんだけど・・・そこで男はあることを言うんだ。その言葉が“オチ”になるんだけどね』
    「えっ?杯を手にして何て言ったんですか? え~ 教えてくださ~い、マスター!!!」
    『知りたい?』
    「もちろん知りたいです!」
    『じゃぁ、今度一緒に聞きに行こうか?』
    「え~」
    と、言いながらも、そのあと藤原から“オチ”を教えてもらった陽菜子はこう言ったのだった。
    「素敵な“オチ”ですねぇ。わたし、落語が好きになりそうです」と。

  • #382

    六輔 (金曜日, 13 3月 2020 20:44)


    東庄町から東京に出てきてまだあどけなさの残る女の子だった陽菜子が、「あんくる」で働きだしてから1年半が経った頃には、すっかり大人の女性になっていた。
    化粧っけのない素朴な出で立ちながらも、その人柄の良さで、特に同性から好かれる「あんくる」の人気者になっていった。
    ときに、それなりに年齢を重ねた男性から声をかけられることもあった。
    「今度一緒に食事でも…」
    マスターに隠れてそんな誘いをしてくる客もいたが、陽菜子がそれに応えることはなかった。
    いろんな誘いがありながらもその全てを、客を傷付けることなく丁重に断った。
    「あんくる」で働くのは、親の負担を減らしたいがためであり、本当であればもっと勉強に時間を費やしたいと思っていたからだ。
    そんな陽菜子の頑張りを藤原はちゃんと理解していたのだった。

    その日の最後の客が帰り、陽菜子が後片付けを終えたのを見計らって藤原が声をかけた。
    『ヒナちゃん』
    「はい」
    『ちょっと、ここに座って』
    陽菜子は、藤原に促されカウンター席に座った。
    『ヒナちゃん、いつもありがとうね』
    「えっ?」
    『勉強を頑張りながら、休むことなく働いてくれて』
    「アルバイトで雇ってもらっているんですから当たり前のことですよ、マスター。礼を言われるようなことじゃないです」
    『いやっ、人間である以上、気分の浮き沈みがあったりするのが当然なのに、ヒナちゃんはいつも穏やかな気持ちで働いてくれて・・・そばにいてすごく楽なんだ』
    「そ、それは・・・お客様あってのお仕事ですから…」
    『ヒナちゃんのように出来る人ばっかりじゃないからね、ありがとう』
    と、藤原はカウンターの中にある引き出しの中から包みを取り出し、それを陽菜子の前に置いた。
    『おめでとう、ヒナちゃん。二十歳になって大人の仲間入りだね…これプレゼントだよ』
    「えっ? どうして私の誕生日を?」
    『だって、僕は君の雇い主だよ。履歴書だってもらっているしね(笑)』
    「あぁ、マスター、それって職権乱用です!(笑)」
    『まぁまぁ、そう固い事を言わずにさ。前にヒナちゃんが二十歳になったらワインを飲んでみたいって言ってたの思い出したからさ…』
    「覚えていてくれたんですねぇ、嬉しいです。開けてもいいですか?」
    『あぁ』
    陽菜子が嬉しそうに微笑みながら丁寧にプレゼントの包みを開けると、そこから出てきたのは高級そうなワインボトルだった。
    「え~ なんか、とっても高そうです。ワインのことを全然分からない私にはもったいないです」
    『それほど、上等なワインじゃないよ(笑)』
    「でもぉ・・・」
    『いいんだよ、ヒナちゃん』
    「ありがとうございますマスター。マスターは、ワインのこと詳しいんですか?」
    『ワイン通でワインセラーを持っている人ほどじゃないけど、少しだけ分かっているかなぁ』
    「私もワインのこと知りたいです。話してください、マスター」
    『相変わらず、僕に話させるのが好きだね、ヒナちゃんは(笑)』
    「だって、マスターの話を聞いているとすごく勉強になるし、何より楽しいから」
    『そっか、分かった。さて、ワインの何から話してあげようかな…』

  • #383

    六輔 (土曜日, 14 3月 2020 21:08)


    藤原は、陽菜子の前に置かれたワインボトルを手に取って、ラベルを見ながら話し始めた。
    『これ、フランスワインなんだよ』
    「えっ?フランス?フランスワインって一番高級なんですよね?やっぱり私にはもったいないです」
    『だから、さっき言ったろう。それほど上等なワインじゃないよって。フランスワインにもいろいろあるんだよ。ところでヒナちゃんは、ワインの生産量の多い国って分かるかい?』
    「えっと…フランスと違うんですか?」
    『生産量で言えばフランスよりイタリアの方が多いんだ。でもイタリアワインよりもフランスワインの方が有名で高級っていうイメージあるよね。それにはちゃんとした理由があるんだよ』
    「理由?」
    『うん。ワインの歴史とかを知るともっとワインが美味しくなるよ』
    「そうなんですか? ぜひ覚えたいです」
    『いろんなお酒の中でも、一番長い歴史があるのがワインなんだ。ワインが飲まれはじまったのは、日本の歴史でいえば縄文時代の頃なんだよ』
    「え~ そんな昔から飲まれていたんですか?」
    『とは言っても、日本でワインが飲まれるようになったのは室町時代。日本には日本酒などのお米からお酒を造る文化が先に成立していたからね』
    「あぁ、そっかぁ」
    『ワインといえばヨーロッパを思い浮かべる人が多いよね。フランス、イタリア、スペイン・・・中世ヨーロッパでは、ワインは「キリストの血」とされ、神聖で貴重なものとされていたんだよ。中世ヨーロッパの歴史はキリスト教が中心で、政治にも必ずキリスト教が関係してくるよね。まぁ、そういったところは大学生のヒナちゃんの方が詳しいかな(笑)』
    「はい、まぁ一応そういう歴史は学んできましたので…」
    『じゃぁそのへんの歴史の話は飛ばすとして・・・ほら、ここにCHATEAU(シャトー)って書いてあるでしょ?』
    「あっ、はい」
    『シャトーって、日本では“フランス語の城”を意味する言葉として使われているけど、フランスではボルドー地方にあるワイン造りをする醸造所のことを言うんだ』
    「ボルドー地方?」
    『フランス南西部にあるブドウの産地だよ。フランスはその全部がブドウ栽培に適した気候なんだけど、地方によってそれぞれに特徴があるんだよ。ボルドー地方はブルゴーニュ地方と並ぶフランスの2大銘醸地で、ボルドー地方のワインはいくつかの品種のブドウをブレンドして作られるのが特徴なんだよ』
    「巨砲とかマスカットとか・・・そういった品種を混ぜるんですね」
    『まぁ、フランスのブドウの品種に巨砲とかマスカットとかっていう品種はないけどね(笑)。ボルドー地方には独自の格付け制度があるんだ。「5大シャトー」なんていう言葉を聞いたことあるかい?』
    「5大シャトー?・・・ないです」
    『シャトー・マルゴーとか、シャトー・ラトゥールとか。シャトーは、それぞれに広大なブドウ畑を持っていて、そこで栽培され収穫されたブドウを使ってワインを作って貯蔵、瓶詰めして出荷するんだ。シャトーワインといえば、そのシャトー独自の手作りワインってことなんだよ』
    「えっ?・・・ということはシャトーって書いてあるこのワインも、すごく高級ってことじゃないですかぁ。そんな高価なものいただけないですよ、マスター!」

  • #384

    六輔 (日曜日, 15 3月 2020 19:31)


    藤原は大笑いしながらこう言った。
    『大丈夫だよ、これはその5大シャトーのワインとは違うから。シャトーは1級から5級まで格付けされていて、1級は5大シャトーだけ。ここにあるワインはもちろんその5大シャトーのものではないから安心して』
    「それでもシャトーってつくんですから、それなりのものなんですよね」
    『大丈夫。まだワインに慣れていないヒナちゃんでも、飲みやすいワインを選んだから。高ければ美味しいっていうものでもないからね・・・って、高いワインを飲めない“やっかみもの”のセリフかな(笑)』
    「でも、格付けがあるってすごいですね」
    『フランスでは、ワインに関する法律がビシッと出来ていて、ボルドー地方のワインであれば、こういう厳格な基準で作らないと、その地方のワインとしては売らせません!ってなっているんだよ。だからこそ世界中の投資家たちが高いお金を払ってフランスのワインに投資をするし、世界中からフランスのワインは特別だと言われるようになったんだよ』
    「そういうちゃんとした理由があったんですねぇ」
    『その点、イタリアの基準はあまり厳格ではないんだ。ジローラモのように「あなた可愛いね~」とか言っておおらかな性格。ワインもカジュアルに飲んでいこうって感じなんだろうね』
    「へぇ~ なんか面白いです」
    『それと、ボルドー地方のシャトーが生産者ごとに格付けされているのに対して、さっきフランスの2大銘醸地と言ったブルゴーニュ地方では畑ごとに格付けがされているんだよ。高いワインの代名詞、“ロマネコンティ”って聞いたことあると思うけど、ロマネコンティは畑の名前なんだよ』
    「そうなんですかぁ」
    『あっ、それとブルゴーニュ地方にボジョレーという地域があるんだ。聞いたことない?』
    「あっ! ボジョレー・ヌーヴォーですか?」
    『うん、正解! 毎年、11月の第3木曜日の日付が変わった午前0時に解禁される特産品の新酒のことをボジョレー・ヌーヴォーって呼ぶんだよ』
    「なんか、みんな大騒ぎしているみたいですよね」
    『そうだね。一説には、バブル時代に日本の酒造会社が流行らせて、ボジョレー・ヌーヴォー解禁で大騒ぎしているのは日本だけとも言われているんだよ』
    「へぇ~ あっ! バレンタインでチョコ食べるのと一緒ですね。バレンタインでチョコを食べているのは日本だけって言われていますもんね」
    『そうだね。あと、フランスワインで有名なのはシャンパーニュ地方』
    「あっ、シャンパン?ですか?」
    『正解。有名どころではドンペリニヨン…ドンペリだね。シュワシュワのワインを日本人はシャンパンなんて呼ぶんだけど、あれはまずいんだよね。シャンパーニュ地方で作られたもの以外は、スパークリングワインって呼ばないとね』
    「あ、それ聞いたことあります」
    『ヒナちゃんはルイヴィトンとか興味ある?』
    「う~ん、もちろん知ってますけど、わたし、ブランド志向じゃないからぁ…」
    『そっか。ルイヴィトンってLVMHってロゴを使っているでしょ。あれって、ドンペリニヨンをモエシャンドンが買い取ったあと、ヘネシーというお酒とこのドンペリニヨンの両方をルイヴィトンが買い取ってLVMHってロゴになったんだよ』
    「ホンとですかぁ? ルイヴィトンとドンペリが一緒だったなんて知らなかったです」
    『お金持ちのやることはすごいね!』

  • #385

    z六輔 (月曜日, 16 3月 2020 22:29)


    藤原はワインボトルを持ち上げて、ボトルの形について話し始めた。
    『ヒナちゃん、このボトルの形はねボルドー型って言うんだよ』
    「えっ? ボトルの形に名前がついているんですか?」
    『うん。この「いかり肩」の形状のボトルがボルドー型。あと、ブルゴーニュ型って言って「なで肩」の形をしたボトルもあるんだよ』
    「あっ、なんとなく分かります。シュッてしている瓶ですよね」
    『うん。このボトルの形にもちゃんと意味があるんだよ。ボルドー地方のワインは熟成させて飲むワインなんだ。ワインは熟成させることで“オリ”が出来るんだけど、その“オリ”がグラスに入りづらくするためにボトルを「いかり肩」にして、その肩の部分に“オリ”を付着させるんだ』
    「へぇ~ だからこういう形をしているんですね」
    『うん。ワインはデリケートなお酒。日光だけではなく蛍光灯の光でも劣化するって言われているんだよ。だから劣化を守るために緑や茶色のボトルを使うんだ。その点、ロゼワインなんかは熟成させないで直ぐに飲んだ方が美味しい。だから透明なボトルに入っているんだよ。それにせっかくピンクで可愛い色をしているんだしね。ボジョレー・ヌーヴォーなんかも透明のボトルだね』
    「みんなちゃんと理由があるんですねぇ。確かにそういったことを知っていた方が美味しく飲めそうですよね」
    『ワインを選ぶとき、ワインのラベルが少しでも分かると楽しいよね』
    「はい、そうですよね」
    『ワインのラベルにはイラストと一緒にワインの名前、いつ、誰がどこで作ったかなどが書かれてあるんだ。それにブドウの種類や品質、アルコール度数とか・・・ワインのラベルを見ているうちにラベルから自分の好みのワインが分かるようになっていくもんなんだよ』
    「私もそんなふうになれるのかなぁ・・・っていうか、わたし、きっとそこまでワインを沢山飲まないと思います(笑)」
    『そっか(笑)あとは、ワインを飲むグラスだね。まったく同じワインでもグラスの形によって、渋みを強く感じたり、逆に柔らかく感じたりするんだよ』
    「あっ、それは私も知ってます!舌の先端は甘味を、先端に近い両側部分は塩味、舌の付け根に近い両脇部分が酸味を強く感じるとか、そういう話ですよね?」
    『正解!』
    「・・・あ」
    『うん? どうしたの…ヒナちゃん』
    「どうしよう・・・わたし、このワインに相応しいグラスが無いです。どういう形のワイングラスを用意したらいいですか?」
    困った表情の陽菜子を見て藤原は笑顔でこう答えた。
    『グラスも一緒に買ってあるよ、安心して』と。

  • #386

    六輔 (水曜日, 18 3月 2020 01:27)


    「あんくる」に毎月決まった日にやってくる女性がいる。
    それは藤原の亡くなった妻・美代子の唯一無二の親友だった重里皐月(シゲサト・サツキ)だ。
    美代子が35歳で亡くなってから間もなく10年が経とうとしていたその日は、美代子の月命日だった。

    (陽菜子)「今日は17日ですよね?・・・遅いですね…皐月さん」
    (藤原)「うん」
    (陽菜子)「今日はもう来ないんですかね?」
    (藤原)「いやっ・・・もう直ぐ来ると思うけど…」
    と、陽菜子と藤原がそんな会話を交わして直ぐだった。
    「あんくる」の入口のドア鈴が“カランコロン”と鳴った。
    (陽菜子)「あっ、皐月さん!」
    (藤原)「(笑)ほらね」
    (陽菜子)「ホンとに直ぐ来ましたね(笑)」
    (皐月)「えっ? なに? 私が来た途端になんなの?」
    (藤原)「なんでもないよ!」
    (皐月)「うそ! 私の悪口でも二人で言ってたんでしょ!」
    (陽菜子)「違いますよ、皐月さん。皐月さん遅いですねって話していたところにちょうどいらしたから…」
    (皐月)「なんだ、そういう事か(笑)ちょっと用事を済ませてきたから遅くなっちゃった」
    (藤原)「いらっしゃい」
    (皐月)「元気?…藤原君」
    (藤原)「あぁ、見ての通りだよ」
    (陽菜子)「こんにちは、皐月さん」
    (皐月)「こんにちは…ヒナちゃん。ヒナちゃんも元気?」
    (陽菜子)「はい」
    藤原と陽菜子に笑顔を見せた皐月は、カウンター席に座って、その左隣の席に持っていたレザーのトートバックを置き、襟元から総柄大判のスカーフをほどいてバックの上に置いた。
    派手でもなく、高級なブランドものでもないが、春めいてきた陽気に誘われるように明るい色のニットのセーターとパステル調の素朴で可憐な小花柄模様のスカートという出で立ちが、皐月が落ち着いた大人の女性であることを一目で認知させていた。
    明るめのカラーに染められ、ミディアムの長さにカットされた髪のその毛先は内と外の交互に巻かれ、そのミックスウェーブスタイルの髪型が皐月の可愛さをより一層上品に演出していた。
    (皐月)「いつものお願いします」
    (藤原)「はい・・・あっ、そう言えば…おめでとう」
    (皐月)「えっ?何が?」
    (藤原)「先週お誕生日だったよね」
    (皐月)「あら、ありがとう。覚えてくれていたのね」
    (藤原)「明後日の19日が美代子の誕生日・・・その一週間前だもんね…皐月さんの誕生日」
    (皐月)「そっか、美代子の誕生日のついでに覚えていてくれたってことか。3月生れのくせに何故か皐月ってつけられちゃったのよね、私。まっ、でもありがとね。50歳も間近になってくると、誕生日って特別に嬉しいものでもなくなってきたけど、でもやっぱり誰かに“おめでとう”って言われるのって嬉しいものよね」

  • #387

    六輔 (水曜日, 18 3月 2020 19:28)


    皐月と美代子が出会ったのは、同じ高校に進学したその入学式の日だった。
    1学年だけで6クラスもあるマンモス中学校を卒業した皐月に対して、同級生がわずか10人といった田舎の中学校を卒業した美代子とは、対照的な入学初日だった。
    クラス分けされ、一クラス45人のクラスに同じ中学出身の顔見知りが8人もいて休み時間には談笑までできた皐月に対して、美代子は誰一人として知っている人がいなかった。
    緊張のあまり顔をあげることさえ戸惑っていた美代子に声をかけたのが皐月だった。
    「わたし、西中出身の重里皐月(シゲサト・サツキ)。せっかく同じクラスになったんだから仲良くしましょ」
    『あっ、…う、うん。わたし唐品美代子(カラシナ・ミヨコ)』
    そんなきっかけで知り合った二人は直ぐに意気投合し、互いに親友と呼びあえる間柄になった。
    高校時代の3年間をテニス部の部活に費やしていた皐月に対し、運動の苦手な美代子は新聞部に所属していた。
    活発的な皐月に対してどちらかと言えば内向的な美代子と、性格はまるで違ったが、それでも二人が親友であることは紛れもない事実だった。

    二人には、それぞれ違った将来の夢があった。
    花の好きな皐月は、将来はフラワーコーディネーターになるという夢を持っていた。
    一方、成績優秀だった美代子は、物を書く仕事に憧れていて、将来はジャーナリストかルポライターになりたいという夢を持っていた。
    高校生生活もあっという間に時が過ぎ、二人は3年生になって進路を決めなければならない時を迎えていた。
    「美代子は大学決めた?」
    『う~ん、できたら東京の国立文系の大学に行って、将来はルポライターにでもなりたいなぁと思ってるの』
    「ルポライター?ルポライターとジャーナリストってどう違うんだっけ?」
    『ルポライターは、現地報告者、記録者とも言われるの。実際の現場からの報告、レポートを主な仕事とする人で、それに対してジャーナリストは、トピックスや時事問題、その時々に生起する様々な問題に対して、自分自身の見方、見解を加えながら解説したり批判を加えたりして文章を書くのを仕事とする人だよ』
    「そっか。う~ん、なんとなく美代子がルポライターがいいって言ったのが分かるような気がする」
    『ルポライターの仕事は、出来るだけ客観的にそして詳細に、また生々しくレポートすることが求められるの。内容、表現によっては読んだ人をすごく感動させることもあって、ノンフィクションとして一種の文学の領域にまで高められる作品だってあるんだよ』
    「へぇ~、美代子ならきっと素敵な作品を書くルポライターになれるわよ」
    『ありがとう、って皐月は? やっぱりフラワーコーディネーターを目指すの?』
    「うん!そのための専門学校に行きたいと思ってるんだけど、行きたい学校が東京にしかなくてさ…親が、私一人で東京に出すのは心配って・・・今どき、そんな親いないよね…トホホだよ」
    『女の子を都会に出すのを心配しない親はいないよ。うちだって、口には出さないだけで・・・あっ!』
    「えっ?なに?」
    『二人で一緒に上京して一緒に暮らすってどう?』
    「ルームシェアってこと?」
    『うん!』

  • #388

    六輔 (木曜日, 19 3月 2020 20:35)


    美代子は目標だった東京の国立文系・一橋大学に合格し、皐月は美代子と一緒に暮らすということを条件にして親を説得し、希望する東京の専門学校に進学することが出来た。
    二人は、田舎から一緒に上京し直ぐにルームシェア生活を始めた。
    “親しき中にも礼儀あり”と、二人はルームシェアの条件を初めに決めた。
    干渉し過ぎないことが長続きの絶対条件だと考えた二人は、お互いのプライバシーを尊重することだけは絶対に守ろうと話し合った。
    さらには、共用で使用する例えばトイレットペーパーや洗剤などは、雑費として二人が定額を出し合い、その中で賄っていくことや、他人の宿泊を許す条件、掃除は当番制にするといった幾つものルールをきちんと紙に書き出し、それを壁に貼って守ることを誓い合った。
    約束事をしっかり守りながら学校に通っていた二人だったが、二人の置かれた環境の違いが徐々に二人の暮らしにすれ違いを生じさせていった。
    それは、偏差値の高い国立大学に通う学生と、専門学校に通う学生とでは、明らかに生活態度が異なっていたことが原因だった。
    家に帰ってからも勉強をしなければならなかった美代子に対して、皐月のプライベートな時間は、ほぼほぼ遊びの時間に使われるようになっていったのだ。
    皐月が不良学生だったという訳ではなく、田舎育ちの女の子が周りの都会に慣れた女の子に誘われるがままいろんな遊びを覚え、ごく一般的な学生生活をエンジョイする女の子になっていったということだった。
    皐月が専門学校のクラスメイトの家に頻繁に泊まるようになったことで、必然的に美代子との約束事を守れなくなって行った。
    『えっ? 今日も泊まり?・・・うん、分かった』
    「ごめんね、今日は私が掃除、洗濯当番だったよね?本当にゴメン…美代子」
    『仕方ないよぉ~ 誘われちゃったんでしょ? 行ってきな! 私が代わりにやっておくから』
    そんな皐月の身勝手な行動は、日を追うごとに増えて行った。
    当然、美代子との“ルームシェアの約束事”を破ることも増えて行き、皐月はその度ごとに謝った。
    「ゴメン…美代子」
    普通の感情の持ち主であれば、「いい加減にしてよ!私は一人暮らししてもいいんだよ!」と腹を立てているところだ。
    だが、美代子が皐月に対して腹を立てたことは一度たりともなかった。
    愚痴もこぼさずに“ルームシェアの約束事”を全て一人で片づけて行った。
    それが出来たのは、美代子の性格が「魚座のA型の女性」を代表するような性格だったからだ。

    血液型や生年月日、心理テストなどを用いて性格を診断することがあるが、幾つもの診断の方法がある中で、一番に市民権を得ているのは「血液型による性格診断」だろう。
    一番になっている理由は至ってシンプルで、血液型による性格診断の結果が当てはまると感じる人が一番多いからだ。
    だが、上には上があるものだ。
    世の中にはもっと当てはまる診断方法が存在した。
    それは「星座+血液型+性別」による性格診断だ。
    もちろん、当てはまらない人もいるだろうが、小生が周りの人で確認してみたところ、その的中率は恐ろしいほど高かった。
    美代子が「魚座のA型の女性」ならではの性格だったことで、皐月との関係が崩れることが無かったのだった。

  • #389

    六輔 (金曜日, 20 3月 2020 20:29)


    相手を気遣うあまり“ノー”と言えない人がいる。
    そんな人は、自己犠牲の精神が強く、自分の利益を代償にしてでも他の人に徳を捧げようとしてしまう。
    また、己の幸せよりも他人の幸せを願うあまり、嫌なことや不可能そうな事でも断ることが出来ずに、無理をしてでも人の為に尽くそうと努力をしてしまう。
    さらには、人が求めていることを即座に察知し、それを叶えてやるために行動しようとするのだが、気を使いすぎて自分のことが疎かになり、心身ともにぼろぼろになるまで人のために動こうとしてしまう。
    これらは全て魚座のA型である美代子に当てはまる性格診断の結果だ。
    こんな性格の美代子であったがために、わがままし放題の皐月との共同生活をずっと続けることが出来たのだった。

    魚座のA型の女性は、掴みどころがなく何も考えていなそうで実は内なる情熱を持っている。
    飽きっぽいところがありながらも、自分がこれだと決めたものには熱中しやすく、一度決めたら一つのことにのめり込んで周りの意見や忠告を無視してまで物事を追及しようとする。
    また、空想家で理想主義者であり、凡人とは比べ物にならない突出した感性を持っている人が多い。
    芸術的センスは並外れたものがあり、理解しがたいような奇抜なデザインやファッションに対して共感したり、触発されたりして自分を表現したりするのが得意なのも魚座のA型の女性の特徴だ。
    手先が器用でどんなことでもそつなくこなすことが出来て、何処へ行っても人の為になるので人に好かれやすく、可愛がられる。
    そんな魚座のA型の美代子のような性格の人であれば、相手がどんなわがままな人であってもうまくやっていけそうだ。
    だが、魚座のA型の女性だって普通の人間だ。
    無理が続けば当然どこかにひずみが現れる。
    魚座のA型の女性は、何を考えているのか分かりにくく、内面では引っ切り無しに感情が動いている。
    魚座のA型の女性は、世間体をすごく気にする面もあり、臆病なところもある。
    魚座のA型の女性は、相手の出方を意識しすぎて自分の思い通りに出来なくなってしまうことが多い。
    魚座のA型の女性は、周りの反応を気にしすぎるためストレスをためやすい。
    と、魚座のA型の女性ならではのたくさんのマイナス要素がある。
    そしてそんなマイナス要素の中で一番の敵となるのはやはりストレスをためてしまうことだ。
    自分のストレスをためやすいというマイナス要因を承知している魚座のA型の女性は、ストレスをためないためにあることに走る。
    “食”だ。
    喰って喰って喰いまくることでストレスを振り払うのだ。
    だから例えばラーメンを食べに行ったその帰り道に焼き肉食べ放題の店に行く女性がいても、それは魚座のA型の女性ならではの行動であり、驚くようなことではないのだ。
    ただ、魚座のA型の女性の誰もが大喰いであるとは限らない。
    美代子は、人一倍少食だったのだ。
    喰いまくることでストレスを振り払うことが出来なかった美代子は、別のあることのおかげでストレスをためずに済んだのだった。

  • #390

    六輔 (土曜日, 21 3月 2020 20:18)


    美代子のように常に相手が何を考えているのかと気遣い、求められていることの全てに対して“ノー”と言わずに自己犠牲を続けていれば、それは間違いなくストレスとなって返ってくる。
    それが人間であり、だからこそ魚座のA型の女性の多くはそれを回避するために“食”に走ったり、趣味に熱中したりする。
    だが、美代子の場合は少食であり、しかも勉強に追われて趣味に熱中する時間もなかった。
    そんな美代子がストレスの深い闇に襲われずに済んだのは、そばで美代子を守ってくれた人がいたからだった。
    そう、藤原涼輔だ。
    美代子と藤原の出会いは、大学の「ジャーナリズム研究会」というサークルだった。

    2年生になった美代子は、自分のこれからの就職活動などを相談するために大学のキャリア支援センターを訪れた。
    『社会学部2年の唐品美代子といいます。就職のことを相談したくて来ました』
    「まだ2年生?」
    『はい』
    「いい心掛けだね。早いうちから就職のことを考えておくのはいいことだよ。で、希望はどんな感じなのかな?」
    『まだはっきりとは決めていないんですけど、一番の希望は物を書く仕事をしたいと思っています』
    「物を書く? ジャーナリストかな?」
    『う~ん、ルポライターがいいのかな…とか。でも、まだそれもよく分からないんです』
    「そっか。それなら、いいサークルを紹介するからそこに行ってごらん」
    『サークルですか?』
    「うん、ジャーナリズム研究会というサークルだよ。そうだな、君と同じ学年の藤原涼輔君を頼って行きなさい。彼ならきっと君のいい相談相手になってくれるはずだよ」

    この時、美代子の相談を受けたキャリア支援センターの職員が、ジャーナリズム研究会を紹介していなければ、藤原と美代子が出会うことは無かった。
    ましてや支援センターの職員は藤原を頼って行けと名指しで藤原を紹介した。
    ややもすれば美代子にとっては“鋳掛屋の天秤棒”だったのかもしれない。
    それでもこの時に藤原を紹介してもらったからこそ、短い生涯を閉じることになる美代子は人生の最期まで藤原を愛し続け、幸せな人生をおくることが出来たのであった。

    人と人が出会うのは、一見偶然であるように思える。
    そう思うのは、自分で会いたいと思う人を完全に選ぶことが出来ないからだ。
    だがしかし、出会いに偶然など無い。
    全ては自分で作った必然の出会いなのだ。
    出会い自体は偶然に見えてもその出会いを引き寄せたのは自分自身なのである。
    美代子の場合、ジャーナリズム研究会を訪ね、藤原に事情を説明するまではキャリア支援センター職員が用意したものだ。
    だがその後、美代子が藤原の優しさに触れ、心から頼るようになったのは決して偶然ではなく美代子の意思だ。
    例えそれが運命の出会いであったとしても美代子が藤原に全く興味を持たなければ、そのままスルーして何も起きることなく二人は離れていたはずなのだ。
    またそれは藤原にも言えることだ。
    自分を頼ってきた美代子を、そこそこにあしらってしまっていれば“出会い”にはなっていたかったのだ。
    人が人と出会うということはそういうことだ。

  • #391

    六輔 (日曜日, 22 3月 2020 21:02)


    キャリア支援センターで話を聞いた美代子は、その翌日、ジャーナリズム研究会が活動する部屋を訪れた。
    『こんにちは…』
    「はい」
    『社会学部2年の唐品美代子といいます。ふ、藤原涼輔さんいらっしゃいますか?』
    「藤原?…僕だよ」
    『えっ?あっ、は、初めまして。社会学部2年の唐品美代子といいます』
    「(笑)二度目だよ、名のったの…唐品美代子さん」
    『あっ、はい。えっと・・・キャリア支援センターに行って就職の相談をしていたら、ジャーナリズム研究会を紹介されて…』
    「で、僕の名前が出たの?・・・あぁ、斎藤さんかな?」
    『あっ、はい! 誰から紹介されたのって聞かれたら「斎藤」って言えば大丈夫だからって言っていました』
    「僕も何かあると相談しに行くんだよ…斎藤さんのところに」
    『そうだったんですね』
    藤原は優しそうに微笑んで言った。
    「まぁ、そこに座って。それから…ここはそんな緊張するようなところじゃないから、リラックスしてね。ここにいるのはみんな同じ大学に学ぶ仲間なんだから。でしょ?唐品さん」
    『はい』
    藤原に“緊張しないで”と言われながらも、結局は緊張し通しだった美代子は、その日その部屋で藤原と何を話したのかほとんど覚えていなかった。
    それでも、帰り際、藤原の誘いに二つ返事でこう答えたのだった。
    『はい、ぜひサークルに参加させてください。よろしくお願いします』
    それが二人の出会いだった。

    ジャーナリズム研究会、通称ジャリ研は大学の公認サークルで、主に水曜日と土曜日の週2回活動し、部員たちで作るフリーペーパーも年6回発行している。
    名前から固そうなイメージのあるサークルだが、実はそうではなく、メンバーそれぞれに得意分野を持ち、「政治」や「社会」といった分野から時には「日本酒」や「恋愛」といったテーマで熱く語り合ったりもする。
    藤原は、まだ2年生になったばかりだったが、特に「政治」に興味を持ち、サークルの中でも中心的な立ち位置で精力的に活動していた。
    美代子はそんな藤原の魅力にひかれ、憧れた。
    そしてその“憧れ”の気持ちが大きくなり、いつしか“愛”へと変わっていったのだった。
    藤原もまた、美代子の魅力にひかれていった。
    どちらかと言えば内向的な女の子の美代子だったが、芯はしっかりとしていて、誰にでも優しいその性格は、藤原の気持ちを動かすには十分なものだった。
    美代子に対する自分の気持ちに気づいた藤原が、美代子に告白したことで二人の交際は始まったのだった。

  • #392

    六輔 (月曜日, 23 3月 2020 20:04)


    藤原は、美代子と付き合い始めて直ぐに美代子の性格を把握できた。
    常に相手が何を考えているのかと気遣い、求められていることに対して“ノー”と言えない美代子の性格は、変えようと思って変えられるものではないと思えた。
    無理やり変えてしまえば、美代子らしさが失われることになり、美代子自身も生き辛くなってしまうはず。
    そう考えた藤原は、美代子がストレスにつぶされないように自分が守ってやればいいのだと心に誓ったのだった。
    『ゴメンなさい…涼輔さん』
    「えっ?今日も頼まれちゃったの?・・・そっか、文句も言わずに偉いぞ、美代子」
    『怒らないの?』
    「怒らない?僕が?」
    『…うん』
    「僕が怒ったら美代子が困るだろう?大丈夫、別の日に今日の分まで美代子との楽しい時間を作るから」
    『涼輔さん・・・ありがとう』

    また藤原は、時には美代子に対して「自分本位になって好きなように生きてみることも必要だよ」と解いたりもした。
    「美代子…」
    『うん? なぁに涼輔さん』
    「美代子は、もう少し自分に優しくしてやってもいいんじゃないのかなぁ?」
    『えっ?・・・どういうこと?』
    「美代子は優しいから他人のことを自分のことのように考えたり、相手に対して心を向けて気を配ることが出来る本当に優しい女の子なんだよね」
    『え~ そんなぁ・・・特別意識してないけど…』
    「うん、だろうね。それが美代子のいいところでもあるからね。でもね美代子・・・美代子は自分のことになると急に客観的になったりして、冷淡になったりもしちゃうんだよね」
    『えっ?…そっかなぁ。 特別自分に対して厳しいとは思ってないんだけどなぁ』
    「時には自分の好きなように生きてみるのもいいかもしれないよ!」
    『自分の好きなように?・・・そっかぁ。なんか涼輔さんからそう言ってもらえただけで気が楽になったっていうか・・・ありがとう、涼輔さん』
    こんなふうに、常に藤原が美代子を見守っていたのだった。
    美代子のような女の子は、藤原のように一歩勇気を与えてくれるパートナーがそばにいてくれるだけで、ストレスをためることなどいとも簡単に回避できるのだ。
    食に走らなくとも。

  • #393

    六輔 (火曜日, 24 3月 2020 21:10)


    美代子と藤原が付き合い始めてから約半月が過ぎていたが、皐月が、美代子が恋をしていることに気づくまでに、さほど時間はかからなかった。
    「ねぇ、美代子…」
    『なぁに、皐月』
    「お付き合い始めたの?」
    『はっ? なに、いきなり』
    「顔に書いてあるわよ! 私は恋をしています!って」
    『えっ? うそ、ウソ! 嘘だし!』
    美代子は慌てて立ちあがり、ガラスに映る自分の顔を覗き込んだ。
    皐月は、そんな美代子にこう言った。
    「ねぇ、この小説は“顔に書いてある攻撃”が好きみたいで、何度も出てくるけど…」
    『えっ? 小説? 小説ってなぁに?』
    「あっ、こっちの話、気にしないで!…ってさぁ、“顔に書いてあるよ”って言われて全部の人が必ず鏡を見るけど…本当に顔に何か書いてあると思って見ているわけ?」
    『えっ?そ、そ、それは・・・』
    「(笑)」
    『だ、だから何にも書かれてないし!』
    「(笑)美代子ったら。ねぇ、どんな人なの? 教えて…美代子が本気で好きになった人がどんな人なのか」
    『もぉ~ 皐月に隠し事は出来ないってことか(笑)』
    「そういうこと!」
    『2年になって入ったサークルの人なの』
    「美代子が入ったサークルって・・・ジャリ研の?」
    「そう。同じ2年生で・・・藤原涼輔さんって言うんだ。鹿児島出身の人』
    「藤原君かぁ」
    『ジャーナリストを目指している人で、ジャリ研でもすごく一生懸命に頑張っている人なの。こんな私にとっても優しくしてくれるんだよ』
    「へぇ~ ねぇ、ねぇ…どんな感じの人?誰かに似てる?」
    『似てる人?…それがさぁ、すごい偶然なんだけど・・・皐月の好きな俳優さんにそっくりなの』
    「えっ!私の好きな俳優さん?って、三田村邦彦さんのこと? うそ? マジで?」
    『・・・うん』
    「やられた~!!! マジかぁ。ねぇ、ねぇ、今度絶対に紹介してよね、美代子」
    『・・・うん、分かった』

  • #394

    六輔 (木曜日, 26 3月 2020 00:17)


    早速、三人で食事をすることになった。
    約束の日、美代子と皐月の二人は、行きつけのファミレスで藤原が来るのを待っていた。
    『ねぇ、皐月…』
    「なに?」
    『なんか無口になってない?』
    「はっ?な、なってないよ!」
    『だって、普段と違ってあんまり喋らないんだもん』
    「えっ?・・・ふ、普通だよ!」
    と、そんな会話をしているところに藤原がやってきた。
    『あっ、きた!』
    美代子は、入口で店内を見回す藤原に自分達の居場所が分かるように大きく手を振った。
    この時、皐月は食べることに一生懸命なふりをして、顔を上げようとはしなかった。
    美代子の彼氏だと知りながらも、ずっと憧れてきた三田村邦彦にそっくりな人が来るということに胸の高鳴りを抑えるので精一杯だったからだ。

    (藤原)「ごめん、待たせちゃったね」
    美代子は笑みを浮かべて“あなたが座る場所はここだよ”と誘導するかのようにボックスシート内で席を移動した。
    (美代子)「あっ、私たちも今来たところだよ!…って、もうほとんど食べ終わっているんだから分かっちゃうね(笑)」
    一瞬で美代子と藤原が仲の良い二人であることが分かった。
    藤原は「ごめん、ごめん」と言いながら美代子の隣に座り、そして姿勢を正してから自己紹介を始めた。
    (藤原)「遅れてしまってごめんなさい。藤原です、初めまして」
    (皐月)「あっ…いいえ。は、初めまして。美代子のルームメイトの重里皐月です」
    皐月は緊張とこの上ない驚きで声の震えを抑えることが出来なかった。
    美代子が言った『皐月の好きな俳優さんにそっくりなの』という言葉に嘘がなかったからだ。
    自分が想い描いていた以上に三田村邦彦にそっくりであったことに驚きを隠せず、思わず顔を紅潮させてしまった皐月だった。

  • #395

    六輔 (木曜日, 26 3月 2020 20:39)


    皐月が通っていたフラワーコーディネーターを養成する専門学校は、女子だけが通う学校だった。
    それも一つの理由であったのだが、皐月は、専門学校に進学してから彼氏という存在を作らず、同性の友達と遊びを楽しむ学生生活を1年以上送ってきた。
    もちろん、19歳になった皐月には、異性とお付き合いをしてきた経験は何度かあった。
    人並に人を好きになり、失恋をして辛い想いをした経験もあった。
    それでも、この時の皐月は生まれて初めての経験をしたのである。
    そう、一目惚れだ。
    藤原がずっと憧れてきた三田村邦彦に、自分が想像していた以上に似ていたのもその原因の一つだったが、外見がどうのこうのではなく、藤原の人間性を好きになってしまったのだった。
    藤原は、その全てが皐月の理想とする人だったのである。

    ファミレスでの食事を終え、藤原と別れた二人は、アパートに向かって談笑しながら歩いていた。
    「ねぇ、美代子…」
    『うん?』
    「素敵な人だね、藤原君」
    『ホンと?』
    「うん。でもびっくりしたぁ。本当に三田村邦彦さんにそっくりなんだもん」
    『でしょ。あっ!・・・好きになったりしないでね!三田村さんに似ているからって』
    「バ~カ!親友の彼氏を奪うみたいなこと出来る訳ないでしょ!私の好きな三田村邦彦さんは世界でただ一人!」
    『(笑)そっか。でも、皐月に紹介して良かったぁ・・・あっ、また今度三人で一緒に食事しようね!』
    「えっ?・・・う、うん、そうね」

    その日の夜、自分の部屋のベッドに潜り込んだ皐月は、ファミレスで藤原と交わした会話を思い出していた。
    「なんか緊張していて、藤原君とどんなことを話したのかよく覚えてないや」
    と、ファミレスでの光景を思い浮かべていると、いきなりある言葉が頭の中に浮かんできたのだった。
    「・・・えっ?」
    それは「略奪」という言葉だった。

  • #396

    六輔 (金曜日, 27 3月 2020 07:18)


    皐月は、頭を全部覆うように布団をかぶって
    「略奪?・・・バ~カ!変なドラマの見過ぎだぞ、サツキ!」
    と、声を出して笑った。
    皐月と美代子が出会ってから、二人は一度も喧嘩をしたことがなく、意見が分かれて口論をしたことも無かったのだが、そうすることが出来てきた理由を皐月はちゃんと理解していたのだ。
    それは美代子が自分の気持ちを全て押し殺して譲ってきてくれたからなのだと。
    皐月は、専門学校で出会った友達とどれほど楽しく遊んでいたとしても、美代子以上に大切に思える友達はいなかった。
    美代子以上に自分のことを大切に想ってくれる友達がいないことを分かっていたからだ。
    皐月は、頭の中から藤原の映像を振り払うかのように寝返りをうって、声にして気持ちを確認した。
    「美代子は一生の友達!」

    そんな皐月が、大切に思う親友の彼氏に、たとえ一目惚れをしてしまったとしても理性を失うことは無かった。
    葛藤が無かったといえば嘘になるが、それでも皐月が、美代子を羨んだり妬んだり、もちろん憎んだりすることもなく、ただ純粋に美代子と藤原の幸せを願ったのだった。
    それでも強いて言えば、藤原の存在を知ってしまった後に、美代子から食事に誘われることには“ノー”と答えたいと思った皐月だった。
    『ねぇ、皐月…』
    「なぁに、美代子」
    『明日、ひま?』
    「明日? ・・・うん、これと言って用事ないよ」
    『じゃぁさ、三人で食事しない?』
    「えっ?三人で?」
    『涼輔さんと3人でさ!』

  • #397

    六輔 (土曜日, 28 3月 2020 22:31)


    皐月はそんな誘いを受けるたびに
    「行きたくないなら、断ってもいいんだぞ、サツキ!」
    と、自分に言い聞かせようとするが、それでも結局は
    「うん、行く!」と答えてしまうのだった。
    断らない理由はただ一つ。
    藤原と一緒にいる時間がただただ楽しかったからだ。
    時には「私って、二人のおじゃま虫になってない?」と、考える時もあったが、美代子の方から誘ってくれていることをいいことに、誘いを断らずに出かけて行った。
    そして藤原もまた皐月が美代子と一緒にやってくることを喜んだ。
    皐月が、自分たちが知らない学校以外の世界を知っていて、それを聞くのが楽しくて仕方なかったからだ。
    (藤原)「ねぇ、皐月さん」
    (皐月)「なに、藤原君」
    (藤原)「皐月さんはディスコとか行くの?」
    (皐月)「ディスコ? うん、行くよ!」
    (藤原)「今度、麻布十番にマハラジャTOKYOっていうディスコが出来るって聞いたんだけど、どんなところなの?」
    (皐月)「あぁ、マハラジャねぇ。マハラジャは、大阪に1号店がオープンしてから日本各地に出来ていって、今度麻布十番に出来るマハラジャTOKYOは、とにかく広くてすごいっていうもっぱらの噂だよ」
    (藤原)「へぇ~ マハラジャが出来たら皐月さんも行くんでしょ?」
    (皐月)「ディスコは好きで、あちこち行くけど…でもマハラジャに行ってお立ち台に上がってまでは踊れないかなぁ(笑)」
    (藤原)「お立ち台?お立ち台って何?」
    (皐月)「みんなが踊るフロアより一段高い部分があって、そこに女の子が上がって踊るの。男の子たちの視線を集めてね!」
    (藤原)「へぇ~。社会勉強のために僕たちも行ってみる?・・・美代子」
    (美代子)「えっ?私には無理かなぁ。ちなみにだけど、そういうところのドレスコードってどんな感じなの?」
    (皐月)「ワンレン・ボディコンだよ!」
    (美代子)「・・・無理(笑)」
    (藤原)「ワンレン?ボディコン?って、なに?」
    (皐月)「ワンレンって、ワンレングスっていう髪型のこと。段の入っていない全部同じ長さの髪型のことよ。ボディコンっていうのは、ボディコンシャスの略で、体のラインがハッキリ出るピタッとした洋服のことよ」
    (美代子)「私には無理だと思うでしょ?(笑)」
    (藤原)「・・・そ、そうだね(笑)」

  • #398

    六輔 (日曜日, 29 3月 2020 19:23)


    美代子と皐月の共同生活も一年が経ち、二人はそれぞれ2年生になった。
    専門学校に通う皐月は、それまで遊びまくっていた私生活を正し、髪も黒髪に戻して、就職活動を始めようとしていた。
    『ねぇ、美代子』
    「うん?なぁに、皐月」
    『いよいよ来週から、面接が始まるんだぁ』
    「来週から?…そっかぁ。もぉ就活が始まるのねぇ」
    『わたし・・・やっぱり、フラワーコーディネーターの仕事がしたいんだ』
    「皐月がずっと目標にしてきたお仕事だもんね」
    『うん。結婚式やレストランで開かれるパーティーとか…クライアントの希望や予算を聞きながら、色合いや花の大きさ、花言葉なんかも考えながら最適な花をセレクトして・・・例えばそれが結婚式の披露宴だったら、会場の入り口から受付テーブル、メインテーブル、ゲストテーブルとあらゆる場所に花を飾って、新郎のブートニア、新婦のブーケと髪飾り、ご両親に贈呈する花束やフラワーシャワー・・・数知れずある花の出番を華やかに演出するの』
    「一生に一度の披露宴。美しい花々で新郎・新婦をより輝かせるお仕事…素敵よね。皐月にお似合いの仕事だと思う」
    『ありがとう。でもね、花が好きだからこそ勤まるお仕事なのよね、フラワーコーディネーターって。花の管理も自分でするんだよ』
    「花の管理?」
    『うん。気温や湿度を確認したり、茎や葉をカットしたり水を替えたりして、使用する花々を最高の状態に保てるように常に気を配ったり、その他にも制作した花の配送、お客さんへの接客や販売もやるの。花を扱うときは低温の環境の中で作業をしなきゃならないから、特に冬場はつらい作業が続いて、手が荒れてしまったりすることも珍しくないのよ』
    「そっかぁ・・・大変なお仕事なんだねぇ」
    『花の命は短いから、満開を迎えても売れ残ったりした場合には、自分の作品を自分の手で廃棄するという悲しい事態に向き合わなきゃならないときもあるし…』
    「そっかぁ」
    『どんな仕事でも、やってみなきゃ分からない大変な部分があるのよね』
    「そうだねぇ。ところで、面接にはどんな人が来るの?」
    『フラワーコーディネーターって学歴や資格の云々だけじゃなく、実力がものを言う世界なの。私のような専門学校生だけじゃなく、花屋や園芸ショップなんかで働いて経験を積んできた人も採用試験に来るみたいなの』
    「そうなんだぁ」
    『最初から正社員として雇ってもらえることは珍しくて、まずはアルバイトやパート、契約社員として就職をすることが多い世界なんだぁ』
    「大変な世界なのねぇ。お休みは定期的にもらえるお仕事なの?」
    『卒業、入学シーズンや母の日、クリスマスなどのイベントシーズンは花の需要が多くなるでしょ』
    「うん」
    『そういうシーズンは、休日を返上して働くようになっちゃうのは覚悟の上よね』
    「うわぁ…大変。それでも皐月はフラワーコーディネーターを目指すのね」
    『うん!だって、私の作った作品で、多くの人が華やかに彩られたら、それってすごく素敵なことでしょ! 植物に関する幅広い知識や色彩感覚、クライアントに対する細やかな気配りもして、私らしいコーディネートをしてあげられたら・・・一生の仕事にしたいんだ』
    「そっか、頑張れ! 皐月」
    『うん、ありがとう…美代子』

  • #399

    六輔 (月曜日, 30 3月 2020 20:26)


    物語から離れることをお詫びする。
    今日、本当に悲しいことがあった。
    大好きな人の死、そう、志村けんさんの訃報だ。
    志村けんさんを知ったのは、小生が小学生のときだった。
    毎週土曜日の午後8時になると「8時だヨ!全員集合!」の掛け声と同時に番組が始まり・・・
    おそらくだが、クラスのほとんどの友が同じ時刻に同じテレビを観て笑い転げていたことだろう。
    とにかく残念で残念で仕方がない、回復してくれることを信じていたので。
    志村けんさんは日本の喜劇の世界の宝だった。
    心からご冥福をお祈りします。

    きっと追悼番組も組まれることだろう。
    だが小生は、しめっぽい追悼番組より、その当時に熱中して観ていた「8時だヨ!全員集合!」や「バカ殿様」といった番組を観て、もう一度笑えることを願いたい。

    志村けんは、コロナウィルスに命を奪われた。
    ヘビースモーカーであるとか、相当の酒豪であるとか報じられているが、おそらくは、酒が悪影響を及ぼしたという報道はテレビではされないだろう。
    理由は、説明するまでもないが・・・ビールといったアルコールメーカーがテレビCM界のビックスポンサーだからだ。

    そんなことよりも、小生には心配なことがある。
    都会に新幹線通勤する仲間のこと、人の密集度の高い都会に住む仲間のことだ。
    もちろん、小生のクラス田舎でも同じかもしれないが・・・
    都会に通勤する者にはこう言いたい。
    「仕事に行くな!」と。
    でも、そうもいかないのは小生のようなバカな者でも理解できる。
    ならば声を大にして伝えるしかない。
    「自分のことは自分でしっかり守ってくれ」と。

  • #400

    六輔 (火曜日, 31 3月 2020 20:19)


    皐月19歳、時は昭和57年。
    映画では「E.T.」が大ヒットし、音楽界では中森明菜がスローモーションでデビューし、荒井由実が「卒業写真」を熱唱、事件では戸塚ヨットスクール問題が大きく世間を騒がせていた。
    皐月が就活をしていたそんな昭和57年当時、フラワーコーディネーターの給料は、どちらかというと不安定な時代だった。
    「花」が嗜好品のため景気の影響を受けやすいというのがフラワーコーディネーターの給料を不安定にしている一番の理由だった。
    人々の生活や企業の経営に余裕があるときは売り上げも好調になるが、不景気になると「花」は真っ先に節約の対象にされてしまうからだ。
    フラワーコーディネーターは、はたから見て華々しい仕事のように思えるが、実は、打ち合わせと制作を繰り返す毎日で、案件によっては丸一日制作に打ち込んだり、徹夜で仕上げることも度々。
    毎日同じスケジュールで働くことはほとんどないといったように、体力を要する大変な職業なのだ。
    そんなフラワーコーディネーターには、花に関する知識や技術を習得していることを証明するための資格として活用されているものがいくつかある。
    代表的なものは「フラワーデザイナー」の資格だ。
    協会の公認するスクールで花に関する知識を学んだ後、フラワーデザイン全般に関する学科試験と実技試験に合格することで資格を取得することができる。
    また、国家資格として「フラワー装飾技能士」という資格があり、職業訓練校で学習をした人たちがこの資格を取得するケースがある。
    そういった資格があるなか、皐月は、「専門学校卒業・フラワーデザイナー資格有り」を武器に就活に望んでいた。
    張り切って幾つもの会社を訪問したが、就活は思うようには進まなかったのだった。
    当時、フラワーコーディネーターは女子の職業として人気を集めていたこともあり、競争率の高い職種だったのである。
    幾つもの会社を訪問したが、思うように内定が取れずに、皐月は落ち込む日を送っていた。
    そんな皐月に、美代子はかける言葉を見つけられずにいたときだった。
    皐月が、初めて弱音を吐いたのである。
    「ねぇ、美代子…」
    『うん?なぁに…皐月』
    「わたし、フラワーコーディネーターになるの諦めようかなぁ…」
    『…えっ?』

  • #401

    六輔 (水曜日, 01 4月 2020 19:24)


    4月1日、今日はエイプリルフールだ。
    一年に一日だけ嘘をついても良いという日だが、ちなみにエイプリルフールを日本語で直訳すると「四月馬鹿」となる。
    もう少しいいネーミングは無かったものだろうかと考えつつ、ふと一年前のことを思い出してみた。
    「(笑)そう言えば、一年前のエイプリルフールの日に“選挙に立候補する”というジョークを書き込みして非難轟々にあった奴がいたよなぁ。あっ、今年はエイプリルフールを活用するのはやめておこう。みんなが感染症と闘っているときにジョークを飛ばしているようじゃ、また耳をつかまれて投げ飛ばされてしまうだろうから…」
    しかし、一年間とはあっという間に過ぎるものだ。
    去年の春には、孫がピカピカのランドセルを背負って入学式を迎えた。
    その孫ももう直ぐ2年生になり・・・還暦までまだ4年もあるわよ!と、思っていたそのお婆ちゃんも、あっという間にあと3年で還暦を迎えることになった。
    「歳をとるのが毎年早くなっていくなぁ」
    「今年は、花見も出来なかったし・・・」と、しみじみ思いながら物語に戻るとする。

    常に前向きな皐月が、美代子に対して初めてネガティブな言葉を口にしたのだった。
    「何社も面接に行ったけど、一社も内定をもらえないんだもん。アルバイトとしてなら雇ってもらえそうなところはいくつもあるけど、アルバイトじゃ先が不安だし・・・何か違う仕事を探そうかなぁと思って」
    皐月の言葉に美代子は直ぐに言葉を返せなかった。
    何て言ってあげるのがいいのか分からなかったからだ。
    そんな時、美代子の頭の中に浮かんできたのが藤原の顔だった。
    美代子は心の中でこう言った。
    『涼輔さんならこんなとき皐月に何て言ってあげるんだろう…』と。

    藤原と付き合い始めてからの美代子は、どんなことでも藤原に相談をしていた。
    美代子から相談を受けるたび藤原は、まずは美代子にしっかりと考えさせてから、アドバイスをしてくれるのであった。
    ただしそのアドバイスは「こうしなさい!」というものではなく、自分の正直な気持ちを気づかせてくれるだけの、そんなアドバイスだった。

    美代子は、ゆっくりと頭の中で喋る言葉を整理して話し始めた。
    『ねぇ、皐月…』
    「うん?」
    『なんて言ってあげたらいいのか分からなくてゴメンねぇ』
    「そんなぁ…美代子が謝らないで」
    『正直ね、就活も面接も経験の無い私には、皐月に何て言ってあげればいいのか分からないの。無責任なこと言いたくないし』
    「…うん」
    『ただ、ひとつだけ言えるのは皐月には後悔だけはしてほしくないなって』
    「・・・美代子」
    『でさ!皐月』
    「うん?」
    『涼輔さんと3人で食事でもしよう! みんなで知恵を出し合って考えてみたりしてさ…ねっ(笑)』
    皐月は、美代子がそう言ってくれた理由を直ぐに理解して、心の中でこう言った。
    『藤原君ならこんなとき私に何て言ってくれるんだろう…』と。

  • #402

    六輔 (木曜日, 02 4月 2020 19:21)


    いつも3人で一緒に食事をするファミリーレストラン。
    藤原が少し遅れてやってきた。
    「こんにちは! 待たせちゃってゴメン!」
    『こんにちは』
    「あれ?美代子は?」
    『アパートに美代子から電話があって、用事で少し遅れるから藤原君を待たせないように行って、先に二人で食事してて…って』
    「…そうなんだ」
    『待ってるから早く帰ってきてって言ったんだけど…』
    「先に行っててって言ったんでしょ?」
    『・・・うん』
    「そっか」と、藤原は、美代子のことを気にする様子も見せずに皐月の前に座った。
    「まだ注文してないの?」
    『えっ?あっ、うん…美代子を待ってなくてもいいのかな?』
    「美代子が先に食べててって言ったんでしょ? じゃぁ大丈夫だよ」
    藤原はそう言ってメニューを皐月に渡し、自分もメニューに目を通して、「呼んでも大丈夫?」と、笑顔を見せてワイヤレスチャイムを押した。
    直ぐにやって来た店員に、皐月に先に注文をさせ、それから「僕は…包み焼きハンバーグ…ライス大盛りで!」と注文をしてメニューを店員に渡した。
    これまで何度も3人で食事をしてきたこともあって、二人は気兼ねなく会話を始めていた。
    「そういえばさ、就活始めたんだってね」
    『うん』
    「美代子から皐月さん頑張ってるって聞いたよ」
    『えっ?…う、うん』
    「僕は2年生で就活はまだ先だから、よく分からないけど…就活って大変なんでしょ?」
    『そうねぇ・・・えっ?美代子から私の事詳しく聞いてないの?』
    「詳しく?…詳しくは聞いていないよ」
    『そうなんだぁ』
    「フラワーコーディネーターを目指してるって聞いたけど…その関係の就職先を探しているんでしょ?」
    藤原の問いに皐月はうつむいて答えた。
    『・・・そのつもりだったんだけど…』
    「えっ?・・・だった?」

  • #403

    六輔 (金曜日, 03 4月 2020 20:24)


    皐月は、これまで何社も面接を受けてきたが1社も内定がもらえないことや、正社員でなければ将来が不安であり、仕事を変えて就活しようかと悩んでいることを藤原に打ち明けた。
    藤原は、何度もうなずきながら皐月の話に聞き入っていたが、皐月の話が終わると笑顔になってこう言ったのだった。
    「皐月さん…」
    『あっ、はい』
    「お花のこと、植物のこと…皐月さんの知っていること何か話してくれない?」
    『えっ?・・・お花のことを?』
    「うん!」
    『どんな話が聞きたいの?』
    「皐月さんの一番好きな花について、知っていることを何か話して」
    『一番好きな花?・・・やっぱり薔薇かなぁ』
    「バラ?じゃぁバラのこと何でもいいから話して」
    皐月は藤原の頼みに嬉しそうにうなずいて話し始めた。
    『花の中で薔薇が一番好きっていう人は、やっぱり一番多いみたいよね。薔薇はトゲのある低木の総称「いばら(茨)」が転訛して「ばら」になったって言われているの。“愛の象徴”ともされる薔薇だけど、その花言葉は「愛」だけじゃなく本数や色、花の状態や組み合わせによって違ってくるの。例えば1本なら「一目惚れ」「あなたしかいない」って意味になるけど、それがもし15本になると「ごめんなさい」っていう花言葉になっちゃうし…』
    「へぇ~」
    『女の子の好きな薔薇を贈っておけば間違いないだろうと思って、予算に合わせて本数を気にしないで花束を作ってもらう人がいるけど、それじゃダメなのよ!色もそう。黄色の薔薇なんかは「愛情の薄らぎ」「嫉妬」になっちゃうし、「黒赤色」の薔薇になると「死ぬまで憎みます」「恨み」っていう花言葉になっちゃうの』
    「へぇ~、いろいろあるんだねぇ」
    『藤原君が美代子にプロポーズするときに薔薇を贈るんだとしたら、くれぐれも13本を贈ったりしないでね。プロポーズの時に贈るとするならやっぱり108本がベストかな』
    「13本じゃだめ?…そうなんだ。108本にもなると高額になりそうだね(笑)」
    『確かにね(笑)。母親に贈るなら紫色の薔薇がいいわね。卒業や退社する人には青色の薔薇「これからの未来を応援したい」というメッセージになるし』
    「へぇ~ すご~い」
    藤原は、嬉しそうに話す皐月から視線を外すことなく、時おり相槌を打ちながら聞き入っていた。

  • #404

    六輔 (土曜日, 04 4月 2020 23:15)


    皐月は、薔薇の花言葉の話の次は薔薇の育て方、それを終えると次は話題を変えて自分のフラワーコーディネーターに対する思いを語りだした。
    だが、途中でずっと一人で喋っていることに気づいてこう言った。
    『なんか、ベラベラと喋り過ぎちゃったかな…私一人で喋ってるわよね、ごめんなさい、藤原君』
    そう謝った皐月に藤原はこう返した。
    「皐月さんは、花や植物が本当に好きなんだね」
    『えっ?…』
    皐月は、さりげなく言われた一言にハッとなった。
    「皐月さん」
    『あっ、はい』
    「ひとつ聞いてもいいかな?」
    『はい』
    「フラワーコーディネーターっていうお仕事は、誰の思いを表現するお仕事なの?」
    『えっ?・・・そ、それは…』
    「皐月さんの話を聞いていて思ったんだけど、フラワーコーディネーターっていうお仕事は、全てが自分の思い通りになる訳じゃないんだろうなって。お客様の予算や、花に対する思いがあったりして・・・フラワーコーディネーターは、お客さんの希望に寄り添った花を選んで、アレンジして、花を通してお客様の思いを演出してあげたいという心があることが、この職業に就く上で大事な土台になるんだよねぇ」
    『そ、…そうだね』
    「そのことを第一に考えながら、皐月さんが花を通して実現したいことをしっかりと伝えられるようにしていけば、きっと最高な作品に仕上がるはずだよね」
    『うん』
    「もうひとつ聞きたいんだけど・・・皐月さんは、フラワーコーディネーターの仕事をしていって、その先の将来の夢ってあるの?」
    『夢?・・・うん、有る』
    「どんな夢?」
    『何歳になるか分からないけど、自分のお店を持ちたいの。閑静な住宅街の隠れ家的な佇まいの小さなお店。そこで花の好きな方たちと一緒にフラワーデザイン教室を開いて、レッスン後にはお店オリジナルのブレンドコーヒーをみんなで頂いたりして・・・それが私の将来の夢なの』
    「素敵な夢だねぇ・・・そのことを面接で話したことはある?」
    『えっ?そんな話をしたこと無いよぉ…だって、将来は会社を辞めて自分のお店を持ちたいですなんて・・・面接でそんなこと言ったりしたら…』
    「言ったりしたら?・・・僕ならそんな夢を持った人と一緒にお仕事がしたいって思うなぁ」
    『えっ?』
    「僕ね、まだ2年生で就活のことはこれからだから偉そうなことは言えないけど…面接では、皐月さんの花に対する思いを全て正直に皐月さんの言葉で話せばいいんじゃないのかなぁ。だって、皐月さんは花や植物が本当に好きなんだから」
    皐月は、少しの間考えてこう言ったのだった。
    『藤原君・・・ありがとう』と。

  • #405

    六輔 (日曜日, 05 4月 2020 20:45)


    ファミレスを出た皐月は、アパートに向かって歩いていた。
    藤原の言葉で自分の就活に対する意気込みが、いかに中途半端なものであったのかと思い知らされた皐月は、その時の気持ちを忘れないようにと、藤原がさり気なく言った言葉の一つ一つを噛み締めるように思い出しながら歩いていた。
    思い出されてきた藤原の言葉は、さりげない言葉の連続だった。
    『将来は自分の店を持ちたいって、本当に素敵な夢だね!』
    『皐月さんは、本当に花が好きなんだね!』
    それは、皐月がフラワーコーディネーターになりたいと思った一番の理由であり、だからこそ頑張ってきたのだと思い出させてくれた言葉だった。

    それまでの自分の身の振り方を思い起こしてみれば、志望していた会社から内定をもらえないことに勝手にモチベーションを下げ、自暴自棄になりかけていたと思えた。
    思い通りにならない原因を社会や世の中のせいにして。
    「私の良さに気づいてくれない面接官が悪いのよ」、「不景気なのが悪いのよ」と。

    アパートへと続く道は、いつもと何も変わらなかった。
    それでも、いつもなら気づかないような景色が、その時の皐月には見えてきた。
    「あっ…」
    道を挟んだ向こう側の大きなビルに挟まれた場所にたたずむ小さなお店。
    そこに幾人もの人が列をなしていた。
    「何屋さんなんだろう?・・・きっと、美味しいお店なのね。頑張り屋さんの店主がいたりして」
    皐月は、凛とした表情に変え、真正面を向いてこう口ずさんだ。
    「私は、絶対に諦めない! 頑張るぞ…サツキ!!!」
    そう言葉にして思いを胸に刻み込んだ皐月は、早速、翌日から就活を再開させた。
    「あれ?君は、うちの面接を一度受けているよね?」
    『はい。でも、その時には自分の花に対する思いの半分も話せなかったのではないかと思いまして・・・出来ましたらもう一度チャンスを頂けないかと…』
    「花に対する思い?」
    『はい!』
    「君のような人は珍しいよ、一度断られているにもかかわらず・・・分かった。君の熱意に免じて、来週の二次面接に参加させてあげるよ!」
    こんな風に人事担当に直接アタックをして、面接を取り付け・・・そして、その努力が報われて意中の会社から内定をもらうことが出来たのだった。
    会社の人事担当から内定の連絡をもらった皐月は、頬を濡らしてこうつぶやいた。
    「ありがとう・・・藤原君」と。

  • #406

    六輔 (月曜日, 06 4月 2020 20:17)


    皐月の社会人デビューを翌日に控え、二人はささやかなお祝い会を開いた。
    「明日から新社会人!就職おめでとう、皐月」
    『ありがとう、美代子』
    「最後まで諦めずに、目標だったフラワーコーディネーターとしての正社員採用だもんね、すごいよ皐月!」
    『皐月が支えてくれたおかげだよ。それに私が夢を諦めようとしていたときに藤原君がアドバイスしてくれたから…』
    「そうね」
    『ねぇ、美代子・・・今だから聞くけど、あの時はわざと来なかったんでしょ? ファミレスに』
    「だから、あの時に謝ったじゃない!大学の教授につかまって帰れなかったのって」
    『もぉ~美代子ったら。ずっと話さなかったけど、実はね、藤原君はあの時にこう言ったのよ・・・きっと美代子は来ないよ!って』
    「えっ? そうなの?」
    『うん。二人で話した方が皐月さんも話しやすいだろうって、そう考えるのが美代子だからねって』
    「そうだったんだぁ」
    『ありがとう…美代子』
    「そんな私にお礼なんて言わないでよ! 親友なんだから。それに本当に大学の教授につかまって帰れなかったんだからさ!」
    『もぉ~(笑)・・・それとさぁ、美代子…』
    「うん?なに、皐月」
    『本当にいいの? 私のわがままじゃない?』
    「まだそのことを聞くの?」
    『だってぇ・・・藤原君はいいって言ってくれたの?』
    「話してないけど…」
    『えっ?そうなの? 藤原君に断られたらどうしよう』
    「大丈夫よ。だって皐月の事、好きみたいだからさ」
    『奪い取るみたいになってない?』
    「なってないよ!」
    『本当にそれでいいのかなぁ』
    「仕方ないじゃん! 親友なんだから…」
    『えっ?仕方ない?・・・それじゃ私は嫌よ!』
    「もう決めたことなんだから、そのことはもう言わないで!」
    『・・・美代子』

  • #407

    六輔 (水曜日, 08 4月 2020 05:51)


    皐月が就職して初めていただいた休みの日、皐月と美代子の二人は、不動産屋にいた。
    「ここに印鑑をお願いします・・・はい、これで契約は完了です」
    二人は、姿勢を正して一礼し、不動産屋を後にした。
    『無事に済んだわね、美代子』
    「うん、更新手数料がかからなくてラッキーだったわよね」

    不動産屋を出た二人は、昼食をとるために直ぐ近くにあったファミリーレストランに入った。
    ボックスシートに案内され、手渡されたメニューを見ながら皐月が口を開いた。
    『ねぇ、美代子…』
    「うん?」
    『藤原君に話してくれたんだよね? 二人がルームシェア生活を続けるってこと』
    「まだ話してないよ」
    『え~・・・藤原君から美代子との自由な生活を奪い取るみたいで嫌だから、早く話してって言ったのにぃ』
    「大丈夫だよ、涼輔くんなら。優しい人だから」
    『いくら優しいからって・・・やっぱりダメ!早く話してよね!』
    「もぉ~分かった、分かった。不動産屋さんの更新手続も済んだことだし、ちゃんと話しておくからね」
    『本当に頼むからね!』

    こうして二人の新たな共同生活が始まった。
    その共同生活は、これまで二人で暮らしてきたアパートの賃貸契約をさらに2年間更新しただけであり、その意味では“新たな”と表現するのはおかしいことになる。
    だが、そう表現せざるを得なかったのである。
    何故なら、それまでの学生同士という対等な立場から、かたや学生、かたや社会人一年生と立場が変わり、それまでの二人の生活リズムがまるで変ってしまうからだった。
    もちろんこの時の二人には、互いの生活にひずみが生まれてしまうことなど知る由も無かったのである。

  • #408

    六輔 (水曜日, 08 4月 2020 20:22)


    フラワーコーディネーターとして仕事についた皐月には、想像していた以上に苦難の日々が待ち受けていた。
    初めの頃は気が張っていたためか、疲れを感じる余裕さえなかったが、徐々に体の疲れがたまってくると、学生時代には感じたことの無い倦怠感が皐月を襲い始めていった。
    倦怠感は、皐月からあらゆる気力を奪い、クタクタになって帰宅するともう何もする気が起きない日が続くようになっていった。
    そんな皐月が、どうにか会社勤めを続けることが出来たのは、美代子が献身的に支えてくれたからだった。
    「皐月、おかえりぃ!ご苦労様」
    『ただいまぁ…』
    「そのままシャワー浴びてきちゃいなよ、皐月」
    『う~ん…疲れちゃったから少し休ませてぇ』
    「そんなこと言ってると、結局億劫になって入らないって言うんだから!」
    『ほんと、ちょっとだけ!』
    「ダメダメ!ほらっ、今すぐ入らないと、洋服脱がせちゃうぞ! それっ!!!」
    『え~! エッチィ~~~ 分かった、分かった、入ってくる!』
    「それでよろしい(笑)」
    『もぉ~ 美代子ったら(笑)』

    皐月がシャワーからあがってくると、テーブルの上には夕ご飯が並んでいた。
    「お疲れ様、皐月。ご飯一緒に食べよう!」
    『わぁ、美味しそう~!!いつもありがとねぇ、美代子』
    (二人)「いただきま~す!」
    『美味しい!』
    「ほんと? 良かった」
    『あぁ、美代子の顔を見るとほっとするぅ』
    「昨日も同じこと言ったよ、皐月(笑)」
    『ねぇ、美代子…』
    「うん?」
    『ありがとねぇ』
    「なによ、あらたまって(笑)」
    『美代子に甘えてばかりで…いつか恩返ししないとね』
    「親友の私に言うセリフじゃないよ(笑)」

    こんな風に、二人の共同生活は、何の障害も無く続けられていた。
    夜遅くに皐月が帰ってきてから、翌日の仕事に備えてそれぞれのベッドに潜り込むまでの僅かな時間を二人は大事にした。
    だが、二人のそんな共同生活のリズムは、徐々に狂いだしてしまうのだった。

  • #409

    六輔 (木曜日, 09 4月 2020 19:06)


    皐月は、ゴールデンウイークの休みもなく、さらにはずっと残業続きで働いていた。
    おそらくは、昭和の時代だからそれが許されたのであろう。
    平成の時代になって「ブラック企業」という言葉が生まれた。
    「ブラック企業」とは、若者を大量に採用し、過重労働、違法労働、パワハラによって使いつぶし、次々と離職に追い込むような企業のことだ。
    皐月が働いていた会社が“ブラック”とまでは言わないまでも、残業手当もやったらやったなりに支給されることもなく、ただ働きが当然のように課せられていた、そんな会社だったのである。
    それでも、皐月は不満を言わずに頑張っていた。
    将来の夢を叶えるための修行期間だと自分に言い聞かせて。

    そしてそれは、過重労働が続いていた皐月が、いつものように遅くの時間に帰宅したある日のことだった。
    いつもであればアパートの部屋の電気が着いていることにホッとして2階への階段を上がる皐月だったが、その日は部屋の電気が消えていたことに首を傾げた。
    『あれっ? 美代子、帰ってないの?』
    普段であればノックをして美代子に開けてもらう玄関のドアを、その日は自分の鍵を使って開け、部屋に入って電気を付けた。
    部屋の中まで進んでいくと、テーブルの上にメモが置かれてあることに気づいた。
    皐月が手にしたそのメモにはこう書かれてあった。
    「おかえり、皐月。先に休むね」
    『・・・えっ?』
    皐月は、予想もしていなかったメモの言葉を目にして、言葉を失った。
    今まで一度たりともそんなことが無かったことに皐月は戸惑い、体が震え始めた。
    『噓でしょ?・・・美代子』
    嘘であって欲しいと願い、皐月はそれを確かめるかのように美代子の部屋をそっと開けて中を覗いた。
    そこで皐月は、美代子の信じられない姿を目にしたのだった。
    『・・・美代子』

  • #410

    六輔 (金曜日, 10 4月 2020 19:49)


    2007年Ⅿ-1グランプリの王者になった「サンドウィッチマン」というお笑い芸人がいる。
    「伊達みきお」と「富澤たけし」という仙台の高校の同級生が、ラグビー部で知り合い、苦労の期間を経て今ではその名を知らぬ者はいないと言えるほどの人気者になったお笑いコンビだ。
    「サンドウィッチマン」にまつわる話で有名なものが二つある。
    一つは、東日本大震災以降、何度も何度も被災地を訪れ、自身たちも何年にもわたって毎年何千万円という額の寄付金を黙って贈り続けているという話だ。
    さらには仙台の地元のテレビ局には全てボランティアで出演し、今でもギャランティーをもらわない。
    そんな彼達にまつわるもう一つの有名な話が、二人が売れない芸人として苦労していた時代から二人一緒に暮らしていたという話だ。
    「ダウンタウン」の浜田と松本のように、「コンビ芸人は普段は仲が良くない」というのが芸能界では定説になっている。
    プライベートでは気分を切り替えるためになるべく相方には会いたくないと考え、「普段は相方とは一切喋らない」「連絡を取らないし、そもそも携帯番号も知らない」。
    それがお笑い芸人には当たり前の時代に「サンドウィッチマン」の二人は10年間も同じアパートで一緒に暮らしていたし、これだけ売れた今になってもなお仲の良いコンビとして活躍している。
    人間同士のつながりが薄くなっている時代だからこそ、大の大人が2人で仲良く暮らしている状況が貴重なものに見え、そのことが二人の人気に拍車をかけているのだろう。

    社会人一年生として遮二無二働いていた皐月は、外で嫌なことがあった日でも、アパートに帰って美代子がいてくれるだけで気が紛れた。
    精神的にトゲトゲすることがあっても、美代子がいてくれるだけで全てが緩衝された。
    そうやって頑張っていた皐月が目にしたのが、テーブルの上に置かれた『おかえり、皐月。先に休むね』というメモ。
    美代子が自分の帰りを待たずに先に休んでしまったことに動揺し、部屋をそっと覗いて見えたものは、大きなヘッドフォンをしてベッドでスヤスヤと眠っている美代子の姿だった。
    「えっ?・・・それって安眠妨害をされたくない!ってこと?」
    皐月はゆっくりと目を閉じて現実を受け入れた。

  • #411

    六輔 (土曜日, 11 4月 2020 20:07)


    覗き込んだ隙間から居間の灯りが侵入し、その灯りに美代子の寝顔が薄っすらと照らし出されていた。
    皐月が見た美代子は、大型のヘッドフォンに両耳をすっぽりと覆われ、全ての音から遮断されていることで安眠することが出来ているかのように、幸せそうな寝顔だった。
    「・・・美代子」
    皐月には受け入れ難い光景だった。
    そんな日に限って会社で嫌なことがあり、その愚痴を聞いて欲しいと思って帰って来たから余計だった。
    一瞬、「どうして今日に限って」と、カッとなりそうだったが、美代子から視線を外し、そっとドアを閉めると直ぐに冷静になれた。
    「もし立場が逆だったら…」
    と、そう考えることが出来たからだ。
    「早く寝たい日だってあるだろうし、寝ている時に帰ってこられて、バタバタ音をたてられたら確かに迷惑だものね」
    そう考えると、皐月は音をたてるのが怖くなってしまい、椅子に座ったまま動けなくなってしまった。
    いつもであれば熱いシャワーを浴びて、美代子とその日一日の出来事を報告しあってから休む皐月だったが、その日の皐月は、洗面所で化粧を落とし、そのまま自分のベッドに静かに潜り込んだ。
    頭まで布団を覆うと直ぐに隣の部屋で大きなヘッドフォンをしてスヤスヤと眠っている美代子の姿が思い浮かばれてきた。
    親友であればこそ、互いが互いのことを認め合い、決して隠し事をしないと誓い合っていた美代子と皐月。
    だが、突然に見せられたまるで自分を拒絶するかのような寝姿に、急に裏切られたような感情が湧いてきた。
    「ヘッドフォンなんかして露骨にアピールしないでよ!私が遅く帰ってくることが迷惑なら、そう言ってくれれば良かったのに」
    と、感情的になってしまった皐月は、ポツリとつぶやいた。
    「そもそも社会人の私と、学生の美代子が一緒に暮らすことなんて無理だったのよね」
    目頭が潤み、零れ落ちた涙が皐月の枕を濡らした。

  • #412

    六輔 (日曜日, 12 4月 2020 21:07)


    その翌日、ベッドの中で熟睡していた皐月は、「起きろ!起きろ!」という目覚まし時計のベルの連呼に眠りを破られた。
    意識は起きていても体がついていかず、全身の細胞が睡眠を求めてストライキを起こしているような、そんな朝を迎えた。
    ベッドから抜け出すことさえ出来れば、あとは勢いで出勤の準備を始められた。
    だが、連日の残業続きで疲れの溜まった体が、皐月の脳から発信された「起きるよ!」の指令に従うことはなかった。
    そんな脳からの指令と体の拒絶のせめぎ合いがしばらく続いていたが、それに決着をつけたのは目覚まし時計のスヌーズ機能のベルの音だった。
    一度止めた目覚まし時計を5分後に再起動させるスヌーズ機能は、皐月にとって最も憎き相手だった。
    皐月はタイムオーバーの知らせに「はぁ」と息を漏らし、ベッドからようやく抜け出していつもの手順で出勤の準備を始めた。

    当然のことだが、社会人の皐月と大学生の美代子とでは、一日の始まる時間がまるで異なった。
    社会人一年生として先輩社員よりも早く出社し、雑用もこなさなければならなかった皐月の朝は早く、ほぼ毎日、美代子が寝ているうちにひっそりと部屋を出て行かなければならなかった。
    その日もまだ眠っている美代子を起こすことなく、皐月はアパートを出て行った。
    駅までは徒歩約15分、その足取りは重かった。
    社会人という新しい環境に適応できなかった訳ではなかったが、新年度から1ヶ月以上が経ち、緊張や疲れもピークに達する、いわゆる「五月病」に近い症状に見舞われていたのだった。

  • #413

    六輔 (月曜日, 13 4月 2020 19:36)


    駅に着いた皐月は、鞄から定期乗車券をとりだし、それを駅員に見せた。
    平成の時代になって使われるようになるSuicaやPASMOといったICカード式ではなく、昭和の時代の定期券は、駅員が改札に立って駅名と有効期限をいちいち見て確認するものだった。
    皐月は、緑色のケースに入れた定期券を駅員が確認しやすいように差し出したが、駅員は毎日同じ時刻に乗車してくる皐月の顔を覚え、ほぼ顔パスの状態で定期券を見ることなく改札を許した。

    改札を抜けると駅構内に居た誰もが同じ歩き方で、ホームに向かっていた。
    毎朝規則正しく起床し、満員電車に揺られ、会社の近くの立ち食いソバ屋で腹を満たし、会社に着いたら朝礼で大声を張り上げ、自分のデスクに座れば直ぐに電話をかけ、煙たがられながらも顧客のアポイントメントをとりつけ、お昼は格安ランチセットの列に並び、午後もワイシャツが汗びっしょりになるほど働いて、夜は先輩にそれなりに付き合って、夜中の電車で帰宅する。
    「会社」というご主人様に飼い馴らされた従順な犬のようにも思える人々と一緒に皐月もホームへと向かった。
    ホームに着くと直ぐに電車がブレーキの余韻を残して停車し、大きなため息をついたかのような音と共に扉が開けられた。
    人の流れに逆らうことなく満員電車に乗ると、そこは混雑率200%の世界。
    電車が揺れるたびに体が斜めになって、それでも身動きが取れずに手も動かせない状態で10分間を過ごした。
    ようやく乗車してくる客より降りる客が多い駅についたことで、混雑率が半分に減って体の自由がきくようになり、皐月は小さなため息をついた。
    「ふぅ~」

  • #414

    六輔 (火曜日, 14 4月 2020 18:12)


    電車に揺られている時の皐月は、いつも“自分の店”を想像していた。
    閑静な住宅街の隠れ家的な佇まいの小さなお店で、花の好きな人たちと一緒にフラワーデザイン教室を開き、レッスン後にはお店オリジナルのブレンドコーヒーをみんなで頂きながら他愛もないお喋りを楽しみ、友達からいただいた「くろいちや」の黒糖キャラメルサンド「くろまるまる」を頬張る。
    そんな将来の夢を叶えるために選んだフラワーコーディネーターという仕事。
    想像していた以上に大変な仕事だったが、夢につなげるための仕事だと思えば、辛いことにも耐えられた。
    仕事に対する不満を強いて上げるとするならば、会社から支払われる賃金が、仕事に対する正当な対価であるとは到底思えなかったこと。
    分かりやすく言えば、お給料が安いということだ。
    社会人一年生であることがその理由だと言われてしまえばそれまでだが、一切の贅沢をしなかったとしても、都会で一人暮らしをするにはギリギリの額であったことに違いはなく、就職してからも美代子とのルームシェア生活を続けたのはそのことが大きな理由の一つでもあったのだった。

    これまで二人で暮らしてきた2年2か月、皐月がルームシェア生活で不便を感じたことは一度も無かった。
    お世辞でも便の良いところとは言えないアパートの立地だったが、2DKという間取りが二人のプライベートな空間を確保してくれていたからだ。
    だが、快適な暮らしの中でも、一つだけ不満なことがあった。
    それは、ペット不可という物件であったがために、大好きなウサギと一緒に暮らすことが出来なかったことだ。
    二人がアパートを決めるのに第一に優先したのは2DKの間取りの確保であり、その上でさらにペット可の部屋を見つけるには家賃が障害となって、結局のところはペットを飼うことを諦めるしかなかったのだった。

  • #415

    六輔 (水曜日, 15 4月 2020 21:20)


    皐月は、自他共に認める無類のウサギ好きだった
    幼少の頃から高校時代まで、皐月のそばには必ずウサギがいた。
    皐月がウサギを好きな理由をあげればきりが無い。
    柔らかな毛とイチゴ型のしっぽ。
    “Y字”の鼻に“への字”のお口。
    ツンデレなくせに、人間の言葉や感情をちゃんと理解してくれる。
    そんなウサギに関する都市伝説に「ウサギは一人だと寂しくて死んでしまう」という話がある。
    その話を広く認知させたのが「ひとつ屋根の下」というドラマだ。
    ドラマのヒロイン酒井法子が、「ウサギって寂しいと死んじゃうんだから」といい放ち「碧いウサギ~ずっと待ってる~」と切なく歌ったことで、ウサギは「か弱い女性」の代名詞になったのだった。
    だが、多くの者が信じる「ウサギは寂しいと死んでしまう」という都市伝説は、実は全く根拠のないものなのだ。
    ウサギは「一人だと寂しい」のではなく「愛情を一人占めして安心したい」だけであり、かつ、オスのウサギは、あちこちにオシッコをかけて、「ここは自分のテリトリーだ!」と主張したりするほど、自分のスペースにこだわる動物であって、多頭飼いよりも一人でいる方がストレスがなくて気が楽なのだ。
    すまし顔でポーカーフェイスのウサギはとにかく可愛い。
    だからと言って、いつまでも撫でていたり、むやみやたらと話しかけてかまい過ぎたりするとストレスを与えてしまう。
    適度な愛情をかけてあげなければならないウサギだが、皐月にとっては人生のパートナーとしていつもそばにいて欲しい存在だったのだ。

  • #416

    六輔 (木曜日, 16 4月 2020 18:47)


    皐月の社会人一年生時代、昭和58年当時は、時差出勤やフレックスタイム制がまだそれほど浸透していなかったがために、朝の通勤ラッシュの混雑ぶりは尋常ではなかった。
    電車の揺れに合わせて乗客の誰もが揺さぶられ、その都度隣り合う者同士で押し合っては両足の踏ん張りで自分の居場所を確保する。
    そんな混雑率200%の世界を乗り越え、ようやくぎゅうぎゅう詰めから解放された皐月は、右手でつり革を掴んで見慣れた車窓に視線をやった。
    流れる景色の中に何かを探していた訳でもなく、ただボーっとビル街の景色を眺めていると、微かに聴こえる音楽に気づいた。
    それは右隣に立つ20代後半の女性が着けたヘッドフォンから漏れてきた音だった。
    発売されて直ぐに爆発的に売れた「ウォークマン」に繋がれたヘッドフォンから聴こえてきた微かな音に意識を向けると、それが自分の大好きな曲であることが分かった。
    『あっ…青春の影』
    皐月はチューリップの、特にリーダー財津和夫のファンで、“青春の影”は、聴く度に皐月の胸を熱くした曲だった。
    皐月は、ヘッドフォンから漏れる微かな音に合わせるように頭の中で“青春の影”を口ずさんでいた。

    「君の心へ続く長い一本道は
    いつも僕を勇気づけた
    とてもとても険しく細い道だったけど
    今、君を迎えに行こう
    自分の大きな夢を追うことが
    今までの僕の仕事だったけど
    君を幸せにする それこそが
    これからの僕の生きるしるし」

    皐月は、短い間奏に続いて2番の歌詞も口ずさんでいた。
    「愛を知ったために涙がはこばれて
    君の瞳をこぼれたとき
    恋のよろこびは 愛の厳しさへの
    かけはしに過ぎないと
    ただ風の中にたたずんで
    君はやがてみつけていった
    ただ風に涙をあずけて
    君は女になっていった」

    皐月は、間奏に入って頭の中でこう言った。
    『ホンと素敵な歌詞。険しい道を乗り越えて、これからプロポーズに向かう途中、愛する人を幸せにすることこそが自分の生きるしるしだなんて…そんなふうに思ってもらえて・・・2人の関係が心を依存しあう「恋」の関係から、強く共に歩む「愛」の関係に変わっていったっていうことなのよね』と。

    だが、このあと皐月は、信じられない光景を目にしたのである。
    ふと右隣に立つヘッドフォンを付けた女性を見ると、その頬を一筋の涙が伝っていたのだった。
    『えっ?・・・どうしてそんな悲しそうな顔をしているの?』

  • #417

    六輔 (土曜日, 18 4月 2020 01:46)


    皐月は、「青春の影」という曲は、愛する女性と生涯をともにする決意を固めた男性の気持ちを歌った曲だとずっと思ってきた。
    隣に立つ女性が着けるヘッドフォンから微かに聴こえてきた音を頼りに、歌詞を口ずさんでいた時もその思いは変わりなかった。
    だが、涙しながら聴いている女性を目の当たりにして、曲に対する違った考えがふと湧いてきたのである。
    『えっ?この曲って・・・』
    そこで間奏が終え、残りのフレーズが聴こえてきた。

    「君の家へつづくあの道を
    今 足元にたしかめて
    今日から君はただの女
    今日から僕はただの男」

    曲が終わるのとほぼ同時だった。
    「青春の影」を聴いていた女性は、電車が停車して開かれたドアから下車していった。
    皐月には、その女性の背中がとても寂しそうに見えてならなかった。
    女性が出て行った扉が閉まると、直ぐに電車が動き出し、電車の揺れに合わせるように皐月は自問自答していた。
    『ずっと幸せな曲だと思ってきたけど・・・人によって解釈が違うってことなの?』と。

  • #418

    六輔 (土曜日, 18 4月 2020 20:10)


    「青春の影」に対する解釈は人によって違うという話を聞いたことがある。
    考えてみればタイトルからして謎だ。
    歌詞の中に「青春」も「影」も出てこない。
    小生は、「青春の影」の歌詞の意味について激論を交わし、ある女の子の意見に大きく異論を唱えたことがある。
    何故ならその女の子がこう言ったからだ。
    「この二人は別れるんじゃなくて結婚するのよ。結婚と同時に「自分の夢」を捨てて僕は「ただの男」になって・・・そして女の子は、もっていた理想の男性像から妥協して僕を選んで平凡な幸せに埋没していくという意味で「ただの女」になるって言ったのよ」と。
    何故異論を唱えたのか分かるだろう。
    そう、小生は“別れの曲”だと思っているのだ。
    出会い、愛、そして別れ・・・
    愛のかけがえのなさと厳しさ、全うする難しさ…。
    それでも人はときを刻み、道を歩み続ける。
    小生が失恋を歌った楽曲と考える一番の決め手がある。
    最後に出てくる歌詞だ。
    「君の家へつづくあの道を 今 足元にたしかめて」とあるが、これから結婚する二人であるなら「あの道」ではなく「この道」になるはずだ。
    女性としての夢を見つけ、家族ではなく、一人の人間としてお互いに生きていくことになった歌詞だと思えてならないのだ。

    小生は思う。
    女性に深く感謝するとともに、自分が幸せに出来なかった無念さを抱えている、それこそが“青春の影”なのではないだろうかと。
    当然、解釈は人それぞれでいいのだと思うが。

  • #419

    六輔 (日曜日, 19 4月 2020 19:48)


    曲を作る者には、自身の経験を歌詞に詰め込む者もいれば、完全なフィクションとして作る者もいるようだ。
    歌詞に対する解釈は聴く人によって様々だが、歌詞を書いた者に共通して言えるのは「解釈がいろいろあって良い」ということらしい。
    小生は、ある有名なミュージシャンの言葉が忘れられない。
    「生み出すときは思い入れが強いが、出来上がったあとはリスナーのもの。作りての元を離れてリスナー自身がそれぞれの解釈で感じてほしい」という言葉だ。

    歌詞は、限られた文字数で表現されているため、解釈がいろいろになってしまう傾向がより強くなるのだろう。
    また、小説などもそうだが、読んだ時期によって解釈が変わることもある。
    年を取ってから聴きなおしてみたときに、昔は気付かなかったことに気付くこともあり、新たな発見を得ることもしばしばだ。
    歌にはそんな不思議な魅力がある。
    ところで、小生には忘れられない経験がある。
    歌詞を聞き間違えて、とんでもない解釈をしてしまった経験だ。
    「木綿のハンカチーフ」はご存じの通り、前半が男の子、後半が女の子口調になっている歌詞で、遠距離恋愛をするカップルの気持ちの移り変わりを表現した曲だ。
    その歌詞は・・・
    “恋人よ僕は旅経つ 東へと向う列車で
    はなやいだ街で君への贈りもの 探す 探すつもりだ。
    いいえ、あなた
    私は欲しいものはないのよ
    ただ都会の絵の具に染まらないで帰って 染まらないで帰って“
    2番
    恋人よ半年が過ぎ 逢えないが泣かないでくれ
    都会で流行りの指輪を送るよ 君に君に似合うはずだ
    と、小生が勘違いしたのは次の歌詞だ。
    正解は「いいえ 星のダイヤも海に眠る真珠も・・・」
    と続くのだが、小生はこう聴いたのだ。
    「いいえ 欲し~いの…ダイヤも海に眠る真珠も・・・」と。
    はぁ? なんだこの女は!と。
    1番では、「私は欲しいものはないのよ」とか言っておきながら、2番で結局はダイヤも真珠も欲しいんかい!と勘違いしたわけだ。
    小生は、いい歳のおじさんになってからカラオケボックスでテレビに出る歌詞をみて・・・「はっ? 欲しいのじゃなくて星の?」
    そのときばかりは、笑うしかなかったことを覚えている。

  • #420

    六輔 (月曜日, 20 4月 2020 20:30)


    人が生きていくうえにおいて一番大切なものは“読解力”だと言われている。
    読解力とは、簡単に言えば人の言葉や文章などの意味を読み解く力のことだ。
    日本人は「自分は読解力がある」と思っている人が多いという話を聞いたことがあるが、実はそうではないのだそうだ。
    ここで一つ、読解力のテストをしてみよう。
    小生が公園に行ったときに実際に見たことを文章にしたものがあるので、それを読んでそのあとの質問に答えてほしい。
    問題!
    「公園には、たくさんの親子連れが楽しそうに遊んでいた。その公園にいた子供のうち、帽子をかぶっていないのは全て女の子で、スニーカーを履いていない男の子はいなかった」
    さて、次のうち正しいのはどれ?
    1.公園にいたのは子供だけである。
    2.男の子も女の子も全員スニーカーをはいていた。
    3.帽子をかぶっている女の子はいなかった。
    さて、何番が正しい?
    もし、3番の「帽子をかぶっている女の子はいなかった」が正しいと思った人がいるとするなら、すごく寂しいことだが、読解力は相当低いということになるので、悪しからず。
    ここまで言われて、まだ「なんで?」と、思うようならそれは重症だ。
    何故なら、「子供のうち、帽子をかぶっていないのは全て女の子で…」とは書いてあるが、帽子をかぶっていなのが女の子だけであって、たくさんいる子供のなかには帽子をかぶっている女の子もいたからだ。
    そのことを瞬時に理解できないようでは、読解力があるとは言えないのだ。
    このように、読解力の差によってその状況の見極めに差がついてくる。
    文章を読んだり、人の話を聞いて、どれだけのことが理解できるか。
    日本人は、相当に読解力が落ちたと言われている。
    読解力が落ちた原因は、読書量の決定的な不足が原因だ。
    事実、スマホの普及によって、電車の中で文庫本を読んでいる人も少なくなっているだろう。
    ネット内を駆け巡る文章は、短文がほとんどであり、複雑な状況を語ったり、深い思念を語っている文章は少ない。
    そんな文章をいくら読んでも読解力が養成されるはずがない。
    ふと気づいたことがあるのだが、この物語も、読解力を養うにはあまりにも文章が貧しいと言わざるを得ない。
    そんな物語でも、どう読み続けてもらうかと考えた時には、これまで登場した人物が場所も時代背景もみんなバラバラであり、それらがこれから終盤に向かってどうつながっていくのか・・・
    それを想像するところで、文章力の乏しさを補っていただくことを願いつつ、物語を続けることにしようと思う。

  • #421

    六輔 (火曜日, 21 4月 2020 20:20)


    さて、物語に戻るとする。
    皐月の乗った電車は、寸分の狂いもなく時刻表通りに駅に停車した。
    車両のドアが開くのと同時に背中を押され、皐月はそれに抵抗することなく電車を降りた。
    ホームでは、皐月が電車を降りるのと同時に電車に乗り込もうとする客を急かす早口のアナウンスが流れていた。
    「間もなく発車します、お急ぎください~!」
    直ぐに旧弊な大型動物が目覚めて身震いしたかのように、ぶるぶるという大げさな音を立てて車両のドアが閉まり、電車は次の駅へと走り去っていった。
    電車を降りた皐月は、人の流れに乗って足を止めることなく改札を出た。
    会社までは徒歩10分ほど。
    まだ誰も出社していない会社についた皐月は、うす暗い更衣室で着替えを済ませ、スタッフお揃いのたすき掛け胸当てエプロンを付けた。
    更衣室にある姿見の鏡に自分の背中を映し、Ⅹ型がよれていないことを確認しながら紐を腰で結んだ。
    紐が腰で結ばれることで皐月の細身のシルエットがより一層際立って可愛く映って見えた。
    皐月は鏡に映る全身をチェックし、最後に顔に視線を合わせて接客用の笑顔もチェックした。
    「これで…ヨシっ!」と。

    昭和の時代では当たり前のことだったが、入社1年目の皐月が誰よりも早く出社し、店の掃除をするのが日課となっていた。
    そのことが苦ではなかったが、与えられていた仕事が、いわゆる下積みの仕事ばかりで、フラワーコーディネーターとしての活躍の場を与えてもらえないことが辛かった。
    「早く一人前にならなきゃ!」
    それを口癖として、花の美しい状態を保つための下処理や手入れ作業といった地味な仕事も文句を言わずに一つひとつ丁寧にこなしていった。

  • #422

    六輔 (水曜日, 22 4月 2020 23:04)


    入社一年目の皐月にとっては厳しい業界であったが、それでも皐月が会社を辞めずに頑張れたのは、先輩に恵まれたからだった。
    優しい先輩が皐月を気遣い、時折、クライアントとの打ち合わせに同席するよう声をかけてくれることがあり、その日も、
    「皐月ちゃん…」
    『はい』
    「今日の午後、披露宴の打ち合わせがあるから、皐月さんも同席して!」
    『えっ?ホンとですか?田代さん』
    「新婦は佐藤さんっていって私と同じ年なの。気楽に話せる人だから皐月ちゃんも気楽に同席して」
    『はい、ありがとうございます。よろしくお願いします』
    「私も新人の時には先輩からたくさんのことを学んだのよ。でもね、先輩の技術を如何に自分のものにするかは・・・」
    『私次第ってことなんですよね?』
    「そうよ!」
    『頑張ります』

    午後になって約束の時間にクライアントがやって来た。
    (佐藤)「田代さん、こんにちは」
    (田代)「佐藤さん、お待ちしていました・・・あれ?彼は?」
    (佐藤)「ごめんなさい。急に仕事が入っちゃって・・・お前に任せるからって…」
    (田代)「仕事じゃ仕方ないわよね。じゃぁ、今日の打ち合わせは新婦に関係するものだけにしましょうか? 会場の飾りつけとかは、また日を改めて」
    (佐藤)「ごめんなさい」
    (田代)「大丈夫よ。それと今日は私の後輩スタッフも同席させてもらうけどいいでしょ?」
    (佐藤)「もちろんOKよ」
    (皐月)「はじめまして、重里皐月です。よろしくお願いいたします」
    (佐藤)「よろしくお願いします」
    新婦は上機嫌に目を細めて皐月を見た。

  • #423

    六輔 (木曜日, 23 4月 2020 19:55)


    3人はミーティングルームに入って、用意された珈琲を飲みながら雑談を始めた。
    (田代)「ねぇ、昨日の“ふぞろい”観た?」
    (佐藤)「観た、観た! 手塚里美も石原真理子も可愛いかったわよね」
    (田代)「うん、可愛いかったぁ。中井貴一と石原真理子がいい仲になるんだと思わない?」
    (佐藤)「あっ、私もそう思う。となると、手塚里美と時任三郎が…ってことになるのかなぁ」
    (田代)「たぶん、そんな感じよね! 柳沢慎吾ちゃんもいい味出してたし…これから毎週楽しみね!・・・あれっ、皐月ちゃんは観なかったの?」
    (皐月)「あっ、私ですか?・・・昨日はちょっと疲れて寝ちゃったんです。私も楽しみにしていたんですけど・・・いきなり初回から観そびれちゃいました」
    (田代)「年代的には皐月ちゃんがドンピシャなドラマなんだから絶対に観るべきよ」
    (皐月)「はい、話題に乗り遅れないように…ですよね」
    (田代)「あれ、すっかりお喋りが過ぎちゃったわね」
    (佐藤)「田代さんと話していると楽しくて…つい(笑)」
    (田代)「じゃぁ、そろそろ始めましょう! 今日はね、前回お二人から聞いた希望やイメージをもとにデザイン画を用意してあるので・・・まずはこれを見てください」
    そう言って田代は、自分で描いたデザイン画を新婦の前に出した。
    (佐藤)「わぁ~ 素敵ぃ~!」
    それは新婦を彩る花冠、フラワーブレスレット、それからバックコサージュのデザイン画だった。
    (佐藤)「花冠は私からつけたいってリクエストしたけど、フラワーブレスレットとバックコサージュは考えもしなかったぁ」
    (田代)「佐藤さんは身長が高いでしょ。花嫁さんって後ろ姿も意外に注目されるのよ。だからバックコサージュをつけたらどうかなぁって。ヘアパーツとして長いガーランドを髪から下げて後ろに垂らしたりするのも素敵だし…」
    (佐藤)「わぁ~ 想像しただけで素敵!」
    (田代)「花冠は、大ぶりの花よりもスカビオサやクリスマスローズとか…平面的なお花の方がお勧めかな。ライラックとか細かなニュアンスのある花やツタなどを入れると動きが出て軽やかな印象になるわよ」
    (佐藤)「田代さんがデザインしてくれたものなら、もうそれだけで満足できそう!」
    (田代)「今日は彼がいないから、会場全体のコーディネートは次回に説明するね。二人がサーフィンを通して知り合ったということなので「海」をテーマにして考えてみたのよ、楽しみにしといてね!」
    (佐藤)「海?すご~い! えっ?もしかしてそのデザイン画も出来てるの?」
    (田代)「出来てるわよ」
    (佐藤)「観たい!」
    (田代)「観たい? じゃぁ彼には内緒でちょっとだけね!(笑)」
    そう言って田代が次に出したものは、色鉛筆で丁寧に描いたメインテーブルの飾りつけのデザイン画だった。
    デザイン画を観た瞬間、新婦も一緒に見た皐月も、その完成度の高さに息をのんだ。
    深海をイメージさせるロイヤルブルーの色味、アクセントには泡をイメージして水色のカスミソウが散りばめられ、二人の熱い想いを象徴するかのような艶やかな色調の花が中央に描かれてあった。
    皐月は、田代の豊富な知識と経験、優れた色彩感覚、新婦のイメージにぴったり合った花を選ぶセンス、そして気遣い・・・全てに敬意を抱いた。
    「すごい・・・私も早く先輩のようになりたい!」
    あらためてそんなふうに感じた皐月だった。
    そしてさらにこのあと、田代が皐月の考えもしなかったことを喋りだしたことにただただ驚かされるのであった。

  • #424

    六輔 (土曜日, 25 4月 2020 00:20)


    (田代)「ねぇ、佐藤さん・・・」
    (佐藤)「なに?」
    (田代)「バージンロードの件なんだけどさ…」
    (佐藤)「そのことはもう諦めたって、前回の打ち合わせの時に話したでしょ。お父さんは承知してくれたけど、おじいちゃんはダメだ!って。ガンコだから一度言い出したらきかない人だからって…」
    花冠、フラワーブレスレット、それからバックコサージュのデザイン画を食い入るように見て自分の花嫁姿にイメージを膨らませていた佐藤は、いきなりバージンロードの話になったことに表情を曇らせた。
    そばで聞いていた皐月には、二人のそのやりとりが全く理解できなかったのだが、実は、新婦と田代が初めて打ち合わせをしたときに、こんなやりとりがあったのだった。

    (田代)「ねぇ、佐藤さん…」
    (佐藤)「はい…なにかしら?」
    (田代)「おじい様はどうしても結婚式に出られないの?」
    (佐藤)「…うん。杖をついてまで結婚式に出たくないって…お婆ちゃんが亡くなってからすっかり元気がなくなっちゃって・・・お爺ちゃんにはお婆ちゃんの分まで私の晴れ姿を見て欲しかったんだけど…昔の人だから人に迷惑をかけるようなことをしたくないっていうのが先にきちゃうのよね」
    (田代)「可愛い孫の佐藤さんのことを大好きだからこそ…なのねぇ。・・・佐藤さんってお爺ちゃんっ子だったんでしょ?」
    (佐藤)「うん。両親が仕事が忙しくて、お爺ちゃんお婆ちゃんに育ててもらって大きくなれたって言ってもいいくらい」
    (田代)「そっかぁ。お爺ちゃんは、世界中で一番に佐藤さんのわがままを聞いてくれた人なのねぇ」
    (佐藤)「えっ?世界一私のわがままを?・・・確かにそうよね、田代さんの言う通り。幼稚園の送り迎えや、運動会、発表会…どんな時もそばにいてくれた。わがままな私を優しく諭してくれて、人に優しくしてあげられる女の子になりなさいっていうのが口癖だったお爺ちゃん…」
    (田代)「そっかぁ・・・ねぇ、佐藤さん」
    (佐藤)「うん?」
    (田代)「私ね、おじい様にお願いしたいことがある」
    (佐藤)「なに?」
    (田代)「佐藤さんと一緒にバージンロードを歩いてほしい」
    (佐藤)「はっ?バージンロードって、普通お父さんと歩くところよね?だいいち、杖をついてまで結婚式に出たくないって言ってるお爺ちゃんが、私とバージンロードを歩いてくれると思う?」
    (田代)「だってさぁ、大好きなお孫さんの晴れ姿を見たいと思わないはずがないと思うから…」
    (佐藤)「もちろん私だってお爺ちゃんに見てもらいたいわよ・・・でも…」
    そう言って涙を浮かべた新婦に、田代はこう言ったのだった。
    (田代)「おじい様に頼んでみてくれない? 杖をついてでも私とバージンロードを歩いてほしいって」
    (佐藤)「田代さん・・・分かった。ダメもとで頼んでみる・・・だって、やっぱりお爺ちゃんには私の晴れ姿を見てもらいたいから!」

  • #425

    六輔 (土曜日, 25 4月 2020 21:20)


    平成の時代になると、世に「ウェディングプランナー」という職業が生まれた。
    挙式から披露宴の進行、料理、衣装、引き出物の提案、手配から金銭的な調整まで、結婚式をトータルでプロデュースするのが「ウェディングプランナー」の仕事だ。
    新郎新婦から様々なことを聞き出し、二人にぴったりな結婚披露宴を如何に演出するか、「ウェディングプランナー」にかかっているといっても過言ではない。
    ただ、それは平成になってからの話で、昭和のこの時代にはそういったことを職業とする人はまだ存在していなかった。
    そのため、この頃のフラワーコーディネーターは、結婚式慣れしているという理由だけでクライアントから花以外のことに関しても相談を受けることが多かったのである。
    事実、田代は、新婦から様々な相談を受けていた。
    その中の一つに新婦のお爺ちゃんのことがあった。
    その日は新婦との3度目の打ち合わせだったが、2度目の打ち合わせのとき、既にお爺ちゃんに断られたことの報告を受けていた田代は、実は、新婦に内緒でお爺ちゃんに会いに行っていて、そのことを打ち明けたのだった。

    (田代)「ねぇ、佐藤さん・・・」
    (佐藤)「なに?」
    (田代)「バージンロードの件なんだけどさ…」
    (佐藤)「そのことはもう諦めたって、前回の打ち合わせの時に話したでしょ。お父さんは承知してくれたけど、おじいちゃんはダメだ!って。ガンコだから一度言い出したらきかない人だからって…」
    (田代)「違うの、佐藤さん。あのね、わたし佐藤さんに内緒で仕事がお休みの日に一人でお爺ちゃんに会いに行ってきたの」
    (佐藤)「えっ?」
    (田代)「勝手なことをしてごめんなさい…でもどうしても佐藤さんのお爺ちゃんには式に出て欲しかったから・・・だって・・・だって、私もお爺ちゃんっ子だったから…佐藤さんの気持ちが分かるから…勝手なことをしてごめんなさい」
    (佐藤)「田代さん・・・えっ? ちょ、ちょっと待って!お爺ちゃん、3日前から整骨院に通うようになったの。なんか、急に膝が痛むようになったからって・・・それって、田代さんがお爺ちゃんに会いに行ったことと関係あるの?」
    (田代)「…うん」
    (佐藤)「どういうことなの? 話して、田代さん」

  • #426

    六輔 (日曜日, 26 4月 2020 12:52)


    田代は、柔らかな表情で話しを続けた。
    (田代)「お爺ちゃん…私が佐藤さんの結婚式の相談相手で、バージンロードのお願いをしたのも自分だって話したら、すごく丁寧に受け応えしてくれて…正直な気持ちを私に話してくれたの」
    (佐藤)「お爺ちゃんはなんて?なんて言ってたの?」
    (田代)「正直、大好きな孫の晴れ姿をこの目で見たいって。でも、自分のような足の不自由な者が式に出たら、みんなに迷惑がかかるからって。とても寂しそうな顔をなさって・・・」
    (佐藤)「…やっぱり、それは本当だったのね」
    (田代)「うん・・・でもね…」
    (佐藤)「えっ?」
    (田代)「私ね、バージンロードの意味をお爺ちゃんに伝えたの。大好きなお孫さんの一生を表しているんですよって。教会のドアを開いてから花嫁さんの人生が始まる。バージンロードを歩く一歩一歩は一年ごとを表しているんですよって。 最初の一歩は花嫁が誕生した日を意味していて…1歳の誕生日、入学式、成人式と・・・お爺様は、ずっとそばにいて支えてこられたんですよねって・・・それから、佐藤さんの話しをしたの」
    (佐藤)「私の?」
    (田代)「そう、こう話したの。お孫さんは言ってました。ご両親がお仕事で忙しくて、お爺ちゃんお婆ちゃんに育ててもらって大きくなれたって。そういうことを全部分かっていたから、普通なら花嫁のお父さんが務めるものをお爺様にって・・・お父様もちゃんと理解してくれたって言ってました…ってね。それから、お孫さんは杖をついてでも一緒に歩いて欲しいと願っていますよって伝えようとしたら・・・」
    (佐藤)「したら?」
    (田代)「途中で止められちゃったんです」
    (佐藤)「えっ?」
    (田代)「杖をついてなんか歩かない!って。涙をいっぱいにためて、明日から整骨院に通って、杖無しで歩けるようになるからって」
    田代の話に、佐藤と皐月の二人の頬に大粒の涙が伝った。

  • #427

    六輔 (月曜日, 27 4月 2020 20:23)


    3度目の打ち合わせを終えた佐藤は、店の入り口に立って田代と皐月に見送られていた。
    (田代)「じゃぁ、次は彼と一緒に来てください!」
    (佐藤)「はい!」
    (田代)「二人で決めてもらいたいことが山ほど残っているんだから、必ず連れてきてね!」
    (佐藤)「は~い(笑)」
    (田代)「あっ、そうだ!」
    (佐藤)「なに?」
    (田代)「言い忘れていたことがあった!」
    (佐藤)「なに、なに?」
    (田代)「お爺ちゃんが整骨院に通い始める理由は孫には内緒にしていて欲しいって」
    (佐藤)「えっ?…そうなの?」
    (田代)「きっと、照れくさいんじゃないのかな?」
    (佐藤)「そっか・・・うん、分かった。でもさ、もし…」
    (田代)「もし?」
    表情を曇らせてうつむいた佐藤に、田代は優しい表情でこう言った。
    (田代)「お爺ちゃんね、私にこう尋ねてきたのよ。 杖を使わなきゃ歩けなくても、孫は一緒に歩いてくれると思いますか?って」
    (佐藤)「私が心配したのはそのことよ! やっぱり杖がなきゃ無理だからって、断られたりしないかなって…」
    (田代)「私ね、こう答えたの。“誰のお孫さんですか?”って」
    (佐藤)「田代さん・・・」
    (田代)「お爺ちゃん、すっごく嬉しそうな顔をしてたよ」
    (佐藤)「ありがとうございます、田代さん」
    (田代)「あのねっ、私の本業はフラワーコーディネーターだからね!そこんとこ忘れないでよ。次はちゃんと彼を連れてきてね(笑)」
    (佐藤)「はい!(笑)」
    佐藤は深々とお辞儀をして振り向き、駅に向かって歩き出した。
    そして歩き始めてからも何度も振り返り、嬉しそうに手を振る佐藤を、田代と皐月は店先に立って、その後ろ姿が見えなくなるまで笑顔で見送った。

  • #428

    六輔 (火曜日, 28 4月 2020)


    ミーティングルームに戻ってきた田代と皐月の二人は、コーヒーメーカーに残っていたドリップ珈琲を自分のカップにつぎ足し、向かい合って座った。
    『田代さん…』
    「なぁに?」
    『驚きました。おじい様の話』
    「驚いた?・・・なんで?」
    『だって、佐藤さんのために、お休みを返上して…』
    「そうねぇ、自分でもそのエネルギーがどこから出てくるのかと思うところはあるけど…」
    『新郎新婦にとって最高の結婚披露宴になってもらいたいっていう思いが、田代さんをそこまで突き動かしているんですよね。私も見習いたいです』
    「う~ん、正確に言うと新郎新婦だけじゃなくて、ご家族も、それから披露宴に参列されるお客様も…誰もが最高の思い出になるような、そんな結婚披露宴になってもらいたいっていう思いかな」
    『あっ、そっかぁ…そこが大切なところですね』
    「そうね。 フラワーコーディネーターがそこまでやるのか・・・皐月ちゃんにはそう思えるかもしれないけど、私は、お客様を大切にしたいだけ。その思いだけは失くさないでずっと働いていきたいと思っているんだ」
    『すごいです、田代さんは。私も田代さんのような誰からも頼ってもらえるようなフラワーコーディネーターになれるよう、頑張ります』
    「皐月ちゃんならなれるわよ、頑張って。あっ、それとね、皐月ちゃん…」
    『はい』
    「皐月ちゃんだけには本当のことを教えておくね」
    『えっ?・・・本当のこと?』
    「実はね、さっき佐藤さんに話したことは、あれで全部じゃないの」
    『えっ?どういうことですか?』
    「佐藤さんのお爺ちゃんが式に出ないって決めていた理由が実はもう一つあったの」
    『えっ?もうひとつ? それってどんな理由なんですか?』
    「先に亡くなったお婆ちゃんが、佐藤さんの花嫁姿を見るのをすごく楽しみにしていて、でも、その願いは叶うことなく天国へいかれて・・・あれだけ楽しみにしていたお婆ちゃんが見れないものを自分だけ見る訳にはいかないって・・・それがもう一つの理由だったそうよ」
    皐月は頬を濡らしてゆっくりとうなずいた。
    『仲の良いご夫婦だったんですねぇ・・・えっ?でも、それなら佐藤さんにそのことを隠す必要ないんじゃないですか? ちゃんと話しても良かったんじゃ…』
    「実はそれがね・・・」

  • #429

    六輔 (水曜日, 29 4月 2020 22:31)


    田代は全てを皐月に打ち明けた。
    「実は私ね、お爺ちゃんのところに行く前に、佐藤さんのお父様のところに会いに行ったの」
    『そうだったんですかぁ』
    「だって、本来ならバージンロードを花嫁と一緒に歩くのはお父様の役目でしょ? お爺ちゃんのところにお願いに行く前に本当にそれでいいのか確かめておきたかったから」
    『そっかぁ・・・田代さんって本当にすごい人ですね。ちゃんとそういうところまで気遣いをされて』
    「うん…お父様の本心としては自分が歩きたいと思っているんじゃないのかなって・・・でもね、そうじゃなかったの」
    『えっ?そうなんですか?』
    そこまで話した田代は、鞄からVHSのビデオテープを取り出してそれをテーブルの上に置いた。
    『これは?』
    「佐藤さんのお婆ちゃんの様子が収められているビデオなの」
    『えっ?亡くなったお婆ちゃんの?』
    「そうよ。私がね、お父様のところに行って、今回の件を全てお話しすると、お父様は涙を流されて・・・このビデオを観て欲しいって」
    『観たんですか?…田代さん』
    「うん、見させていただいたわよ。お父様がホームビデオで撮影したもので、前半は、佐藤さんが成人式を迎えた日、お婆ちゃんの病室に晴れ着を見せにきた様子が映っていて、その後、佐藤さんが病室を出て行ったあとに・・・」
    そこまで話すと、こらえきれずに溢れ出した涙を拭って田代はこう言った。
    「皐月ちゃん…」
    『はい』
    「皐月ちゃんには、これからもずっと佐藤さんの披露宴の準備を手伝ってもらいたいから、佐藤さんのご家族の思いを知っておいて欲しいの。だから、観て…このビデオ」
    『…はい』
    田代は立ち上がり、ミーティングルームに備え付けられてあるテレビデオにテープを入れて再生ボタンを押すと、病室のベッドの上でカメラを向けられて照れくさそうにするお婆ちゃんの様子が映し出された。

  • #430

    六輔 (木曜日, 30 4月 2020 21:59)


    テレビに映し出されたお婆ちゃんは、病にやせ細り、頬がこけていながらも、その柔らかな表情で優しいお婆ちゃんであることが直ぐに分かった。

    (お婆さん)「撮ってるのかい?」
    (父親)「撮ってるよ! もう直ぐ玲子が来るから普通にしてて!」
    と、直ぐに病室の扉が開いて晴れ着姿の玲子が入って来た。
    (玲子)「お婆ちゃん!」
    (お婆さん)「レイちゃん? あれぇ~ 素敵な晴れ着だよぉ。もうすっかり大人の女性になったんだねぇ」
    (玲子)「無事に成人式を迎えることが出来ました。お婆ちゃん、ありがとう」
    (お婆さん)「私は、何もしていないよぉ・・・わざわざ病院まで来てくれてありがとねぇ…レイちゃん。成人式おめでとう」
    ビデオは、二人が談笑するところから、玲子が病室から出ていくその後ろ姿をお婆ちゃんが見送るまでノーカットで録画されてあった。
    父親が録画を止めようとしたのか、画面が少し揺れると、父親に向かってお婆ちゃんがこう言ってきた。
    (お婆さん)「お願いがあるんだけどね…」
    (父親)「なに?母さん…」
    (お婆さん)「私はそんなに長い事生きられないでしょう、レイちゃんの花嫁姿を見ることは出来そうにないから・・・せめて、嫁ぐ日のレイちゃんにお祝いだけでも残させて欲しいんだけど…」
    (父親)「母さん、なに訳の分かんないこと言ってるの? 玲子の花嫁姿を見るまで元気でいてもらわなきゃ困るよ!」
    (お婆さん)「お前は、相変わらず優しい子だよ。いいんだよ、分かっているから・・・レイちゃんにお祝いを言わせてもらえやしないかい?」
    一瞬の沈黙の後に父親はこう言った。
    (父親)「もぉ~ どうせ直接話すことになるんだから、撮影しても無駄になるんだろうけど、玲子の成人式の時のお祝いとして撮ってあげるから」
    (お婆さん)「すまないねぇ」
    母親の余命が幾ばくも無いことを承知していた父親は、ビデオカメラを回し続けたのだった。

  • #431

    六輔 (金曜日, 01 5月 2020 21:51)


    お婆ちゃんは、ベッドの上で起き上がり、姿勢を正すように背筋を精一杯に伸ばして話し始めた。
    「レイちゃん…レイちゃんの晴れ着姿を見れたのは、七五三のお祝いのとき以来ですねぇ。今日は、とても素敵な晴れ着姿、大人になったレイちゃんをこの目で見ることが出来て本当に嬉しかったよ…冥途の土産が出来ました、ありがとうねぇ…レイちゃん。 レイちゃんはパパとママが仕事が忙しくて、いつも寂しい思いをしていながらも、それでもわがままを言わずに、小さい頃から本当に我慢強い子でしたね。お爺ちゃんとお婆ちゃんの自慢の孫です。 だからこそ欲を言えば、レイちゃんの花嫁姿をこの目で見たいと思ってきましたけど・・・どうやら・・・もし、それが叶わなかったときのために、お父さんに無理を言って、撮影をしてもらっています・・・と、撮れてる?お父さん」
    (父親)「ちゃんと、撮れてるよ(涙声)」
    「良かった。 レイちゃんはどんな旦那さんと一緒になりましたか?きっと優しい旦那さんなんでしょうねぇ…レイちゃんのお父さんのようにね。幸せな家庭を築いてねぇ、お婆ちゃんはずっとレイちゃんのことを応援しているからね」

    「お婆ちゃんには、ひとつだけ心配なことがあります。お爺さんのことです。お爺さんは、レイちゃんの結婚式にちゃんと出てくれましたか? お爺さんのことだから、婆さんが楽しみにしていたレイちゃんの花嫁姿を自分だけ見ることなんかできるか!って、そんなことを言ってパパやママを困らせているんじゃありませんか? そんなことをしたらレイちゃんが一番に哀しい思いをしますからね。どうか、私の取り越し苦労、余計な心配だったってなりますように。でもね、レイちゃん・・・そういうお爺さんだから、もしものときは笑って許してあげてねぇ、“ガンコじじい!”ってね」

    「最後になりますけど、レイちゃんの旦那さん、どうか玲子のことをよろしくお願いします。可愛い可愛いと甘やかせて育ててしまった孫娘ですけど、優しい子ですから…どうか二人で力を合わせて幸せな家庭を築いてください。そして、願わくばお爺さんにひ孫を見せてやってくださいね」
    (父親)「母さんもひ孫を見るんだよ!(涙声)」
    「レイちゃん・・・幸せになってね」

    皐月は涙に暮れて、言葉を発することも出来なかった。

  • #432

    六輔 (土曜日, 02 5月 2020 22:40)


    全ての録画が終了し、テレビデオには砂嵐が流れた。
    皐月と一緒に涙していた田代がその音に気付いてテレビデオの停止ボタンを押し、そして口を開いた。
    「皐月ちゃん…」
    『…あっ、…はい』
    「私ね、このビデオを披露宴の最後に流させてくださいって、お父様にお願いしたの。新郎新婦には内緒でって。そしたらお父様は、ビデオのこともおじい様のことも全部私に任せるからって」
    『だから・・・それで、佐藤さんには内緒にして…』
    「そうよ」

    ビデオテープを巻き戻し、それを取り出してケースに丁寧にしまい、世の中に一本しか存在しない大切なものを見つめて田代は話を続けた。
    「私ね、おじい様に会いに行ったときに、このビデオの話をしたの。そしたら、おじい様は堰を切ったように涙を流されて・・・」
    田代はその時のことを思い出したかのように涙を流し、
    「おじい様はこう言ったの・・・“婆さんの頼みじゃ仕方ないな”って。とっても優しそうな顔をなさって…」
    その時の様子を皐月も思い浮かべ、頬を伝う涙を拭おうともせずにこう言った。
    『本当に素敵なご家族ですね…』

    田代は、鼻水をすすって笑顔になってこう言った。
    「皐月ちゃん!」
    『はい』
    「亡くなったお婆ちゃんのためにも、素晴らしい結婚披露宴になるように…協力してくれるわよね?」
    『もちろんです、田代さん!精一杯お手伝いさせていただきます』
    皐月も鼻水をすすって笑顔になってこう言った。
    『私は…私は、田代さんの下で働けて本当に良かったです!』
    「頼んだよ、皐月ちゃん」

    そこにあったのは、素晴らしい結婚披露宴を演出することを決意した二人のフラワーコーディネーターの笑顔だった。

  • #433

    六輔 (日曜日, 03 5月 2020 23:07)


    作業する手を止めて壁にかけられた時計を見た皐月は、ため息混じりに呟いた。
    「もぉこんな時間かぁ」
    気づけば、夜の9時を過ぎていた。
    店の閉店後に一人残って残の整理をしていると、仕事上りはほぼ毎日のように9時を過ぎてしまう。
    これ以上仕事を続けても能率が上がらないと考えた皐月は、後片付けをして仕事を切り上げた。
    暗い更衣室に灯りをともし、腰の高さで結ばれた胸当てエプロンの紐をほどきながらロッカーの前に立った。
    仕事をしているときは、余計なことを考えずに済んだが、エプロンを脱いで着替えを済ませ、髪のゴムをほどいて髪をたらし、ロッカーの扉についている小さな鏡を覗いてそこに疲れきった顔が映し出されると、一瞬、心が折れそうになった。
    「疲れたぁ…」
    と、同時に時計が24時間巻き戻されたかのように、昨夜の美代子の寝姿が思い浮かばれてきた。
    「今日も、先に寝ちゃっているのかなぁ?…美代子」
    さらに時計の進みに合わせるように記憶が蘇ってきた。
    今朝は美代子が寝ている間に部屋を出て満員電車に揺られ、一息ついたところで隣に立つ女性のヘッドフォンから聴こえてきた“青春の影”
    人恋しさを感じながら誰もいない会社に出社して、新入社員の仕事についた。
    そして、新婦・佐藤玲子との打ち合わせで知った先輩・田代の仕事ぶり。
    「自分は先輩のようになれるのだろうか」と、不安な気持ちにもなり・・・いろんなことが頭の中でごちゃ混ぜになった皐月は、鏡の前で思考能力を停止せざるを得なくなっていた。
    「・・・帰ろう」

  • #434

    六輔 (月曜日, 04 5月 2020 20:15)


    皐月は、「ふぅ~」と小さく息を吐きながらロッカーの扉を閉めた。
    ゆっくりと歩いて出入り口に立った皐月は、更衣室の照明のスイッチに手を伸ばしそれを押した。
    ≪カチッ≫
    仕事を終えたことを実感できるその音は、皐月の一日の中で一番ほっとする音だった。
    暗くなった更衣室から出て廊下の小さな照明を頼りに社員通路を通って社屋から出ると、夜の街中は様々な人で溢れていた。
    それは、まさしく大都会・東京の見慣れた街の光景であったが、ときに、無性に孤独を感じることがあった。
    「これだけ人が歩いていても、私のことを知っている人は誰一人としていないのよね…」
    そんな空虚感に苛まれる日が最近では頻繁にあったが、それでも皐月が置かれた状況にめげることはなかった。
    それは他でもない、美代子がいつもそばに居てくれたからだ。
    高校に入学して出会ってから5年間、頼りにしてきた美代子の存在は皐月にとって絶対だった。
    美代子との思い出を手繰り寄せながら歩いていると、まるで目の前で思い出のアルバムを一枚一枚めくるように様々な思い出が蘇ってきて、湯気のようにしっとりと皐月の胸を温めた。
    数々の思い出が鮮明に蘇ると、美代子の顔はその全てが笑顔に溢れていた。
    「美代子は、いつも私の前で笑っていてくれたのよね」
    それを思い出すのと同時に、昨夜の美代子の寝姿が思い出されてきた。
    「でも、どうしてあんなことしたんだろう・・・迷惑ならそう言ってくれたらよかったのに…」
    自然と涙が溢れてきた。
    「なんか、私、今日は泣いてばかりだな」
    と、カラ元気をだそうと笑おうとしたが、疲れ切った体がそれを許してはくれなかった。

  • #435

    六輔 (火曜日, 05 5月 2020 20:23)


    ゆっくりと歩く皐月に駅はもう間もなくだと気づかせるかのように、辺りに煌びやかに輝くネオンが増えだした。
    何の看板なのか一つひとつ確認しながら歩いていた訳ではなかったが、ネオンの群衆の中にオープンして間もないコンビニエンスストアの看板があるのを見つけた。
    大手コンビニエンスストアのセブン・イレブンは、年号が令和の声を聞く頃には日本国内で2万店舗を数えるほどに成長していたが、昭和58年当時にはその10分の1の2,000店舗にも満たない店舗数だった。
    日用品からお弁当までといった幅広い品揃えに、物珍しさも重なって、オープンして間もない駅前のセブンはいつも多くの客で賑わっていた。
    セブンの前まで歩いてくると、店内の天井につけられた大型の蛍光灯が眩しいほどに光っていて、雑誌コーナーで立ち読みをする者や、晩御飯を求めて来店した客など、大勢の客で店内は賑わっていた。
    いつもであれば、気に留めることも無く通り過ぎるところだったが、その日はふとある思いが芽生えてきた。
    「あっ、晩御飯・・・」

    この時に皐月の頭をよぎったのは、昨夜の晩御飯のことだった。
    「そういえば、昨夜の晩御飯は食べずに寝ちゃったけど…もしかしたら用意しといてくれたのかなぁ」
    そう考えた皐月だったが、直ぐにその考えを否定する思いが浮かんできた。
    「もし用意しといてくれたなら、テーブルの上に出しておいてくれたはずよね…今日は、買って帰ろうかなぁ…」
    そう考えた皐月はコンビニの入口の前で立ち止まったのだった。

  • #436

    六輔 (水曜日, 06 5月 2020 19:48)


    皐月は、社会人になってからも極力コンビニを利用しないようにしていた。
    コンビニには多種多様な日用品まで揃っていて、買い物をする者にとってはとても便利であるが、便利であるが故、不要不急なものまで買ってしまうからだ。
    ましてやコンビニの商品のほとんどが定価販売であることから、経済観念のしっかりしている皐月がコンビニを利用することは滅多になかった。
    それは母親にそうしつけられて育ったからだった。

    皐月は、北関東の田舎街に生まれ育った。
    皐月が小学6年生のときに市内に初めてスーパー「とりせんジャスコ」が開店し、よく母親と一緒に自転車に乗って買い物に出かけて行った。
    「皐月…」
    『なぁに、お母さん…』
    「ジャスコに買い物に行くんだけど、たくさんあるから一緒に付き合って!」
    「は~い」
    『あぁ、ジャスコに行く前に、近くの八百屋さんにも寄るからね』
    「なんで?とりせんで全部買えるでしょ?」
    『八百屋さんの方が安いものがあるかもしれないでしょ』
    「え~・・・面倒じゃない?」
    『そんなこと言わないの!女の子は上手なお買い物が出来るようにならなきゃだめなのよ」
    『上手なお買い物?』
    「野菜とかの食材なら、少しでも新鮮なもの。それに少しでも安いものを買うのよ」
    『そっか』
    「スーパーにあるからって、その全部が安いとは限らないし…億劫がらないで少しでも安いお店を探して、そこまで買い物に行くの」
    『・・・は~い』
    「お母さんは決してケチじゃないのよ。安い買い物が出来れば、その分、皐月にお小遣いをあげられるでしょ!」
    『そっか(喜)』

    皐月は、とりせんとジャスコ、近くの八百屋さんでの買い物を終えて家に戻ってくると、
    「あと一回我慢すれば買えるかなぁ・・・秀樹のブロマイド!」
    そう言って母親からもらったお小遣いを郵便ポストの形をした貯金箱に入れたのだった。

  • #437

    六輔 (木曜日, 07 5月 2020 23:00)


    皐月はコンビニの店内に入ると、雑誌コーナーで立ち読みをしていた客の後ろを通って店の奥まで進んでいった。
    店の一番奥には、大型の冷蔵庫の中にありとあらゆる飲み物が陳列されてあった。
    仕事を終えてから一切の飲み物を口にしていなかった皐月は、当然のように喉の渇きを感じていた。
    皐月がちょうど20歳のとき、法が変わってペットボトルを使った炭酸飲料や果実飲料の製造が始まったのだが、平成の時代になってからのように500ミリリットルのペットボトルは散乱ごみに対する懸念からその製造販売はほとんどなかった。
    大型の冷蔵庫の中にスチール缶やアルミ缶でできた、皐月の大好きな飲み物がたくさん並んでいたことに、思わず声が漏れた。
    「わぁ~…どうしよう。いろいろあって決められないよぉ」
    皐月の目に留まったのはメローイエロー、サンキストレモン、黒の水玉模様の缶が特徴的なレモンサワー、ミリンダにチェリオ、ドクターペッパーに7up、こつぶといった人気の商品だった。
    食事との組み合わせを考えれば“お茶”を選択するのがベストだと分かっていた皐月だったが、その時の気分でお茶を選択肢から除外し、皐月はファンタレモンのデブ缶を手にした。
    皐月はそれを買い物かごに入れ、次はお弁当の並んでいるコーナーへと歩いて行った。
    お弁当・惣菜コーナーに行くとそこはパラダイスだった。
    幕の内弁当、唐揚げ弁当、焼肉弁当におにぎり、サンドイッチからお惣菜まで、目移りを繰り返して、結局は決められずに商品の前でたたずんでいた。
    「どうしよう…」
    と、右手をあごの下に添えて考え込んでいる、その時だった。
    コンビニ店員が他の客に聞こえないように小声で声をかけてきた。
    「皐月ちゃん…」
    『えっ?・・・』
    皐月は声がした方に振り向いて声の主を見て驚いた。
    『えっ、・・・た、たっちゃん?』

  • #438

    六輔 (金曜日, 08 5月 2020 20:12)


    セブンの店員のユニフォームを着たその男は、安堵の表情を浮かべ、店内にいる他の客の目を気にするように語りかけてきた。
    「良かった、人違いじゃなくて」
    『びっくりぃ~、たっちゃんとこんなところで会うなんて・・・えっ?その服装…ここでアルバイトしてるの?』
    「そうだよ。いま、ちょうど仕事終わって上がるところ」
    『そうなんだぁ』
    「ねぇ、直ぐに着替えてくるから待っててくれる?ちょっと店の外で話したいな」
    『うん、分かった!』
    「待ってて!」
    そう言って皐月に笑顔を見せたのは、皐月の高校時代の同級生「矢神達洋(ヤガミ・タツヒロ)」だった。
    皐月と達洋は、市内の別々の中学校を卒業し、高校に入学して直ぐに同じクラスになった。
    入学当初、皐月はテニス部、達洋はサッカー部と特に接点のなかった二人だったが、ある日を境に二人の仲は急接近し、仲良くなったのだった。

  • #439

    六輔 (日曜日, 10 5月 2020 00:20)


    それは二人が高校一年の三学期、もう直ぐ修了式を迎えようとしていた頃のことだった。
    三時限目と四時限目の間の休み時間に達洋が皐月のところにやってきた。
    「重里さん…」
    『なぁに、矢神くん』
    「今日の昼休み、ちょっと校舎の屋上に来てほしいんだ」
    『えっ?・・・昼休み?屋上に?…もしかしてそれって、わたし一人で?』
    「…うん・・・だめ?」
    『突然になに?何か話したいことでもあるの?』
    「…うん」
    『え~なに?気になるから今話してよ!』
    「・・・昼休み、屋上で話すよ」
    『・・・分かった。じゃぁ昼休み・・・屋上で…』

    達洋から呼び出され、何を話されるのかと気になって、皐月は授業も上の空に過ごした。
    4時限目の数学Bの授業が終わって昼食の時間となり、いつものように美代子と机を向かい合わせにしてお弁当を食べようとした皐月だったが、ふと教室を見渡すと既に達洋が教室にいないことに気づいた。
    『えっ? もう屋上に行っちゃったの?』
    慌てた皐月は、言い訳も考えずに美代子にこう言った。
    『ちょ、ちょっと出かけてくる』
    「はっ? 出かけてくる? 出かけてくるって、どこに?なに言ってるの…皐月」
    『えっ?・・・で、出かけてくる? そんなこと言ってないよ。ちょ、ちょっと・・・と、トイレ!』
    トイレが我慢できなくなった“てい”で慌てて教室を飛び出した皐月は、廊下に出て、ようやく我に返ってこう言った。
    『あれ?わたし、いま・・・美代子に隠し事をしようとしてたの?』

  • #440

    六輔 (日曜日, 10 5月 2020 20:20)


    教室を出た皐月は、普段のスピードよりも速く廊下を歩いていた。
    屋上までの階段を一気に駆け上っていき、外に出る重い鉄製の扉を開けて外に出た。
    校舎の屋上を見渡すと、フェンスの手すりをつかんで校舎の北の方角に見える南泰山を眺めて立っている達洋が目に入った。
    皐月は笑みを浮かべ、お気に入りのシャンプー・メリットの香りを微かに漂わせる長い髪を風になびかせて達洋に駆け寄った。
    『矢神くん!』
    「あっ、重里さん…」
    皐月は、かすかに漂うタクティクスの香りに気付いた。
    『あっ、この香り・・・タクティクスだよね』
    「う…うん・・・誠に少し借りた」
    『借りた???…そなんだ。矢神君が教室にいないから、慌てちゃったよ! 矢上君、いつの間にお弁当食べたの?早食い選手権に出られそうだね(笑)』
    「いつの間に?…2時限目の授業が終わった後だよ」
    『はっ?・・・あっ、そっか!矢神君はいつも“ハヤベン”してるんだった…そっか、そっか(笑)』
    「ごめんね、呼び出しちゃって」
    『そんな謝らなくていいよ! で、話ってなに?』
    「えっと・・・」
    達洋は、皐月に背を向けるようにまた屋上のフェンスをつかんで遠くにそびえ立つ南泰山に視線をやった。

  • #441

    六輔 (火曜日, 12 5月 2020 05:40)


    思いのほか早く皐月が来てしまったことに、気持ちの整理がついていなかった達洋は言葉に詰まり、慌ててネタを探した。
    「あっ…そういえば最近ギター始めたんだってね」
    『えっ? なに? ギター?・・・う、うん。初めてフォークギター買ったの。一生懸命に練習して弾けるようになりたいなと思って・・・って、誰から聞いたの?私がギター始めたこと』
    「小塚さん」
    『ノンちゃん?・・・そなんだ』
    「どんな曲、練習してるの?」
    『えっ?・・・神田川とか…』
    「かぐや姫の? いい選曲だね。コード進行もそんなに複雑じゃないし…」
    『えっ? 矢神君、もしかしてギター弾けるの?』
    「う、うん…少しだけ」
    『へぇ~ そうなんだぁ。知らなかった。今度教えてもらおうかな?』
    「…いいけど」
    『(笑)相変わらず、ぶっきらぼうな言い方だね(笑)』
    「・・・ごめん」
    『まったく(笑)・・・ってさぁ、ねぇ、矢神君…そんな話をしようと思って私を呼び出したの?』
    「ち、違うけど・・・」
    と、達洋は真顔になってこう言った。
    「聞きたいことがあるんだけど・・・」
    『・・・なに?』
    「つ、…つ、付き合ってる人いるの?」
    『・・・えっ?』

  • #442

    六輔 (火曜日, 12 5月 2020 19:06)


    夢にも想っていなかった達洋の言葉に皐月は動揺し、心の中でこう叫んでいた。
    『ねぇ、なによこれ・・・いきなり、付き合ってる人いるの?って。これって告白だよね?』
    と、直ぐに皐月の頭の中にある女の子の顔が思い浮かばれてきた。
    『私は・・・矢神君は美代子のことが好きだとずっと思ってたよ』

    皐月は、なんとなく感じていたのだった。
    『矢神君って、きっと美代子のことが好きなんだろうなぁ。素直になればいいのに、美代子の前では急に悪ぶったりして・・・なんか、小学生みたいだよね。男の子ってどうしてみんな幼いんだろう』と。
    ずっとそう思っていたからこそ余計に驚いた皐月だった。
    『矢神君が私のことを?・・・』
    考えたこともなかった皐月は、返事もできずに黙ってうつむいていた。
    返事をしない皐月にしびれをきらした達洋は、矢継ぎ早にこう言った。
    「いきなり、変なこと聞いてごめんね」
    『・・・べ、別にいいけど』
    「入学して直ぐに好きになっちゃって・・・ほらっ、もう直ぐ2年生になって、クラスも別々になっちゃったりしたらさ、すごく寂しくなっちゃうし・・・後で後悔したくないなと思ってさ…」
    ただ黙ってうなずく皐月に、達洋はこう言った。
    「重里さん・・・」

  • #443

    六輔 (水曜日, 13 5月 2020 19:12)


    達洋は、顔を真っ赤にしてこう言った。
    「親友の重里さんなら知ってるよね?・・・付き合ってる人がいるのか」
    『・・・はっ?・・・それってどういう意味?』
    達洋の言葉の意味を心の中でゆっくりと確かめた皐月は、冷静に、そう、いたって冷静にこう言った。
    『ねぇ、矢神君・・・あなたさ、付き合ってる人いるの?って私に聞いたけど、誰が!って、言わなかったわよね?』
    「・・・えっ?」
    『だからさ、誰が付き合ってる人がいるのか、いないのか・・・言・わ・な・か・っ・た・わ・よ・ね!』
    女の子が同じセリフを二度言うとき、しかもゆっくりと一音ずつはっきりと言うときほど怖いときはないのだ。
    皐月が鬼の形相に変えたことで身の危険を感じた達洋は、耳をつかまれやしないかと、必死に両手で耳を隠した。
    そんな達洋に向かって皐月は吠えた。
    『重里さんなら知ってるかなと思って? なによそれ! 勘違いするでしょ!!! バカーーーっ!』
    「えっ?・・・俺、言ったよね?」
    『言った?はぁ?この期に及んでしらを切るか?』
    「いやっ、…い、…い、言いました」
    『あんた、真面目に言ってんの? この状況をどう乗り切るつもり?』
    「・・・・・」
    『じゃぁ分かった。100歩譲って私が聞いてなかったことにしてあげるよ!で、誰が付き合ってる人がいるのか、いないのか、知りたいのかな?・・・あぁ?・・・矢神達洋!もう一度言ってみろ!』

  • #444

    六輔 (木曜日, 14 5月 2020 19:30)


    達洋と皐月は、店の一番奥の小さなテーブルに向かい合って座った。
    (皐月)「ねぇ、たっちゃん…」
    (達洋)「うん?」
    (皐月)「とっても感じのいい居酒屋だね」
    (達洋)「うん!ここのマスターは、地元の先輩でさ…って、ほらあの人が先輩だよ!」
    達洋が来たのを見つけて店主がやってきた。
    (店主)「いらっしゃい、たつ!」
    (達洋)「先輩、どうも!」
    (店主)「なんだよ、たつ! 彼女を連れてきたんならちゃんと紹介しろよ!」
    (達洋)「彼女じゃなく、高校時代の同級生ですよ(笑)。俺のバイトしてるセブンでばったり会って・・・晩御飯を買って帰るっていうから、それなら一緒にご飯を食べようってなって、せっかくの機会だから先輩のところに連れて来たんですよ。皐月ちゃんです」
    達洋に紹介され、皐月は少し照れくさそうに頭を下げた。
    (皐月)「はじめまして、重里皐月です」
    (店主)「いらっしゃい! たつにはもったいねーほど美人だね!」
    (達洋)「だから彼女じゃないですって!」
    (店主)「いまのところは!だろう?(笑)まっ、ゆっくりしてって!」
    (皐月)「ありがとうございます」
    (達洋)「先輩、皐月ちゃんにとびっきり美味しいもの食べさせてやってください」
    (店主)「おぅ。皐月ちゃんは好き嫌いはあるかい?」
    (皐月)「いえ、嫌いなものはありません」
    (店主)「そっかい、じゃぁ、任せてもらってもいいかい?」
    (達洋)「いつもメニューは先輩にお任せなんだけど、いいよね?」
    (皐月)「うん」
    (達洋)「じゃぁ、いつものようにお願いします、先輩」
    (店主)「あいよ!」
    そんな挨拶を交わして店主が席から離れると、達洋は尋ねた。
    (達洋)「皐月ちゃん・・・アルコール飲めるんでしょ?」
    (皐月)「…えっ?」

  • #445

    六輔 (土曜日, 16 5月 2020 00:52)


    達洋の「飲めるんでしょ!」の誘いに、皐月は戸惑いの表情を浮かべた。
    『そうだよね…ここは居酒屋だもんね。こういう時って、やっぱり飲んだ方がいいのかな?』
    「こういう時?・・・別に特別な場所でもないし、特別な機会でもないでしょ」
    『・・・うん』
    「高校の同級生が2年ぶりに再会して一緒に食事してるだけでしょ?(笑)」
    『そうだね・・・正直言うと、アルコールあんまり得意じゃないんだ…直ぐに酔っぱらっちゃうの…』
    「弱いんだ」
    『直ぐに真っ赤になって・・・寝ちゃうみたい』
    「そっか。じゃぁ無理して飲むことないよ」
    『でも・・・』
    「今日は俺も飲まないでおくよ」
    『え~ それじゃ悪いよ!たっちゃんは飲んで!』
    「いいの、いいの! 今日は皐月ちゃんの話を聞くことに専念するよ(笑)」
    『相変わらず、たっちゃんは優しいね…そういうところ』
    「普通だよ」
    『・・・でも、やっぱり飲みなよ!』
    「本当に大丈夫。酔っぱらって・・・大変だからさ(笑)」
    『大変?・・・何が?』
    「うん?・・・口説いちゃったりしたらさ(笑)」
    皐月の瞳には、微笑む達洋の笑顔が映っていた。

  • #446

    六輔 (土曜日, 16 5月 2020 23:47)


    二人は、運ばれてきた二つのウーロン茶のグラスを重ね合わせた。
    「乾杯!」
    『カンパーイ!』
    「皐月ちゃんと会うのは、高校卒業以来だよね。皐月ちゃん、成人式に来なかったもんね…」
    『うん、一生に一度のことだから行きたかったんだけど…』
    「就活あったから?」
    『そう・・・就活の年だと思って、最初から行かないって決めてたんだ…』
    「そっか」
    『ねぇ、たっちゃん…』
    「うん?」
    『たっちゃんは、さっきのセブンの近くに住んでるの? 確か、東京の工業系の大学に進学したんだったわよね?』
    「うん。大学がこの近くだからさっきのセブンでバイトしてるんだけど、住んでるのは、電車で30分ぐらい離れたところだよ」
    『・・・そなんだ』
    「皐月ちゃんは、仕事の帰り?なんでしょ?」
    『うん。たっちゃんの働いてるセブンの近くの会社に就職したんだ。フラワーコーディネートのお仕事だよ』
    「そっか。夢を叶えたんだね!」
    『えっ? 夢を?』
    「うん」
    『私の夢を覚えていてくれたの?』
    「もちろんだよ!だって、みんなで将来の夢を語り合ったじゃないか!・・・って、くせーセリフ(笑)」
    『ホンとだね(笑)でも、私の場合はまだ夢の途中! 真の夢は自分のお店を持つことだからね!』
    「そっか、そっか」
    『だけどさぁ、よく将来の夢を話したよねぇ、私たち』
    「うん」

  • #447

    六輔 (日曜日, 17 5月 2020 19:07)


    高校時代の懐かしい話をしていると、当然のようにある感情が芽生えてきた。
    『ねぇ、ねぇ、ところでさぁ、みんな元気してるのかなぁ…高校時代の同級生に会いたいなぁ』
    「俺もあまり向こうに帰ってないから、よく分からないけど・・・成人式の時にあった奴だと・・・う~ん・・・あっ、地元の大学に進学した豊田とか佐々木とかは中学校の教員になるのを目標に頑張ってるみたいだし、あいつは割烹店の店主になるために、いまはウナギ屋で修行してるらしいよ!」
    『あ~ぁ、あいつね(笑)』
    「もう結婚した人もいるっていう話だし…」
    『そうね・・・女の子は早い人はもう・・・すごいよね、母親になった人もいるなんて・・・自分がすごく子供に思えちゃう』
    「子供に? そんなことないよ、皐月ちゃん。皐月ちゃん、すっかり大人っぽくなったよ」
    『そう?・・・な~んて、どうせお世辞でしょうけど(笑)』
    と、達洋は照れくさそうに切り出した。
    「そう言えばさ・・・美代ちゃんはどうしてるのかなぁ…卒業してから一度も逢ってないし、話も聞こえてこないんだけど…偏差値の高い大学に進学したから、勉強が大変なのかな?」
    『はい、はい、出ました!たっちゃんの本命、美代子!』
    「そうやって、からかうなよ!」
    『いいじゃん! 美代子とのことは青春の思い出でしょ! たっちゃんは、今でも好きなんでしょ?…美代子のこと』
    「えっ?・・・好きとか、もうそういうのはないよ。だってさ…」

  • #448

    六輔 (月曜日, 18 5月 2020 19:03)


    皐月はその時のことを思い出して笑みを浮かべた。
    『(笑)そうだったわね。気持ちを伝えて撃沈されちゃったんだもんね!』
    「もう、その話はやめてくれよ!」
    『だいたいね、私を校舎の屋上に呼び出して“付き合っている人がいるのか聞いてくれ”なんて、そんな弱気なことやってるから失敗すんのよ!』
    「失敗?・・・まぁ・・・そうだね」
    『あれ? なんか不満そうな顔してるけど…』
    「だって…だって、あのとき皐月ちゃんが美代ちゃんにもっとうまく伝えてくれてたら・・・」
    『はぁ?????』
    「いやっ、じょ、じょ、冗談です・・・ごめんなさい」
    『あの時は、こっちにもいろいろあったんだからね!』
    「え?いろいろって?」
    『な、なんでもない!でもだよ!純粋な失敗じゃなかったでしょ。だって、“ずっといい友達でいましょ!”って返事もらって、実際にずっといい友達でいられたんだから』
    「・・・そうだけど」
    『だけど、いま思い出しても笑える。たっちゃんは美代子の前では別人になっちゃってたもんね!』
    「だからもう、その話はやめてくれって!」
    『(笑)はいはい。まぁ、でもさ…美代子の言葉通り、男の子も女の子も関係なしにみんな本当にいい友達でいられたんだからさ…それで良かったじゃん!』
    「・・・まぁね」

  • #449

    六輔 (火曜日, 19 5月 2020)


    美代子の話題に盛り上がり、皐月が美代子とルームシェアをして同居していることを達洋に話そうとした、ちょうどその時だった。
    『あのね…』の皐月の声をかき消す「はい、お待ちぃ~!」の店主の声が響き渡った。
    皐月は次の言葉を飲み込み、運ばれてきた料理を見て歓喜の声を上げた。
    『すご~い、美味しそう!』
    「マスターのイチオシメニューだよ!美味しいから食べてみて」
    『はい、いただきま~す』
    皐月は満面の笑みを浮かべて料理を頬張った。
    『おいしーーー!!!』
    「良かった(笑)」
    皐月は、食べることに夢中になり、美代子のことはすっかりどこかに飛んでいってしまっていた。
    達洋は、言葉を発することなく料理を食べ続け、時折、目じりを下げて嬉しそうに笑みを浮かべる皐月にこう言った。
    「ねぇ、皐月ちゃん…」
    『なぁに? たっちゃん…』
    「やっぱり皐月ちゃんには笑顔が似合うよ!」
    『えっ? な、なに? 笑顔がって…どういう意味?』
    「うん?だってさ・・・あれだけ目を真っ赤にはらして店に入って来たらさ…」
    『あっ・・・』
    「何かあったの?・・・皐月ちゃん・・・良かったら話して」
    『…たっちゃん』

  • #450

    六輔 (水曜日, 20 5月 2020 20:07)


    達洋の言葉に皐月は理解した。
    『そっか・・・セブンであれだけ私を強引に食事に誘ってくれたのは、久しぶりに会って、そのまま別れるのを惜しんでじゃなく、私を心配して誘ってくれたのね…たっちゃん』
    そう思っただけでまた目頭が熱くなってきた皐月は、必死に涙をこらえて応えた。
    『特別に何があったっていう訳じゃないんだけど…社会人一年生でいっぱいいっぱいになっていて・・・』
    「仕事大変なの?」
    『将来の夢を叶えるための修行期間だと思って頑張ってるんだけど…朝は早いし残業続きだし…仕事は全然覚えられないし…時々寂しくなったりもするし・・・』
    それまでうつむき加減に話していた皐月は、めーいっぱい無理に口角を上げ、こう言った。
    『寂しい時に慰めてくれる彼氏もいないしさ!』
    「えっ?皐月ちゃん、彼氏いないの?」
    『いないよ!悪い?そういうたっちゃんはいるの?彼女』
    「・・・いないよ」
    『へぇ~ いないんだ』
    「悪いかよ」
    『悪くないよ!(笑)わたし、専門学校は女子ばっかだったし、就職した会社だって、男性は頭の薄くなった管理職の人だけ。男の人と出会う機会もないの!』
    「そっかぁ・・・じゃぁ、今日の俺との出会いは偶然じゃなくて必然だったのかもしれないね!」
    『えっ?・・・たっちゃんってさ、ときどき歯の浮くようなキザーなこと言うよね』
    「こんなこと、あえてキザにしか言えないよね(笑)」
    『変わらないね! 高校時代と』
    「それって、成長していないって意味?」
    『さぁ、本音のところはどうかな? 自分で考えてみて! たっちゃん』
    高校を卒業して以来、達洋に2年ぶりに会った皐月は、その時初めて真の笑顔を達洋に見せたのだった。

  • #451

    六輔 (木曜日, 21 5月 2020 19:17)


    高校時代の皐月に戻ってくれたことを嬉しく思った達洋は、ある生理的な欲求に駆られ、それを正直に皐月に伝えたのだった。
    「ねぇ、皐月ちゃん・・・」
    『うん?なぁに…たっちゃん』
    「いい?」
    『えっ?いい?って・・・なにが?…たっちゃんの話っていっつも主語・述語がよく分かんないのよね!』
    「ごめん・・・なんかさ…」
    『なんか?』
    「・・・飲みたくなっちゃった!」
    『もぉ~ そんなの私に許しをもらわなくてもいいから!(笑)』
    「元気な皐月ちゃんを見てたらやっぱし飲みたくなっちゃってさ…少しだけ!」
    『どうぞ!・・・って、じゃぁ私も少しだけ飲んでみようかなぁ…』
    「えっ?さっき、あんまり得意じゃないって言ってたよね?直ぐに酔っぱらっちゃうからって」
    『家で何度か飲んだことあるよ!』
    「家で?その時は何を飲んだの?」
    『お風呂上りにビール・・・一番小さな缶のやつね』
    「で? どうだったの?」
    『すごくテンション上がって気持ちよくなったとこまでは覚えているんだけど・・・結局寝ちゃったのかな』
    「じゃぁ、やっぱり無理しない方がいいよ」
    『大丈夫よ! たっちゃんと2年ぶりの再会を祝して乾杯しよっ!』
    「まぁ、再会を祝してって言われたら、そりゃぁ俺だって皐月ちゃんと二人で飲みたいとは思うけど…」
    『もう私も二十歳になったんだし・・・もし酔っぱらっちゃっても、介抱してくれるでしょ?…ねっ!』
    「えっ?」
    『二十歳になってお酒も飲めないようじゃ・・・早く大人になりたいの! さっきも話したでしょ! 同級生の女の子には、もうママになってる人だっているんだよ!って』
    「もぉ~、明日二日酔いで仕事に行けなくなっても知らないよ!」
    そう言って笑った達洋に、この時の皐月は初めて嘘をついたのだった。
    『明日?明日は仕事お休みだから大丈夫だよ』と。

  • #452

    六輔 (金曜日, 22 5月 2020 20:11)


    「ちょっとトイレ行ってくる! ついでに飲み物頼んでくるね」
    『は~い、よろしく!』
    達洋がトイレに席を外したことで手持ち無沙汰になった皐月は、ゆっくりと店内を見渡すと、様々な客がいることに気付いた。
    カウンター席の隅には、大学生風のアベックが肩を寄せ合い、楽しそうに飲んでいて、一つ席を空けて右隣には、スーツを着たサラリーマン風の男性二人が、共に酒の力を借りてくだを巻いているようだった。
    奥の座敷席に視線を移すと、そこには年配者から皐月と同世代の若者まで肩を並べて宴を楽しんでいて、おそらくは会社のメンバー揃っての飲み会なのであろうと容易に察しがついた。
    酒の前では、それぞれの人がそれぞれの思いで盃を酌み交わし、愚痴をこぼして慰めあったり、賑やかな時間を一緒に過ごすことで明日への英気を養っているようだった。
    そんな様子を見て皐月はポツリとつぶやいた。
    『いいなぁ、こういうところも。私も来れるようになるには、やっぱり飲めるようにならないとね!』
    そう、改めて思った皐月だったが、勢いに任せ、達洋に嘘をついてしまったことを思い出して、それを悔いた。
    『明日休みだなんて…なんか、勢いで言っちゃった・・・ごめんなさい、たっちゃん・・・でも・・・え~い!もう言っちゃったんだからしょうがないわよね。もしもの時は有給休暇だってあるんだし(笑)』
    そう言って、笑顔に戻った皐月の目に入ったのは、トイレから戻って店主と立ち話しをする達洋の姿だった。
    『店長さんと何を話しているのかなぁ・・・飲み物を頼むだけにしては長すぎるよね…』
    皐月の視線の先には、時折照れくさそうに頭を掻きながら、店主と談笑する達洋の姿があった。

  • #453

    六輔 (土曜日, 23 5月 2020 21:05)


    トイレを済ませて戻ってきた達洋は、カウンターの前に立ち、中で仕事をしている店主を呼んだ。
    『先輩!』
    「あいよ!なんだ、たつ…注文か?」
    『はい!生ビール、中ジョッキーを一つと・・・』
    「中ジョッキー? 結局飲むことにしたのか?」
    『同級生と久しぶりに会って、やっぱり少し飲みたくなっちゃって…』
    「そっか。で、彼女は?」
    『う~ん、それがアルコール弱いくせに私も飲みたいって…』
    「おぉ~・・・たつ、なんだよ~」
    『えっ? なんすか、先輩』
    「本当は彼女なんじゃん!」
    『だから、本当にそういうんじゃないですって』
    「気を許してなきゃ、アルコールの弱い女の子が“私も飲みたい”なんていくら同級生とはいえ男の人の前で言わねーよ! 酔っぱらったら介抱してね!とか言われたんじゃねーのか?」
    『・・・・・』
    「おぉ~ 図星かぁ」
    『だから、彼女とか、そういうんじゃないですって。確かに高校時代から仲良かったですけど、ずっとグループ交際してきたっていうか…』
    「グループ交際?・・・ふ~ん。もう一回言うけど、男女が二人で居酒屋に来て、そこで苦手なアルコールを自分から飲みたいって言った女の子の気持ち・・・もぉ、それ以上俺に言わせるなよ! ったく! ヒューヒューだぜ!」
    『だから、本当に違いますって! 皐月ちゃんはそんな女の子じゃないですから!』
    「ったく、少しは女心ってやつを分かってやれよ! もう大人なんだからさ!」
    『・・・先輩』

  • #454

    六輔 (日曜日, 24 5月 2020 19:16)


    皐月は、店長との話を終えて戻ってきた達洋を笑顔で迎えた。
    『おかえりなさい』
    「…うん」
    『飲み物、頼んできて来てくれた?』
    「えっ?…あっ、う、うん」
    『ちゃんと頼んできてくれたんでしょうね?』
    「…うん」
    どことなくよそよそしい達洋の態度に違和感を覚えた皐月は、ストレートに尋ねた。
    『ねぇ、店長さんと何話していたの?…なんか、照れたような仕草とかして…すごく楽しそうに見えたけど…』
    「えっ?…た、たいしたこと話してないよ!」
    『ふ~ん…』
    「それよりもさ、皐月ちゃん…」
    達洋は、これまでのフランクな態度を一変し、真顔になって話を始めた。
    『なぁに…たっちゃん』
    「今日さ、2年ぶりに皐月ちゃんに会ってさ・・・なんかとても辛そうに見えたんだ。高校時代の明るい皐月ちゃんとはまるで別人だった」
    『そんなに辛そうに見えた?』
    「…うん」
    『…そなんだ』
    「皐月ちゃん、さっきは仕事が辛いって話していたけど…」
    『…うん』
    「仕事以外にも、何か辛いことがあったんじゃないの?」
    『えっ?・・・どうしてそう思うの?』
    「だって…夢を叶えるための仕事についた皐月ちゃんが、ちょっとやそっとで弱音を吐いたりしないと思うし…」
    『たっちゃん・・・』
    「皐月ちゃんって、昔からそうじゃん! いつも周りの人のことを考えて明るい笑顔を振りまいてさ・・・」
    『そんな…』
    「もし良かったら聞かせて…俺じゃ頼りないかもしれないけど」
    『そんなことないよ!…たっちゃん』
    「今日の皐月ちゃんは…なんか・・・なんか、ずっと信じてきたものに裏切られて、それで辛い思いをしているっていうか…なんか、そんな感じの顔に見えちゃったんだ」
    『えっ?裏切られた?・・・信じてきたものに?』
    皐月はハッとして、慌てて達洋から視線を外してうつむいた。

  • #455

    六輔 (月曜日, 25 5月 2020 19:31)


    皐月は心の中で自問自答していた。
    『裏切られたって…えっ?それって美代子に? 私が心の中ではそう思っていて、それがそのまま顔に出ていたってこと?・・・そう見えたってことなの?…たっちゃん』
    自分の心理状態がそのまま表情に出ていて、それを達洋に見抜かれたのだと思えた。
    そう思うことで、まるで誘導されたかのように皐月の心の中にある思いが芽生えたのだった。
    『美代子に迷惑ばかりかけてきたのよね…私は。 美代子に裏切られたとまでは思わなかったと思いたいけど…でも、心のどこかでそう思っていたのかなぁ・・・そっか! 今日、たっちゃんと会ったのも、きっと美代子とのルームシェア生活に見切りをつけなさい!っていう神様の思し召しなのよね!』
    そう考えた皐月は、全てを達洋に話そうと決めたのだが、この時の皐月は、美代子をずっと好きでいた達洋を少し驚かせてやりたいという衝動にかられ、そんな表情をして美代子の話を切り出したのだった。
    『ねぇ、たっちゃん…』
    「うん?」
    『いいこと教えてあげる!』
    「いいこと?」
    『うん!私ね、美代子とルームシェア生活しているのよ!』
    「えっ? ルームシェアって今? 美代ちゃんと? 一緒に住んでるの?」
    『そう!東京に来たときからずっとね』
    「ほんとに?」
    『嘘ついたってしょうがないでしょ!驚いた?』
    「う、うん驚いた!…驚き桃の木山椒の木!」
    『なにそれっ…ふるっ!(笑)』

  • #456

    六輔 (火曜日, 26 5月 2020 19:54)


    さらに皐月は、それを聞かされた時に達洋が表情をどう変えるのか、目をどれくらい泳がせるのかを見逃すまいと、達洋の顔に注目しながら、鞄から一枚の写真を取り出した。
    『これ!』
    「なに?写真?・・・あっ! 美代ちゃん!」
    『そうよ!相変わらず可愛いでしょ!』
    「うん!」
    『ったく、鼻の下伸ばしちゃって!』
    「伸ばしてないよ!」
    『伸びてるし!』

    「ねぇ・・・皐月ちゃん…」
    『なに?』
    「皐月ちゃんと美代ちゃんの後ろに立ってる男の人…この人、誰?・・・えっと、俳優さん…あっ!三田村邦彦さん?に似てる。 確か、三田村邦彦さんって、皐月ちゃん…ファンじゃなかったっけ?」
    『よくそんなことまで覚えてるわね、たっちゃん! そうなのよねぇ…三田村邦彦さんは私がファンなんだけど…でもねぇ・・・誰だか知りたい?』
    「・・・今の皐月ちゃんの言い方で、なんとなく想像がついたからいいや」
    『それじゃ気持ち悪いでしょ! 藤原涼輔君って言ってね、美代子と同じ大学、同じ学年、同じサークルの男の子! そう美代子の彼氏! 後で知るよりいいでしょ!』
    「・・・それはどうも。美代ちゃんなら彼氏がいて当然だよね!」
    『はいはい、そうでしょうそうでしょ! 美代子は美人だからね! そりゃ彼氏がいて当然よね!』
    「いやっ、そういう意味で言ったんじゃないし」
    『そういう意味って? どういう意味?ったく(笑)。ファミレスで一緒に食事したときに「写ルンです」で撮ったんだ。結構よく撮れてるでしょ、「写ルンです」にしては』
    「うん」
    『私が就活で悩んでいるときに相談にのってくれたりして…すごく優しい人なんだよ!そりゃ美代子が選んだ人だもの、当然よね』
    「そっか。なんかそれを聞いてホッとした。美代ちゃんには幸せになってもらいたいしね」
    『美代子には?・・・私は?』

  • #457

    六輔 (水曜日, 27 5月 2020 19:56)


    茶目っ気たっぷりに『私は?』と尋ねた皐月だったが、その後の達洋の話で表情を曇らせてしまうのだった。
    「ルームシェアかぁ。えっ?東京に来たときからって、皐月ちゃんが専門学校に通い始めたときからってことでしょ?」
    『そうだよ』
    「ということは、3年目になるんだね」
    『うん』
    「大学生と社会人っていう違った環境でもうまくやれてるんだからすごいね!」
    『・・・えっ?』
    「…えっ? 俺、なんかおかしなこと言った?」
    達洋は、この時の皐月の表情の変化を見て察したのだった。
    「何か、あったんだね・・・美代ちゃんと」
    そう心の中で考えた達洋は、あえて明るく尋ねたのだった。
    「でも、楽しいでしょ?毎日、親友と一緒にいられる訳だし。羨ましいよ」
    『うん・・・楽しいよ! たまに一緒にお風呂に入ったりね』
    「そ、そ、そうなんだ」
    『(笑)まったく、どんな想像してんだか! 顔…真っ赤だよ!』
    「想像なんかしてないし!」
    『(笑)』
    「美代ちゃんの手料理とか食べられる訳でしょ?いいな」
    『そうね。美代子は料理も上手だし、私が社会人になってからは毎日ご飯を作って待っていてくれるんだよ』
    と、そこまで言って皐月は、もう一度言い直したのだった。
    『正確に言えば、作っていてくれた・・・かな』
    「…えっ?」

  • #458

    六輔 (木曜日, 28 5月 2020 20:15)


    達洋は、この時の皐月のセリフで理解した。
    「二人とも学生の時は良かったけど、皐月ちゃんが社会人になったことで、すれ違いに?・・・そっか、だからあんな表情をしてセブンに入ってきて、晩御飯を買おうとしていた訳だ…なるほど」と。
    達洋は優しく促した。
    「美代ちゃんと何かあった?…良かったら話して…皐月ちゃん」
    『たっちゃん・・・』
    皐月は、少し険しい表情で話し始めた。
    『私と美代子は、どんなことでも互いに隠し事をせずに、言いたいことはきちんと言いあって・・・ずっとそういうふうにしてきた親友だったの・・・それなのに…』
    その後、昨夜の美代子のヘッドフォンの話を聞かされた達洋は、徐々に表情を曇らせ、そして人には今まで一度も見せたことのないような表情をしてこう言ったのだった。
    「美代ちゃんって最低だね!」
    『・・・えっ?』
    「だって、親友の皐月ちゃんに対してやることじゃないよ! あぁ、なんかすごく幻滅した!」
    『そ、そんなぁ…たっちゃんが美代子を? 幻滅?』
    「だってさ、皐月ちゃんは朝早く出勤してるんでしょ? それにさっきずっと残業続きだって・・・其れに引き替え美代ちゃんは学生でしょ? 親友なら、皐月ちゃんを支えてやらなかったら嘘だよ! 美代ちゃんが楽な生活をしているとまでは言わないけど…社会人と学生では生活スタイルが違う訳だし・・・ヘッドフォンをして皐月ちゃんが帰ってきたのを知らないふりするなんて…あぁ、最低だね!もう、共同生活なんかやめちまいなよ!」
    と、達洋は感情を荒立ててまくしたてた。
    皐月は、そんな始めて見る達洋に圧倒されて何も返せなかった。
    そして達洋は、うつむく皐月に口角を上げてこう言った。
    「皐月ちゃん…今日はアパートに帰らずに、俺の家に泊まりにきなよ!明日休みなんだろう?」と。

  • #459

    六輔 (金曜日, 29 5月 2020 19:50)


    達洋は、カウンターの一番はじの席、店主の目の前の席に座った。
    「先輩・・・」
    『うん?』
    「ここに移動してきていいっすか? 一人であっちの席は悪いんで」
    『おぅ』
    「生ビールください」
    『いよいよ、飲むことになったか』
    「・・・はい」
    『相変わらず、不器用だな、お前は』
    「さーせん」
    『何か食うか?』
    「手羽先ありますか?」
    『…あるよ』
    「あっ、それと塩ダレキャベツ…ありますか?」
    『…あるよ』
    「・・・お願いします」
    と、店主は氷水に冷やしてあったおしぼりを絞って達洋に手渡した。
    『これ使えよ! ほっぺた真っ赤だぜ!』
    「さーせん」
    『派手にぶたれたもんだな』
    「・・・はい」
    『なかなかいねーぞ! 店の中であれだけ派手にぶたれた奴は』
    「・・・さーせん」

  • #460

    六輔 (土曜日, 30 5月 2020 20:15)


    アパートの前まで来た皐月は、祈る思いで2階を見上げた。
    『美代子・・・起きてて!』
    見上げた先の部屋の電気が灯されていることに皐月は歓喜の声を上げ、階段を駆け上がった。
    『ただいまぁーー』
    直ぐに玄関のドアが開いて、美代子が出迎えた。
    「お帰り、皐月」
    『ごめんね、ちょっと寄り道しちゃったの』
    「大丈夫だよ!」
    『アパートに電話すれば良かったんだけど、公衆電話が見つからなくて…本当にごめんね』
    「そんなこと気にしないで!社会人なんだから、いろいろお付き合いとかあるだろうし…そういうことを全部分かっているつもりだから」
    そんな美代子の出迎えの言葉に皐月は玄関先で膝から崩れ落ちた。
    『美代子ぉ~・・・』
    「え~どうしたの?皐月! 大丈夫?」
    『ごめんなさ~い…』
    「本当にどうしたの? 何かあったの? 立てる? 早く中に入ろう!」
    美代子に腕を支えてもらい立ち上がって部屋に入ると、テーブルの上に二人分の食事が並べてあることに、皐月はそれまでの忍び泣きを嗚咽に変えたのだった。
    『ごめんなさい、美代子ぉ~~』

  • #461

    六輔 (日曜日, 31 5月 2020 19:41)


    二人で一緒に入るには、少し無理のあるサイズのバスタブに、二人は肩を並べて入っていた。
    「それで、同級生って、誰に会ったの?」
    『・・・たっちゃん』
    「たっちゃん?たっちゃんって…サッカー部の矢神君?」
    『そう・・・あいつ最低! もぉ、あいつのことなんか思い出したくもない!』
    「えっ?なにぃ…何があったの?矢神君と」
    『本当は思い出すのも嫌なんだけど・・・実はね、帰り道に駅前のセブンに寄ったの』
    「セブン? 皐月がセブンによるなんて珍しいわね」
    『まぁね・・・そのセブンでバイトしてるたっちゃんにばったり会って…』
    「たっちゃんがバイトしてるセブンでばったり? へぇ~、たっちゃん懐かしいなぁ・・・元気だった?」
    『知らない!』
    「なにぃ~ 本当に何があったの? えらい剣幕だわね!」
    『晩御飯を買って帰ろうとしたら、それなら一緒に食べようぜ!って誘われて・・・たっちゃんの先輩が店長をしているお店に行ったの・・・居酒屋』
    「へぇ~ 飲めない皐月が居酒屋とはね(笑)」
    『まぁ居酒屋は良かったんだけど・・・そこで美代子の話になって・・・』
    「えっ?私の?」
    『うん。だって、ほらっ、美代子はたっちゃんの永遠のマダムヤン…???違う!永遠のマドンナでしょ!』
    「さぁ、永遠かどうかは知らないけど(笑)」

    それから皐月は、達洋と交わした話を初めから説明したのだった。

  • #462

    六輔 (月曜日, 01 6月 2020 19:55)


    「えっ? 皐月の方から飲みたいって言ったの?」
    『・・・うん』
    「飲めないくせに?」
    『・・・うん』
    「えっ? でも皐月、酔っぱらってないわよね?」
    『だって、飲んでないもん!』
    「はっ?」
    『レモンハイ…うすめのね!を飲んでみたいってお願いしたんだけど…たっちゃん、結局、頼んでくれなかったの・・・』
    「なんで?」
    『なんか、今日は話を聞きたいからって…』
    「ふ~ん・・・皐月の方から飲みたいって言ったのに、それでも無理には飲ませなかった訳だぁ・・・それで?」
    『私と美代子のこと…二人で共同生活を始めた頃のことから、ずっと話していったの』
    「なるほど・・・それで?」
    『昨夜の話になって…』
    「昨夜?」
    『うん。帰ってきたら部屋が真っ暗で、テーブルの上に“先に休むね!”っていうメモがあって・・・ほらっ、そんなこと今まで一度もなかったでしょ?だから、美代子の部屋をちょっと覗いたの。そしたら美代子は大きなヘッドフォンをしたままスヤスヤ眠っていて・・・私、ここのところ毎日遅かったし、美代子だって試験があったりして早く休みたいときもあるだろうし・・・私が帰ってきて、バタバタうるさいかもしれないけど、でも、何もあんな大きなヘッドフォンをしたまま眠らなくても・・・私、美代子に迷惑をかけているんだなぁって思えてきて、なんかすごく寂しくなっちゃったの』
    「笑・笑・笑・笑」
    『どうして笑うのよ!』

  • #463

    六輔 (火曜日, 02 6月 2020 22:55)


    「笑ってごめん、ごめん。だってさぁ・・・そっかぁ、それでかぁ。あぁ、これで全部繋がった。
    『繋がった?何が?』
    「おかしいと思ったんだ」
    『えっ?何が?』
    「今朝起きたら、昨夜皐月のために作っておいた晩御飯が全く手付かずのままだったたし…」
    『えっ? 作ってあったの?』
    「もちろんよ(笑)」
    『…ごめんなさい』
    「それに、普通なら昨夜会ってないんだから、今日の朝、出勤前に私のことを起こしてくれても良かったんじゃないのかなぁとも思えたし…」
    『だって・・・だって、あんな露骨にアピールされたらさ…』
    「アピール?・・・あぁ、大きなヘッドフォン? 私の眠りを邪魔しないで!って?・・・そっか、ごめんなさい、私も悪かったのよね」
    『えっ?』
    「ルポライターの仕事をするのには、どうしても英語力をつけなきゃならなくて…昨夜から始めたの…リスニング」
    『リスニング?・・・カセットで?』
    「そう。集中して聞きたかったからヘッドフォンをつけたんだけど、わたし、大きなヘッドフォンしか持ってなくて、やっぱり恐れていた通り、聞きながら直ぐに爆睡しちゃったのよね。たぶん寝ちゃうかもと思って、先に休むねってメモだけ置いといたんだけど・・・」
    『え~ そうだったの?』
    「安眠妨害されないためにヘッドフォンをつけていたと思った訳だ』
    『・・・ごめん』
    「もぉ~(笑) そういうことも周りが見えなくなっちゃうぐらい疲れているのよね、今の皐月は」
    『美代子ぉ…』
    「あれっ?・・・で、そのことを矢神君にそのまま話したの?」
    『・・・うん』
    「もしかして、私との共同生活にピリオドを打つべきかもとか考えながら話した?・・・矢神君に」
    『・・・うん』
    「で、矢神君・・・皐月になんて言ったの?」

  • #464

    六輔 (水曜日, 03 6月 2020 19:52)


    皐月は、嫌悪感をそのまま表情に出して達洋の話を始めた。
    『私が、美代子のことを少しだけ悪く言ったら、たっちゃん、美代子は最低だ!親友に対してやることじゃない!幻滅したって』
    「おやおや」
    『それで、共同生活なんかやめちまいなよ!って』
    「あらら…」
    『挙句の果てになんて言ったと思う?』
    「なんて言ったの?」
    『今日は俺の家に泊まりに来い!って。明日休みなんだろう!って』
    「キャァー! すごいお誘い。えっ?明日休み? 休みじゃないわよね?」
    『・・・うん。飲む飲まないの話をしていて、まぁ勢いで言っちゃったっていうか…』
    「(笑)勢いでか。でも、矢神君・・・そこまで言ったの?そっかぁ。そこまで言ったんだぁ…』
    『でね・・・』
    「えっ?まだあるの?」
    『・・・ぶっちゃった』
    「はっ?」
    『たっちゃんのこと・・・平手打ちで』
    「平手打ち? 居酒屋で?」
    『うん。スッキリした! もぅ友達でもなんでもない!って、そう言って店を飛び出してきちゃった!』
    「あららぁ…それで、一生懸命帰ってきて、で、私の顔を見て玄関で崩れ落ちちゃった訳だ・・・納得」
    『えっ? なに?その言い方。美代子はたっちゃんの味方をする気? 美代子のことをあれだけ悪く言ったんだよ! たっちゃんは美代子のこと何にも分からないくせに、美代子のことを悪く言う資格なんかないくせに!!!』
    怒りの収まらない皐月を「そっか、そっか」と、なだめるようにうなずいて、しばらく考え込んでいた美代子はゆっくりと口を開いた。
    「ねぇ、皐月・・・」
    『うん?』
    「皐月も好きよね? 長渕剛」
    『えっ?長渕?…う、うん』
    「この曲知ってるかなぁ?・・・今の皐月にぴったりな曲だと思うんだ」
    そう言って美代子は、長渕剛のある曲を歌い始めたのだった。

  • #465

    六輔 (木曜日, 04 6月 2020 19:45)


    美代子がその時に選んで歌った曲は、長渕剛の「Myself」という曲だった。
    美代子は浴槽に当てた両腕の上にアゴを乗せ、澄んだ声で歌いだした。

    人ごみに紛れると なおさら涙がでるから
    やっぱり一人になろうとした
    それでも寂しくて涙がでたから
    俺は初めてほんとの友を探した
    やりたい事と やりたくねぇ事とが
    思い通りにいかなくて
    「夢は何ですか?」と聞かれる事が
    この世で一番怖く思えた
    だから真っ直ぐ 真っ直ぐ もっと真っ直ぐ生きてぇ
    恥ずかしそうにしてるお前が好きだ
    だから真っ直ぐ 真っ直ぐ もっと真っ直ぐ生きてぇ
    寂しさに涙するのは お前だけじゃねぇ

    上を見ると負けたくなくて
    悔しさと羨ましさを かくして笑って見せた
    俺みたいな男は…と 背中を丸めたら
    やけに青い空が 邪魔くさく思えた
    離れていく者と 離したくねぇ者とが
    思い通りにいかなくて
    ひとときの楽しさに 思いきり身をゆだねたら
    なおさら寂しくて 涙も枯れ果てた
    だから真っ直ぐ 真っ直ぐ もっと真っ直ぐ生きてぇ
    恥ずかしそうにしてるお前が好きだ
    だから真っ直ぐ 真っ直ぐ もっと真っ直ぐ生きてぇ
    寂しさに涙するのは お前だけじゃねぇ

    歌い終わって美代子はこう言った。
    「素敵な歌詞よね。“寂しさに涙するのは お前だけじゃねぇ”のお前って、他人じゃなく自分自身のこと・・・自分に頑張れって、そう語り掛けているのよね」
    皐月は、涙を拭おうともせずに美代子の言葉にうなずいた。

  • #466

    六輔 (金曜日, 05 6月 2020 20:38)


    「ねぇ、皐月…」
    『うん?』
    「矢神君が高校時代にどんな男の子だったのか…忘れた訳じゃないよね?」
    『えっ? たっちゃんの高校時代?・・・もちろん覚えてるわよ。友達を一番に大切にして…「仲間」って言葉が好きでさ、何かあるたびに「俺たち、仲間だもんな!」って・・・みんなで遊びにも行ったわよね。中禅寺湖とか那須ハイとか…』
    「そうね」
    『今日、たっちゃんに会えた時はすっごく嬉しかったの。さっきは強引に食事に誘われたって言ったけど、本当は嬉しくてたっちゃんの誘いに二つ返事で行く!って答えたの。で、居酒屋に行って、高校時代のこととか話してて・・・たっちゃん、高校時代と全然変わってなかった。それなのにあんなこと言って・・・私、悲しくて、それで…』
    「そうね、悲しかったのよね、皐月」
    『・・・うん』
    「あのね、皐月…私、思うんだけど・・・今日の矢神君はさぁ、ぜ~んぶ分かったんじゃないの?」
    『えっ?』
    「今の皐月の状態を」
    『私の今の状態?』
    「うん。仕事に追われて周りも見えなくなっちゃっていて、普通ならなんとも思わないような些細なことで親友を悪く思ったりして…」
    『えっ?もしそうだったとしたら、間違ってるよって言ってくれたら、それで済む話よね?』
    「う~ん・・・そこが、矢神君なんじゃないのかなぁ。不器用っていうか・・・皐月が飲みたいって言ったのも飲ませずに、わざと私のことを悪く言ってさ・・・皐月には、人から言われるんじゃなく、皐月自身で気づいてほしいと思ったのよ。事実、矢神君と別れたあと、私のところに飛んで帰ってきたでしょ?・・・そういうこともぜ~んぶ分かって…」
    『そ、そんなぁ…』
    「だってさぁ、矢神君が言う? 今日、俺のところに泊まりに来い!なんてさ(笑)」
    『・・・確かに。マコちゃんとかシユウちゃんなら言うかもしれないけど…たっちゃんは・・・私にそんなこと言うはずがない』
    「矢神君なりの「Myself」・・・皐月へのエールだったと思うよ・・・卒業して離れ離れになっても、みんな仲間だもんね!…そうでしょ?皐月」
    皐月は、湯舟に顔の全部を潜らせ、そして嗚咽をあげた。
    『馬鹿だよ!バカ! バカバカ! たっちゃんの大バカーーー!』

  • #467

    六輔 (土曜日, 06 6月 2020 20:30)


    皐月が社会人になってからあっという間に2年間が過ぎ、皐月と美代子の社会人と大学生という違った境遇での共同生活は終わりを迎えた。
    何故なら、美代子も大学を卒業して社会人になったからだ。
    「ねぇ、皐月…」
    『なぁに、美代子…』
    「結局、またアパート更新しちゃったわね(笑)」
    『ホントとだね。2年前は美代子が就職するまでだね!って話していたのにね』
    「うん」
    『ねぇ、美代子…私たちが離れるときって、あるのかな?』
    「え~ 一応、私は結婚するつもりでいるからね! さすがに結婚してまで一緒に暮らす訳にはいかないでしょ?(笑)」
    『そだね(笑)』
    「どっちが先かなぁ…」
    『何が?』
    「…結婚」
    『そりゃぁ美代子の方が先でしょ! 藤原君も全国紙の新聞記者になれたことだし…直ぐにプロポーズされちゃうわよ!』
    「う~ん、どうかなぁ・・・しばらくは一人前の記者になるために仕事に専念したいって言ってるし…」
    『そっかぁ。美代子もルポライターになったからには、あちこち出かけることも多くなるだろうしね』
    「うん」
    『な~んだぁ…美代子が出張のときは、私、一人になっちゃうんだねぇ』
    「もぉ、いい大人なんだから、一人にも慣れてちょうだい!(笑)」
    『そだね(笑)』
    「ところでさぁ、皐月…」
    『うん?なに?』
    「矢神君の連絡先…分かった?」
    『・・・分かんない。誰も知らないって・・・高校時代に一番の親友だったうなぎ屋店長も分かんないんだって』
    「そうなんだぁ・・・クラス会にも来なかったしね」
    『後で聞いたんだけど、誰もたっちゃんに連絡がつかなかったんだって。 みんなが大学を卒業する年だからって、幹事さんが苦労して開いてくれたクラス会だったのにね』
    「そうね。ということは、結局あの時以来会えてない訳だ?」
    『・・・うん。平手打ちしちゃった次の日にセブンに行ったら、昨日が最後の出勤だったって言われちゃって…たっちゃんが通ってる大学まで押しかけていくのもなんだし・・・そんなことしてたら結局2年間が過ぎちゃって…今回のクラス会には会えると思っていたんだけどなぁ…早く会って謝りたいよぉ』
    「どうしちゃったんだろうね・・・矢神君」

  • #468

    六輔 (日曜日, 07 6月 2020 22:26)


    そして・・・
    18歳で一緒に上京して始めた共同生活も12年が経ち、30歳になった皐月と美代子のルームシェア生活に、いよいよピリオドが打たれるときがきた。
    美代子が藤原涼輔のもとへ嫁ぐ日が決まり、アパートを引き払うことになった二人は、その日、引っ越しのために互いの荷物を整理していた。
    おおよそ、自分の部屋が片付いた皐月は、休憩用に準備していた500ミリリットルのペットボトルを持って美代子の部屋に入ってきた。
    『どう?進んでる? 少し休憩しよっ!』
    「うん!…あっ、ありがとう、皐月」
    美代子は、皐月が差し出した飲み物を受け取り、それを一口飲んで部屋をゆっくりと見渡した。
    「なんかさぁ、荷物の一つひとつにいろんな想い出がつまっていてさ、それを思い出しながら片づけをしていると、なかなか進まなくて・・・手が止まっちゃうのよね(笑)」
    『(笑)私も!』
    「ねぇ、皐月…これ覚えてる?」
    『あっ!福井県の東尋坊に行ったときのお土産!美代子が社会人になって、初めて一緒に旅行した、二人の思い出の場所よね』
    「うん。他にもたくさん旅行したよね!」
    『うん・・・でもさぁ、もぉ~出来ないのかなぁ…旅行』
    「そんなことないわよ!」
    『年を取ってからも旅行できる?』
    「お互い、子育て中には遠出の旅行は出来ないかもしれないけど…50歳、60歳、70歳になっても旅行しましょ!ねっ、皐月!」
    『うん!』
    「美味しいものたくさんいただいて…ゆっくり温泉につかったり…」
    『温泉?なんか年寄りくさくない?』
    「そんなことないよ(笑) 年相応の旅行。海外もいいかもしれないけど、日本にはたっくさんいいところがあるしさ」
    『そうね。絶対に行きましょうね、美代子』
    「うん、約束ね! 皐月」

  • #469

    六輔 (月曜日, 08 6月 2020 23:18)


    12年間の思い出をたどるように、一つひとつ思い出の品を見ていた美代子だったが、急に表情を曇らせてこう言った。
    「ねぇ、皐月…」
    『うん?』
    「…ごめんね」
    『えっ?なにが? わたし、美代子に謝ってもらうようなこと…なんにもないよ。どうしたの?あらたまって…』
    「だって、わたし・・・皐月がデザインしてくれたお花に囲まれて、結婚式をあげるのがずっと夢だったのに…」
    『そのことかぁ・・・それだったら、もう何度も話したでしょ!美代子。 忙しく働いている藤原君のお嫁さんになるんだから仕方ないよねって』
    「…そうだけど」
    『式を挙げない人なんてたくさんいるんだし、ほらっ、自分でも言ってたじゃない…涼輔さんが落ち着くのをこれ以上待っていたら、私の賞味期限が切れちゃうからプロポーズを受けたよって』
    「そっか。言った(笑)」
    『美代子は藤原君の一番の理解者だもんね。社会部のエースとして第一線で活躍していている藤原君の』
    「うん」
    『藤原君、約束してくれたんでしょ? 幾つになっても必ず結婚式を挙げよう!って』
    「うん!」
    『そしたら、その時のコーディネートは私に任せてね!』
    「もちろん…皐月の好きなようにして!」
    『それまで、まだまだ腕を磨いていくからね…わたし』
    「心強いな、皐月」
    『だって…美代子を世界一綺麗な花嫁さんにコーディネートするのが、私の夢のひとつでもあるんだもん!』
    「…ありがとう、皐月」
    これまで何度合わせてきたか分からない視線を合わせ、微笑みあう二人がそこにいた。

  • #470

    六輔 (火曜日, 09 6月 2020 20:01)


    いつもと変わらず、楽しく会話を楽しんでいた皐月だったが、しみじみと美代子の部屋を見渡すと、ゆっくり話しを始めた。
    『ねぇ、美代子…』
    「うん?」
    『私たち、12年も一緒に暮らしてきたのよねぇ』
    「そうねぇ、12年・・・あっという間だった気がする」
    『結局、二人とも仕事に追われて…忙しく過ごしてきちゃったのよね』
    「そういうことよね。私はもう寿退社しちゃったけど…皐月は私と離れて一人暮らし…寝坊しないでちゃんと出勤してよ(笑)」
    『は~い(笑) ねぇ、美代子…』
    「うん?」
    『ありがとね』
    「なによ、他人行儀に…」
    『だってわたし、美代子にずっと甘えっぱなしだった…』
    「そんなことないよ!私だって就職してからは皐月にたくさん助けられたもん」
    『それでも、私が甘えたことの方が断然多かったわよ』
    「どっちが多いとか、回数なんて私たちに関係ないでしょ(笑)だからお互い様!ってことにしようよ…ねっ、皐月」
    『分かった(笑)でもさぁ…いろんなことがあったわよねぇ』
    「…そうねぇ」
    と、美代子は荷物を整理した段ボール箱を開け、中から二人にとって思い出深い代物を取り出した。
    「皐月・・・これ」
    『あっ!・・・まだ美代子が学生の頃だったわよね…』
    「うん」
    皐月は、美代子からそれを受け取って愛おしむように両手で持った。
    『私ね、今でも時々あの日のことを夢に見るんだぁ』
    「えっ?そうなの?」
    『…うん。あの日のことは絶対に忘れられない…だって・・・』

  • #471

    六輔 (水曜日, 10 6月 2020 20:31)


    皐月は、美代子から受け取ったヘッドフォンを見つめてこう言った。
    『私たちってさ、この共同生活を始めるときに決めたのよね。“親しき仲にも礼儀あり”って。ルールを決めてさ、当番制も作って・・・でも、私が遊びがちで、当番を美代子に何度も代わってもらったりして、それでも美代子は文句ひとつ言わずに代わってくれて…私が就職してからは、毎晩夕ご飯を作って待っていてくれて・・・でも、このヘッドフォンがきっかけでさ…』
    「そうだったわね」
    『親友のことをたった一度の勘違いっていうか、私の勝手な思い込みで・・・あのとき、たっちゃんに会っていなかったら、わたし、こんな性格だから、口に出せずにずっと根に持っていたかもしれない・・・そう考えたら、私と…美代子との関係を守ってくれたのが…たっちゃん・・・たっちゃんがいてくれたからなのよね』
    「そうねぇ。あの時にも話したと思うけど、社会人一年生の皐月は、毎日の仕事に疲れきっていて…」
    『私が、バカだったの』
    「誰が悪かったとか・・・もぉ、そういうふうに話すのはよそうよ、皐月」
    『・・・でも…』
    「矢神君が一番に望んだのは、私と皐月がずっと親友でいることでしょ? そう思ったからこそ、皐月にあんな言い方をしてくれたんだろうからさ…」
    『そうだね・・・あの日のたっちゃんは、私がフラワーコーディネーターになったんだって話したら“夢を叶えたんだね”って言ってくれたの。私の夢をちゃんと覚えていてくれたんだよ』
    「そうだったんだぁ」
    『ねぇ美代子、覚えてる?・・・あの日、二人で一緒にお風呂に入ってさ、私がすごい剣幕でたっちゃんの話をしたときに美代子が私に歌ってくれた曲』
    「もちろん覚えているわよ」
    『わたし、あのとき以来、何か辛いことがあったり、仕事でうまくいかないことがあったりしたときに、歌うの…』
    「そっかぁ。私も仕事で行き詰ったりしたときに…」
    『でね、さっきたっちゃんの夢を見るって言ったでしょ?』
    「うん」
    『たっちゃんね、夢の中で私に歌ってくれるんだよ、黒いギターを持ってさ』
    「Myselfを?」
    『そう』
    「きっと今でも皐月に送り続けてくれているのね…エールを」
    『うん、そうだと思う』
    「いつかきっと会える日が来るわよ!…皐月」
    『…うん、絶対に謝りたいっていうか・・・会って、“あの時はありがとう”って言いたい!』
    「必ず会えるよ!ねっ、皐月」
    『・・・うん』
    皐月は、ヘッドフォンを持つ手に力を込めて念じた。
    『神様・・・たっちゃんに早く会わせてください』と。

  • #472

    六輔 (木曜日, 11 6月 2020 20:50)


    その日は、二人が12年間暮らしてきたアパートを引き払う日だった。
    皐月と美代子は、荷物を全部運び出してがらんどうになった部屋を見渡していた。
    「ねぇ、皐月…」
    『うん?』
    「荷物が無くなると、広い感じがするわね」
    『ホントね…こんなに広かったのね』
    「今度の皐月の引っ越し先は、ワンルームなんでしょ?」
    『うん。ワンルーム!でもでも・・・ペットOK!』
    「念願のだね!」
    『うん! それを第一条件にして選んだ部屋だからね!』
    「やっと一緒に暮らせるのね…ウサギさんと」
    『そう、それがなかったら寂しくて倒れちゃう』
    「もぉ、それってウサギさんの都市伝説の話しでしょ?(笑)」
    『確かに(笑)』
    二人は、吐息を飲み込むようにして部屋を見つめていた。
    「これで見納めだね」
    『・・・うん』
    「なんか、寂しくなっちゃうから、笑ってドアを閉めましょうよ!」
    『そうだね!』
    二人は、一緒にアパートの外に出て皐月が右手で、そして美代子が左手でドアノブを握った。
    互いに見つめあって「せーの!」と、ドアを閉めた。
    二人は姿勢を正し、
    「ありがとうございました」
    そう言って部屋に向かって深々と頭を下げたのだった。

  • #473

    六輔 (金曜日, 12 6月 2020 20:15)


    美代子を妻として迎えた藤原は、それまで以上に仕事に没頭するようになっていった。
    それは、まるで警視庁捜査一課長がいくつもの難解事件を掛け持ちし、その対応に追われているかのような仕事ぶりだった。
    藤原が遮二無二働いたのは、決して社会部のエースとして社の期待に応えるという気持ちからではなく、藤原自身のジャーナリストとしての使命感がそうさせていたのだった。
    藤原が仕事人間であることを覚悟して妻になった美代子だったが、体を酷使して働く藤原のその姿は、予想をはるかに超えるものだった。
    それでも“記者の仕事は夜討ち朝駆け”と言われるそのままに長い労働時間、不規則な生活の中で働く夫・涼輔を妻・美代子は献身的に支えた。
    そんな二人の生活が破綻することなく、美代子が辛い思いをせずに済んだのは、涼輔が夫として妻・美代子を心から愛し、結婚する前と何ら変わることなく美代子を大切にしてくれたからだった。
    そして何より、美代子がいつも幸せを感じながら暮らすことが出来たのは、涼輔の短い言葉のおかげだった。
    『いつもありがとう…美代子』
    その感謝の言葉だけで美代子の疲れは一瞬で吹き飛んだ。
    涼輔は、家に戻ってくれば夫として、どれだけ疲れていようが、決して疲れた表情をせずに、美代子の前では笑顔を絶やさずにいた。
    『わぁ、美味しそうだね、美代子。いつもありがとう』
    「うん!ねぇ、涼輔さん…」
    『うん?』
    「栄養のバランスを考えて作ったから、できれば好き嫌いをせずに食べてほしいんだ」
    『そっか、美代子。分かった、全部いただくよ』
    新婚生活の食卓から二人の笑顔が絶えることはなかった。

  • #474

    六輔 (土曜日, 13 6月 2020 20:29)


    美代子は、幸せな新婚生活を続けていた。
    涼輔が、これといったわがままを言うことも贅沢をすることもなく、また、仕事に愚痴をこぼすこともなく働き、美代子を愛し、いつも大切にしてくれていたからだ。
    美代子の日常は、午前中のうちに掃除に洗濯と家事をこなし、午後になると、
    「今日は、何を食べてもらおうかなぁ…」
    と、涼輔の健康を第一にメニューを考え、近くのスーパーに買い物に出かけていくといった、ごくありふれた専業主婦の生活だった。
    ただ、常に仕事に追われている涼輔から「今日は帰れないんだ、ごめんな美代子」という電話がかかってくる日も度々あって、電話を受ければもちろん気落ちもしたが、それでも涼輔の「ごめんな美代子」の言葉に救われた。
    「もぉ~ 明日の晩御飯は今日の分まで栄養つけてもらうからね!(笑)」
    『おぉ~ 願わくば太らない工夫もお願いします(笑)』

    手際よく家事をこなす美代子は、結婚当初、涼輔が外で働く間、時間を持た余していたところもあったが、結婚生活が1年を過ぎた頃には、以前勤めていた編集社から頼まれてアルバイト的に執筆を行うようにもなり、美代子の生活もより充実していった。
    そんな生活も2年が過ぎた頃、美代子の中にある思いが芽生え始めたのだった。
    「どうしてできないのかなぁ…」
    赤ちゃんはコウノトリが自然に運んできてくれるような感覚でいた美代子だった。
    何故なら、涼輔も父親になることを望み、夫として妻の美代子をきちんと求めてくれていたからだ。
    だが、この時「早く赤ちゃんが欲しいなぁ…」と、そう思い始めたことで、美代子の中で精神的なバランスが微妙に崩れていってしまうのだった。

  • #475

    六輔 (日曜日, 14 6月 2020 20:33)


    昔、「マル高」という言葉があった。
    高齢出産をさす言葉で、かつて高齢出産の母子手帳には「高」という字を丸で囲んだハンコが押されていたことから由来している言葉だ。
    ちょうどこの頃、平成5年ごろから「マル高」は30歳から35歳へと引き上げられたのだが、結婚生活も2年が過ぎた平成6年、美代子は32歳になっていて、そのことがかえって美代子に焦りの気持ちを植え付けてしまったのである。
    「なんか、私のために35歳に引き上げられたみたい」と。

    美代子は、涼輔も自分と同じように早く親になることを望んでいることをちゃんと理解していた。
    「早く赤ちゃんを授かるといいね」と、優しく、決して押しつけがましくではなく言ってくれていたからだ。
    コウノトリに任せっきりではいけない、自分も妊娠をする努力をしなければならないと考えた美代子は、「オギノ式」や「基礎体温」を測って排卵日の予測を始めた。
    だが、そのことが美代子と藤原の夫婦の関係に微妙にずれを生じさせてしまったのである。
    神様のいたずらなのか、「今日は…」と、美代子が思っている日に限って、
    「今日は帰れないんだ、ごめんな美代子」という電話がかかってくるのだった。
    初めは、それまでと変わらずに「ご苦労様ぁ、ちゃんと食べてよ!着替えは大丈夫なの?」と、優しく返せていた美代子だったが、徐々に限界が訪れた。
    『はっ?今日もなの?』
    「…えっ?・・・う、うん。ごめんねぇ、美代子」
    『仕事と私とどっちが大切なの?』
    「・・・美代子・・・ごめん、明日は必ず帰るから」
    『明日じゃだめなの!今日帰ってきて!』
    今まで、一度たりとも言ったことのない美代子のセリフに涼輔は戸惑い、それでも自分が悪いのだからと謝るしかなかったのだった。
    「本当にごめん…美代子」

    そんなやりとりが何度か続いたある日、電話を切った涼輔はいつもより長いため息をつき、それと同時に一人の女性を思ったのだった。
    「・・・皐月ちゃん」

  • #476

    六輔 (月曜日, 15 6月 2020 19:49)


    皐月は、涼輔の前であきれ果てていた。
    『ねぇ、藤原君・・・』
    「…はい」
    『本当に、そんなことで私を呼び出したわけ?』
    「…うん」
    『うんじゃないわよぉ~! あなたは美代子の旦那さんでしょ?』
    「…はい」
    『美代子、いつも私の前でのろけるのよ…涼輔さんがねぇ~ 涼輔さんがねぇ~って。もぉ、十分に聞き飽きてるんだけど、それだけ幸せなんだろうなぁって、自分のことのように嬉しいのよ、わ・た・し・は!』
    「…はい」
    『でさ、いつも優しい美代子が、月に一度だけ別人のように冷たくなって、今日だけは帰って来て!って?・・・藤原君、本当にそれがどうしてか分からないの?』
    「・・・分からないから…」
    『そうね!分からないから私を呼び出したのよね!』
    「俺が直さなきゃならないところがあるなら直して、もっといい夫になりたいんだ」
    『忙しい中、それでも美代子のことを思って、私に相談してくることはいいことだけど・・・だけどさぁ…』
    「…はい」
    『ねぇ、本当に心当たりがないわけ?』
    「・・・・・」
    『月に一度なんでしょ?』
    「毎月、月末の頃になると、内勤の仕事と外の取材が重なって帰れなくなる日が2、3日出てくるんだけど…決まってその時に冷たく“絶対に帰ってきて”って…」
    『ねぇ、そこまで分かっていて、で、どうしてだか分からないの?』
    「・・・・・」
    『これ以上、独身の私に言わせないでよ!あぁーーー!もぉーーー!!私も美代子も今年で33歳になるのよ。美代子…早くママになりたいって、少し焦りだしちゃったんじゃないの?きっと、自分で妊娠する努力を始めたんだと思うよ』
    「早く?…ママに?…妊娠する努力?・・・なんだぁ、そういうことだったのかぁ」
    『なんだぁじゃないわよ! 女の子からしたら大変なことなんだからね!』
    「言ってくれたら良かったのに…」
    『はっ?なんて? 今日するから早く帰ってきて!って? アホか!』
    「する?」
    『あぁーーー!!! そうやって揚げ足を取らないで!』
    「・・・はい」
    仕事人間で頭がきれても、女の子の微妙なところはまるで分からない藤原に、皐月は優しくこう言った。
    『ねぇ、藤原君・・・』
    「うん?」
    『美代子ねっ、とっても幸せそうだよ。早くパパとママになれるといいね』
    「皐月ちゃん・・・ありがとう、これからも美代子のいい友達でいてあげてね」
    『もちろんよ!』
    藤原は、皐月に深々と頭をさげ、そして最高の笑顔を見せたのだった。

  • #477

    六輔 (火曜日, 16 6月 2020 21:36)


    突然だが・・・
    ここで、少し物語から離れてこれまでの大まかなあらすじと登場人物を整理しておきたいと思う。

    物語は、平成31年、56歳になった和住藤子に初孫の来翔が生まれ、そのお祝いに藤子の親友・天方千暁がやってくるところから始まった。
    №1.和住藤子(ワズミ・トウコ)昭和37年生まれ
    №2.和住翔琉(ワズミ・カケル)平成2年生まれ(藤子の息子)
    №3.和住茉緒(ワズミ・マオ)平成2年生まれ(翔琉の妻)
    №4.和住来翔(ワズミ・ライト)平成31年生まれ(翔琉と茉緒の子。藤子の初孫)
    №5.天方千暁(アマカタ・チアキ)昭和37年生まれ(藤子の親友。絵画教室の先生。「仲間」というタイトルの絵画を個展に出展し、そこで九東唯誠(クトウ・ユイマ・藝術院会員)に才能を見い出される)

    8歳になった来翔は、スポーツ少年団で野球を始めるのだが、そこで異常に厳しい監督の瀧野瀬紘一と出会う。
    瀧野瀬紘一がエラーに対して厳しいのには深い事情があって、そのことを語るべく、物語は紘一の高校時代の話へと移っていった。
    №6.瀧野瀬紘一(タキノセ・コウイチ)昭和61年生まれ(東庄高校野球部主将、3年生の時に甲子園出場を果たす)
    №7.水嶋陽菜子(ミズシマ・ヒナコ)昭和61年生まれ(東庄高校野球部マネージャー。紘一の彼女)
    №8.戸野間誠(トノマ・マコト)昭和61年生まれ(東庄高校野球部メンバー。プロのピアニストを目指す)
    №9.殿馬治美(トノマ・ハルミ)昭和61年生まれ(甲子園の売り子、サイズが合わずに自前の物に替えたであろう赤パンから伸びた太ももが眩しい)

    甲子園出場を果たした紘一は、実力通りの活躍をし、多くのプロ野球球団がドラフト1位候補として注目したが、紘一はプロ志望届を提出しなかった。
    紘一がプロ野球の道に進んだのか、あるいは進まなかったのか、また、紘一と陽菜子がその後どうなったのかは一切語られずに、物語は陽菜子が大学に進学してからの話へと移っていった。
    陽菜子は、「お茶の水女子大」に進学して直ぐにアルバイトを探した。
    そこで見つけた喫茶店「あんくる」、そこのマスターが藤原涼輔だった。
    「あんくる」に訪れた陽菜子を見て藤原は驚く。
    陽菜子が亡くなった妻・美代子にそっくりだったからだ。
    そして「あんくる」で働きだした陽菜子の前に現れたのが、店の常連客、美代子の親友・重里皐月だった。
    10.重里皐月(シゲサト・サツキ)昭和37年生まれ(フラワーコーディネーター、将来の夢は自分の店を持つこと)
    11.唐品美代子(カラシナ・ミヨコ)昭和37年生まれ(皐月の親友)
    12.藤原涼輔(フジワラリョウスケ)昭和37年生まれ(元、敏腕記者。唐品美代子と結婚。40歳で記者を辞めて喫茶店「あんくる」のマスターに。43歳の時に陽菜子と出会う)
    13.矢神達洋(ヤガミ・タツヒロ)昭和37年生まれ(皐月と美代子の同級生。皐月と2年ぶりに再会した後、その行方が分からなくなっている)

    この先、物語を読み進めようとしたときには、この13人ぐらいは覚えておいてほしい。
    そして、何故に今になって急にあらすじと登場人物の整理をしたのか・・・。
    そのことについては明日語るとしよう。

  • #478

    六輔 (水曜日, 17 6月 2020 21:12)


    普通の小説であれば数日の間に読み切ってしまい、物語の中身、進行を忘れることもなく全てが記憶に残ることだろう。
    だが、このリレー小説は、去年の2月にスタートしてから既に1年4か月が過ぎている。
    しかも、最終章だということで、無理に長引かせているようなところもあるように思え、なおかつ登場人物の多さに、さらにはそれぞれの時代背景とその場所もバラバラだ。
    おそらくだが、読み手が一番困っているのは、未だに誰が主人公なのかもはっきりと明かされていないところだろう。
    だが、それももう少しの我慢だ。
    物語は、いよいよ最終局面へと進んでいく。
    大まかなあらすじと登場人物を整理した理由はそのためだ。

    ということで、最終局面に入る前に今日は物語の時代背景を今一度整理しておくことにする。
    物語の入りの部分で、まずは時代の移り変わりを意識してほしいがために、昔の「お月さま」にまつわる逸話で時代の流れが語られていった。
    ようやく物語の本論に入ったとき、そう、来翔が生まれたときは平成31年のことだった。
    時代は平成から令和へと移り変わり、藤子が溺愛する初孫(来翔)が野球を始めたのは、令和8年のこと。
    そこで出会った監督の瀧野瀬紘一、その野球歴を語るために時代は紘一の高校時代(平成14年~平成16年)へと遡った。
    陽菜子が大学へ進学し、藤原の営む「あんくる」で皐月に出会ったのは平成17年のこと。
    皐月と藤原の関係を語るために、物語は皐月の高校時代(昭和53年~昭和55年)へとさらに遡った。
    そこで語られたのが皐月とその親友である美代子との共同生活。
    それは昭和56年、二人が上京したときからのことだった。
    12年間の共同生活の後、平成4年に美代子と藤原は結婚したが、二人に子供が恵まれないまま美代子は32歳になった。
    そして・・・

    ここで、物語の進行を止めて、これまでのあらすじを確認した“もう一つの理由”を述べる。
    それは、美代子のこの先については、既に語られていることを思い出してもらうためだ。
    そう、3年後、美代子は35歳の若さで亡くなっているのだ。
    亡くなっていることが分かっていながら、亡くなるまでの事実を語るのはとても耐えがたく、よって、そこの部分を語らずに先に進めさせてもらうためにこれまでのあらすじを確認したのだ。
    涙にくれる小説にはしたくないということを汲んでいただいたうえで、この先を読み続けていただきたい。

  • #479

    六輔 (木曜日, 18 6月 2020 23:11)


    皐月は、病室のベッドで静かに眠る美代子の亡骸にすがって泣き叫んだ。
    『美代子ーーーーーっ、、、美代子ーーーーーっ』
    皐月の涙が枯れ果てるまでずっと見守っていた藤原は、ゆっくりと皐月に近づき、声をようやく絞り出した。
    「俺が駆けつけた時には意識がもぅ・・・皐月ちゃん…」
    『・・・はい』
    「これを・・・」
    『…これは?』
    「美代子から皐月ちゃんに・・・看護婦さんが預かっていてくれたものだよ。看護婦さんは美代子に自分で渡した方がって言ってくれたそうなんだけど、結局・・・」
    藤原から手紙を受け取った皐月は「皐月へ」と書かれた封筒を確認して、
    『ねぇ、これなに?美代子…まさか自分の死期を覚悟して私への別れの手紙を書いたってことなの?美代子…美代子ーーーーーっ』と、もう一度涙にくれた。
    ようやく落ち着いた皐月は、声を絞り出して藤原にこう尋ねた。
    『美代子の前で読んでもいい?』
    藤原はゆっくりとうなずいた。
    封筒から出てきた便箋に書かれた文字が、美代子が精一杯に最期の力を振り絞って書いたものであることが直ぐに分かった。
    涙で文字が滲んで読み始めることが出来なかったが、気持ちを落ち着かせるように「ふぅー」と長く息を吐きだし、ようやく美代子が書き残してくれた文字に焦点を合わせた。

    皐月、
    皐月がこの手紙を読んでいるころは、私はもうこの世に存在しないのよね。ちょっと考えただけでも寂しいことだけど、仕方のないこと。だって、神様が決めてくださったことだから。
    ねぇ皐月、皐月は涼輔さんから私の病気のことを聞いていたんでしょ?
    私の病気のことを知りながら、私の前でいっつも笑っていてくれてありがとう。
    私は、皐月の笑顔にずっと救われてきたの。
    でも皐月は辛かったよね? だって、立場が逆だったら・・・どれほどまでに辛いか、想像しただけで涙が止まらないもの。

    必死に堪えていた皐月だったが、美代子のその言葉に嗚咽を漏らし、溢れる涙を拭おうともせず、唇を震わせながら続きの文字に必死に焦点を合わせた。

    ねぇ、皐月
    私ね、反省しているんだぁ。
    私がなかなか妊娠出来ないでいるとき、皐月は私に婦人科に行くことを一生懸命に勧めてくれたよね。
    その時、尻込みせずに婦人科で診てもらっていたら、もしかしたら私の病気も治っていたのかもしれないのよね。
    でもね、皐月、私ね、涼輔さんに原因があって妊娠できないって言われるのが、何より嫌だったの。
    だって、涼輔さんを責めることになってしまうようで。
    だから、わたし・・・
    皐月の言うことをきけなかったこと、許してね。

    皐月の頬を大粒の涙が伝った。

  • #480

    六輔 (金曜日, 19 6月 2020 19:49)


    極度の悲しみに全ての思考能力を奪われてしまった皐月の顔からは、感情を表す一切の表情が消えていた。
    それでも涙は頬を伝い、徐々に唇が震えだしてその震えが肩まで伝わったとき、そばにいた藤原が皐月の肩にそっと手を置いた。
    「皐月ちゃん…」
    『あっ・・・ご、ごめんなさい』
    藤原の優しさにようやく我に返った皐月は、再び手紙の文字に焦点を合わせた。

    ねぇ、皐月
    私は、あなたの親友として失格だよね。
    だって、どれほどまでにあなたを悲しませてしまうのか。
    私よりも皐月の方がずっと辛いはず、ごめんなさい。
    でもね皐月、私が親友と呼べるのはあなただけ。
    もし許してもらえるなら、こんな私を親友としてずっと忘れずにいてね。

    「なに言ってるのよ、美代子ぉ…私が美代子のことを忘れるはずなんかある訳ないでしょ。あなたは私の生涯、唯一無二の親友だよ」
    そう、心の中で美代子の言葉に応えた皐月は、初めて涙を拭って手紙を読み続けた。

    ねぇ、皐月
    私ね、皐月と交わしていた約束を守れなくなっちゃうこと、それとね、私の夢を叶えることが出来なくなっちゃうことが何より悲しいの。
    年を取ってからも二人で一緒に旅行しようね!って、約束していたのに、それが叶えられなくなっちゃうのよね、ごめんなさい、皐月。
    それと、私の夢
    そう、あなたに私のウエディングの飾りつけをしてもらって、涼輔さんと結婚式をあげること。
    皐月にコーディネートしてもらって最高に綺麗になった私を、大好きな涼輔さんに見てほしかったなぁ。
    それだけが心残り。
    皐月は、私の分まで素敵な花嫁さんになってね。
    ・・・ねぇ、皐月
    皐月には、いくら話しても話し足りないけど、最後に一つだけお願いしたいことがあるの。
    私の最後のわがままを聞いてほしいんだぁ。
    それはね・・・

  • #481

    六輔 (土曜日, 20 6月 2020 23:06)


    35歳の若さで亡くなった美代子の訃報を聞きつけ、多くの者が通夜式の会場に集まっていた。
    その中には、美代子が生まれ育った地に暮らす高校時代の仲間たちの姿もあった。
    同じ特急電車にゆられて駆けつけた仲間たちは、皆、一様に目を真っ赤にし、沈痛な面持ちで受付を済ませた。
    開式までにはまだしばらくの時間があったため、仲間たちは広いロビーの隅に集まってその時を待ったのだが、仲間たちの誰もが皆同じ気持ちで一人の女性の姿を探していたのだった。
    「いないね、・・・皐月ちゃん」
    『・・・うん』
    誰も皆、承知していた。
    皐月と美代子の関係が、普通の友達のレベルではなく、12年間も一緒に暮らし、互いになくてはならない存在であって、であるからこそ、皐月がどれほどまでに悲しみに暮れているのか。
    励ましになどならなくても、それでも仲間として皐月に声をかけたいと誰もが思っていたのだった。
    「どうしたのかなぁ、皐月ちゃん…来ないはずがないよね」
    と、そんな会話をし始めたときだった。
    仲間たちのところに一人の男性が近寄ってきて、皆の前で申し訳なさそうに頭を低くしてこう尋ねてきた。
    『すみません、もしかして美代子の高校時代のお友達の方たちですか?』
    そう尋ねてきたのは美代子の夫、藤原涼輔だった。
    「はい」
    『私は、喪主の藤原涼輔、美代子の夫です』
    「あっ…このたびはご愁傷さまでございます」
    深々とお辞儀をしてお悔やみの言葉を述べた仲間たちに藤原はこう言った。
    『美代子は生前、よく皆さんの話をしていました。よほど楽しい高校時代を送ったのだと、いつも思っていました。次の同窓会をすごく楽しみにしていたようなのですが・・・とても残念です』
    仲間たちは唇をかみしめてうなずいた。
    『実は、お通夜が始まる前にみなさんに見ていただきたいものがあるんです』
    「えっ?…あっ、はい」
    『すみません、ちょっとこちらに来ていただけますか…』
    そう言って藤原は、仲間たちを先導して通夜会場の入り口へと向かって歩き出した。
    会場の入り口の前まで来ると、藤原が係の者にお辞儀をし、それを合図にしていたかのように係の者が会場入り口の扉を開けた。
    そこで仲間たちの目に飛び込んできたものは、誰もが思い描いていたものとは全く異なる光景だった。
    「こ、これは・・・」
    一瞬、言葉を失った仲間たちだったが、会場の中のある一箇所に焦点が合ったことで、それがどういう意味をもつことなのか直ぐに理解したのだった。

  • #482

    六輔 (日曜日, 21 6月 2020 22:24)


    この時、仲間たちが目にしたものは、美代子が眠る棺の横に立つ皐月の姿だった。
    「あっ、皐月ちゃん!」
    仲間たちは、皐月の元へと歩み寄った。
    「皐月ちゃん…」
    『みんなぁ・・・』
    それ以上の言葉は見つかりもしなかったし、また必要もなかった。
    互いの存在が分かっただけで、そこにいた誰もが十分だった。
    皐月と仲間たちが再会したことを見届けた藤原が近寄ってきて口を開いた。
    「美代子の好きな景色の中でおくってあげたいと、皐月ちゃんに僕から無理を言ってお願いしたんです」
    その説明で全てを理解した仲間たちは笑顔になると同時に、大粒の涙が全員の頬を伝った。
    通夜、告別式会場の飾りつけとなれば、白木の祭壇の中央に故人の写真が飾られ、菊を中心にした花で装飾されているのを想像するだろう。
    だが、美代子を思う皐月が選んだのは、美代子と皐月の生まれ故郷を偲ぶような、決して派手ではなく、素朴な花が散りばめられたお花畑のその中央に美代子の写真が飾られていて、今にもモンシロチョウがふわりと飛びそうな、美代子を偲ぶにはこれ以上ない装飾だった。
    「素敵だよ…皐月ちゃん」
    『…うん』
    「美代子、喜んでいるね」
    『うん』
    皐月と仲間たちは、生花で飾られた美代子の祭壇を見つめ、柔らかな笑顔を見せた。
    と、皐月がゆっくりと仲間たちの方に振り向き、そして手にしていたものを皆の前に掲げてこう言った。
    『これ・・・』
    「…えっ?」
    『みんなが来るのを待っていたの。一緒に美代子に持たせてあげたいと思って…』
    そう言って皐月が皆に見せたものは、花嫁が持つ綺麗なブーケだった。
    そのあと仲間たちは、花嫁衣装に身を包み、棺の中で静かに眠る美代子と対面して泣き崩れたのだった。
    「美代子ぉーーーーーっ、、、」

  • #483

    六輔 (月曜日, 22 6月 2020 20:34)


    ときは、平成18年3月17日
    その日の「あんくる」は、マスターの藤原涼輔と、そこでアルバイトとして働く水嶋陽菜子、そして美代子の月命日にやってきた重里皐月の三人だけだった。

    カウンター席に座った皐月は、持っていたレザーのトートバックを自分の左隣の椅子の上に置き、襟元から総柄大判のスカーフをほどいてそのバックの上に置いた。
    派手でもなく、高級なブランドものでもないが、春めいてきた陽気に誘われるように明るい色のニットのセーターとパステル調の素朴で可憐な小花柄模様のスカートという出で立ちが、皐月が落ち着いた大人の女性であることを一目で認知させていた。

    藤原と皐月の会話に陽菜子も加わった。
    (陽菜子)「先週お誕生日だったんですね、皐月さん」
    (皐月)「そうなの。3月生まれなんだからさ、普通なら“弥生”ってなるところよね。でも、私の両親は何をどう考えたのか…皐月って。おかしいでしょ」
    (陽菜子)「でも素敵な名前です、皐月さん!お誕生日おめでとうございます」
    (皐月)「ありがとう。でも、お誕生日を素直に喜べる年齢じゃなくなってきちゃったんだけどね(笑)」
    (陽菜子)「え~ 皐月さんは若いですよ!」
    (皐月)「ホンと?ありがとう・・・あれっ?・・・でも、ヒナちゃんは私が幾つなのか知ってるんだっけ?」
    (陽菜子)「えっ?・・・えっとぉ~」
    (皐月)「(笑、笑、笑)…親友の美代子が亡くなったのが35歳のとき。それから9年が過ぎて、もう直ぐまる10年になるのよ…そうよねっ、藤原君」
    (藤原)「そうだね・・・まる10年」
    (皐月)「早いね…10年って」
    (藤原)「そうだね」
    と、藤原はゆっくりとお辞儀をしながらこう言った。
    (藤原)「ありがとねぇ、皐月ちゃん」
    (皐月)「えっ?なに? あらたまって…」

  • #484

    六輔 (火曜日, 23 6月 2020 20:18)


    藤原は、カウンターの隅に置いてあった写真立てに手を伸ばし、それをそっと取り上げた。
    この時、藤原が手にしたものは、忙しく働く藤原の仕事の合間をぬって一度だけ出かけた旅行先での夫婦のツーショットの写真だった。
    初めての旅行に満面の笑みを浮かべる美代子を見つめ、藤原は話を続けた。
    (藤原)「美代子のことをずっと忘れずにいてくれて…月命日にはこうしてここに来てくれて・・・ありがとう、皐月さん」
    (皐月)「あぁ、そのこと。美代子を忘れないのは当たり前でしょ!だってさ、よくよく考えてみたらさ、美代子と一緒に暮らしていたのは、藤原君より私の方がずっと長いんだよ! v私と美代子の関係は、夫婦以上ってことでしょ?(笑)」
    (藤原)「確かにそうだね(笑)」
    (皐月)「ここに来るのが嫌だったら来ないし…それに、ヒナちゃんがここで働くようになってからは、ヒナちゃんに会えるのも楽しみだからね」
    (陽菜子)「え~ 嬉しいです! 皐月さん」
    (皐月)「でもさぁ、ヒナちゃんは本当に美代子に似ているよね。今日のヒナちゃんは特に似ている感じがする。藤原君も思うでしょ?」
    (藤原)「うん、そうだね。今日のように耳を出して髪をアップになんかすると余計に・・・初めてヒナちゃんに会ったときには、本当に美代子が生き返ってくれたのかと思ったぐらいだったからね」
    (皐月)「私も初めてヒナちゃんを見たときには驚いたわよぉ。二十歳の頃の美代子に本当にそっくりで…分かってはいても「美代子ぉ~」って、抱き着きたいくらいだった・・・きっと美代子が藤原君と私に引き合わせてくれたのよね…そう思わない?…藤原君」
    (藤原)「そうだね。ヒナちゃんといるだけで、心が穏やかでいられる…ヒナちゃんにも感謝だね」
    (陽菜子)「そんなに似ているんですかぁ…似ていることはマスターから前に聞かされたことがありましたけど…美代子さんって、どんな方だったんですか?」
    これまで三人で美代子のことを話したことは幾度かあったが、陽菜子が美代子のことを詳しく尋ねてきたのは、この時が初めてだった。
    皐月は自分の左隣の席に置いてあったレザーのトートバックを取ってそれをカウンターに乗せ、中をさぐって一枚の写真を取り出すと、微笑みながら陽菜子にそれを手渡した。
    (皐月)「これっ、ヒナちゃんに見せてあげる。特別だよ!(笑)」

  • #485

    六輔 (木曜日, 25 6月 2020 07:08)


    皐月から写真を受け取った陽菜子は、それを見て歓喜の声を上げた。
    (陽菜子)「あっ!これ、皐月さんですよね?で、これがマスターでしょ?マスター、若~い!」
    (藤原)「はっ?どれ?見せてごらん!・・・あぁ、この写真かぁ。美代子もこの写真を大切に持っていたよ」
    (皐月)「美代子が藤原君のことを初めて私に紹介してくれたときに三人で撮ったのよね。「写ルンです」で(笑) 覚えてる?藤原君」
    (藤原)「あぁ、覚えてるよ。二人が共同生活していたアパートの近くのファミレスだったよね」
    (皐月)「そう、みんな19歳のときよね」
    (陽菜子)「皐月さん、可愛い!」
    (皐月)「そう?ありがとう。お世辞でも嬉しい、ヒナちゃん」
    (陽菜子)「お世辞なんかじゃないですよ、皐月さん」
    (皐月)「ホンと? ありがとう。でね、ヒナちゃん・・・中央に写っているのが私の親友…美代子よ。どう?ヒナちゃんにそっくりでしょ?」
    (陽菜子)「自分では似ているとかよく分からないですけど…でも・・・写真を拝見しただけで、美代子さんがとても優しい方だったんだろうなって…そう感じました」
    (皐月)「ありがとう…ヒナちゃん」
    (陽菜子)「えっ?」
    (皐月)「だって、美代子は私の無二の親友なんですもの…親友を褒められて嬉しく思わない人はいないでしょ?」
    (陽菜子)「そうですね。 皐月さんは、いつも美代子さんの写真を持ち歩いているんですか?」
    (皐月)「うん…美代子が亡くなってからいつも…肌身離さずにね」
    (陽菜子)「私は親しい友人を亡くした経験がないので、よく分からないですけど…お友達の写真を常に持ち歩いているってすごいことです」
    (皐月)「いつも一緒にいたいだけよ」
    (陽菜子)「皐月さんと美代子さんは、どれくらい一緒に暮らしていたんですか?」
    (皐月)「私の親がすごい心配性でね、高校を卒業した私が一人で東京に出るのは許さないって言われちゃったの…その時に美代子が一緒に住もうって言ってくれて、それでうちの親も許してくれたのよ・・・18歳で田舎から上京してきたときから、美代子が藤原君のお嫁さんになるまでの12年間…ずっと一緒に暮らしていたの。私が今こうして東京でフラワーコーディネートの仕事をしていられるのも、美代子がいてくれたからなのよ」
    (陽菜子)「そういういきさつがあったんですねぇ。でも・・・」
    (皐月)「うん?…でも?」
    (陽菜子)「でも、なかなか真似のできることじゃないですよね?」
    (皐月)「えっ?…何が?」
    この後、陽菜子が言ったことに皐月はハッとするのだった。

  • #486

    六輔 (木曜日, 25 6月 2020 20:04)


    皐月は真顔でもう一度尋ねた。
    (皐月)「真似のできることじゃないって…何が?」
    (陽菜子)「美代子さんの月命日には、毎月必ずマスターに会いに来ることですよ!」
    (皐月)「…えっ?」
    皐月は、陽菜子の言葉にハッとなって自問自答した。
    「ここに来る理由が、藤原君に会うために?ヒナちゃんにはそう見られているの?」
    その答えは至って簡単に導かれ、皐月は心の中でこうつぶやいた。
    「傍から見れば確かにそういうことになるわよね。だって実際、藤原君に会っている訳だし…」と。

    皐月が美代子の月命日に必ず「あんくる」にやってくるのは、それなりの理由があったのだ。
    月命日に皐月が一番にしたかったことは、美代子が眠るお墓に綺麗な花を供えて手をあわせ、墓前で美代子に近況報告をすることだった。
    だが、それは容易く叶えられることではなかったのである。
    何故なら、美代子の遺骨は、鹿児島にある藤原の実家の墓に埋葬されていたからだ。
    藤原自身、鹿児島の地に美代子の遺骨を納骨することに躊躇ったが、都内に墓を求めることが出来ず、苦渋の選択で鹿児島の実家の墓に埋葬することを選ばざるを得なかったのだった。
    藤原は、親友の皐月にだけはそのことを伝えていた。
    「ごめん・・・皐月ちゃん。本当はもっとそばにおいておきたかったんだけど…」
    『そんなぁ、私に謝らないでよ。冷静に考えればそれが普通なんでしょ?だって・・・だって、美代子は藤原君の奥さんなんだからね。日本ってそういう国なのよね。子は親の墓に一緒に・・・美代子は藤原家の人なんですもの」
    この時皐月は、結婚して姓が変わるということの重みを実感したのだった。
    「嫁いだ者は、嫁ぎ先のお墓に入ることになるのよね」と。

  • #487

    六輔 (金曜日, 26 6月 2020 23:35)


    皐月は、これまで9回あった美代子の命日のうち、一周忌、三回忌、七回忌の節目となる命日には鹿児島の地を訪れ、美代子の墓前で手を合わせてきた。
    長期休暇をその時に合わせてとり、あえて飛行機は使わず電車に揺られ、一人のんびりと鹿児島の地を訪れた。
    美代子が眠る墓は、薩摩半島の自然に囲まれた小高い丘の上にあり、そこからは錦江湾が一望でき、遠くには桜島がそびえたっている。
    皐月が初めてその場所に訪れた時には、そこから見える景色に魅了され、目頭が熱くなった。
    「こんな大自然の素敵な場所にいるのね…美代子」
    共同墓地には多くの墓石が並んでいて、その中から「藤原家の墓」と刻印された墓石を見つけ、美代子の名が彫られていることを確認した。
    「あった…」
    墓前に立つと、皐月の頬を大粒の涙が伝った。
    「美代子ぉ…」
    こみ上げる想いでしばらく涙が止まらなかった。
    「美代子ぉ…逢いたいよ」という言葉を口にしようとしたが、めーいっぱいにやせ我慢をしてそれを飲み込み、無理に笑顔を作った。
    美代子からもらった最後の手紙に書いてあった言葉を思い出したからだ。
    『いつも笑顔でいてね、皐月』と。
    それでも美代子に逢いたいという気持ちを消し去ることなど出来なかった。
    無理に笑顔を作り、持ってきた花を供える準備をしながらも、大粒の涙が頬を伝った。
    「美代子の好きなお花をたくさん持ってきたよ」
    アイリス、キンセンカ、スターチス、そしてグラジオラス…
    美代子が好きだった花たちの花びらの上に皐月の頬を伝った涙が落ち、海面に反射した太陽の光がそれを輝かせていた。

  • #488

    六輔 (土曜日, 27 6月 2020 20:43)


    仏教では「3」と「7」の数字が特別な扱いをされる。
    “お釈迦様は、生まれたときに7歩歩いた”という言われから「7」という数字が大切に扱われているのはその理由のひとつだ。
    それ故、年忌法要は「3」と「7」がつく年に行われる。
    三回忌、七回忌、十三回忌、十七回忌・・・三十三回忌

    その日は、美代子が亡くなってちょうどまる6年が過ぎた日だった。
    皐月は、美代子の節目の命日、七回忌にあたるその日にあわせ、鹿児島の地を訪れていた。
    そこに訪れたのはその時で三度目だったが、まるで皐月が来るのを知っていたかのように、その日も雲一つない快晴が皐月を迎えていた。
    美代子が眠る墓まで続く長い階段を登りながら、皐月は時折後ろを振り向いてそこから見える景色に視線をやった。
    「本当に綺麗なところだよね…美代子」
    一段、一段と階段をゆっくりと登り、ようやく美代子の眠る場所についた皐月は、柔らかな表情に変えて墓前に立った。
    「来たよ、美代子ぉ…ここで会えるのは4年ぶりだね」
    その皐月の言葉に応えたかのように、海面から反射された太陽の光に墓石が輝いたように見えた。
    皐月は、持ってきた花を花立てに生け、立ち上がって左右のバランスを整えると「よし!」と、笑みを浮かべ、次は鞄から線香を取り出し、火をつけて香炉にそっと供え、その場にしゃがんで両手を合わせて目を閉じた。
    その日の皐月は、心に誓っていたことがあった。
    「今日は、美代子の前で泣かないよ」と。
    だが、その誓いは意図も簡単に破られた。
    両手を合わせて閉じていた瞼に、溜めておくことが出来なくなった涙が溢れ、ひとつ、そしてまたひとつ皐月の頬を伝った。
    閉じていた瞼をゆっくりと開け、皐月はその時の正直な気持ちをそのままの言葉で美代子に伝えたのだった。
    「だめだぁ…美代子。今日は絶対に泣かないって決めて来たんだけど・・・わたし…美代子に逢いたいよぉ」と。
    何年経とうとも、美代子に対する想いが薄れることなどなかったのだった。

  • #489

    六輔 (日曜日, 28 6月 2020 19:50)


    お墓参りの一通りの儀式を終えた皐月は、それまで立って居た場所から一歩下がって、足元に置いてあった鞄の中からシステム手帳を取り出した。
    鞄を足元に戻して、両手で手帳を持った皐月は、しおり紐が挟んであったページを開くと、茶目っ気たっぷりに微笑んでこう言った。
    「さてと、4年分だからたくさんあるわよ~ 覚悟して聞いてね、美代子!」
    皐月が開いたシステム手帳のそのページには「美代子へ」と書かれたページが綴じられてあった。
    そこには、墓参りをしたときに美代子に報告しようとしたためておいたことが、山ほど書かれてあったのだった。

    皐月は、そこに美代子がいるように語り掛け、報告会を始めた。
    「あのね、美代子。真っ先に報告したいことがあるの。それはね、今年のお正月に同窓会があったの。その時にね・・・」
    「みんな、何年経っても美代子のことを忘れずにいてくれて、鹿児島に行ってお墓参りもしたいって言ってくれたんだよ。でも、みんな仕事や家庭があるしね…だから、今回もまた私一人になっちゃったんだけどね(笑)」
    「そう言えば、初めての同窓会の時に司会をやってくれた真子ちゃんがさ、今回の同窓会でも司会をやってくれたの。でね、わたし、真子ちゃんにお手製の髪飾りをプレゼントしたんだ。 結婚式のサムシング・ブルーっていう訳じゃないけど、真子ちゃんに一番似合う色だと思ったから青色の花を選んだんだよ。真子ちゃんすごく気に入ってくれて…それを見てみんなも可愛いって言ってくれたんだ」
    「あっ、同窓会で思い出した。たっちゃんのこと、美代子も覚えているでしょ?今回の同窓会こそ会えるかなって思っていたんだけど、また今回も来なかったの。みんな音信不通なんだって・・・今回こそ会って謝れるかなって思っていたんだけど…どうしちゃったんだろうね、本当に」
    皐月は達弘の話に落胆し、「ふぅ~」と浅い息を吐いてうつむいたが、無理に表情を戻して顔を上げた。
    気を取り直すように「よし!」と、自分に活を入れ、次の話題を確認するようにシステム手帳に目をやった。
    「あ、そっか。このこともしっかり報告しておかなきゃね!あのね・・・」

    こうして、ひとつひとつ丁寧に話をしていき、かれこれ報告会を始めてから1時間が経とうとしていた。
    話し続けてきたことで、喉の渇きを覚えた皐月は、鞄からペットボトルを取り出し、それを口元へと運んだ。
    と、その時だった。

  • #490

    六輔 (月曜日, 29 6月 2020 19:13)


    ≪ガサッ、ガサッ、ガサッ、ガサッ…≫
    背後から通路の敷砂利を踏む音が聞こえてきて、その音が徐々に大きくなってきた。
    皐月がその音に反応して振り返えると、墓参りの身支度をした男性が一人近づいてくるのが分かった。
    「あっ…」
    『あれ?皐月ちゃん?』
    「藤原君?…」
    黒の礼服で現れたその男は、藤原涼輔だった。

    この時、皐月が藤原に会うのは5年ぶり、初盆のときに藤原の自宅を訪ねた時以来のことだった。
    「藤原君、久しぶりぃ」
    『ほんと、久しぶりぃ、皐月ちゃん』
    「初盆のときにお宅にお邪魔したとき以来だよね?」
    『うん、そうだね。でも、驚いたぁ。ここで皐月ちゃんに会えるなんて。こんな遠くまで来てくれたんだね、皐月ちゃん』
    「う、うん…だって、今日は美代子の節目の命日だから…」
    『そっかぁ、ありがとう皐月ちゃん。鹿児島にはいつ?』
    「今日だよ」
    『僕も今日。えっ?飛行機で?同じ飛行機だったのかな?』
    「あっ、私は電車に揺られてのんびりと来たから」
    『そうだったんだぁ。本当にありがとう。美代子、喜んでるよね』
    「うん。毎年命日には来たいと思っているんだけど、こうしてここに来れたのは今日で三度目なの。一周忌、三回忌…そして今日」
    『えっ? 三度目?』
    「うん。命日に合わせて長いお休みをいただいて…半分、旅行気分でね」
    『命日に合わせて? そうだったんだぁ。僕は、仕事の都合で命日より前にお墓参りを済ませていたので、行き会えなかったんだね』
    「そうみたいだね」
    『でも、こんな遠いところまで来るのも大変だったでしょ、皐月ちゃん。本当にありがとう』
    「そんなお礼なんて言わないで。美代子のところに来たくて、来ているんだからさ」
    そう言って皐月は、優しい視線を墓石に向けた。

  • #491

    六輔 (火曜日, 30 6月 2020 21:03)


    皐月と再会の挨拶を済ませた藤原は、自分が持ってきた花を皐月が供えてくれた花と一緒に花立てに生けた。
    『ぎゅうぎゅう詰めになっちゃったけど…』
    「美代子、お花が好きだったから、たくさんの花に囲まれて喜んでいるわよ」
    『皐月ちゃんのセンスの良いお花が台無しになっちゃったよね』
    「そんなこと気にする美代子じゃないでしょ! 藤原君の一番の理解者の美代子なんだから」
    『そっか(笑)美代子、喜んでくれているかな?』
    「もちろん喜んでいるわよ。大好きな旦那様が持ってきてくれたお花なんですもの」
    『そっか、ならいいんだけど』

    お花を生け終わった藤原は、次は線香を灯し、それを二つに分けて半分を皐月に差し出してきた。
    『皐月ちゃんも一緒に…』
    「あぁ、私はさっき・・・」
    『何度供えてもらっても…』
    「…うん、分かった、ありがとう」
    そう答えた皐月は、藤原から火の点いた線香を受け取り一歩下がって藤原の背後に立った。
    『お先…』
    そう言って藤原は線香を香炉に供え、両手を合わせて目を閉じたのだが、それは普通の何倍にも感じられる長い時間だった。
    皐月は、藤原のそんな姿に、
    「藤原君、美代子に何か報告してるのかなぁ…」
    と、そう感じ取れた。

    『ごめんね、すごく長くなっちゃった…』
    「あっ、ぜんぜん大丈夫だよ。じゃぁ私も・・・」
    そう言って、藤原と場所を入れ替わって墓前に立ち、そして目を閉じた。
    皐月は、二度目ということもあって短めに焼香を済ませ、その場で振り返ると藤原が話をしてきた。
    『皐月ちゃん…』
    「あっ、はい」
    『僕ね、今日、美代子に報告したことがあるんだ』
    その藤原の言い方に、何か重大な話であることが直ぐに感じ取れた。
    「なに?・・・何か大事なことを報告したの?」
    藤原は皐月の言葉に短くうなずいた。
    「…うん、そうなんだ」

  • #492

    六輔 (水曜日, 01 7月 2020 19:55)


    藤原は、「ふぅー」と大きく息を吐きだしてこう言った。
    『僕ね、新聞社を辞めたんだ』
    「…えっ?新聞社を?それって記者を辞めたってこと?」
    『あぁ、そうだよ』
    「えぇ~ 記者の仕事は藤原君の天職だと思っていたんだけど…」
    『天職?(笑) 記者になりたては、自分でもそんなふうに思っていたときもあったけど…』
    「いつ辞めたの?」
    『先月いっぱいで』
    「そっかぁ、そんな重要なことじゃ、報告の時間も長くなるはずよね。で、美代子は承知してくれた?」
    『えっ?・・・(笑・笑・笑)うん、分かったって言ってくれたよ』
    「そっか、なら良かったね」
    『もともと、美代子が僕と結婚してくれたのは、僕に記者という肩書があったからではない訳だし…』
    「そうね。美代子はそんなふうなことをいつも言ってたよ、私に。の・ろ・け
    て・ね!(笑)」
    『そうなんだ(笑)』
    「え~、でも…新聞社を辞めなきゃならないようなことが何かあったの?」
    『・・・うん』

    それから藤原は、大物政治家の事件にまつわる話をし、それが記事になることもなく社にもみ消されてしまったことで、記者を続ける気持ちが折れてしまったことを皐月に話したのだった。
    「そんなことがあったの…辛かったでしょ、藤原君」
    『…うん』
    「世の中には、私たちには分からないことがたくさんあるのね」
    『そうだね。そう言ったことを一つ一つ国民に示していくのが新聞の責務だと思って頑張ってきたんだけど…正しいことを正しく伝えられない新聞社になんかいられなくなっちゃってさ…』
    「そっかぁ」
    『このまま新聞社にしがみついていると、自分で自分のことが嫌いになりそうだったから…』
    「そっか。藤原君らしいね」
    吹っ切れた様子で話す藤原だったが、この時の皐月には感じ取れたのだった。
    どこか寂しそうな藤原であったことを。

  • #493

    六輔 (木曜日, 02 7月 2020 20:31)


    皐月は心の中で思った。
    「記者を辞めたくて辞めたんじゃないんでしょ?…藤原君」
    そう考えると胸が痛んだ。
    皐月は、あえて明るく尋ねた。
    「次の仕事は?もう決めてあるの?」
    『次の?・・・う~ん、実はまだ決めてないんだ』
    「そうなんだぁ」
    『辞めるって決心してから時間をおかずに辞表を出したからね』
    「えっ?・・・」
    皐月は心の中で思った。
    「時間をおかずに辞表を?・・・それって、衝動的にってことじゃないんでしょ?・・・藤原君は感情的になって会社を辞めるような人じゃないわよね」と。
    そう思いながら、皐月は当たり障りのなさそうな言葉を選んだ。
    「そうだったのぉ。まぁ藤原君ならどこに行ってもやっていけるわよ」
    『皐月ちゃんにそう言ってもらえるのは嬉しいけど…でも、もぉサラリーマンとして会社に仕える仕事は嫌だなと思っているんだ』
    「そっかぁ、新聞社を辞めた理由が理由だもんね。そうなっちゃうわよね」
    『…うん』
    「何かやりたい事あるの?」
    『強いて言えば、ひとつだけ…』
    「えっ?あるの?…なに?」

  • #494

    六輔 (金曜日, 03 7月 2020 23:59)


    藤原は、少し躊躇う様子を見せながらもこう答えた。
    『喫茶店を始めようかなと思って…』
    「えっ?喫茶店?…あっ、そういえば美代子から聞いたことがあるよ。藤原君の淹れる珈琲を飲みたがる人がたくさんいるって…」
    『まぁ、“好きこそ物の…”ってやつなんだろうけど…』
    「藤原君が喫茶店のマスターにかぁ…」
    『会社を興すほどの経済力も無いし…もぉ、シャカリキになって働くのもしんどいし…これからはのんびりと…』
    「…えっ?」
    皐月は、この時の藤原の言葉に思った。
    「藤原君が働くことをしんどいって言うなんて…目的を失っちゃったんだね」
    美代子の墓に向かって寂しそうにする藤原の背中を見て皐月は思った。
    「このままじゃ藤原君がダメになっちゃうかもしれない」
    直感的にそう思ったが、ただこの時の皐月は、藤原に何をどう話してやればいいのか、全く分からなかったのだった。
    「ごめん・・・私には何て言ってあげたらいいのか分からないよ…藤原君」と。

  • #495

    六輔 (土曜日, 04 7月 2020 19:38)


    美代子の七回忌のお墓参りと、互いの近況報告を済ませ、その場を去るときがやってきた。
    「美代子…また来るね」
    そう墓石に向かって話す皐月を見ながら藤原は、持ってきた手桶に柄杓を入れ、それを右手に持って話しかけてきた。
    『皐月ちゃん…』
    「はい」
    『今日、これから東京に帰るの?』
    「いやっ、三日間の休暇をいただいてきたので、今日は鹿児島に泊まろうと思っているんだぁ…」
    『そうなんだ。あっ、もしもだけど…もし、泊まるところをまだ決めていないのなら、良かったら僕の実家に来ない?こんな遠くまで来てもらったお礼をさせてもらいたいし…』
    状況は違えど、同じようなセリフを言われたことを思い出した皐月は、心の中でそれをつぶやいた。
    「そう言えば、たっちゃんにも言われたのよね。今日は俺のアパートに泊まれよ!って(笑)」
    皐月がそんなことを思い出していた“間”を、躊躇っているためだと思った藤原はもう一度誘ってきた。
    『美代子の話を出来る人は、皐月ちゃんしかいないから…今晩は美代子の話で飲み明かそうよ!』
    言われてみれば、皐月もまた美代子の話を出来る人はそうはいなかった。
    皐月は笑みを浮かべて応えた。
    「そうね、確かに美代子の話をしたいね」と。

  • #496

    六輔 (日曜日, 05 7月 2020 20:34)


    『失礼しますぅ』
    襖の向こうから聞こえてきた仲居の声に、皐月は待ちわびていたかのように応えた。
    「あっ、は~い」
    初老の仲居が襖を開けて部屋に入ってきた。
    『お部屋にお食事のご用意をさせていただきたいのですが、よろしいですか?』
    「あっ、ありがとうございます」
    『お二人分で良かったんですよね?』
    「…はい」
    『お飲み物は、冷酒をご用意させていただきましたけど、よろしかったですかね?』
    「はい!」

    手際よく二人分の食事が用意された。
    『何かございましたら、何なりとお申し付けくださいね』
    「はい、ありがとうございます」
    仲居が部屋を出て行くと、皐月は満面の笑みを浮かべて言った。
    「わぁ~ すご~い、美味しそうだよ! さっ、いただきましょう!」と。

  • #497

    六輔 (月曜日, 06 7月 2020 20:58)


    食事が終わる頃合いを見計らって仲居が部屋に入って来た。
    初老の仲居は、優しそうに微笑んで皐月に語り掛けてきた。
    『お食事、お済みになりましたか?』
    「あっ、はい」
    『お味はどうでしたか?』
    「とっても美味しかったです!」
    『それは良かったです』
    と、皐月は全く手をつけていない一人分の食事を眺め、申し訳なさそうに言った。
    「せっかくのお料理なのに…ごめんなさい」
    『いいんですよぉ…何かご事情がお有りになるのでしょうから』
    皐月は、もう一度頭を下げて仲居の言った“事情”を話し始めた。
    「今日は、親友の七回忌のお墓参りに東京から来たんです」
    『えっ? ご親友の?・・・お客様のご親友じゃ…お若いときに?』
    「はい。親友は美代子といいます。35歳の若さで亡くなりました。私と美代子は18歳から30歳までの12年もの間、一緒に住んでいたんです」
    『それは、それはとても大切なお友達を…どうお声がけをしていいものか・・・お辛いご経験をなさったんですねぇ』
    「美代子と約束していたんです。いくつになっても二人で旅行しようね!って」
    『それで、この指宿をお選びいただいて、お二人分のお食事を…』
    「無駄にしてしまったようで、ごめんなさい」
    『そんなふうには思っていませんよぉ。美代子さんも美味しくいただいてくれたと思いますよ。素敵なお二人のご旅行ですね』
    「仲居さん・・・ありがとうございます」

  • #498

    六輔 (火曜日, 07 7月 2020 20:17)


    7月7日
    今日は七夕だ。
    孫と一緒に五色の短冊に願い事を書き、折り鶴や巾着などを笹の葉に飾り付けた人もたくさんいることだろう。
    七夕は、保育園や幼稚園、小学校でも季節の行事として取り上げられているようだが、保育園の先生達は、いったいどんな話を子供たちに聞かせているのだろうか。
    さすがに短冊の五色の青色が木、赤色が火、黄色が土・・・折り鶴が長寿を、巾着が金運、網飾りが豊作や大漁祈願といったことまでは説明していないだろうが。
    もしかすると、織姫と彦星が一年に一度だけ会える日なのよ!といったロマンチックな恋バナはしているのかもしれない。
    ただ、何が悲しいって、保育園も幼稚園にも行っていない小生には分からない話だということだ。
    さて、真面目な話に戻るが、もしも、今・・・
    “ここに願い事をひとつだけ書きなさい。その願いは必ず叶えてあげます”
    そう言われて短冊を渡されたとしたら、あなたはどんなことを書きますか?
    「家族が健康で過ごせますように」
    「美人になりますように」
    「サマージャンボ宝くじで1等当選」
    「どれだけ食べても満腹を感じない体が欲しい」
    叶えてもらいたいことが多すぎて、短冊にペンを走らせるまでに相当悩むことだろう。

    一泊二日の鹿児島の旅に指宿の小さな温泉宿を選んだ皐月。
    もしこの日、皐月が夢のような短冊を受け取っていたとしたら、迷うことなくこう書いていたことだろう。
    「美代子と話をさせてください」と。

  • #499

    六輔 (水曜日, 08 7月 2020 21:13)


    仲居の言葉に心癒された皐月は、食器を一つ一つ丁寧に片づける仲居に向かってその日の出来事を話し始めた。
    「仲居さん…」
    『はい』
    「今日ね、美代子のお墓参りをしていた時に、美代子の旦那さんと会ったんですよ」
    『お友達の旦那様に?旦那様は鹿児島にお住まいなのですか?』
    「いえっ、私と同じ東京です」
    『東京に?東京からいらした旦那様と?・・・東京ではよくお会いしているのですか?』
    「いえっ、旦那さんに会ったのは、5年ぶりです。美代子の初盆のときにご自宅にお邪魔したとき以来です」
    『そうですかぁ。ちょうどタイミングよくお会いできたんですね』
    「はい。でね、旦那さんに言われたんです。“今日、良かったら僕の実家に泊まりなよ!”って。親友の旦那さんと一つ屋根の下で一夜を明かすことなんか出来ないですよね?(笑)」
    『さぁ、男の人とのことは私には何とも申し上げられませんけど…』
    「出来ないですよぉ(笑)」
    仲居はそれ以上男女の話に関わりたくないと思ったのか、話題を変えて来た。
    『指宿は何度かいらしたことお有りになるんですか?』
    「いえ、初めてなんです。美代子とよく話していたんですよ。一度でいいから指宿の砂風呂に入ってみたいねって」
    『そうでしたかぁ。明日、行かれるのでしたら、良いところをお教えいたしますよ』
    「あっ、それは嬉しいです。よろしくお願いします」

    食事の後片付けを終えた仲居は、優しく微笑んでこう言った。
    『お布団も二つ敷きましょうね』と。
    仲居の気遣いの言葉に、皐月の頬を一筋の涙が伝った。
    「・・・ありがとうございます、仲居さん」

  • #500

    六輔 (木曜日, 09 7月 2020 19:02)


    現代社会では、冷暖房で一定の空調に保たれた中で生活することが多くなってきているため、汗をかかない人が、とくに若い女性の中に増えているといわれている。
    汗をかかない。
    それは、一見快適なようだが、一方で老廃物の排出がうまく出来ないため、綺麗になりたい女性にとっては大きなダメージになる。
    中には、55歳を過ぎた頃から、近所の公園に毎日散歩をして汗をかき、さらには同級生が立小便をした場所の写真を撮っては仲間を思い出し、日々の活力にかえているご婦人もいるが。
    汗をかくということは、人間にとってとても大切なことなのである。

    皐月は、仲居に紹介された指宿の砂風呂温泉の施設に来ていた。
    「わぁ、仲居さんが言った通り!綺麗なところ」
    その日が平日であったこともあり、さほど混んでいないようだった。
    脱衣所に入った皐月は、受付で渡された浴衣に着替えた。
    タオルを首にかけ、脱衣所に掲示されている注意書きに目をやった。
    「へぇ~、ここの温泉って地下の深部に溜まった古代の水が源泉になっているんだぁ。なになに…砂風呂に入ると心拍出量が増えて…ふむふむ…デトックス効果は普通の温泉の3~4倍!すごーい!皮膚の代謝を高めてくれて、アトピーにも良いんだぁ」
    脱衣所を出ると、目の前に海岸とその先にそびえ立つ開聞岳が見えた。
    「すご~い綺麗なところぉ!」
    既に5人の人が一列に並んで砂風呂に入っていた。
    直ぐに係の人が近寄って来た。
    『どうぞ、こちらへ!』
    「あっ、はい」
    案内されたその場所で、係りの人が穴を掘り始めた。
    『どうぞ!』
    「はい」
    砂の上に横たわると、直ぐに心地よい温かさが伝わってきた。
    寝ころんだ上から約50°C~55°の砂がかけられて、地上に残ったのは首から上だけになった。
    『10分から15分ぐらいがお薦めですよ。どうぞ、ごゆっくり』
    「あっ、はい。ありがとうございます」
    数分で全身から汗が噴き出してきた。
    聞こえてくるのは、波の音だけ。
    皐月はとても幻想的な世界に包まれ、至福の時間を味わった。

  • #501

    六輔 (金曜日, 10 7月 2020 21:48)


    指宿の温泉宿と砂風呂温泉入浴の旅を満喫した皐月は、東京への帰路に就く前にもう一度美代子の墓に立ち寄ることを決めていた。
    砂風呂入浴を終えた皐月は、バスに揺られ、一番近くの駅に着いた。
    一時間に一本しか運行しないローカル線であったが、運よく15分ほど待てば次の電車が来ることを確認した皐月は、駅の売店を覗き込んだ。
    「あっ、見つけた!」
    それは指宿に来てからずっと探していた「ボンタンアメ」だった。
    皐月は、キャラメルに似た「ボンタンアメ」を一つ頬張り、ホームで電車を待った。
    時刻通りに来た電車に乗り込むと、空席の目立つ車両の中ほどまで進んで座る席を決めた。
    窓際の席に座って、持っていた鞄を自分の左隣の席に置くと同時に電車が走り出し、直ぐに車窓から錦江湾の景色が見えてきた。
    車窓に流れる景色は、砂風呂に入っていた頃の景色とは一変していた。
    その日は朝から雲ひとつない快晴だったが、午後になって曇りだし、電車に乗り込んだ頃には、今にも降り出しそうな雲行きに変わっていたのだった。
    下車駅に着き、電車を降りた皐月は、鞄の中に花柄模様の折りたたみ傘が入っていることを確かめ、美代子の墓まで続く坂道を登り始めた。
    いつもなら坂道の途中で振り返り、眼下に広がる景色を堪能するところだが、その時の皐月には、その気持ちが起きないほどに、どんよりと雲が垂れ下がっていた。

    ようやく美代子の墓に着いた皐月は「ふぅ~」と息を吐いて汗を拭った。
    そしていつもと変わることなく柔らかな表情で美代子の墓前に立った。
    「今日も来たよ…美代子」
    花立てに生けられた花たちは、昨日よりも開花を増やしていた。
    鞄から線香を取り出し、火を灯してそれを香炉に置き、その日は墓前にしゃがみこんで両手を合わせて目を閉じた。
    誰に邪魔されることもなく、自分の思うままに手を合わせていた皐月だったが、急にある思いが芽生えてきた。
    「今度の年忌法要って・・・13回忌?・・・えっ?6年後?」
    ずいぶんと先に思えた。
    皐月は、石塔を見上げてこう言った。
    「それよりも前に来るからね。だって、6年も先じゃ・・・ねっ、美代子」
    いつもであれば、そんな皐月の言葉のあとには、海面から反射した光で墓石が輝いたように感じるのだったが、その日は曇天がそれを許さなかった。

  • #502

    六輔 (土曜日, 11 7月 2020)


    いよいよ、美代子の前から離れなければならない時間になった。
    「あ~ぁ、ぼちぼち帰らないと・・・電車の時間が来ちゃったよ」
    そう愚痴をこぼした皐月だったが、直ぐに笑顔を見せてこう言った。
    「きっと、美代子は言ってるよね! 電車に乗り遅れないように、雨が降る前に早く帰りなよ!って(笑)」
    名残惜しさに、その場から動くことが出来なくなっていた皐月は、自分に言い聞かせるように明るくこう言った。
    「また来るからね、美代子」
    この時ばかりは、美代子の墓がもう少し近い場所にあれば良いと思った皐月だった。
    明るく「また来るからね!」と、立ち上がって鞄を待った皐月だったが、帰路につくその一歩目がどうしても踏み出せなかった。
    「美代子ぉ…ねぇ、美代子ぉ・・・」
    皐月の頬を一筋の涙が伝った。
    美代子と話したくて、話したくて仕方がなかったのだった。
    「ふぅ~」と長い息を吐き、鞄からハンケチを取り出した皐月は、それで最後に墓石の埃を払い、
    「じゃぁ帰るね、美代子」と墓石に手を添えた。
    と、その時だった。
    海から丘に向かって吹いてきた風の音に、聞き覚えのある声が聴こえてきたのである。
    『涼輔さんのこと、お願いね…皐月』
    「・・・えっ?」
    一瞬、時間が止まったようだった。
    「えっ?美代子?・・・美代子なの?」
    皐月は、突然に聞こえてきた声に辺りを何度も見渡し、美代子の姿を探した。

  • #503

    六輔 (日曜日, 12 7月 2020 20:45)


    もちろん美代子の姿が見えるはずなどなかった。
    皐月は「空耳?」
    そうつぶやき、うつむいて「ふぅ~」と長いため息をついた。

    そこから離れなければならない時間になっていたことは分かっていた。
    それでもしばらく動くことさえできずに、皐月は在りし日の美代子の笑顔を思い出していた。
    「…美代子ぉ」
    皐月は、悲しくて寂しくて…何度も辺りを見渡し、美代子の姿を探した。
    「美代子と話したい」
    何年経とうが、美代子を失った傷が癒えることなどなかった。

    どれくらいの時間が経っていたであろうか。
    皐月が、我に返ったときには電車の発車時刻をとうに過ぎていた。
    「・・・あっ…もう駄目だぁ。乗りはぐっちゃった」
    次の電車までには、それから1時間以上待たなければならなかった。
    予定していた電車を諦めて、皐月は美代子の墓前に座り込んだ。
    墓石を眺めていると、頭の中でビデオテープを再生しているかのように美代子の声が聞こえていた。
    それは、皐月が思い出として記憶している美代子の言葉ばかりだったが、またさっきと同じように海から丘に向かって吹いてきた風の音に、美代子の声が聞こえてきたのである。
    『皐月…涼輔さんのことを守ってあげて!』
    「えっ?」
    皐月は確信した。
    「これ・・・美代子の声だよ」と。

  • #504

    六輔 (月曜日, 13 7月 2020 22:00)


    このときの皐月は、昔に読んだ一冊の本のことを思い出していた。
    それは、当時スピリチュアリストとして名を馳せていた江原啓之氏の本だ。
    美代子を亡くした皐月は、自分の心が荒れ果てぬよう、何かにすがるように江原啓之氏の本を読み漁り、出会った一冊の本、そこに書かれてあった言葉を強く信じたのである。
    江原啓之氏のその本にはこう書かれてあった。
    「語り掛ければ亡くなった人に思いは伝わるのです」と。
    その言葉と出会った皐月は、どんなことでも声に出して美代子に報告をする習慣になっていった。
    仕事から帰ってくれば、テーブルの上の写真立ての中で微笑む美代子に向かって語り掛けた。
    「ただいまぁ…美代子。あのね、今日はね・・・」

    さらに江原啓之氏の本にはこうも書かれてあった。
    「亡くなった人に思いを伝え続けていれば、亡くなった人の声が聞こえるようになる時がいつかは必ずくるのです」と。

    墓石に向かって皐月はこう言った。
    「思いが通じたんだよね、美代子」と。
    そして、墓石に向かって堰を切ったように話しかけた。
    「ねぇ、美代子・・・ねぇ…」
    「ねぇ、美代子・・・涼輔さんの何をお願いしたいの?」
    「美代子・・・ねぇ、美代子…聞こえているなら応えて・・・美代子」

    何も返ってはこなかった。
    だが皐月は、それでも信じて疑わなかった。
    「さっきの声は絶対に美代子の声だった」と。

  • #505

    六輔 (火曜日, 14 7月 2020 20:15)


    ふと、昨日の藤原の寂しそうな顔が思い浮かばれてきた。
    なるべく気にしないようにと思っていたが、皐月の頭の中に否応なしに藤原の寂しそうにする映像が映りだされてきたのだった。
    「藤原君・・・」
    昨日の藤原の様子に
    「このままじゃ藤原君がダメになっちゃうかもしれない」と、そう感じたことを思い出した皐月だった。
    それを思い出したことで、さっき聞こえてきた声と繋がった気がした。
    「美代子・・・記者を辞めた藤原君が心配なのね?・・・それで藤原君のことを見守って・・・そう、私に伝えたかったの?…ねぇ、美代子」
    答えを求め、墓石を見つめていたが、何も応えてくれないことに皐月はゆっくりと息を吐いた。
    「ふぅ~」

    「ただの空耳だったのかな…」
    そんなふうに思えてきたときだった。
    皐月の頭の中に昨日お世話になった指宿の温泉宿の仲居さんとの会話が思い出されてきたのだった。
    「今日良かったら僕の実家に泊まりなよって言われたんですよ。親友の旦那さんと一つ屋根の下で一夜を明かすことなんか出来ないですよね!(笑)」
    『さぁ、男の人とのことは私には何とも申し上げられませんけど…』
    仲居はそう答えていたのだったが、実はその後にこうも言っていたのだった。
    『お客様のお友達…美代子さんがお二人をその場で引き合わせたのかもしれませんねぇ。お二人がお会いになった方が良いと思うところがお有りになって…』
    「えっ?美代子が私と藤原君を?・・・」

  • #506

    六輔 (水曜日, 15 7月 2020 19:18)


    美代子が生前、藤原のことを話していたことが思い出されてきた。
    『涼輔さんは、しっかりしていそうに見えて、あれで案外弱いところもあるのよ』
    「え~ そんなことないでしょ」
    『それがそうでもないの。人は見かけだけじゃ分からないものよ』
    「まぁ、それは分かるけど…でも藤原君は強い人でしょ?」
    『普段は強そうに見えても、でも弱いところもあるって言った方がいいのかなぁ・・・そんなところは私が守ってあげるの』
    「な~んだ。結局は“おのろけ”じゃん!(笑)」

    美代子の墓の前で、瞼をぎゅっと閉じていた皐月だったが、瞼に留まることができなくなった涙が、ひとつ、そしてまたひとつ頬を伝った。
    ゆっくりと瞼を開けて皐月は「美代子…」と、大切な親友の名を呼び、そして柔らかな表情でこう言った。
    「藤原君のことが心配なのね」
    そう言葉にして美代子の気持ちを確かめた皐月は、持っていた鞄の中から白い封筒を取り出して愛おしそうにそれを眺めた。
    その封筒は、どこに行くにも肌身離さず持ち歩いている“美代子からの最期の手紙”だった。
    皐月は、何かにつまずいたり、自分を見失いそうになると、必ずその手紙を読み返していたのだった。
    何度読んだか分からないほど、読んでいる手紙。
    それでも読むたびに涙が溢れた。
    そして、この時初めて美代子の墓前で手紙を読んだときも何も変わることなく、瞼に涙をいっぱいにして読み始めたのだった。

    皐月、
    皐月がこの手紙を読んでいるころは、私はもうこの世に存在しないのよね。ちょっと考えただけでも寂しいことだけど、仕方のないこと。だって、神様が決めてくださったことだから。
    ねぇ皐月、皐月は涼輔さんから私の病気のことを聞いていたんでしょ?
    私の病気のことを知りながら、私の前でいっつも笑っていてくれてありがとう。
    私は、皐月の笑顔にずっと救われてきたの。
    でも皐月は辛かったよね? だって、立場が逆だったら・・・どれほどまでに辛いか、想像しただけで涙が止まらないもの。
    ねぇ、皐月
    私ね、反省しているんだぁ。
    私がなかなか妊娠出来ないでいるとき、皐月は私に婦人科に行くことを一生懸命に勧めてくれたよね。
    その時、尻込みせずに婦人科で診てもらっていたら、もしかしたら私の病気も治っていたのかもしれないのよね。
    でもね、皐月、私ね、涼輔さんに原因があって妊娠できないって言われるのが、何より嫌だったの。
    だって、涼輔さんを責めることになってしまうようで。
    だから、わたし・・・
    皐月の言うことをきけなかったこと、許してね。

    皐月は、一枚目を読み終えてそれをゆっくりとめくった。

  • #507

    六輔 (木曜日, 16 7月 2020 20:14)


    二枚目を読もうとしたが、涙で文字がにじんで見えた。
    皐月はそれを治すかのように一度墓石に視線をやり、そしてそれからゆっくりと二枚目を読み始めた。

    ねぇ、皐月
    私は、あなたの親友として失格だよね。
    だって、どれほどまでにあなたを悲しませてしまうのか。
    私よりも皐月の方がずっと辛いはず、ごめんなさい。
    でもね皐月、私が親友と呼べるのはあなただけ。
    もし許してもらえるなら、こんな私を親友としてずっと忘れずにいてね。
    ねぇ、皐月
    私ね、皐月と交わしていた約束を守れなくなっちゃうこと、それとね、私の夢を叶えることが出来なくなっちゃうことが何より悲しいの。
    年を取ってからも二人で一緒に旅行しようね!って、約束していたのに、それが叶えられなくなっちゃうのよね、ごめんなさい、皐月。
    それと、私の夢
    そう、あなたに私のウエディングの飾りつけをしてもらって、涼輔さんと結婚式をあげること。
    皐月にコーディネートしてもらって最高に綺麗になった私を、大好きな涼輔さんに見てほしかったなぁ。
    それだけが心残り。
    皐月は、私の分まで素敵な花嫁さんになってね。
    ・・・ねぇ、皐月
    皐月には、いくら話しても話し足りないけど、最後に一つだけお願いしたいことがあるの。
    私の最後のわがままを聞いてほしいんだぁ。
    それはね・・・

    これまで何度読み返したか分からない手紙。
    でも、皐月が読み返すのはいつもこの二枚目まで。
    何故なら、三枚目に書かれてあることはあまり読み返したくはないことが書かれてあったからだった。
    皐月は、意を決するかのように「ふぅ~」と息を勢いよく吐き、二枚目をめくって三枚目に視線をやった。

  • #508

    六輔 (金曜日, 17 7月 2020 19:44)


    美代子からの“最期の手紙”を肌身離さず持ち歩き、何度も読み返してきた皐月だったが、常に読み返すのは二枚目まで。
    三枚目を読むのは6年ぶりのことだった。
    三枚目を読み返す気持ちにならなかった理由は、二枚目までは、皐月に対する感謝の気持ちが並んでいたが、三枚目になって夫・藤原涼輔のことになった途端にまるで別人が書いたものであるかのようなものに変わってしまっていたからだった。
    それは、死を目前にした美代子が、情緒不安定なままに勢いで書いたものだろうと思われ、到底受け入れられる文章ではなかったのだった。
    それでも何度か読んで美代子の気持ちを理解しようと試みた皐月だったが、何度読み返しても答えは同じだった。
    美代子の真意を感じ取ることが出来ないことに、もうこれからは読まないようしようと固く心に誓っていたのだった。
    だが、7回忌のお墓参りに藤原と再会し、さらにその日は、空耳であったかもしれないが、美代子の声が聞こえたように思えた皐月は、三枚目をもう一度読んでみようと思ったのだった。
    美代子の墓石の前で皐月は、ゆっくりと息を吐き、めくられた三枚目に視線をやった。
    そこには、この世との別れに消し去ることが出来ない美代子の正直な気持ちと、死を覚悟しながらも情緒不安定なまま勢いで書き綴られた言葉が並んでいたのだった。

  • #509

    六輔 (土曜日, 18 7月 2020 19:29)


    ねぇ、皐月・・・
    わたし、涼輔さんのことが心配でならないの。
    だから涼輔さんを残してなんか死ねない。
    それが私の今の正直な気持ち。
    でも、分かってる。それは叶わないことだって。
    病気になった私が悪いんだよね。

    ねぇ、皐月・・・涼輔さんは弱い人なの。
    涼輔さんは私がいないと駄目な人。
    でも私はもう直ぐいなくなる。
    そんな私の気持ちを皐月なら分かってくれるよね。
    私からの最後のお願い。
    私に代わって皐月が涼輔さんを守って。
    涼輔さんの奥さんになってくれても構わない。
    それが私から親友である皐月への最後のお願い。
    正気の沙汰ではないと思えるだろうけど、それでも構わない。
    身勝手だと思われても構わない。
    皐月なら私の気持ちを受け取ってくれると思うから。
    ごめんね、こんな私を許してね。
    皐月
    さようなら。

    手紙を最後まで読み終え、皐月はゆっくりと目を閉じた。

  • #510

    六輔 (日曜日, 19 7月 2020 20:23)


    手紙を最後まで読み終えた皐月は、この時初めて藤原のことを見守って来なかったことへの罪の意識を感じたのだった。
    「・・・ごめん、美代子。だってさぁ…」
    藤原のことを見守って来れなかった言い訳はいくらでもあった。
    それでも美代子の前でそれを話す気にはならなかった。
    皐月は無理に笑顔を作り、そして美代子の墓に向かってこう言った。
    「仲居さんの言った通り。昨日、藤原君と私を引き合わせたのは美代子だったのね」
    と、今度は茶目っ気たっぷりの笑顔を浮かべ、
    「もぉ~美代子ったら! もし、私が藤原君の奥さんになんかなったら、私もここにはいることになるのよ!まったくぅ~!」
    そう言って、意を決したようにこう語り掛けたのだった。
    「美代子・・・藤原君、喫茶店を始めるっていうことだから、お店に顔を出すようにするからね・・・約束する。・・・そうね、美代子の月命日がいいわね。そうする。きっと藤原君のことだから大丈夫だと思うけど・・・美代子もそう思うでしょ? まったく、美代子は心配性なんだから! お店になら客として行けるから、そうするからね、美代子」

    柔らかな表情で美代子の墓を見つめる皐月のその背中に、海から丘に向かって吹いてきた風がそよいだ。
    それに気づいて皐月が振り返ると、雲の切れ間から光が漏れ、綺麗な“天使のはしご”がかかっていたのだった。

  • #511

    六輔 (月曜日, 20 7月 2020 20:08)


    半年が経った。
    風の便りで「あんくる」が開店したことを知った皐月は、墓前で誓ったように、美代子の月命日に合わせ藤原のもとを訪れた。
    「藤原君!」
    『あっ、皐月ちゃん』
    「開店おめでとう」
    『ありがとう…来てくれたんだね』
    他に多くの客がいたために簡単な挨拶で済ませ、皐月は藤原の案内に従ってカウンター席の一番隅に座った。
    アンティークな椅子に座って店内を見渡すと、店全体が落ち着いた雰囲気であることが直ぐに感じ取れた。
    「素敵なお店」
    それが皐月の第一印象だった。
    おしぼりと水を置き
    『何にする?』と、藤原に声をかけられたことに、皐月はメニューを手に取り、一番上に書いてある「オリジナルブレンドコーヒー」を注文した。

    これまで敏腕記者としての藤原しか見てこなかった皐月は、藤原に接客仕事が務まるのか、一抹の不安を感じていた。
    藤原の仕事ぶりを見ていると、初めての接客仕事に慣れていない様子が伺えたが、
    『お待たせしました』
    と、柔らかな表情で珈琲を出され、さらにはその珈琲を口に含んだ瞬間に皐月の心配は一発で払拭された。
    「美味し~い、藤原君」
    『…良かった』
    美代子から聞いていた通り、藤原の淹れた珈琲は絶品だった。

  • #512

    六輔 (火曜日, 21 7月 2020 20:38)


    皐月は、翌月も同じように美代子の月命日に「あんくる」を訪れた。
    前回と同じようにカウンター席に座って、同じように「オリジナルブレンドコーヒー」を注文した皐月に、藤原はこう尋ねてきた。
    『皐月ちゃん…』
    「はい」
    『間違っていたらごめんね』
    「なに?」
    『先月も19日に来てくれたよね。それって…』
    「あぁ、藤原君、気づいたの?」
    『美代子の月命日に?』
    「そうよ、さすがね、藤原君」
    『俺にとっても毎月19日は、特別な日だから』
    「そっか」
    『ありがとね、皐月ちゃん』
    「そんなぁ、礼を言われることじゃないわよ。美代子のことを話せる人って、藤原君ぐらいだし、ここに来ると美代子を近くに感じることが出来るしね」
    『そっか・・・美代子は喜んでいると思うよ』
    「そうねぇ、もし、立場が逆だったら・・・自分のことが忘れ去られてしまって、誰も覚えていてくれない・・・それって、考えただけですごく寂しいことだよね」
    『そうだね』
    「美代子には私がいる!でしょ?藤原君」
    『うん、ありがとう・・・皐月ちゃん』

  • #513

    六輔 (水曜日, 22 7月 2020 19:45)


    こうして皐月は、毎月19日には、曜日を関係なしに「あんくる」を訪れるようになっていった。
    藤原もまた、毎月19日には曜日を関係なしに店を開けて皐月がやってくるのを待つようになっていった。
    そのことが徐々に二人のルーティンになっていったときのこと。
    皐月の仕事のクライアントの都合で、その月の19日は一日中仕事をしなければならなくなった。
    毎月一度は藤原の様子を見に行くと美代子に誓っていた皐月は、一日遅れの20日に「あんくる」に行く予定をたて、仕事のスケジュールを調整した。
    だが、フラワーコーディネーターの仕事はクライアントの都合で動かなければならないところがあり、結局、翌日の20日にも「あんくる」には行けなくなった。
    結局、都合がついたのは4日後のことだった。
    「こんにちは」
    『皐月ちゃん! 良かったぁ・・・心配していたんだよ』
    「えっ?心配?」
    『うん・・・何かあったのかと…』
    「ちょっと仕事が入っちゃってさ…」
    『そっか。あぁ、でも良かった。何事もなくて』
    「毎月必ず顔を出せていたからね。心配かけてごめんね…藤原君」

    この頃には、既に二人とも意識し始めていたのだった。
    毎月19日が来るのが楽しみであるということを。

  • #514

    六輔 (木曜日, 23 7月 2020 20:21)


    「あんくる」で飲む珈琲が癖になって足繁く通ってくるようになる客は、日を追うごとに増えていった。
    それはそれで良いことだと思って見ていた皐月だったが、常連客の中には、客が多いことを理由に注文した品が出てくるまでに長い時間待たされることを嫌がる客もでてきた。
    それを感じ取っていた皐月は、ある日、こんな提案をしたのだった。
    「ねぇ、藤原君…」
    『うん?』
    「今日もさ、すごくたくさんのお客さんで大変だったでしょ?」
    『・・・うん。まぁ、有難いことなんだけどね』
    「うん、そうね。でもさ、それが理由で仕事が雑になるんじゃ本末転倒ってことでしょ? 藤原君は一つ一つ丁寧にやっているようだけど…でも今日は、すごく待たされていることを不快に思っているようなお客さんもいる感じがしたわよ」
    『…そっかぁ』
    「でさ、これは私の勝手な意見だから気にしないで聞いて欲しいんだけど・・・これだけお客さんが来てくれるようになったんだから、アルバイトを雇うことも考えてみたら?」
    『アルバイト?・・・そっかぁ、そうだね。一人じゃ、やりきれなくなってきちゃったよね』
    「生意気なことを言ってごめんなさい」
    『そんなことないよ』
    「きっと美代子がいたら、そんな話をするんじゃないかなって・・・なんかそう思って…」
    『そっか・・・美代子がいたら・・・分かった、そうするよ。ありがとね、皐月ちゃん』
    「いい人が見つかるといいね!」

  • #515

    六輔 (金曜日, 24 7月 2020 19:29)


    それは平成17年4月の暖かな日のこと。
    皐月の助言を受け入れた藤原は、早速その翌日に手書きの“アルバイト募集”の張り紙をこしらえ、店先に掲示した。
    すると、そのわずか数分後のことだった。
    “カランコロン”と、ドア鈴が鳴って女の子が入ってきた。
    「こんにちは」
    自分が張り出した“アルバイト募集”の張り紙を見て来たのだと理解した藤原が、顔を上げて入口に視線を向けると、そこには見覚えのある顔の女の子が立っていた。
    『…美代子?』
    そう口走ってしまうほど亡くなった美代子にそっくりな女の子が立っていた。
    そう、水嶋陽菜子だ。
    大学に入学したばかりの陽菜子は、大学生になったらアルバイトをしたいと、ぼんやりながら考えていた。
    入学したばかりの陽菜子が大学に向かう途中、何気なく見つけた“アルバイト募集”の張り紙。
    手書きで書かれた張り紙の文字に、とても温かみを感じた陽菜子は、履歴書も持たずに入口のドアを開けていた。
    「こんにちは」
    もし、皐月の藤原への助言がもっと早かったり、あるいは遅かったりしていれば、おそらくは陽菜子が「あんくる」で働くようになることはなかったであろう。
    そう、陽菜子が藤原と皐月に出会うことは、偶然ではなく必然であったのだった。

  • #516

    六輔 (土曜日, 25 7月 2020 20:05)


    それは陽菜子が「あんくる」で働くようになって、初めて迎えた19日のことだった。
    『ヒナちゃん…』
    「はい」
    『今日ね、僕と同い年の女性が来ると思うから』
    「あっ、はい・・・?」
    『その女性はね、ヒナちゃんを見て相当驚くと思うから覚悟しといてね』
    「えっ?どうしてですか?・・・あっ、もしかしてマスターから聞かされたこと? 私が、マスターの亡くなった奥さんにそっくりだって…」
    『そう!その通り』
    「奥さんのお友達だった方なんですね」
    『お友達なんてものじゃないよ。きっと、その人が話すと思うから、楽しみにしといてね」
    「あっ、はい、分かりました」
    と、二人がそんな会話をして直ぐだった。
    “カランコロン”と、ドア鈴が鳴って皐月が入ってきた。
    「こんにちは」
    皐月は、陽菜子を見て当然のことながら驚きのあまりに声を発してしまったのだった。
    「えっ?み、美代子?・・・ち、違うわよね?・・・えっ?どういうこと? 美代子なの?」と。

  • #517

    六輔 (日曜日, 26 7月 2020 21:01)


    たまたま店に客が一人も居なかったことに、珍しくマスターの高笑いが響き渡った。
    (藤原)「ほらねぇ、言ったろう、ヒナちゃん」
    (陽菜子)「はい」
    そんな二人の会話も皐月の耳には届かなかった。
    鳩が豆鉄砲を食ったような表情のまま陽菜子を凝視する皐月に、藤原が口を開いた。
    (藤原)「いらっしゃい、皐月ちゃん」
    (皐月)「えっ?・・・あっ、う、うん」
    (藤原)「紹介するよ。アルバイトとして働いてもらっている水嶋陽菜子さん」
    (陽菜子)「水嶋陽菜子です。はじめまして」
    (皐月)「あっ…し、重里…さ、皐月です。藤原君の亡くなった奥さんの…」
    (陽菜子)「マスターから話は伺ってます」
    (皐月)「そ、そうなんだ。でさ・・・声までそっくりなんだけど…」
    (藤原)「(笑)まぁ立ち話もなんだから、座ってよ、皐月ちゃん」
    (皐月)「う、うん」
    (藤原)「僕も初めてヒナちゃんを見たときには、驚いて声も出なかったよ」
    (皐月)「・・・だよね」
    (藤原)「前回、皐月ちゃんにアドバイスをもらって、直ぐ次の日に“アルバイト募集”の張り紙をしたんだ。そしたらその5分後だよ! ヒナちゃんが入ってきてさ…」
    (皐月)「こんなことがあるのねぇ。なんか私・・・」
    そう言った皐月の頬を一筋の涙が伝った。
    (皐月)「嬉しいのか、悲しいのかも分からない。けど、なんか涙がでちゃう…」
    陽菜子は、複雑な思いでいる皐月を気遣うように、
    (陽菜子)「いらっしゃいませ。どうぞ」
    と、柔らかな表情で水とおしぼりを置き、皐月に対する初めての仕事をこなしたのだった。
    (皐月)「ヒナちゃん?」
    (陽菜子)「はい」
    (皐月)「私もヒナちゃんって、呼んでもいい?」
    (陽菜子)「はい、よろしくお願いします」
    陽菜子の純粋無垢な笑顔は、若かりし頃の美代子そのものだった。

  • #518

    六輔 (月曜日, 27 7月 2020 19:46)


    想像してもらえば分かるだろう。
    いや、経験していない者には想像すること事態無理な話かもしれないが。
    失ってから7年が経っても変わらず大切に思う唯一無二の親友。
    その友にそっくりな人物が目の前に現れ、しかも、もと夫の元で働くようになったことに、どんな感情を抱けばいいのだろうか。
    皐月の心情は、まさに涙を流しながら言った言葉だった。
    「嬉しいのか、悲しいのかも分からない。けど、なんか涙がでちゃう…」と。

    まさに奇跡の出会いだと思えた。
    この時の皐月は、
    「きっと美代子が、私に引き合わせてくれたのよね。だったら、ヒナちゃんのことを大切に思わないとね」
    と、奇跡のような出会いを喜びに感じることを選んだのだった。
    その時以来というもの、「あんくる」に出かけていくことが皐月の中で倍の楽しみになっていった。
    陽菜子の出勤シフトに合わせ、さらには客が少ない時間帯を狙って出かけていくようになった。
    陽菜子といろんな会話をするために。
    そんな皐月の様子を見ていた藤原は、閉店間際になって最後の客が帰ると、
    (藤原)「今日はもう店じまいしよう」
    (陽菜子)「マスター、閉店の時間までにはまだ30分以上ありますよ」
    (藤原)『いいから!残りの時間、ヒナちゃんは皐月ちゃんの横に座って、話に付き合ってあげて。それがお仕事』
    (皐月)「え~ 藤原君、ありがとう」
    (陽菜子)「じゃぁ、マスターのご厚意に甘えて。皐月さんに聞いて欲しいことがあるんです~」
    (皐月)「あら、なにかしら?(笑)」

    昭和37年生まれの皐月と、昭和61年生まれの陽菜子。
    24もの歳の差があったが、陽菜子は皐月を実の姉のように慕い、皐月は陽菜子を実の妹の様に可愛がったのだった。

  • #519

    六輔 (火曜日, 28 7月 2020 20:14)


    月日が流れ、時は、平成19年、春。
    「あんくる」で働くようになってからまる2年を過ごしてきた陽菜子は、お茶の水女子大の3年生になろうとしていた。

    「ヒナちゃん…」
    『なんですか?マスター』
    「ヒナちゃんもいよいよ3年生だなぁ…」
    『あっ、はい。早いですよね。大学生になってからの2年間はあっという間でした』
    「3年生になったら就活が始まるんだろう?」
    『・・・はい』
    「いい機会だからはっきり言っておくよ。目標をもってこれまで頑張ってきたヒナちゃんだ・・・まずは就活を優先しなさい。ヒナちゃんには卒業するまでここで働いて欲しいと思うけど、そうもいかないだろうなぁ…ヒナちゃんの一生のことだから、いつでも辞めてもらって大丈夫だからね」
    『えっ?…』
    「もちろん辞めてほしくて言ってるんじゃないさ。なにせ、ヒナちゃんの休みの日には常連さんだって足が遠のくようになっちまったんだからな(笑)」
    『・・・マスター』
    「冗談だよ(笑)でもな、真面目に言うけど、就活が始まったらうちでのバイトは難しくなると思うから…寂しいけどな」
    『試験の前などはわがままを言わせてもらったりして、マスターには本当に感謝しています。マスターの言う通り、就活が始まると・・・自分の都合でシフトを決めさせてもらうようなわがままはこれ以上言いたくはないので、その時は・・・』
    「わがままなんてそんな寂しい言い方するなよ、ヒナちゃん。これまでのシフトの半分でも3分の1でもいいから、ヒナちゃんの都合で手伝いに来てくれるとありがたいんだけど」
    『本当ですかぁ?・・・ありがとうございます、マスター』

    陽菜子が学生である以上、いつかはここを辞めて就職するのだと分かっていながらも、亡くなった妻・美代子と一緒にいるような気持ちにさせてくれた陽菜子との別れを惜しむ藤原だった。
    そんな藤原は、意を決してずっと気にかけていたことを陽菜子に尋ねた。
    「なぁ、ヒナちゃん・・・ヒナちゃんの将来の目標は、大学に入った頃と今も変わっていないのかい?」
    『・・・はい』
    藤原は、「そっか…」とだけ言ってゆっくりと息を吐き黙り込んだのだった。

  • #520

    六輔 (水曜日, 29 7月 2020 20:10)


    その日は、美代子の月命日だった。
    皐月は、陽菜子がテスト前で2週間ほどシフトを外れていることを知りながらも、「あんくる」にやってきた。
    「こんにちは、藤原君」
    『あれっ? 今月は来ないのかと思っていたよ』
    「え~ どうして?」
    『だって、ヒナちゃんがお休みしているから…』
    「うん、まぁそうねぇ、ヒナちゃんがお休みでつまらないけど…それでも月に一度は藤原君が淹れてくれた珈琲を飲みたいからね!」
    『へ~ぇ、珍しいこと言ってくれるね(笑)』
    この日の皐月は、墓前で美代子に誓った“藤原を見守る”という約束を果たすために「あんくる」に訪れていたのだった。

    その日の「あんくる」は、陽菜子が休んでいることが理由ではなかったが、いつもであれば常連客で込み合っているはずの時間帯に客は皐月一人だった。
    藤原はこの時とばかりに陽菜子の話を始めた。
    『ねぇ、皐月ちゃん…』
    「うん?なぁに? 藤原君」
    『ヒナちゃんのことでちょっと話があるんだけど…』
    「ヒナちゃん? ヒナちゃんがどうかしたの?」
    『おぅ、さすがにヒナちゃんの話となると食いつきが違うね』
    「茶化さないでいいから!ヒナちゃんがどうかしたの?」
    『実は・・・こないだヒナちゃんに話したんだよ。就活が忙しくなったら、ここを辞めてもらっても構わないよって』
    「えっ?ヒナちゃんから辞めたいって言ってきたの?」
    『・・・違う』
    「えーー!!! じゃぁどうしてそんなこと言ったの?一生懸命に働いているヒナちゃんが可哀想だよ!それに・・・私はヒナちゃんと会えなくなるのは嫌だよ! どうしてそんなこと言ったのよ、藤原君!」
    そう藤原に食って掛かった皐月だったが、頭の中ではちゃんと理解できていたのだった。
    藤原は真っ当な話をしているのだということを。

  • #521

    六輔 (木曜日, 30 7月 2020 19:33)


    藤原の話に食って掛かった皐月だったが、直ぐに冷静を取り戻し、至極申し訳なさそうな表情を浮かべて自ら謝った。
    「・・・ごめん、藤原君」
    『…皐月ちゃん』
    「藤原君がヒナちゃんにどうしてそう話したのか…その理由はなんとなくは分かっているつもりなんだけど・・・」
    『…うん』
    「ヒナちゃんと会えなくなる日が来るってなると、どうしてもね」
    『…そうだよね。もちろん皐月ちゃんの気持ちも分かっているつもり。…だけどね。自分でも経験してきたことだから分かるんだけど、就活は本当に大変なんだ。それを知っているからこそ・・・ヒナちゃんのことを思うとどうしてもね…』
    「うん、そうだよね。ごめん藤原君」
    『そんな謝らないでよ。でさ、皐月ちゃん…』
    「はい」
    『皐月ちゃんは、ヒナちゃんがどんな職業に就きたいと思っているのか知っているの?』

  • #522

    六輔 (金曜日, 31 7月 2020 21:03)


    皐月は、藤原の問いに笑みを浮かべて答えた。
    「うん。ヒナちゃんから一度だけ聞いたことがあるの。詳しく聞いた訳じゃないけど・・・偶然とはいえ、すごいよね。藤原君と同じ職業を目指しているなんてさ」
    『僕と同じって言っても “もと” だけどね』
    「あっ、ごめん…“もと”だね」
    『報道機関に就職したいっていう人は、今の時代でも多いと思うんだ。その中でも新聞記者になるには一番狭き門を突破しなければならないんだよ』
    「そうなんだぁ。でもヒナちゃんはお茶の水女子大だったわよね? すごい大学でしょ! 成績も優秀みたいだし…あっ、もしかして記者になるには女性だと不利なの?」
    『僕が就職した時代は圧倒的に男性だけの世界。今は随分と女性も増えているようだけど…』
    「そうなんだぁ」
    『でさ、実は皐月ちゃんにお願いしたいことがあるんだ』
    「私にお願い? なに?・・・ヒナちゃんのことで?」
    『・・・うん』
    皐月はその時の藤原の返事の仕方に、いったい何をお願いされるのかと一抹の不安を感じながら次の藤原の言葉を待ったのだった。

  • #523

    六輔 (土曜日, 01 8月 2020 19:18)


    藤原は、漂渺とした、それが藤原の最も真面目なときの表情でもある顔つきをして話を続けた。
    『もしかすると美代子から聞かされて皐月ちゃんも知っているかもしれないけど、新聞記者の仕事はとても大変なんだ』
    「うん、藤原君の仕事ぶりは、美代子から何度も聞いていたわよ。とても大変なお仕事なんだなぁって、そう思っていつも美代子の話を聞いていたよ」
    『“記者の仕事は夜討ち朝駆け”と言われるように、長い労働時間や不規則な生活を強いられるし・・・ジャーナリストとしての情熱がなかったら務まらない仕事なんだ』
    「そうなのねぇ」
    『あっ、ヒナちゃんにはそんな情熱はないだろうっていう話じゃないんだよ』
    「…うん」
    『記者の世界にもいろいろあってさ・・・記者を取り巻く環境も変わっちゃって・・・不祥事が起こって、謝罪会見が行われるたびに、尊大な物言いをして正義を振りかざして会見者を断罪する記者も増えて・・・もちろん不祥事については謝罪してもらわねばならないし、対策が不十分なら会見者が責められても仕方のないことだよ。でもそのことは、会見者の人間性までを否定していいということではないし・・・そこを履き違えている記者もたくさんいるんだよ。自分が記者をやっていた時代にも、そういう記者がいて、嫌気がさしそうになったぐらいだからね』
    「なんか、私には分からない世界の話だね」
    『…うん。あっ、もちろんヒナちゃんがそういう記者になりそうだよっていう話をしている訳でもないからね』
    「藤原君は、そういう世界に飛び込んでいこうとしているヒナちゃんのことが心配なんだね?」
    『・・・うん』

  • #524

    六輔 (日曜日, 02 8月 2020 19:15)


    表情を曇らせる藤原に皐月は柔らかな表情でこう言った。
    「ヒナちゃんなら大丈夫なんじゃないの? だって、すごくしっかりした女の子なんだもの」
    『…そうだね』
    「ヒナちゃんと一緒にいるとさ、まるで美代子がヒナちゃんの中で生きているかのように思えるときがあるの。時々、すごく大人びたことを私に言ってきたりして・・・でも、それって私のことをちゃんと考えて言ってくれていることなのよね」
    『…そっかぁ』
    「ところでさ、記者の仕事って、すごく遣り甲斐のある仕事なんでしょ?」
    『うん』
    「美代子がよく話していたわよ。藤原君は、ジャーナリストとしてのプライドをもって記事を書いている“素晴らしい記者だ”ってね」
    『えっ?美代子がそんなふうに?・・・そっか。今になって聞かされてもとても嬉しいよ、皐月ちゃん』
    「うん。でさ、ヒナちゃんも記者を目指しているからには、それなりの目標があって頑張っているんだろうからさ・・・ヒナちゃんならきっと大丈夫だよ」
    『そうだね、そう願いたいんだけど…』
    「うん?何か心配なことがあるの?あっ、それとさっき私にお願いしたいことがあるって言ってたけど…なに?」

  • #525

    六輔 (月曜日, 03 8月 2020 20:20)


    藤原は表情を曇らせて話し始めた。
    『僕がどうしてこんな話をしたかっていうとね…ヒナちゃんのことが真面目に心配になったからなんだ』
    「だから何が心配なの? ヒナちゃんには記者は務まらないっていうの?」
    『そうじゃないよ。ヒナちゃんは大学のサークルでもジャーナリズム研究会に入って、記者になるための猛勉強をしているし、記者になる能力は十分にあると思うよ』
    「なら、“もと”記者として、記者としての心掛けをヒナちゃんに伝授してあげればいいじゃない」
    『そうだね・・・ほんと、そうしてあげたいよ。だからと思って、こないだヒナちゃんに聞いたんだ・・・どんな記者になりたいの?って』
    「ヒナちゃんはどんな記者を目指してるって?」
    『全国紙の記者』
    「全国紙?って、サンケイとか毎日とか…そう言った新聞のこと?すごいじゃない!」
    『いやっ、それはいいんだ。ただ、一つ気になること言ったんだよ』
    「なに?」
    『絶対に“社会部”の記者になるって言ったんだ』
    「社会部?…私にはよく分からないけど・・・社会部って大変なところなの?」
    『記者の所属は大きく分けて社会部、経済部、政治部、文化・科学部っていう4つの部署に分かれるんだけど・・・そのうち社会部が担当するのは事件、事故、裁判、不祥事からイベントまで幅広いんだよ。社会部の記者を色付けするとしたら、ペンで社会の不正を正すことを至上命題とする熱血肉食タイプって感じなんだ』
    「え~、熱血肉食タイプ? ヒナちゃんからは全く想像がつかないよ」
    『そうだよね。よく刑事ドラマに出てくるのが社会部の記者だから、“新聞記者”といえばこのタイプがイメージされやすいね。動物に例えれば、獲物を求めて荒野をどこまでも駆け巡る“オオカミ”ってところかな』
    「えっ?…ヒナちゃんとオオカミじゃ、全く結びつかない!」
    『…だよね。だから社会部の実情を僕が知っている範囲で話してあげたんだ。警察や検察、裁判所などを担当して、急な発表や事件に備える「泊り番」をルーティーンでまわして、同じ記者でも他の部と比べても激務のポジションなんだよって』
    「え~・・・そ、そんなに大変な部署なの?」
    『うん。でも、ヒナちゃんはそういうことも全部分かっていて、それでも絶対に社会部の記者になります!って僕に言ったんだ』
    「想像つかないよ、藤原君。あんな気持ちの優しいヒナちゃんが“熱血肉食タイプ?動物に例えたら“オオカミ?”・・・あり得ないよ」
    『そうだね』
    「何か理由があってのこと?・・・藤原君は理由を聞いたんでしょ?」
    『うん・・・それがね…』

  • #526

    六輔 (火曜日, 04 8月 2020 19:55)


    二ヶ月ぶりに「あんくる」で陽菜子に会った皐月は、帰り際に陽菜子のことを食事に誘った。
    「テストどうだった?」
    『今回は頑張った甲斐あって、まぁまぁだったと思います』
    「そう、良かったね」
    『はい!』
    「じゃぁ、頑張ったご褒美に食事でもどう? ご馳走してあげる」
    『ホンとにぃ? 行きたいです、皐月さん!』
    「バイトのシフトが入っていない日はいつ?」
    『えっと・・・あっ、今度の土曜日が空いてます』
    「その日は私も都合いいわよ! じゃぁ、今度の土曜日に決めちゃう?」
    『はい!』
    「何が食べたい? イタリアン?それとも和食?」
    『えっと、えっとぉ…う~ん・・・ねぇ皐月さん、わがままを言ってもいいですか?』
    「えっ? もちろんいいわよ!」
    『わたし…皐月さんと一度でいいから一緒にお酒を飲んでみたいです!』
    「お酒?そっか。でもなぁ~私はあまり飲めないけどいい?(笑)」
    『私もそんなにたくさん飲める訳じゃないですよ(笑)』
    「じゃぁそうしましょ! どこか行きたいお店ある? ワイン?それとも居酒屋さんとかの方がいいかな?」
    『皐月さんにお任せします。皐月さんの行きつけとか…』
    「お酒を飲めるお店で“行きつけ”なんてないわよ(笑)どうしよっかなぁ・・・」

  • #527

    六輔 (水曜日, 05 8月 2020 23:17)


    「あっ・・・」
    と、皐月は声を発し、古びた居酒屋の前で立ち止まった。
    そして、昔の記憶を辿るように、隅々まで居酒屋の店構えを凝視し、陽菜子に向かってこう言った。
    「間違いないわ、ここよ!」
    『ホンとですか?』
    「うん、変わってない! お店の名前もあの時のまんま!」
    『良かったですね、皐月さん』
    「うん。・・・ここでいい?…ヒナちゃん」
    『はい、もちろんです!』
    と、皐月と陽菜子は居酒屋の前で、笑顔で見つめあった。
    そこは24年前、皐月が20歳のときに矢神達洋に連れられて来た居酒屋だった。
    あの時以来、一度も足を運んでいなかったため、店が続いているかどうかも分からないまま訪れたが、昔のまま営業していたことに歓喜の声を上げた皐月だった。

    少し緊張しながら暖簾をくぐって店の中に入ると、「いらっしゃい!」と、威勢のいい声が二人を出迎えた。
    その声の主に視線をやった皐月は、思わず声を発していた。
    「あっ!

  • #528

    六輔 (金曜日, 07 8月 2020 20:41)


    店に入って店長を見た瞬間、24年前の記憶が鮮やかに蘇ってきた。
    「あっ、あの時の…」
    二人を出迎えた「いらっしゃい!」の声の主は、24年前に一人で店を切り盛りしていた店長、そう、達洋が“先輩”と言って慕っていた男だった。
    24年も前のことだが、不思議と覚えていた。
    「店長さん、あの時と変わってない」
    そう心の中でつぶやいた皐月だった。
    もちろん店長が24年前に一度だけ来た皐月に気づくことはなく、二人は店の中に案内された。
    「座敷席が空いていますから、お好きなところへどうぞ」
    『あっ、はい』
    直ぐにあの時に達洋と座った席が空いていることが分かった皐月は、迷うことなくその席に陽菜子を誘導した。
    「ここでいい?」
    『はい』

    間髪を入れずにアルバイト風の店員が注文を取りに来た。
    「いらっしゃいませ!先にお飲み物をお伺いします。何にしましょうか?」
    当然、居酒屋に慣れていない二人は、
    「ごめんなさい、あまりこういうお店に慣れていなくて・・・直ぐに決めますのでちょっと待っててください」
    と、丁寧に店員を追い返した。
    二人は一つのメニューに顔を二つ並べ、その時間を楽しむかのように端から端まで見渡してようやく決めたのだった。
    「レモンハイ…うすめで!・・・ヒナちゃんは?」
    『あっ、私も同じです!もちろん私もうすめで!(笑)』

  • #529

    六輔 (土曜日, 08 8月 2020 20:01)


    「かんぱ~い」
    グラスを重ね、二人はそれをゆっくりと口元に運んだ。
    酒好きの者であれば、グラスの半分ほど飲み干してしまうところだろうが、お酒にあまり強くない二人は、一口飲んで素直な感想を口にした。
    「おっっっいし~~~!!」
    『美味し~いで~す!』
    グラスを置き、箸を手にして“お通し”に手を伸ばそうとした陽菜子に対し、皐月はレモンハイの入ったグラスを見ながら、得意そうな笑みを浮かべてウンチクを語りだした。
    「私ね、あまりお酒は飲まないんだけど、いろんな雑学だけは知っているのよねぇ」
    『お酒の?ですか?』
    「そう。例えば…これ。これはレモンハイでしょ? レモンハイの他にレモンサワーって呼ぶ物もあるわよね。レモンハイとレモンサワーって同じだと思う?」
    『えっ?レモンハイとレモンサワーですか? ・・・呼び方が違うだけですよね?』
    「それが違うのよ。レモンハイはチューハイにレモンを入れたものよね。チューハイって、焼酎ハイボールの略だから、焼酎を炭酸水とかで割ったもの。それに対してサワーは、ウォッカなどのスピリッツをソーダで割ってレモン果汁を加えたものなのよ。全く別の飲み物なの」
    「・・・知らなかったです」
    『以外と、みんな知らないのよね』
    と、箸を持ったままお預けの陽菜子に気づいた皐月は、
    「あっ、ごめんゴメン!美味しいお料理が冷めちゃうわね」
    と、笑みを浮かべ運ばれてきた料理に舌鼓を打ちながら二人は談笑を続けた。

  • #530

    六輔 (日曜日, 09 8月 2020 20:45)


    陽菜子は少しお茶目な表情を浮かべて尋ねた。
    『皐月さん…』
    「うん?」
    『そろそろ話してくださいよ…このお店を選んだ理由』
    「えっ? ここを選んだ理由?」
    『はい。だって、まだあるかどうか分からないけど、行ってみたいお店があるの!って、なんかとっても意味ありげに話していましたよ!』
    「えぇ~意味ありげに?・・・そっか。まぁ、私の数少ないボーイフレンドとの思い出の店だからね!」
    『えーーー!!皐月さんのボーイフレンド? 絶対に聞きたいです!』
    「ボーイフレンドって言っても…そうね、ただの同級生よ」
    『同級生?』
    「うん、高校時代のね」
    『皐月さんは、そのボーイフレンドのことが好きだったんですか?』
    「だから、ボーイフレンドじゃなくて同級生だって。好きだったかって?そうねぇ・・・」
    『もったいぶらずに早く話してください!』
    「分かったわよ。もぉ、まったく(笑) 私と美代子が若い頃に一緒に暮らしていたことは知っているわよね?」
    『はい』
    ・・・と、皐月は、その居酒屋を選んだ理由を説明するのに、美代子との共同生活の話から昔を懐かしむように語っていった。
    そして、矢神達洋とコンビニで出会い、その足でこの居酒屋に来たことまで話したところで、ふとあることに気づいたのだった。
    「あっ!・・・もしかしたら…」

  • #531

    六輔 (月曜日, 10 8月 2020 18:58)


    達洋の気持ちも知らずに頬を叩いてしまったことをずっと後悔してきた皐月は、達洋との再会を願って、5年ごとに開かれてきた同窓会に毎回参加してきた。
    高校時代の仲間たちとの再会は、都会で暮らす皐月の心を癒してくれた。
    ただ、その仲間たちの中に達洋の姿を見つけることは出来なかった。
    達洋とのことをずっと引きずってきた皐月が、陽菜子の“一緒に飲みたい”という願いを叶えるために選んだ居酒屋。
    店に入って直ぐに昔の記憶が鮮やかに蘇ってきた。
    そしてこの時の皐月が気づいたのは、ここの店長なら達洋の連絡先を知っているかもしれないということだった。
    そう考えると、いてもたってもいられなくなった皐月は、陽菜子との会話を中断してでも店長に確認したいという衝動にかられたのだった。
    「ヒナちゃん、ちょっとゴメン!」
    『えっ?どうしたんですか急に』
    「ちょっと待ってて!店長さんと話してくる!」
    『はっ?』
    立ち上がった皐月は、カウンター席の前まで行って、その向こう側にいる店長に声をかけた。
    「すみません…」
    『はい、なんでしょう?』
    「お仕事中にすみません。わたし、重里といいます。ちょっとお尋ねしたいことがあるんですけど…」
    皐月の声に店長は、料理を作る手を止め、顔を上げて皐月の顔をまじまじと見た。
    すると、全く予想していなかった言葉が店長から返ってきたのだった。

  • #532

    六輔 (火曜日, 11 8月 2020 20:15)


    皐月に向かって店長はこう言ったのである。
    『聞きたいこと?…って、もしかして達洋のことかな?』
    「…えっ?」
    あまりにもの突然の、そして予想もしていなかった言葉に、その意味を直ぐには理解できなかった皐月だったが、ようやく頭の中で消化した。
    「えっ? それってもしかして私のことを覚えているってことですか?」
    『はい』
    「だって、この店には20何年も前にたっちゃん…あっ、矢神君と一緒に一度だけ来ただけなんですけど…」
    驚く皐月に店長はこう答えた。
    『達洋がここに連れて来た唯一の女性だからね!』
    「…唯一の?」
    『はい。商売柄、お客様の顔はなるべく覚えるようにしているので。それに…あっ、いやっ・・・はい』
    この時、店長が言いかけて辞めたことを皐月は直ぐに察した。
    「店長さんは、きっと私がたっちゃんの頬を叩いたことも覚えているんだわ・・・っていうか、だからこそ私のことを覚えていたってこと?・・・きっとそうよね」
    そう考えると、顔が紅潮するのが分かった。
    もぉ、こうなれば流れで全てを話した方がいいと考えた皐月は、自分の願いを店長にありのままぶつけたのだった。

  • #533

    六輔 (水曜日, 12 8月 2020 20:03)


    「店長さん…」
    『はい』
    「あの時は、ご迷惑を掛けてすみませんでした」
    『迷惑?・・・何かありましたっけ?』
    「えっ?…あっ、はい…私、たっちゃんのことを…」
    と、店長は、そこまで言いかけた皐月を制止して、優しい表情に変えてこう言ったのである。
    『達洋は、不器用な奴だったからね』
    「・・・店長さん」
    店長が言った“奴だった”の“だった”という過去形の表現が気になりながらも、皐月はストレートに尋ねた。
    「わたし、あれから24年間、ずっとたっちゃんに会えずにいるんです。もし、たっちゃんの連絡先を知っているなら、教えていただけませんか?」
    『あいつに会ってどうしたいんだい?』
    「謝りたいんです。叩いてしまったこと、たっちゃんの気持ちを理解出来なかったことを」
    『…そっか』
    店長は、小さく「ふぅ」と息を吐いてこう言った。
    『実はね・・・』

  • #534

    六輔 (木曜日, 13 8月 2020 19:57)


    店長の答えは『僕も知らないんだ』だった。
    さっきまでは、達洋が可愛い後輩であるかのように話していた店長が、「僕も知らないんだ」と言ったあとからは、人が変わったように口調が荒くなったことに、皐月はあらためて尋ねた。
    「店長さん・・・矢神君のこと、何か知っているんですか?」
    『う~ん、あいつは俺の可愛い後輩だから、悪くは言いたくないんだけど・・・』
    「何か知ってるんですね…教えてください」
    『あくまで、噂だよ。そう理解してくれるなら話してもいいけど…』
    「はい、噂なんですよね。矢神君にどういう噂があったんですか?」
    店長は、しぶしぶこう答えたのだった。
    『なんか、どこかの宗教団体に入信したとかって』
    「…宗教?」
    『うん。さっきも言ったように、あくまで噂だからね。周りの誰にも何も話さずに、宗教団体に入信して、急に姿を消したらしいんだ・・・あいつが宗教に関わっていたなんて聞いたことがなかったから、嘘だろうとは思っているんだけど…でも、実際に俺にも何も言わずに突然姿を消したんだよ。ずっと可愛がってきたのにさ…なんの前触れもなしにね』
    皐月は、店長の話に言葉を失った。
    「たっちゃんが?・・・」

  • #535

    六輔 (金曜日, 14 8月 2020 23:43)


    頭の中が真っ白になった。
    あれだけ「仲間」という存在を大切にしていた達洋が、周りに何も話さずに姿を消したということが信じられなかった。
    「たっちゃんが宗教団体に?」
    何をどう考えても、達洋と宗教が結びつくことはなかった。
    だが、よくよく考えてみれば、宗教団体の中で生きていくこと事態、決して悪いことでもなく、個人の自由だと思えた。
    「たっちゃんの人生だもんね」
    そう思うことで、達洋を責める気持ちはなくなった。
    だが、どうしても何の前触れも無しに、親しい者に何の説明もなく姿を消したことだけは許す気にならなかった。
    「私たちとはもう住む世界が違っちゃったのね・・・たっちゃんは」
    そう考えたことで、24年間もずっと願い続けてきた“達洋との再会”という思いも同時に消えて無くなった気がした。
    「たっちゃんのことは、もう忘れよう」と。

  • #536

    六輔 (土曜日, 15 8月 2020 20:38)


    皐月は、陽菜子のところに戻るまでのわずかな時間で気持ちを切り替えた。
    「今日は、ヒナちゃんの話を聞くためにここに来たのよね。だったら、たっちゃんのことはもう考えないようにしなきゃ!」
    そう、心の中でつぶやきながら陽菜子のところに戻ってきた。
    そして何事もなかったかのように話を続けようとしたのだが、勘のいい陽菜子にはそうは問屋が卸さなかった。
    『どうしたんですか?皐月さん』
    「う…うん。ちょっと店長さんに聞きたいことがあってさ…」
    『さっきの店長さんの口ぶりだと、皐月さんのことを覚えていたんですね?』
    「えっ?・・・聞こえてたの?」
    『…はい。聞き耳を立てていた訳じゃないですけど、この距離ですから・・・でも、すごい店長さんですね。だって、20何年前に一度来ただけの皐月さんを覚えていたんですよね?』
    「う…うん」
    『20年前って相当前のことですよねぇ…それでも皐月さんのことを覚えていたっていうことは・・・よほど印象に残った何かがあったってことなんですか?』
    的を得た鋭い質問攻めに、皐月は苦笑いするしかなかった。
    「新聞記者を目指しているだけあって、さすがに鋭いわね」と。
    白旗降参の皐月は、その居酒屋であったことの全てを陽菜子に話したのだった。

  • #537

    六輔 (日曜日, 16 8月 2020 20:29)


    「・・・って言われてさ…で、わたしカッとなって、たっちゃんのことを叩いちゃったの」
    『わぁ~ 皐月さんからは想像できないです!・・・あぁ、でも…なるほど』
    「え、なにぃ?」
    『そんなことがあったからですかね?店長さんが皐月さんのことを覚えていたのは…』
    「やっぱりそう思う?・・・」
    『・・・はい』
    「・・・そうよね(泣)」
    『えっ?でも、それでどうしてまたこの店に来ようと思ったんですか? そんな軽々しく女の子をお持ち帰りしようとする同級生のことなんか、直ぐに忘れようとするのが普通なんじゃないんですか?』
    「それがね・・・」

    それから皐月は、達洋が自分と美代子のためにピエロになったのだと陽菜子に話をした。
    『そうだったんですかぁ。へぇ~ 皐月さんの年代の人って、なんかいいですよね』
    「どうして?」
    『だって、そんな男気のある人なんか、私の周りには一人も居ないです!』
    「男気かぁ・・・そうねぇ。ずっとそう思って…たっちゃんに会いたいって思ってきたんだけどね…」
    『・・・??皐月さん? それ、どういう意味ですか?』

  • #538

    六輔 (月曜日, 17 8月 2020 19:30)


    陽菜子の問いに対して皐月は、店長から聞かされたことをそのまま説明し、それがために達洋に会いたいという気持ちが消えて無くなってしまったのだと答えた。
    そんな皐月の話を聞かされた陽菜子は、これまでの穏やかな表情を一変させてこう言ったのだった。
    『皐月さん!』
    「…えっ? ど、どうしたの?急に怖い顔して」
    『たっちゃんっていう人は、ずっと会って謝りたいって思っていた人なんですよね?』
    「うん、そうよ」
    『それがどうして店長さんの話を聞いただけで、その気持ちが変わっちゃうんですか?』
    「えっ?だって・・・だってさ、たっちゃんってすごく「仲間」を大切にする人だったの。それなのに周りの誰にも何の話しもしないで、突然姿を消しちゃったなんてさ、自分勝手よね・・・なんかがっかりしちゃったの。それで…」
    『ねぇ、皐月さん…』
    「うん?」
    『店長さんは何て言ったんですか? 噂だけどねって言っていたんですよね?』
    「えっ?…そ、そうよ。あくまで、噂だよって。でもね、実際に店長さんにも何も告げずに消えちゃったんですって」
    『店長さんから“噂だけどね!”と、言われていながら、皐月さんはそれが真実だと決めつけるんですか? もちろん、真実なのかもしれませんけど…。でも・・・でも実際のところは分からないですよね?何かの事情があってのことかもしれないし、何より、皐月さん自身で確かめた訳じゃないですよね?』
    「そ、それはそうだけど・・・」
    『皐月さん・・・わたし、悲しいです。人から聞かされた噂話を、あたかもそれが真実であるかのように信じ込んで、自分の意思を変えてしまうなんて…』
    「・・・ヒナちゃん」
    皐月は、言葉を失った。

  • #539

    六輔 (火曜日, 18 8月 2020 20:29)


    沈黙の中、二人がほぼ同時に話し始めようとしたが、ほんのわずかだけ陽菜子が先に口を開いた。
    『ごめんなさい…皐月さん。生意気なことを言って』
    「あっ、…いやっ、そんなことない。謝るのは私の方。だってヒナちゃんの言う通りだもの」
    『でも・・・』
    「どうしてだろう…これまで私は、人の噂話になんかで自分の考えを変えたりするようなことはしない!って、ずっと自分を貫いてきたつもりだったのに…」
    『きっと、それだけショックが大きかったんだと思います』
    「そうねぇ。でも、ヒナちゃんに言われて目が覚めたわよ! 自分で真実を確かめるまで、噂話を信じたりしない!もし噂が真実だったとしても、何か事情があったのかもしれないもんね! どちらにしても自分で確かめるまでは…」
    『はい』
    「どっちが年上だか分かんないね!(笑)ごめんなさい…っていうより、ありがとう、ヒナちゃん。ヒナちゃんに言われなかったら、大切な友達を私の方から失うところだった」
    言われても仕方のないことだと思えたが、それにしても陽菜子がこれだけ強い口調で言ったことに違和感を覚えずにはいられなかった。
    「どうして、あんなに怒ったんだろう…ヒナちゃん」
    陽菜子がどうして執拗に拘ったのか、皐月にはその理由を知る由もなかったのだった。

  • #540

    六輔 (水曜日, 19 8月 2020 19:02)


    皐月に対して強い口調で意見した陽菜子は、これまで皐月が見て来たとても優しい陽菜子とはまるで別人のようだった。
    それでも、自分の考えをしっかりと伝えて来てくれたことが逆に嬉しく感じた皐月だった。
    皐月は、心の中でこうつぶやいた。
    「もし、美代子がここにいてくれたら・・・きっとヒナちゃんと同じようなことを私に言ったわよね」と。
    皐月は気持ちを切り替え、その日、陽菜子を誘った一番の目的を果たすために話し始めた。
    「ねぇ、ヒナちゃん・・・」
    『はい』
    「マスターから聞いたわよ・・・就活を優先して「あんくる」を辞めてもいいよって言われたんですって?」
    『・・・そうなんです』
    「ヒナちゃんは分かっているのよね?マスターは、ヒナちゃんの将来のことを考えて言ってくれたっていうこと」
    『はい、もちろん分かってます。それにマスター言ってくれたんです。本心は辞めずにずっといてほしいって』
    「そっか、ずっとかぁ・・・マスターらしいな(笑)。でもねぇ・・・」
    『はい・・・ずっと「あんくる」でアルバイトっていう訳にはいかないですもんね』
    「そうよねぇ。・・・ねぇ、ヒナちゃん…」
    『はい』
    「ところでさ、ヒナちゃんが目指している就職先って、前に一度聞いたときから変わってないの?」
    『はい! ずっと記者になることを目標に頑張ってきました』
    「そっか」
    と、口を閉ざし次の質問をするべきかと戸惑っている様子の皐月に、陽菜子はこう言った。
    『皐月さん…』

  • #541

    六輔 (木曜日, 20 8月 2020 19:01)


    それまで皐月とラフに相対していた陽菜子が、急に姿勢を正して話し始めたのだった。
    『皐月さん…』
    「うん?」
    『私、今日はとっても嬉しいです』
    「えっ?何が?」
    『こうして、皐月さんと一緒にご飯を…っていうか、私のわがままでお酒まで付き合ってもらえて…』
    「わがままなんかじゃないわよ」
    『ずっとお姉さんのように慕ってきました。とても妹思いの優しいお姉さんとして…』
    「それは私も一緒よ。初めは親友の美代子にそっくりだっていうことで、ヒナちゃんと美代子を重ねて見てきちゃったところもあったのが正直なところだけど・・・でも今は全然違う。こんな言い方して、もしかして嫌がられちゃうかもしれないけど・・・親友のような・・・一人の大人の女性として、私にとってとっても大切な存在の人になっているの」
    『皐月さん・・・そんなふうに思ってもらえて嬉しいです』
    「だから、変にかしこまったりせずに付き合ってほしいなって思ってるのよ」
    『はい』
    「えっ?でもどうして急にそんな話を始めたの?」
    『いやっ、単純に誘っていただいたことにお礼が言いたかっただけです。・・・でも』
    「でも?」
    『皐月さん・・・今日、私を誘ってくれたのは、マスターに頼まれたからなんですよね?』
    「えっ?どうして、そんなこと言うの? 私はそんなことひと言も言ってないわよ!」
    『もちろん、今の皐月さんの話でマスターに頼まれたからだけではないと分かりましたけど…でも・・・皐月さん、私に聞きたいことがあるんだろうなって・・・それって、マスターに聞いて欲しいって頼まれたことなんじゃないかなって思ったんです』
    ・・・図星だった。

  • #542

    六輔 (金曜日, 21 8月 2020 22:07)


    実は、その日皐月が陽菜子を食事に誘いだした理由のうちの半分は、陽菜子の言う通り藤原に頼まれたためだった。
    皐月と藤原の間では、陽菜子の就職のことでこんな会話があったのだった。
    「どうしてヒナちゃんは社会部の記者になりたいの?」
    『僕もそれが不思議でさ・・・本人に尋ねたんだけど、うまくかわされちゃって…』
    「教えてくれないの?」
    『…うん。何度尋ねても教えてくれなかった。特に理由はないですよ!って。でも、僕には何か特別な事情があるように思えてならないんだよ』
    「特別な事情?」
    『・・・うん。どんな事情なのかは分からないけど、ヒナちゃんにとってとても大切な何かがあるように思えてならないんだ』
    「記者の“カン”ってやつね!」
    『だから…“元”だって』
    「あっ、ごめんゴメン」
    『何か事情があって、だからあそこまで言い切ったんだと思う。絶対に社会部の記者になります!って』
    「そうなんだぁ」
    『でね、皐月ちゃん…皐月ちゃんにお願いしたいんだよ』
    「なにを?」
    『ヒナちゃんが、どうして社会部の記者になりたいと思っているのかを聞き出して欲しいんだ・・・僕の思い過ごしならいいんだけど…もし、何かを背負って社会部の記者になろうものなら・・・心配なんだよ、ヒナちゃんのことが』
    「元、敏腕記者の藤原君がそう思うんだから、きっと何か事情があるのよね。藤原君に話せないことなら、私にも話してくれないかもしれないけど…」
    『女の子同士なら、何か話してくれるかもしれないし…』
    「そうね、同性なら話せることもあるかもしれないわね。分かった。やるだけやってみる!」
    皐月と藤原の間でそういう会話があって、その日を迎えていたのだった。

  • #543

    六輔 (土曜日, 22 8月 2020 21:05)


    『皐月さん・・・今日、私を誘ってくれたのは、マスターに頼まれたからなんですよね?』
    陽菜子にそう言われた皐月は、直ぐに観念し全て正直に話すことを選んだのだった。
    「・・・うん、それもあった!っていうのが正直なところかな。もちろん、一番はヒナちゃんと食事に来たかったからだよ」
    『良かった。そっちが一番って言ってくれて』
    「もちろんよ。でもね、マスターにお願いされたのも事実。マスター、すごく心配してたよ…ヒナちゃんのこと」
    『マスター、心配し過ぎなんですよ(笑)記者の仕事がどれほど大変なのか…覚悟は出来ていますから』
    「うん・・・私には分からない世界のことだけど、もと敏腕記者だったマスターとしては、とても大変な世界に飛び込もうとしているヒナちゃんのことが心配でならないのよ・・・親が子を心配するようにね」
    『はい、心配してもらえることはとても有難いことです』
    「でね、ヒナちゃん・・・」
    『…はい』
    「マスターが一番心配しているのはね…」
    『私、知ってま~す!』
    「(笑)えっ?…」
    『私が社会部の記者を目指しているって言ったからですよね』
    「そう、その通り!」
    『マスター、珍しくしつこく聞いてきましたから…どうして社会部なんだ?って』
    「うん。なんか、とても大変な部署らしいわね。そんな大変な部署をどうして目指しているの?」
    『単純な理由です』
    「単純?」
    『はい。だってカッコいいじゃないですかぁ…事件を追って、刑事に詰め寄ったりして…』

    その後、何度か真意を確かめようとした皐月だったが、結局のところ、陽菜子が本当の理由を話すことは無かったのだった。

  • #544

    六輔 (日曜日, 23 8月 2020 19:31)


    陽菜子は、大学3年生の一年間、希望する新聞社のインターンシップに積極的に参加した。
    そしていよいよ4年生になり、梅雨入りの声を聞く頃には、各社とも一斉に採用試験が始まった。
    新聞社の採用試験は、多くのところで年2回行われ、募集職種も一般記者、営業職、技術職など多岐に及んだ。
    陽菜子は、希望する新聞社に「一般記者枠」でのエントリーシートを提出し、一次試験に備えた。
    幸い、インターン枠の選考に入ることが出来た陽菜子は、一次試験の筆記試験を免除された。
    後になって知ったことだが、一次の筆記試験には、募集人員若干名に対して500人を超える受験者が会場に押し寄せていた。
    インターンシップで頑張ったおかげであると思うと同時に、これから始まる二次試験の厳しさを痛感した陽菜子だった。
    二次試験は、面接が待ち受けていた。
    しかも面接は、一次審査の個人面接、それを通過した者が二次審査の集団面接へと進み、そして最後には三次審査としての役員面接まであった。
    リクルートスーツに身を包んだ陽菜子は、新卒社会人に相応しい薄化粧で一次審査の個人面接に臨んだ。

  • #545

    六輔 (月曜日, 24 8月 2020 23:35)


    陽菜子は大学3年生の一年間、「あんくる」のアルバイトを続けながらインターンシップに一生懸命に通った。
    その甲斐あって、一次審査の個人面接は、思いのほかスムーズに通過することが出来た。
    そしていよいよ、陽菜子が一番の難関と考えていた二次審査の日になった。
    二次審査は集団面接であり、自分の性格をどちらかといえば引っ込み思案の方だと自覚していた陽菜子は、当然のように自己アピールが重要となる集団面接を苦手としていた。
    その当時、集団面接を取り入れ始めた会社が増えていて、陽菜子が受験した新聞社も例外ではなかった。
    集団面接が個人面接と大きく違うところは、他の就活生の受け答えを聞いたあとで、その者よりも自分の方が優れているかのようにアピールもしながら受け答えをしなければならない点だ。
    面接ではマナー、コミュニケーション能力、人柄、ポテンシャル、志望度などが尋ねられるのだが、同じ質問を全員が答えるために、後になればなるほど、答えが似通ってきてしまう。
    それを覚悟しながらも、自分らしい答えを導き出さなければならないのが集団面接だ。
    集団面接のその評価の在り方については、会社によって様々だ。
    会社によっては、就活生自身を基準に見合うかどうかで評価するのではなく、就活生同士を比べて、より優れている人を評価するという相対評価を採用しているところも多く、陽菜子が受験した会社もそうだった。
    複数の就活生を同時に面接している面接官からすれば、就活生同士の差が目立って判断しやすくなるという算段だ。
    陽菜子は、大学のサークル「ジャーナリズム研究会」で集団面接対策を十分にしてその日に臨んでいた。
    ポイントは3つあった。
    まずは質問をしっかり聞き、適度な長さで自分の考えを話すこと。
    そして決して他の人の発言には惑わされないということだ。
    受付を済ませた陽菜子は緊張しながら控室に入った。

  • #546

    六輔 (水曜日, 26 8月 2020 19:52)


    控室に入ると、既に10人ほどの受験生がいた。
    部屋を見渡すと、番号のふられた椅子があと10脚ほどあり、その番号は受付の際に渡された受験番号が書かれてあるのだろうと容易に察しがついた。
    と、控室にいた人事担当者が立ち上がり、陽菜子が予想した通りに声をかけて来た。
    「受付で渡された受験番号の書かれた椅子に座ってお待ちください」
    陽菜子は「はい」と答え、「12」と書かれた椅子に座った。
    次々と受験生が部屋に入ってきて、9時の集合時間の10分前には、受験番号の書かれた椅子20脚すべてに受験生が座っていた。
    間もなく人事担当者が時計を確認して口を開いた。
    「それでは面接を始めます。番号をお呼びしますので、呼ばれた方は隣の面接会場に入ってください」
    と、手に持っていた資料に視線を落として番号を読み上げた。
    「1番から5番の方、隣の部屋に入ってください」
    人事担当者の案内に、そこにいた誰もが番号順に5人ずつ一緒に面接を受けるのだと心の準備をしていた。
    だが、20分ほど経ち、人事担当者が控室に戻ってきて次のグループで指名したのは8番の者が飛ばされ、6番から11番の者が呼ばれたのである。
    飛ばされた8番の受験生は女の子だった。
    その日面接を受ける20人のうちの3人が女の子。
    当然、陽菜子にはこんな予想ができた。
    「もしかして…女の子は3人一緒に?」
    その予想は当たりだと直ぐに分かった。
    何故なら、次のグループに12番の陽菜子が呼ばれなかったからだ。
    陽菜子は覚悟した。
    「女の子同士、一緒に面接を受けて比較されるのね」と。

  • #547

    六輔 (木曜日, 27 8月 2020 19:46)


    3番目のグループが呼ばれ、控室には陽菜子を含めた5人だけになった。
    心臓の音が隣に座る者に聞かれてしまいそうなほどの静寂の中、突然、一人の女の子がバリバリの関西弁で話し始めたのだった。
    「やっぱりやわぁ~ うちの想像していた通りやぁ!」
    『えっ?・・・』
    突然のことに戸惑いながらも、隣に座っていた陽菜子が女の子の声に反応した。
    『やっぱり?』
    「そうやぁ。女の子は全員一緒に面接を受けるようになったわぁ。8番の子が飛ばされた時点でそうやろうなって・・・やっぱりそうなりましたわぁ」
    『そうね、そうなりましたね』
    「女の子は女の子同士で一緒に面接して・・・面接官は私たち3人を比較するんやろなぁ。みんなライバルやわぁ。けど・・・お互いに頑張りまひょ!・・・おっと、いけない。つい、関西弁で話してもうたわ。面接では関西弁は封印せなあかんのよね」
    『(笑)東京の本社での面接だから・・・そういうことになるわね』
    そう言って関西弁を話す女の子と陽菜子は互いに見つめあって微笑んだ。
    そんな二人の会話で控室の重苦しい雰囲気は和んだのだった。
    陽菜子は笑みを浮かべたまま腕時計に視線をやり、もう間もなく始まる面接に備え息をゆっくりと吐きだして心を落ち着かせた。

    この時の陽菜子は知る由もなかったのである。
    関西弁で話す女の子との出会いが、陽菜子の人生に大きく影響を与えることになることを。

  • #548

    六輔 (金曜日, 28 8月 2020 20:48)


    人事担当者が控室に入ってきた。
    「お待たせしました。それでは全員隣の面接会場に移動してください」
    そう案内された陽菜子たちが控室を出て面接会場の前まで行くと、別の人事担当者が待ち受けていた。
    「それでは、番号をお呼びしますので、呼ばれた順に部屋の中に入ってください」
    そこにいた全員が「はい」と返事する中、2人の男性が先に呼ばれ、結局陽菜子は最後に呼ばれて入室した。
    一気に緊張感が高まる中、陽菜子は残された椅子の横に立ち、面接官の「どうぞお座りください」の声を待ってゆっくりと腰を下ろした。
    目の前には会社のお偉方が5人並んで座っていた。
    5人の中央に座る面接官が口火を切った。
    「それでは早速始めさせてもらいます。まずは、当社への入社を希望する理由から聞かせてください」
    ありきたりなその質問に、一番右端に座った男性がお手本となるような答えを述べると、面接官はいきなり無表情のままこう聞き返してきた。
    「なるほど・・・申し訳ないけど、もう少し具体的に答えてくれませんか?」
    『あっ、はい…』
    どうにかもう一度答えた男性に対して面接官はこう言った。
    「その考えでは当社では勤まりませんよ!もっと私が納得できるような理由を述べてください!」
    そんなやりとりが幾度も続くと、それまで答えていた男性は面接官の次の言葉にフリーズして言葉が全く出てこなくなってしまったのだった。
    「君は、うちの会社に向いてないんじゃないのかな!」
    他の就活生たちの顔が青ざめていくのが分かった。

  • #549

    六輔 (土曜日, 29 8月 2020 23:11)


    凍り付いた部屋の中で面接官は無表情のまま次の質問をしてきた。
    「大学ではどんなサークルに所属しているのかな?」
    『はい、ジャーナリズム研究会です』
    「どうしてそのサークルを選んだのですか?」
    『はい、面白そうだったからです』
    面接官は、肘を机のうえに置き、無表情のままこう言った。
    「それは、私の質問に対して答えになっていませんよ!何が面白そうだったのですか?」
    『あっ、はい…ジャーナリストを目指すために必要なことを学べると思ったからです』
    「ほぉ~ ジャーナリズム研究会にいれば、新聞社のことはどんなことでも分かるようになると思ったのですか?」
    『えっ?…いやっ・・・そ、そうではありませんが…』
    「そうではない? では君の答えは十分ではないということになりますよ! きちんと説明してください! 説明できないのなら、今すぐこの部屋から出ていってもらっても構いませんよ!」
    陽菜子は心の中でこうつぶやいた。
    「これって・・・圧迫面接だよね」と。
    その当時、圧迫面接を取り入れる会社はあまりなかったが、大手新聞社ともなると、優れた人材を見極めるために様々な手法を駆使して面接を行っていたのだった。
    面接官の冷たい質問の仕方も記者としての資質と対応力を見極めるためのものだったのである。

  • #550

    六輔 (日曜日, 30 8月 2020 20:30)


    重苦しい雰囲気の中、別の面接官が女の子に対して質問をしてきた。
    「記者になってどんな記事を書きたいと思っているのか聞かせてもらおうか。小川さんどうですか?」
    『はい!』
    大阪弁を話した女の子が指名された。
    『私は、高校野球が好きで、特に夏の甲子園大会に関する記事は、高校時代からほとんどの新聞に目を通してきました。今でもその習慣は変わっていません。全ての新聞を読ませていただいたときに、私にとって一番の記事は御社の記事でした。取材を重ねたうえで、細かいところにもスポットをあてて書かれてあるところに大変感銘を受けました。 私は記者になって高校野球に関連する記事を書くのが一番の目標です!』
    「なるほど。ただ、高校野球は一年中やっている訳ではありませんからね」
    『はい、もちろん高校野球以外でも、スポーツ全般の記事を…』
    「でしたら、スポーツ紙の記者を目指した方がいいんじゃないですか?・・・小川さん!」
    小川は、言葉に詰まって答えられなくなってしまった。
    こうして全員に対して続けられた意地悪な質問は、陽菜子にも例外なく浴びせられた。
    陽菜子も思うような答えを導き出すことが出来ないまま、結果的にフラストレーションだけが残る面接となってしまった。
    面接を終えた陽菜子は「ふぅ~」と静かに息を吐いて部屋を出た。
    落ちることを覚悟して。

  • #551

    六輔 (月曜日, 31 8月 2020 19:33)


    次は無いだろうと思いながらも、人事担当者から今後の予定の説明を受け、その日の全てのスケジュールを終えた陽菜子は、肩を落としてビルを出た。
    面接のことを振り返ってみると、どれだけ自己評価を甘くしたとしても、一緒に受けた5人の中で最低の評価だと認めざるを得なかった。
    ビルを出て少し歩いたところで立ち止まった陽菜子は、その場で振り返り、さっきまで自分がいたビルを見上げた。
    そして、まるで要塞のようにそびえ立つ新聞社の本社ビルを眺めながらこうつぶやいた。
    『私のような者が勤められる会社じゃなかったのよね』
    思いのほか悔いはなかった。
    実力の世界で、自分よりも優秀な者が勝ち残るだけだと理解していたからだ。
    再び歩き始めた陽菜子が目にしたものは、オフィス街を忙しそうに行き交うサラリーマンたちの姿だった。
    その姿に不思議と次への活力が湧いてきた。
    『誰もみんな頑張っているんだもの。こんなところでへこたれていられないわよね!』
    そう心に言い聞かせ、再び歩き始めた。
    そして少し歩いて交差点の赤信号に歩みを止められたその時だった。
    「水嶋さ~ん!」
    背後から陽菜子を呼ぶ声が聞こえてきた。

  • #552

    六輔 (火曜日, 01 9月 2020 19:30)


    声の主は一緒に面接を受けた関西弁の女の子、小川だった。
    「水嶋さん!」
    『あっ…小川さん』
    「一緒に帰ろうと思っていたのに、気づいたらもういないんだもん。良かった、追いついて」
    『…うん』
    「ねっ、一緒に帰ろう!」
    『えっ?…う、…うん』
    陽菜子は返事に戸惑った。
    何故なら、正直なところ一緒に帰ろうという小川の誘いが迷惑に感じたからだ。
    初対面で、たまたま面接会場で一緒になっただけの関係であり、正直、自分よりもテキパキと質問に答えていたことに対する嫉妬心もあった。
    それでも一期一会、一緒に戦った間柄として面接の反省会をするのも悪くはないと思い、一緒に帰ることを受け入れた。
    二人は、交差点の信号が変わるのを待って駅に向かって歩き出した。
    「面接、疲れたわね」
    『うん、へとへとになっちゃった』
    「今日の面接ってさぁ、圧迫面接ってやつよね」
    『うん、私もそう思った』
    「ある程度は覚悟していたけど、あそこまで冷たく聞かれるとはね」
    『うん、私も驚いた・・・って、あれ?もう面接が終わったんだから関西弁に戻るんじゃないの?』
    「(笑)普段はね、標準語で話すようにしているの。あの時はよほど緊張していたんだと思う。自分でもびっくりしちゃった。いきなり関西弁に戻っちゃったんだもの」
    『(笑)そうだったんだ』
    面接会場とは違って、気さくに話す小川に親しみを感じた陽菜子だった。

  • #553

    六輔 (水曜日, 02 9月 2020 21:17)


    その日、初対面だった二人だったが、思いのほか話が弾んだ。
    『小川さん、面接官の質問にしっかり答えていたわよねぇ』
    「え~ そんなことないよ。水嶋さんの方がしっかり答えられていたわよ」
    『いやいや、うそウソ!小川さんの方がテキパキと答えていたわよ』
    「・・・みんな、自分よりも他の人の方が良く思えちゃうっていうことなのかな?」
    『・・・そういうこと? いやっ、でもホンと。小川さんはしっかり答えられていたわよ。きっと、女子の中では最高点だと思うよ』
    「え~ そんなことないと思う。でもさ・・・お互いの点数のことを話してもしょうがないわよね(笑)」
    『そうね(笑)。ところでさ、小川さんって、そんなに高校野球が好きなの?』
    「はいはい! 大好きよ~~~!!! 部活動はバスケをやっていたんだけどね」
    『そうなんだ。実はね、私、高校時代に野球部のマネージャーをしていたのよ』
    「そうなの?」
    『うん!で、なんとね、3年生の時にうちの学校は甲子園に出場してるの!』
    「えっ?ホンと? どこの高校?」
    『東庄高校よ』
    「うそーーー!!! あの二連覇を果たした弁慶高校から唯一得点した東庄高校?」
    『高校野球が本当に好きなのね(笑) うちのような初出場の高校のことまで覚えているなんて。そう、その東庄高校野球部のマネージャー。あの試合の時には記録員としてベンチにいたのよ!』
    「うそーーー!!! あの試合は、私の中ではあの夏の甲子園の実質上の決勝戦! 瀧野瀬選手の二打席連続ホームラン! 東庄高校・君島義徳投手の最高のピッチング、そして7回裏の攻撃・・・あの甲子園優勝投手の義経君と瀧野瀬君との・・・球場全体が静まり返って二人の勝負に酔いしれていたわよね…」
    『すごーい! まるで球場にいたみたいに覚えているのね』
    「うん、だってね…」

  • #554

    六輔 (木曜日, 03 9月 2020 22:52)


    小川は、笑顔でこう答えた。
    「私ね、あの試合、甲子園球場で見ていたのよ!」
    『えっ? 球場にいたの?』
    「うん。アルバイトをさぼって見ていたの(笑)」
    『え~ どういうこと?(笑)』
    「私、もともとはドカベンに影響を受けて高校野球が好きになってさ…」
    『ドカベン? 小川さんって、そんなに大喰いなの?』
    「(笑)違うわよ! ドカベンっていう野球漫画よ!」
    『あぁ、山田太郎とか、里中君とか?』
    「そうそう!そのドカベン!でね、わたし殿馬選手の大ファンでさ…自分のことを殿馬治美って、ニックネームで呼んでいたりもしたの」
    『トノマハルミ?』
    「うん! あっ、そういえばさ、東庄高校のセカンドも戸野間君っていう名前だったわよね?」
    『うん、そう!戸野間誠』
    「戸野間君って、プロのピアニストを目指しているんでしょ?」
    『え~ どうしてそんなことまで知ってるの? 確かに戸野間君は、プロのピアニストを目指して東京藝術大学音楽学部に進学したのよ。でも、本当にどうしてそんなことまで?』
    「新聞記事で読んだの。あの年の甲子園ってさ、ドラフト1位候補の選手がたくさんいたのよね。・・・東庄高校の瀧野瀬君を筆頭にね」
    『・・・・・』
    「あっ…でね、ドラフト候補として戸野間君もリストアップされていたのよね。でも、戸野間君は野球をやめてピアノの世界へ…ほとんどの新聞社が、あれだけの守備力とバッティングセンスがあるのに、何故、野球をやめるのか?って、記事を書いていたのに対して、1社だけは、彼のピアノの才能を信じて応援したいって…」
    『1社だけ?』
    「…そう、その1社っていうのが今日面接を受けた新聞社よ」
    『そうだったんだぁ』

  • #555

    六輔 (金曜日, 04 9月 2020 19:39)


    「ねぇ、水嶋さん…」
    『うん?』
    「私たちってさ、高校野球を通して昔から繋がっていたような…今日の面接でも会うべくして会ったような・・・そう思わない?」
    『うん、確かにそうかもしれないわね』
    「絶対にそうよ!4年前の夏に・・・二人は出会っていたようなものなのよ!・・・ねぇ、水嶋さん」
    『…はい』
    「わたし・・・殿馬治美!…は、ニックネームだけど…小川治美。治美って呼んでよ!」
    『うん!私は、陽菜子…陽菜子って呼んでね!』
    「分かった!」
    『でさ、治美・・・アルバイトをさぼって見ていたってどういうこと?』
    「あ、そのことね。私ね、あの甲子園球場の雰囲気が好きでさ、毎日球場に行く方法は無いかなって考えて…で、結局ね、甲子園球場でアルバイトをしていたの」
    『バイト?』
    「うん。“かちわり氷”を売っていたのよ。あの試合のときは、ちょうど東庄高校側のアルプススタンドにいたの。確か、校長先生にも売ったかな(笑)」
    『へぇ~ そうだったんだぁ。・・・って、売り子の仕事をサボって野球を見ていちゃダメじゃん!(笑)』
    「(笑)確かに」
    『暑くて大変だったでしょ?』
    「そうねぇ。バイト先から配給された売り子用のユニフォームがピンク色でさ・・・ほらっ、ピンクレディーのサースポーの時の衣装のようなやつ」
    『あぁ~ ピンクレディーのサースポーね…はいはい』
    「これがさ、上着は胸のところが余っちゃうくせに、下はサイズが合わなくてさ…仕方ないから自前の赤パンにはき替えて働いたの」
    『あ、あ、赤パン?』
    「バスケ部のユニフォーム。私ともう一人だけ特注でさ・・・おかげで卒業アルバムも二人だけ色が違うの・・・二人だけ赤パン」
    『卒業アルバムが? それは、ずっと残るものだから…50歳とか過ぎて同窓会をやったりしたときに、男子から何言われるか分からないわよ!』
    「…仕方ないよ」
    うつむいて話す治美を見て陽菜子はこう言った。
    『…事実は小説より奇なり!ってこと…だね』と。

  • #556

    六輔 (土曜日, 05 9月 2020 22:17)


    駅前の交差点まで来た二人は、また赤信号に歩みを止められた。
    隣に立って笑みを浮かべ、自分の過去を隠すことなくさらけ出して話す治美に親近感を覚えた陽菜子は、一緒に食事をして帰りたいという衝動にかられた。
    『ねぇ、治美・・・』
    「うん?」
    『お腹すかない?』
    「えーーー!!どうして私の空腹状態が分かったの?」
    『(笑)私もお腹すいたから。ねぇ、一緒にご飯食べて行こうよ!』
    「・・・えっ?」
    『何か用事でもあるの?』
    「そうじゃない…けど・・・」
    『けど? けど、なに?』
    「一緒にご飯を食べるのはやめておく」
    『え~ どうして? せっかく親しくなれたと思ったのに…』
    「うん、私も親しくなれたと思うからこそ…やめておく」
    『え~~・・・どうして?一緒にご飯食べようよ!』
    「だって…」
    『だって、なに?』
    「だって、わたし・・・大喰いだから」
    『・・・はっ?』
    「親に止められているの。くれぐれも初対面の人の前では食事をするな!って」
    『そ、そんなに驚くほどの大喰いなの?』
    「・・・うん。以前、初対面の人とどうしても食事をしなきゃならない時があって・・・その人・・・私のあまりにもの大喰いにドン引きしてた」
    『…そうなんだ。ちなみに聞くけど・・・どれくらいの大喰いなの?』
    「女の子二人で隣の町までトマトラーメンを食べに行ったんだけど、帰ってきたらもうお腹が空いちゃって・・・焼肉食べ放題の店にはしごして、ギリギリまで食べつくしたの。で、まだそれじゃ終わらずにコメダ珈琲に行ってサンドイッチとデザートまで・・・あまり驚くほどじゃなかったかしら?」
    治美の逸話を聞かされた陽菜子はこう答えた。
    『ねぇ、治美…』
    「うん?」
    『わたし、ちょっとやそっとの大喰いじゃ驚かないから大丈夫!免疫があるから!』
    満面の笑みを浮かべて断言した陽菜子だったが、もちろん大喰いに対する免疫などあるはずは無かった。
    この後、結局二人で食事をすることになるのだが、陽菜子は納得するのだった。
    『確かに、これじゃ親に止められるわけだわ』と。

  • #557

    六輔 (日曜日, 06 9月 2020 20:13)


    一期一会と言いながら、食事まで一緒にいたことで、簡単に“さようなら”と別れられない気持ちになっていた。
    そう、それは二人とも同じだった。
    食事を終え、店を出る時間が近づいてきたとき、後ろ髪を引かれる思いで陽菜子はこう言った。
    『ねぇ、治美・・・』
    「うん?」
    『今日はありがとう』
    「なによ、急に」
    『治美が私を追いかけてきてくれたおかげで、こうして・・・』
    「なに? こうして大喰いの私を見ることが出来たってか?」
    『はぁ??? 違うわよ、もぉ~(笑)ねぇ、治美…』
    「うん?」
    『私と友達になってくれない?』
    「えっ?ホンと? 本当に言ってる? 私も同じ気持ちだよ…陽菜子」
    『良かった。でもね、治美・・・治美は今日の面接、きっと合格だと思うの』
    「えっ?」
    『面接の様子を思い出してもらえば分かるでしょ。私はきっと次には進めないと思うんだ』
    「そんなこと分からないでしょ! 二人とも合格できる可能性だってまだある訳だし…」
    『そうね、そうなってくれたら最高よね』
    「ねぇ、陽菜子・・・万が一にもよ、どちらかが合格して、どちらかが不合格だとしたら、今の話しは無しなの? 友達にならないってつもりで言ったの?」
    『そんなことない』
    「じゃぁ、決まりね!面接の結果がどうあれ、私たちは・・・ねっ!」
    『うん!』
    笑顔で見つめあう二人がそこにいた。

  • #558

    六輔 (月曜日, 07 9月 2020 20:29)


    無類の高校野球好きの治美にとって、甲子園を経験してきた陽菜子と友達になれたことは、この上ない喜びだった。
    しかも、陽菜子が東庄高校出身であるということに二重の喜びをかみしめた。
    何故なら、東庄高校野球部主将・瀧野瀬紘一が、治美にとって特別な存在だったからだ。
    中学時代から高校野球の素晴らしさに目覚めた治美は、春・夏ともに甲子園大会に熱中し、そしてお気に入りの選手を見つけては応援をしてきた。
    ひたむきに白球を追い続ける球児たちに憧れ、治美は高校野球のとりこになっていった。
    そして大会ごとに治美の中でのヒーローが生まれた。
    中学1年生のときには、聖望学園・鳥谷敬選手、中学2年生の時には智弁和歌山・西川遥輝選手、中学3年生の時には日大三高・横山選手。
    高校1年生のときには、中京高校・中川選手、高校2年生のときには、仙台育英高校の上林選手。
    そして・・・
    高校3年生のときには、東北高校のダルビッシュ有投手、PL学園・前田健太投手、市立和歌山高校・川端選手、弁慶高校の義経投手などなど、その全てがプロ野球に進んで尚且つ第一線で活躍した選手ばかり。
    そんな錚々たる顔ぶれが揃う中、治美が一番に憧れた選手・・・それが東庄高校主将・瀧野瀬紘一選手だったのである。
    甲子園2年連続優勝の義経投手から二打席連続のホームランを打ちながらも、ガッツポーズをする素振りも見せずにダイヤモンドを一周し、ファインプレーをしても高校生らしく振舞う紘一は、今まで見て来た全ての高校球児の中で一番に輝いて見えた。
    治美にとって紘一は、生涯のベストプレイヤーだったのである。
    しかも治美には、紘一のことでずっと気にかけてきたことがあったのだった。
    それは・・・

  • #559

    六輔 (火曜日, 08 9月 2020 19:19)


    少し小説から離れるが・・・
    人の性格が、急に変わることは無いが、それでも相手の隠されていた真実を知ったときには、その相手に対する認識や評価が急変することは稀にある。
    例えば、嫌いだった人が、実はあなたを陰で守ってくれていたという事実を知ったときには、その人に対する気持ちは変化することだろう。
    それまでは嫌いでいても、それからは好きになれるかもしれない。
    だがしかしだ。
    例え好きになれたとしても、それで相手との“波長”が合うようになる訳ではない。
    波長が合うとは、そんな感情だけのものではないからだ。
    波長が合う人とは、一緒にいるだけで心が癒され、安心感があり、なにより自然体でいられる、ようは相性が良いと言える人だ。
    人生において、波長が合う人と会える機会に多く恵まれた人は幸せな人だ。
    幼馴染みで幼稚園時代からの親友もあれば、50歳になって出席した同窓会をきっかけに波長のピッタリな親友を見つけられる人もいるだろう。
    自分で引き寄せなければ波長の合う人と出会うことなど出来ない。
    頑張って引き寄せる人もいれば、偶然に引き寄せられる人もいるだろう。
    だが、自分ではどうすることもできないものがある。
    生まれた時から決められた“運命”だ。
    運命は変えられるということも語ったこことがあるが・・・

    この時の治美は、感じていた。
    「陽菜子とは、ずっと、そして一番の親友になれそう・・・運命的な出会いのような気がする…」と。
    そして治美は意を決して尋ねた。
    「ねぇ、陽菜子・・・聞きたいことがあるの」

  • #560

    六輔 (水曜日, 09 9月 2020 19:50)


    急に表情を硬くして尋ねてきた治美に、陽菜子も身構えた。
    『どうしたの?急に…何が聞きたいの?』
    「あぁ、ごめんゴメン。たいしたことじゃないのよ(笑) 私ね、中学生の頃から高校野球が好きで、いろんな選手を応援してきたの」
    『…そうなんだぁ』
    「憧れた選手もたくさんいたわ。その選手がプロ野球の選手になってからも応援したりして・・・でね、たくさん見て来た高校球児の中で、私の生涯のベストプレイヤーがいるんだけど…誰だと思う?」
    『え~ 中学生の頃からじゃ、たくさんいすぎて分からないわよ(笑)』
    「埼玉の聖望学園から早稲田大学に行って阪神タイガースに入団した鳥谷敬選手とか、智弁和歌山から日本ハムに入団した西川遥輝選手とか・・・私が高校3年生のときだと・・・東北高校から日本ハムに入団したダルビッシュ有投手やPL学園から広島カープに入団した前田健太投手…」
    『錚々たるメンバーね』
    「そうね。でもね、私が見て来た沢山のプレイヤーの中で一番の・・・私の生涯のベストプレイヤーはね・・・東庄高校野球部主将・瀧野瀬紘一君なの」
    『…えっ?そうなの?』
    治美から紘一の名前を聞かされた瞬間に、陽菜子は覚悟した。
    「治美が聞きたいことって・・・」
    そう考え、目を少しだけ伏せた。

  • #561

    六輔 (木曜日, 10 9月 2020 18:05)


    治美は勘のいい女の子だ。
    瀧野瀬紘一の名を聞いた瞬間に表情を変えた陽菜子の心情を直ぐに察した。
    「瀧野瀬君のことで、何か聞かれたくないことがあるのね」
    そう心の中で言いながら、治美は、機転を利かせて直ぐに話題を変えたのだった。
    「でね、聞きたいっことってね…瀧野瀬君が長男か次男か?ってことなの」
    『・・・はっ?』
    「わたし、たくさんの高校球児を見てきて、統計をとってるのよ!」
    『えっ? 統計?』
    「そう。高校球児で活躍するのって、次男が多いのよね。私の予想では、瀧野瀬君は絶対に次男…もしくは三男!当たってるでしょ!?」
    陽菜子はきょとんとした顔で答えた。
    『瀧野瀬君は…お姉ちゃん二人いるけど、長男だよ』
    「え~~~!!! そうなのぉ~ あぁ、これでまた私の統計学が狂っちゃうなぁ。あんな素晴らしいプレイをする瀧野瀬君は、絶対に次男だと思ったんだけどなぁ…外れた!!!」
    そう言って苦笑いする治美を見て陽菜子は思った。
    『治美は、私の表情から察して、話題を変えたのよね。 だって、あんな真面目な顔をして、聞きたいことがあるのって言ったことが、次男か長男か?・・・ そんなはずがないもの』
    友達になったとは言え、その日初対面の治美が、ちょっとした表情の変化で相手の気持ちをくみ、相手が嫌がることを直ぐに察して話題を変えてきたことに驚くとともに、治美がどれほど優しい女の子であるのか理解した陽菜子だった。

  • #562

    六輔 (月曜日, 14 9月 2020 20:37)


    陽菜子は、どちらを選ぶべきか悩んでいた。
    それは、このまま治美の気づかいに甘え、紘一のことをこれ以上話さないでおくようにするか。
    あるいは、友達になったからこそ、治美の知りたいという気持ちに応えてやるか。
    目の前にいる、いま、友達になったばかりの治美が、自分に対して気づかいをしてくれたことに喜びを感じていた陽菜子は、後者を選んだのだった。
    『ねぇ、治美…』
    「うん?なぁに?陽菜子」
    『治美って優しい女の子だね』
    「えーーー!!!なによ、いきなり」
    『だってさ・・・いいわよ、治美になら私の知る限りのこと話してあげる。瀧野瀬君の何が聞きたいの?』
    「…えっ? だ、だから、さっき聞いたでしょ! 長男か次男か?って」
    『治美!・・・私、そんな鈍感な女の子じゃないよ!』
    「・・・陽菜子」
    『何が知りたいの?』
    真剣な表情で言う陽菜子に、治美も真剣な表情をして尋ねたのだった。
    「・・・じゃぁ、真面目に聞くね」
    『…うん』
    「どうして瀧野瀬君はプロの世界にも、大学に行って野球を続けることもしなかったの?」
    『・・・そうよね、ファンならやっぱりそのことが知りたいわよね』
    「ごめん、その辺のいちファンとなんも変わらない質問だよね。でもね、ファンだからっていうことじゃなくて、どうしても私の中で消化できないの。あれだけのプレイヤーが、野球を続けていないっていうことが」

    史上最多の8球団から1位指名を受けた近鉄バファローズの野茂投手をさらに上回る球団が1位指名するだろうと評価されていた紘一が、何故、プロ志望届を出さずに、さらには全ての大学からのオファーを蹴ったのか。
    世間では、様々な憶測が飛び交った。
    中には、ドラフトを回避して、ほとぼりが冷めた頃に意中の球団がテスト入団させるのではないかといった悪い噂もあった。
    結局、真実は闇に埋もれたまま3年が経ち、紘一の存在は世間から消えていったのだった。

    この後、陽菜子は「あんくる」のマスター藤原涼輔にも、重里皐月にも話さなかったことまで、全てを治美に話すことになり、物語はいよいよ終わりに向かって動き出すのだった。

  • #563

    六輔 (火曜日, 15 9月 2020 19:20)


    2004年(平成16年)、夏。
    昭和62年・早生まれの小川治美は、まだ17歳。
    自分のことを殿馬治美と呼ぶほどに高校野球を愛する治美は、高校生活最後の夏休み、甲子園球場のアルプススタンドにいた。
    その当時ヒットしていた「さくらんぼ」を歌う「大塚愛」を少しだけ意識した髪型。
    バスケットのトレーニングで下半身を鍛えすぎてしまったがために、必要以上に育ってしまった太ももが、赤パンと夏の太陽とマッチして眩しく輝いていた。
    肩から商品を吊るし下げ、“かちわり氷いかがですかぁ~”と、若々しい声を出しては、それを求める客を探すふりをしながら、その度ごとにグランドに視線をやると、そこには紘一の姿があった。
    正直、その試合に限っては、アルバイトを放棄してグランドに何度も視線を下ろしては、紘一のプレイを追っていた。
    紘一のプレイに魅了された治美は、一瞬で紘一のファンになった。
    そして治美は、その日以降、全てのスポーツ新聞や野球雑誌に目を通しては、紘一の姿を追い続けるようになった。
    その年のWBC U-18ベースボールワールドカップに紘一が選ばれなかったことに不満を覚えながらも、各スポーツ新聞がその年のドラフトの超目玉として紘一を推していることに喜びを感じ、紘一がプロ野球選手になることを願ってドラフト会議の日が来るのを首を長くして待っていた。
    「瀧野瀬君がどこのチームに行っても、ずっと応援するからね」
    そう思いながら、ドラフトに関する記事を読み漁っていた治美がある記事を目にして愕然となった。
    「・・・えっ? 瀧野瀬君が野球をやめる?」
    その記事によると、紘一がプロ志望届を提出しないだけではなく、どこの大学のオファーも受け入れないということが書かれてあったのだった。
    「どうして?・・・瀧野瀬君のようなプレイヤーが…」
    それから治美は、紘一に関するありとあらゆる情報収集に走った。
    そしてある記事を目にしたのだった。
    その記事をずっと気にしてきた治美は、その記事が事実なのか、陽菜子に直接確かめたのだった。
    「ねぇ、陽菜子…私ね、瀧野瀬君のことをずっと気にかけてきたの。瀧野瀬君がどうして野球から離れなければならないのかって・・・それでね、ある記事を目にしたの…」
    治美の話しに、陽菜子は覚悟を決めたかのような表情でこう返した。
    『ある記事? それってどんな記事?』

  • #564

    六輔 (水曜日, 16 9月 2020)


    治美は堰を切ったように話し始めた。
    「それはね、スポーツ通信の古沢っていう記者が地方紙に掲載した記事だよ。それまで一人のランナーも出さずに、東庄高校が2点をリードして迎えた9回。そこで瀧野瀬君のエラーが・・・でも、あれはイレギュラーしていたからエラーじゃないって、いろんなところに書いてあったわ。でも・・・その一つのプレイからから始まった弁慶高校の逆転劇。古沢記者の書いた記事では、あのエラーは瀧野瀬君が自分のプレイに慢心していた部分があってこのことじゃないかとか、ハーフスイングをアピールしていればアウトになって勝っていた可能性もあるとか、甲子園に出場するからには地元の応援がある訳で、その期待に応えることよりも自分たちの理想の野球を追い続け、それに拘ったがために試合に負けた東庄高校、特に瀧野瀬君の責任は大きいとか・・・その記事を読んだ人たちが、騒ぎ出して・・・高校生らしくないプレイをして負けたとか、甲子園に出場する資格なんかなかったんだとか、寄付した金を返せ!とか、クレームが殺到して、そのクレームを抑えるために東庄高校は新人戦の出場を辞退したって。でも、世間が黙っていなかったんでしょ? 結局、その記事を書いた古沢記者は糾弾されて記者を辞め、新聞に東庄高校に対する謝罪文が掲載されて、無事にその年の新人戦に出場も出来たのよね? そういう記事を読んだんだけど・・・事実なの?」
    興奮気味に話す治美に、陽菜子は笑みを浮かべて答えた。
    『良く調べたね、治美。全部、その通りよ』
    「新聞や雑誌に書かれていたことは全部事実だったのね」
    『うん』
    「えっ?でもさ、そのことが原因で瀧野瀬君は野球から離れた訳じゃないんでしょ?」
    治美は、当然、違うよという返事が返ってくるものと思って尋ねたのだった。
    だが・・・

  • #565

    六輔 (木曜日, 17 9月 2020 19:15)


    陽菜子は、ゆっくりと話し出した。
    『ねぇ、治美・・・』
    「うん?」
    『一つ聞いてもいい?』
    「どうぞ…なに?」
    『治美は面接のときに、高校野球に関する記事を書く記者になりたいって答えていたわよね?』
    「うん!」
    『どういう記事を書きたいと思ってるの?』
    「どういう記事?・・・う~ん…注目される選手のことは、たくさんの新聞が取り上げるだろうから、私は別の視点で記事を書ける記者になりたいなぁって思ってるの」
    『別の視点?』
    「うん。新聞を読む人の多くは、今年の注目される選手は誰だとか、どこのチームが優勝候補だとかって、そういう記事を好んで読むと思うんだけど、私は・・・高校生の野球にかける情熱ってすごいと思うの。でもそれはチームがあってのこと!私は、個人を取り上げるんじゃなくて、チームそのものとか、その地域のことだとか…だってさ、高校生ってまだまだ未熟よね。大人になりきっていない部分もあって。記事を書かれたことで変なプレッシャーになったり…私は、目立ったプレイヤーを追いかけて記事を書くんじゃなくて、一人でも多くの人に高校野球の素晴らしさを知ってもらえる・・・そんな記事が書けたらいいなぁって思ってるの」
    『ねぇ、治美…』
    「うん?」
    『わたし、治美と友達になれて良かった!』
    「なによ、いったい。どうして良かったの?」
    『治美が、さっき話しに出たスポーツ通信の古沢記者とは違うって分かったから』
    「え~ どういうこと? 陽菜子はスポーツ通信の古沢記者っていう人がどんな人だったのか知ってるの?」
    治美の問いに対して陽菜子は、甲子園に出場する高校は、新聞社の取材に対して協力するのが当たり前であるとか、新聞で取り上げられるからこそ、プロへの道が広がっていくんだとか、古沢記者に言われたことと、あの記事が、紘一に取材を断られた腹いせによるものだったということを治美に伝えた。
    それを聞かされた治美は、ポツリとつぶやいた。
    「そんなひどいことを平気でやるような記者だったのねぇ・・・えっ?ねぇ、陽菜子・・・もしかしてだけど、その記事が書かれたことで瀧野瀬君は野球が嫌いになって…それで野球をやめたの?・・・そんなはずないわよね。だって、瀧野瀬君は何も悪いことしてないんだもの」
    語尾を荒くして話す治美に陽菜子はこう答えた。
    『紘一がどうして日本のプロ野球に進まなかったのか。それはね・・・』

  • #566

    六輔 (金曜日, 18 9月 2020 19:26)


    陽菜子は、小さな声で答えた。
    『紘一が極度のマスコミ嫌いだからなの』
    「えっ? マスコミ嫌い? それでプロに進まなかったっていうの?」
    『そうよ』
    「え~・・・スポーツ選手の中にはマスコミを苦手とする人はいるでしょうけど…でも、プロの世界とマスコミって“持ちつ持たれつ”っていう部分もあるでしょう? 確かに、プロになった以上、マスコミから常に注目されることになるわよね。だからと言って・・・それ、本当のことなの?」
    陽菜子はゆっくりとうなずいた。
    『本当よ。いま、私はこう言ったわよ・・・極度のマスコミ嫌いだ!って』
    「極度の?・・・どういうことなの? 聞かせて」
    『…うん。東庄高校の甲子園出場が決まってから、マスコミが殺到したわ、紘一を取材したくて。それは紘一が一番恐れていたことだったの。甲子園についてからもそれはエスカレートする一方で・・・紘一は、一切の取材を断ったわ。野球に集中したいからという理由で断れば、ほとんどのマスコミが遠慮してくれた。でも・・・そうよ、スポーツ通信の古沢っていう記者だけは、マスコミ風を吹かせて来た。そして、言うことを聞かない甲子園素人集団の東庄高校に嫌がらせするように記事を掲載したのよ。記者のみが持つ“ペン”という武器を使ってね。紘一は、もうその時点でプロの道に進まないことを決意していたわ』
    「そ、そんなぁ・・・マスコミの全部が古沢記者のような人ばかりじゃないわよね。それじゃ負けを認めたようなものじゃない! なんか、悔しい! そんなことで・・・」
    怒りをあらわにする治美に、陽菜子はこう言った。
    『治美・・・もちろん私も悔しいわよ。でもね、紘一がマスコミを嫌うには、もっと大きな理由があるの・・・それはね…』

  • #567

    六輔 (土曜日, 19 9月 2020 18:57)


    陽菜子は、険しい表情に変えて口を開いた。
    『治美…』
    「うん?」
    『倭里(ヤマトリ)毒物殺人事件って覚えてる?』
    「やまとり?・・・あぁ、私たちがまだ子供の頃に起きた事件よね? 多くの人が犠牲になった…」
    陽菜子は『うん…そうよ』と、ゆっくりうなずいた。

    それは1996年、平成8年のことだった。
    治美が “私たちがまだ子供の頃”と言った通り、治美と陽菜子がまだ10歳のとき、日本国中を震撼させる事件が起きた。
    それは、中部地方の山あいにある倭里(ヤマトリ)地区の住宅街で猛毒のVXガスが散布され、死者15名、重軽傷者500名を超える被害者が出た事件だ。
    1996年当時としては、無差別に化学兵器が使用されるという世界にも類例のないテロリズムに、大きな衝撃が世界中を走った。

    勘のいい治美は、陽菜子がいきなり倭里事件のことを話し出したことに一瞬で不安に襲われた。
    「ねぇ、陽菜子…倭里毒物殺人事件と瀧野瀬君の極度のマスコミ嫌いが何か関係しているって言うの?・・・違うわよね!」
    そう心の中で念じて、治美は陽菜子の次の言葉を待った。

  • #568

    六輔 (日曜日, 20 9月 2020 20:51)


    勘のいい治美が、一瞬で不安に襲われた理由。
    それは、陽菜子がいきなり口にした倭里毒物殺人事件が、その日二人が面接を受けた新聞社と大きな関わりのある事件であったからだ。
    その関りとは・・・

    先に伝えておかなければならないが、治美たちが10歳の時に起きた倭里毒物殺人事件は、12年が経ってもなお犯人が逮捕されていない未解決事件だったのである。

    世界を震撼させた倭里毒物殺人事件は、1996年の夏に起きた。
    静かな倭里地区の住宅街で猛毒のVXガスが散布され、風によって拡散されたガスが多くの者を傷つけた。
    15人が亡くなり、負傷した者は500人を優に超えた。
    当然、これまでにない無差別テロに、警察は総動員体制で捜査にあたった。
    犯人は直ぐに逮捕されるだろうと、誰もが思っていた。
    だが、捜査は難航した。
    目撃者が一人として見つからなかったからだ。
    凶悪犯に対する検挙率の高さを誇る日本の警察は、躍起になって捜査を続けた。
    しらみつぶしに倭里地区全員が取り調べの対象になるほどだった。
    警察の不眠不休の捜査は続いた。
    そして・・・

  • #569

    六輔 (月曜日, 21 9月 2020 19:57)


    警察に対して世間の厳しい目が向けられ、犯人が捕まらないことに住民の不安もピークに達し始めた頃・・・
    一人の刑事が口を滑らせたことを発端として、ある宗教団体が事件に関与しているのではないかという噂が飛び交うようになった。
    その宗教団体は、倭里地区に本部を置き、全国に多くの信者を抱える教団だった。
    その教団には悪しき噂も数多くあった。
    ある日突然、周りに何も告げずに姿をくらまし、世間との交流を絶ってしまった者が、気づけばその教団の信者になっていたであるとか、日本全国、いたるところで信者と住民との間でトラブルが起きていたりであるとか。
    そんな教団が事件に関与しているという噂は瞬く間に広がり、それと同時に世間の目は一気に教団に向けられた。
    新聞・テレビ各社による教団に対しての取材は、過熱の一途を辿り、否応なしに世間の目が教団に集まる中、犯人を特定出来ないでいる警察は、動かざるを得なくなった。
    教団関係者を任意で出頭させ、事情聴取を始めた。
    出頭してくる教団関係者をカメラとリポーターが追いかけ、まるで犯人であるかのような質問を繰り返しては、それを連日放映した。
    新聞各社も競って記事を書き、逮捕は時間の問題であるかのような報道がなされた。
    そんな動きは、日本全国でその教団を排除する行動まで発展していったのだった。

  • #570

    六輔 (火曜日, 22 9月 2020 20:17)


    警察による教団関係者の取り調べは連日続けられたが、決定的な証拠が見つけられないまま時間ばかりが過ぎていった。
    教団側は、自ら記者会見を開くようになり、広報担当者が“噂は事実無根”であることを連日のように訴え続けた。
    結局のところ、犯人が特定されないまま事件は混迷を深めていき、報道も徐々に熱が冷め始めてきた。
    そんなときだった。
    教団と事件の関連性に早めに見切りをつけたある新聞社が、独自に別の犯人を捜し始め、ある記事を特ダネのように報じたのである。
    それは、化学薬品を扱う会社に勤務し、猛毒のVXガスに対する知識を持つ人物が、事件発生現場から数百メートルのところに住んでいるという記事だった。
    記事自体は間違った内容ではなく、他意は無いと言われてしまえばそれまでだろう。
    だが、世間は直ぐに色めき立ち、当然のようにマスコミ各社が食いついて、過激な取材攻勢が始まった。
    連日、その男にカメラとマイクが向けられるようになった。
    インタビュアーは、40歳を超えてもなお独身であることが不自然であるかのようなことまで発言し、その男の幼少の頃を知っている者にマイクを向けては、「無口な男で何を考えているのか分からない奴でした」といったような取材を集め、連日、放映していった。

  • #571

    六輔 (木曜日, 24 9月 2020 19:04)


    過熱する報道に、警察も動かずにはいられなくなり、その男性の任意による取り調べを始めた。
    あくまでも任意によるものだったが、多くのマスコミが警察署の前で待ち構え、40代独身男性が出頭してくるとマイクを向けてフラッシュを浴びせた。
    新聞各社は、VXガスに対する知識を持っていること自体が普通ではなく、さらには、その男性が事件を起こすことが出来た可能性を否定せずにあえて肯定をした。
    その報道は、倭里毒物殺人事件が、その40代独身男性による犯行であるように国民の意識を誘導しているともとれる内容であり、国民もまたそれを疑うこともなく、連日の報道に情報を求めた。
    そんな世論の流れの中で、ずっと教団関係者を取り調べてきた警察は、名誉回復とばかりに、その男性に対する追求を厳しくしていった。
    ついには、その男性の家宅捜査を行い、自宅に保管されてあった多くの薬品類を押収した。
    もうその頃には、その男性が犯人で間違いないような報道が連日続いていたのだった。
    だが・・・
    その一連の報道は、思わぬ方向に転じることになるのであった。

  • #572

    六輔 (金曜日, 25 9月 2020 19:44)


    倭里毒物殺人事件が発生してからというもの、朝のテレビの情報番組では必ずと言っていいほど、その事件に関するニュースが真っ先に取り上げられていた。
    ただその日の朝に限っては、「男はつらいよ」寅さん役の渥美清さんが前日に亡くなったことをキャスターが神妙な面持ちで語っていた。
    と、その時だった。
    緊急のニュースが飛び込んできたとADからメモを渡されたキャスターは、静かにそれを読み始めた。
    「え~・・・ただいま入ってきたニュースです。あっ…えっ?・・・倭里毒物殺人事件で警察の事情聴取を受けていた・・・はい、VXガスに対する知識を持つ化学薬品会社勤務の40代男性が、今朝、遺体で発見されたとのことです。え~もう一度繰り返します…」
    その読み上げ方は、渥美清さんの訃報を伝える声とは違って、40代男性の死を悼むものではなかった。
    さらにADから次のメモがキャスターに手渡され、それが読み上げられた。
    「え~・・・警察の発表によりますと、昨日も行われる予定だった事情聴取に40代男性が現れず、連絡が取れなくなっていたことで、今朝、その40代男性宅を警察が訪問し、そこで自殺とみられる遺体を発見したということのようです」
    キャスターは、直ぐにコメンテーターに意見を求めた。
    「どうですか、突然のニュースですが…」
    『いやぁ、これでますます倭里毒物殺人事件の解決が先になるということですよね…残念です』
    それは、40代男性が犯人であり、逃げ切れなくなったと観念して自殺を図ったのだと受け取れるようなコメントだった。

  • #573

    六輔 (土曜日, 26 9月 2020 19:57)


    40代男性の死は、警察の発表にあった通り自殺だった。
    男性の亡骸の直ぐそばには遺書が残されてあり、そこには短くこう書かれてあったのである。
    「私は無実です。でも私が生きている限り、私が無実であることを認めてくれる人は出てこない。私の無実が明らかにされることを望んで自ら命を絶ちます」

    当然、警察が発見した遺書の存在を明らかにすることなどなかった。
    何故なら、40代男性のアリバイを証言すると言って現れた証人に対して、脅しともとれる発言をしていたからだ。
    それは、40代男性が事件に関与しているのではないかという報道が始まってしばらくしてからのこと。
    事件当日、40代男性を別の場所で見たという女性が警察に出頭してきた。
    その女性の聴取に対して警察幹部はこう話していたのだった。
    「あなたの証言で、亡くなった15人、傷を負って今もなお苦しむ500人を超える人が救われるか、救われないか・・・いいですか、世の中には自分にそっくりな人間が必ず3人はいると言われているんです! あなたが見た人間がその男であるかどうか・・・100%じゃだめなんですよ!1万パーセント、その男で間違いないという確証がなかったら! 間違えましたじゃすまされないんです! 間違えたとなればあなたはこの事件の犯人と同じぐらいの罪を犯すことになる。 1万パーセントの自信が無いのなら、証言すべきではないんだ! 多くの人を自ら敵に回す必要などないんですよ・・・言っている意味が分かりますよね」と。

  • #574

    六輔 (日曜日, 27 9月 2020 19:58)


    40代男性が自殺する必要などどこにもなかった。
    だが、男性は死を選んだ。
    理由は、ひとつ。
    冤罪から一生逃れられないと思ったからだ。

    あくまでも任意の事情聴取に、男性は拒否をせずに毎日出かけて行った。
    事情聴取は朝に始まり、夕方まで続いた。
    毎日のように同じようなことを聞かれ、少しでもつじつまの合わないことを発言しようものなら、徹底的にそれを追求された。
    一日の聴取が終わり、ようやく解放され署の外に出れば、直ぐに大勢の報道陣に取り囲まれた。
    逃げるように立ち去れば後を追われ、どこまでも追い掛けられた。
    自宅への嫌がらせの電話は1日100本以上、石を投げられ窓ガラスはボロボロ、当然、仕事も辞めさせられていた。
    このまま自分のアリバイを証明してくれる人間が現れなければ、逮捕されるのも間近であると感じた男性は、全ての苦しみから逃げるために死を選ばざるを得なかったのだった。
    男性の死は、新聞、テレビ、各メディアで大きく報道されたが、男性の死を悼むような表記もなければ、行き過ぎた報道により冤罪が生まれた可能性を問うメディアも皆無だった。
    こうして冤罪は生まれて行ったのだったが、倭里毒物殺人事件で報道機関の暴挙により生まれた悲劇はこれで終わりではなかったのだった。

  • #575

    六輔 (月曜日, 28 9月 2020 20:21)


    新聞記者になることを志し、必死に努力をしてきた治美と陽菜子。
    互いに引き寄せられるように面接会場で出会い、その帰り道には一緒に食事をして意気投合し、二人は友達になった。
    いろいろと話しをする中で陽菜子が東庄高校野球部のマネージャーであったこと、治美がその東庄高校主将の瀧野瀬紘一のファンであったことを知った。
    そして治美の「瀧野瀬君はどうして野球を続けていないのか?」という問いに対して、陽菜子はこう答えた。
    「紘一が極度のマスコミ嫌いだから」と。
    さらには陽菜子が倭里毒物殺人事件のことを突然に口にしたことで、治美は一瞬で不安に襲われた。
    その理由は、その日二人が面接を受けた新聞社が倭里毒物殺人事件に大きな関わりを持っていたからだった。
    その関りとは・・・
    倭里毒物殺人事件と宗教団体との関連性に早めに見切りをつけ、「取材」と銘を打つ独自の「捜査」で、化学薬品を扱う会社に勤務する40代男性の存在をつきとめ、それを報じたのが、その新聞社だったのである。
    ようは、倭里毒物殺人事件で冤罪を生んだ新聞社だったということだ。
    そのことに治美は不安を覚えたのだった。
    何故なら・・・

  • #576

    六輔 (火曜日, 29 9月 2020 20:00)


    治美は、倭里毒物殺人事件とその新聞社との関りを全て承知していたのである。
    承知をしていた理由は、その新聞社の採用試験を受けるにあたって、面接のための予備知識を得るために社に関する様々なことを調べていたからであり、その中でひとつ気になる記事を見つけていたのだった。
    それは、倭里毒物殺人事件が起きて1年が過ぎた頃にフリージャーナリストが書いた記事が週刊誌に掲載されたのだが、そこにはこう書かれてあったのである。

    「倭里毒物殺人事件の二次的被害者が2名いた!」

    記事を読むと、ある新聞社が「真実を国民に伝える」という報道機関の持つ役割をはるかに逸脱し、まるで自分たちが捜査機関であるかのように犯人探しをするという暴挙に出て関係のない者を追い詰め、そのことで2人が自ら命を絶ったという記事だった。
    一人目の被害者は、そう、化学薬品会社勤務の40代男性であり、二人目はその実の兄だった。
    その新聞社は、40代男性の死を受け、次は離れた場所に住んでいる実の兄の存在をつきとめた。
    兄が40代男性と同種の仕事をしていたことから、取材の矛先を兄に向けたのだった。
    弟の時と全く同じだった。
    違う点を挙げるとするならば、兄には妻と3人の子がいたことだけ。
    兄は、弟の無実を信じるとともに、自分の関係性までを疑われたことに対して毅然とした態度で対応していたのだが、過熱する取材が家族にまで及んでしまったことに、弟の後を追うように自ら命を絶ったのだった。

  • #577

    六輔 (水曜日, 30 9月 2020 18:59)


    週刊誌の記事では名指しまではされていなかったが、報道機関の持つ役割をはるかに逸脱し、まるで自分たちが捜査機関であるかのように犯人探しをするという暴挙に出た新聞社がどの新聞社であるのかは、読んだ者全てが察しのつくものだった。
    さらには、週刊誌は警察当局の捜査の在り方まで言及していた。
    自殺した40代男性のアリバイを証言する者が、良心の呵責に苛まれて、週刊誌の取材に対して全てを暴露したのである。
    だが、当の新聞社も警察も、週刊誌の記事に対して“なしのつぶて”だった。
    まったく相手にもせず、知らぬ存ぜぬを貫いたのだ。
    さらには他の報道機関が、その新聞社の行き過ぎた取材の件と警察の捜査に不正があったのではないかということを大きく取り上げて非難することもなかったのである。
    どの報道機関も一蓮托生、同じような罪を犯していたことを承知していたからだ。
    週刊誌の世相を切る記事も、報道機関の取り上げ方一つで、国民の関心はいかようにでもなるという典型的なケースだった。
    ただ一つ救われるものがあるとするならば、この週刊誌の記事をきっかけとして、報道機関が先を競って犯人を突き止めるような過激な取材は影をひそめるようになっていったことだろう。

  • #578

    六輔 (木曜日, 01 10月 2020 20:59)


    勘のいい治美が不安になったのは、こう推理したからだった。
    「ねぇ陽菜子・・・陽菜子と瀧野瀬君はきっと恋人同士よね?これは女のカン!それと・・・瀧野瀬君がマスコミ嫌いを理由に野球から離れたというのなら、それはマスコミには関わりたくないというよほどの理由があるっていうことなのよね。そして、倭里毒物殺人事件がそのことと関係するとするならば、一番考えられるのは、マスコミの報道によって冤罪の被害を受けた方・・・瀧野瀬君はその家族か何かということになる・・・そして、陽菜子はその原因を作った新聞社を受験し、しかも、面接の時には社会部の記者になりたいと強く訴えていた。それって、社会部で記者をやりながら、倭里毒物殺人事件での暴挙を暴くために?・・・ねぇ、陽菜子・・・陽菜子が新聞記者を目指すのは瀧野瀬君の復讐のためなの?」と。

    同じ新聞記者を目指す者同士、さらにはこれだけ意気投合し、ずっと友達でいられる相手だと思うからこそ、治美は陽菜子を心配した。
    復讐のために生きていくことなどあって欲しくないと。

  • #579

    六輔 (土曜日, 03 10月 2020 20:37)


    倭里毒物殺人事件のことを話して、その後直ぐに口を閉ざしてしまった陽菜子に、治美はこう言った。
    「ねぇ、陽菜子・・・」
    『えっ?…、う、うん・・・なに?』
    「私たちさぁ、何でも話せる友達になれたらいいね!」
    『えっ?…うん、そうね!』
    「倭里事件のこととか、また次の機会に聞くよ。今度さ、晩御飯一緒に食べよ!」
    『うん! ゆっくり会って話したい! わたし、治美のこと、もっともっと知りたいし!』
    「それは私も同じよ! 今日の面接の結果がどうなるか分からないけど…私は、今日の面接がダメでも新聞記者になることは諦めるつもりはないの。陽菜子は?」
    『わたし? 私は、今日受けた新聞社以外は考えていないの。もし、今年がダメなら来年再チャレンジするわよ』
    「えっ?・・・そ、そうなんだ・・・そっか。それぐらい今日の新聞社で働きたいってことなのね!」
    『・・・そうね』
    小声で答える陽菜子に、治美はそれ以上のことを話すことが出来なかった。
    それ以降二人は多くを語らず、互いの携帯番号を交換し、再会を誓い合って互いの家路についたのだった。

  • #580

    六輔 (日曜日, 04 10月 2020 20:14)


    陽菜子と別れて家路についた治美は、電車に揺られながら車窓の向こうに陽菜子の笑顔を思い重ねていた。
    陽菜子と語り合ったことを一つひとつ思い返していくと、陽菜子の底抜けに明るい性格と底知れぬ優しさが感じられた。
    わずか数時間一緒にいただけであったが、自分との波長がこれほどまでに合う女の子は、初めてだとそこまで思えた。
    よくよく考えてみれば、陽菜子が今日一緒に面接を受けた新聞社に入社することにあそこまで拘る理由を聞くべきであったと思えた。
    ただ、自分も同じ立場であるが、入社が決まった訳でもなく、であるならば、あえて聞かずにおいたことも、あながち間違いではなかったとも思えた。
    そう考えて自分に納得をさせていると、あっという間に次が下車駅であるアナウンスが聞こえて来た。
    「あっ、次だわ!」
    そう口ずさんで見慣れた車窓の景色に視線をやり、電車がゆっくりと停車するのを待って立ち上がった。
    と、そのときだった。
    「あっ!」
    治美の驚きの声に、その車両に乗っていた者の全てが一斉に治美に視線を向けたのだった。

  • #581

    六輔 (火曜日, 06 10月 2020 20:06)


    「グゥゥゥ~~~~~!!!」
    車両に乗っていた全ての者が一斉に治美に視線を向けた理由、それは治美の腹部から聞こえて来た音に驚いてのことだった。
    食事を済ませて2時間を超えており、ちょうど立ち上がるタイミングであったことで、空腹を知らせる音のボリュームを調整することが出来なかったのだった。
    皆の視線を独り占めにした治美は、それを一切気にすることなく電車を降りた。
    食事の時間になっていることを自身の内臓に教えてもらった治美は、駅のホームを歩きながら悩んでいた。
    「タヌキにするべきか?・・・それともキツネにするべきか?」
    結論は、立ち食いそばの食券販売機の前に立つまで出なかった。
    「やっぱりキツネにしよっ!」
    販売機から出て来た食券を店員に渡し、治美は立ち慣れた店の一番奥の席に進んだ。

    ついさっきまでは、陽菜子のことを心配していた治美が、気づけばまた食べる描写になり、結局はそういう女の子なんだ!と思われそうだが、実はそうではないのだ。
    キツネうどん(大盛り)が出てくるまでのわずかな時間にも、陽菜子のことを考えていたのである。
    治美は悩んだ。
    「調べてみようかな…」

  • #582

    六輔 (水曜日, 07 10月 2020 20:56)


    治美は、鞄から携帯電話を取り出した。
    まだスマート・フォンが出始めた頃で、ガラケー、iモードで調べものをしている人が少なくなかった時代に、治美は発売早々に購入していたスマホを手にし、「倭里事件・冤罪」と語句を入力して検索エンジンを動かした。
    ヒットしたページをひとつひとつ読んでいくと、5つ目のところに例の週刊誌の記事にまつわるものがあった。
    「・・・これだ」
    そう口ずさんで真顔で記事を読んでいき、あるとこまでいくとページをスライドさせていた手を止めた。
    「・・・これって」

    治美が見つけた記事は、遺族のプライバシーを守るために名前は明らかにされてはいなかったが、その文面から治美の不安が的中しているようなものだった。
    「倭里毒物殺人事件の二次的被害者・・・二人目の被害者となった兄は、長女15歳、次女13歳、そして長男10歳の3人の子供達を残し、死を選んだ」
    治美は、キツネうどん(大盛り)に手を伸ばそうともせず、深く息を吐いてこうつぶやいた。
    「ねぇ陽菜子・・・私の推理は、やっぱり当たってるの? ネットに書かれてある子供達の年齢とか、瀧野瀬君と同じだよ・・・ねぇ陽菜子・・・陽菜子はどうして今日受けた新聞社にあそこまで拘るの?」と。

  • #583

    六輔 (木曜日, 08 10月 2020 20:44)


    コキア。
    昔は茎を乾燥させて“ほうき”を作っていたことから、和名はホウキグサ。
    直径1~2mmの実は“とんぶり”といい、魚の卵に似て、プリプリした歯触りから「畑のキャビア」と呼ばれる。
    夏の日差しを浴びて球形の可愛い姿に成長したコキアは、夏の緑色から少しずつ紅葉し始め、日々、移ろいゆく緑と赤のグラデーションの色合いに染まっていく。
    皐月は、そんなコキアの成長を見るのが好きだった。

    その日は、美代子の月命日。
    いつものように「あんくる」にやってきた皐月は、店の前で足を止めた。
    「あぁ~…綺麗」
    皐月は、赤く色づき始まったコキアに視線を奪われ、しばらくそのまま眺めていたが、心のフィルムにその映像を焼き付けるかのように、カメラでコキアを撮影するポーズをとって目を細めた。
    「あぁ~ 今年も行けないかなぁ…行きたいなぁ…ひたち海浜公園」
    と、そんなことをつぶやきながら皐月は店の中に入った。
    「こんにちは…藤原君」
    『あっ、いらっしゃい…皐月ちゃん』
    「ねぇ、ねぇ、随分と赤く色づいてきたわね…コキア」
    『あぁ…お隣さんのコキアね(笑) どういう訳か、うちの常連さんは、お隣さんのコキアの成長が気になるみたいで・・・今日は、皐月ちゃんで3人目だよ』
    「えっ? なにが?」
    『コキアが随分と色づいてきたね!って言いながらお店に入ってきた人』
    「そうなんだ(笑)。まるでトトロみたいに目をつけていたころは、今の半分くらいの大きさで、綺麗な緑だったのにね」
    『そうだね。お隣の旦那さん・・・孫を喜ばせたくて、コキアに紙で作った目をつけたりして、ずっと可愛がってきからねぇ。 あぁ、でもね、なんか子供さんの転勤が決まったみたいで、もう直ぐ孫と一緒に暮らせなくなるって、寂しそうにしてたよ』
    「えっ?そうなの? それは寂しくなっちゃうわねぇ…そういうことで元気をなくしちゃう人って多いからねぇ…」

  • #584

    六輔 (金曜日, 09 10月 2020 19:27)


    藤原は、皐月がカウンター席のお決まりの席に座るのを待って話し始めた。
    『ねぇ、皐月ちゃん…』
    「はい?」
    『来てもらって早々になんなんだけど・・・』
    「なにぃ?」
    『ヒナちゃんのことなんだけどさ・・・』
    「あぁ…実は私もヒナちゃんのことで藤原君に話があるの」
    『そうなの?』
    「…うん」
    『僕が知りたいことは分かると思うけど、新聞社の入社試験…そろそろ内定が決まる頃だよね?・・・結果はどうだったのか心配でさ…』
    「そうね、藤原君ずっと心配していたもんね・・・私の話っていうのもそのことよ。昨日ね、ヒナちゃんから無事に内定が決まりました!って、電話があったわよ」
    『そうなの? 良かったなぁ~ ヒナちゃん』
    「そうね」
    『え~ でも、だったらどうして僕のところに連絡してくれないのかなぁ…』
    「う~ん、そのことなんだけどさ・・・わたし、ヒナちゃんに頼まれたの。マスターにうまく話しておいてくださいって」
    『えっ? どういうこと?』
    「なんかね、採用の条件が自分の目指していたところとは違うんだって」
    『社会部の記者じゃないってこと?』
    「どうやら、初めは事務として働くのが採用の条件なんだそうよ。悩んだけど、入社することに決めましたって。ほらっ、藤原君には絶対に社会部の記者になりますから!って、啖呵を切っちゃったでしょ? だから・・・」
    『そんなぁ・・・啖呵を切ったとか、そんなこと思ってないよ』
    「ヒナちゃんにしてみたら、元、敏腕記者だった藤原君に話しにくくなっちゃったんじゃないのかしらね」
    『僕は、組織に勝てなかったダメな記者だよ…』
    「ヒナちゃんにはそうは写ってないみたいよ…藤原君のこと、尊敬してるって」
    『それ、嘘でしょ?僕のことを尊敬だなんて…』
    「嘘じゃないわよ。あっ、それからね、ヒナちゃんの頑張り次第では、社会部の記者になれる可能性もあるそうよ。藤原君のような記者になれるように頑張りますって、そうマスターに伝えてくださいって!」

    皐月から話を聞かされた藤原は、陽菜子が内定を勝ち取ったことに喜びを感じながらも、相変わらず社会部の記者になりたいと思う理由が分からないことに複雑な心境でいたのだった。

  • #585

    六輔 (土曜日, 10 10月 2020 20:13)


    陽菜子の喜ばしい報告をしたにも関わらず、藤原が浮かない顔をしていることに皐月はこう言った。
    「ねぇ、藤原君・・・」
    『…う、うん?』
    「やっぱり気になっているのね?」
    『気になる? 何が?』
    「ヒナちゃんが社会部の記者に拘っていること」
    『・・・うん』
    「そのことなら心配いらないわよ」
    『えっ? ヒナちゃんから理由を聞いたの?』
    「うん! 昨日の電話でもう一度聞いてみたの。そしたらようやく話してくれて・・・藤原君のような記者になりたいから、だから社会部の記者を目指したいんですって」
    『…えっ?』
    「これまでは恥ずかしくて言えなかったそうよ。 社会部は確かに大変な部署だって分かっていて、でもそれだけやりがいのある部署だと思うからこそ、目指したいんですって」
    『…そうなんだ』
    藤原は、皐月から聞かされた“理由”に十分納得した訳ではなかった。
    「そんな単純な理由じゃ無いような気がするけど…」
    と、心の中でつぶやきながらも、“ヒナちゃんを応援してあげるしかないな”と、そう気持ちをもっていくしかなかった。

  • #586

    六輔 (日曜日, 11 10月 2020 19:55)


    皐月は、カウンターに置かれたお気に入りのブレンドコーヒーを口に運んで「ふぅ」とため息交じりの息を吐き、ポツリとつぶやいた。
    「なんか・・・、ちょっと妬いちゃうな」
    『…えっ?』
    「…あっ! ご、ご、誤解しないでよ。24歳も若い女の子にモテモテでいいなって思ってさ」
    『はぁ? なにそれ』
    「だって、藤原君のような記者になりたいって思うのは、藤原君に憧れているからなんだろうし・・・私のことを思ってくれる人なんかいないんだもの」
    『さっきも言ったように、記者としてバリバリ働いていたのは過去の話し。結局は組織に負けて自らそこを去った男だよ・・・僕は』
    「それでもヒナちゃんにとっては、憧れの存在! ヒナちゃんがこれから道に迷ったときには、いろいろと助言してあげるんでしょ?」
    『そ、それは・・・僕に出来ることがあるなら、ヒナちゃんの支えになってあげたいと思うけど…』
    「そう、そこが妬いちゃうところなのかな・・・だって、私には私のことを守ってくれる人がいないんだもの」
    『・・・皐月ちゃん』
    「私は、もう直ぐ46歳・・・このままずっと一人で生きていくのかな…って、最近、そればっかり考えてるの」
    『それを言うなら僕だって同じさ。ここでこうして珈琲を淹れて、毎年、1歳ずつ年を重ねて行って・・・おっと、なんかすっかり暗い話しになっちゃったね。暗い話はやめてさぁ・・・そう、今でも鮮明に覚えているよ』
    「覚えてる?…何を?」
    『あの日のこと』
    「…あの日のこと?」

  • #587

    六輔 (月曜日, 12 10月 2020 19:14)


    誰にでも「あの日のこと」と言われて、思い浮かぶ日が幾日かあることだろう。
    初恋の相手に告白し、撃沈されて朝まで泣き明かした日。
    初めて親になった日。
    初めてじぃじ、ばぁばになった日。
    赤い字の手紙をもらった日の朝のこと。
    リフト乗り場でリフトに乗りはぐり、尻もちをついて大きな穴をあけ、その補修のために1分50秒もリフトを停めてしまった日。
    と、人によって強く思い出に残る「あの日」は様々だ。

    藤原の言った「あの日」とは、陽菜子が「あんくる」に初めて来た日のことだった。
    藤原は、店の入り口に視線をやってこう言った。
    『うん・・・ヒナちゃんが初めて「あんくる」に来て、あの入口に立った日のこと』
    「あぁ…確か、ヒナちゃんが店の表の張り紙を見て突然入ってきたっていう話しのことね」
    『うん。本当に驚いたよ・・・美代子が生まれ代わって、また僕の前に現れてくれたのかと思った』
    「そうねぇ、私もヒナちゃんを初めて見たときには驚いて声も出なかったわ。世の中には似ている人が3人いるっていう話しがあるにしても、あまりにもそっくりで…美代子との思い出・・・18歳から12年間も一緒に暮らしていた日のことが走馬灯のように蘇ってきてさ…」
    『きっと、神様がヒナちゃんをここに連れてきてくれたんだよね』
    「そうねぇ…私もそう思う」
    『僕たちはさ、ヒナちゃんと出会って“若さ”をもらってきたんだと思う。だから、40何歳とか、年齢のことなど気にせず・・・俺たち、まだまだこれからたくさんやれることがあるんだからさ!』
    「やれること?」
    『うん。立ち止まって無駄な時間を過ごすんじゃなくてさ・・・「やれない」のか…「やらない」のか…それで随分と違ってくるんだと思う。僕たちはまだまだやろうと思えばやれることがたくさんあるんだよ・・・「やろう!」とさえ思えばね!』
    藤原にそう元気づけられた皐月は、昔に抱いていた“自分の夢”に思いをはせていた。

  • #588

    六輔 (火曜日, 13 10月 2020 20:23)


    皐月が昔抱いていた夢。
    そう、フラワーコーディネーターとして働きながら、将来は自分の店を持つという夢。
    自分の中では、そう遠くない時期にお店を持てるだろうと思っていた。
    だが、現実は違った。
    実際に就職し、フラワーコーディネーターとして働いてみると、そう簡単に夢が叶えられるものではなかったのだった。
    仕事に追われ、自分の店を持つ準備をすることすら出来なかった。
    そう高くないお給料での一人暮らし。
    ストレス解消のために食べる、買う、旅をする・・・
    お店を出す資金が貯まるはずもなかった。

    思い起こせば、今の自分があるのは、美代子がいてくれたからだと思えた。
    心配性の両親が、東京の専門学校に進学することを許してくれたのも、美代子が一緒に暮らしてくれたからであり、東京に就職することを許してくれたのも美代子がいてくれたからだった。
    30歳になったとき、美代子が藤原のもとに嫁いだことで始まった一人暮らし。
    皐月のそばには常にペットのウサギがいた。
    30代になると、任される仕事も倍以上に増え、休日返上で働いた。
    仕事のやりがいがあったからこそ、店を辞めることもなく続けられた。
    だが、35歳のときに一つの転機が訪れた。
    そう、美代子の死だ。
    皐月は、美代子が逝ってしまったことで、東京を離れて実家に帰ることを考えた。
    だが、美代子の墓参りのために鹿児島の海の見える丘を訪ね、そこで聞いた声に考えを改めたのだった。
    『涼輔さんのこと、お願いね…皐月』
    と、海から丘に向かって吹いてきた風の音と一緒に聞こえてきた声に。

  • #589

    六輔 (水曜日, 14 10月 2020 20:30)


    美代子の死で一旦は実家に帰ることを考えた皐月だったが、考えを改め、東京に残る決心をした皐月は、遮二無二なって働いた。
    仕事に熱中することで、美代子のことを考えずに済む時間が得られたからだ。
    「あんくる」がオープンしてからは、美代子の月命日には必ず藤原に会いに行った。
    初めは「風の声」のためだと自分に言い聞かせていた。
    だが、徐々にその気持ちは薄れ、自ら「あんくる」に行きたいと思うようになっていった。
    それは、藤原の淹れてくれる珈琲に癒されたいということもあったが、一番は藤原と話しがしたいという気持ちがあったからだった。
    そして42歳の春・・・皐月は陽菜子と出会った。
    それは運命を感じる出会いだった。
    陽菜子といると、まるでそこに美代子がいてくれるようだった。
    自分と24歳も年が離れた女の子だったが、陽菜子との会話は、皐月を癒してくれた。
    しかし、そんな時間も長続きはしなかった。
    陽菜子が就職をすることで会えなくなる時が近づいていたのだった。
    「内定が決まりました」
    という陽菜子からの電話も、心の奥底では寂しい気持ちで一杯だった。
    『もう、前みたいに会って話せなくなるのよね…ヒナちゃん』と。
    そして、まるでそのタイミングを知っていたかのように、陽菜子との電話を切った後直ぐにまた電話が鳴ったのである。
    それは実家で暮らす70歳を過ぎた母親からの電話だった。
    滅多に電話をしてこない母親からの着信に、不安な気持ちがよぎった。
    「あぁ、お母さんからだぁ・・・どうしたんだろう? 何かあったのかな」と。

  • #590

    六輔 (木曜日, 15 10月 2020 20:15)


    『皐月かい?』
    「うん、お母さん」
    元気のない声が聞こえてくることを想像してしまった皐月だったが、それは取り越し苦労だった。
    いつもと変わらぬ元気そうな母親の声に皐月は胸をなでおろした。
    『しばらく声も聴いていなかったからねぇ…』
    自分を心配していた母の想いに、目頭が熱くなった。
    「ご、ごめんね、お母さん」
    『いやっ、忙しいんだろうからさ…』
    「忙しいことを理由にするのは、一番ずるいよね。本当にごめんなさい、お母さん」
    『大丈夫だよぉ、皐月』
    「あっ、お父さんは? お父さんも元気なんでしょ?」
    『そうだね、自分の好きなことをして、楽しくやってるよ』
    「そっか。時間ができたら帰りたいと思いながら、その時間がなかなかとれなくてさ…」
    『仕方ないよ、責任あるポジションで働いているんだろうからさ』
    「・・・お母さん」
    それから、互いの近況報告をしあって電話を切るときになった。
    と、母親は電話を終えることに寂しさがこみ上げて来たのか、声のトーンを変えていきなり話し出したのだった。
    「ねぇ、皐月・・・」
    『うん?』
    「実はね・・・お父さんなんだけど…」
    『お父さん?…お父さんがどうしたの? さっきは元気でいるよって言ったよね?』
    母親の声のトーンに、それが普通の話ではないと察した皐月だった。

  • #591

    六輔 (金曜日, 16 10月 2020 19:13)


    母親は慌てて謝った。
    『ごめん、皐月』
    「えっ?なに?どうして謝るの?」
    『いやっ、大した話しじゃないんだよ』
    「大した話しじゃなくても、お父さんがどうしたっていうの?」
    『いやね、最近、頻繁に皐月のことを私に聞くのよ。皐月は、ちゃんと食べているのか?とか、仕事のこととか・・・皐月の夢のこととかもね』
    「えっ?私の夢?」
    『うん。随分と前にお父さんに一度だけ話したことがあるのよ。皐月の将来の夢は自分の店を持つことなのよ!そのために今は頑張っているんだよ!って』
    「そうなの?」
    『うん。皐月は、今でもその夢を諦めずにいるんでしょ?』
    「・・・・・」
    『諦めてしまったのかい?・・・そうじゃないんでしょ? なかなか実現できないでいるのに、胸を張って“諦めてないよ!”って、言いにくいだけなんでしょ?・・・皐月』
    「・・・お母さん」

    『ねぇ、皐月・・・お父さんはね、皐月に夢を叶えて欲しいと思っているのよ』
    「えっ?それホンとなの?」
    『本当だよぉ。皐月のことを一番に心配しているお父さんだからねぇ。最近、そのことばかり私に言ってくるの。今の仕事は忙し過ぎるんじゃないのか?今の仕事を続けていたら、店を出す準備をすることも難しいんじゃないのか?とか、東京でいい物件を探すにはそれなりにお金も必要なんじゃないのか?…ってね』
    「お父さんが、そんなことを…」
    母親はひと呼吸おいてこう言った。
    『お父さん、私に聞こえるように独り言を言うのよ・・・家の前に土地が空いているから、そこにお店を建てたらどうなんだろうなぁ…って』
    「えっ?家の前?・・・あそこに?」

  • #592

    六輔 (土曜日, 17 10月 2020 22:49)


    皐月は、一人娘でありながらも、両親から“将来は親の面倒を見るように”と、言われたことがただの一度もなかった。
    「皐月の人生だ。お前の好きなように生きていきなさい」
    というのが父親の口癖であり、それに従うかのように、母親からもこう言われて生きて来た。
    「皐月は、素敵な旦那さんと自分の子供達に囲まれて幸せに暮らしていきなさい」と。
    だからと言って、皐月が全く両親の面倒を見るつもりもないということでもなかった。
    母親が弱ったときには、娘である自分がそばにいて支えてあげなければならないと思って生きてきた。
    高校を卒業して親元を離れ、専門学校への進学と同時に東京で暮らし始めてから既に28年が経っていた。
    その間、幸い両親ともに健康で元気に暮らしていてくれた。
    だが、古希のお祝いにヨーロッパ旅行をプレゼントし、母親には紫のカーネーションを贈った頃から年齢を感じさせることが徐々に増えてきた。
    「いつまでも若くはないってことよね」
    そう感じ始めた頃を見計らったかのように、父親のメッセージを母親が伝えてきた。
    『家の前に土地が空いているから、そこにお店を建てたら』と。
    まさしくそれは『お父さんは、皐月にそばにいて欲しいのよ』という父親の本心を伝えてきたものだと察した皐月だった。

  • #593

    六輔 (日曜日, 18 10月 2020 20:37)


    電話の向こうで母親がこう言った。
    『ねぇ、皐月…』
    「…えっ?…あっ、はい」
    『今の話しは聞かなかったことにしてちょうだい』
    「えっ?どうして?」
    『お父さんに叱られちゃうわよ』
    「そうなの?」
    『今の話しは、お父さんの独り言だからね。もし、私が話したことがばれちゃったら、「ワシは皐月に伝えろとは言っておらん!」って・・・言われちゃいそうでしょ?』
    「そうだね(微笑)」
    『それに・・・』
    「うん?」
    『ずっと皐月には、あなたの人生を生きていくようにと言ってきた私たちなんだから』
    「…お母さん」
    『でもね、皐月…』
    「はい」
    『もし…もしもお父さんが言ったことが一つの選択肢になるようなら、それも含めてあなたの好きなように考えてちょうだい』
    「…お母さん」
    母親の言葉は、皐月の思いを全て察しての言葉だと思えた。
    そのことに耐え切れなくなった涙が、皐月の頬を伝い、その涙が零れ落ちたと同時に皐月は言った。
    「ありがとう…お母さん」と。

  • #594

    六輔 (月曜日, 19 10月 2020 19:31)


    母親からの電話があったその翌日、美代子の月命日に「あんくる」を訪れ、そこで藤原から言われた言葉、
    『立ち止まって無駄な時間を過ごすんじゃなくてさ、「やれない」のか、「やらない」のか・・・それで随分と違ってくるんだと思う。僕たちはまだまだやろうと思えばやれることがたくさんあるんだよ…「やろう!」とさえ思えばね!』
    その言葉は、まさしくその時の皐月を叱咤激励しているものだった。
    しばらく藤原の言葉をかみしめていた皐月だったが、背中を押されたかのように自分の将来のことを初めて藤原に話したのだった。
    「ねぇ、藤原君…」
    『うん?』
    「私、夢があってさ…」
    『皐月ちゃんの夢?…うん、知ってるよ』
    「えっ? わたし、藤原君に話したことないよね?」
    『(笑)美代子から聞いていたよ』
    「美代子から?どんなふうに聞いていたの?」
    『自分のお店を出すのが夢なんだよ、って。・・・合ってる?』
    「うん、そう・・・自分のお店を持つこと…」
    『美代子、自分のことのように言っていたよ』
    「えっ?」
    『絶対に叶える!って。皐月ちゃんには自分の“目標”にして頑張って欲しい、“夢”のまま終わらせないで欲しい…ってね』
    藤原の言葉で皐月の脳裏には、昔、美代子と語り合っていた頃の思い出が鮮やかに蘇ってきた。
    「そうね・・・よく、美代子にそう言われていた。自分で“夢”って言っているようじゃダメだ!って。目標にして頑張るんだよ!って・・・ね」
    鮮明に蘇ってきた美代子の言葉に、皐月の頬を一筋の涙が伝った。

  • #595

    六輔 (火曜日, 20 10月 2020 19:59)


    勘のいい藤原は、皐月の気持ちを察して柔らかな表情に変えて話し始めた。
    『ねぇ、皐月ちゃん…』
    「はい」
    『夢を諦めちゃったの? そうじゃないんでしょ?』
    「えっ?…」
    『顔にそう書いてある』
    「・・・藤原君」
    『皐月ちゃんの今の仕事がどれほど大変か・・・それでもこうして美代子の月命日には休みを調整して来てくれる・・・美代子が亡くなってもう12年が経とうとしているのに…』
    「だって、美代子は私の唯一無二の親友だもん」
    『二人は素敵な友達だよね…今でも』
    「えっ?・・・今でも?」
    『そうでしょ?今でも大切な親友』
    「うん!」
    『美代子は、皐月ちゃんの夢でも自分の夢のように思っていて・・・皐月ちゃんを応援したくて、少しキツイ言い方しちゃっていたのかなぁ…』
    「そ、そんなことない!だって、美代子の言う通りだもの」
    『う~ん、そうかもしれないけど…確かに美代子が言っていた通り、夢と目標って、似ているようで実は全く違うものだからね。自分の望みを叶えたいのなら、頭の中から現実世界の土俵に引っ張り出して、目標に変えていく必要があるんだよね』
    「現実世界の土俵に?」
    『うん。頭の中で考えているだけじゃ何も変わらない。目標っていうものは、何かしらの行動を起こして、その先にある自分が達成したい願望のことだよね。何々をしたいなぁ…は、ただの夢! 何々をするために今はこれを頑張るっていうのが目標!』
    「うん」
    『しょせん夢だし、叶いっこないよ!なんていう自虐的なセリフを言う人がいるけど、よく考えてみればそんなの当たり前なんだよね。だって、頭の中で想像しているだけなんだから』
    「・・・そっか」
    『目標を叶えるために一番にやらなきゃならないことは、期限をきめること! そうすれば今は何をどうすべきかということが自ずと見えてくる。その手段もね!』
    「その手段も?」
    『夢のまま終わってしまう人は、その手段が分からないか、見つからない人だよね。でも見つからないのは、見つけようとしないからなんだよね』
    藤原の言葉がズシリと心に突き刺さった皐月だった。

  • #596

    六輔 (水曜日, 21 10月 2020 19:27)


    皐月は、藤原の言葉に触発されたかのように、昨夜の母親からの電話のことを話し出した。
    「ねぇ、藤原君・・・実は昨日ね、実家の母から電話があってさ…」
    『実家のお母さん? 実家はご両親だけで暮らしてるの?』
    「…うん・・・わたし、一人娘だからね」
    『…そっか』
    「でね、今の今まで一度も聞かれたことがなかった“私の夢”の話になったの」
    『えっ?皐月ちゃんの夢の話? どうするつもりなんだ?って、聞かれちゃったの?』
    「そうじゃないの。両親とも応援してくれていて・・・でも、今のままでは難しいんじゃないかって」
    『確かに、皐月ちゃんは今のポストで働き続けていたら、準備にとりかかる時間もなさそうだしね』
    「…うん。お母さんにも同じこと言われた。それに資金面でもそんな簡単な話じゃないし…」
    『そっかぁ…僕もこの店を出すときには新聞社から頂いた退職金を全部つぎ込んでも、それでも足らなかったからね』
    「お店を出すための資金を細々と貯めてきたんだけど・・・お給料をいただいても毎月の出費も多くてさ…」
    『出費は何が一番大変なの?』
    「う~ん、やっぱり食費かなぁ・・・月に何度かお友達と外食するんだけど、そのお友達っていうのが、ものすごい大喰いでさ…」
    『大喰いのお友達?』
    「うん…お友達は食事に出かけると毎回最低3軒のお店を“はしご”しないと満足してくれないの。中華から焼肉店へ、そしてデザートと軽食まで・・・上りが軽食だよ!嘘のような話しでしょ? でも事実なの。小説でもなんでもない」
    『小説?』
    「あぁ、まるで小説のような話しに聞こえたかと思ってそう言ったんだけど…でさぁ…その“はしご”に私も付き合わされちゃうもんだから…」
    と、それまで普段通りに話しを聞いていた藤原が、微妙に表情を変えてこう言った。
    「皐月ちゃん、初めてだね・・・僕に皐月ちゃんの彼氏の話しをするの」
    『…えっ?彼氏?』

  • #597

    六輔 (木曜日, 22 10月 2020 19:49)


    皐月は慌てて藤原の言葉を否定した。
    『ち、ち、違うから!』
    食事に一緒に出かけている友達が同級生のフラワーデザイナーの女の子であると、藤原に説明すればするほど変に誤解されると思い、苦笑いしてその場をさらりとやり過ごした。
    「確かに、男の人だと思われても仕方ないわよね(苦笑)」
    『えっ? 彼氏…じゃ、ないの?』
    「わたし、彼氏いないし!(苦笑)で、でさ、母親からの電話のことなんだけど…」
    『えっ?・・・あっ、そっかそっか。お母さんからの電話のことだったね』
    「うん。私がお店を持てないでいることを父親が心配しているよって言ってきたの」
    『お父さんが?一人娘の将来を心配しない親はいないよね。で、何か言われたの?まさか、諦めなさいって言われたんじゃないんでしょ?』
    「…うん、そうじゃないの」
    『お父さんは、なんて?』
    「実家の前に空いている土地があるから、そこに私のお店を建てなさい…って」
    『えっ?・・・実家に?』
    藤原は、直ぐに頭の中で理解した。
    今の話しは、皐月が東京を去り、生まれ故郷に帰ることを意味していると。
    藤原は視線を落として小さく声を発した。
    『・・・そうなんだ』

  • #598

    六輔 (金曜日, 23 10月 2020 20:52)


    妻の親友と、親友の夫という二人の関係は、「あんくる」の店主とカウンター席に座る客という関係に変わり、カウンター越しに共に美代子を偲ぶ関係になった。
    そんな間柄も5年が経ち、いつしか二人は月に一度顔を合わせることがルーティンになっていた。
    二人は常にカウンターを挟んで会話をするという距離感の中、共依存に陥ることもなく対等な関係を築いてきが、そこには、友情や恋愛感情を超えた繋がりがあったからであり、だからこそ、互いが互いの生活や異性との交友関係には干渉しないという間柄を保つことが出来て来た。
    だが、皐月が“大喰いの友達”と言ったことに、藤原はそれを彼氏か?と尋ね、さらには、実家に帰ることを匂わせると寂しそうな表情を見せた。
    藤原が寂しそうな表情をしてしまったことで、二人の雰囲気は一変してしまったのだった。
    微妙な雰囲気の変化が、皐月の中に初めての感情を芽生えさせた。
    「えっ? 藤原君、もしかして今、それじゃ寂しくなるよっていう表情をしたの?」
    と、自分の彼氏について気にかけてきたことと、初めて見せた表情に、皐月の心の中は制御不能に陥りそうなぐらいに揺らぎ始めていた。
    それは、皐月の持つ母性本能による「藤原君のそばにいて守ってあげなきゃ!」という女の子の本能と、親友の夫であった藤原との関係をこれからも絶対に崩してはいけないという理性との闘いだった。

  • #599

    六輔 (土曜日, 24 10月 2020 21:49)


    心を乱してしまった皐月は、気持ちを落ち着かせようと席を立った。
    「ちょっとお手洗い借りるね」
    何事もなかったかのように席を立ち、速足でウォータークローゼットに逃げ込んだ皐月は、鏡の前に立ち、そこに映る自分の顔をしばらく眺めていた。
    すると、鏡に映る自分の顔の上に美代子の顔がオーバーラップされて浮かび上がってきたのだった。
    「・・・美代子」
    親友の顔を思い浮かべ、その名を口ずさんだ皐月は、冷静を取り戻して気持ちの整理をし、鏡に映る重里皐月という一人の女の子に向かってこう語り掛けた。
    「ねぇ、皐月・・・冷静になって思い出しなさい。藤原君があなたを恋愛対象の女性として見ることはないのよ。 万が一にもそんなことがあるのだとしたら、あなたはここには来ていなかったはず。そうでしょ? それにその逆だってそうよ。あなたが藤原君を恋愛対象の男性として見ることなんかあり得ないの」
    ずっとそう決めてきたことを思い出すと、肩の力がすーっと抜けた気がした。
    皐月は鏡に顔を近づけ、美代子とのことを思い出して流した涙に乱された化粧を確認すると、化粧ポーチからパフを取り出し、そこにファンデーションを薄くとって目元にあてた。
    そして、普段はリップクリームで唇を保湿するだけの皐月が、化粧ポーチから口紅を取り出してリップブラシに薄く塗り、それを細く柔らかな唇にそっとさした。
    そして「ふぅ~」と、細い息を吐き、鏡の中にいる自分に向かってこう言った。
    「藤原君は・・・私にとっての特別な存在・・・それ以下でもそれ以上でもないの」と。

  • #600

    六輔 (日曜日, 25 10月 2020 19:54)


    皐月は、自分の気持ちを人前で表現することがどちらかと言えば苦手なほうだった。
    そんな皐月が「あんくる」に通うようになって、藤原といろんな話しをしていくうちに、藤原との信頼関係がささらに培われていき、そのことによって、自分の弱い一面をも藤原にさらけ出すことが出来るようになっていった。
    どんな話しにも耳を傾け、丁寧に聞いて適切なアドバイスをくれる藤原は、皐月のよき理解者であり、とても大切な存在となっていった。
    ウォータークローゼットの鏡に向かって藤原を「私にとっての特別な存在」と言ったのは、藤原が唯一無二の代わりの利かない人物だと思っていたからだった。
    藤原と一緒にいる時間はとても居心地が良く、だからこそ藤原の前では心を開き、本当の気持ちを包み隠さず話すことが出来た。
    そんな“特別な存在の人”は、人生で何回も出会えるものではない。
    相手を“特別な存在”と認識したら、一般的にはそれが恋人関係に発展することが多いはず。
    だが、皐月が藤原を恋愛対象として意識することはあり得なかった。
    そう、大切な親友の夫であったからだ。
    そして、一線を引いている関係だからこそ「特別な存在の人」と胸を張って言えたのだった。
    ウォータークローゼットの入り口のノブを掴んだ皐月は、そこで立ち止まり、こうつぶやいた。
    「頼りになる藤原君だもの・・・お店を持つことについて、きっといいアドバイスをしてくれるわよ」と。

  • #601

    六輔 (月曜日, 26 10月 2020 19:52)


    カウンター席に戻った皐月は、椅子に腰を下ろすと同時に明るく話し出した。
    「ねぇ、藤原君…さっきの話しの続きなんだけどさ・・・」
    『続き?…あっ、うん』
    「私が夢見てきたお店っていうのはね、賑やかな繁華街じゃなく、静かな住宅街みたいなところで小さなお店でいいの」
    『小さなお店?』
    「そう。できたらログハウス風の可愛いお店。あまりゴミゴミしていないで・・・その点では、実家の前の場所って申し分ないんだけどさ…」
    『ねぇ、皐月ちゃん…ひとつ聞いていい? お店って、お花を売るだけのお店なの?』
    「えっ?・・・そっか、藤原君にはイメージできてないよね。お花屋さんだから、もちろんお花も売ろうと思うけど、出来たら生徒さんを集めてアレンジメント教室とかを開けるお店にしたいの」
    これまでの藤原だったら必ず共感してくれるものと思って笑顔で答えた皐月だった。
    だが、この時の藤原はこれまでとは違って冷たい口調でこう返してきたのだった。
    『ねぇ、皐月ちゃん…』
    「は、はい」
    『皐月ちゃんの夢って、そういうことだったの?』
    「・・・えっ?」
    『皐月ちゃんの職業って、フラワーコーディネーターだよね?』
    「…そうだよ」
    『美代子言ってたよ・・・皐月ちゃんのコーディネートのおかげで、たくさんの人が素晴らしい結婚式をあげられているんだよって』
    「・・・うん。それが私の仕事だからね」
    『僕は、てっきりその仕事を続けるのかと思っていたよ』
    「どうしてそう思うの?」
    『だって、そうでしょ?皐月ちゃんの力で式に参加する100人、200人の人に感動を与えてきた訳でしょ?これまでどれだけ多くの人に感動を与えてきたことか・・・でも皐月ちゃんが今言った小さなお店での教室に生徒さんを集めてって・・・たかが数人? いいとこ10人程度でしょ?』
    「えっ?・・・たかが?」
    皐月は、藤原の冷たい言い方に愕然として言葉を失った。

  • #602

    六輔 (火曜日, 27 10月 2020 19:19)


    皐月が胸の奥に描いていた小さなお店の設計図。
    それは、自然に囲まれた癒しの空間。
    入口のドアを開ければ、沢山の花たちがお客様をお出迎えし、コンセプトは、キーパーを使わず花本来の美しさを提供するお店。
    珍しいお花を沢山用意して、ギフト、ウェディング、そして気心知れた生徒さんたちを囲んでのレッスン。
    そんなお店を持つことを夢見て、専門学校を卒業と同時にフラワーデザイナーとして就職した皐月だったが、そこでの仕事は想像以上に厳しいものだった。
    プライベートな時間を割いて、会社に出勤することもしばしば。
    年を重ね、後輩が入社してくると、その指導という新たな仕事も増え、気が付けば一番古株の社員になっていた。
    会社から全幅の信頼を置かれ、最近においては、支店を構え、その支店長になって欲しいという打診も受けていた。
    だが、それを二つ返事で受ける訳にはいかなかった。
    支店長となれば、会社を辞めることが出来なくなることが明白だったからだ。

    皐月は、夢を諦めたくはなかったのだ。
    いや、正確に言えば“諦めちゃだめだ”と、自分に言い聞かせていただけなのかもしれないが。
    そんなおりに、実家の母親からの電話で父親の思いを知り、皐月の心は揺れ動いた。
    「年老いていく両親のことを考えると、ずっと東京にいるわけにもいかないのよね・・・この際、実家に帰ろうかな」と。
    だが、それを簡単に決められない事情があったのだ。
    その事情を、皐月はこう言った。
    「だって、美代子に頼まれているんだもの・・・藤原君を見守ってあげてね…って」

  • #603

    六輔 (水曜日, 28 10月 2020 21:04)


    喫茶店のマスターの前職が、全国紙の一面を飾る記事を書いていた敏腕記者であったことなど微塵も感じさせない藤原の穏やかなふるまいは、常に皐月を癒してくれた。
    どんな話しにも丁寧に耳を傾け、適切なアドバイスをしてくれる藤原への信頼は、揺らぐことのない絶対的なものだった。
    そんな藤原から自分の夢に対して耳を疑いたくなるような言葉をかけられた。
    『お前の夢の相手は、たかが数人だ』と。
    到底、理解できずに皐月の思考回路は停止した。
    「どうしてそんな酷い言い方をするの?」
    僅かの時間停止していた思考を半ば強制的に再起動させると、意外と簡単に答えが導き出された。
    「そっか・・・私の気持ちが本気なのか確かめたくて、あんな言い方をしたのね」
    皐月は、初めて見る険しい表情の藤原に向かってこう言った。
    「もぉ~、藤原君ったら。私の夢の本気度を確かめたくて、わざとそんな言い方したんでしょ? 藤原君からしたらちっぽけな夢だと思うかもしれないけど、私にとっては・・・」
    と、藤原は皐月の話しを途中で遮るように口を開いた。
    『皐月ちゃん!』
    「…えっ? あっ、はい」
    『皐月ちゃんの本気度を確かめるために言った訳じゃないよ!』
    「えっ?」
    『僕は、フラワーコーディネーターとして今の立場を築き上げ、活躍している皐月ちゃんのことを尊敬しているんだよ。でも・・・』
    「でも? でもなに?」
    次の返答をしてこない藤原に向かって皐月は声を荒立てた。
    「どうして何も言わないの? ねぇ、藤原君・・・もしかして藤原君は、その人がどんな仕事をしているかで、人を評価しているの?」
    『えっ?』
    「フラワーコーディネーターとして今の立場を捨てて、小さな花屋の店主になって、気の合った生徒さんたちと小さな教室を開く・・・その仕事のどこがいけないの!」
    皐月は悔しさに、涙を堪えることが出来なかった。

  • #604

    六輔 (木曜日, 29 10月 2020 19:25)


    大切に思う人から裏切られたという経験があるか。
    あるとするなら分かるだろうが、とても悲しいものだ。
    裏切られるのは大抵の場合、「この人だけは絶対に自分を裏切らない」と、思っていた人からであり、そのことは、裏を返せば裏切られそうな相手からは裏切られないということだ。
    理由は至ってシンプルで、裏切られそうな相手に何をされても、はなから裏切られるかもしれないと思っていたために、何も感じないからだ。
    ようは、裏切るなんて考えられないくらいに信頼してきた人から裏切られる確率は高いわけで、だからこそ裏切りは悲劇なのだ。
    悲劇が生まれる理由、それはそこに「期待」があったからこそ「裏切り」が生まれた訳であり、期待が無ければ裏切りも生まれてはいない。
    であるならば、期待を持った自分が悪いのか。
    いや、そんなことはないと思いたい。
    もし万が一、信頼を寄せていた人に裏切られたとしたなら、「憤り」を感じるのではなく、「ガッカリする」で終わらせられるのがいい。
    そうすればハートが引き裂かれるような痛みを感じずに済むだろう。

    皐月は、藤原に対して絶対的な信頼を寄せていた。
    その藤原から自分の夢を全否定されたように思った皐月は、悔しさに涙を堪えることが出来なかった。
    悲しみと憤りを感じ、居ても立っても居られなくなった皐月は、鞄から財布を取り出し、珈琲一杯分のお金をカウンターの上に置き、藤原の制止を無視して無言で店を飛び出した。

  • #605

    六輔 (土曜日, 31 10月 2020 18:33)


    店を飛び出した皐月は、歩道を駅に向かって歩き始めた。
    辺りは既に暗くなり始め、道沿いに建つショップのガラス窓からの灯りが歩道を照らしていた。
    皐月は平静を装い、普段と変わらず歩こうとしたが、こみ上げてくる悲しみに涙が止まらず、両肩の揺れを抑えて歩くのが精一杯だった。
    何度も通っている歩き慣れた駅までの道。
    いつもであれば、道沿いにあるショップの前で歩みを止め、ガラス越しにウィンドーショッピングを楽しむ皐月だったが、ショップの灯りに歩道が照らされているところでは歩みを速めて駅を目指した。
    そう、涙を悟られないようにするために。
    藤原がどうしてあんな言い方をしたのかと、冷静になって考えようと試みはしたが、何をどう考えればいいのかも分からなかった。
    だから、この時の皐月がこみ上げてくる悲しみを減らし、溢れ出る涙を抑えるためには、脳の中の思考を停止させることしか手段がなかったのだった。
    そしてそのことが、皐月の人生を大きく変えてしまうことになる。

    抜け殻のようになってしまった皐月は、これから自分の身に災難が降りかかることを知らぬまま駅に向かって歩いていた。
    そう、美代子に導かれているかのように。

  • #606

    六輔 (日曜日, 01 11月 2020 20:00)


    皐月が飛び出していったあとの「あんくる」は、他に客もなく、藤原一人となっていた。
    飛び出していく皐月を止められなかったことを悔いるようにじっとたたずんでいた藤原だったが、ようやく気を取り直してカウンターを出た。
    ゆっくり歩いて皐月が座っていた場所までいくと、カウンターテーブルの上にお金が置いてあることに気づき、そっとそれを手に取った。
    そして、まだ微かに温もりが残る珈琲カップをトレーに載せ、それをカウンターテーブルの上に置くと、皐月がいつも座っている椅子に腰を下ろした。
    しばらくそのままでいた藤原だったが、「ふぅ~」と細く息を吐いて両手を組み、うつむきながら組んだその両手を額に当てて目を閉じた。

    藤原は、決して皐月の夢を否定していた訳ではなかった。
    それでも皐月に対して厳しくあたってしまったのは、皐月が仕事を変えることで自分と同じように後悔をしてほしくなかったからだった。
    そうである。
    藤原は、口にすることはなかったが、記者を辞めたことを後悔していたのだった。
    会社の方針に従うことが出来ずに退社し、その時の勢いで記者を辞めてしまったことを時間が経ってから悔いても、それは後の祭りだった。

    「あんくる」のマスターとして次のステージに進み、食うに困らない程度の収入で暮らしている藤原は、決してマスターの仕事が嫌な訳ではなかった。
    常連客に頼られ、いろんな相談事を持ちかけられたりすることに、自分の存在価値を感じていた。
    だが、記者として第一線で働いていた時の仕事の達成感や充実感は、喫茶店の店主とは比べ物にならないほどやりがいのあるものだったのだ。
    心の奥底では、もし許されるのであれば、また記者の仕事をしたいと願っていたのだった。

  • #607

    六輔 (月曜日, 02 11月 2020 19:37)


    藤原は、皐月がフラワーコーディネーターとしてどんなふうに働いていたのか知っていた。
    皐月が、大きなイベントを成功させるたびに、その仕事ぶりを藤原に報告していたからだ。
    自分の仕事ぶりを話す皐月は、いつも輝いていた。
    「大変なんだぁ…」
    と、愚痴をこぼしているように見えても、それは仕事が充実しているからであって、嫌がっての「大変なんだぁ…」ではないことぐらい、藤原には分かっていた。
    だから、皐月の夢の話しを聞かされた時には、真っ先に自分のように後悔してほしくないという気持ちになってしまったのだった。
    「何百人を相手にした大きなイベントを支える仕事と、数人を相手にする仕事では違い過ぎる」と。
    瞬時にそう考えてしまった藤原だったが、その気持ちを上手く皐月に伝えられなかったのである。
    何故なら、自分が記者を辞めたことを悔いているとは言いたくなかったからだ。
    さらには、「その人がどんな仕事をしているかで、人を評価しているのか?」と皐月に言われてしまったことに、言葉が出てこなくなってしまったのだった。

    藤原は、皐月がいつも座っている椅子に腰を下ろし、皐月がフラワーコーディネーターとして働いてきた姿を想像していた。
    「皐月ちゃん・・・」

  • #608

    六輔 (火曜日, 03 11月 2020 21:06)


    藤原は、自分自身に問いかけていた。
    『俺は・・・皐月ちゃんが実家に戻って夢を叶えようとしたことが気に入らなかったんじゃないのか?だから・・・』
    答えは、ノーではなかった。
    後悔して欲しくないというのも正直な気持ちだったが、突然に実家に戻ると言われたことに拒絶反応を起こしてしまい、自分を見失ってあんな冷酷な言い方をしてしまったのだと思えた。
    もちろん、皐月に対して恋愛感情を抱くことなどあってはならないことは分かっていた。
    それでも、心の奥底では、今の関係が永遠に続いてくれることを望んでいる自分がいることを知ったのだった。
    と、突然に不安がよぎった。
    『俺・・・皐月ちゃんの夢を、たかが数人だなんて・・・このままだと、皐月ちゃんは二度とここに来ないかもしれない』
    自分の言葉がいかに酷いものであったのかようやく気づいた藤原は、居ても立っても居られなくなった。
    藤原は、考える間もなく席を立ち、そのまま店を飛び出して皐月の後を追ったのだった。

  • #609

    六輔 (水曜日, 04 11月 2020 20:23)


    藤原が「あんくる」を飛び出し、自分の後を追いかけていることなど知る由もなかった皐月は、駅を目指して歩き続けていた。
    一方、藤原は人の流れをかいくぐり、前を歩く者を次々に追い越して先を急いでいた。
    皐月が駅に着く前に追いつくために。

    街は、5時を過ぎて歩道に人が増え始めていた。
    歩道を埋め尽くし始めた人たちは、一人一人何か目的をもって街に来ているのだろうが、その様は、まるで大都市という舞台装置の熱気を演出するために多くのエキストラが一斉に街に繰り出しているようだった。
    その人の多さに歩くスピードを緩めざるを得なかった皐月だったが、それでも人の流れに従って先を急いだ。
    早く家に帰って一人になるために。

    駅が近づいてきた。
    大きな交差点に来た皐月は、進行方向の歩行者用信号機の青の点滅が終わろうとしていることに前を歩いていた人に続いて交差点に足を踏み入れることを断念し、歩みを止めた。
    交差点の先頭に立ち、信号機が青に変わるまでのおよそ1分間、下を向いてその時を待ち始めたが、直ぐに聞き覚えのある音が皐月の耳に入ってきた。
    「カッコー…カッコー…カッコー・・・」
    それは視覚障がいの方のために交通量の多い幅の広い道路に設置されてある音響装置付信号機の音だった。
    すると、思考を停止させられていた皐月の脳は、信号機の音を勝手に「進め」と判断してしまい、うつむきながら赤の横断歩道を歩き始めてしまった。
    そうなれば当然起こり得る事態が待ち受けていたのである。
    けたたましいブレーキ音がなった。
    「キーーー!!!」

  • #610

    六輔 (木曜日, 05 11月 2020 19:27)


    ボーっとして赤信号の横断歩道を歩き始めてしまった皐月は、聞こえて来た急ブレーキの音の方角に視線を向けた。
    「あっ…」
    自分に向かって乗用車が突進してきていることは直ぐに認知できたが、恐怖に体は硬直し、皐月に出来たのは目を閉じることだけだった。
    次の瞬間、交差点内で鈍い衝突音がなった。

    「ドン」

  • #611

    六輔 (金曜日, 06 11月 2020 20:13)


    急ブレーキをかけた乗用車は、ギリギリのところで皐月との衝突を回避した。
    だが、そのすぐ後ろを走ってきたトラックが停止しきれずに乗用車の後部に衝突させてしまったのである。
    「ドン」
    皐月は、その音に反応し恐怖に閉じていた瞼を開けると、トラックに衝突された弾みで乗用車が自分に向かって動き出すのが見えた。
    急ブレーキの音を聞いたときには恐怖に体が全く動かなかった皐月だったが、今度は後ろに下がって乗用車との接触を避けた。
    だが、このことによって皐月の人生が大きく変わってしまうのであった。

  • #612

    六輔 (日曜日, 08 11月 2020 21:04)


    皐月が後ろに下がって乗用車との接触を避けるのと同時に別の音が聴こえて来た。
    「キーーーガシャ!!!」
    それは、トラックのさらにその後ろを走ってきた二人乗りのバイクが、トラックとの衝突を避けようと急ブレーキをかけたが、その操作を誤り、バランスを失って転倒した音だった。
    バイクに乗っていた二人は宙を舞い、アスファルトに強くたたきつけられた。
    そして、主を失ったバイクは路上を滑り、皐月に向かってきたのである。
    「…あっ」
    もう気づいたときにはどうすることも出来なかった。
    皐月はバイクと衝突する瞬間、目を閉じた。
    そのとき、咄嗟に思い浮かばれたのは友の顔だった。

    「・・・美代子」

  • #613

    六輔 (火曜日, 10 11月 2020 19:04)


    事故の翌日

    病院の待合室の椅子に腰をおろしてうつむく藤原にご婦人が声をかけてきた。
    「すみません…」
    『あっ…はい』
    「重里と申しますが…」
    『重里さん?・・・あっ、皐月さんのお母さんですか?』
    「そうです。皐月と一緒に救急車に乗ってこられた方が待合室にいらっしゃるって、今さっき看護婦さんから聞かされたものですから…」
    『あっ、はい。自分が皐月さんと一緒に・・・あっ、藤原と申します』
    「皐月が大変なご迷惑をおかけしたようで、申し訳・・・」
    と、頭を下げようとする母親に藤原は、皐月の容態のことを尋ねた。
    『そ、そんな迷惑だなんて…そ、それより皐月さんの容態は…皐月さんの意識は戻ったんですよね?…お母さん!』

  • #614

    六輔 (水曜日, 11 11月 2020 19:21)


    母親に皐月の容態を尋ねる藤原の瞼は腫れあがり、眼は充血していた。
    病院の待合室で一睡もせずに一夜を明かしていたからだ。

    事故当時のこと、
    藤原が、皐月が事故にあった交差点に来たのは、事故が起きてから数分後のことだった。
    速足で皐月の後を追ってきた藤原が、事故のあった交差点にくると、辺りは騒然としていた。
    『事故でもあったのかな?』
    と、覗き込むと、視線に入ってきたのは、路上に横たわる皐月の姿だった。
    『えっ?・・・さ、皐月ちゃん?』
    藤原は、野次馬を押しのけて皐月の横にいき、皐月の肩を揺らしながら名を呼び続けた。
    『皐月ちゃん! 皐月ちゃん! 皐月ちゃん!』
    野次馬の一人が、藤原を制止した。
    「動かさない方がいい! 救急車がいま来るから!」
    動揺して落ち着かない藤原に、もう一人の野次馬が、聞いてもいないのに説明してきた。
    「その人、赤信号で止まっていたのに、考え事でもしていて何か勘違いでもしたのか、急に歩き出して・・・そこにあるバイクにぶつかって倒れたんだ。きっと頭を打ったのかもしれない」
    『…皐月ちゃん』
    藤原は、全く動かない皐月を見守るしか出来なかった。
    間もなく救急隊が到着し、横たわる皐月をタンカーに乗せ、救急車に乗り込もうとするところを藤原が駆け寄った。
    「じ、自分はこの方の知合いです。一緒に病院まで…」
    皐月と藤原を乗せた救急車は事故現場から救急病院に向かって走り去った

  • #615

    六輔 (木曜日, 12 11月 2020 20:44)


    『それより皐月さんの容態は…皐月さんの意識は戻ったんですよね?…お母さん!』
    そう藤原に尋ねられた皐月の母親はゆっくりと話し始めた。
    「皐月が、赤信号を無視して横断歩道に・・・それが今回の事故の原因なんだと警察の方から説明をされました」
    『…はい、自分も事故の瞬間はそばにいなかったので、詳しくは分からないのですが、事故を目撃した方がそんなことを…』
    「そうだったんですか。幸いなことに、今回の事故で大きなケガをなさった方はいらっしゃらないんだそうです」
    『バイクのお二人も大丈夫だったんですね?』
    「はい、警察の方からはそうお聞きしました。軽い打撲だけで済んだと。追突した乗用車の運転手もトラックのドライバーさんもお怪我はなかったそうです」
    『そうですか、それは良かった・・・で、皐月さんは? 意識は戻ったんですよね?』
    「・・・はい。今朝ほど、意識は戻りました」
    『良かったぁぁぁぁ…』
    と、安堵の表情を浮かべた藤原に母親は表情を曇らせてこう言ったのだった。
    「戻るには、戻ったんですけど・・・」
    『・・・えっ? 何かあったんですか?』

  • #616

    六輔 (土曜日, 14 11月 2020 20:04)


    母親は、ゆっくりと話しを続けた。
    「藤原さんとおっしゃいましたよね?」
    『あっ、はい』
    「間違いならごめんなさい…藤原さんは、皐月の親友だった美代子ちゃんのご主人と違いますか?」
    『はい、そうです!美代子の夫です』
    「やっぱりそうでしたか。確か、皐月が30なかばの頃にお亡くなりになったんでしたよね?…美代子ちゃんは」
    『はい、35歳のときでした』
    「皐月は、美代子ちゃんには高校時代からずっと親しくしてもらって、18で東京に出てきたときには美代子ちゃんと一緒に暮らして…結局、藤原さんとご結婚なさるまで一緒にいて・・・そんな美代子ちゃんを失って、あの頃の皐月はすっかり憔悴しきって、立ち直るのに随分と時間がかかりました」
    『・・・はい』
    と、皐月の母親は、何かを確認するかのようにこう尋ねてきたのだった。
    「藤原さんは喫茶店をなさっているそうですね?」

  • #617

    六輔 (日曜日, 15 11月 2020 21:49)


    藤原は、母親の質問にごくごく普通に答えた。
    『はい。美代子が亡くなってから5年ほどして、それまで勤めていた新聞社を辞めて喫茶店を開きました』
    「皐月が言ってました。藤原さんのところにちょくちょくお邪魔していろんな相談にものってもらっているって」
    『いや、お店に来ていただいて感謝しているのは僕の方です。皐月さんは、毎月19日に必ず来てくれるんです。19日は美代子の月命日なんです』
    「…えっ? 19日?」
    皐月が19日には必ず「あんくる」に来るのだと聞かされた母親は、表情を変え、語気を強めてこう言った。
    「19日には必ず?って、いうことは、昨日がその19日だったですよね? それじゃ、やっぱり皐月は藤原さんのお店に向かう途中で事故にあったんですか?」
    『えっ?・・・やっぱり?』

  • #618

    六輔 (火曜日, 17 11月 2020 19:05)


    この時の藤原には、皐月の母親が、どうして「やっぱり」と言ったのか、その理由は分からなかった。
    それでも皐月が事故にあったのは自分に責任があると考え、
    「いえっ…来る途中ではなくて、喫茶店からの帰り道でした」
    と、答えてから、「あんくる」であったことの全てを初めから話したのだった。

    藤原の話しを全て聞いた母親は、ゆっくりと頭を下げてこう言った。
    『藤原さん・・・自分を責めたりしないでください。藤原さんは皐月と真剣に向き合っていてくれるからこそ、言ってくれたことなんですから。悪いのは、母親の私です』
    「…えっ? お母さんが悪いことなんかないですよ」
    『そうじゃないんです、藤原さん。私は、分かっていて言ってしまったんです』
    「…えっ? なにをですか?」

  • #619

    六輔 (水曜日, 18 11月 2020 20:24)


    藤原の問いに母親はこう続けた。
    『私は、今の皐月はとても輝いていると思っているんです』
    「えっ? 今の?」
    『はい。フラワーコーディネーターとして皆の先頭に立って働いている皐月が。大きなイベントを成功させるたびに私のところに電話してくるんですけど…とても誇らしげに話すんですよ』
    「そうなんですねぇ」
    『はい。でも私は、皐月にはいつもこう話すんです。「自分一人の力で出来たことじゃないんでしょ? 会社のスタッフに支えられて…いつも謙虚でいなきゃだめよ!」ってね』
    「皐月さんは、いつも口癖のように話していましたよ。素晴らしい仲間たちに支えられて私は仕事ができているんだって。お母さんに言われたことをしっかりと受け止めていたんですね」
    『そうでしたかぁ。それを分かっていながら私は、父親の話しをしてしまったんです』
    「…実家の前にある空き地にお店を…っていう話しですね」
    『そうです。話せば皐月が苦しむことになるのを知っていながら…』
    そう言った母親の頬を一筋の涙が伝った。

  • #620

    六輔 (木曜日, 19 11月 2020 20:01)


    藤原は、母親が落ち着くのを待って話しを続けた。
    「お母さん…聞いてください」
    『…あっ、…はい』
    「昨日、皐月さんから話しを聞かされたときに、真っ先に思ったのは、後になって後悔して欲しくないということでした。お母さんが今言ったように、フラワーコーディネーターとして働く皐月さんは本当に輝いていると…自分もそう思っているからです。正直、自分は記者を辞めてしまったことを悔いています。今でも、何百何千万人に自分の書いた記事を届けたいという思いがあります。でも、それはもう叶いません。そう、新聞社を辞めてしまったからです。皐月さんが、これまで積み上げて来たフラワーコーディネーターの仕事を全部捨てて…僕は、思わず言ってしまったんです。皐月さんがやろうとしているのは、今の仕事と比べたらちっぽけな仕事だ!…って」
    『…そうかもしれないですね』
    「でも、僕は気づいたんです。僕が新聞社を辞めたことと、皐月さんがラワーコーディネーターの仕事を辞めることでは、絶対的な違いがあるってことに」
    『…えっ?・・・違い?』

  • #621

    六輔 (金曜日, 20 11月 2020 19:52)


    藤原は、凛とした表情でこう続けた。
    「皐月さんと僕の絶対的な違い・・・それは、皐月さんが小さなお店の店主になったとしても、皐月さんは大好きな花と向き合って仕事が出来るということです」
    『…藤原さん』
    「記者であった僕はペンを置いて喫茶店のカウンターに立つようになりました。もう、自分で真実を調べ上げ、自分の信念で書き上げた記事を誰かに伝えるという仕事は出来ません。でも、皐月さんは違います。たとえ、仕事の中身が変わろうとも、花で人を癒し、感動させ、誰かに思いを伝える・・・そのことに変わりはないと思うんです」
    藤原は、黙ってうなずく母親に向かってこう言った。
    「皐月さんは、花を愛し、花に愛されているんだと思います」
    『えっ?お花に?』
    「はい。僕にはフラワーコーディネーターの仕事はよくは分かりませんが・・・皐月さんは花と会話が出来て、花の気持ちになって花が「こう飾って欲しい」と思っている一番美しく見える飾りつけが出来るからこそ、沢山の人を感動させられる作品が作れるんだと思うんです。そんな皐月さんの教えを受けることが出来る生徒さんは、きっと幸せなんだろうなと思って…」
    『…藤原さん』
    「それを早く伝えたくて、昨日は皐月さんの後を追ったんです」
    『そうだったんですねぇ…』
    「ところで、お母さん…」
    『あっ、はい』
    「さっき、お母さん気になることをおっしゃっていましたよね。皐月さんの意識が、戻るには戻ったんですけど…って。皐月さんに何かあったんじゃないですよね?」

  • #622

    六輔 (日曜日, 22 11月 2020 23:11)


    心配そうに尋ねる藤原に母親は表情を曇らせて話し出した。
    『皐月は、見た目には普通に話しているんですけど…話がどこかおかしいんです』
    「えっ?…おかしい?・・・どんなふうにですか?」
    『来週の日曜日に、フラワーアレンジメント部の部活があって、そこでキャンドルアレンジを教えなきゃならないから、早く退院しなきゃならないの!…とか』
    「えっ?フラワーアレンジメント部?って、何ですか?」
    『分からないです。初めて聞いた言葉です。で、どこで教えるのって聞くと、自分のお店に決まってるじゃない!…って、言うんです。それと・・・』
    「…それと?」
    『昨日、事故にあう前まで“たっちゃん”っていう人のお店にいたって言うんです。“たっちゃん”って誰?って尋ねると、親友の旦那さんだよ!って・・・それって、藤原さんのことですよね?』
    「あぁ・・・でも、ぼくは“たっちゃん”っていう名前でもないし、僕も初めて聞く名前です」
    藤原の話しに、やはり皐月が言っていることが普通ではないと感じた母親は、頭を下げるようにしてこう言ったのだった。
    『今から皐月に会ってもらえませんか?』

  • #623

    六輔 (月曜日, 23 11月 2020 18:24)


    ≪トントン!≫

    母親はドアをノックし、明るく声を発した。
    『皐月、お母さん・・・入るよ~』
    そう言って母親は、明るい表情に変え、一人先に病室に入った。
    直ぐに部屋の中から二人の会話が聴こえて来た。
    『ねぇ、皐月…』
    「なぁに、お母さん」
    『さっき看護婦さんが言ってた皐月と一緒に救急車に乗ってきてくれた人、連れて来たよ!』
    「えっ?ホンと?廊下にいるの?」
    『うん』
    皐月は、明るく言った。
    「ねぇ、早く入ってもらってよ!」
    その声に続いて母親の声が藤原の待つ廊下まで聞こえて来た。
    『どうぞ、入ってください!』
    その声に促され、藤原はゆっくりと病室に入った。
    綺麗な個室に、ベッドが一つだけ置かれ、そのベッドの上で上半身を起こして待つ皐月がいた。
    「皐月ちゃん…」
    心配そうに名前を呼んだ藤原に向かって皐月はこう言ったのだった。
    『わたし、ドジっちゃった。ごめんね・・・たっちゃん』と。

  • #624

    六輔 (火曜日, 24 11月 2020 20:06)


    皐月は、外傷ひとつなく、表情もいつもと全く変わりない柔らかな笑みを浮かべてベッドの上にいた。
    そんな皐月と会えたことに胸をなでおろした藤原だったが、自分のことを別人と間違えていることに、動揺は隠せなかった。
    おそらくは事故後のショックで一時的に記憶が混乱していて、話しているうちに思い出してくれるだろうと、そんな考えで皐月に促されるまま母親の隣に置かれた椅子に腰を下ろした。
    「座って!」
    『う、うん』
    藤原は、口角を上げて優しく微笑み浮かべて普段通りに会話を始めた。
    『皐月ちゃん、ケガがなくて良かったね』
    「…うん、ごめんね、心配かけちゃって」
    『そんなこと気にしないで! 事故にあったことは覚えてるの?』
    「う~ん、それがよく覚えていないんだ。気が付いたら病院のベッドの上。お母さんが隣にいてくれて…事故にあったんだよって聞かされた。たっちゃんのお店を出て、駅に向かって歩いていたことまでは覚えているんだけど…」
    『えっ?・・・たっちゃんのお店?』

  • #625

    六輔 (水曜日, 25 11月 2020 19:12)


    「そうだよ!」
    と、言い切った皐月に藤原はもう一度尋ねた。
    『たっちゃんのお店って?』
    「はっ?何言ってるの、たっちゃん。わたし、昨日、たっちゃんのお店に行ったよね?」
    『…えっ? 皐月ちゃんの言うたっちゃんのお店ってどんなお店?』
    「はぁ? 何訳の分からないこと言ってるの? 喫茶店! 『あんくる』だよ! どうしちゃったの?…たっちゃん」
    今度は、困った表情で黙り込む藤原に一気に不安を感じた皐月は、助けを求めるかのように母親に視線を送ってこう尋ねた。
    「え~? 私の記憶違い?・・・わたし、なんかおかしいの?」
    不安がる皐月をなだめるように母親はゆっくりと話し出した。
    『皐月…ちょっと聞いて』
    「・・・なに?」
    『あれかなぁ・・・事故のショックで記憶が混乱しちゃっているのかもしれないねぇ。ねぇ、皐月…この方はね、藤原さんだよ!』
    「はっ? 藤原?さん?」
    『そう、藤原さん。ほらっ、皐月の親友だった美代子ちゃんの・・・亡くなった美代子ちゃんの旦那さんだよ』
    母親の話しを聞いていた皐月は、無表情のままこう言った。
    「・・・だれ? ・・・美代子ちゃんって?」
    美代子のことを知らないと言う皐月に、母親は言葉を失った。

  • #626

    六輔 (金曜日, 27 11月 2020)


    事故から3日後、
    病室のベッドの上で皐月は、その日の午後に主治医から説明を受ける精密検査の結果を気にしていた。
    「お母さん…」
    『うん? どうしたの?皐月』
    「わたし、心配だなぁ・・・検査の結果」
    『そうね…う~ん、でもさ、いまここで心配しても何も始まらないし、とにかく先生の話しをしっかり聞きましょ…記憶が曖昧になっているのも、きっと一過性のものよ。現実、こうしてお母さんのことは何一つ記憶が変わることなく覚えていてくれたんだし…まぁ、その点、お母さんは良かったわよ。でも、お父さんは可哀想なぐらいに落ち込んじゃったけどねぇ…』
    「…うん。でも、どうしてお父さんの記憶が無くなっちゃったんだろう」
    そう言って皐月は、母親から渡された写真に視線をおとした。
    それは、父親の古希のお祝いに家族でヨーロッパに旅行した時の写真だった。
    皐月は、写真に写る父親の顔を眺め、無くなってしまった記憶を一生懸命に手繰り寄せるかのように、写真にそっと手をやった。

  • #627

    六輔 (日曜日, 29 11月 2020 19:33)


    ≪重里皐月さん・・・どうぞお入りください≫
    皐月は看護師の案内に「はい」と応え、恐る恐る主治医の待つ部屋に入いった。
    部屋に入ると、壁に複数枚のレントゲン写真が飾られたその前のデスクで諸星和己似の主治医が待っていた。
    『どうぞ、お座りください』
    優しく誘導され、皐月は主治医の前に置かれた丸い椅子に腰を下ろすと、主治医が体を皐月の方に向けて話しを始めた。
    「どう?体調は?」
    『あっ、はい。痛いところもありませんし、いたって元気です』
    「そう、それは良かった。食事は?」
    『はい、出されたものは、好き嫌いを言わずに全部食べるようにしています』
    「それは偉いな! いい心掛けだね」
    『…はい』
    「さて、検査の結果が出たので、今日は重里さんに分かるように説明していきますね」
    『・・・はい』
    主治医が看護師に合図を送ると、前に張られたレントゲン写真に明かりがともされ、脳を輪切りにした十数枚の写真が浮かび上がった。
    皐月は恐る恐るレントゲン写真に視線をやった。
    すると、写真に影があるのを見つけて愕然としたのだった。

  • #628

    六輔 (月曜日, 30 11月 2020 20:34)


    皐月は、恐ろしさに言葉を失った。
    主治医がそんな皐月の様子に気づいて声をかけてきた。
    「脳のレントゲン写真って、初めて見るのかな?」
    『…えっ?・・・あっ…はい』
    「普通、そうだよね。脳のレントゲン写真って白い影が写っていたりして、気持ちのいいものじゃないよね」
    『・・・そ、その影は・・・やっぱり脳にダメージを受けていたんですか?』
    「うん?」
    主治医は優しく微笑んでこう言った。
    「重里さん・・・この影は正常な人の脳の写真ですよ! 影があるように思いましたか?初めて見る人には、そんなふうに見えてしまうのかもしれないですね。でも、大丈夫、何も心配いらないですよ。異常は全く認められません」
    『で、でも・・・母親のことは全部覚えているのに、父親の記憶が無くなってしまったり、知人の名前を間違えたり・・・何か異常があったんじゃないんですか?』
    「異常?・・・事故の時に外傷もなかったところからすると、脳には一切のダメージを受けていないはずです。ただ、重里さんが言ったように記憶が無くなっていたり、記憶が混乱してズレていたりするのは・・・」
    皐月は、固唾を吞んで主治医の次の言葉を待った。

  • #629

    六輔 (火曜日, 01 12月 2020 19:31)


    主治医は、皐月に落ち着いて聞くようにと諭してから、検査結果の説明を始めた。
    「じゃぁ、検査結果について初めからもう一度説明していきますね。結論から言うと、重里さんの脳は一切のダメージを受けていないと思われます。それは、今も言いましたけど、この綺麗な写真が証明しています。100人の脳外科医が見ても、その全員が同じことを言うはずです。それだけ綺麗な写真だと言えます」
    『そうなんですね?』
    「はい。それで、重里さんが言う記憶のことなんですが・・・それは一種の記憶喪失かと思われます」
    『…記憶喪失?・・・ですか?』
    「…はい。記憶喪失にもいくつかの症状があって、重里さんの場合は、ご自身の母親のことは全部覚えているという点から、軽い方と判断できます。全ての記憶、自分のことも分からなくなってしまう記憶喪失だってありますからね。それで、重里さんの場合、これが一過性のもので、時間が経てば全て記憶が戻るのか、それとも・・・」
    『それとも?』
    「…戻らないのか・・・それは全く分かりません」
    『どうして分からないのですか?』
    「う~ん、ようは外傷が無いために治療方法がないんです。あとは重里さんが徐々に記憶を取り戻していくのか、いかないのか」
    『えっ? 父親との記憶が戻らないこともあるっていうことですか?』
    主治医は、ゆっくりとうなずいた。

  • #630

    六輔 (木曜日, 03 12月 2020 21:22)


    諸星和己似の主治医は、皐月の不安を少しでも払拭するように丁寧に説明を続けた。
    「でね、重里さんのようなケースの症例を調べてみたんですが、いくつか症例・文献を見つけました。重里さんの場合、これはあくまでも仮定での話ですが、ショックを受けたことで、脳がある種の拒絶反応を起こし、それによって記憶が無くなったり、記憶が混乱したりしているのではないかと」
    『ショック・・・ですか?』
    「実際には記憶が残っているのに、何かしらの理由でそれを思い出したくないと、脳が勝手に・・・そんなイメージです」
    『脳が拒絶?・・・勝手に?ですか』
    「そうです。従って、記憶の全てを取り戻すためには、脳が嫌がっている部分を取り除いてあげるとか・・・そういったことが必要になってくると、文献には書かれてありました」
    『・・・そうなんですね』
    「そこでなんですが・・・」
    『はい』
    「脳に異常がなく、外科的な治療はありませんので、退院をしていただくことになりますが、ぜひ、退院後に精神科に通院してカウンセリングを受けていただけたらと思っています」
    『えっ?精神科?・・・ですか?』
    「精神科と聞くと、悪いイメージを持たれる方が多いですが、うちの精神科医にちょっと変わった、それでもとても優秀なドクターがいるんです。彼の治療は、私のイメージしているカウンセリングとは全く異なるものなのですが・・・まぁ、とにかく一度そのドクターに会ってください。私の診察の後、診ていただけることになっていますので」
    『・・・はぁ』
    「ちょっと変わり者で、慣れるまでは大変かもしれないですけどね(笑)」
    この後出会う精神科医がどれだけ変わり者であるのか、その時の皐月には、知る由もなかった。

  • #631

    六輔 (金曜日, 04 12月 2020 20:08)


    ケガや病気に苦しんでいる人を治療し、その回復を促すのが「医師」の務めだ。
    医師には、病院に勤める勤務医、自ら診療所を開いている開業医、そして皐月が入院しているような大学病院で医療技術の研究を行う研究医もいる。
    どんな病気の治療であっても、より良い治療結果をもたらすためには、患者とドクターとの信頼関係は必須だ。
    皐月がこれから治療を受けていくのは精神科医であり、内科や外科のように症状を示すレントゲン写真を見ながら、その治療方法を考えるドクターとは違い、精神科医の治療のツールとなるのは、患者との会話だ。
    ドクターを信頼できなければ、カウンセリングでどんな話しをされようが、おそらくは耳に残ることもなく、そこに良い治療結果が導かれることはないだろう。
    皐月は間違った治療を受けたことがあるというトラウマがあり、真に信頼できる医師でなければ治療を受けたくないという思いがあった。
    だから、主治医の言った「ちょっと変わり者で、慣れるまでは大変かもしれないけどね」と言って、笑ったことに不安を感じずにはいられなかったのだった。

  • #632

    六輔 (土曜日, 05 12月 2020 19:18)


    皐月は、諸星和己似の主治医に挨拶をした。
    『お世話になりました』
    「はい、お大事に」
    席を立ち、深く頭を下げた皐月に看護師が声をかけてきた。
    「それじゃ重里さん、これから直ぐに次のドクターのところに案内しますので」
    『えっ? これから直ぐですか?』
    皐月は、変にいろいろ考えて身構えてしまうよりは、直ぐに診察を受けてしまったほうがいいのだろうと、自分に言い聞かせ、看護師に返事をした。
    『…はい、分かりました』
    大学病院の廊下を看護師に連れられて歩いていくと、「精神科」と書かれたプレートが掲げられた入口が見えて来た。
    そのドアが他の診察室とは異なり、簡単には開けられないように頑丈に出来ていることが、皐月にそのドアの先が異空間であることを感じさせた。
    看護師は入口の前で立ち止まり、インターフォンで皐月が診察に来たことが告げられると、厚いドアが自動で開けられ、中から精神科の別の看護師が出て来た。
    「重里さんですね?どうぞ」
    その看護師の後をついていくと、直ぐにドクターの待つ診察室の前についた。
    皐月の緊張はピークに達していた。
    『どんな先生なんだろう…』

  • #633

    六輔 (日曜日, 06 12月 2020 20:23)


    看護師は診察室をノックし、中に入ることの許可を申し出た。
    『先生、重里さんをお連れしました。よろしいですか?』
    と、直ぐに返事が返ってきた。
    「はい」
    看護師は、柔らかな表情で皐月に診察室に入るよう促した。
    『どうぞ、入ってください』

    ≪ドクン…ドクン≫
    皐月の心臓の鼓動は、周りに聴こえてしまうのではないかと心配するほどだった。
    『失礼します…』
    小さな声で診察に入ると、白衣を着たドクターの背中が目に入った。
    『大きな背中』
    それがダクターに初めて会った時の第一印象だった。
    と、直ぐにドクターが振り向いて、緊張する皐月を安心させるかのように笑ってみせた。
    と、皐月が緊張していたのはこの時までだったのである。
    ドクターは、とても精神科の医者とは思えないほどの“なまり言葉”で皐月に声をかけて来た。
    それは皐月の聞き覚えのある尻上がりの“なまり”だった。

    「はい、ど~もねぇ」

  • #634

    六輔 (月曜日, 07 12月 2020 18:44)


    皐月は、自分の中で勝手に想像していた精神科のドクターのイメージと、いま、自分の目の前で優しく微笑みながら“なまり全開”で喋るドクターのあまりにものギャップに衝撃を受け、心の中で叫んでいた。
    『ねぇ、優秀なドクターって聞いていたけど・・・な、なんなの、この“なまり”。ドクターって、患者の前でなまっていいの?』と。
    ただ、第一印象は決して悪いものではなかった。
    年齢的には50代後半、若かりし頃は渡辺徹に似ていたのではないかと思われるが、おそらくは年齢と共にわがままし放題、だらしない体系が、二枚目から三枚目へと路線を変えていた。

    ドクターは皐月の驚きを察したかのように話しを続けた。
    「はい、はい、どうもねぇ~~・・・って、もしかして、こんななまったドクターで大丈夫なの?って、心配になっちまったけ?・・・わりぃやねぇ…これがオイラの標準語でねぇ」
    皐月は、思わず吹き出しそうになりながらも真面目に応えた。
    『いやっ、実はその“なまり”・・・私の実家の話し方にそっくりなんです』
    「おやっ?重里さんの実家はどこだんべ?」
    『(笑)(笑)(笑)(笑)(笑)その“べ”が、まさしく実家の“なまり”です』

  • #635

    六輔 (月曜日, 14 12月 2020 19:29)


    ドクターの出身地が自分と同じであることに親近感を抱いたことで、皐月の緊張感は一気に和らいだ。
    『先生はどこの高校ですか?』
    「うん? 粕尾高校だっぺよ」
    『えっ? 粕尾高校? じゃぁ私の先輩です!』
    「あれぇ~、そなんけぇ~、そりゃぁたまげたない」
    『私の出た高校からお医者さんになるなんてすごいです!』
    「まぁ、二浪して医学部に入ったんだけどね(笑)」
    『いやぁすごいです・・・でも、先生・・・』
    「うん?なんだべや?」
    『私の生まれたところって、そんなになまってましたっけ?』
    「なまってっぺよ」
    『確かに、その尻上がりの口調はそうですけど…でも、なんかとっても懐かしい気がします(笑)』
    「そっけ。って、そう言えば、自己紹介がまだだったない。田川です。ちっとも医者っぽくねーきっとが、よろしくない」
    『あっ…はい』
    「それと、重里さんを担当する看護婦さんも紹介しておくべや。これがさ、おいらと高校の同級生でさ…」
    『えっ?先生の高校時代の同級生?っていうことは、看護婦さんも粕尾高校なんですか?』
    「うん! この病院で偶然に一緒に働くようになったんせ」
    と、田川ドクターは、隣の部屋に届くように声を発し、看護婦を呼んだ。
    「礼子く~ん」
    田川に呼ばれて現れたのは、とてもドクターと同級生とは思えない若く綺麗な女性だった。
    看護婦は田川の横に立って軽く頭を下げた。
    「笹中です、よろしくお願いします」

  • #636

    六輔 (火曜日, 15 12月 2020)


    笹中と名乗る看護婦は、歌手のMay J.に似た、とてもエレガントな女性だった。
    田川ドクターの横にたった笹中は、笑顔を見せながらこう言った。
    「先生、患者さんの前では苗字で呼んでくださいって、前にお願いしましたよね?」
    『いやっ、重里さんの前では特別!って、ことで』
    「はっ? どうしてですか?」
    『重里さんは僕たちと同じ高校の出身なんだってさ』
    「えっ?粕尾高校なんですか?そうですかぁ・・・って! それと、私を名前で呼ぶことは関係ないんじゃないんですか?」
    『まぁ、そんな固いこと言わずにさ…とにかく、出身が一緒ということで、いろいろと話しも弾むと思うから、よろしく頼むよ、レイちゃん!』
    「もぉ~、先生ったら・・・分かりました」

    その日の田川の診察は、事故の起きた状況を聞き取る程度で終わり、皐月は診察室を出た。
    と、笹中が精神科を出るまで皐月に連れ添った。
    「驚いた?」
    『えっ? 何がですか?』
    「いやっ、いきなり“なまり”全開のドクターが出てきて…」
    『あぁ、そうですね。でも、聞き覚えのあるなまりで…一気に緊張が解けた気がしました』
    「そう。あんな感じのドクターだけど、とても信頼できるドクターだから安心してね」
    『はい。笹中さんもよろしくお願いしますね』
    「はい、こちらこそ。あまりかしこまらずに、気軽に何でも話してね」
    「はい・・・でも、先生と笹中さんが同級生だなんて思えない!だって、笹中さんはとっても綺麗で若々しい!」
    『あ~ ドクターはそこまで重里さんに話したの?・・・もぉ~。でも、同級生なのよねぇ…今はあんな感じの体形だけど、高校時代はスタイルも良くてモテタのよ』
    「え? もしかして元カレとかだったりして?」
    『(笑)違うわよ!』

    出口に立った笹中は、優しく微笑んで皐月を見送った。
    『今度の診察の時には、重里さんの高校時代の話も聞かせてね』
    「はい」

  • #637

    六輔 (木曜日, 17 12月 2020 00:24)


    皐月を見送り、田川の診察室に戻ってきた笹中は、ドクターと看護師という関係ではなく、高校の同級生の話し方で皐月のことを話し合ったのだった。
    『見送ってきましたよ』
    「ご苦労さま…レイちゃん」
    『もぉ~、いきなり田舎の“なまり言葉”で話し出すから、もう少しで吹き出すとこだったわよ、清(キヨシ)君!』
    「すまん、すまん」
    『患者さんの前で、あんな話し方したこと一度もないのに・・・でも、患者さんが同郷だって聞かされて、あぁ~なるほどなぁって・・・もしかして先に調べてあったの?』
    「うん、重里さんのお母さんから先にいろいろ聞いてあったから。今回の記憶喪失は、重里さんの仕事のことと、どうやら高校時代の記憶とも関係しそうな気がするんだ」
    『どうしてそう思うの?』
    「お母さんが言うには、実家に戻ってきて欲しいようなことを事故の前日に話したらしいんだ。今のフラワーコーディネーターとしての立場もあったりして、きっと苦しんでいるんじゃないかって・・・それと、事故に会う前に一緒にいた喫茶店のマスターの名前が記憶から消えていて、その代わりに出て来た“たっちゃん”っていう人は、お母さんによると、どうやら高校の同級生じゃないかって言うんだ。こういった症状のときは、何かひっかかりのある人の名前が、どこかで食い違って記憶を書き換えてしまったりすることがあるんだよ。まぁ、その辺の話しから聞いてやって欲しいんだ」
    『はっ? 聞いてやって欲しい?』
    「うん」
    『私が聞くの?』
    「そう!」
    『もぉ~ 看護師の仕事を超えてるわよ、清君! ったく、人使いが荒いんだから!』
    「すまないな・・・レイちゃん」
    『まぁ、私たちの後輩なんだし、それに恋心にまつわる悩みが原因だったりしたときには、女性の私の方が話しやすいだろけどね・・・清君の頼みじゃ、聞かない訳いかないか』
    「よろしくね、レイちゃん」

  • #638

    六輔 (木曜日, 17 12月 2020 18:39)


    体の異常が無いことを確認し、無事退院できた皐月だったが、完全な社会復帰には程遠かった。
    会社の上司、同僚、部下の名前と顔は全て一致したが、一番に皐月を悩ませたのは、コーディネートのイメージが全く湧かなくなってしまったことだった。
    上司の理解もあり、当分、裏方として働き、前面に出てのコーディネートから離れることになった皐月は、
    『わたし、このまま仕事が出来なくなっちゃうのかも』
    と、徐々に覇気を失っていってしまったのだった。

    退院して一カ月が経ち、皐月は三度目の受診のために田川の元を訪れていた。
    「どう?仕事のほうは」
    『・・・はい』
    「うん? 元気ないねぇ。何か困ったことでもあった?」
    『前のように、コーディネートのイメージが湧かないんです。それで、しばらく裏方として働くことになったんですけど…みんなに迷惑をかけているようで・・・』
    「みんなに迷惑?・・・う~ん、責任感の強い重里さんだろうから、分かるけど・・・みんなずっと一緒に働いてきた仲間たちなんでしょ?だったら、みんな困っているときはお互い様ってことかなぁ…ねっ、重里さん」
    『・・・はい』
    田川は、診察に訪れるたびに元気がなくなっていく皐月を案じ、その日は笹中と話していくようにと、特別な処方箋を言い伝えたのだった。
    「いろいろお姉さんに相談してみなさい」
    『…はい、そうさせてもらいます』
    そう返事した皐月だったが、田川の話し方から、すっかり“なまり”が消えて無くなっていることも気づかないほど、元気を失っていたのだった。

  • #639

    六輔 (金曜日, 18 12月 2020 20:09)


    田川の診察を終え、会計で治療費の支払いを済ませると背中越しに声が聞こえてきた。
    「重里さん!」
    振り向くと、バーバリーの洋服に身を包み、胸元にさりげなくティファニーのインフィニティペンダントをつけた礼子が立っていた。
    『あっ、笹中さん…』
    「会計済んだところ?」
    『はい』
    「田川ドクターから私と話してきなさいって言われたでしょ?」
    『はい。どこに行けばいいですか?って聞いたら、会計を済ませてそこで待っていてって…えっ? 今日は非番なんですか?』
    「あぁ、私服だから?・・・非番じゃないけど、ドクターが病院じゃ息苦しいだろうから、外でお茶しながら、ゆっくり話してきなさいって…」
    『それで着替えてきてくれたんですか?』
    「そうよ! ドクターがポケットマネーを出してくれて、美味しいもの食べてきなさい!って」
    『え~ なんか申し訳ないです』
    「いいのいいの!ドクターはたくさんお給料もらってるんだから(笑)」
    『本当にすみません』
    「そんな水臭いこと言わないの! ドクターと私の後輩でしょ!」
    『後輩?…あぁ、10歳ぐらい下ですけど…』
    「あぁ~、それは言わないの! 気持ちは重里さんとそう変わらないんだから!(笑)」
    『は~い』
    「そう、そう。そうやって笑っている重里さんが一番可愛いわよ。でさ、昼食まだでしょ?病院を出たところに美味しいお肉が食べられるお店ができたんだけど・・・」
    『私は、何でも大丈夫ですけど…』
    「じゃぁ、そこで決まりね!病院を出て直ぐだから、歩いていきましょ!」
    二人は病院を出て、銀杏並木を並んで歩いた。
    「ねぇ、重里さん…」
    『はい』
    「先輩後輩なんだし、名前で呼んでもいい? 皐月ちゃんって」
    『あっ、ぜんぜん構いません・・・じゃぁ、私は・・・礼子さんって呼んでもいいですか?』
    「礼子さん?・・・う~ん、ダメ! レイちゃんって呼んで!言ったでしょ!気持ちは変わらないって!(笑)」
    『は~い(笑)』
    礼子の優しさに、真の笑顔を見せた皐月だった。

  • #640

    六輔 (土曜日, 19 12月 2020 18:20)


    礼子が昼食に選んだのは、有名ブランド和牛が食べられる高級レストラン。
    二人が店に着いた時には、10人近くが順番待ちをしていた。
    『ねぇ、レイちゃん…』
    「うん?」
    『なんかすごく高そうな感じのお店だよ。こんなところでお昼をいただくなんて申し訳ないです』
    「さっき言ったでしょ! ドクターがポケットマネーで!って。余計な心配しないの!』
    30分ほど待たされてようやく席に案内された二人は、迷うことなくランチステーキをオーダーし、分厚く柔らかなステーキを平らげた。
    食事中は、他愛のない話題に終始したが、デザートが運ばれてきたタイミングを見計らって、礼子の皐月に対する処方が始まった。
    「ねぇ、皐月ちゃん…」
    『はい』
    「皐月ちゃんの高校時代って、どんなだったの?」
    『えっ?私の高校時代?』
    「うん、部活とか・・・仲のいいお友達とか…」
    『部活は、テニス部だったの。真っ黒になって頑張っていたなぁ。もう今じゃ動けなくなっちゃったけど…』
    「そっかぁ、運動部だったのね。じゃぁ、どちらかと言えば活発な女の子だったわけだ」
    『うん・・・どちらかと言えば…そうかなぁ』
    「仲のいいお友達はいた?」
    『えっ?・・・・・・』
    「うん?どうしたの? 皐月ちゃん」
    『なんか、あまり覚えてないんだぁ・・・だから、きっと仲のいいお友達はいなかったのかもしれない』
    この時の礼子は、皐月の母親から皐月の高校時代のことや、卒業してから12年もの間、一緒に暮らしていた美代子の存在を聞いて知っていたのだった。
    礼子は、皐月の『仲のいいお友達はいなかったのかもしれない』という話しに、「…そっか」とうなずくだけだった

  • #641

    六輔 (日曜日, 20 12月 2020 22:23)


    人の名前が出てこなかったり、やらなければならないことをすっかり忘れてしまったり。
    そんなふうに日常の生活の中で、うっかり何かを忘れてしまうことは誰にでもあることだろう。
    だが、そんな生理現象の「物忘れ」とは異なるいわゆる病の一つに「記憶障害」というものがある。
    その名の通り、自身の記憶に障害をきたすことで、最近のことだけでなく、これまで生きて来た自分の人生にかかわる一部がそっくり「抜け落ちる」ように思い出すことが出来なくなってしまう病だ。
    皐月はまさしく「記憶障害」だった。
    そんな皐月と二人きりで話しをするため礼子は、田川ドクターからしっかりと指示を受けてその日に臨んでいたのだった。
    それは、決して昔の記憶を無理に思い出させようとしないこと、そして皐月がどんなことに拒絶反応を示すのか、その辺を可能な限り探ってきて欲しいというものだった。
    田川ドクターと看護師の礼子が、皐月を特別視していた訳ではなかったが、二人の後輩であることに、特に礼子が皐月に対して一生懸命になっていた。

    皐月が、高校時代の記憶を失っているのではないかと、表情を曇らせてしまったことに、礼子は、話題を変えるように自分の高校時代の話しを始めた。
    「ねぇ、皐月ちゃん…私ね、高校一年生の時に好きな男の子がいたんだけどさぁ…」
    「レイちゃんのような可愛い女の子が、どんな男の子を好きになったの?」
    『う~ん、丸坊主で、すごく恥ずかしがり屋さん』
    「へぇ~。お付き合いとかしたの?」
    『しなかった。っていうか、出来なかった。わたし、バカな手紙を出しちゃったのよね』
    「バカな手紙? どんな手紙を送ったの?」
    『うん…それがさ・・・』

  • #642

    六輔 (月曜日, 21 12月 2020 22:05)


    礼子の話しを聞き終えた皐月は、半分呆れ顔。
    10歳以上も年が違う礼子に対して、まるで同級生と話しているかのように尋ねた。
    「どうして、そんな手紙だしちゃったの? それでその男の子はレイちゃんの方に振り向いてくれたの?」
    『・・・くれなかった』
    「でしょ。実際のところは先輩とお付き合いなんかしていなかったんでしょ?」
    『・・・うん』
    「じゃぁどうして・・・」
    『だって・・・女の子から告白するなんていけないことだと思ってたし、でも、何もしないと、私のことを気にかけてくれないと思って…』
    『だったとしても、他の方法は思いつかなかったの? レイちゃんのような可愛い女の子が、わざわざ嘘の手紙なんか出さなくても・・・」
    『・・・若気の至りってことで』
    「こんな美人からお手紙もらって、喜びから一転! 相当ショックを受けたでしょうね」
    『・・・よく分かんない』
    「受けたはずよ!」
    『私から手紙なんか出さなければ、もしかしたら…』
    「もしかしたら?・・・」
    『もぉ~今更そんなこと考えてもしょうがないわよね。でも、これも青春! 何もなかった人生より、いろいろあって、今になっていい思い出になっているとしたなら、それはそれでいいことでしょ!?』
    「・・・うん、そうだね」
    『皐月ちゃんは、私みたいな失敗談はないの?』
    「・・・えっ?」

  • #643

    六輔 (火曜日, 22 12月 2020 20:10)


    皐月の記憶障害の原因を探るため、高校時代の記憶を辿ることでヒントになればと、そのために自らの失敗談を話した礼子だったが、実は、それは全くの作り話だったのである。
    真実は、そんな失敗談など全く無く、順風満帆な高校時代を送り、幸せな結婚をした礼子だった。
    皐月が礼子の嘘に感づいた訳ではなかったが、「高校時代の失敗はなかったの?」と尋ねられたことに、一筋の涙を流した。
    『えっ?・・・皐月ちゃん…わたし、何か辛いことでも聞いちゃった?』
    「違うの。わたし、高校時代に部活で頑張っていたこととかは覚えているのに、お友達のことや、自分の恋愛体験のこととか、記憶がほとんどないの。だから、レイちゃんが自分の失敗談を話して、私が話しやすいようにしてくれているのに、何も話せることがないの・・・だって記憶が無いんだもの」
    そう皐月に言われた礼子は、田川ドクターの言葉を思い出していた。
    「記憶を無くした人が、何が一番悲しいかっていうと、辛かった思い出だけじゃなく、楽しかった、幸せだった、嬉しかった記憶までも無くなってしまって、それをもぉ思い出せないのかと、それを恐怖に感じてしまうことなんだ」と。

    礼子は、鞄からレースのハンケチを取り出し、そっと皐月に手渡した。
    『ごめん・・・皐月ちゃん』
    「謝らないで、レイちゃん。だって、私のためにこうして時間を費やしてくれているんだもの」
    そう言われた礼子は、その瞬間に決意した。
    『ねぇ、皐月ちゃん・・・わたし、決めた』
    「えっ? なに?」
    『わたし、看護師であることとは関係なしに、皐月ちゃんがまたフラワーコーディネーターとして輝けるように、そのために皐月ちゃんの力になりたい!』
    「レイちゃん…」
    拭い去った涙のあと、新たなうれし涙が皐月の頬を伝った。
    「ありがとう…レイちゃん」
    『だって、可愛い私の後輩なんですもの…ねっ、皐月ちゃん』

  • #644

    六輔 (水曜日, 23 12月 2020 23:50)


    それは、年の瀬も押し迫った12月19日のことだった。

    ≪カランコロン≫
    「あんくる」の入口のドアベルが鳴ると同時に、元気な声がした。
    『マスター!』
    カウンターの中にいた藤原はその声に反応し、入口に視線を向けると、そこには満面の笑みを浮かべた水嶋陽菜子が立っていた。
    「あっ、ヒナちゃん!」
    『ご無沙汰してます、マスター』
    「いやぁ、ヒナちゃんが来るのを待っていたんだ」
    『えっ?ホンとですかぁ…嬉しいです!』
    と、陽菜子はマスターとの挨拶もそこそこに、カウンター席に視線をやると、それまでの笑顔から寂しそうな顔に変えて尋ねた。
    『あれっ?来てないんですか?』

    美代子の月命日である19日にスケジュールを合わせ、「あんくる」にやってきた陽菜子だったが、当然いるであろうと思っていた皐月の姿がないことに、大きく肩を落としたのだった。
    『え~…今日は19日ですよね・・・マスター』
    黙ってうなずく藤原に、皐月に何か事情があって来ていないのだということを直ぐに察した陽菜子だった。

  • #645

    六輔 (木曜日, 24 12月 2020 20:28)


    事故にあった翌日、意識を取り戻して初めて藤原に会ったとき、皐月は藤原を“たっちゃん”と呼んだ。
    そこにいた母親に違うと諭されても、藤原の名を思い出すことは出来なかった。
    さらには、皐月が忘れるはずのない無二の親友の美代子のことも記憶からそっくり抜け落ちていたことに、藤原は
    「きっと、事故後のショックで一時的に記憶が混乱しているだけで、直ぐに美代子のことを思い出してくれるに違いない」と、思っていた。
    だが、藤原が何度皐月を見舞っても、自分のことも美代子のことも思い出してもらえることは無かった。
    皐月が退院した後には、毎月19日になるたびに、皐月が来てくれることを願い続けたが、皐月が「あんくる」に来ることは無かった。
    皐月が事故にあったことが、自分にも責任があると考えていた藤原は、何か皐月の力になれないものかと、自ら田川ドクターのもとに足を運んだ。
    「先生・・・僕から重里さんに連絡をして、前と同じよう月命日に来てもらうように話してもいいでしょうか?」
    田川の返事は「ノー」だった。
    『藤原さんのお気持ちは分かりますが、焦って逆効果になってしまうことがあります。もう少し様子をみましょう。それで、藤原さんの力をお借りした方がいいとなった時には、私の方からお願いの連絡をしますので』
    藤原は、田川ドクターの話しに黙ってうなずくことしか出来なかった。

  • #646

    六輔 (金曜日, 25 12月 2020 20:55)


    藤原は、あえて明るく振舞った。
    「ヒナちゃん、入って!」
    『…あっ、はい』
    入口に立ったままの陽菜子をカウンター席に誘導した藤原は、違う話題を切り出した。
    「就職、内定もらえたそうだね」
    『ようやく、正式採用通知をいただいたので、今日、ご挨拶に伺ったんです』
    「そっか。良かったね」
    『はい。私の頑張り次第で、記者の仕事をさせてもらえることになっているので、とにかく頑張ります』
    「うん。僕が新聞社に勤めていたときも、初めから記者をやらせてもらえる人はほとんどいなかったなぁ。ヒナちゃんなら大丈夫! 頑張って」
    『はい、ありがとうございます。あ~ぁ、皐月さんにも報告したかったのになぁ』
    「・・・・・」
    『ねぇ、マスター…』
    「うん?」
    『皐月さんから、今日は来れないよって、連絡があったんですか?』

    藤原は、この時初めて陽菜子に皐月が事故にあったことを話したのだった。
    藤原の話しに驚き、体を震わせながら聞き入っていた陽菜子の頬は、涙でぐしょぐしょになっていた。
    気持ちを落ち着かせ、陽菜子はようやく口を開いた。
    『皐月さん・・・19日のことも忘れてしまったんですかね?』
    「・・・うん、はっきりは分からないけど…」
    『大切なお友達のことまで忘れてしまったとしたら、皐月さん、かわいそう』
    「・・・うん」
    『治らないことは無いんですよね? いつか、記憶は戻るんですよね?』
    「それは僕には分からない・・・戻ってくれることを信じるだけだよ」
    『・・・そうですね』

  • #647

    六輔 (土曜日, 26 12月 2020 20:30)


    陽菜子は、鞄からスマホを取り出して皐月とのツーショット写真を画面に写しだし、それをじっと見ながら言った。
    『ねぇ、マスター…』
    「うん?」
    『皐月さん・・・私のことも忘れてしまったんですかね?』
    「それは、僕には分からないけど…」
    『先週、皐月さんに電話したんです。その着信履歴は残っていると思うんですけど、返信が無いんです』
    「それは・・・」
    と、言って、一度躊躇った藤原だったが、「ふぅ~」と小さな息を吐いてこう言った。
    「皐月ちゃんのお母さんから聞いたことなんだけど・・・皐月ちゃん、自分の携帯に着信があっても、その登録の名前で知らない人の電話には出ないようにしているらしいんだ。登録されてある訳だから、知り合いのはず、あるいはとっても大切な人のはずなのに、思い出せなければ、その人に悲しい思いをさせてしまうからって…」
    陽菜子は、ようやく乾いたまなこを再び濡らした。
    『皐月さんが悪い訳じゃないのに・・・悲し過ぎます。わたし・・・私には皐月さんのためにしてあげられることは無いんですかね?』
    そう話す陽菜子に、藤原は田川ドクターの元を訪ね、聞かされてきたことを陽菜子に伝えたのだった。
    『・・・待つことしか出来ないって…そういうことですよね・・・マスター』
    藤原は、無言のままゆっくりとうなずいた。

  • #648

    六輔 (日曜日, 27 12月 2020 23:00)


    それは、年の瀬も押し迫った12月27日のこと。
    その日の礼子は、親の墓参りと自分の生家に立ち寄ることを兼ねて帰省したその足で、皐月の実家を訪れ、皐月の両親に会おうと考えていた。

    それまで続いていた寒さも和らぎ、木漏れ日のさす穏やかな日だった。
    礼子は、最寄りの駅で降り、そこから散歩がてらにのんびりと歩いて皐月の実家を目指していた。
    普段のエレガントな洋服から一変し、白のニットのセーターと紺色のマウンテンパーカーといったカジュアルな服装が、美しい礼子から可愛らしい礼子へとイメージを変えさせていた。
    皐月の実家のある閑静な住宅街の坂を上り始めると、ケヤキ並木の街路樹が目に留まった。
    ケヤキは、冬の陽の光を歩道に届けさせるため全ての葉が落ち、そこには電飾が施され、夜になればイルミネーションが灯されるようだった。
    礼子は、その街で暮らす人々の普段の生活を想像しながら、坂を上り切ったところにある目的の地を目指していた。

  • #649

    六輔 (月曜日, 28 12月 2020 19:30)


    皐月の両親が住む家は、閑静な住宅街の長い坂を上り切ったところにある。
    坂の頂上が見えてきたことに、礼子は、18歳になったばかりの女の子のような澄んだ綺麗な目で「重里」と書かれた表札を探し始めた。
    そして探し始めて5軒目、
    「あった。」
    西洋風の大きな家であることに、皐月の両親の暮らしぶりが伺えた。
    「立派な家ねぇ…」
    礼子は、身なりに乱れが無いことを確認してから表札の横のインターフォンに向かって話しかけた。
    「すみません…」
    『はい』
    インターフォンから聞こえて来たのは女性の声だった。
    礼子は、皐月の母親であると確信して話し始めた。
    「わたし、笹中と申します。東京で皐月さんが通う病院で看護師をしています。突然お邪魔してすみません・・・」
    と、話しの途中であったが、玄関のドアが開けられ、中から母親が出てきた。
    礼子が、突然の訪問であったことを詫びようとしたが、母親は気にする必要ないと、初対面である礼子を受け入れ、家の中へと案内した。
    居間に通され、湯茶の接待を受けた礼子は、自分が来た目的をもう一度丁寧に話した。
    母親は、礼子の言葉の一つ一つにうなずきながら、感謝の気持ちに目を潤ませていた。
    『ありがとうございます…笹中さん。皐月が高校の後輩だという理由だけで、ここまでご心配いただき、感謝の気持ちで一杯です』
    「お母さんもご心配ですよね。私にどれだけのことが出来るか分かりませんが…」
    ただただ皐月の回復を願う二人がそこにいた。

  • #650

    六輔 (火曜日, 29 12月 2020 18:08)


    皐月の最近の状態を、お互いが知る限りで情報交換した。
    記憶が戻っている様子のないことを確認した礼子は、母親に尋ねた。
    「お母さん、皐月さんの高校時代の卒業アルバムを見せていただくこと出来ますか?」
    『えっ?高校時代のですか?』
    「はい。皐月さんに見せてってお願いしたことがあるんですけど、実家に置いてあるからって…」
    『どうでしたかねぇ…皐月のものはきちんと整理して残してありますので、いま見つけてきますね』
    そう言って席を立った母親は、10分もたたずに戻ってきた。
    その手には、礼子のものと外観の同じ卒業アルバムが持たれていた。
    『笹中さん、ありましたよ』
    母親からアルバムを受け取った礼子は、何故に高校時代のアルバムを見せてもらうのか、その理由を母親に説明しながら皐月の思い出を1枚1枚めくっていった。
    『たしか、皐月は7組だったと思います』
    「7組ですか?」
    礼子は、母親の言葉に7組のページを開いた。
    「あっ!」
    直ぐに皐月を見つけることができた。
    「これ、皐月さんですよね?」
    母親はアルバムを覗き込むと、礼子の言葉にうなずき、そして一人の女の子に人差し指を添えてこう言った。
    『この人が美代子ちゃん…唐品美代子さんです』
    「美代子さん?」
    『高校時代からのお友達で、高校卒業と同時に東京の学校に進学したんですけど、皐月と美代子ちゃんは、美代子さんが30歳で嫁ぐまでの12年間、ずっと一緒に暮らしていたんですよ。』
    「えっ?・・・そんなお友達がいたんですね。この方はいまどこにお住まいなんですか?」
    母親は、礼子の質問に悲しそうな顔をして答えた。
    『もう10年以上も前に亡くなりました』と。

  • #651

    六輔 (水曜日, 30 12月 2020 19:26)


    母親が、皐月と美代子がどれほどまでに強い絆で結ばれていたのかを話し出すと、礼子は時折メモを取りながら母親の話しに耳を傾けた。
    高校時代には、美代子が皐月の家に泊まりに来て、家族同然に晩御飯を一緒に食べたり、二人一緒に入浴したり、美代子がとても優秀であったことであったり、母親は美代子のことの知る限りを語った。
    そして、美代子が亡くなったときの話しになった。
    『美代子ちゃんの告別式には私も参列させてもらったんです。祭壇がたくさんのお花で飾られてあるのをみて、これは間違いなく皐月が飾り付けたものだと分かりました』
    「きっと親友への思いの全てを花に託したんでしょうね」
    『そうだと思います。それと、最後のお別れに美代子ちゃんに献花をしたんですが・・・美代子ちゃん、真っ白なウエディングドレスに身を包み、たくさんの花に囲まれて静かに眠っていたんです。皐月、いつも私に話していたんです。いつか必ず美代子ちゃんの結婚式をコーディネートしてあげるんだって。結局、美代子ちゃんは式を挙げることなく・・・それで皐月は…』
    涙ぐんで話しを続けられなくなった母親に代わって礼子が話しを始めた。
    「実は、私には二人の娘がいて、姉の方が去年結婚したんです。その時に担当してくれたフラワーコーディネーターの方がとても素敵な方で…その方のおかげで娘はとても素敵な式を挙げることができたんです。フラワーコーディネートのお仕事は、直接人前でその仕事ぶりを見てもらうものではないですけど、とても大事なお仕事であり、責任も重いですよね。そんな世界の第一線で働いていた皐月さんが・・・私は、皐月さんにはまた以前のようにお花と会話しながら働いて欲しいと願っているんです。だって、皐月さんって、とても素敵な女性だから…」
    礼子の話に、母親は嗚咽を上げた。
    『笹中さん・・・ありがとうございます』

  • #652

    六輔 (木曜日, 31 12月 2020 22:33)


    ようやく落ち着いた母親は、美代子が亡くなってからのことを話し始めた。
    『皐月は、美代子ちゃんの月命日には毎月必ず美代子ちゃんの旦那さんのお店に顔を出していたんです』
    「えっ? 皐月さんからそんな話し聞いていませんよ」
    『…はい。こないだ電話で皐月に聞いたんですけど、事故にあってからは一度も顔を出していないようです。きっと・・・』
    「・・・そうですね。お母さんの想像されている通りだと思います。何故かというと、皐月さんに高校時代のことを尋ねたときに、高校時代には親しかった友達はいなかったって…」
    『あれだけ仲の良かった美代子ちゃんのことも忘れてしまったなんて・・・悲しい病気ですね』
    「そうですねぇ・・・でも、何かのきっかけで記憶を取り戻すことだってある訳ですから…諦めずに・・・はい、私は絶対に諦めません」
    『皐月が事故にあって救急車で運ばれたとき、救急車に一緒に乗って病院まで来てくれたのが美代子ちゃんの旦那さんなんですけど…』
    「ということは、事故にあう直前までお店にいたんですかね?」
    『はい、そうだと思います。皐月は覚えていないと言っていましたが・・・美代子ちゃんの旦那さんは、藤原涼輔さんというお名前なんですが、皐月は藤原さんをみるなり“たっちゃん”って呼んだんです』
    「お母さんは“たっちゃん”という方をご存じなんですか?」
    『知らないです。その方が高校の同級生なのかどうかも分からないです』
    「・・・そうですか」
    と、礼子は、卒業アルバムに視線をやり“たっちゃん”と呼ばれそうな人物を探した。
    「皐月さんと同級生だと・・・あっ、この人「関達哉(せき・たつや)さん」と・・・あっ、この人も「矢神達洋さん」あとは・・・」

  • #653

    六輔 (金曜日, 01 1月 2021 21:02)


    アルバムの中から“たっちゃん”と呼ばれそうな人物5人を見つけた礼子は、母親に了解をとってスマホでその5人と美代子の写真を撮り、それぞれの写真に名前を付して保存した。
    「これでヨシ!と」
    母親は礼子のその作業を見守っていたが、すっと立ち上がり、窓の外を眺めながらこう言った。
    『笹中さん・・・』
    「あっ、はい」
    『ここから見える空き地に皐月のお店を建てたらどうだって・・・そう父親が言ったことを、私が皐月に伝えてしまったんですよね。私がそんなことをしていなければ、もしかしたら事故にあうこともなかったのかと思うと・・・』
    「お母さん、そう考えるのはやめましょう。お母さんがご自分を責めても何も生まれません。かえって皐月さんを苦しめるだけです。それよりも皐月さんをこれからどう支えていくか…それを考えていきましょう」
    『笹中さん…ありがとうございます。今の言葉で救われた気がします。笹中さんのような優しい方に支えていただける皐月は幸せ者です』
    「私と皐月さんが出会ったのも、きっと何かの縁だと思うんです、神様が・・・」
    『“縁”ですか・・・ありがとうございます、よろしくお願いします笹中さん』
    「はい。で、ひとつお伺いしたいんですが、美代子さんの旦那さんはどんな方なんですか?」
    『皐月から聞いていたのは、確か美代子ちゃんと結婚した頃は新聞社で記者をしていて、美代子ちゃんが亡くなったあとに喫茶店を始めたようですよ』
    「喫茶店の場所と名前はご存じですか?」
    『確か、お茶の水女子大の近くだって言ってました・・・それとお店の名前は…あっ、「あんくる」っていうお名前だったと思います』
    礼子は、母親の説明をしっかりとメモに書きとった。

  • #654

    六輔 (日曜日, 03 1月 2021 18:46)


    年が明けた平成21年1月19日のこと。
    昭和38年1月生まれの藤原は、その日、47回目の誕生日を迎えた。
    いつもの通り店をオープンさせ、いつもの通り珈琲を淹れて、いつもの通り常連客を接客していた。
    と、そこに陽菜子がやってきた。
    『マスター!』
    「あっ、ヒナちゃん…いらっしゃい」
    と、元気に入口に立った陽菜子は、もしや皐月がカウンター席にいやしないかと視線を向けたが、微かな期待も外れて残念顔。
    それでも笑顔を取り戻し、カウンター席に座って鞄からプレゼントを取り出した。
    『はい、マスターこれ!』
    「えっ?」
    『お誕生日おめでとうございます』
    「覚えてくれていたの?」
    『はい』
    「なんか悪いね、プレゼントまで…」
    『だって、私が「あんくる」で働いていたときには、私の誕生日には必ずプレゼントをいただいていましたからね』
    「ありがとう、遠慮なくいただくよ」
    と、陽菜子は皐月がいつも座っていたカウンター席を眺め、寂しそうな顔をして、
    『今日は美代子さんの月命日でもあるんですよね。皐月さん、やっぱり来てないんですね』
    「・・・うん」
    陽菜子は、藤原の淹れてくれたお気に入りのブレンドコーヒーを味わいながら飲んでいたその時だった。

    ≪カランコロン≫
    「あんくる」の入り口から綺麗な女性が入ってきた。

  • #655

    六輔 (月曜日, 04 1月 2021 23:10)


    その女性は礼子だった。
    母親から「あんくる」の話しを聞かされた礼子は、皐月の話しを聞くためにやってきたのだが、どうせならと19日を選んで来たのだった。
    珈琲好きの礼子は、店に入って直ぐに感じた香りで、この店の珈琲がどれほど美味しいものであるのか瞬時に理解し、柔らかな微笑みを浮かべた。
    「いらっしゃいませ」
    カウンターの奥にいた藤原の声に礼子は軽く会釈をし、そのままカウンター席の前に立った。
    『ここ、いいですか?』
    「どうぞ」
    礼子は、カウンター席の椅子に座って店内をゆっくりと見まわした。
    アンティーク調の落ち着いた雰囲気が直ぐに気に入り、家の近くにあれば間違いなく常連になっているだろうと思えた。
    礼子は、メニューを見て一番上に書かれた「オリジナル珈琲」を注文し、藤原に尋ねた。
    『初めてお邪魔して、いきなりすみません。こちらのマスターでよろしかったですか?』
    「あっ、…はい」
    『わたし、東京医療福祉大学病院で看護師をしている笹中と申します』
    「えっ?東京医療福祉大学病院ですか?」
    『そのご様子だと、なんとなくお気づきになられたかもしれませんが、重里皐月さんのことをお伺いしたくてお邪魔させていただきました』
    「はい、あっ…はい。皐月ちゃんですね」
    『皐月さんの担当看護師になって、皐月さんからいろいろ話しを聞いたところ、私と皐月さんの出身が同じで、しかも卒業した高校も同じということが分かって…』
    「そうなんですかぁ」
    『それで、やっぱり後輩となれば特別な思いもありますし、何より、皐月さんには、またフラワーコーディネーターとして活躍して欲しいと思って、今日は、患者と看護師という関係ではなく、個人的に皐月さんのお話しを伺いたくてお邪魔させていただいたんです』
    「はい」
    藤原は、珈琲を淹れるという仕事を忘れ、礼子の話しを聞いていた。

  • #656

    六輔 (火曜日, 05 1月 2021 20:04)


    礼子も注文した珈琲のことなど気にもかけず話しを続けた。
    『実は先月、里帰りした際に、皐月さんの実家にお邪魔させてもらって皐月さんのお母さんに会ってきたんです』
    「そうだったんですか。自分も皐月ちゃんのお母さんには病院でお会いしています」
    『お母さんから皐月さんが親友の月命日には必ずこちらにお邪魔していたという話しを伺ったんです』
    「はい、そうです。もう何年もの間、毎月19日には必ず・・・でも、事故にあってからは一度も…今日もその19日ですけど・・・」
    『そうでしたか。お母さんからいろいろとお伺いしてきたんですが、こちらでも皐月さんの記憶を取り戻す何かのきっかけでも見つかればと思いまして…突然にお邪魔してすみません』
    「いいえ、とんでもないです。皐月ちゃんのためになるなら、どんなことでもお話ししますから」
    と、ちょうど柱の陰になって礼子から見えないところに座っていた陽菜子が急に席を立って二人に絡んできた。
    『マスター、私も一緒に聞きたいです!』
    「うん、そうして。ヒナちゃんが知っていることもあったら話してあげて」
    と、突然現れた陽菜子を見て礼子は愕然とした。
    『えっ?どういうこと? 美代子さん? 嘘! 美代子さんがここにいるはずがない!・・・私、夢を見ているの?』と。

  • #657

    六輔 (水曜日, 06 1月 2021 19:00)


    礼子が、陽菜子を見て目を白黒させていることに気づいた藤原は、その理由を察してこう言った。
    (藤原)「笹中さん…」
    (礼子)「・・・えっ?…あっ、…はい」
    (藤原)「紹介します。以前、ここで働いてもらっていた水嶋陽菜子さんです」
    (陽菜子)「初めまして、水嶋陽菜子です。よろしくお願いします」
    (礼子)「あっ、…はい、こちらこそ。笹中礼子です」
    (藤原)「恐らくですけど…笹中さんは皐月ちゃんのお母さんから美代子の写真を見せてもらったんじゃないですか?」
    (礼子)「あっ、はい。見せてもらいました。その際にスマホで撮影もさせてもらっています」
    (藤原)「やっぱりそうでしたか。ヒナちゃんがあまりにも美代子に似ているんで驚かれたんでしょ?」
    (礼子)「はい、そうです。恥ずかしい話し、夢を見ているのかと思ったぐらいです」
    (藤原)「(笑)皐月ちゃんが初めてヒナちゃんに会ったときも同じでした。きっと、美代子が僕たちの前にヒナちゃんを連れてきてくれたんだって、皐月ちゃんはそう言っていました」
    (礼子)「本当にそうかもしれないですね」
    ようやく事の顛末を理解した礼子は、優しい表情に変えて陽菜子に声をかけた。
    (礼子)「本当にそっくりで驚いちゃった。マスターの元で働くことになったことも、そしてそこで皐月さんと出会ったことも、きっと神様が導いてくれたことなんでしょうね。皐月さんのことで何か知っていることがあったら聞かせてね」
    (陽菜子)「はい!」
    一日でも早く皐月に記憶を取り戻して欲しいと願う藤原と陽菜子にとって、礼子は嬉しい訪問者だった。

  • #658

    六輔 (木曜日, 07 1月 2021 19:40)


    社交性のある陽菜子は、さっそく礼子に打ち解けた。
    (陽菜子)「笹中さん…」
    (礼子)「はい…」
    (陽菜子)「礼子さんって呼んでもいいですか?」
    (礼子)「えっ?・・・(笑)どうぞ。じゃぁ、私もヒナちゃんって呼ばせてもらうわね」」
    (陽菜子)「はい!…ねぇ、礼子さん・・・」
    (礼子)「うん?」
    (陽菜子)「わたし、皐月さんのことが大好きなんです。年は離れていますけどお姉さんのように思っているんです。だから、すごく心配で…ねぇ礼子さん…皐月さんはどんな様子なんですか?」
    (礼子)「う~ん・・・」

    礼子は、看護師である。
    病状など、患者のプライバシーに関わることを他言してはならないのは当然のこと。
    だが、この時の礼子は、皐月から前もって承諾を得ていたのであった。
    「ねぇ、皐月ちゃん」
    『はい』
    「これから先私が、皐月ちゃんのことを知っている人と会う時があったら、皐月ちゃんのことを聞いてもいい?」
    『えっ?…私のことを?』
    「うん。皐月ちゃんが記憶を取り戻すきっかけになることが聞けるかもしれないから…」
    『そういうことなら…』
    「もしかすると、皐月ちゃんのその時の病状なんかも話すかもしれないけど…それでもいい?」
    『…はい。 レイちゃんが必要だと思うことなら、私のどんなことでも話してもらって構わないです』
    「もちろん、その時の私は看護師としてではなく、皐月ちゃんの友達として聞くことになるから、一線は守ってのことだけどね」
    『分かりました、お願いします、レイちゃん』

    皐月にそう約束していた礼子は、話せる範囲で皐月の症状を藤原と陽菜子に話したのだった。

  • #659

    六輔 (金曜日, 08 1月 2021 18:54)


    皐月の症状を聞かされた陽菜子は、目に涙をいっぱいに溜めて礼子に尋ねた。
    (陽菜子)「ねぇ、礼子さん…」
    (礼子)「うん?」
    (陽菜子)「皐月さんは、全ての記憶を失ってしまった訳ではないんですね?」
    (礼子)「そうなの。身近な人で言えば、皐月さんのお母さんのことは覚えていても、お父さんのことは全て記憶を失っていたり、皐月さんの勤める会社の上司や同僚、後輩なんかは全部覚えているのに、自分が手掛けたクライアントさんのことなんかはすっかり抜け落ちちゃっていたりして…」
    (陽菜子)「お母さんは分かるのに、お父さんのことは覚えていないんですかぁ…皐月さんのお父さんとしても悲しいでしょうね」
    (礼子)「そうねぇ。皐月さんの実家にお邪魔したときにはお父様にもお会いしたかったんだけど、会っていただけなかったの。相当に落ち込んでいらっしゃるそうで…皐月さんもお父様がそんな状態なものだから、実家に帰る訳にもいかないって…」
    (陽菜子)「そうなんですかぁ…とっても悲しいですね。なんとか記憶を取り戻して欲しいです。皐月さんのような症状の患者さんって、たくさんいるんですか?」
    (礼子)「皐月さんのようなケースは、私は初めてよ。ただ主治医の先生には経験があって、今まで診て来た患者さんに共通していたのは、記憶を失ってしまった人に対しては、何かしらの想いがあるということなんですって。その想いが記憶を混濁させてしまったり、脳が思い出させないように何かのシグナルを送っているんだそうよ」
    (陽菜子)「何かしらの想い?・・・皐月さん、私のことも忘れてしまったみたいなんです」
    (礼子)「事故のあと、皐月さんに会ったの?」
    (陽菜子)「いえ、会ってはいないです。就職が正式に決まった報告がしたくて電話をしたんですけど、返信がなくて・・・マスターが言うには、携帯に登録があっても、記憶にない人からの電話には出ないし、折り返しもしないって・・・」
    (礼子)「・・・うん、それは私も皐月さんから聞かされた。忘れてしまったことを伝えたくないからって…わたし、それを聞かされたとき、皐月さんに何も言ってあげられなかった」
    (陽菜子)「私もマスターや美代子さんと同じように忘れられてしまった存在なんですよね」
    (礼子)「ヒナちゃん・・・そのことを悲しく想わないであげてね。それだけヒナちゃんに対して熱い想いがあったっていう証拠なんだろうから」
    礼子の言葉にゆっくりとうなずく陽菜子の頬を一筋の涙が伝った。

  • #660

    六輔 (土曜日, 09 1月 2021 19:17)


    礼子は、藤原に尋ねた。
    (礼子)「皐月さんは、事故後にマスターと会ったときに、マスターのことを“たっちゃん”と呼んだそうですね」
    (藤原)「はい」
    (礼子)「皐月さんは、忘れてしまっている方もたくさんいますけど、忘れていない人は、その名前まできちんと覚えているんです。そんな中で私の知る限りでは、名前を間違えた人はマスターだけなんです。だから“たっちゃん”という人が見つけられたら、何か皐月さんの記憶を取り戻すきっかけになるのではないかと思っているんです。マスターは“たっちゃん”という人をご存じないそうですね?」
    (藤原)「はい。皐月ちゃんから聞いたことがありません。もし美代子が生きていたら、分かったのかもしれませんけど…」
    そう聞かされた礼子は、スマホを取り出し、
    (礼子)「これ、皐月さんの実家に行ったときにお母さんの了解をもらって高校の卒業アルバムを撮影させてもらったやつなの。同級生で“たっちゃん”と呼ばれていそうだった人は5人。この人が、関達哉さん…そして5人目…この人が矢神達洋さん・・・名前に聞き覚えありませんか?」
    と、藤原は急に態度を変え、礼子のスマホを奪い取るようにして声を荒げた。
    (藤原)「いま、矢神達洋って言いましたよね?こ、こ、これは…矢神達洋だ!間違いないです。面影が残っています!」

    礼子と藤原のこのやりとりで、これまで長く異なる場所と様々な世代で語られてきたそれぞれの物語が、いま、一つになろうと音を立てて動き始めたのだった。

  • #661

    六輔 (日曜日, 10 1月 2021 20:51)


    藤原の興奮は収まらなかった。
    (藤原)「僕と同じ年齢であることまでは知っていましたけど、まさか、妻の高校時代の同級生だったなんて…」
    (礼子)「マスター、どうしたんですか?そこまで驚かれて。矢神達洋さんとお会いしたことがあるんですか?」
    (藤原)「・・・はい」
    (礼子)「良かったら聞かせてもらえないですか。矢神達洋さんと何があったのか」
    (藤原)「・・・はい、分かりました。実は、私は以前、新聞記者をやっていたんです」
    (礼子)「はい、そのことは皐月さんのお母さんから聞いています。全国紙のトップ記事を書く敏腕記者さんだったそうですよね」
    (藤原)「敏腕であったかどうかは分かりませんが…実は、ある事件の犯人ではないかと取材を続けていた人物なんです・・・この矢神達洋っていう男は」
    (礼子)「えっ、犯人?・・・どんな事件だったんですか?」
    (藤原)「15名の方の尊い命が奪われた事件です。さらには500名を超える被害者が・・・その方たちは今でも後遺症に苦しんでいると聞いています」
    (礼子)「・・・えっ?」
    礼子は、その事件の重大さに言葉を失った。
    藤原は話しを続けた。
    (藤原)「その事件では、テレビも新聞社も各社が過熱報道を繰り返していました。そしてある新聞社が一人の男を怪しいと報道をしたことによって一気に世論が流され・・・事件の早期解決に躍起になっていた警察もその男に捜査の矛先を向けたことで、メディアによる犯人扱いとしての報道はさらにエスカレートしていったんです。でも・・・結局、その男は犯人ではありませんでした。世間ではあまり知らされていませんけど、二人の方が自ら命を絶っているんです・・・そう、冤罪を訴えながら…」
    藤原のその話しを黙って聞いていた陽菜子が、手を震わせながら小声でこう言った。
    (陽菜子)「マスター・・・」
    (藤原)「うん?」
    (陽菜子)「まさかとは思いますけど・・・その事件って・・・倭里(ヤマトリ)毒物殺人事件のことじゃないですよね?」
    (藤原)「・・・えっ?」

  • #662

    六輔 (月曜日, 11 1月 2021 20:20)


    倭里(ヤマトリ)毒物殺人事件が起きた頃は、陽菜子はまだ子供であったはずなのに、事件のことを少し聞いただけでそれを当てたことに藤原は驚かされた。
    (藤原)「ヒナちゃん、良く分かったね。そう、その通り倭里(ヤマトリ)毒物殺人事件だよ」
    そう答えた藤原をさらに驚かせることを陽菜子は尋ねてきた。
    (陽菜子)「矢神達洋さんという方は、まさか、どこかの宗教団体の方じゃないですよね?」
    (藤原)「・・・えっ?」
    藤原は言葉を失った。
    何故なら、藤原が矢神達洋を犯人として疑いながら取材を続けていたことを知る者は無く、さらには、矢神達洋は世間では教団の関係者としては認知されていなかった人物だったからだ。
    藤原は、陽菜子が何故に矢神達洋と教団のことを知っているのか不思議に思いながらもこう答えた。
    (藤原)「ヒナちゃんの聞き方だと、違って欲しいと思っているのかなぁ・・・でも・・・そう、この矢神達洋という男は、宗教団体に関係していた男だよ」
    藤原の言葉に、何をどう理解していいのかも分からないまま、陽菜子はこう言った。
    (陽菜子)「だとしたら・・・この矢神達洋さんが、皐月さんの言った“たっちゃん”という人で間違いないと思います」
    そう言って堪えきれなくなって涙を流す陽菜子に礼子は優しく尋ねた。
    (礼子)「なんか、私が皐月さんの実家に行って“たっちゃん”という人の写真を撮ってきたことで、何かが音をたてて動き出したような…そんな気がするけど・・・ヒナちゃん・・・ゆっくり話してみて。どういうことなの?」

  • #663

    六輔 (火曜日, 12 1月 2021 19:17)


    陽菜子は、自分のスマホを取り出し、居酒屋に行ったときに撮った皐月とのツーショットの写真を見ながら話しを始めた。
    (陽菜子)「わたし、一度だけ皐月さんに飲みに連れて行ってもらったことがあるんですけど…その時に皐月さんが選んだお店は、皐月さんが二十歳の時に高校時代の同級生に一度だけ連れられて行ったお店で・・・わたし、その時にその同級生の名前を聞かされたはずなんですけど・・・それが“たっちゃん”だったのか、“かっちゃん”だったのか・・・いずれにしてもそんな感じの名前でした」
    (礼子)「名前をはっきりとは覚えていないのね?」
    (陽菜子)「…はい。でもたぶん“たっちゃん”と呼んでいたと思います。皐月さんはちょうどその時、美代子さんと喧嘩別れしそうになっていた時で…」
    (藤原)「えっ?美代子と皐月ちゃんが喧嘩別れ? あの二人にそんなことがあったなんて信じられないけど…そうだったんだぁ」
    (陽菜子)「…はい。でも皐月さんは“たっちゃん”に仲間を信じることを教えられて、自分の誤解であったことに気づかされたんだそうです。ただ、その時にちょっとしたすれ違いで“たっちゃん”の頬を叩いてしまったらしく・・・皐月さんはずっとそのことを謝りたいと思っていて、その居酒屋に行けば“たっちゃん”の連絡先が分かるかもしれないからって・・・居酒屋の店長さんは“たっちゃん”の先輩なんです。お店に行くと店長さんが皐月さんのことを覚えていて・・・皐月さんが“たっちゃん”の連絡先を訪ねたら、店長さんはこう言ったんです。「奴は、何の連絡も無しに俺の前から姿を消した。噂では、どこかの宗教団体に入信したと聞いているけど。仲間に何の連絡もしないで姿を消すような奴じゃなかったのに…」って。そんな話しを聞かされた皐月さんは、もう“たっちゃん”のことなんか忘れる!って、私にそう言ったので、あくまで噂なんですよね?ならば人の言葉で自分の想いを曲げないでください!って・・・そう言ったんです。そしたら皐月さん、笑顔を取り戻して「分かった」って。その“たっちゃん”が倭里(ヤマトリ)毒物殺人事件の犯人?・・・そんなの悲し過ぎます・・・だって…」
    そこまで話した陽菜子は、嗚咽を上げてカウンターに顔をうずめて泣き伏せた。

  • #664

    六輔 (木曜日, 14 1月 2021 19:22)


    陽菜子は、話しを続けられないほど声を出して泣いていた。
    礼子には、何がどうなってこうなってしまったのかが全く分からず、隣に座って陽菜子の背中を優しくさすってあげるのが精一杯だった。
    すると、それまでカウンターの中で話しを聞いていた藤原が、何かに気づいたかのように全く異なる表情に変え、カウンターを飛び出して家の奥へと消えていってしまった。
    (礼子)「えっ?・・・マスター…」
    礼子が声をかける間もなく姿を消した藤原だったが、さほど時間を置かずにカウンターに戻ってきた。
    その藤原の手には2冊の黒い手帳が持たれていて、手帳の表表紙には小さな文字でこう書かれてあった。
    ≪倭里毒物殺人事件取材記録≫
    そう、それは藤原が記者をやっていた時に使っていた手帳であり、倭里毒物殺人事件で取材したものがびっしりと記録されてあったものだった。
    昔の記憶を辿るように手帳をめくる藤原の表情は、敏腕記者をやっていた時の表情そのものに変わっていた。
    (藤原)「・・・あっ、あった!」
    藤原は、手帳に残されてあったことを確認すると、指を使って数え始めた。
    「この時、3人兄弟の末の男の子が10歳だったということは・・・」
    藤原は、「ふぅ~~~」と深く息を吐きだして目を閉じた。
    そして、話すべきことを自分の中で整理をし、陽菜子に向かって話し始めた。
    (藤原)「ヒナちゃん・・・そのままでいいから聞いてくれ。さっき僕は倭里毒物殺人事件では、二人の方が冤罪で自ら命を絶っていると話したけど・・・後に亡くなった瀧野瀬忠雄さん・・・これは、ヒナちゃんが一緒に甲子園に行った瀧野瀬紘一君のお父さんなんだね?」
    陽菜子はカウンター席で顔を伏せたまま小さくうなずいた。

  • #665

    六輔 (土曜日, 16 1月 2021 21:23)


    すっかり敏腕記者に戻っていた藤原は、心の中で仮説を立て始めていた。
    「確か、瀧野瀬紘一君は4年前のドラフトで一番に注目をされていた選手だったはず。だが彼は、プロ野球志望届を出さなかった。それだけではなく、大学や社会人野球にも進まずに野球界から姿を消した。あまり野球に詳しくない俺でもそのことは知っている。彼の父親が冤罪を訴えて自ら命を絶っているのだから、その原因を作ったマスコミを憎んでも決して不思議なことでは無いが、それは彼がまだ10歳の時の話だ。10歳たらずの少年に、マスコミを憎むような感情が芽生えただろうか。例えば、姉がマスコミを憎み、それを見て弟の紘一君もマスコミを憎むようになったのかもしれないが・・・でも、そのことを理由に自分でそこまで努力してきた野球を捨てられただろうか・・・それは無いような気がしてならない。だとしたら、彼がプロの道に進まなかったのは何故なのだろうか。いやっ・・・ちょ、ちょっと待て!もっと気になることがある。ヒナちゃんのことだ。ヒナちゃんは浪人してでも就職先に選んだ新聞社に入ると断言していた。それだけではなく、その新聞社の「社会部の記者」になることに強い拘りを持っている。ヒナちゃんが就職先に選んだ新聞社は・・・そう、紘一君の父親…瀧野瀬忠雄さんに対して執拗な取材を繰り返し、結果、自殺に追い込んでしまった新聞社だ・・・うん、間違いない!」
    と、次の瞬間藤原は、背筋が凍る思いで表情を強張らせた。
    「えっ?まっ、待ってくれ!まさか・・・まさかヒナちゃんは紘一君の復讐のために、自らその新聞社に入ろうとしているというのか?」

  • #666

    六輔 (日曜日, 17 1月 2021 18:00)


    藤原は、一旦、仮説を立てることをやめ、自分が記者として倭里毒物殺人事件の真相を追っていたときのことを思い出していた。
    「あの事件は、本当に悲惨な事件だった。世間の注目度の高さに押されるように各メディアの取材は過熱の一途をたどった。事件が動き出したのは、ヒナちゃんが就職先に選んだ新聞社の記者が、化学薬品会社に勤務する者が近所に住んでいることを突き止めたことだったが、それが悲劇の始まりだった。紘一君の父親の弟、そう紘一君の叔父さんに対して各社の取材攻勢が始まり、まるで犯人を探し当てたかのような報道を繰り返し・・・警察も世間の風潮を無視することが出来ずに、紘一君の叔父さんに事情聴取を行い・・・逮捕には至っていなかったものの、結果、冤罪を生むきっかけとなってしまった。
    あの時の俺は、ある宗教団体の動きに注目し、各メディアとは違った取材を続けていた。宗教団体への取材は困難を極めたが、俺は諦めなかった。取材を続けていく中で浮上してきたのが矢神達洋だった。物的証拠は何もなかったが、俺は、矢神達洋が実行犯であると確信し、取材を続けようとしていた。だが・・・」

  • #667

    六輔 (火曜日, 19 1月 2021 21:28)


    藤原は、「ふぅ~」と息をゆっくりと吐き出して目を閉じた。
    そして悪しき過去を振り返るかのように、事件の顛末を思い出していた。
    「俺は、矢神達洋という男に何度も接触して話しを聞いていたが、あの時の彼は、俺の取材に対しそれなりに丁寧に答えてくれていた。彼が実行犯であったという証拠まではつかめなかったが、絶対に彼は何かを知り、それをひたすらに隠そうとしていた。俺はさらに追及するため彼を通して教団の上層部に取材の申し込みをお願いした。だが、そのことで状況は一変した。得体の知れない、何か大きな力によって圧力がかけられたのだ。政治家による圧力であったのかもしれないが、結局、その出所も分からぬまま、俺はがんじがらめになり、取材を続けることが出来なくなった。納得は出来なかったが、あの時の俺は、社の命令に従うしかなかった。報復を匂わす警告まで起きてしまったのだから。俺は、もうそれ以上の追跡は、警察の仕事だと判断し、事件に関わる一切の取材を辞めた。
    事件から12年が経った今も倭里毒物殺人事件は未解決だ。犯人は捕まっていない。矢神達洋がいま何処で何をしているのかは知らないが、教団が関与しているかもしれないといったニュースを聞いたこともなければ、警察の捜査の手が教団にどれほど及んでいるのかも疑問だ。
    今になって思えば、あの時の俺は若かった。自分の力の無さに悔し涙を流したが、それは敗北を認めたことだったのだ。
    しかし、残酷な話しだ。皐月ちゃんが会いたがっていた人物が関与していたかもしれない事件で、ヒナちゃんのチームメイトの父親が・・・もしこのことを皐月ちゃんが聞いたらどうなるというのだろうか」

  • #668

    六輔 (水曜日, 20 1月 2021 19:15)


    カウンターに顔を伏せ、ひとしきり泣いた陽菜子がようやく落ち着いたところで、藤原は尋ねた。
    (藤原)「ヒナちゃん…」
    (陽菜子)「・・・はい」
    (藤原)「ひとつ教えて欲しいことがあるんだ」
    (陽菜子)「…はい、なんですか?」
    (藤原)「俺、野球はあまり詳しくないけど、それでも4年前の東庄高校の活躍ぶりをテレビで観させてもらっていたことは、前に話したよね」
    (陽菜子)「はい」
    (藤原)「瀧野瀬紘一君の高校生らしいプレイ、一挙手一投足に感動させられたのを今でも覚えているよ。プロの世界で活躍する瀧野瀬君を観たいと思っていた人は、たくさんいたと思う。でも、彼はプロを選ばなかった。そのことと、彼の父親のことは、何か関係があるのかい? ヒナちゃんがその理由を知っているのなら聞かせてくれないか。それを聞いたあとで、僕も倭里毒物殺人事件のことで知っていることを話すよ・・・ヒナちゃん」
    藤原への返事をしばらく考えていた陽菜子だったが、意を決したように話しを始めた。
    (陽菜子)「私と紘一が育った東庄町というところは小さな街で、街中の人が東庄高校野球部を応援してくれていて、その中で紘一はスーパースターでした。でも、紘一は驕ることなく、野球をやっていて・・・彼の活躍で東庄高校は甲子園出場を決めました。と、突然、紘一を誹謗する手紙が何通も学校に届いたんです」
    (藤原)「えっ?どんな? 瀧野瀬君は人から非難されるような選手じゃないだろう?・・・えっ?…まさか、父親のことで?」
    (陽菜子)「・・・はい、そのまさかです」
    (藤原)「そ、そんなぁ・・・だって、彼の父親は無実だよ!それなのにどうして?」
    (陽菜子)「紘一の父親を知る街の人たちは、もちろん父親の無実を信じてくれていました。だから父親をそんなことで失いながらも野球に打ち込む紘一を、街中の人は心の底から応援してくれていたんです。でも、甲子園出場を決めて、東庄町や瀧野瀬紘一という名がメディアで報じられるようになった途端、全国から手紙が届いたんです。犯罪者の子供が甲子園に行ってもいいのか!って。一度疑いをかけられ報じられてしまうと、ダメなんでしょうかね?自ら命を絶ったのは犯人だったからだ!って、ほとんどの手紙にそう書かれてあったそうです」
    藤原も礼子も陽菜子の話しに言葉を失った。

  • #669

    六輔 (金曜日, 22 1月 2021 19:29)


    陽菜子は続けた。
    (陽菜子)「でも、紘一はへこたれませんでした。持ち前の明るさで自らを鼓舞し、胸を張って甲子園に行きました。でも、甲子園に行ってからまた別の問題が起きたんです」
    (藤原)「別の問題?」
    (陽菜子)「甲子園常連校の選手は、メディアに取り上げてもらうことで、自分を売り込みたいと願う選手が多いと聞きます。でも、紘一はその逆です。父親のことがあったからではありませんが、もともと表に出ることを好まない性格でした。地方大会での紘一の活躍ぶりが知れ渡ると、多くの報道機関が取材を申し込んできましたが、紘一は、野球に集中したいからという理由で取材の全てを断ったんです。ただ、一社だけは納得が出来なかったようで…」
    (藤原)「一社だけ?・・・それって、スポーツ通信の古沢という記者だよね?」
    (陽菜子)「えっ?ご存じなんですか?」
    (藤原)「あぁ。これでも元は記者の端くれだったからね。古沢記者とは面識があってさ・・・彼は、若いころから強引なやり口で、平気で圧力をかけるような記者だったからね・・・瀧野瀬君の怠慢なエラーのせいで東庄高校は負けたとか・・・そう言った記事を書いて、結局のところはそれを糾弾されてスポーツ通信を退社したんだよね。記者としてはあり得ないことだからね。クビになって当然な話しだよ」
    (陽菜子)「マスターがそのことを知っていたとは思いませんでした」
    (藤原)「で、その古沢という記者と何かあったのかい?」
    (陽菜子)「・・・はい」
    このあとの陽菜子の話に藤原は激高するのだった。

  • #670

    六輔 (土曜日, 23 1月 2021 17:48)


    陽菜子はゆっくりとうなずき話しを続けた。
    (陽菜子)「その記者さんは、スポーツ通信を辞めたあと、フリーの記者となってまた紘一の前に現れたんです」
    (藤原)「えっ?フリーに?・・・あぁ、確かに彼なら一匹狼としてやっていくかもしれないね。で、何て言ってきたの?」
    (陽菜子)「その記者は紘一の父親のことを嗅ぎつけて、こう言ってきたんだそうです・・・悲運を乗り越えたドラ1選手として、君のプロに行ってからの活躍をずっと追い続けさせてもらうよ・・・って」
    藤原は、陽菜子の話しに顔を紅潮させて、怒りをあらわにして大声を発した。
    (藤原)「それは瀧野瀬君への嫌がらせじゃないか!ふざけるな!あいつは何様だと思っているんだ! 瀧野瀬君がプロで活躍することと、彼の父親が事件に巻き込まれたことに何の関係があるっていうんだ!」
    (陽菜子)「マスター・・・」
    (藤原)「それは、会社をクビにさせられた逆恨みだ! でも・・・ま、まさか瀧野瀬君はそのことを理由にプロの道に進まなかった訳じゃないんだよね?」
    (陽菜子)「紘一は、甲子園出場を決めて直ぐに学校に手紙が届くようになったときから、考えていたようです。自分はプロに行っちゃいけないんだ!って。それで記者にそう言われたことで決めたそうです。そしてその記者にこう答えたんだそうです・・・その必要はないです。自分はプロの道には進みませんからって」
    (藤原)「どうして?逃げる必要なんかないじゃないか!」
    (陽菜子)「はい、私も監督さんもマスターと同じことを紘一に言いました。でも紘一はこういったんです。『自分は何を言われようが構わないけど…』と。
    (藤原)「どういうこと?」
    (陽菜子)「紘一には二人のお姉さんがいるんです。紘一の母親がずっと病弱で・・・紘一は中学、高校と、毎日お姉さんにお弁当を作ってもらって学校に行き、野球をやらせてもらっていました。そんなお姉さんのところにも、嫌がらせの手紙が届くようになったんだそうです。犯罪者の子供が甲子園に行くのか?って」
    陽菜子の話しに藤原とずっと黙って聞いていた礼子の頬を一筋の涙が伝った。

  • #671

    六輔 (日曜日, 24 1月 2021 18:34)


    (陽菜子)「わたし、紘一にこう尋ねました。お姉さんにプロに進まないでって頼まれたの?って」
    (礼子)「そうねぇ。私にも弟がいるんだけど、私だったら人に何を言われようが構わないわよ。だから私のためにプロに行かないなんて言わないでちょうだい!・・・私だったら弟の活躍を願ってそう言うと思う」
    (陽菜子)「・・・はい。紘一のお姉さんも礼子さんと全く同じことを言って来たそうです。まさか、私たちのためにプロに行かないって考えたんじゃないわよね?って。紘一は「違うよ!」とだけ答えたらしいんですけど・・・」
    (礼子)「ヒナちゃんは、本当の理由を知っているの?」
    (陽菜子)「はい、私にだけは教えてくれたんです」
    (礼子)「どんな理由なの?」
    (陽菜子)「お姉さんがそう言ってくれたことは有難かったって。でも、お姉さんの子供達・・・そう、紘一の甥っ子姪っ子たちが苦しめられるのだけは耐えられないって」
    (礼子)「え?・・・」
    (陽菜子)「紘一は、甥っ子たちをものすごく可愛がっていたんです」
    (礼子)「大好きな子供たちが悲しい思いをするのが耐えられなかったのね?」
    (陽菜子)「・・・はい。自分が有名にならなければ、もう誰も何も言わなくなるからって」
    (藤原)「18の少年がそこまで考えたのか? 大好きな野球を続けたかったはずなのに、悲し過ぎるよ」
    (礼子)「ホンと、そうねぇ・・・悲しい(泣)」
    (藤原)「でも、そういう話しは嫌というほど聞かされてきた。罪を犯した者の家族だけじゃなく、親戚まで世間の風当たりは強いって。何が悲しいって、瀧野瀬君の父親は無実なのに・・・」
    (陽菜子)「紘一は、自分が10歳のときに父親に疑いをかけられ、周りからそういう目で見られるようになってしまったとき、本当に辛かったって。それでも一緒に野球をやっていた仲間や監督さんだけは、父親の無実を信じてくれたから野球を続けられたって。それと、自分が高校まで野球を続けることが出来たのはお姉さんがいてくれたからだって。お姉さんには本当に感謝していて・・・可愛がっている甥っ子や姪っ子たちに自分と同じような辛い思いをさせたくないって」
    礼子も藤原も言葉を失い、溢れ出る涙を拭おうともしなかった。

  • #672

    六輔 (月曜日, 25 1月 2021 18:44)


    藤原は、いよいよ核心に迫った。
    (藤原)「ヒナちゃん…」
    (陽菜子)「…はい」
    (藤原)「もう一つ尋ねるよ。ヒナちゃんが就職先に選んだ新聞社は、瀧野瀬君の父親の冤罪を生むきっかけとなった記事を書いた新聞社だったはず。そのことは知っているの?」
    (陽菜子)「・・・はい」
    (藤原)「ヒナちゃんは社会部の記者になることに拘っている。どうして、その新聞社を選んで、そこで最も過酷な社会部の記者になることに拘っているのか・・・その理由を聞かせてくれないかい? 瀧野瀬君のことと関係しているとしか思えないんだ」
    (陽菜子)「・・・・・」
    (藤原)「記者になって倭里毒物殺人事件の真犯人を探しだそうと思っているの?」
    (陽菜子)「・・・・・」
    (藤原)「まさかとは思うけど・・・瀧野瀬君の復讐ためじゃないよね?」
    陽菜子はうつむいたまま藤原の質問に応えようとはしなかった。

  • #673

    六輔 (火曜日, 26 1月 2021 19:18)


    藤原からの質問を黙って聞いていた陽菜子だったが、「ふぅ~」と細い息を吐きだしてからゆっくりと話し出した。
    (陽菜子)「マスター・・・」
    (藤原)「うん?」
    (陽菜子)「いま、マスターは復讐のため?って、尋ねましたけど…もし、マスターが紘一の立場だったら、新聞社に対して復讐したいという気持ちを抱いていたと思いますか?」
    (藤原)「えっ?・・・どうかなぁ…綺麗ごとを言えば復讐なんて全く考えないよ!って、なるんだろうけど・・・父親が新聞社に追い詰められたことをきっかけに命を絶つことになった訳だからねぇ・・・記者をやっていたときなら、自分のペンで無実を訴えただろうけど・・・えっ? そ、そういうこと? ヒナちゃんが記者になるのは、瀧野瀬君の父親の無実を記事にしたいからなの?」
    陽菜子は、ゆっくりと首を横にふってから話しを続けた。
    (陽菜子)「・・・違います。わたし、紘一から全ての話しを聞かされたときに尋ねたんです。『お父さんを自殺に追い込んだ記者を憎んでる? もしかして復讐したいと思ってる?…って。そしたら紘一は・・・』
    その時のことを思い出した陽菜子の頬を一筋の涙が伝った。

  • #674

    六輔 (水曜日, 27 1月 2021 19:39)


    陽菜子は、礼子からそっと手渡されていたレースのハンケチで頬の涙を拭いて、優しい笑顔を浮かべて話しを続けた。
    (陽菜子)「紘一はこう言ったんです。『復讐っていうのは、恨みの感情を消すためにやることだよね。俺はそんなことのために生きていったりはしない。復讐は何も生まないよね』って。私は、紘一の答え方によってはずっと目標にしてきたジャーナリストになるという夢を捨てようと思っていたんですけど・・・紘一は、私がずっと頑張ってきたことを知っていて、こう言ったんです。『真実だけを伝えられるジャーナリストになってくれ!』って」
    藤原は、陽菜子の話しを聞かされ、自分を恥じた。
    (藤原)「ヒナちゃん・・・ごめんな、変に疑ったりして。18歳でそんなことを言えるなんて・・・すごい奴だな、瀧野瀬君っていう男は」
    (陽菜子)「はい」
    (藤原)「ところで、瀧野瀬君は、今どうしているんだい?」
    (陽菜子)「実は、高校を卒業して以来、一度も会っていませんし、連絡もとっていないんです」
    (藤原)「ヒナちゃんは瀧野瀬君と付き合っていたんだろう?それなのにずっと会わずに?」
    (陽菜子)「はい。卒業式の日に約束したんです。お互いがそれぞれの夢を叶えられたら、胸を張って会おう!って」
    (礼子)「瀧野瀬君の夢って…野球選手になることじゃないの?」
    (陽菜子)「そこのところも教えてくれなかったんです。高校を卒業して、どこで何をしているのか・・・同級生の誰一人として彼の今を知っている人がいないんです」
    (礼子)「恋人にも教えずに? それで良かったの?ヒナちゃんは」
    (陽菜子)「それぞれの道で頑張ろうとだけ・・・私も、彼に追及はしなかったんです。きっと紘一らしい夢を追いかけて、頑張っているんだと思います」
    (礼子)「なんか、ドラマみたいな話ね。すごい二人」
    (藤原)「ホンとだねぇ」
    と、礼子は思い出したように話しを始めたのだった。

  • #675

    六輔 (金曜日, 29 1月 2021 19:19)


    (礼子)「ねぇ、マスター…」
    (藤原)「はい」
    (礼子)「すっかりヒナちゃんと瀧野瀬君の話しをしてきちゃったけど…皐月さんのこと…」
    (藤原)「そっか、そうでしたよね」
    (礼子)「マスターの知っている“たっちゃん”という人のこと、話していただけないですか?」
    (藤原)「…はい。ただ話す前に、ヒナちゃんに謝らないと・・・」
    (陽菜子)「えっ? 謝るって、何をですか?」
    (藤原)「瀧野瀬君のお父さんのこと。もし、僕が記者をやっていたあの時、事件の真犯人を見つけ出していたら…」
    と、陽菜子は表情を強張らせてこう言った。
    (陽菜子)「今の話しを紘一の前で出来ますか?・・・マスター。記者の仕事は犯人を探し出すことじゃないですよね?」
    (藤原)「ひ、ヒナちゃん・・・あぁ、情けない。この歳になって若い二人に教えられているこの俺って・・・確かにそうだね。記者とは!って、教えてあげなきゃならないのに、これから記者になろうとしているヒナちゃんに教えを乞うなんて・・・」
    (陽菜子)「マスター・・・。マスターは優しいからそう言ってくれたのは分かっていますから」
    (藤原)「ヒナちゃん・・・もぉ、まいったな。さてと、そんな僕はもっと情けない話しをしなきゃならないんだ」
    (陽菜子)「えっ?」
    このあと藤原は、矢神達洋と教団に対する取材を断念しなければならなくなった状況を話したのだった。

  • #676

    六輔 (土曜日, 30 1月 2021 20:07)


    当時のことを話し終えた藤原は、こう付け加えた。
    (藤原)「あの頃の俺は若かったのもあるけど、会社の方針に従うことしか出来なかった。でも、最近の新聞報道を見ていて思うのは、もう昔とは違って、新聞は真実をきちんと伝えるようになっていると思う。もちろん、ヒナちゃんが入社しようとしている新聞社もね」
    (陽菜子)「はい」
    (藤原)「時代は変わっているんだ、いい記者になること、願っているよ…ヒナちゃん」
    (陽菜子)「はい」
    (礼子)「ところで、どうなの?マスター。マスターは今でも“たっちゃん”という人が犯人だと思っているの?」
    (藤原)「それは分からないです。彼が犯人だという証拠を掴んでいた訳ではないですし・・・でも、間違いなく言えることは、彼は何かを知っていたはずです。これは記者のカン!って、やつですけど」
    (礼子)「そう…それと、今度はヒナちゃんに尋ねるけど…」
    (陽菜子)「あっ、はい」
    (礼子)「ヒナちゃんが皐月さんとその居酒屋で話したときは、“たっちゃん”と皐月さんは、ただの同級生って感じじゃなかった?・・・う~ん、例えば、皐月さんは想いを寄せていたような…そんな感じしなかった?」
    (陽菜子)「あの時の皐月さんは、“たっちゃん”に会って謝りたいと言っていましたけど、何年も経っていても想い続けていたかどうかは…ちょっと分からなかったです。ただひとつ言えるのは、「仲間」として信頼を寄せていたことは間違いないと思います」
    (礼子)「仲間かぁ・・・素敵な言葉よね、仲間って。その仲間がもし事件を起こしていたとしたら・・・皐月さんは相当ショックを受けるでしょうね?」
    (陽菜子)「・・・はい、そうですね」
    (礼子)「でも、どうしてマスターのことを“たっちゃん”と呼んだんでしょうね?何か共通点でもあるのかしら?」
    (藤原)「皐月ちゃんの同級生ですから、僕とも同い年なんですけど、雰囲気は全く違いますし…」
    (礼子)「矢神達洋さんって、どんな感じの人なの?」
    (藤原)「う~ん、彼はどちらかと言えば、サル顔?・・・ぼくはゴリラ顔ですからね」
    (礼子)「?????」
    (陽菜子)「?????」

  • #677

    六輔 (日曜日, 31 1月 2021 20:59)


    (礼子)「マスターは三田村邦彦さんに似てらっしゃるじゃないですかぁ。言われません?決してゴリラ顔なんかじゃないですよ!真面目に聞いているんですから、真面目に答えてください、マスター!」
    (藤原)「す、すみません」
    (礼子)「ところで、矢神達洋さんは今でも倭里町で生活されているんでしょうかね?」
    (藤原)「それは分かりません」
    (礼子)「倭里町に行けば会えますかね?」
    (藤原)「えっ? 矢神達洋に会いに行こうとしているんですか? 礼子さん」
    (礼子)「わたし、看護師という職業柄、皐月さんのように記憶障害になられた方をたくさん見てきました。そのほとんどの方が記憶を取り戻すことなく、別人になったかのように生活が激変してしまって…皐月さんは全部の記憶を無くしてしまった訳ではないです。でも、彼女の一番の輝いていた場所…そう、フラワーコーディネーターとしての立場を失いかけていて・・・わたし、そんな皐月さんを放っておけないんです」
    (藤原)「実は、自分の妻が亡くなったとき、皐月ちゃんが妻の祭壇を作ってくれたんです。妻は皐月ちゃんが飾り付けてくれた花に囲まれて、旅立っていきました」
    (礼子)「そうだったんですかぁ。辛かったでしょうね・・・親友の祭壇の花を飾り付けするなんて」
    (藤原)「・・・はい。皐月ちゃんは妻の月命日はどんなに忙しくても必ずここに来てくれて・・・美代子のことを覚えていて二度目を生かすのが私の使命だから!って」
    (礼子)「“二度目を生かす”かぁ…すごいですねぇ。私には、そんなお友達いないです。私が亡くなったときに月命日に必ず会いに来てくれる友達なんて」
    (藤原)「僕もですよ」
    少しの間をおいて礼子が小声でつぶやいた。
    (礼子)「寂しいでしょうね・・・奥様」
    (藤原)「えっ?」
    (礼子)「皐月さん、記憶障害になってからは一度も来ていないんでしょ?…きっと奥様も心配なさっていますよね?」
    (藤原)「えっ?心配?・・・情けないことに、そんな風に考えたことありませんでした。でも、礼子さんのおっしゃる通り、美代子も天国で心配しているんですよね」
    (礼子)「そうね。だから、皐月さんが記憶を取り戻すことは・・・マスターの奥様のためでもあるのよね」
    (藤原)「・・・礼子さん」

  • #678

    六輔 (火曜日, 02 2月 2021 21:11)


    この時の礼子の言葉は、藤原を考えさせるには十分なものだった。
    藤原は、心の中で葛藤していた。
    「礼子さんと皐月ちゃんは、同じ高校の卒業生。いくら先輩だとはいえ、10歳も年の離れた後輩のために、こんなにも一生懸命になれるものだろうか。倭里町に行ったとしても矢神達洋と会える保証はどこにもない。それでも礼子さんは倭里町に行くと言っている。それに引き換え俺は・・・途中で取材を諦め、結局は記者として事件解決につながることは何一つ出来なかった。さっきはヒナちゃんにあんな言い方をしたけど、事実、俺にもっと力があったら、瀧野瀬君の父親が自殺に追い込まれることは無かったかもしれない。もし、美代子が生きていたら、今の俺に何て言うだろうか・・・」
    と、藤原が何かを考えていることを察した礼子が口を開いた。
    (礼子)「マスター…」
    (藤原)「…はい」
    (礼子)「誤解しないでくださいね」
    (藤原)「えっ?」
    (礼子)「私は、矢神達洋さんと会って、事件のことを聞きたいんじゃないですからね」
    (藤原)「・・・礼子さん」

  • #679

    六輔 (水曜日, 03 2月 2021 19:08)


    礼子の言葉に藤原は、こう返した。
    (藤原)「正直、美代子がいたら、今の俺に何て言うかなぁって考えていたんです」
    (礼子)「・・・マスター」
    (藤原)「皐月ちゃんのために出来ることがあるなら、やってあげてって懇願されるんだろうなって…」
    (礼子)「そうかもしれないですね。大切なお友達を救いたいって」
    藤原は意を決したようにこう言った。
    (藤原)「礼子さん…」
    (礼子)「あっ、はい」
    (藤原)「自分が倭里町に行って、矢神達洋さんに会ってきますよ」
    (礼子)「・・・マスター」
    (藤原)「大丈夫ですよ、決して犯人探しの続きをしに行くわけじゃないですから。自分はもう記者じゃありませんし…」
    (礼子)「行き会えそうですか?」
    (藤原)「そればかりは、行ってみないことには分からないです」
    藤原の言葉に、礼子もまた意を決したようにこう言った。
    (礼子)「マスター…」
    (藤原)「あっ、はい」
    (礼子)「私も連れて行ってください!」と。

  • #680

    六輔 (木曜日, 04 2月 2021 20:59)


    調布基地を追い越し、山に向かって行けば黄昏がフロント・グラスを染めて広がる。
    右に見える競馬場、左はビール工場・・・

    「ねぇ、マスター…」
    『はい』
    「この曲が流行っていた頃って…もしかして中学生だった?」
    『はい、確か中2だったです』
    「そっか・・・なんか年の差を感じちゃうな。この曲が流行った年には私はもう働いていたんだからね」
    『礼子さんは、本当に若いですよ』
    「あのさ、この歳になって“若いですよ”って、言われると、逆に落ち込んじゃうんだけど…」
    『そうですか?だったら・・・礼子さんは綺麗です!』
    「お世辞?・・・でも、嬉しいかな。ありがとうね、マスター」
    『礼子さんと一緒に行くのが決まったときから、ここを通るときにはこの曲を聴く!って、決めていたんです』
    「(笑)一緒に行くのが決まったときから?そうなんだ。なんか、デートみたいで嬉しい…ねっ、マスター」

    藤原の運転する古いワーゲンビートルは、助手席に礼子を乗せ、中央自動車道を倭里町に向かって走っていった・・・運命の糸に引き寄せられるように。

  • #681

    六輔 (金曜日, 05 2月 2021 20:50)


    二人がユーミンの曲を聴きながら、デート気分に慕っていられたのは、中央自動車道・八王子ジャンクションを過ぎた頃までだった。
    小仏トンネルに入って車内が暗くなるのと合わせて二人の会話は途絶え、トンネルを抜けて、また元の景色に戻っても二人が会話を交わすことは無かった。
    倭里町が近づいてくるに従って、緊張が高まっていたのだった。
    そんな時間が15分ほど過ぎて、ようやく口を開いたのは礼子だった。
    「マスター…」
    『…はい』
    「マスターは『鋳掛屋の天秤棒』という言葉を聞いたことある?」
    『え、…えっ?・・・いかけやのて、てんびん?』
    「鋳掛屋の天秤棒」
    『いかけやのてんびんぼう?』
    「うん、“出しゃばり者”のことを言うことわざなの。江戸時代、鍋や釜とかは貴重品で、今みたいに直ぐに買い換えられないから、それを直すのを仕事として歩き渡る職人さんがいたの。その職人さんが鋳掛屋って呼ばれたんだけど、鋳掛屋さんたちは、皆、修理道具を二つの箱に入れて、それを長い天秤棒で担いで町中を歩いたのよ。その天秤棒が普通の天秤棒より長くて、端が荷より長く出ることから“出しゃばりな人”のことを『鋳掛屋の天秤棒』って呼ぶようになったんですって」
    『へぇ~ “出しゃばりな人”をそんなふうに言ったんですね』
    「そう、“出しゃばり者”・・・今の私は、まさしく『鋳掛屋の天秤棒』よね」
    『えっ?礼子さんが?・・・礼子さんが“出しゃばり者”だと言っているんですか?』
    「そう、“出しゃばり者”・・・だって、皐月さんから頼まれたわけでもないのに、“たっちゃん”という人物を追ってこうして・・・出しゃばり者じゃなかったら、こんなことしないわよね」
    『礼子さん・・・僕は、礼子さんが“出しゃばり者”だなんて思っていないです。ただ・・・』
    「ただ?」

  • #682

    六輔 (土曜日, 06 2月 2021 18:16)


    藤原は、助手席に座る礼子にほんの一瞬だけ視線を向けてからカーステレオのボリュームを下げて話しを続けた。
    『ひとつ分からないことがあるんです』
    「分からないこと?」
    『…はい。どうしてここまで一生懸命になれるのかな?って。礼子さんと皐月ちゃんの出会いって、治療を受けに来た患者さんと、担当看護師としてですよね?いくら同じ高校を卒業した後輩だとしても、ここまで一生懸命になれるものなのかなって』
    「確かにそうねぇ」
    『何か、理由があるんですか?』
    「理由?・・・うん」
    『良かったら聞かせてくれないですか?』
    「一番の理由は、皐月さんのお母さんに会ったことよ」
    『皐月ちゃんのお母さんに会ったこと?』
    「そう。皐月さんのお母さんと私の亡くなった母親とが重なっちゃったのよね。田舎で暮らす母親が弱っちゃったとき、私は東京での仕事が辞められずに、結局はそばにいてあげることが出来なかったの。私の母親は強い人だから弱音を吐くことを一切しなかったんだけど、逆にそれが辛くてね…本当は娘の私にそばにいて欲しかったはずなのに・・・」
    『頼りになるのは、やっぱり娘なんですよね』
    「そうねぇ。皐月さんのお母さん、腰を痛めて入院されていたみたいで、皐月さんにそばにいて欲しいと思っているのよ。でも、皐月さんはお父さんの記憶を失っていて・・・それがためにお母さんのところに顔も出せずにいるの。お母さんの気持ちを考えたら、なんか居ても立っても居られなくなっちゃって・・・」
    『そういうことだったんですねぇ・・・そんな事情も知らずに僕は・・・』
    「えっ? 何かあったの?」
    それから藤原は、皐月が交通事故に巻き込まれた日のことを礼子に話したのだった。

  • #683

    六輔 (日曜日, 07 2月 2021 19:38)


    藤原の話しを聞き終えた礼子は「ふぅ~」と細い息を吐きだしてこう言った。
    「皐月さんのお母さんもおっしゃっていたわ。実家の前の空き地にお店を出したらどうだって、話したりしなければ良かったって…皐月さんの中でも葛藤があったのよね、きっと。」
    『はい、そうだと思います。僕は、中途半端な気持ちで今のフラワーコーディネーターの仕事を辞めてほしくなかっただけなんです…あの時は、それを上手く伝えることが出来ずに・・・』
    「もう起きてしまったことを悔いても仕方のないこと。大切なのは、これからどうすれば皐月さんがまた輝いて生きていけるか…そのためにはやっぱり失くしてしまった記憶を取り戻してもらうこと。そのために私たちができることをやる。そういうこと!でしょ、マスター」
    『はい、礼子さん』
    この時、初めて二人の迷いは無くなった。
    礼子は、自分が鋳掛屋の天秤棒だと考えることをやめ、藤原は、過去の記者時代のわだかまりを解いたのだった。

    この日、藤原と礼子が倭里町に向かっていることを、もちろん皐月には話してはいなかった。
    話したところでどうなることでもなかったのかもしれないが・・・
    時を同じくして、皐月に苦難が降りかかろうとしていたのだった。

  • #684

    六輔 (月曜日, 08 2月 2021 18:18)


    「由美ちゃん!」
    『はい、どうしました?皐月さん』
    「今日はクライアントとの打ち合わせだったわよね?」
    『はい、そうです。今日は山中様のお母さまも来られる予定になっています』
    「お母さまも?・・・山中様って、長男さんのときの結婚披露宴は、私がコーディネートしたのよね?」
    『はい。皐月さんは忘れてしまったようですけどね!』
    その厳しい口調に、皐月は肩をすぼめた。
    「ごめんね、迷惑かけて」
    『迷惑だなんて思っていませんよ、皐月さん。だって、皐月さんを頼って来られた山中様のコーディネートを、今度は私にやらせてもらえることになった訳ですし』
    「そ、そうよね…」
    『私に任せといてください! いい仕事しますから!』
    「う、うん…でさ、由美ちゃん・・・私も山中様との打ち合わせに参加させてもらえないかな?」
    『えっ?』

    由美は、入社3年目の若手スタッフ。
    皐月が、コーディネートの現場から退いたことで、皐月に代わって現場を取り仕切るようになった社員だ。
    皐月は、事故にあうまでは、人気のコーディネーターだった。
    皐月がコーディネートした結婚披露宴の素晴らしさを聞き付けた多くの客が、皐月を頼って来店した。
    だが、そのほとんどの客は皐月が現場から離れてしまったことを知り、他の店に流れてしまっていたのだった。
    山中というクライアントは、長男の時に皐月がコーディネートしてもらったことで、次男の時にも仕事を依頼してきた。
    皐月の事情を聞かされた山中は、他の客と同じように落胆したのだが、由美が説得して仕事を頼んでくれることになったのだった。

    打ち合わせに参加させてくれと頭を下げて来た皐月に、由美は無表情なままこう言った。
    『それは困ります。っていうか、山中様が嫌がると思います。山中様は、私の提案を気に入ってくれたから、仕事をお願いしてくれることになったんですから!』
    皐月は、小声でこう答えるしかなかった。
    「えっ?・・・そ、そうよね。分かった、ごめんね…変なお願いして」と。

  • #685

    六輔 (火曜日, 09 2月 2021 18:58)


    皐月と由美がそんな会話を交わして間もなく、山中家御一行様がやってきた。
    『いらっしゃいませ、お待ちしておりました、山中様』
    「こんにちは、今日はよろしくお願いします」
    挨拶をかわし、ミーティングルームで打ち合わせは順調に進められた。
    その間、新郎の母親は笑みを浮かべて黙って話しを聞いていただけだった。
    無事に打ち合わせが終了し、人数分の珈琲が用意された。
    『どうぞ』
    「ありがとうございます・・・う~ん、相変わらずここでいただく珈琲は美味しいわね。ところで、今日は皐月さんは?…いらっしゃらないの? 長男に言われてきたんですよ。しっかり皐月さんにお礼を言ってきてくれ!って」
    『そうなんですかぁ…』
    と、ひと呼吸おいて由美は、山中の母親に聞こえるようにこう言った。
    『もぉ、だから言ったのにぃ~』
    「えっ?」
    『いやっ、皐月さんには言ったんですよ! 山中様のお母さまもお見えになる予定だから、皐月さんも打ち合わせに同席してください!って』
    「そうなの?」
    『はい。事故で記憶を失くしてしまったのだから仕方ないことなのに皐月さんは・・・次男さんのコーディネートは私の仕事じゃないから、同席する必要ないでしょ!って・・・』
    「皐月さんが? そんな言い方をしたの?」
    『…はい。変わってしまったんですよね…皐月さん』
    「そっか…そうなんだ」
    ミーティングルームでは、母親が目を閉じて「ふぅ~」と息を吐きだす音だけがむなしく鳴り響いていた。

  • #686

    六輔 (水曜日, 10 2月 2021 19:39)


    山中家との打ち合わせを終えた由美は、社長室に向かった。
    『社長! 佐藤です。よろしいですか?』
    「おぅ、入れ!」
    『突然すみません、社長』
    「どうした? 由美ちゃん。確か今日は、山中様との打ち合わせだったよな?何かあったのか?」
    『…はい』
    「まぁ、そこに座りなさい」
    社長にソファーに座るよう促された由美は、腰を下ろして早々に話し始めた。
    『社長、お話があります』
    「おぉ~、どうした?怖い顔をして」
    『皐月さんのことなんですけど…』
    「皐月ちゃんのこと?・・・由美ちゃんには皐月ちゃんの代役をしっかり務めてもらって、助かっているよ。で、皐月ちゃんと何かあったのか?」
    『社長から皐月さんに言って欲しいんです・・・現場には口を出すな!って』
    「えっ?…」
    『今日、山中様との打ち合わせに同席させてほしいって言われたんですけど、はっきりお断りしたんです』
    「あぁ~ 山中様は皐月ちゃんを頼ってお見えになられたクライアントさんだったね」
    『…はい。山中様は皐月さんが現場を退いたと聞いて、それなら他のお店にっておっしゃいました。でも、私のデザイン画を見てもらって、またお仕事をいただけることになったんです。だから私のクライアントさんになった訳ですよね』
    「由美ちゃんの?・・・う~ん…」
    『確かに皐月さんのお仕事は素晴らしかったです。今でも尊敬しています。でも、それは病になる前の話しです』
    「・・・・・」
    『皐月さんに中途半端に現場に口を出されると、お客様だって困るはずです』
    「それは、まぁ…」
    『社長にお尋ねしますけど、あくまでも、私は皐月さんの代役なんですか?』
    「えっ?…まぁ、さっきはそう言ったが、それは“言葉のあや”ってやつで、今は由美ちゃん無しでは、うちの仕事は回らんよ」
    『そうですか。でしたらはっきりと言わせていただきます・・・皐月さんには辞めてもらいたいです! 皐月さんが辞めないのなら、私は別の店で働かせてもらうことにします。私の実力を認めてくれるお店はたくさんあると思いますから!』
    「・・・由美ちゃん」

  • #687

    六輔 (木曜日, 11 2月 2021 21:14)


    部屋に重苦しい空気が流れるなか、社長はしばらく黙って考えていたが、ようやく口を開いた。
    「由美ちゃんの気持ちは分かった。責任感の強い由美ちゃんだからな」
    『はい、私は今の仕事に誇りをもっていますから!』
    「そっか。実はな、皐月ちゃんから言われているんだよ。クライアントに迷惑をかけてしまうようなら、その時には会社を辞めます!ってな」
    『えっ?そうなんですか?それなら話しは早いじゃないですか』
    「・・・うん、そうだな。ただな・・・これだけは分かっていてほしいんだけど…うちの会社がここまで大きく成長できたのは、皐月ちゃんの功績のおかげなんだよ。それは、理解してくれるな?」
    『・・・はい。皐月さんのこれまでの仕事ぶりを否定している訳ではありませんから』
    「それなら良かった。確かに皐月ちゃんに中途半端に口を挟まれると、由美ちゃんとしてもやりづらいよな」
    『社長!勘違いなさらないでくださいね。私は、ただの一度もやりづらいなんて思ったことありませんから。私は会社のことを思って言っているんです。』
    「会社のことを?」
    『そうです。お客様がお困りになる!それは、会社にとって大きなマイナスですよね!』
    「そうだな、もし、皐月ちゃんと由美ちゃんとの意見が食い違ったときには、お客様は困るよな」
    『はい!』
    社長は、「ふぅ~」と息を吐きだしこう言った。
    「僕は、信じているんだよ。皐月ちゃんは必ず病を克服して、元のフラワーコーディネーターに戻って、またバリバリ働いてくれる!ってな」
    『社長の皐月さんを信じたい気持ちは分かりますけど…』
    「あぁ、口にするだけなら容易いことだからな。由美ちゃんの言う通り、クライアントに迷惑をかけているというなら・・・辞めてもらうしかないな」
    由美は、うっすらと笑みを浮かべて応えた。
    『はい、そうしてください…社長!』と。

  • #688

    六輔 (金曜日, 12 2月 2021 19:54)


    『皐月君!』
    「はい、どうしました?部長」
    『社長がお呼びだよ。社長室に来てくれ!って』
    「えっ?社長が?・・・分かりました」
    この時の皐月は、何故社長室に呼ばれたのか直ぐに察しがついたのだった。
    皐月は、そのことを事前に知らされていたかのように手際よく机の引き出しを開け、そこから真っ白な封筒を取り出して、それをファイルケースにしのばせ席を立った。

    ≪コンコン…コンコン≫
    「重里です」
    『あぁ、入ってくれ!』
    「失礼します」
    皐月が社長室に入って入口のドアを閉めると社長は表情を和らげて、フレンドリーな口調で話し始めた。
    『そこに座って、皐月ちゃん』
    「あっ、はい」
    『ねぇ、皐月ちゃん・・・今日はさ、社長と社員の関係じゃなく、同期入社の仲間として話したいんだ…いいよね?』
    「えっ?・・・で、でも…」
    『社長の俺がいいって言ってるんだから…いいだろう?皐月ちゃん』
    「・・・うん、分かった。マコっちゃん!」
    『おぉ~ マコっちゃんって久ぶりに呼んでもらったなぁ』
    「そうね(笑) 同期で入社したのにマコっちゃんはどんどん偉くなっていっちゃって…結局、社長まで上り詰めたんだもの、すごいよ!」
    『出世だけを考えてやってきた訳じゃないけどな』
    「そうね、そこがまたマコっちゃんのいいところだもんね!」
    『なんか、皐月ちゃんの笑顔…久しぶりに見たなぁ』
    「また惚れ直した?」
    『茶化すなよ! 付き合ってくれって言ったのに、ふったのはそっちの方だぜ!』
    「そっか(笑)」
    『断っていなければ、今頃社長夫人になっていたろうにさ(笑)』
    「あれぇ、本当に結婚まで考えていた?」
    『何度も言ったろう!結婚を真剣に考えているって』
    「そうだったかなぁ…(笑)」
    立場の違ってしまった同期入社の二人が、20数年前に戻って微笑みあっていた。

  • #689

    六輔 (土曜日, 13 2月 2021 18:37)


    『どう?体調は?』
    「うん、体調は普通かな?」
    『…そっか。病院には通っているの?』
    「うん、でも病状は変わらないみたい」
    『…そっか』
    それ以降の会話が途絶え、本論を切り出せないでいる社長に、皐月はこう言った。
    「ねぇ、マコっちゃん…」
    『うん?』
    「由美ちゃんに何か言われたんでしょ?」
    『…えっ?』
    「由美ちゃんに言われて、それで私をここに呼んだんでしょ?」
    社長はゆっくりとうなずいた。
    「…そっか。マコっちゃんは優しいからな・・・ありがとね、マコっちゃん…気を使ってくれて」
    と、皐月は持ってきたファイルケースから白い封筒を取り出し、それを社長の前に置いた。
    『えっ?なにこれ?』
    「そこに書かれてある通りだよ」
    『退職届って…』
    「お伺いを立てるつもりはないので「退職願」じゃなく「退職届」って書いたんだよ(笑)」
    『・・・皐月ちゃん』

  • #690

    六輔 (日曜日, 14 2月 2021 22:20)


    退院して会社に復帰した時には、既に皐月の気持ちは決まっていたのである。
    「クライアント様に迷惑をかけてしまうようなら、その時には私はこの会社を去ろう」と。
    皐月は優しい表情でこう言った。
    「会社に迷惑かけるわけいかないから、退院して会社に復帰したその日にはもう書いて用意しておいたものなの」
    『えっ?そうなの?』
    「うん。優しいマコっちゃんだから、同期の私に辞めてくれ!って、言いにくいんだろうなぁと思って、その時が来たら自分から渡そうって決めておいたんだ」
    『でも、どうして今日?』
    「…うん。由美ちゃんに頼んでみたの。私もクライアント様との打ち合わせに参加させて欲しいって。そしたら、ある程度予想はしていたけど、やっぱり断られちゃってさ…やりにくいわよね、由美ちゃんとしても」
    『う~ん、そうかもしれないけど・・・打ち合わせに参加したいと思った理由はなんなの?』
    「・・・・・」
    『皐月ちゃん・・・言って』
    「・・・うん。今日お見えになったのは山中様だったの」
    『そうだったみたいだね』
    「山中様のご長男のときには私がコーディネートしたっていうことだから、打ち合わせに同席していれば、もしかして何か思い出せるんじゃないかと思ってさ…」
    『皐月ちゃん…』
    「でも、やっぱり間違いだった。自分の都合で打ち合わせに参加させてほしいなんてさ・・・会社のためになることじゃないものね。ごめんね、迷惑かけて」
    『そんな謝ったりしないでくれよ!』
    「いや、だって社長の立場なんだもの。会社を守るのは社長の務めでしょ!」
    『そうだけどさ・・・でも、本当に辞めるつもりなの?』
    「・・・うん」
    『ここを辞めてどこかあてはあるの?』
    「・・・ないけど。どこか雇ってくれるところあるわよ。お花の仕事は無理かもしれないけどね」
    『・・・皐月ちゃん』
    しばらく黙り込んでいた社長は、照れながら言った。
    『あっ! そうだ、今日はバレンタインデーだったね』
    「えっ? そ、そうだけど・・・えっ? まさかチョコを期待していたとか言わないわよね? 用意してないよ!」
    『(笑)まさか』
    この後、社長はまさかの話しをするのだった。

  • #691

    六輔 (月曜日, 15 2月 2021 18:52)


    社長は、真面目な口調で話しを続けた。
    『バレンタインデーってさ、日本では女性が男性にチョコレートを贈る日ってなっているけど、もともとは欧米では「カップルが愛を祝う日」とされているんだよね』
    「…そうなんだ」
    と、社長は皐月の目をみてこう言った。
    『バレンタインデーの力を借りる訳じゃないけど・・・皐月ちゃん・・・就職先にあてがないんだったら・・・僕のところに永久就職してくれないか』
    「・・・えっ?」

  • #692

    六輔 (火曜日, 16 2月 2021 20:27)


    社長に退職届を渡したその日の夜、仕事の残の整理をするという口実で一人オフィスに残っていた皐月は、デスクの奥で眠っていた二十数年前に撮った写真を取り出して眺めていた。
    「若かったなぁ…私もマコっちゃんも」
    それは入社1年目に撮った若手スタッフの集合写真だった。
    皆が肩を組み、カメラマンに向けた笑顔が、素晴らしき仲間たちであることを写し出していた。
    昔のことを思い出すと、自然と涙が溢れて来た。
    思い返してみれば、困ったときにはいつも真斗(マコト)がそばにいてくれた。
    皐月は専門学校を出て直ぐに入社したが、後に社長になったマコっちゃんこと、真斗(マコト)は、中学校の教員を2年で辞め、転職しての入社だった。
    入社後皐月は、直ぐにフラワーコーディネーターとしての道を歩み始め、真斗は、花の通販“花屋のキューピット”の先駆けとなった仕組みづくりに奔走した。
    同期入社であっても、分野の違うところで勤務する二人が、会社の中で顔を合わせることはほぼ無かったが、皐月が会社で何かあったときに頼ったのは、気心知れた真斗だけだった。
    相談を持ち掛ければ、真斗は常に年上らしいアドバイスをしてくれた。
    4歳年上の兄貴のようでもあり、なにより皐月にとって『仲間』として決して自分を裏切ることのない存在であった。
    だが、真斗は・・・

  • #693

    六輔 (水曜日, 17 2月 2021 20:18)


    真斗にとって皐月が『仲間』であることには違いは無かったが、入社した当時は、4歳年下のまだ二十歳になったばかりの皐月を子供扱いしていたのだった。
    『そんな小っちゃなことで悩んでも仕方ないだろう! まったくお子ちゃまなんだから…皐月ちゃんは』
    「え~、そんなこと言ったってさぁ・・・う~ん・・・まぁでもマコっちゃんの言う通りだね! 小っちゃなことは気にしないで、自分らしく!・・・でしょ?…マコっちゃん」
    『そうだよ、皐月ちゃん。皐月ちゃんのいいところは何も考えずに突っ走るところ!なんだからさ』
    「う~ん、なんかすっごく子ども扱いされているような気もするけど・・・でも、あんがとねマコっちゃん。マコっちゃんに言ってもらえると勇気がでるよ」
    と、そんなやり取りが多かったが、それは日を追うごとに変わっていったのだった。
    仕事に対する情熱が自分と同等かそれ以上であると感じ始めた真斗は、皐月を一人の大人の女性として見るようになっていった。
    と同時に、女性としての魅力に気づいた真斗は、皐月を好きになっていった。
    男とは不思議なもので、恋愛感情が芽生えただけで、これまでと同じような会話が出来なくなるのだ。
    「ねぇ、マコっちゃん・・・どう思う?」
    『う~ん、難しい問題だね。・・・「慎重に」やるしかないのかなぁ』
    「慎重に?マコっちゃんからそんなこと言われると思わなかったぁ。いつものように『そんな小っちゃなことで悩んでも仕方ないだろう!』って、言ってもらえると思ってた…」
    『たまには慎重になることだってあるさ!』
    「ふ~ん・・・なんか、最近のマコっちゃん・・・しこってない?」
    『はっ?しこってない?しこってないってどういう意味?』

  • #694

    六輔 (木曜日, 18 2月 2021 20:05)


    「えっ?しこってるって分かんないの?方言?…標準語じゃなかったんだ。う~ん…カッコつけてるとか、気どってるとか…そんな感じの意味かなぁ」
    『カッコつけてる? そんなつもりはないけど・・・』
    と、いいながら真斗は真骨頂を発揮してべしゃり始めた。
    『今回の場合は、仕事の取捨選択を決めるといいね。簡単に頼まれごとに応じない。人は安請け合いをしがちだよね。それは、好かれたい病にかかっているからなのさ。人はそういう生き物だからな。でもそれは多くの人がそうなんだよ…皐月ちゃん』
    「・・・う、うん」
    『取捨選択のルールを決めると人生はクリアになるよね。例えば断捨離をしようとしたときに、これは捨てない、これは捨てるという境界線を決めておかないと、断捨離は疲れるよね』
    「う、う、うん」
    『大切なのは決断力だよ!』
    「決断力かぁ…」
    『話しは少しずれるかもしれないけど、人から「いついつ集まろう」とお願いされたとき、行きたいか行きたくないか、判断するのに5秒はかからないよね。5秒考えても、どうしようかなって決められない誘いは、心の何処かで“行きたくない”っていう気持ちがあるからなんだよ。もちろんスケジュールを確認しなければ返事できないときもあるだろうけど・・・スケジュールを確認するのに何日もかからないよね?…5秒考えても決まらないときはNOと返事すればいいのさ』
    「・・・なるほど」
    『皐月ちゃんなら大丈夫!だって俺がそばにいるんだから!』
    「???はっ? マコっちゃんが、そばに? ・・・そ、そうだね」

  • #695

    六輔 (金曜日, 19 2月 2021 20:13)


    真斗が皐月に告白をするまでに、そう時間はかからなかった。
    『結婚を前提にお付き合いをして欲しい』
    という突然の告白に、皐月はこう返事をしたのだった。
    「マコっちゃんと私は『仲間』だよね。私の中に仲間同士の恋愛は無いと思うの」
    そう言った皐月は、その他にも付き合うことが出来ない理由を一生懸命に語ったのだったが、本心は別のところにあった。
    そう、この頃の皐月は矢神達洋に想いを寄せていたために真斗からの交際の申し込みを受けることが出来なかったのである。
    その日以降、皐月は何年もの間、矢神達洋と再会できることを信じ、待ち続けることになり、一方、真斗は、皐月への想いを断ち切れぬまま、「仲間」としての付き合いを続けていった。
    そして、20数年が経ち、皐月が会社を辞めると言ったその日、真斗は皐月にもう一度告白したのだった。
    『僕のところに永久就職してくれ!』と。

    真斗のプロポーズに、しばらく返事が出来ずに黙っていた皐月だったが、穏やかな表情になってこう言った。
    「マコっちゃん・・・ありがとう…」

  • #696

    六輔 (土曜日, 20 2月 2021 18:20)


    真斗からの二度目のプロポーズに対しても皐月の答えはNOだった。
    「マコっちゃん・・・ありがとう。やっぱりマコっちゃんは優しいね。でも、ごめんなさい。私がマコっちゃんのところに永久就職することは出来ない」
    『皐月ちゃんの心の中には誰かがいるの?』
    「えっ?」
    『なんとなくそう思っていたんだ。ずっと想い続けている人がいるんだろうなって。もちろん、そう言ってもらった方が気が楽なんだけどさ』
    「・・・いないよ、そんな人。っていうか、忘れちゃったのかもしれないけどね。いずれにしても、そんな人いない」
    『皐月ちゃん・・・えっ?じゃぁ・・・あの時と同じ?』
    「あの時?」
    『仲間同士の恋愛は無いってこと?』
    皐月は笑顔で答えた。
    「そう!だって、マコっちゃんと私はずっとこれからも仲間でしょ? 仕事が変わったら仲間じゃなくなっちゃう?」
    『そ、そんなことないけど・・・そっか、俺は皐月ちゃんの恋愛対象にはなれなかったってことだね(笑)』
    「仲間として、好き過ぎたのかもしれないね」
    『(笑)嬉しいんだか、悲しいんだか微妙な言葉だけど・・・』
    「わがまま言ってごめんなさい・・・今日、荷物を持って退社するね」
    『えっ?今日?だって、会社の誰にも話していないんだよ』
    「その方がいいの。見送られるの辛いしさ! 私なりに頑張ってきたご褒美として、そうさせて! マコっちゃん」
    『・・・皐月ちゃん』

    社長室を出た皐月の頬を一筋の涙が伝った。
    「私の病気は治らないの。だからマコっちゃん、許してね・・・マコっちゃんにだけは迷惑をかけたくないの…」と。

  • #697

    六輔 (日曜日, 21 2月 2021 18:14)


    秘書の田中が色気を振りまいて社長室に入ってきた。
    『失礼します、社長』
    「おぅ、どうした?未奈美君」
    『社長にお客様です・・・アポ無しではお取り次ぎ出来ません!って、丁重にお断りしたんですけどぉ~・・・山中の母が会いたいと言ってくれれば!って、きくっちゃないんですぅ~ どうしますかぁ、社長』
    「山中の母?・・・分かった、通してくれ! 未奈美君!」
    『はぁい、分かりました』

    秘書と入れ替わるように山中が社長室に入ってきた。
    『久しぶり! 赤木君!』
    「よっ、久しぶり! 夏美! 元気そうだな」
    『赤木君も』
    「いつぶりだ?前回会ったのは・・・同級会?10年ぶりか?」
    『そうね、もう10年も経っちゃったのね』
    「そうだなぁ」
    『いやぁ、しかし色っぽい方だね・・・秘書の方』
    「そうかい?」
    『赤木君の趣味で採用した?』
    「まぁ、社長の特権!ってやつさ。そういえば、夏美の息子さん、長男さんに続いて次男さんからも仕事をいただいてるみたいで、ありがとね。なかなか挨拶も出来ずに申し訳ない」
    『いいのよ、社長さんは忙しいの分かってるから。今日は突然に押しかけちゃってごめんね!』
    「いや、大丈夫だよ。ところでわざわざ社長室まで来てもらって・・・何かあった? コーディネートが上手く進んでないの?」
    と、夏美はそれまでのニコヤカな表情を強張らせて言った。
    『どういうことだか、説明してもらおうと思って』
    「怖い顔して…なに?」

  • #698

    六輔 (月曜日, 22 2月 2021 20:10)


    山中夏美は、少し厳しめの口調で言った。
    『社長さんもお忙しいでしょうから、手短にお尋ねしますが・・・コーディネーターの重里皐月さんをクビになさったってことなんだけど・・・それは事実なの?』
    「えっ?クビに?クビになんかしてないよ!皐月ちゃんの都合で、自分で退職を願い出てきたので・・・」
    『で、辞めてもらったっていうこと?』
    「だ、だから辞めてもらった訳じゃないって!」
    『でも、結局は辞めたんでしょ?』
    「・・・うん」
    『赤木君はそれで良かったの?』
    「良くないよ! 引き留めたさ! でも・・・」
    『でもなに? 本人が言うから、それじゃ仕方ないって辞めてもらった訳?』
    「言い方キツいよ、夏美! 本人の意思が固くてどうにもならなかったんだよ・・・」
    『私の知っている赤木君なら、絶対に辞めさせなかったと思うんだけどなぁ・・・社長の立場としては従業員よりも会社を守りたかったの?』
    「・・・・・」
    『ごめんね、赤木君・・・きっと赤木君も辛い中でのことだったんだとは思うけど・・・私ね、皐月さんの大ファンなの』
    「大ファン?」
    『うん!実は私ね、フラワーアレンジメントデザイナーの資格を持っているの』
    「えっ?そうなんだ」
    「曲がりなりにも資格を持っているものだから、長男のブライダルの時にもコーディネートが気になっちゃってさ・・・打ち合わせのとき、息子にくっついて来ちゃったことがあったの。そこで皐月さんと出会ってさ・・・フラワーコーディネーターとしてはもちろんのこと、女性としてもとても魅力的で、人としても素晴らしい人でさ、直ぐに好きになったわ」
    『そうだったんだぁ』
    「素晴らしい披露宴を演出してもらって、長男夫婦も皐月さんにはすごく感謝していて、で、社長が赤木君だって、後から知ってさ、私からご挨拶に伺わなきゃいけなかったんだけど…」
    『いやいや、また次男さんのときにもうちを指名してもらって、感謝してるよ』
    「うん、だってまた皐月さんに!って、そう思ったんだもの」
    『…そっか』
    「でも、皐月さん事故にあわれたって…」
    『…うん』
    「皐月さんに代わってコーディネートをしてくれる由美さんがこう言ったの。『皐月さんに打ち合わせに同席して欲しいって頼んだけど、次男さんのコーディネートは自分の仕事じゃないから、打ち合わせに同席する必要なんかないって、皐月さんがそう言ったって』
    『えっ?・・・』
    「その驚き方からすると・・・そっか、そういうことか。そうよね、だって皐月さんがそんな言い方をするはずがないもの」
    二人には、大方の察しがついたのだった。

  • #699

    六輔 (火曜日, 23 2月 2021 17:41)


    しばらく黙り込んでいた二人だったが、先に夏美が口を開いた。
    『ねぇ、赤木君・・・』
    「うん?」
    『信じてあげられなかったの? 皐月さんの記憶障害が治ることを』
    「信じていたよ!・・・って言うのは簡単だけどさ…」
    『そうね、それは分かるけど・・・やっぱり会社を守らなきゃならなかったの?』
    と、真斗は夏美に本心を語り始めたのだった。
    「冷たい人間に思えるよな、夏美からしたら」
    『うん、だって不慮の事故で記憶を失ってしまって・・・今の医療だもの、きっと記憶を取り戻して、また素晴らしいコーディネートをしてくれるって・・・そのチャンスを奪うことでしょ?会社を辞めさせるってことは…』
    「・・・そうだな。実はさ、俺と皐月ちゃんは同期入社でさ…」
    『皐月さんと同期入社だったんだぁ』
    「うん。皐月ちゃんが事故にあって記憶障害になり、仕事復帰したくても、何故かクライアント様の記憶を全部失っていてさ・・・結局は現場から退いて事務の仕事をするようになって・・・ずっと皐月ちゃんのこと見て来たよ。皐月ちゃんが辛そうにしているところもね」
    『・・・そっかぁ』
    「うん。夏美だから全部話すけど・・・恥ずかしい話し、実は、皐月ちゃんに二度プロポーズして、二度とも断られた男なんだよ…俺は」
    『えっ?赤木君が…皐月さんに?二度もふられたの?・・・赤木君でもふられることあるの?っていうか、赤木君って、え?なに? 独身だったの?』
    「わり~ぃかよ」
    『悪くはないけど・・・え?二度?』
    「あぁ。二度目は、今回皐月ちゃんが会社を辞めるって、俺のところに退職届をもってきたときに…」
    『そうなの? ホンと? 赤木君のことだから、就職先が無かったら、俺のところに永久就職しな!とか、言っちゃったんじゃないでしょ?』
    「・・・・・」
    『(笑)相変わらずね~ 都合が悪くなると黙り込むその癖!』
    「うるせ~し!」
    『あぁ~でも赤木君らしいなぁ、そっか。っていうことは、若い時からずっと皐月さんのことを想い続けていたってことなんだ』
    「・・・うん」
    『でも、どうして?それだけ想っている皐月さんを引き留めなかったの?まさか、フラれちゃったからじゃないんでしょうね!・・・赤木君』

  • #700

    六輔 (水曜日, 24 2月 2021 20:29)


    真斗は、首をゆっくりと横に振った。
    「そうじゃないんだ、夏美」
    『じゃぁどうして?』
    「皐月ちゃんは、仕事復帰するときには、クライアント様に迷惑をかけるようなことがあれば、その時には自ら退社するって決めていたらしいんだ」
    『そうなの?』
    「…うん。皐月ちゃん、夏美親子が打ち合わせに来るのを知って、いま、コーディネートを担当している社員に申し出たそうなんだ・・・打ち合わせに同席させて欲しいって・・・でも、ホンと恥ずかしい話し…」
    『赤木君! その先は話さなくてもいい! 誰かを責めるつもりなんかないから!』
    「夏美・・・ありがとな。皐月ちゃん、夏美の長男さんのときには自分がコーディネートしたのだから、夏美に会えば何か思い出すんじゃないかって…でも、それは間違いだったって言うんだよ」
    『どうして?』
    「だって、それってこっちの都合だろう?」
    『そんなぁ・・・わたし、皐月さんのためならどんなことでも協力したかったわよ!』
    「そうだな、夏美ならそう言ってくれるよな。でもな・・・皐月ちゃんは、自分が身を引くことでお客様第一の仕事が出来るようになるからって・・・そう言われておきながら引き留めれば、もっと辛い思いをさせることになるよな?・・・」
    『赤木君・・・』
    「皐月ちゃんは、人一倍、責任感の強い子なんだ。だから、いつか皐月ちゃんの方から辞めさせてくれって言ってくるだろうなって、実はそう思っていたんだ。ずっと皐月ちゃんのことを見てきたからな」
    『そっか』
    「それと、実は、実家のお母さんに連絡をして、伝えてあったんだ」
    『えっ?実家の?皐月さんの実家ってこと?』
    「うん」
    『なんて伝えてあったの?』
    「もし、皐月ちゃんの方から辞めたいって言ってきたときには、もう一度プロポーズをさせてもらいますって。でも断られた時には・・・」
    『断られた時には?』
    「引き止めませんからって。ただ・・・」
    『ただ?』
    「自分が社長でいる限り、皐月ちゃんがいつ戻ってきても大丈夫なようにしておきますからって」
    『赤木君・・・』
    夏美の頬を一筋の涙が伝った。

  • #701

    六輔 (木曜日, 25 2月 2021 20:46)


    全てを理解した夏美の表情は、元の穏やかな女の子らしい顔に戻っていた。
    『ごめんね・・・赤木君』
    「うん?」
    『疑ったりして・・・やっぱり赤木君は、赤木君だった!』
    「二度もフラれたこと?」
    『違うわよ!もぉ~(笑)』
    「しかし、相変わらずだよ…夏美は(笑)」
    『相変わらず?』
    「うん。人のために一生懸命になってさ…」
    『別に特別なことしているとは思わないけど・・・皐月さんをクビにした社長さんに文句の一つも言わなきゃ収まらなくてさ…』
    「(笑)そっか。しかし、おっかなかったよ!」
    『え~~??? 穏やかに話していたと思うけどなぁ…』
    「(笑)高校時代と全く変わってないよ!」
    『え~? どこが?』
    「うん? どこが?・・・怒ると猿顔になるところ!」
    『あのさ!』
    二人は、見つめあって微笑んだが、直ぐに皐月のことを案じて表情を曇らせた。
    『皐月さんは、これからどうするって?』
    「う~ん、とりあえず少し休んでゆっくり考えてみるって」
    『そっかぁ』
    「皐月ちゃんのお母さんから聞かされたんだけど…父親から言われたそうなんだ・・・実家に戻ってきて、花屋さんをやったらどうだって」
    『実家で?花屋さん?』
    「うん。実家の前に空き地があるらしく、そこに小さなお店を出して・・・皐月ちゃんは、そこでアレンジメント教室でもやろうかなって・・・事故にあう前は考えていたそうなんだけど…」
    『えっ? 小さなお店でアレンジメント教室を?・・・わたし、そこで雇ってもらいたい!』
    「はっ?・・・そっか。夏美はフラワーアレンジメントデザイナーの資格を持っているんだったね・・・って、皐月ちゃんの実家は東京じゃないよ!」
    『うん、息子二人が片付くから、わたし、自由の身になるしさ…』
    「あれ?旦那さんは?」
    『まぁ、細かいことは気にしないで! とにかく自由の身なの。50歳過ぎて、これから一人でどうしようかなって考えていたところなの』
    真斗は柔らかな笑みを浮かべて言った。
    「お互いにシングルってことか…」と。

  • #702

    六輔 (金曜日, 26 2月 2021 21:55)


    真斗は、舞い上がる夏美を冷ますかのように言った。
    「まぁ、少し落ち着きなよ…夏美」
    『えっ?…あっ、うん』
    「皐月ちゃん、母親の記憶はしっかり残っているのに、お父さんの記憶は全部失くしちゃったみたいでさ…」
    『えっ?そうなの?』
    「うん。それを理由に実家には戻りづらくなっちゃったって…」
    『そうなんだぁ・・・ごめんなさい、勝手に盛り上がっちゃって』
    「いやっ、いいんだ・・・でもさ・・・ここを辞めても直ぐには実家に戻れないって…辛いはずだよ…皐月ちゃん」
    『ホンとね・・・何かしてあげられることはないの?・・・赤木君』
    「う…ん 皐月ちゃんにどう声をかけてあげればいいのか…言葉は、時として人を深く傷つけてしまうものだからね」
    『そうねぇ・・・相手の気持ちを想像して言葉を選べと言う人がいるけど、そんな単純な話しではないわよね』
    「やもすれば、誰も傷つけない言葉など、この世に存在しないからな」
    『えっ?それってどういうこと?』
    「自分が言われて嫌なことは、おそらくは誰もが言われて嫌なことだろうけど、厄介なのは、自分が言われて嬉しいことだよな」
    『自分が言われて嬉しいこと?』
    「うん。人は、身勝手な生き物で、自分が言われて嬉しいと思うことは、きっと相手も嬉しいだろうと思いがちだよな。でも、そのことが知らない間に誰かを傷つけてしまうことだってあるからな」
    『あぁ、それは私も聞いたことがあるわよ。初めての子を妊娠した女性が「お母さんの顔になってきたね」「優しい顔になったね」と、言葉をかけられるのは、嬉しくないはずはないと思いがちよね。でも、実は、その言葉を嬉しいとは思わない人だっているのよね。だって、子供を産まない女性は、優しい顔になれないって言われているように感じてしまう人だっているでしょうからね』
    「なるほどなぁ・・・確かにそうだな」
    『言葉って難しいわよね』
    「・・・うん」
    『あれ?すっかり脱線しちゃったわね・・・あぁ、皐月さんに会いたいなぁ…』
    「随分と惚れ込んだな、皐月ちゃんに」
    『うん!私の4つ年下だって知っていたけど、とっても素敵な人だからね! だから、赤木君がずっと想い続けて来たのもうなずけるわよ!…(笑)』
    「うるせー!どうせ二回もフラれたさ!」

  • #703

    六輔 (日曜日, 28 2月 2021 18:50)


    真斗は真面目な顔でこう言った。
    「別のところにお願いしてもらっても構わないぞ!・・・コーディネート」
    『えっ?・・・それは大丈夫。だって、親が口を出すことじゃないもの。幸い、次男のお嫁さんと由美さんは同い年で、意気投合してるみたいだし』
    「そっか、ありがとなぁ、夏美」
    『いいえどういたしまして! 社長さんがしっかりされた方で、信用できる会社だからね!…(笑)』
    「なんか、ひっかかる言い方するよなぁ・・・(笑)」
    『ねぇ、赤木君・・・』
    「うん?」
    『でも、本当に大丈夫なの?…皐月さん。誰かがそばにいてあげた方が・・・私はそう思うけどなぁ』
    「う~ん、そう思ったからこそ、二度目のプロポーズをしたんだけどな」
    『う~ん・・・何もプロポーズまでしなくても良かったんじゃないの? だってさぁ、赤木君の胸に飛び込みたいと思っていたとしても、自分の病を気にして、がんじがらめになっちゃっていることだって考えられるわよ』
    「えっ?」
    『もぉ~、だから男の人ってだめなのよ! 女の子の気持ちなんて、微妙なんだから! ホンと、皐月さんは赤木君の胸に飛び込みたいって思っていたかもしれないわよ!』
    「嘘だろ?」
    『まぁ、それは分からないけどさ・・・でも心配だなぁ、皐月さん』
    「…うん」
    『女の子ってさ、強く思えても本当は弱いのよ…』
    「えっ?弱い?」
    『・・・ってさ、赤木君!!! どうせ、私は勝気な女よ!!!』
    「べ、別にそんなこと言ってな…」
    『赤木君の目がそう言ってるから!!真面目に聞いてよ!もぉ~!・・・心配だよ、皐月さん』

  • #704

    六輔 (月曜日, 01 3月 2021 19:56)


    言われなくても分かっているさと、肯定も否定もしない真斗に夏美はこう言った。
    『ねぇ、赤木君…』
    「うん?」
    『私が皐月さんの様子を見に行ったら、皐月さん、迷惑かなぁ…』
    「えっ?・・・皐月ちゃんの家に行くってこと?」
    『・・・うん』
    「迷惑じゃないだろうけど…でも、いきなり夏美が一人で行っても、皐月ちゃん、夏美のこと覚えていないんじゃないの?」
    『えっ?・・・あっ、そっか。…そうよね』
    「・・・うん」
    『ねぇ、赤木君…』
    「うん?」
    『きっと昔の人なら、私みたいな人のことを“鋳掛屋の天秤棒”って呼ぶんでしょうね』
    「いかけやのてんびんぼう?どういう意味のことわざなの?」
    『“出しゃばり者”のことを言うことわざよ』
    「出しゃばり者?・・・夏美は決して出しゃばり者なんかじゃないさ」
    『本当にそう思ってくれてる?』
    「もちろんさ! おしとやかな女の子」
    『うそクサ!もぉ~、こっちが真剣に話しているのに…』
    「すまん、すまん夏美。もちろん俺だって皐月ちゃんのことを放っておきたくはないさ。でもな…皐月ちゃん、最後に俺にこう言ったんだよ・・・『私頑張るから、遠くで見守っていてね!』って。これまでずっと皐月ちゃんのことを見て来た俺だから…彼女の言葉を信じてあげたいと思ってさ…」
    『・・・そっか』
    それ以降、夏美が皐月のことを話すことはなかった。
    だが・・・
    皐月の状態は、夏美が心配した通りだった。
    退職したあとの皐月は、アパートから一歩も出ることなく、十分な食事をすることもなく過ごしていたのだった。

  • #705

    六輔 (火曜日, 02 3月 2021 22:58)


    真斗との話しを終えオフィスビルを出た夏美は、街中を考え事をしながら歩いていた。
    『皐月さん、赤木君にこう言ったのよねぇ・・・“遠くで見守っていてね”…って。それって嫌いな人に対して言う言葉じゃないわよね…逆に・・・』
    50歳を超え、色恋とは無縁になっていた夏美だったが、まだ微かに残っていた女心を思い起こしていた。
    『そもそも、女心の構造は“本音と建前のセット構成”なのよね。普段の生活でも本音と建前を分ける傾向が強いところにきて、それが恋愛になると更に複雑化しちゃう。男性の場合、好きならハッキリ「好き」と言えるけど、女性はそうはいかない。「嫌い」という言葉に「好き」の裏メッセージが入っていることだってしばしば・・・だから赤木君が皐月さんの想いに気づかなくてもしょうがないのよね』
    と、そんなことを考えていると、とても大切なことに気づいたのだった。
    夏美は、街中の歩道で立ち止まり両手でお腹を押さえて心の中で叫んだ。
    『わたし、お腹空いてる~~~!!!』

    人間にとって重要な欲求とは一体なんだろうか。と考えた時に、真っ先に浮かぶのは「三大欲求」の食欲・性欲・睡眠欲だろう。
    悲しいかな、高齢者社会になったいま、年齢を重ねた者の三大欲求のうち、性欲は排泄欲に置き換えられてしまうという話しを聞いたことがある。
    ホンと、悲しいかな。
    だからという訳ではないが・・・
    夏美は、唯一残った未だに衰えることのない食欲に支配され、脳の中は「何を食べようか!」で思考の全てを占有していたのだった。
    夏美は、あまりにもの空腹感に、目の前にあったオレンジ色の看板を見て叫んでいた。
    『決まり~!牛丼の超特盛ぃ~!』

  • #706

    六輔 (水曜日, 03 3月 2021 21:09)


    夏美は、とても大事な悩みを抱えていた。
    『どうしよう…』
    『・・・ホントにどうしよう・・・』
    『ねぇ、誰か教えて! 私はどうしたらいいの…』
    夏美はギュッと拳を握り締めて心の中で呟いた。
    『小にしよう』
    夏美が思い悩んで導き出した答えは、「小盛」のおかわりだった。
    超特盛だけで満たされることのなかった空腹感を「小盛」のおかわりで自分を納得させたのだった。
    『並盛が食べたかったけど…』と。

    今日は三月三日、ひな祭り。
    女の子の健やかな成長と健康を願う「桃の節句」だ。
    物語には多くの女性が登場しているが、それぞれにモデルになっている女の子がいる。
    そして多くの女の子が、食べることに貪欲である。
    何故なら、そのモデルとなっているほとんどの女の子が大喰いだからだ。

    お腹を満たした夏美は、携帯を取り出し、その画面に皐月とのツーショット写真を写し出してつぶやいた。
    『なんか、やっぱりほっとけないなぁ・・・鋳掛屋の天秤棒と言われても構わない・・・元気でいる皐月さんに会いたいなぁ…』と。

  • #707

    六輔 (木曜日, 04 3月 2021 21:16)


    与えられた餌をこれまで一度たりとも残したことのなかったペットの徳三郎が、二日連続で半分以上の餌を食べ残していた。
    その日は、餌を与えても全く見向きもしないことに、皐月は徳三郎の大好物のドライフルーツを与えた。
    「徳三郎…大好物のドライフルーツよ、食べて!」
    いつもであれば、待ちきれずにドライフルーツに喰らいつくはずの徳三郎が、全く食べようとしないことに皐月は心配そうに声を発した。
    「どうして食べないの? お腹でも痛いの?…徳三郎」
    これまで見たことのない徳三郎の様子に、皐月はかかりつけの動物病院に受診させることを決めた。
    「お医者さん、行こう・・・徳三郎」

    皐月は、近くのスーパーに食材を買いに出る以外、半月ぶりの外出だった。
    動物病院に着くと、顔見知りのスタッフが出迎えた。
    『重里さん、お久しぶりです。今日はどうされました?』
    「全くご飯を食べてくれないんです。今日は、大好物のドライフルーツまで・・・ここ数日元気がないんです。よく診てください」
    ウサギの徳三郎をスタッフに預け、皐月は待合室の一番隅に座った。

  • #708

    六輔 (金曜日, 05 3月 2021 19:21)


    全ての診察を終えた獣医は、徳三郎をベッドにそっと寝かせた。
    清潔そうな白衣を身にまとい、年の頃なら50歳後半、中肉中背のその男は、まだ麻酔から覚めずに目を閉じたままの徳三郎の頭を優しくなでて、待合室に出た。
    『重里さん、中に入ってください』
    「あっ、はい」
    皐月が診察室に入ると、直ぐにベッドに横たわる徳三郎が目に入った。
    『まだ、麻酔が効いているので…もう直ぐ目覚めると思いますけど…』
    「はい」
    『どうぞ、そこに座ってください』
    「はい」
    『重里さんのご要望通り、全部調べさせてもらいましたよ』
    「ありがとうございます。それで徳三郎は・・・」
    『…はい・・・その前に…』
    と、獣医は皐月に視線をやって尋ねた。
    『重里さんにいくつかお尋ねしたいことがあるのですが…』
    「えっ?・・・私に?」
    『はい。分かりやすく尋ねますけど…重里さん自身、何か変わったことはありませんでしたか?』
    「えっ?変わったこと?・・・強いて言えば、仕事を辞めてこの半月、ずっと家にいるようになったことぐらいですかね」
    『仕事を?・・・そうでしたか』
    「仕事をしているときよりも、一緒にいる時間が増えて、徳三郎は喜んでいると思うんですけど・・・」
    『・・・なるほど・・・重里さん、私の記憶違いならごめんなさい。少しお痩せになりましたよね?』
    「えっ?・・・測っていませんが…確かに痩せたかもしれません」
    『そうですよね・・・顔がほっそりしましたよ。もしかして重里さん自身、食事をあまりしていないんじゃないですか?』
    「えっ?・・・まぁ、仕事を辞めて家にいて、あまり動かないのでお腹もすかないんですよね。そういう意味で食事の量は減っているかもしれませんね」
    『う~ん、本当にそれだけでしょうか…』
    「えっ?」

  • #709

    六輔 (土曜日, 06 3月 2021 19:52)


    獣医は、穏やかな表情でこう言った。
    『重里さん、重里さんはこの子をとても大切に思っていますよね』
    「は、はい! もちろんです」
    『ちゃんと半年ごとに健康診断も受けさせていますし…』
    「はい」
    と、獣医はベッドの上で横たわる徳三郎を見ながら続けた。
    『この子はとても幸せな子ですよね。重里さんのような飼い主と巡り合えて。多くのウサギを見てきましたが、この子ほど性格のいいウサギを見たことがないほど、とても優しい気持ちのウサギだと思います』
    「そうなんですか?」
    『はい、自信をもって言えます。重里さんに育てられてきたためだと思いますよ』
    「・・・そうなんですか」
    『ところで重里さん・・・私は獣医であって心療内科の医師ではないので、きちんとしたことは言えませんが・・・もし、良かったら仕事を辞めた理由を私に教えていただけませんか?』
    「えっ?・・・はい」
    それから皐月は、事故にあい、記憶障害となったこと、会社を辞めようと決意した理由を獣医に話したのだった。

    『・・・辛い話しをさせてしまってごめんなさいね、重里さん』
    「あっ、いいえ」
    『ところで、どうして重里さんの病気のことを尋ねたかと申しますと・・・徳三郎君が、「私のご主人様の話しを聞いてあげて!」って、言っているような気がしてならなかったんです』
    「えっ?」
    『徳三郎君は診察の結果、体の異常は見つかりませんでした。では、何故食事をしなくなってしまったのか・・・それは、おそらくですけど…何も食べなくなってしまったご主人様を心配し、自分だけ食べる訳にはいかないって・・・』
    「えっ?それホンとですか?」
    『・・・はい、おそらく。とにかく体に異常はありませんでしたから、メンタル的なことだと思いますし、それにさきほど、重里さんおっしゃいましたよね。お腹もすかないから、食事の量は減っているかもしれないって。事実、相当減っているんじゃないんですか? 顔がずいぶんとお痩せになりましたよ…重里さん』
    「・・・はい」
    皐月は、徳三郎を愛しむように眺めて言った。
    「徳三郎、ごめんね・・・まさかそんな理由だったなんて…」
    皐月の頬を一筋の涙が伝った。

  • #710

    六輔 (日曜日, 07 3月 2021 18:49)


    獣医は尋ねた。
    『重里さん・・・記憶障害の治療は、どうなさっているのですか?』
    「月に一度、通院していますが、特に服薬はしていません」
    『どちらの病院に通われているのですか?』
    「東京医療福祉大学病院です」
    『あぁ、東京医療福祉大学病院でしたか。その病院でしたら、僕の大学の同期がいますよ。田川清という奴なんですけど…』
    「えっ?その方なら私の主治医です」
    『おやっ、そうでしたかぁ。私はいろいろあって人の治療ではなく、動物の治療の道に進みましたけど・・・田川って、面白い奴でね。時々、なまったりしませんか?(笑)』
    「はい!とっても!・・・って、そのなまり・・・実は、私も同じところの生まれで、私も田川ドクターと同じ高校を卒業しているんです」
    『そうでしたかぁ。きっとそれも何かの縁なのでしょうね。田川ならしっかりと重里さんと向き合ってくれることでしょう…』
    「・・・はい」
    そこまで話しをしてきた獣医は、凛とした表情に変えて言った。
    『重里さん、私は獣医です。動物のことを一番に考えてあげなきゃならない立場です。だから、飼い主の方には時に厳しいことも言わなければなりません』
    「えっ?…あっ、はい」
    『お尋ねしますが・・・今日、徳三郎君を連れて帰りたいと思っていますか?』
    「えっ? もちろんです。徳三郎は、床が変わったら眠れなくなってしまうと思います。先生は、返せないと考えているんですか?」
    『・・・はい。徳三郎君が何故食事をしなくなってしまったのか・・・その理由が分かった以上、今の重里さんにお返しすることはできません』
    「そ、そんなぁ・・・」
    『今のままでは、徳三郎君を死なせてしまうことになるかもしれませんよ。そうならないと約束できますか?』
    「約束?・・・それって、私が徳三郎の前でしっかりと食事をすればいいことですよね?」
    『それはもちろんのこと、徳三郎君を本当に安心させてあげられなかったら、おそらくこのまま徳三郎君は・・・』

  • #711

    六輔 (月曜日, 08 3月 2021 20:45)


    脅しともとれる獣医の言葉に皐月は声を荒げて食って掛かった。
    「脅かさないでください、先生!」
    『脅かしでもなんでもありませんよ、重里さん。ここからはあくまでも私の想像でのことですけど・・・重里さんは、仕事から帰ってきたときには、どんなに疲れていようが、徳三郎君に餌�を与えながら、いろんな話しを聞かせてあげていたんじゃないですか?』
    「えっ?・・・はい、そうです」
    『その日にあった嬉しかったことや些細な出来事を話したり、時には仕事の愚痴をこぼしたかもしれませんね。徳三郎君は、重里さんが自分にいろんなことを話してくれることを、嬉しく思っていたはずですよ。人間だって同じですよね。他愛もない話しであっても、会話があるから家族でいられる。・・・さっき、重里さんはこう言いましたね。“仕事をしているときよりも、一緒にいる時間が増えて、徳三郎君は喜んでいると思う”って』
    「・・・はい」
    『では、お尋ねしますが・・・家にずっといるようになってからも、仕事をして疲れて帰ってきたときのように徳三郎君に話しかけていましたか?』
    「えっ?・・・いなかったかもしれません」
    『きっとそうなんでしょうね。そのことに、徳三郎君は随分と悩んだと思いますよ。僕が何か悪いことをしたのかな?だから元気がなくなっちゃったのかな?…ってね』
    皐月は獣医の言葉に目を潤ませ、唇をかんだ。
    「・・・徳三郎」

  • #712

    六輔 (水曜日, 10 3月 2021 19:29)


    と、その時だった。
    ベッドの上で眠っていた徳三郎が麻酔から覚め、首を持ち上げて、ここがどこであるのか分からないまま、主人の姿を探し始めた。
    「徳三郎!」
    主人の声を聴いた徳三郎は、麻酔から覚めたばかりのまだおぼつかない体を一生懸命に動かし、ようやく立ち上がった。
    「徳三郎!」
    我が子を迎え入れるように皐月が近寄ると、徳三郎は皐月の胸の中に飛び込んだ。
    「徳三郎!」
    徳三郎は皐月の胸の中で、主人を案じるように首を上げて覗き込んだ。
    その様子を食い入るように見ていた獣医が言った。
    『重里さん…』
    「あっ、はい」
    『私は、こんなウサギがいることを初めて知りました』
    「えっ?」
    『とても賢い犬が主人を心配して覗き込む姿は目にしたことが何度もありますが、ウサギもこんな表情で飼い主を見るんですねぇ・・・どれだけ徳三郎君に愛されているのか、よく分かりました…重里さん』
    「先生・・・」
    『重里さんは、動物とのかかわり方をちゃんと承知していらっしゃる方です。もうこれ以上は申し上げる必要もないでしょう…大丈夫ですよね?重里さん』
    皐月は目を潤ませてうなずいた。
    「・・・はい、先生」
    『どうか、徳三郎君が元気になりますよう・・・重里さん自身もお辛いでしょうが、徳三郎君はあなたがいなければ生きていけないんです。主人が元気でなかったら・・・どうか、ご自身のことも大切になさってください』
    皐月は、徳三郎を胸に抱いたまま獣医に深く頭を下げ診察室を出ていった。

  • #713

    六輔 (金曜日, 12 3月 2021 01:34)


    アパートに戻ってきた皐月は、綺麗に掃除してあるケージに徳三郎をそっと入れて、優しく笑みを浮かべた。
    「帰ってこれて良かったね、徳三郎」
    ケージにおとなしく入った徳三郎は、住み慣れた自分の居場所に戻ってきてホッとしたように、ピョンピョンと跳ねた。
    その様子を安堵の表情でしばらく眺めていた皐月は、いつもの食事の時間にはまだ少し早いのを知りながらも、徳三郎の餌を用意し、ケージの中に置いた。
    「どこも悪いところがなくて良かったね、徳三郎・・・今日は食べてよ」
    餌を差し出された徳三郎は、首をかしげるような仕草をし、皐月の顔を覗き込んだ。
    「えっ?なに? 徳三郎はどこも悪いところがないんでしょ?食べられるわよね!」
    だが、徳三郎は皐月の厳しめの口調に餌を食べようとはしなかった。
    徳三郎のその様子に、皐月は、獣医と交わした約束を思い出した。
    「・・・そっか」
    自分が食事するところを見せて安心させてあげなければ、餌を食べないことを改めて思い知らされた皐月は、食事の準備をしようと考えた。
    まずは、何を食べようかと考えてみたが、以前のようにこれが食べたいという感情が全く浮かんでこないことに、皐月は仕方なく冷蔵庫を開けてみた。
    「えっ?・・・何もないよ」
    改めて気づいたことだが、冷蔵庫には一切の食材が入っていなかった。
    「どうしよう・・・」
    もともとインスタント食品やレトルト食品を好まなかった皐月であったため、部屋には非常食も常備されていなかった。
    仕事をしていた頃の皐月であれば、億劫がらずに近くのスーパーに出かけていったであろうが、その日の皐月は、本音は全く食欲が無かったことと、買い物に出かけて誰かに会うことがすごく嫌に思え、買い物かごを手に取ることが出来なかった。
    皐月は、深く息を吐き、目を閉じて獣医と交わした会話を思い出した。
    「…私の責任だもんね」
    そうつぶやいた皐月は、おもいっきりの作り笑顔を浮かべて徳三郎に話しかけた。
    「徳三郎、あのね・・・」
    このあと皐月は、普段の皐月であったら絶対に口にしないようなことを言ったのだった。

  • #714

    六輔 (金曜日, 12 3月 2021 19:45)


    皐月は、めーいっぱいの作り笑顔でこう言った。
    「徳三郎、あのね…今日は私の誕生日でね、お友達から食事に誘われたから行ってくるね」
    と、言って皐月は、自分と女友達とのツーショットの写真をスマホの画面に映し出してひとり言をつぶやいた。
    「あれ?ウサギと猿って仲悪いんだっけ????カチカチ山って、ウサギと・・・あっ、タヌキだね・・・ということは、ウサギと猿は仲良し?・・・まっ、いっか」
    と、サル顔の女友達との写真を徳三郎に見せた。
    徳三郎は、まん丸の目をクリクリさせながらスマホの画面を覗き込んだ。
    「この人と行ってくるからね。帰りは遅くなるから、徳三郎はしっかりご飯を食べて待っていてね」
    と、作り笑顔をさらに大きなものにして徳三郎を見た。
    すると皐月のその笑顔を覗き込んだ徳三郎は、納得したように餌に口をつけた。
    「えら~い、徳三郎!その調子」
    皐月の喜ぶ顔を見た徳三郎は、食べる速度を速めた。
    「良かったぁ。それが徳三郎のいつものご飯の食べ方だよね!」
    ・・・と、皐月が笑顔でいたのはそこまでだった。
    ボールに入れられた餌を徳三郎が完食するのを見届け、立ち上がって振り向いたその皐月の表情は能面のように無表情だった。
    皐月は、クローゼットから上着を取り出し、それを羽織ると、徳三郎に声をかけて部屋を出た。
    「行ってくるね…徳三郎。お留守番よろしく」
    外に出て部屋の鍵をかけようとドアノブを持った皐月は、今までであったら絶対に口にしないようなことを言ったのだった。
    「所詮、動物…簡単に騙せるわよね・・・なんか、徳三郎を飼うの、面倒になっちゃったな」と。

  • #715

    六輔 (土曜日, 13 3月 2021 18:42)


    皐月とウサギの関係は今に始まったことではなかった。
    美代子とルームシェアしていたときは、賃貸の条件で動物を飼うことが許されなかったが、30歳で美代子が藤原のところに嫁ぎ、一人暮らしを始めたときから、皐月のそばには常にウサギがいた。
    ウサギの平均寿命は7~8年。
    徳三郎は皐月にとって三匹目のウサギだ。
    そして徳三郎との付き合いは、獣医に言われた通りだった。
    どんなことでも話しかける皐月に、徳三郎は目をまん丸にして応えた。
    その日、生涯のパートナーとして付き合って来た徳三郎に、皐月は初めて嘘をついたのだった。

    アパートを出た皐月が向かっていた先は、女友達との食事ではなく、近くの広い公園だった。
    そう、皐月が徳三郎に話したことは全て嘘だったのである。
    「今日は私の誕生日じゃなくて、たしか、彼女の誕生日だったわよね・・・もう、彼女と会うことも無いような気がするけど」
    顔に表情もなく、歩くスピードもゆっくりで、明らかに覇気のない皐月だった。

    ようやく目的地の公園が見えて来た。
    その公園は、4月初めには桜が満開になり、仲間たちと花見を楽しんだり、坂道を利用してのウォーキングをしたりと、皐月にとっての憩いの場所だった。
    だが、仕事を辞めてからは何事にもやる気が起きず、一度も足を運んでいなかった。
    公園につくと、小さな子供連れの親子や日光浴を楽しむ老夫婦の姿が目に付いた。
    皐月は、なるべく人目のつかないベンチを探し、そこに座った。
    と、少し離れたところにあるベンチに中年の男性が座っているのが目に入った。
    「あれっ、あの人…」

  • #716

    六輔 (日曜日, 14 3月 2021 19:14)


    その中年男性に対する記憶は、そう遠い昔のものではないことは直ぐに分かった。
    「えっと・・・あ!」
    少しの間考えていた皐月だったが、ようやくその中年男性とどこで会ったのかを思い出した。
    「あっ、職業安定所…」

    皐月は、会社を辞めて直ぐには職安に通って次の仕事を探していた。
    会社を辞めたばかりの頃は、次の仕事を見つけて働かなければならないと考えていた皐月だった。
    だが、職安に通うたびに、フラワーコーディネーターの資格を必要とする仕事はもちろんのこと、花に関する仕事も、そうでなくても皐月の気を引くような求人が全く無かったことに、足を運ぶだけの毎日が虚しくなって、直ぐに通うことを辞めてしまったのだった。
    その中年男性は、皐月が職安に行くたびに見かけた男だった。
    男性は、職安で見かけたときもそうだったが、その日、公園のベンチに座っているときも、ビシッとスーツ姿であったことに皐月は想像した。
    「あの人、きっと会社をクビになって、そのことを家族に告げられずに、いつもの通り家を出て、職安のあとにこの公園で時間をつぶしているのね」と。
    日光浴が日々の日課となっている老夫婦と、仕事をクビになった中年男性と同じ公園で暇を持て余している自分がとても虚しく思えた。
    と、その中年男性が皐月の視線を感じ取ったのか、明らかに皐月に視線を残したまま立ち上がって近寄ってきたのだった。
    「・・・えっ?」

  • #717

    六輔 (月曜日, 15 3月 2021 19:37)


    皐月は、自分に視線を向けながら近寄ってくる中年男性を寄せ付けないように首の向きをあからさまに変えて中年男性から視線を外した。
    だが、中年男性は皐月のそんな行動などお構いなしに近づいてきて声をかけて来た。
    『こんにちは』
    自分に対しての挨拶だと分かったが、皐月はそれを無視した。
    『こんにちは』
    二度目の声に、皐月は応えざるを得なかった。
    「あっ、こ、こんにちは」
    やむなく応えた皐月だったが、自分はあなたと親しく話す意思はありませんと伝えるように皐月は、再び男性から視線を外した。
    だが、中年男性は話しを辞めようとはしなかった。
    『隣に座ってもよろしいですか?』
    「えっ?・・・」
    YESともNOとも答えないで黙っている皐月に、一切の遠慮をすることもなく中年男性は、ベンチの隅に座って勝手に話しを続けた。
    『最近お会いしましたよね…』
    「えっ? いやっ・・・」
    『確か、職安でしたよね?』
    「・・・・・」
    『確か、10日ぐらい前まで毎日通っていましたよね?・・・実は、私も職安に通っている身なものですから』
    そこまで言われてしまえば、答えざるを得なかった。
    「はい、職安に通ってはいましたけど…」

  • #718

    六輔 (火曜日, 16 3月 2021 19:34)


    中年男性は、年の頃ならもう少しで還暦を迎えそうな感じの男だった。
    有名人でいえば、岩城滉一のような雰囲気で、カッコつけた言い方をすればロマンスグレー、白髪交じりの頭髪でありながらも綺麗に切りそろえられた髪型にスーツ姿の身なり。
    近寄ってきたときに微かにタクティクスの香りがした。
    決して悪い印象の男ではなかったが、一人で静かに居たかった皐月にとっては、迷惑な訪問客だった。
    『仕事はみつかりましたか?』
    「はっ?・・・・・」
    黙って答えない皐月に、その男は土足で踏み込むようにズケズケと言ってきた。
    『見つかっていたら、こんな昼間に公園になんかいないですよね?』
    失礼極まりない言葉に、皐月は露骨に表情を強張らせて中年男性をにらみ返した。
    『そ、そんな怖い顔で見ないでくださいな。いきなり失礼な話でしたね、お詫びします。…いやぁ、実はね・・・』
    中年男性を相手にする気力も失せていた皐月に、中年男性は勝手に自分の話しを始めた。
    『あと2年ちょっとで60歳の定年を迎えるはずだったんですけど、突然、リストラにあいましてね・・・この年齢で新しい就職先を見つけるのは厳しいですね』
    皐月にとっては、どうでもいい話しだった。
    皐月が反応しないことなどお構いなしに男は続けた。
    『私は、家族がいないんです』
    「・・・えっ?」
    皐月は心の中で思った。
    「じゃぁ、仕事を辞めたことを家族に言えなくて、スーツ姿で公園で時間をつぶしていた訳ではなかったんだ…」と。

  • #719

    六輔 (水曜日, 17 3月 2021)


    家族がいないということに別に同情する気はなかったが、であるとするなら、何故、わざわざスーツ姿で公園にいるのか、その理由を知りたくなったこともあり、皐月は男の話しに付き合うことを決めて話しかけた。
    「ご家族がいないって?・・・」
    『あぁ、お恥ずかしい話し、ずっと独身でしてね…』
    「独身であることは、別に恥ずかしいことじゃないんじゃないですか?」
    皐月は、自分もずっと独身であると言いかけたが、初対面の男に余計な話しをするのは控えた。
    『そ、そうですよね。世の中、ずっと独身を通される人は、たくさんいる訳ですからね』
    「・・・そうですね・・・ご両親は?」
    『父親は、僕が中学生のときに・・・母親は、去年亡くなりました』
    「そうでしたか、それはお寂しいことですね」
    『母親とは、ずっと別々に暮らしていましたので・・・ですけど、亡くなって感じましたが、やっぱり寂しいですね』
    と、会話が途絶えそうになって初めて男は名乗った。
    『あっ、遅くなりましたが、私は畑中(ハタナカ)といいます。お一人でいらっしゃるところ、話しかけてしまって申し訳なかったですね』
    皐月は心の中で「まったくだよ!」と思いながらも自分も名乗った。
    「あっ、いいえ・・・私は重里です」
    『重里さん・・・余計なことを申し上げるようですけど…なんか、悩み事でもおありになるんじゃないですか?』
    「えっ?」
    『とても神妙な面持ちでベンチに座っているように感じてしまって、それでつい話しかけてしまったんですよ…私の思い過ごしであったらいいんですけど…』

  • #720

    六輔 (木曜日, 18 3月 2021 20:11)


    皐月にとっては、思い過ごしだろうがなんだろうが、初対面の見知らぬ中年男性に言われる筋合いのものではないと思えた。
    それでも、丁寧な口ぶりであることに邪見にもできず、皐月は丁重に話しを終わりにしようと考えた。
    「別に悩み事なんかありませんから」
    『そ、そうでしたか。それなら良かったです。だいいち、初対面の見知らぬ中年男に言われる筋合いのものじゃないですよね、ごめんなさい』
    畑中の言葉は、皐月の心の中の一語一句をまるでルーペで覗き込んで読み上げているようだった。
    「べ、別にそういう訳でもないですけど!」
    皐月の強い口調に、畑中は大きく体を前方に曲げて、頭を下げた。
    『も、申し訳ない…余計なお節介でしたね』
    と、畑中が体を大きく動かしたことで、コロンの香りが再び皐月のもとへと届いた。
    「あっ、こ、この匂いは・・・」
    『えっ?匂い?・・・コロンのことですか?』
    「…はい」
    皐月は、脳裏にぼんやりと映像が浮かび上がってきたことに、それがいつの記憶なのかと一生懸命に過去の記憶を辿ったが、映像はピンボケで全く判別がつかずに記憶にたどり着くことは出来なかった。
    『タクティクスのオーデコロンです。真四角で真っ白なボトルの…』
    「タクティクス?・・・真っ白なボトルの?」
    『はい。高校時代からずっと使っているんです』
    「えっ?高校時代から?」
    『メンズのコロンだから、女性にはあまり使っている人はいないと思いますけど・・・ちょっと訳あってね、この歳になっても使っているんです。匂いが迷惑でしたか?』
    「いえ、そういうことじゃないですけど・・・なんか、とても懐かしい気がしたものですから」
    『懐かしい?・・・きっと重里さんも高校時代に嗅いだんじゃないですか?』
    「高校時代?」
    『僕が高校生の頃は、結構な人が使っていましたよ。あの頃は、マンダムとか、MG5とか、アウスレーゼとか・・・でも一番人気はタクティクスでした。女の子もタクティクスが好きな子が多かったと思いますよ。きっと、重里さんの高校時代の彼氏が使っていたんじゃないですか?』
    「えっ?・・・高校時代の彼氏?」

  • #721

    六輔 (金曜日, 19 3月 2021 20:28)


    「高校時代の彼氏?」
    皐月には、その言葉で思い浮かぶ人物は一人もいなかった。
    それが、高校時代には彼氏がいなかったがために思い浮かばないのか、それとも彼氏はいたが、記憶障害で消えて無くなってしまったためなのか。
    そのことすら分からない自分がとてもみじめに思えた。
    表情を曇らせてしまった皐月をみて、畑中は慌ててその場を繕おうと、自分の過去の話しを始めた。
    『なんか、また余計なことを言ってしまったですかねぇ。こういうところが自分の悪いところだって分かってはいるんですけどね・・・ごめんなさい、重里さん』
    「あっ・・・いいえ」
    『僕が高校時代からずっとタクティクスを使っているのには、訳があるんです。中年男の戯言だと思って聞いてもらえますか?』
    「えっ?・・・あっ、はい」
    皐月は、タクティクスの記憶が取り戻せるかもしれないと、それを期待して畑中の話しに耳を傾けた。
    『高校時代に真剣にお付き合いをしていた彼女がいたんです。結婚の約束もしていた彼女が。でも、その彼女が突然僕の前から消えてしまったんです』
    「えっ?消えてしまったってどういうことですか?」
    『家族全員、突然行方不明になってしまったんです。もちろん、雲隠れしなければならないような事情を抱えた家ではありませんでした。親類の捜索願で警察も探してはくれましたけど・・・結局、40年経った今も、その行方は分かっていないんです』
    「えっ?40年経った今も?そ、そんなぁ・・・ご家族に何かあったということなんですか?」
    『分かりません。ただ、世間の風当たりはとても強くて…』
    「えっ?どうしてですか? 普通、心配してくれるはずですよね?」
    『宗教団体に一家全員で入信したんじゃないかって。もちろん、彼女の家はそんな家庭じゃなかったです。警察も調べてくれましたけど・・・結局は、手掛かりすらつかめないまま…』
    「そんなぁ・・・えっ?…もしかして畑中さんは、行方が分からなくなってしまった彼女のことを、今でも待っているんですか?」
    『・・・はい。街の中でもし彼女とすれ違うことでもあるとしたら、タクティクスの香りで、気づいてくれるかもしれないと・・・彼女の好きだった香りなんです』
    「そのためにタクティクスをずっと?・・・そうだったんですかぁ」

  • #722

    六輔 (土曜日, 20 3月 2021 21:47)


    岩城滉一似の畑中は、少しうつむき加減に話しを続けた。
    『仕事もしていないのに、何故スーツ姿でいるんだって思いますよね?』
    「えっ?あっ、…いやっ…」
    『身なりをきちんとしておくのは、彼女と巡り合えたときに、よぼよぼの姿を見せたくないからなんです』
    「えっ?ホンとですか?」
    『…はい。笑えますよね。40年も経っていながら、今日こそ逢えるんじゃないか!って、毎日を過ごしているんですからね』
    「そ、そんなことないですよ。ずっと一人の人を想い続けていらっしゃるなんてすごいですよ。どこかで元気に暮らしていると信じていらっしゃるんですね」
    『・・・はい』
    「何か手掛かりはないんですか?」
    『・・・ないです。だから、週末はいろんなところに行って、街の中を歩いたりしているんです。もう、日本のほとんどの市を歩いてきました。人に言わせればバカげた話しだとなるんでしょうが、何もせずにはいられなくて・・・結局、40年間、過ごしてきちゃいました』
    「バカげた話しだなんて、私は思わないですよ」
    『そうですか、ありがとうございます。ただ、時々思うんです』
    「なんて?」
    『・・・忘れられたら楽なのにな…って』
    「はっ?」
    それまで畑中の話しを美談として聞いてきた皐月だったが、「忘れられたら楽だ」という言葉が異常に腹立たしく思えてしまったのだった。
    「忘れられたら楽? どうしてそんなことを言うんですか?」
    『えっ?…』
    「世の中には、忘れたくないことまで、忘れてしまう病気の人だっているんですよ!」
    皐月がいきなり豹変したことに畑中は言葉を失った。

  • #723

    六輔 (日曜日, 21 3月 2021 19:37)


    畑中は、勘のいい男だった。
    初対面ながらも、自分の話しに真剣に耳を傾けてくれていた皐月が、突然に豹変したのには、それなりの理由があるに違いないと。
    畑中は心の中で思った。
    『きっと、忘れてしまう病気の人が身近に居るか、あるいは本人が・・・』
    その考えと、職安と、今日のベンチに座っていたあの表情とが結びつくと、畑中は皐月のことが放っておけない気持ちになっていた。
    『確かに、重里さんの言うとおりですよね。軽はずみな言葉でした』
    畑中の話しに応えない皐月を見た畑中は、話題を変えて皐月との会話を継続しようと試みた。
    『そ、そう言えば、さっきタクティクスの香りが懐かしい感じがしたって言ってましたよね?』
    「…えっ?・・・あっ、はい」
    『きっと重里さんも高校時代に嗅いだんだと思いますよ。高校生男子は結構使っていましたからね。ただ、僕の場合は高校を卒業してからも相変わらず使い続けていて、大人になってから同級生に会うと必ず言われましたよ。「おい、大人になってからも使っているのかよ? そんな奴いないぜ!」ってね(笑)』
    「そうなんですか」
    『大人になってからも使っている理由はいちいち話さなかったですけどね(笑)』
    「高校時代・・・なんですね」
    寂しそうに過去の記憶を呼び起こそうとしている皐月をみて、畑中は確信した。
    『きっと、本人が記憶障害になってしまったに違いない』と。
    実は、畑中が言った通り、皐月がタクティクスの香りに触れたのは、高校時代のことだった。
    そう、矢神達洋が使っていたものだったのである。

  • #724

    六輔 (月曜日, 22 3月 2021 19:06)


    皐月が、タクティクスの香りに「懐かしい」という感覚を覚えたのは、交通事故にあい、記憶障害の病に侵されてから初めてのことだった。
    「懐かしい」という感覚は、過去にあったことの記憶の片鱗であり、過去の記憶を取り戻すきっかけになるのではないかと期待をして畑中の話しに付き合っていた皐月だった。
    だが、記憶が全く蘇ってこないことに皐月は落胆した。
    これ以上、弱い自分を初対面の男に見せたくないと思った皐月は、畑中との会話を辞めて帰宅しようと思った。
    だが、皐月を案じる畑中は、皐月を引き止め、さらに皐月の心の中に入り込んで来ようとしたのである。
    『重里さん…』
    「…はい」
    『間違っていたらごめんなさい。さっき、僕が「忘れられたら楽なのにな」って言ったことに、すごく感情的になっていましたけど・・・もしかして皐月さんご自身が「忘れたくないことまで忘れてしまう病気の人」なんじゃないですか?』
    「えっ?」
    『実は、今日、お声をかけさていただいたのは、ベンチに座る重里さんのご様子があまりにも…』
    「あまりにもなんなんですか!」
    『えっ?あっ・・・』
    普通の皐月であれば、畑中の言葉に怒りを覚えるようなことはしない。
    だが、記憶障害という病になってからというもの、人の目が異様に気になり、干渉されることが煩わしく思え、この時の皐月は、畑中の言葉に異常な拒絶反応を起こしてしまい、口調を荒げてこう言ったのだった。
    「もし、畑中さんの言う通り、私が記憶障害だとしても、それがどうしたっていうんですか? 私があなたに迷惑なことでもしたんですか!!!?」

  • #725

    六輔 (水曜日, 24 3月 2021 22:27)


    皐月がこれほどまでに人に強い口調で物言ったのは、生まれて初めてのことだった。
    常に自分のことよりも相手のことを想い、穏やかに人と接する皐月の姿は微塵も残っていなかった。
    記憶障害という病が、皐月の性格をも変えてしまっていたのである。
    『べ、別にそういうことで言った訳じゃないんですよ、重里さん。気に障ったのなら謝ります』
    そう詫びる畑中に皐月はさらに詰め寄った。
    「畑中さんは、なんなんですか?ずっと失礼なことばかり言ってますよね!いい加減にしてもらえませんか!!」
    『すみません、重里さんが何かに辛い思いをされているのなら、一期一会、せっかく出会った自分にも、何かしてあげられることがないかと…』
    「はっ? 初対面のあなたが?・・・お節介はやめてください!」
    『申し訳なかったです。鋳掛屋の天秤棒でしたね』
    「鋳掛屋の天秤棒? さすが、ちゃんと自分のことを分かっている人は、大層な“ことわざ”を知っているんですね!そう、おっしゃる通り! 畑中さんみたいな人を鋳掛屋の天秤棒って言うんですよ!」
    吐き捨てるように強い口調で言い放った皐月は、立ち上がり、小走りにその場から去った。

  • #726

    六輔 (土曜日, 27 3月 2021 19:33)


    『重里さん! ちょ、ちょっと待ってください!』
    皐月は、背中から聞こえて来た畑中の声に足を止めることなく、速足で公園の出口に向かっていた。
    途中、日当たりの良い場所に設置されたベンチでウォーキングに疲れて休んでいた老婆、ミー婆さんから「こんにちは」と声をかけられたが、それに応えることも無く、皐月は表情を強張らせたまま公園を出た。
    「どうして、見ず知らずの人にあんなことを言われなきゃならないわけ?ふざけないでよ!!」
    住宅街に入ってからも、皐月の怒りが収まることは無かった。
    交差点に差し掛かり、左右確認のために足を止めた皐月は、それまでの怒りをどうにか静めようと「ふぅ~~」と深く息を吐きだした。
    そのことで少し落ち着いた皐月は、ひと気のない歩道を普段の歩幅と速さで歩き出した。
    見慣れた景色に、何の迷いもためらいもないまま歩いていた皐月だったが、次の信号のない交差点までくると、今までに一度も感じたことのない不安にかられた。
    「えっ? ここは?・・・」
    歩き慣れた場所であるにもかかわらず、この交差点をどっちに進めばよいのか、一瞬分からなくなってしまったのだった。
    「えっと・・・あれ?・・・えっと・・・えっ?」

  • #727

    六輔 (日曜日, 28 3月 2021 21:35)


    皐月の記憶障害は、現代の医学をもってしても解明できない「脳の不思議な働き」によって引き起こされたものだった。
    しかも、主治医の田川ドクターも治療法に悩んだように、記憶の消滅の仕方が特殊だった。
    自分が誰であるのか、母親が誰であるのか、自分がどこでどんな暮らしをしていたのか、会社の同僚が誰であるのか・・・
    そういったことをきちんと記憶できている一方で、父親のこと、過去に自分を慕っていてくれた人のこと、一番大切にしてきたクライアントのこと、そして花をコーディネートする能力までもが記憶から消えて無くなってしまっていたのである。
    そして、その日・・・
    皐月は、歩き慣れた場所でありながらも、「ここはどこ?」となってしまった。
    皐月の脳に記憶されていた「場所に対する記憶」が消え始まってしまったのである。
    そうなってしまった理由は、タクティクスの香りに「懐かしい」という過去の記憶の片鱗に触れてしまったためだった。
    それはまるで脳がこう言っているようだった。
    「何か一つ思い出すのなら、その変わりに何か一つ記憶を消すよ」と。

  • #728

    六輔 (月曜日, 29 3月 2021 18:43)


    立ち止まった交差点で皐月は、これまで一度も味わったことのない頭の痛みを感じていた。
    「痛い・・・」
    しばらくの間、両手で顔を覆っていた皐月は、ゆっくりと指先でこめかみをほぐすと、徐々に痛みは和らいでいった。
    ようやく落ち着き、痛みから解放された皐月が目を開けると、道端に黄褐色の花を見つけた。
    「あっ、福寿草…」
    福寿草は、ウエディングのコーディネートには縁のない花だったが、色の無い早春の大地に、力強く咲き始めて春の到来を告げてくれる花として、皐月の好きな花の一つだった。
    柔らかな黄褐色の花を咲かせた福寿草に、春の訪れを知らせようと吹いてきたそよ風があたり、花の微かな香りが感じられた。
    と、その香りを感じたがために、脳の匂いを感じる中枢が刺激され、再び脳裏にタクティクスの香りが蘇ってくると、一度収まった頭痛がまた皐月をいたぶり始めた。
    「い、痛い!」
    再び起きた頭痛に顔をしかめた皐月は、いらだちを抑えきれぬまま信じられない行動をとったのである。
    皐月は福寿草の前に立ち、能面のような無表情のまま福寿草を右足で強く踏みつけた。
    「この花のせいだ!」と。

  • #729

    六輔 (火曜日, 30 3月 2021 22:58)


    その姿は、それまで生きてきた皐月とはまるで別人だった。
    高校卒業後に東京に出て、2年間専門学校に通い、そして20歳からフラワーコーディネーターとして働いてきた皐月にとって、花は苦楽を共にしてきた相棒のような存在だった。
    生涯の相棒として愛してきた花を靴底で強く踏みしめた行為は、皐月自身の存在そのものを否定しているような行為だった。
    それからどれくらいの時間が経っていたであろうか。
    ふと我に返った皐月が、自分の足元に土にめり込んだ福寿草を見つけると、慌ててその足をどけた。
    「あっ!」
    皐月は、何故、福寿草を踏みつけていたのかとその記憶を辿ったが、その理由をみつけることは出来なかった。
    もう頭痛の収まっていた皐月は、穏やかな表情に戻って、しゃがみ込んで福寿草を救うように両手で包み込んで起こしあげた。
    「ごめんなさい・・・わたし・・・」
    それ以上の言葉は出てこなかったが、何故、そこに立ち止まっていたのかを思い出すことが出来た。
    「そっか・・・ここは・・・」
    ようやく思考回路が蘇った皐月は、そこからどっちに向かえばアパートに戻れるのかを理解した。
    「こっちだよね」と。

  • #730

    六輔 (水曜日, 31 3月 2021 19:08)


    「どうして花を踏みつけてしまったんだろう…」
    自分でやったことでありながら、皐月はその自問に自答することが出来なかった。
    自分の意識の無いところで、体が勝手に動いてしまったことだったからだ。
    そしてそうさせてしまったのは、記憶障害の病が進行していたためだった。
    自分がしてしまったことを悔い、そしてそうしてしまった理由が見つからないことに涙が溢れた。
    再び歩き始めた皐月は、時折すれ違う人に涙していることを気づかれないよう、うつむき加減にアパートを目指した。
    ようやくアパートが見えてきたことにほっとした皐月は、ふと考えた。
    「あれ? 私はどうして公園に行ったんだろう…」
    その答えは直ぐに見つかった。
    「そっか・・・」
    アパートに戻ってきた皐月は、誰もいない部屋に入り、薄暗くなっていた部屋に灯りをつけることもなく床に座り込んだ。
    と、徳三郎がケージの中でピョンピョンと跳ねて皐月に近づいてきた。
    普段の皐月であれば、主人の帰りを喜んで近寄ってきた徳三郎に「ただいま、帰ったよ」と、話しかけていたであろう。
    だが、この時の皐月は、喜怒哀楽の一切の感情の無いまま無言で座り込み、徳三郎に話しかけることもなかった。
    当然、ご主人様に話しかけてもらえるものと思っていた徳三郎は、いつまで待っても皐月が無表情、無言のままであったことに、期待を裏切られたことを悲しむようにゆっくりと向きを変え皐月に背を向けた。
    と、徳三郎のその動きに気づいた皐月は、トーンの低い声でこう言った。
    「えっ?…どうしてそっちを向くの?・・・徳三郎」

  • #731

    六輔 (木曜日, 01 4月 2021 20:21)


    皐月は、どれほど仕事に疲れて帰ってこようが、徳三郎の真ん丸目玉と視線を合わせるだけで、一日の疲れが全て吹っ飛ぶほどに、徳三郎から癒しを与えてもらってきた。
    だが、仕事を辞め、家から出ないようになると、目を合わせることもなくなっていき、それと同時に徳三郎の食事量が減り始め、ついには食事をとらなくなってしまったその日、徳三郎を連れてかかりつけの獣医のところに行った。
    診察の結果、病気ではないことに安堵した皐月だったが、自分は外で食事をしてくると徳三郎に嘘をつき、出かけて行った先の公園で嫌な思いをして帰ってきたこの時には、徳三郎に対する愛情は、消え失せてしまっていたのだった。
    皐月は薄暗い部屋で電気も付けず、主人に背を向けた徳三郎をずっと見ていたが、「ふぅ~」と細く長い息を吐いてこうつぶやいた。
    「そっか…入院するからって言えばいいんだ」
    皐月は、もう一度念を押すように「うん」とうなずき、徳三郎に向かって話しかけた。
    「ねぇ、徳三郎・・・何が気に入らなくて私に背を向けているのか知らないけど・・・そのまま聞いて。今日ね、わたし公園に行ってひどい目にあったのよ。どうしてだか分かる?っていうか、どうして私が公園に行かなきゃならなかったのか・・・まぁ、その理由はあなたに言ってもしょうがないけど。そもそも、徳三郎がいなければ、私は今日みたいな辛い思いをしなくて済んだの。・・・分かる?」
    皐月の口調の強さに徳三郎が皐月の方に振り向くことはなかった。

  • #732

    六輔 (土曜日, 03 4月 2021 07:34)


    皐月は、徳三郎にもう一度語り掛けた。
    「ねぇ、ずっとそうやって私を無視する気なの?」
    ひと呼吸待ってもなお無反応の徳三郎に、皐月は能面のように無表情のままこう言った。
    「徳三郎・・・わたし、もうあなたと一緒に暮らせないから」
    そう言い放って、皐月は立ち上がり、
    「入院するからって言えばいいんだからね」と、もう一度そう言って徳三郎の前から離れた。
    皐月がつぶやいた「入院するからって言えばいいんだ」とは、徳三郎を動物愛護センターに預けるための言い訳のことだった。
    飼い主が不在になってしまうのであれば、動物愛護センターも引き取ってくれるだろうと。
    ただ、動物愛護センターが徳三郎を引き取ったあとにどうするのかまでは考えは及ばなかった。
    これまで仲間として一緒に暮らしてきた徳三郎を動物愛護施設に預けることに、皐月は全くの罪悪感を持たなかった。
    そう、それも全ては病が進行していたせいだった。

    皐月は、スマホで動物愛護施設の電話番号を調べ、そのまま電話をかけた。
    「もしもし・・・」
    翌日、皐月は徳三郎を連れて動物愛護施設へと向かった。
    徳三郎と離れることで、さらに皐月の生活がすさんでいくことを知らぬままに。

  • #733

    六輔 (日曜日, 04 4月 2021 16:55)


    藤原の運転する古いワーゲンビートルは、助手席に礼子を乗せ中央自動車道を倭里町に向かって走っていた。
    西に向かうにつれ、並走する車も減ってきて、何キロにも及ぶ区間を独り占めしながら走ってきたが、ようやく倭里インターチェンジまで2キロという看板が見えて来た。
    「着きますよ、礼子さん」
    『はい、マスター』
    ユーミンの「中央フリーウェイ」を聴いていた頃の車内の雰囲気とは一変し、二人とも緊張感に襲われ、デート気分はとうに消え失せていた。
    ワーゲンビートルはETCゲートを抜けて、一般道へと入った。
    記者のときに何度も通った場所であったがために、その当時の記憶が鮮明に蘇ってきた。
    「12年前と変わってないです」
    『そっか、もう12年も前のことなのね』
    「はい、何度も取材のために足を運びました」
    『取材には車でいらしていたんですか?』
    「はい、電車で来るにはとても不便なところなんです。倭里町に行くには、この県道を行くしか方法は無いんです。しかも、街の中心地に入るには、さらに一本道を・・・」
    『そうなんですか』
    インターチェンジを降り、県道を北進していたワーゲンビートルが「倭里町」という道路標識に従って左折をし、しばらく街中に向かって走っていくと、藤原の表情が強張り始め、ハンドルを握る手が震えだした。
    その様子に礼子が声をかけた。
    『ど、どうかしたんですか?…マスター』
    藤原は目を見開いて言った。
    「こ、これは・・・死んでいますよ!」

  • #734

    六輔 (月曜日, 05 4月 2021 22:38)


    倭里町の中心街は、変わり果てていた。
    家主の居なくなった廃屋が建ち並び、ほとんどの建物は全ての窓ガラスを失い、壁は各所で崩れ落ち、鉄扉は赤く錆び、石壁には目を覆いたくなるような落書きがされてある。
    そんな廃屋が建ち並ぶ光景を目の当たりにして、藤原はこう表現したのだった。
    「こ、これは・・・死んでいますよ…」
    『死んでる?』
    「はい・・・街が死んでいます」
    『確かに、これは酷いですね。誰も住んでいない感じがします。12年前はこんなふうじゃなかったんですね?』
    「もちろんです。街に廃屋など一つも無かったです」
    『街の人たちはどうしちゃったんですか?』
    礼子の問いに、憶測でしか話せない藤原は口を閉ざした。

  • #735

    六輔 (水曜日, 07 4月 2021 20:09)


    未曽有の人口減少時代に突入した日本。
    50年後には、4,600万人もの人口が減る未来が待っていると言われている。
    子供はもちろんのこと、働き盛りの若い人が周りにいなくなってしまう、それが日本の未来だ。

    藤原は北海道夕張市のことを思い出していた。
    2007年、夕張市は財政破綻で財政再建団体に指定されたことをきっかけに、事実上国の管理下に置かれた。
    国の同意を得なければ新たな予算を計上することも、独自の事業を実施することも出来ない。
    ボールペン1本買うのにも国の同意が必要な自治体になった訳だ。
    夕張市の税収が8億円しかないところに、毎年26億円を返済するという計画は、その当時「ミッションインポッシブル」と揶揄された。
    そんな市になった夕張市には、当然のように街の中から若い人の姿が消えた。
    その当時、夕張市に取材に訪れた藤原は寂れた街の様子に愕然となった。
    そしてその日、12年ぶりに倭里町を訪れ、変わり果てた街の様子が夕張市と重なる部分はあったが、しかし、絶対的な違いがあった。
    それは、夕張市には若い人の姿を見ることが出来なかったが、高齢者はそこでの暮らしを続けていた。
    だが、倭里町は、そこで暮らす人を一人も探し出すことが出来なかったのである。

  • #736

    六輔 (木曜日, 08 4月 2021 20:48)


    藤原は、12年前に倭里町に取材にきて、街の住人から聞いたことを思い出していた。
    いやっ、正確に言うのであれば「聞いたこと」ではなく、「聞けなかった」ことを。
    倭里町に暮らす人々は、藤原の取材に対して決まってこう答えていた。
    「教団に関する質問には答えられないよ!」と。
    そして倭里町の人たちは必ずこう付け足したのだ。
    「下手気なことを話すと、命を奪われかねないからね。このまま事件が解決しなければ、俺たちはこの街から出ていくようだよ」と。
    12年前に聞かされたことが、現実になっていたことに藤原は愕然とした。
    車内の二人が言葉を失ったまま、ワーゲンビートルは、ひと気のない市街をゆっくりと進んでいった。
    八百屋も薬局も弁当屋も、全てがシャッターを下ろしたまま、その看板は朽ちて傾いたものがほとんどだった。
    礼子が素朴な疑問を投げかけて来た
    『ねぇ、マスター・・・』
    「はい…」
    『街がこんなふうになっていることを、マスターも知らなかったんですよね?』
    「・・・はい」
    『これだけ様子が変わっているならば、普通、ニュースとかで聞いていても不思議ではないですよね?』
    「・・・そうですね」
    『ニュースで流れていないってことですか?』
    「・・・そういうことになりますね」
    『どうしてこれだけのことが起きていながら、ニュースにならないんですか?』
    礼子の疑問に藤原は、心の中でこう言った。
    「おそらく・・・報道協定に違いない」と。

  • #737

    六輔 (金曜日, 09 4月 2021 21:26)


    報道協定とは、警察が新聞・テレビなどのマスメディアに対して報道を一切控えるように求めることによって、マスメディア各社と警察との間で結ばれる協定のことだ。
    報道協定という仕組みができたのは、幼い子供が誘拐された事件で、マスメディアが細かい経緯に至るまでの報道合戦を続けたことで、犯人がその報道によって精神的に追い詰められ、子供を絞め殺してしまったという痛ましい事件が起きてしまったことがきっかけだった。
    その事件をきっかけとして、身代金目的の誘拐やハイジャックなどの立てこもり事件など、人質事件が発生した場合において報道協定が結ばれるようになった。
    藤原も敏腕記者として事件を追っていたときには、報道協定に何度も出くわしていた。
    「人の命が第一優先だ!」
    それは人として当たり前のことだった。
    だが、当然、この日の藤原にはしっくりこなかった。
    「どうしてだ?・・・街が死滅してしまったという事実について、その報道を規制しなければならない理由が、一体、どこにあると言うんだ? 人命に係らないことで警察が報道協定を申し入れるはずがない。だとすれば・・・」
    その理由を推理した藤原は、あまりの恐ろしさに体が震えだしていた。
    『どうしたんですか?マスター・・・顔色がすごく悪いですよ』
    「あっ…、いや、どうして倭里町の現状が報道されることがなかったのかと、その理由を考えていたんですけど…」
    『どんな理由なんですか?』

  • #738

    六輔 (土曜日, 10 4月 2021 19:12)


    藤原は、報道に関して素人の礼子にも分かるように言葉を選んで話した。
    「僕が、報道の第一線で働いていたことはお話ししましたよね?」
    『あっ、はい。敏腕記者でいらしたんですよね?』
    「そ、そんな敏腕ではないですけど。世間を賑わせた大きな事件には必ずと言っていいほど関わってきました。もちろん、倭里毒物殺人事件も」
    『…はい』
    「新聞社は、凶悪犯罪や暴力団が関与する事件なんかを追っていますと、脅迫めいた電話がかかってくることはしょっちゅうなんです」
    『えっ?そうなんですか?』
    「…はい。でもそんな脅迫に屈していたんでは正しい記事はかけませんから、当然、逃げることなく、ペンという武器で立ち向かっていくんです。それが報道に携わる者の使命ですからね」
    『素敵です。礼子、惚れてしまいそうです』
    「・・・はっ?」
    『あっ、つい口癖が。ごめんなさい、続けてください』
    「あっ、はい。それで、倭里毒物殺人事件のときなんですけど・・・実は、ある日を境に事件を追うことを辞めなければならなくなってしまったんです」
    『えっ?取材を途中で辞めたってことなんですか?それって、上からの命令で?』
    「そうです。当時、若かった僕は編集長にくってかかりました。編集長は、あらゆる圧力に屈することなく、真実を伝えることを信念に頑張っていた人でした。それでも・・・結局、指示に従わない僕は、社長に呼び出されましてね・・・こう言われたんです。『お前は会社をつぶす気か?命が大切なら、もうこれ以上取材を続けるな!』と」
    『そんなぁ…』
    「何か、大きな力が働いたのは間違いないんです。もちろん、従いたくは無かったですけど…いろんなところで新聞社の社員が危険な目にあうようになって…」
    『そんなことがあっていいものなんでしょうか。怖い話ですね』
    「・・・そうですね」

  • #739

    六輔 (日曜日, 11 4月 2021 19:56)


    二人は、車を道路の端に停め、変わり果てた街並みを見ながら話しを続けた。
    「あくまでも僕の推測なんですけど。どうして、これだけのことが起きていながら、世間に知れ渡っていないのか…」
    『良く分かりませんけど、今までの話しからすると、教団に関わりたくない人たちが、町を捨てて出ていってしまったっていう話しですよね?だとするならば、大変なことが起きている訳ですから、世間で騒ぎになって当然ですよね?』
    「そうですよね。でも、事実、世間の誰もが知らされていない。国民は、こういったことを知る権利があります。それを伝えていくのが報道の使命です。でも・・・悲しいことですが、報道が使命を果たしていない・・・いやっ、実際のところは使命を果たすことが出来ずにいると言った方が良さそうですね」
    『どういうことですか?』
    「おそらくですけど…倭里毒物殺人事件の報道がある日を境にほとんどのメディアで報道しなくなったときと同じように、何か、大きな力が働いているんだと思います」
    『大きな力?例えば、どんな?』
    「う~ん、あくまで憶測ですけど・・・報道は、悪の組織の言いなりになんか絶対になりません。報道が…っていうか、報道各社のトップが言うことを聞かなければならないのは・・・例えば、政治の力とか…」
    『それって・・・政治家と教団が繋がっていて・・・って、そういうことですか?』
    「さすがに勘がいいですね。そうです。あくまでも憶測ですけどね」
    『だから、社長さん自らマスターに言ってきたんですかね?「会社をつぶす気か?命が大切なら、もうこれ以上取材を続けるな!」って』
    「・・・はい。あくまでも推測ですけど」
    『日本は平和な国だと思ってきましたけど・・・私のような一般人には知らないことが沢山あるんですね』
    藤原はゆっくりとうなずいた。

  • #740

    六輔 (月曜日, 12 4月 2021)


    と、礼子があることに気づいて声を発した。
    『マスター!』
    「あっ、はい。どうしました?礼子さん」
    『最近は、インターネットの世界が飛躍的に伸びているじゃないですか。ネットになら書き込みがあるかもしれないですよね! ちょっと調べてみてもいいですか?』
    「あっ、はい」
    助手席で真新しいスマホを鞄から取り出した礼子は、「倭里町」さらには「倭里毒物殺人事件」と入力して検索エンジンを回した。
    『えっと・・・えっ?・・・あれ?・・・』
    「どうしました?礼子さん」
    『全く街の様子を知らせるような記事もありませんし、写真も一枚もありません。倭里毒物殺人事件についても、ウィキペディアでその説明がある他、全く記事がないんです。これっておかしくないですか?』
    礼子の話しに何かを察したかのように藤原は、軽くうなずいて話し出した。
    「おかしくないですよ…礼子さん」
    『えっ?おかしくない?・・・だって、あれだけの事件ですよ!普通、事件に関して書き込みがあるのが普通ですよね? 一つもないなんて・・・』
    「それは、書き込みが無いんじゃなく、その全部が削除されたんだと思いますよ・・・意図的にね」
    『えっ?削除された?』
    「はい。これはあくまでも噂ですけど・・・インターネットの世界は、誰でも自由に書き込みが出来ると思っているでしょうけど、実は、あることに関しては、書き込みされた後、ほぼ同時に削除されてしまうんだそうです」
    『えっ?そんなことあるんですか?ある訳ないですよね?』
    「それが、あるんですよ、礼子さん」
    『信じられません!って、いうか、“あること”って何ですか?』
    「言論の自由という言葉があるのは知っていますよね?」
    『あっ、はい』
    「ようは、表現の自由です。表現の自由に「言論の自由」と「出版の自由」っていうのがあって、言論は音声によるもの、出版は主に文字による表現…そう、新聞がまさしくこれですよね。それに最近では、インターネットの世界で誰でも自由に自分の意思を表現することが出来ますよね」
    『そうですね』
    「ところで “あること”ですけど・・・それは国益に関することです」
    『国益?』

  • #741

    六輔 (火曜日, 13 4月 2021 20:59)


    藤原は、喫茶店の店主の時とは全く違う、鋭い眼光で話しを続けた。
    「そう、国益です。ようは、地球上の全世界において、日本という国が不利益を被るような記事が書きこまれた瞬間に、それは削除されるんです」
    『え?そんなこと聞いたことがありません!それって、誰かが監視しているっていうことですか?』
    「はい・・・おそらく」
    『え?おそらく?でも相当な人数が必要になるんじゃないですか?』
    「そうですね。私が記者をやっていたときに聞かされたことですが・・・2万人とも5万人とも言われています」
    『え~ そんな大勢の人たちがいったい何処で?』
    「場所は必要ないでしょう。パソコンさえあれば・・・」
    『そんな話し、聞いたことがありません。っていうか、倭里町の現実が国民に知らされないようにされていることで、誰が得をしているって言うんですか?』
    「あくまでも推測ですけど・・・宗教団体が何かしら関わっているんだと思います」
    『マスターの言う通り、宗教団体が何かしら関わっているとして、どうして国が宗教団体を守るようなことをするんですか?一体、どんな得があるっていうんですか?』
    「宗教法人が非課税になっていることはご存じですか?」
    『非課税?宗教団体って、税金を納めなくていいってこと?・・・えっ、だって、国民には納税の義務というものがあるじゃないですか! それって不公平じゃないですか?』
    「まぁ、非課税にしているちゃんとした理由はあるようですけどね。宗教法人は、そもそも持分主…あっ、株主のことですけど…株主がいなく、利益配当を目的としていないから非課税扱いになるんだそうです・・・まぁ、その他の理由はちょっと説明が難しくなりそうなのでやめておきますね。あっ、もちろん、宗教法人の全てが悪いと言っている訳ではないですからね」
    『そうでしょうけど・・・でも…宗教団体が非課税になってどうして政治家が得を?・・・あっ!・・・えっ?・・・そういうことですか?』
    「・・・そうですね。そういうことです。非課税にしてあげるから、その分のお金を…と」
    『えっ、えっ、ちょっと待ってください、マスター!ようは、街が消滅したこと報道機関に指示をして、ネットの世界も含めて教団を守るために全てを隠蔽しているっていうことですか?・・・国が』
    藤原は、黙ってうなずいた。

  • #742

    六輔 (水曜日, 14 4月 2021 20:43)


    あまりにもの衝撃に、礼子は言葉を失った。
    『そんなことがあっていいんですか?・・・マスター』
    「いいも悪いも、すべては国益・・・いやっ、国のためと言えば聞こえはいいですが、国イコール国を動かしている人の利益のためなんですよ」
    『はぁ? そんなバカげた話し、私には理解できません!』
    「そうですよね、理解できないですよね。そう、国民には理解できないことだから、だから説明しないってことなんですよ」
    藤原の話しにあきれ果て、これ以上、話しに付き合っていられないと言わんばかりに礼子はそっぽを向いた。
    藤原は、礼子をなだめる様に話した。
    「礼子さん・・・真面目にコツコツと働いている国民には、到底理解の出来ない話しですよね。でも、これが真実なんです。国民は知らされていないだけなんです。法律は、全て国益につながるように作られています。それがどういうことか分かりますか? 法律を作っているのは人間です。そう、全ては法律を作っている人に都合のいいように作られているんですよ」
    礼子は、現実を受け止めたかのようにうなずき、一筋の涙を流しながら言った。
    『この街で暮らしていた人たちは、いったい何処に行ったんでしょうね』
    「・・・分かりません」
    『皆さん、何処かで元気に暮らしているんですよね?』
    何も答えようとしない藤原に、礼子は話題を変えた。
    『そ、そうだ!ねぇ、マスター…』
    「はい」
    『私たちが、今日ここに来たのは、矢神達洋さんを探すためなんですよね?』
    「あぁ、そうでしたよね」
    『これからどうしましょうか?』

  • #743

    六輔 (金曜日, 16 4月 2021 18:37)


    しばらく考え込んだ藤原だったが、礼子を諭すように言った。
    「礼子さんは、もうこれ以上関わらない方がいい」
    『えっ?それってどうしてですか?私に危険が及ぶとでも言うんですか?』
    「・・・・・」
    『これだけ治安のいい日本で、人探しをするだけで、身に危険が及ぶことなんかあり得ないですよね?』
    「礼子さん・・・そう思っているのは、国民だけなんです」
    『そんなぁ…』
    「警察と報道機関がグルになって隠蔽を図れば、国民は、本来知るべきことを知らされぬまま・・・礼子さんは日本人が行方不明になる人数が一年間にどれくらいいるかご存じですか?」
    『えっ? う~ん…5千人ぐらいですか?』
    「年間約8万人もいるんです」
    『8万人? そんなにいるんですか?』
    「はい。そのうち7万人近くはその所在が確認されるんですけど、約5%の4千人は自殺などで亡くなって発見されます。ということは残りの6千人は、生存しているのか、亡くなっているのか、その行方も分からないままになるということです」
    『そんなにいらっしゃるんですか』
    「はい、でも・・・これはあくまでも発表されている人数です」
    『はっ?どういう意味ですか?』
    「警察も、報道も、全ては国が管理していれば、その数字などどうにでもなる訳です。一説には、毎年その何倍もの人が行方不明になっているという話しもあります」
    『私たちは、知らされていないだけなんですね?』
    「そういうことです。事実、倭里町がこんな状態になっていることを知らなかったじゃないですか」
    『確かにそうですね』
    「ここから早く離れましょう、礼子さん!」

  • #744

    六輔 (土曜日, 17 4月 2021 18:22)


    倭里町に着いて、想像を絶する街の変わり果てた様子に、これ以上の係わりを避けるべきだと藤原は言った。
    その言葉に、礼子は皐月のことを思い浮かべていた。
    『私がこのまま帰ったら・・・』
    そう考えた礼子は藤原に懇願した。
    『マスター・・・』
    「はい」
    『皐月さんのために私たちはここまで来たんですよね?何の手掛かりもないまま帰ってしまったら・・・』
    「・・・そうですけど」
    『どんな危険があるのか分かりませんけど、マスターがちゃんと私を守ってくれますよね?矢神達洋さんを探させてください!』
    「…礼子さん」
    皐月のことを思えば礼子の言う通りだった。
    「分かりました」
    『いいんですか?』
    「はい。でも、これからは全て自分の判断で行動させてもらいます。何かしらの危険を感じたら直ぐに・・・それでいいですね、礼子さん」
    助手席で礼子は、ゆっくりとうなずいた。
    それを確認した藤原は、ゆっくりと車を発進させた。
    相変わらず、街の住人を一人も見かけぬまま、ワーゲンビートルは街を西進した。
    その窓ガラス越しに街の様子を見ていた礼子はこう尋ねた。
    『マスターは、矢神達洋さんが今でも毒物をまいた犯人だと思っていますか?』

  • #745

    六輔 (日曜日, 18 4月 2021 21:19)


    礼子の問いに藤原はゆっくりと答えた。
    「倭里毒物殺人事件は、無差別テロ事件として世界中を震撼させ、大変な注目を集めた事件でした。当然のように報道各社の取材合戦が始まり、事件に関する報道は過熱の一途を辿り、各社競うようにありとあらゆる情報が錯綜しました。僕は、そういった情報に左右されることなく、倭里町に本部を置く宗教団体が事件に何かしら関与しているのではないかというある筋からの情報で独自の取材を進めていました。でも、さっきも話したように、倭里町に住む人たちは皆、口を揃えて『教団に関する質問には答えられないよ!』と。取材は一向に進みませんでした。もちろん、教団関係者は取材には一切答えてくれませんでしたし。そんな中、初めて取材に応じてくれたのが矢神達洋さんでした。彼は、間違いなく教団関係者でしたが、どこか他の人とは違った雰囲気を持っていました。教団とは一線を画しているような印象も受けました。今になって思えば、何か事情があって・・・もしかすると、彼は僕にSOSを送っていたのかもしれない…」
    『えっ?SOSを?』
    「真実は分かりませんけどね。彼は言ったんです。僕も真実が知りたいんだ!って」
    『なんか、今の話しを聞く限りでは、矢神達洋さんは犯人ではないような気がしてきました。だって、皐月さんの高校時代のお友達なんですものね』
    「そうですね。それと・・・自分はその当時、報道に携わっていた者の一人として、絶対に忘れてはいけないことがあると思っています」
    『どんなことですか?』
    「過熱した取材合戦によって、あたかも犯人であるかのような報道をされ、それがために自ら命を絶ったお二人のことです。そう、お一人の方は陽菜子ちゃんが一緒に甲子園に行った瀧野瀬紘一の父親です」
    『あぁ、そのことですね。そうですねぇ、あってはならないことだったんでしょうね。でも・・・運命的な出来事ですよね。陽菜子ちゃんが、マスターのところで働くようになったことは』
    「そうですね。なんか、お前がこの事件を解決するんだぞ!って、そう言われたような気がしているんです。無理なことですけどね…もう記者ではないので」
    『それでも、皐月さんのため、陽菜子ちゃんのため、真実に近づくことは出来るかもしれないですよね』
    礼子の言葉に藤原は黙ってうなずいた。

  • #746

    六輔 (月曜日, 19 4月 2021 22:26)


    車を進めるたびに視線に飛び込んでくる街の様子は、さらに酷さを増していった。
    火災に見舞われたのか、真っ黒な柱だけの建物が今にも倒れそうな状態で残っていた。
    『酷いですね…』
    「はい、ほんとに酷いですね」
    『あの火事にあったような建物は、誰かが放火でもしたんですかね?』
    「たぶん落雷によって火災が・・・でも、消防車が来たようには思えない状態ですね」
    『日本にこんなところがあるなんて、信じられないです』
    「僕もです。でも、いま目にしているのは嘘、偽りでもない真実なんですよね」
    『…そうね』
    藤原の運転するワーゲンビートルは、それまでずっと続いていた真っすぐの道を進んできたが、初めて曲がり角が近づいてきた。
    「あっ、確かここを曲がったところに教団の建物があったような・・・」
    過去の記憶を手繰り寄せながら曲がり角を左折すると、想像していた建物ではない信じられない光景が視線に飛び込んできたのだった。
    藤原は、驚きのあまり大声を発してしまった。
    「あっ、あれは!!!」

  • #747

    六輔 (火曜日, 20 4月 2021 19:22)


    二人が目にしたものは、想像を絶する豪華絢爛な建物だった。
    近年では、いくつかの宗教団体が、祈願や研修を行う施設として“精舎”と呼ばれる豪華な建物を全国各地に建設しているケースが見受けられる。
    二人が目にした建物は、その“精舎”のさらに何倍もの大きさで、高さは10階建てのビルディングほどの高さもあり、その出で立ちは、まるでスペインのサグラダ・ファミリアのようだった。
    『え~すごい建物! マスター、あれなに?』
    「おそらく教団の建物でしょう」
    『教団の?』
    「はい。信者のお布施によって集められたお金で建てたのでしょう」
    『お布施って、いくらぐらいなんですか?』
    「皆目見当がつかないです。どれくらいなんでしょうね?どれくらいの信者がいて、どれくらいのお布施を集めれば、こんな異国の地の聖堂のような建物が建てられるんでしょうね?」
    と、二人が建物のスケールの大きさに驚いているその時だった。
    藤原が表情を強張らせて急ブレーキを踏み、その反動で助手席の礼子の上体が大きく揺れるなか、ワーゲンビートルはタイヤを鳴らせて停車した。
    「礼子さん、顔を伏せて!」

  • #748

    六輔 (水曜日, 21 4月 2021 19:06)


    藤原が慌てて急ブレーキを踏んだのは、道路脇に無数の監視カメラを発見したからだった。
    藤原に言われた通り両手で顔を覆っていた礼子は、不安な声を発した。
    『ど、どうかしたんですか?マスター…何かあったの?』
    「道路脇に無数の監視カメラが建っているのを見つけたんです。これ以上前に進むのは辞めましょう! 下手すれば誰か追ってくるかもしれない」
    そう言って藤原は、ハンドルをめーいっぱいきって、道路上で何度も切り返しをし、車を反転させて来た道を戻り始めた。
    礼子は、体を起こし、上体をねじってリアウィンドーから後方を覗き込んだ。
    『だ、誰も追ってこないわよ、マスター』
    「うん、でもまだ安心しない方がいい。あの監視カメラの数は異常です!」

    藤原の運転するワーゲンビートルは、信号機が一機もない県道を猛スピードでインターチェンジに向かって走った。
    『そんなにスピードを出さないでも大丈夫みたいですよ、マスター』
    「あっ、…はい。礼子さん・・・」
    『はい』
    「直ぐに東京に戻ります。礼子さんは、もう僕と関わらない方がいい」
    『えっ?どうしてですか? もう誰も追ってこないですよ』
    「はい、礼子さんのことは大丈夫だと思いますけど、僕は車のナンバーを撮られていると思うので…」
    『そ、そんな心配をしなきゃならないことなんですか?』
    「・・・はい。街に誰も住んでいない現状を見ましたよね? それと、あれだけの建物が建っていながら、世間では一切明るみになっていない・・・世間の常識で考えてはいけない状況だと思います・・・これでも新聞記者として裏の世界をある程度を知っていたつもりでしたけど・・・僕たちは見てはいけないものを見てしまったんです・・・おそらく」
    『そ、そんなぁ・・・』

  • #749

    六輔 (木曜日, 22 4月 2021 21:05)


    ハンドルを握る藤原の表情は、敏腕記者として第一線で働いていた時の表情になっていた。
    礼子が、中央自動車道に入ってからも、時折後ろを振り返って、リアウィンドー越しに追っ手が来ないかと不安そうにしていることに藤原が話しを始めた。
    「礼子さん、おそらく誰も追ってこないと思います」
    『それならいいんですけど…』
    「Nシステムで僕らの居場所は監視されていると思うので」
    『えっ?・・・Nシステムってなんですか?』
    「ほ、ほらちょうど前に見えるあの監視カメラです」
    『えっと、確か・・・“ネズミ捕り”って呼ばれているもののことですか?』
    「ネズミ捕りと呼ばれているものは、正式には「オービス」という名前で、走行速度を計測し、スピード違反の車があれば車両と運転者の写真を自動で撮影する機械のことで、Nシステムは、速度は計測していないんですが、全ての車両を撮影しているんです。警察が手配車両の追跡に使用している有力なツールで、国民は全て警察に監視されている訳ですよ」
    『ちょ、ちょっと待ってください。今のマスターの話しで、Nシステムでこの車の居場所が監視されているってことは・・・それって私たちが警察に監視されているよう聞こえますよ!』
    「…そうです」
    『そうですって!!! 私たちは何も悪いことをしていないですよね。それに犯罪から守ってくれるのが警察でしょ? マスターが言っていることは全く理解できないですよ』
    「そう、その通り。常識では考えられないことが起きているんですよ。というか、これから起きる可能性がゼロではないので、細心の注意をしなければならないと考えているところなんです。なので・・・途中、高速を降ります。そしてNシステムの無い道路を通って、公共交通に乗り換えられるところを探します。礼子さんはそこで降りてください」
    『えっ?・・・』
    藤原の話しにいよいよ怖さを感じ始めた礼子は、可愛い小さな唇を震わせながら黙ってゆっくりとうなずいた。

  • #750

    六輔 (土曜日, 24 4月 2021 19:29)


    二人沈黙のまま徐々に東京に近づいてきたところで、礼子が重い口を開いた。
    『ねぇ、マスター・・・』
    「あっ、…はい」
    『今日の目的は達成できなかったですね』
    「今日の目的?・・・矢神達洋さんを探し出すっていう?」
    『…はい』
    「そうですね。実はずっとそのことを考えながら運転していたんです。このままじゃ終われないって」
    『それ、どういう意味ですか?終われないって・・・また倭里町に行くつもりなんですか?』
    「いやっ、それは難しいと思います。あの場所は一種の治外法権・・・いやっ、日本じゃないと言ってもいいかもしれない場所ですから」
    『こんなことが現実としてあるんですね』
    「さっきも話しましたけど、国民は知らされていないだけなんですよ。あと・・・分かりませんが、知ってしまった者には、何かしらのことが…」
    『何かしらって? なんか、怖い話しはやめてくださいよ、マスター』
    「そうですね。倭里毒物殺人事件が12年経った今もなお、未解決事件のままなのも、こうなってくると全てを疑わなければならなくなってきましたね」
    『もと記者としての勘ですか?』
    「いやっ、もう記者の勘なんか、さび付いて無くなってしまいましたけど。ただ、僕はあの当時、報道に携わっていた者でありながら、途中でそれを放棄してしまった情けない記者として、いま、何ができるか・・・大それたことを考えている訳ではありませんけど、陽菜子ちゃんが僕の前に現れたのも、僕にあの時の決着をつけろ!って、言われているのかなって思うので・・・帰ってから少し考えてみようと思います」
    『もとはと言えば、私が皐月さんの実家で見せていただいた卒業アルバムで“たっちゃん”と呼ばれていそうな人を探してきたのが、きっかけとなったんですよね』
    そう言って礼子は、スマホで撮影してきた卒業アルバムの矢神達洋の写真を写し出し、それを見ながらつぶやいた。
    『似ているんです』
    「えっ?」
    『高校時代に好きだった野球部の人に』
    「礼子さんの高校時代の同級生ですか?」
    礼子は頬を少し紅潮させて「はい」とうなずいた。

  • #751

    六輔 (日曜日, 25 4月 2021 18:26)


    礼子は急に表情を変えて言った。
    『こんな時に不謹慎なこと言っちゃいましたね…ごめんなさい』
    「そんなことないですよ。思い出があるってとっても幸せなことですもんね」
    『はい、そうですね。でも、どうしよう…』
    「何がですか?」
    『明後日、皐月さんの診察日なんです』
    「病院で会うんですね?」
    『はい。明後日は矢神達洋さんのことを話して、何かのきっかけになればいいなと考えていたんですけど…無理ですね、矢神達洋さんのことを皐月さんに話すのは』
    「皐月さんにどんな処方をするのがいいのか、僕には全く分かりません。ドクターにお任せするしか…よろしくお願いします」
    『はい。ところでマスター・・・』
    「はい」
    『今日でお別れじゃないんですよね?メールでもいいので、何かあったら連絡してくださいね』
    「あぁ、それは・・・」
    『えっ? もう連絡してくれないんですか?』
    「いやっ、もちろん皐月さんのことを心配してくれている礼子さんですから、これからも連絡をとりたいですよ。でも・・・」
    『でも?』
    「たぶんですけど、車のナンバーからこの車の所有者を調べ、さらには所有者である僕の携帯番号まで調べるはずです」
    『そ、そんなぁ・・・私たちの個人情報が私たちの知らないところで勝手に使われてしまうんですか?』
    「そうです。そうなれば、私の携帯からかけられた電話は、全て盗聴されるでしょうし、メールも全て筒抜けになると考えておいたほうがいいでしょうね」
    『信じたくはないですけど・・・そういうことなんですね』
    「はい。なので、私はプリペード式の携帯を持ちます。幸い、記者時代に付き合っていたそういった筋の知合いがいますので」
    『なんか、一般人には到底理解できない話しばかりです』
    「そうですね。それだけ、記者の仕事は命がけだっていうことなんです。自分の身を守るためにいろんなことをやってきましたから。それで・・・礼子さんは今日のことは忘れてください。それが一番です」
    『・・・分かりました。信じられないことばかりでしたけど、知らない方がいいということも分かりましたので。マスターは無茶しないでくださいね』
    藤原は、優しい表情でうなずいた。

  • #752

    六輔 (月曜日, 26 4月 2021 23:00)


    藤原は、礼子に話した通り、途中のインターチェンジで高速を降り、Nシステムの無い道路を選んでJR駅に向かい、駅の防犯カメラに撮られないよう、少し離れたところで礼子を降ろした。
    「ちょっと駅まで歩くようですけど…」
    『大丈夫です』
    「それじゃ、お元気で」
    『はい、くれぐれも無茶をしないでくださいね、藤原さん』
    「あれっ、初めて苗字で呼んでもらいましたね(笑)」
    『ちょっとスリリングなドライブデートでした(笑)』
    「そうですね。気を付けて」
    『藤原さんも』

    礼子に見送られながら車を発進させた藤原の表情は、さっきまでの優しい表情からまるで別人になったかのように険しい表情へと変わっていた。
    この先に何が起きるかを案じていたからだ。
    高速には乗らず、一般道を帰った藤原は、自宅手前のコインパーキングに車を停め、そこでタクシーに乗り換えた。
    「すみません・・・」
    自宅の駐車場の前を通って、そのままそこを通り過ぎるようタクシードライバーに説明した。
    『な、なにかあったんですか?お客さん。刑事さんじゃないですよね?』
    「あっ、ち、違います。いやぁ、実は浮気がバレないように、アリバイ作りがいろいろ大変なんですよ」
    『な~んだ、そんな事情だったんですか。分かりました。うまく運転しますからね!』
    そんな会話をしていると、自分の駐車場が見えて来た。
    と、藤原の心配は的中していたのだった。
    「あのクラウンは・・・覆面だ!」
    白のクラウンが、駐車場を見張るように停車していたのだった。
    ナンバーは8ナンバー。バックミラーが2つついていれば、それはもう覆面パトカーで確定だ。
    停車していた車の中に、私服の刑事らしき者が2人乗っていたことを確認した藤原は、体をすぼめて後部座席で身を潜めた。
    「スピードを緩めずにそのまま行ってください!」

  • #753

    六輔 (火曜日, 27 4月 2021 21:20)


    帰る場所を警察に監視されていることを知った藤原は、タクシードライバーに千葉方面に向かうよう指示をした。
    『千葉方面ですか?』
    「そうです。下道をゆっくり進んでもらって構いませんので」
    『分かりました。いやぁ、浮気のアリバイ工作も大変なんですね(笑)』
    「そ、そうですね」
    タクシーが進行方向を東に変えたところで、藤原はそれまで電源を切っておいた携帯電話の電源を入れ、電話帳を開いてそのメモリーから数人の電話番号をメモ帳に書き写した。
    「これでよし…と」
    携帯の電源をオフにして、またタクシードライバーに
    「ご、ごめんなさい。ちょっと事情が変わって・・・東京八王子方面に戻っていただいて、どこかビジネスホテルに向かってください」
    『え?戻るんですか?分かりました。いやぁ、モテル男は本当に大変なんですねぇ(笑)』
    「いやっ、いろいろ苦労が絶えなくてね」
    藤原がとった行動は、携帯の電源を入れればGPS機能で居場所を突き止められることを承知してのことだった。
    千葉方面に向かった形跡を残した藤原は、東京の西に向かい郊外のビジネスホテルに偽名を使ってチェックインした。
    全て冷静な行動だった。
    それは、敏腕記者として極悪非道な事件や、様々な危機的状況を乗り越えて来た経験値が活かされての判断によるものだった。
    倭里町がゴーストタウンと化し、その先にそびえ立つサグラダ・ファミリアのような建物とその存在を守るかのように設置された無数の監視カメラを発見したことで、藤原の持つ経験値から誰かが自宅で待ち受けているかもしれないと導き出しての行動だった。
    その予想の通り、駐車場を見張る覆面パトカーを見つけ、藤原は帰る場所を失ってしまったのだった。
    藤原は、シングルルームのビジネス用ベッドに横たわり、天井を見ながらため息交じりにつぶやいた。
    「こんなことになるとは・・・」

  • #754

    六輔 (木曜日, 29 4月 2021 02:23)


    ベッドの上で眠気を感じ始めた藤原は、疲れをとるためにも入浴しようと、重い腰を上げた。
    「サッパリするか」
    シャワーを浴び終えた藤原は、ホテル前のコンビニで調達したパンツをはき、バスローブを羽織った。
    そしてバスタブに一番熱い温度で半分ほどお湯をはり、同じくコンビニで調達したアロマオイルを10滴ほどたらし、風呂場のドアを開けっ放しにて、部屋にアロマオイル入りの蒸気をめぐらせた。
    それは、藤原が記者であったときのホテル泊の際のルーティンだった。
    寝る前のルーティンを全て整えた藤原は、部屋に備え付けられた冷蔵庫から缶ビールを取り出し、窓際に置かれた椅子に座って缶の半分ほど一気に流し込んだ。
    「ふぅ~、さてと・・・明日からどうするかな」
    明日以降の行動を考えると一気に憂鬱になった。
    いつまで続くのか分からない、罪を犯した逃亡犯の時効を迎えるまでの逃亡劇までイメージできたからだ。
    倭里町に出入りしただけで、命まで狙われるとは思いたくはなかったが、最悪のことまで想定すると、覆面パトカーに監視されている自宅に戻るにはあまりにもリスキーだと思えた。
    藤原は、「はぁー」と大きく息を吐きだすと、携帯電話から書き写した電話帳のメモを取り出した。
    「やっぱり、あいつに頼るしかないよな」
    そう言って藤原は、ホテルの電話から友人の携帯番号の頭に184を加えてダイヤルした。
    「藤原だけど、分かるか?」
    電話の相手は、藤原が記者として働いていた時代、ライバル社の敏腕記者として、ときにはライバルとしてしのぎを削り、そしてときには盟友として互いの苦労を語り合った松岡という男だった。
    「藤原? おぉ~、非通知の電話だから誰かと思ったら・・・いったいどうしたんだよ…藤原』
    「突然、すまないな…松岡」
    『いや構わんよ。記者を辞めて7~8年経つよな? 何かあったのか? 非通知で電話してくるなんて…普通じゃなさそうだな』
    「さすが、現役敏腕記者の松岡だな」
    『まぁ、少なからず現役を退いて何年も経っている奴よりはな(笑)・・・ところで、どうした? 藤原』

  • #755

    六輔 (木曜日, 29 4月 2021 21:30)


    自宅前で覆面パトカーに背広の刑事が身を潜め、自分の帰りを待ち伏せしていることを察した藤原は、郊外のビジネスホテルに身を隠し、そこから昔の戦友・松岡に連絡を取った。
    事情を知った松岡はこう言ったのである。
    『とにかく、俺んちに来いよ!』
    藤原と松岡は、出身は全く別の地だったが、二人とも昭和38年ウサギ年の早生まれ。
    共に記者として駆け出しの頃から良きライバルとしてしのぎを削ってきたが、互いが互いを認め合う仲だった。
    「迷惑かけてすまないな」
    『水臭いこと言うなよ、藤原』
    翌朝、ビジネスホテルをチェックアウトした藤原は、マスクと伊達メガネを使って顔のほとんどを隠して松岡の元へと向かった。
    世界でもトップレベルの治安のいい国、日本では、国民に知らされないままありとあらゆる場所に監視カメラを設置し、顔認証システムを稼働させているのである。
    そのことを昔の仲間から聞いて知っていた藤原は、タクシー、バス、電車と様々な交通機関を乗り継いで松岡の元へと向かい、ようやく松岡の待つマンションに着いた。
    「松岡・・・」
    『おぉ、ひさしぶりだな藤原』
    「迷惑かけてすまない」
    『昨日も言ったよな、水臭いこと言うなって。まぁ、とにかく入れよ』
    部屋に入ると、大きな窓から東京の街並みが一望できた。
    「おい、すごいなぁ。32階からの景色なんて初めて見たぜ」
    『タワーマンションならではの景色だろう! って、あと15年もローンが残っているんだけどな(笑)』
    「さすが、全国紙の敏腕記者さんの住むところは違うな! 俺の住むマンションの倍近い広さだぜ!」
    『まぁ、いつか結婚して家族も増えるだろうと思っていたけど、仕事に追われて、独身を卒業できないままこの歳に。まぁ、一人で気楽だけどな。藤原は、奥さんを亡くして、ずっと独身のままなのか?』
    「あぁ」
    『…そっか。じゃぁ、一人暮らしという点では一緒な訳だ』
    「そうだな」
    『ところでさ、俺はこれからちょっと社に出勤しなきゃならないんだ。夕方には戻ってくるから、昨日の話しの続きはそれからゆっくり聞かせてもらうよ』
    「あぁ、分かった」
    『気兼ねしないで、好きにやっててくれ。冷蔵庫もそれなりに補充しておいたからな』
    松岡は、玄関先で見送る藤原に合鍵を渡して部屋を出て行った。

  • #756

    六輔 (金曜日, 30 4月 2021 21:58)


    藤原は、用意周到な男だ。
    しばらく家に戻れなくなることも想定し、その準備を整えるとともに、身を隠すための最善を尽くした。
    まずは、自宅手前のコインパーキングに停めたワーゲンビートルの駐車料金が、膨大な金額にならぬよう、管理会社に電話をいれ、月極で駐車することの了解を取り付けた。
    また、カード決済で居場所を突き止められることがないように、当座の資金50万円をあえて東京駅のATMを利用して降ろした。
    さらには、礼子に約束した通り、昔の知り合いを通してプリペイド携帯も手に入れた。
    万全を期して松岡のマンションに身を寄せた藤原だったが、どうしても気になることがあった。
    それは喫茶店「あんくる」の常連客のことだ。
    何の前触れもなく、また、店先に張り紙もないまま営業しないことに、常連客が心配するだろうということ。
    ただ、そのことに関してはどうにも打つ手立てが見つからないことに、諦めざるを得なかった。

    松岡の暮らすタワーマンションは、複合型マンションだった。
    1・2階にスーパー、フィットネスクラブ、保育園に銀行まで入居している。
    同じ新聞記者として働いてきた藤原の暮らしとのあまりにも違いに、苦笑いするしかなかった。
    松岡が出て行ったあと冷蔵庫を見ると、男住まいらしく大した食材もないことに、食材を調達してきて晩飯を作ろうと考えた。
    キッチンを見ると、ほぼ新品に近い状態の調理器具が揃っていることに、
    「用意はしたけど、ほぼ使ってないってことだな」
    と、直ぐにその利用頻度が目に浮かんだ。
    「まぁ、酒の好きな奴だから、つまみ系を用意するか」
    と、マスクに伊達メガネをかけ1階のスーパーに出かけて行った。

  • #757

    六輔 (土曜日, 01 5月 2021 20:54)


    「誰かに見られてる?」
    と、キョロキョロする動き自体が、余計に監視される対象になってしまうことを知っている藤原は、辺りを一切気にすることなく、堂々とした態度で手際よく食材を選んでいった。
    「こんなもんか」
    食材の買い物を済ませた藤原は、寄り道をすることなく部屋に戻り、松岡が帰ってくるであろう時間から逆算して調理を開始し、喫茶店の店主らしく必要以上に時間をかけることなく簡単なつまみ3種を作った。
    夕食の準備が終わり、手持ち無沙汰になった藤原だったが、仕事もせずに家でのんびりしていた者が、さすがに家主より先にシャワーを浴びるわけにもいかず、ソファーに寝そべって松岡の帰りを待った。
    ふと気付くと、夜の8時を過ぎていた。
    「おせーな・・・夕方には戻るって言っていたんだけどなぁ…」
    と、呟いてはみたものの、よくよく考えてみれば、自分が記者をやっていた時には妻の美代子に「今日は早く帰れると思うから」と、言って家を出たものの、仕事に振り回され連絡を取ることも出来ないままに待ちぼうけをさせていたことが思い出された。
    「美代子は、いつもこんな気持ちで俺の帰りを待っていたんだなぁ」
    と、改めて妻の我慢強さに敬服した藤原だった。
    9時をまわってようやく松岡が帰ってきた。
    『遅くなってすまん!』
    と、部屋に立ち込めるいい香りに気づき
    『えっ?料理して待っててくれたのか?』
    「まぁ、居候の身でやることもなかったからな」
    『すまなかったな、予定より仕事が立て込んでいてさ』
    「同じ仕事をしていたんだ、予定が予定であって、予定通りになんかならないことは知ってるからな」
    『そっか』
    「おかげさまで妻が我慢強く待っていてくれたんだなぁと、いまさらながら感じることが出来たよ(笑)」
    『(笑)確かにいまさらながら!だな』
    順に入浴を済ませた二人は、温めなおした料理を挟んでグラスを合わせた。
    「すまないな、面倒かけて」
    『気にするなって! いやぁ、しかし旨そうな料理だな』
    「これでも一応調理師免許を持っているからな・・・一応飲食業の店主な訳だし」
    『そっか、そっか。じゃぁ遠慮なくいただくよ。頂きながらお前の貴重な体験を詳しく聞かせてもらうとするか』

  • #758

    六輔 (日曜日, 02 5月 2021 19:13)


    二人が酒を酌み交わすのは、8年ぶりのことだった。
    藤原がまだ記者をやっていたときには、一つの大きな事件が解決するたびに共に行きつけのバーで引き寄せられるように一緒になり、二人はカウンター席で肩を並べて好きなスコッチを酌み交わしていた。
    「よっ! 松岡も来ていたのか」
    『おぅ、藤原』
    「隣に座っていいか?」
    『あぁ』

    ≪いらっしゃいませ、何にいたしますか?≫
    「こいつと同じものを」
    ≪かしこまりました≫

    「とりあえず、事件は解決したな」
    『藤原も追っていたのか?今回の事件』
    「あぁ。嫌な事件だったな」
    『そうだな。今回の犯人も模倣犯だったからな」
    「俺たちが足で稼いできて報じた犯罪の手口をそのままに真似しやがって…」
    『最近じゃ、俺たちの報道内容に触発されて類似の犯行が・・・しかも動機が「ただ事件を楽しみたかっただけだ」という愉快犯が当たり前のように横行している』
    「そうだな。昔の事件は、必ず犯人には罪を犯さなければならなかった動機というものがあったよな」
    『あぁ』
    「だけど、今は動機の無い事件が・・・時々、分からなくなるときがあるよ」
    『うん?何が分からない?』
    「俺たちは模倣犯や愉快犯のために、必死になって事件の真相を追っているのか?ってな」
    『藤原がそう思いたくなる気持ちも分かるよ・・・俺も同じだからな』
    「・・・そっか」
    『でも藤原・・・それでも俺たちは真実だけを伝えていく・・・だろう?』
    「・・・そうだな」

  • #759

    六輔 (月曜日, 03 5月 2021 06:53)


    松岡にとって藤原は、同じ志を持つ同士だった。
    それは、記者を辞めてからも全く変わってはいなかった。
    『変わってねーな、藤原』
    「今は、喫茶店の店主だ。記者をやっていた頃の張りつめた緊張感もなく、穏やかな日を送っていた。この先も気楽な人生を歩いていけるはずだったんだけど・・・」
    『いったい、何があったんだ? 警察にも追われているって・・・まさか、お前が犯罪に手を染めるはずはないとは思うが・・・』
    「(笑)あぁ、さすがに法を犯していたとすれば、お前のところに逃げ込んだりしていないさ」
    『なら、どうして警察に追われるようなことになっているんだよ』
    「松岡は、倭里毒物殺人事件を覚えているか?」
    『倭里毒物殺人事件?もちろん忘れていないさ!っていうか、忘れたくても忘れることのできない事件だ。未だに解決されていない事件だよな』
    「その口ぶりだと、お前のところにも妨害が入ったんだな?」
    『妨害?・・・あぁ。突然、キャップから今後の一切の取材を辞めるように言われてさ…まだ、若くて力の無かった俺は、キャップの命令に従うしかなかった』
    「同じだな」
    『藤原のところもだったんだな』
    「今回のことは、全てが倭里毒物殺人事件に繋がっているんだ」
    『全てが?』
    「…あぁ。 松岡は倭里毒物殺人事件で報道が過熱する中、二人の犠牲者があったことは知っているか?」
    『…あぁ。冤罪を向けられて、確かお二人の方が自ら命を・・・名前までは憶えていないけどな』
    「瀧野瀬さんだよ」
    『そ、そうだ瀧野瀬さん!あれは行き過ぎた報道のせいだったよな』
    「そうだな。ところで、松岡は甲子園大会は観るのか?」
    『今度はいきなり甲子園かよ。あぁ、これでも高校球児で甲子園を目指して頑張っていたからな』
    「そっか。なら、去年の甲子園を沸かせた東庄高校の…」
    『お、おい藤原!ちょ、ちょっと待て! 確か東庄高校のキャプテンは瀧野瀬紘一君!という名前だったはず』
    「そうだ。さすがに元高校球児だな」
    『二人目に亡くなった瀧野瀬さんは確か東庄町で暮らしていたような・・・ま、まさかその瀧野瀬さんの息子?なのか?』
    「・・・そうだ。さすがに勘がいいな」
    『勘がいいもなにも・・・彼のプレーは、元高校球児だった俺の胸を熱くしてくれた。あんな素晴らしい選手は、俺の記憶の中で一人もいないよ。彼の父親が倭里毒物殺人事件で冤罪を向けられていたとは…』
    「紘一君が10歳の時だったそうだ」
    『瀧野瀬紘一は、その年のドラフトの目玉と言われていた。でもプロ志望届を出すことも無く、大学、社会人に進んだという話しもない。突然、野球界から姿を消しちまったんだよ。うん?ところで、瀧野瀬紘一君とお前が警察から追われることになったことと、どう関係しているんだよ?』

  • #760

    六輔 (水曜日, 05 5月 2021 18:01)


    藤原は、順を追って説明していった。
    「倭里毒物殺人事件が起きたのが平成8年、俺も松岡も34歳のときだ」
    『二人とも若かったよなぁ』
    「ほとんどのメディアが瀧野瀬さんに関心を寄せているとき、俺はある男に興味を持って取材を続けていた」
    『ある男?どんな男だったんだい?』
    「倭里毒物殺人事件は、後になって宗教団体が関わっているのではないかって噂されていたことは知っているだろう?」
    『あぁ、もちろんそのことは知っていたさ』
    「俺は、噂になる前から教団に対して取材をしていたんだよ」
    『そうだったんだぁ』
    「教団関係者は一切取材に応じてはくれなかった。そんな中、一人の男だけは俺の取材に応えてくれていたんだ・・・その男は、矢神達洋という男で、歳は偶然にも俺たちと同い年だ」
    『その男が毒をまいた実行犯だと思って取材をしていたのか?』
    「いやっ、確証は無かったさ。ただ、彼は間違いなく何かを知っていた。俺は今でもそう思っている」
    『そっか』
    「だが、松岡と同じようにうちの社にも取材妨害が入った。俺は上からこう言われたんだ。『犯人を見つけるのは警察の仕事だ!』ってな。あの時の俺は無力だった。言われるがまま引き下がるしかなかった」
    『それは仕方のないことだったよな。抵抗してどうなるものでもなかったと思う・・・あの時はな』
    「・・・そうだな。それと、ちょうどその頃に妻の美代子のガンが見つかってさ・・・1年後に亡くなったんだ、35歳でな」
    『…若かったんだなぁ』
    「俺は、美代子を失ってからも記者として頑張った。そして40歳のとき、ある政治家の不正を暴く記事を書きあげた。だが、上はそれを世に出すことを認めてはくれなかった。俺が記者でいる必要が無くなった瞬間だよ」
    『そうだったよな、お前は引き止めようとする俺の話しなんか全く聞くことなく記者を辞めた。でもお前らしかったよな』
    「あの時は、お前にも心配をかけたよな」
    『そんなこと気にするなよ』
    「すまん。俺は、記者を辞め喫茶店の店主になった。しばらくは一人で店を切り盛りしていたんだけど、アルバイトを雇おうと思ってさ、手書きで募集広告を作って店先に貼ったんだ。そしたら、まるでその時を待っていたかのように一人の女の子が店に入ってきてさ・・・俺は驚きのあまり、しばらく言葉を発することも出来なかったよ」
    『何に驚いたんだい?』

  • #761

    六輔 (木曜日, 06 5月 2021 22:24)


    藤原は、肌身離さず持ち歩いている美代子の写真を松岡に見せてこう言った。
    「妻の美代子だよ」
    『いつも持っているのか。愛していたんだな、奥さんのこと』
    「あぁ。俺が記者で頑張っていられたのは、美代子がそばにいてくれたからだって、いつも思っていたからな」
    『そっか』
    「でな、松岡・・・店に突然やってきた女の子が美代子にそっくりだったんだよ」
    『えっ?』
    「美代子が20歳若くなって生き返ってくれたんだって、笑われるかもしれないけど、真剣にそう思ったよ、その時には」
    『そんなに驚くほど似ていたのか?・・・なんか、ただの偶然じゃなさそうな話しに思えちまうよな』
    「あぁ、その通りだよ」
    『えっ?』
    「ただの偶然だ!では片づけられないようなことになっていくんだよ」
    『どういうことだよ?』
    「その女の子の名前は水嶋陽菜子ちゃん。高校時代には東庄高校野球部のマネージャーで、瀧野瀬紘一君と一緒に甲子園に行った女の子なんだよ」
    『えっ?・・・それって…』
    「僕は彼女のことを娘のように思って、ヒナちゃんと呼んでいたんだ。ある時、ヒナちゃんの将来の夢について尋ねたことがあったんだけど、その時、ヒナちゃんはこう言ったんだよ。『社会部の記者になりたい!』ってね」
    『記者?それも社会部?若い女の子が?』
    「あぁ。実はな、ヒナちゃんは狭き門を突破してこの春から新聞社に入社することになっているんだ。…で、どこの新聞社だと思う?」
    『どこだよ?』
    「瀧野瀬君の父親の冤罪を生むきっかけとなった記事を書いた新聞社だよ」
    『ふ、藤原・・・それって…』
    「あぁ、俺も今の松岡と同じことを考えたよ。瀧野瀬君の復讐のために?ってね」
    『そういうことなんだろう?』
    藤原は黙って首を横に振った。

  • #762

    六輔 (金曜日, 07 5月 2021 20:56)


    藤原はこう続けた。
    「どうしてヒナちゃんが記者を目指したのかを話す前に、瀧野瀬君がプロ野球選手にならなかった理由を教えてやるよ」
    『おっ、おぅ。教えてくれ!あれだけの選手がプロの道を選ばなかった理由を』
    「それはな、瀧野瀬君のマスコミ嫌いが原因で…」
    『そ、そりゃぁそうだろうよ。マスコミに父親を殺されたようなものなんだからな』
    「…うん、ただそれだけじゃなかったんだそうだ。松岡は昔、スポーツ通信に古沢っていう記者がいたのを覚えているか?」
    『あぁ、覚えているさ。そうだ、思い出した!古沢は、瀧野瀬君に取材を断られた腹いせにおかしな記事を掲載して、それが原因でクビになったんだよな?』
    「あぁ、よく覚えていたな。でもそれじゃ終わらなかったんだそうだ」
    『えっ?終わらなかったって…どういうことだよ?』
    「古沢は瀧野瀬君を逆恨みして、こう言ったんだそうだ。『お前がプロに進んで有名になれば、お前だけじゃなく、お前の兄弟親戚までが人殺しの身内だ!って世間で騒がれるようになるんだろうな!』って」
    『そんなぁ…』
    「古沢は狂ってるよ」
    『18歳の少年にそんなむごいことを・・・そして瀧野瀬君は夢を諦めたっていうのか?・・・酷いよ、酷すぎるよ!』
    「瀧野瀬君にはお姉さんが二人いて、その子供達、そう、甥っ子のことが大好きで・・・甥っ子を悲しませたくない一心で、プロの道を断念したんだそうだ」
    『確かに、東庄町の瀧野瀬という苗字で、事件に関係していたということが、また明るみになってしまうこともあるかもしれないけど・・・でも、冤罪なんだぜ! 悲し過ぎるだろうよ。未解決事件だから、いまだに瀧野瀬さんが犯人だと思っている人がいるとでも言うのかよ! 酷い、酷すぎる!』
    「・・・そうだな」
    『えっ?それで、瀧野瀬君はいま何をしているんだい?』
    「それは、ヒナちゃんも分からないんだそうだ」
    『・・・・・』
    「それでな、松岡・・・ヒナちゃんは瀧野瀬君に確かめたんだそうだ。父親を自殺に追い込んだ記者を憎んでいるか?復讐したいと思っているか?って」
    『憎んで当然、復讐したいと思っても不思議ではない話しだよな』
    「…あぁ、俺もそう思った、だがな・・・瀧野瀬君はこう言ったんだそうだ。『復讐というものは、恨みの感情を消すためにやることだ。自分はそんなことのために生きていこうとは思わない。復讐は何も生まないから』…って」
    松岡の頬を一筋の涙が伝った。

  • #763

    六輔 (土曜日, 08 5月 2021 19:52)


    二人ともしばらく口を開くことが出来なかった。
    『なぁ、藤原・・・』
    「うん?」
    『誤った報道によって、人の人生が大きく変えられてしまう…そんな単純なことを意識もしないで働いている記者はたくさんいるよな。下手をしたら俺だって・・・記者の仕事は責任が重いんだよな』
    「・・・あぁ、そうだな。瀧野瀬君はヒナちゃんにこう言ったそうだ。『真実だけを伝えられるジャーナリストになってくれ!』って」
    『もうこれ以上俺を泣かせないでくれ・・・』
    「俺、ヒナちゃんに謝ろうとしたんだよ。あの時、諦めずに事件の犯人を探し出していたら…って。そしたらこう言われちまったんだ。『今の話しを紘一の前で出来ますか?記者の仕事は犯人を探し出すことじゃないですよね?』って」
    『大人たちより、18歳の二人の方がしっかりしているってことか』
    「恥ずかしい話し、そういうことだな」
    『俺、もう一度瀧野瀬君のプレーを観たくなったよ!あの正々堂々と戦う姿をさ』
    「あぁ、そうだな・・・なぁ、松岡…」
    『うん?』
    「それからな・・・俺は、もう一人の女性の話しをしなきゃならないんだ」
    『もう一人?』
    「美代子の高校時代からの親友で、重里皐月さんという女性のことだ」
    『奥さんが亡くなってからも交友があるのか?』
    「美代子の月命日には必ず「あんくる」に来てくれていたんだ」
    『そうなんだ・・・うん?…いたんだ? 言い方が過去形だな』
    「あぁ、実はな・・・2カ月ほど前に彼女、事故にあってさ、記憶障害という病を抱えてしまったんだ」
    『記憶障害? 記憶喪失ってやつか?』
    「あぁ、そうだ。ただな、全ての記憶を失ってしまった訳ではないんだ。覚えていることと、記憶を失くしてしまったことと・・・」
    『藤原のことも忘れてしまったのか?』
    「事故のあと、見舞いに行ったら俺のことを“たっちゃん”と呼んでさ…」
    『“たっちゃん”? 知り合いにいるのか?“たっちゃん”っていう人が』
    「それがさ・・・」
    それから藤原は、看護師の笹中礼子という女性が、“たっちゃん”と呼ばれていた男を見つけて「あんくる」にやってきたこと。その男が自分が12年前に追っていた矢神達洋であったことを話した。

  • #764

    六輔 (日曜日, 09 5月 2021 21:57)


    松岡は何度かうなずいてこう言った。
    『だから、全ては倭里毒物殺人事件に繋がっているって言ったんだな』
    「・・・あぁ、そうだ」
    『しかし信じがたい話しだけど、本当に全てが繋がっちまったんだなぁ・・・これって、まるで藤原に事件を解決してくれ!って、全てお前のところに集まってきているかのような話しだよな』
    「・・・あぁ、それは俺も感じている」
    『えっ?もしかしてお前・・・矢神達洋という男に会うために倭里町に行ったのか? それで、そこで警察に追われるようなことに巻き込まれてしまった・・・そういうことなのか?』
    「さすが、俺が一目置いていた記者さんだ。そうだ、その通りだよ」
    『何があったんだ、聞かせてくれ』
    それから藤原は、礼子と倭里町に行きそこで見て来たこと、帰ってきてからのことの全てを話した。
    『本当に街の人が一人もいなかったのか?』
    「あぁ」
    『そんな報道、一切ないじゃないか』
    「そうだな。全ては…」
    『おいおい、待てよ! 全ては国家権力で隠蔽されているとでも言いたいのか?』
    「そうだ!」
    『教団がどれほどまでに立派な建物を建てたのかは構わないとして…無数の監視カメラが侵入者を排除するかのように設置されていた?』
    「…あぁ」
    『そして藤原の自宅の前に・・・本当に間違いないのか?お前の見間違いということはないのか?』
    「無いと思う。白のクラウン、8ナンバー、しかもバックミラーが2つついていたからな、覆面に間違いないよな」
    『それだけ揃っていたら覆面で間違いないな。警視庁か?いやっ警察庁?・・・公安か?』
    「どこなんだろうな。俺には分からない」
    『俺たち国民には知らされていない特殊部隊がある可能性も否定出来ないな』
    「国を動かしているお偉いさんの言いなりに動く部隊ってことか?」
    『そうは思いたくはないが、その可能性もあるな。国家レベルでの不正…いやっ、権力という名の暴力を使って、一部の人間が私腹を肥やしている。十分にあり得る話だな』
    「ということは、やっぱり国を動かしている一部の政治家が教団を守っているということか?」
    『・・・分からないが…可能性はゼロではないな』
    「もし、そうだとしたら・・・」
    『あぁ、むやみに自宅に戻って、もし捕まったとしたら・・・濡れ衣を着せられて逮捕されて何年も刑務所暮らしをするか、あるいは・・・命を狙われる可能性もゼロでは…ないな』
    「・・・あぁ」

  • #765

    六輔 (月曜日, 10 5月 2021)


    間接照明に照らされた薄明りの中、二人は大きな窓の外に広がる東京の夜景に視線をやり、思い悩んでいた。
    『なぁ、藤原・・・』
    「うん?」
    『これからどうする気だ?報道機関ばかりではなく、警察組織にまで手が廻っているとなれば、どうにも動きようがないだろうよ』
    「・・・あぁ」
    『しばらくは俺のところに居てくれて構わないけど…ずっとっていう訳にもいかないだろう? 何よりお前の店のこともあるもんな』
    「あぁ、そうだな。お前に迷惑はかけられないからな」
    『迷惑とか、そんなこと言ってる場合じゃないだろうよ!』
    「・・・すまん」
    『そんな偉そうなことを言ってる俺だけど・・・不正を暴いて糾弾する、それが記者である俺の仕事なんだよな。 だけど・・・』
    「あぁ、分かってる。事件が起きたときにはもう目に見えない巨大な権力が動いていたんだ。例え、お前が確固たる証拠を掴んでそれを記事にしようとしても・・・おそらくは全てが握りつぶされてしまうに違いない・・・そういうことだろう?」
    『悲しいが…そういうことになるよな』
    「これは俺とお前の立場が逆だったとしても同じことだろうからな」
    『相手がデカ過ぎるよな』
    「確かにそうだけど、でもさ松岡・・・」
    『うん?』
    「だからと言って諦めたらそこで終わりだよな」
    『そうだろうけど・・・えっ?何か考えがあるのか?…藤原』
    藤原は黙ってゆっくりとうなずいた。

  • #766

    六輔 (火曜日, 11 5月 2021 23:03)


    藤原のうなずき方を見て、松岡には藤原が何を考えているのか察しがついた。
    『藤原・・・』
    「うん?」
    『お前、真面目に考えているのか?』
    「・・・あぁ。だって他に方法はあるか?これが今の俺に残された唯一の方法だよ」
    『・・・・・』
    黙っている松岡に藤原はこう言った。
    「松岡・・・大丈夫だ。俺一人でやる。お前は、これからも全国紙の記者としてお前にしか書けない記事を書き続けてくれ」
    『・・・藤原』
    「いいんだ。収入がなくてもしばらく持ちこたえられるだけの蓄えはあるしな」
    『そういう部分はもちろん頼ってもらっても構わないが…でも、最終的にどうするつもりなんだよ?』
    「最終的に?・・・それはまだ俺も分からない。民放のテレビ局は、スポンサーがいる以上公衆の電波に乗せてくれることは期待薄だろうし、新聞社が口封じされている状態にあって、期待できるのは、本来であればNHKだけなんだけど…」
    『NHKは・・・』
    「あぁ、今のNHKは、公平なニュースを伝えているような体裁は整えているが、ハッキリ言って骨抜き状態だよな」
    『決して御上にたてつかない。まるで御上の飼い猫のようだよな・・・って、俺が働いている新聞社だって御上に飼い慣らされているのに、偉そうなこと言えねーよな』
    「NHKと新聞が真実を伝えなくなってしまったら、日本も終わりだ」
    『お前の言う通りだが…だけど藤原…』
    「うん?」
    『くれぐれも無理はするなよな』
    「あぁ」
    『もう覚悟は出来ているってことなんだな?』
    「仕方ねーだろうよ!このままじゃ帰る場所もねーんだからな」
    『もう少し落ち着くまで俺のところにいろよ!』
    「・・・あぁ。本当に食うに困ったときには、また転がり込んでくるさ」
    『・・・藤原』

    藤原の言った「今の俺に残された唯一の方法」とは・・・
    フリーランスの記者として復活するということだったのである。

  • #767

    六輔 (水曜日, 12 5月 2021 23:25)


    藤原と礼子が矢神達洋に会うために倭里町を訪れた日の翌日は、朝から冷たい雨が降り続く寒い日だった。
    二人が見つけ、それを「サグラダ・ファミリアのようだ」と言った建物の中、広報室と書かれた部屋の一番奥のデスクには、肩書は「主席広報官」、名前は「矢神達洋」と書かれたネームプレートが置かれてある。
    そのデスクの上に置かれた携帯が、着信をキャッチしてマナーモードの機能が作動し、部屋の中に鈍い音が鳴り響いた。
    ≪ブルブルブル…ブルブルブル≫
    ディスプレイに【警視庁・那珂山】と表示されているのを確認した矢神は、その部屋の中にいる他の者に聞かれぬよう、電話機を持って部屋を出た。
    「はい、矢神です…」
    受話器から聞こえる那珂山の声を目を閉じて聴いていた矢神は、表情を強張らせて答えた。
    「はっ?見つけられない?・・・帰って来ない?それで?・・・はっ?探しようがない?…それじゃ済まない話なんですよ。一刻も早く見つけ出してください!」
    矢神の口調は荒々しかった。

  • #768

    六輔 (木曜日, 13 5月 2021 18:46)


    その日の全ての診察を終えた田川ドクターは、椅子の背もたれに上体を預け、背筋を伸ばすように両手を挙げた。
    「いやぁ~ 疲れたっぺや!」
    と、同級生の方言を聞き付けた礼子が診察室に入ってきた。
    『お疲れ様でした』
    「はい、どうもない」
    『ねぇ、清君…』
    「どしたや、レイちゃん」
    『疲れてるところ、ごめん・・・ちょっと相談したいことがあるんだけど…いい?』
    「あぁ、くらねよ! なんだや?」
    『明日ね、重里さんが診察にくる日なの』
    「重里さん?あぁ粕尾高校の後輩の重里さんだない」
    『そう、その重里さん。さすがに美人のことはしっかり覚えているのね』
    「当たり前だっぺよ!」
    『ったく、清君ったら!』
    「重里さんの症状としては、過去の記憶の全部を失くしてしまったんじゃなく、母親の記憶はあるのに、父親のことはすっかり忘れてしまったとか、仕事上のお客様のこととか、一部分で記憶障害になってしまったっていう症状だったよない」
    『相変わらず、患者さんのことに対しての記憶力はすごいわね。カルテを見ないで患者さんのことが分かるんだから』
    「まぁ、一応主治医だかんない。確か、重里さんのお母さんの話しでは、事故にあう前の日に実家に戻るとか戻らないとか…それと、事故にあう前に一緒にいた喫茶店のマスターの名前が“たっちゃん”に記憶が変わってしまったっていう…そんな症状だったよない」
    『そう、良く覚えているわね』
    「あぁ、その喫茶店のマスターは僕のところに来たしね。マスターの亡くなった奥様のことを自分から重里さんに話したいって・・・でも、逆効果になってしまうこともあるからと、止めたんだったない」
    『そうだったわよね。ところで、清君に頼まれた通り、重里さんに高校時代のこととか聞いてみたところまでは話してあるわよね?』
    「うん」
    『でね・・・休みの日に実家に戻ったついでに、重里さんの実家にも寄らせてもらったの。それでお母さんに“たっちゃん”のことを聞いてみたんだけど、やっぱり分からないみたいで、それで卒業アルバムを見せてもらったの。で、その中で“たっちゃん”と呼ばれそうな人の写真を撮らせてもらったのよ』
    と、礼子はスマホを取り出した。

  • #769

    六輔 (金曜日, 14 5月 2021 19:42)


    この時の礼子は、皐月が口にした“たっちゃん”という人物が矢神達洋という男であり、その写真を見せることで皐月が何かしらの記憶を取り戻してくれるはずだと田川にストレートに伝えたいというのが本音だった。
    だが、前日に藤原と約束を交わしていたのである。
    「礼子さん・・・」
    『はい』
    「今日、倭里町で見て来たことは、絶対に誰にも話さないでくださいね」
    『皐月さんの主治医にも?』
    「はい。その主治医が信頼できないとか、そういうことじゃなくて・・・知らない方が絶対にいいんです。だから、矢神達洋さんのことも皐月さんには、“たっちゃん”と呼ばれていそうな人の一人にすぎないと・・・」
    『…そういうことになるわね』
    「それと、さっきも言ったように礼子さんも今日のことは全て忘れてください・・・約束してくださいね」
    『・・・分かりました、約束します』
    そう約束を交わしていたがために、礼子は撮ってきた5人の写真の全てを田川に見せたのである。
    「この人達の中に重里さんが“たっちゃん”と呼んでいた人がいるってことなんだない」
    『確証はないけど、たぶんね』
    「そっか・・・うん?ところでどうしてこの写真をおいらに見せたん?」
    『明日、この写真を重里さんに見せたら、何か思い出すことがあるんじゃないかなって…』
    田川は、礼子の話しにドクターっぽく真剣に考えてからこう答えた。
    「見せるかどうかは、明日、重里さんを診察させてもらってから考えさせてもらってもいいけ?」
    『重里さんがどんな状態だったら、見せられるの?』
    「う~ん、病状が悪化していないことが絶対条件だっぺ。重里さんのような患者さんの場合、記憶を取り戻す、その代償として覚えていたことを逆に忘れてしまうような患者さんも過去にいたんせ。その患者さん、ちょっとしたことをきっかけにして、それまで落ち着いていた病状がみるみる悪化して・・・結果、記憶の全部を失うことになっちまったんせ」
    『えっ?・・・そ、そんなことになったら大変よね』
    「そうだない。なので、明日、重里さんの話しを聞かせてもらってだない。それでよかっぺ?レイちゃん」
    『うん、分かった。重里さん…皐月さんのこと、よろしくね清君・・・頼りにしてるわよ、田川ドクター!』
    「だいじだっぺよ!」

  • #770

    六輔 (土曜日, 15 5月 2021 19:41)


    皐月がフラワーコーディネーターとして働いていた時には、会社の上司、同僚、後輩、そして多くのクライアントと関わりを持ちながら日々の暮らしを送っていた。
    小さな仕事から大きな仕事まで、それを成し遂げた時の達成感に違いはあれど、花の持つ魅力を最大限に引き出し、観る者に感動を与えることができたときの充実感が、フラワーコーディネーターとしての皐月を常に成長させ続けていた。
    だが、皐月は記憶障害という病に侵されてしまったことでその職を失った。
    会社を辞めて直ぐに新たな仕事を探そうと職安にも通ったが、皐月の望む仕事を見つけることは出来なかった。
    その喪失感が皐月の病状をさらに悪化させていった。
    母親から「実家に戻って小さな花屋を営むという話しがあったのよ。東京でやりたい仕事が見つからないなら、帰ってきたら…」
    と、諭されたが、父親の記憶を失ってしまったままの皐月にはそのことを選ぶことは出来なかった。
    記憶力のところでの病の進行はさほど無かったが、家にこもるようになったことで、ふさぎ込むようになっていき、そのことは大切に育てていた徳三郎にも影響を与えた。
    徳三郎が餌を食べなくなってしまったことをきっかけに、皐月は徳三郎を動物愛護センターに預けてしまった。
    そのことがさらに皐月に孤独感を与え、自分の殻に閉じこめてしまったのだった。
    考えてみれば、その時の皐月を心配していてくれたのは、田舎で暮らす母親と、会社を辞めてからも時々電話をしてくる赤木社長、そして粕尾高校の先輩である笹中礼子だけだった。
    無二の親友である美代子を亡くしてからは、都会で暮らす皐月を心配してくれる友達はいなかったのである。
    あれほど仲良くしていた高校の同級生たちも、それぞれがそれぞれの道を歩み、卒業以来大きな接点を持ってこなかったがために、仲間たちは皐月が病に苦しんでいることを知る手立ても無かったのだ。

    無職で、次の働き口を探そうともしていなかった皐月は、その日が何日であるのか、また何曜日であるのかも関係なしに毎日の生活を送っていた。
    週に一度、母親から電話がかかってくること以外、人と会話することも無く、以前は、ウサギの徳三郎とコミュニケーションをとるために語り掛けていたルーティンもなくなり、テレビをつける時間も減っていったことで、皐月の部屋は全く音のない空間と化していった。
    綺麗好きの皐月が、部屋を無意味に散らかすことはなかったが、徳三郎を飼っていたケージの開け閉めをする必要が無くなったその出入口の前には、読み終えた雑誌がやまとなって積まれてあった。
    その日、皐月が何気なく壁にかけられたカレンダーに目をやると、唯一、〇で囲まれた箇所があることに気づいた。
    「あっ・・・」

  • #771

    六輔 (日曜日, 16 5月 2021 20:27)


    そのカレンダーの丸囲みは、病院に行く日を記していたものだった。
    皐月は、スマホを手に取り画面に時計を表示して、今日が何月何日であるのかを確かめた。
    「あっ、明日病院なんだぁ…」
    その時の皐月には、病院に行くためにこの部屋から出て行くことがとても億劫に思えた。
    「面倒だなぁ…」
    思わず本音がこぼれた。
    だが、横になって天井を見上げ、ゆっくりと目を閉じると礼子の笑顔が思い浮かばれてきた。
    『皐月さんのために私に出来ることがあれば・・・』
    そう言ってくれた時の礼子の優しそうな顔が、皐月を思いとどめさせた。
    「行かないわけいかないよね…」と。

    もうこの頃の皐月は、人と会うこと自体が嫌になっていた。
    一日でも早く記憶を取り戻して元の自分に戻りたいという気持ちは残っていたが、田川ドクターの診察を受けることで記憶が戻ることはないとも思っていた。
    定期的に通院するのは、病状が悪化していないかを確認されるためであって、であるならば、無理にでも元気なところを見せて、可能な限り病院に行かなくて済むようにしたいと思っていたのだった。

  • #772

    六輔 (月曜日, 17 5月 2021 18:55)


    春めいた暖かな日の外出に、皐月の表情も久しぶりに穏やかな表情だった。
    (田川)「はい、こんにちは重里さん」
    (皐月)「こんにちは、田川先生」
    (礼子)「こんにちは、皐月さん」
    (皐月)「こんにちは、礼子さん」
    (田川)「元気そうだね。どう、体調は?」
    (皐月)「はい、元気そのものです」
    (田川)「食事は? うん? 少しほっそりしたかなぁ…」
    (皐月)「食事は、しっかり摂れてます。規則正しい生活でちょっとだけ痩せたかも・・・って、レディに体重のこと言わせないでください、先生」
    (田川)「そっか、いやそういうことならいいんだけど。次の仕事は見つかった?」
    (皐月)「・・・いいえ」
    (田川)「まだ充電中ということかな?」
    (皐月)「毎日、職業安定所に通ってるんですけど…」
    (田川)「ほぉ~ 毎日?」
    (皐月)「はい!毎日です。なかなか条件の合う仕事がなくて…でも、直ぐに見つかるかなって思っています」
    (田川)「そっか。あれ?確かペットのウサギを飼っていたよね?」
    (皐月)「徳三郎といいます。もぅヤンチャで困っています。けど、徳三郎がいてくれるので、煩わしいことがあっても癒されています」
    (田川)「それは良かった。病状が悪化した人が、上手くいかないことがあったりすると、それをペットのせいにしてペットに辛くあたってしまったりする場合があるんだけど…」
    (皐月)「…えっ?」
    (田川)「重里さんはそうじゃないよね?…だから大丈夫だね」
    (皐月)「は、はい。記憶も直ぐに戻りそうな・・・そんな感じで毎日楽しく暮らしています」
    明るく答えた皐月に田川はこう言った。
    (田川)「症状によっては服薬も考えていこうと思っていましたけど、その必要はないようですね。じゃぁ、あとで笹中保健師と話しをしていってくださいね」
    (皐月)「分かりました」
    (礼子)「それじゃ、あとでね」
    (皐月)「はい、お願いします」

  • #773

    六輔 (火曜日, 18 5月 2021 20:46)


    皐月は待ち合わせ場所のスターバックスコーヒーで礼子が来るのを待っていた。
    『ごめ~ん、私の仕事が終わるまで…たくさん待たせちゃったわね』
    「大丈夫ですよ、礼子さん」
    『あら、まだ注文していなかったの?』
    「あっ、はい」
    『ごめんね、気を使わせちゃって…何にする? 私の一番のおススメはね、何といってもマンゴーパッションティーフラペチーノよ!』
    「わたし、スターバックスに初めて来たのでよく分からないんです」
    『それなら私に任せて! 今日は私にご馳走させてね!』
    「えっ?それじゃ悪いです…自分で」
    『たまには先輩面させて!待っててね』
    嫌味の無い高さのヒールを履き、注文に向かい、店員の前に立ってメニューを見るふとした身のこなしに、溢れるような美しさがにじみ出ていた。
    「礼子さんってやっぱり綺麗だなぁ…」
    もうあと1、2年で還暦を迎える年齢とは到底思えぬ美貌の礼子だった。
    『お待たせ!はい、皐月さん』
    「すみません、なんか申し訳ないです」
    『いいの、いいの。飲んでみて! 他のフラペチーノと比べて群を抜いてカロリーが低いのよ!』
    「わぁ~ 美味しいです、礼子さん」
    『そう?なら良かった』
    「礼子さん…今日の私はどうでしたか? 礼子さんに言われた通りドクターの前では元気いっぱいでいられたと思うんですけど…」
    『(笑)無理して元気でいて欲しいって言った訳ではないけど、とっても明るくて、私もすごく安心したわよ。えっ?無理して元気出していた訳じゃないわよね?』
    「そんなことしてませんよ、礼子さん!」
    『そっか。田川ドクターがね、ちょっと気になるところがあったって言うの』
    「えっ? どんなところですか?」
    『ペットの話しをした時の皐月さんが・・・嘘はついていないと思うけどって・・・うちのドクターは心配性なのよね! だって、徳三郎君だっけ? 元気なんでしょ?』
    皐月は、満面の笑みで礼子に嘘をついた。
    「あっ、はい!もちろん元気です!」

  • #774

    六輔 (木曜日, 20 5月 2021 00:30)


    礼子は、もう一度念を押して確認した。
    『本当に大丈夫なのね?皐月さん』
    「はい」
    皐月が明るく答えたことで礼子は話しを進めた。
    『ねぇ、皐月さん…怒らないで聞いて欲しいんだけど…』
    「あっ、はい」
    『こないだね、久しぶりに実家に帰ったの』
    「礼子さんの実家?」
    『そう。でね、その時についでっていう訳じゃないんだけど、皐月さんの実家にも寄らせてもらったの』
    「えっ?私の実家に?母に会ったんですか?」
    『そう。も、もちろん皐月さんに断りもなく勝手なことをしていることは分かっていてのことなんだけど・・・一日でも早く皐月さんにはフラワーコーディネーターに戻ってもらいたいと思って…本当に勝手なことをしてごめんなさい』
    「そんな謝ったりしないでください。私のことを思ってのことなんですもの。えっ?でもそれっていつのことですか?先週母から電話がかかってきた時には何にも言ってませんでしたよ」
    『お母さんに会ってきたのは、2週間ぐらい前のことよ。内緒にしておいてくださいってお願いしてきた訳じゃないんだけど・・・きっと、私を信頼して任せてくれたってことなのかしらね』
    「きっとそうだと思います」
    『怒ってない?』
    「怒る訳ないですよ、礼子さん」
    『良かったぁ。あっ、でね、また勝手なことをしちゃったんだけど、皐月さんの高校の卒業アルバムを見せていただいたの。ほらっ、皐月さんに聞いたときに実家に置いてあるって言っていたでしょ?それで・・・お母さんに事情を説明したら、快く見せてくれたの』
    「なんか、恥ずかしい。わたし、幼かったでしょ?」
    『そんなことない。ショートヘアーで可愛かったわよ。テニス部で真っ黒に日焼けして・・・皐月さんが通っていた頃の粕尾高校って、運動部も結構盛んだったのね。バスケ部には赤パンで頑張っている人とかいて・・・すごいね』
    「赤パン?・・・いたかなぁ、そんな男子」
    『違う違う、女の子だよ(笑)』

  • #775

    六輔 (木曜日, 20 5月 2021 19:00)


    毎度おなじみの“赤パン”ネタでつかみはOK!となったところで、本論に入った。
    『ねぇ、皐月さん・・・』
    「はい」
    『私が皐月さんの高校の卒業アルバムを見せてもらってきた理由は・・・分かるわよね?』
    「・・・はい。私が事故にあって、そのとき病院に見舞いに来てくれた人を“たっちゃん”と呼んでしまって…でも、実際のところは違ったんですよね。喫茶店のマスターさんだって…わたし、その喫茶店の記憶が全部抜け落ちちゃっていて・・・」
    『そうね。でね、わたし、その喫茶店にも行ってきたの』
    「えっ?そうなんですか?」
    『お節介おばさんよね』
    「そ、そんなことないです、礼子さん」
    『ほんと?ほんとにそう思ってくれる?』
    「はい」
    『それならいいんだけど・・・皐月さんは月に一度、必ず決まった日にその喫茶店に行っていたのよ』
    「えっ?月に一度?決まった日に?」
    『そう。皐月さんが“たっちゃん”と呼んでしまったマスターの奥さまの・・・月命日に』
    「マスターの奥さまの?月命日?」
    『そう。美代子さんというのよ。皐月さんとは高校時代からの親友で…』
    「わ、わ、わたし、そんな大切な友達のことを忘れてしまったの?」
    と、急に泣き出して半狂乱状態になってしまった皐月を宥めるように、礼子はそっと皐月の肩に手を乗せた。
    『大丈夫よ、皐月さん。少しずつ思い出していければ・・・少しずつ、少しずつ・・・ねっ、皐月さん』
    「・・・はい」
    『皐月さんの症状が、何かの法則があるかのように、覚えている人と、記憶を失ってしまった人にはっきり分かれているでしょ? 親友の美代子さんのことは、いまは記憶が無くなってしまっているのに、でもそのご主人のことは“たっちゃん”という名で覚えている。記憶が混濁しちゃっているのよね。だからこそ、“たっちゃん”という人のことを少しでも思い出してくれたら・・・って、そう思ったの』
    「・・・はい」
    『ねぇ、皐月さん…“たっちゃん”と呼ばれていたかもしれない人の写真を撮ってきたの。もちろん見たくないという気持ちが少しでもあるなら、やめておきましょう、ね。かえって逆効果になったりしたら大変だから』
    皐月は、親友であったという美代子のことを少しでも思い出せるのであればと、勇気を振り絞ったのだった。
    「見ます・・・見せてください、礼子さん」

  • #776

    六輔 (金曜日, 21 5月 2021 22:11)


    礼子は、皐月をリラックスさせてから撮ってきた写真を一枚ずつ見せた。
    『高校時代の同窓生よ、もう30年も前のことなんだから、忘れていて当たり前だからね、気楽に見てね』
    「はい」
    『5人撮ってきたの、順に見てくれる?』
    「はい・・・えっ?これは女バス?」
    『あっ、ご、ごめん! これは赤パンが珍しかったから撮ってきたやつ(笑)』
    「あぁ、この子知ってる!話したことはないんだけど…」
    『知ってる? ねっ、珍しいでしょ! この子だけ赤パンって(笑)』
    「ほんとだぁ。よく気が付きましたね」
    『うん、で、ごめんごめん…5人はここから・・・どう?』
    「あっ、これは関達哉(せきたつや)君です。みんな関君って呼んでいました。“たっちゃん”とは呼ばれてはいませんでした。 二人目は・・・近藤隆(こんどうたかし)君です。近藤君とか、って呼ばれていたと思います。これは、えっと・・・この人とは話したことがないかな、たぶん知らない人です…あっ、これは達川英雄(たつかわひでお)君、スカートめくりが得意だった男子です(笑)。みんな女の子も呼び捨てだったです。たつかわー!って(笑)」
    『え~ 高校生にもなってスカートめくりが得意だった男子って・・・いたんだね、そんな人が(笑)』
    「はい(笑)」
    皐月の答え方は、記憶障害の病に侵されている人のものとは全く思えなかった。
    礼子はそのことを嬉しく思うとともに心の中で「いよいよだわ」と、覚悟を決めて5人目の矢神達洋の写真を見せた。
    『これが最後、5人目よ。・・・どう?』
    「・・・えっと…えっと」
    皐月の目は泳ぎ、明らかに動揺しているようだった。
    それでも平静を装ってこう答えた。
    「分かりません」
    『…えっ?知らない人? よく見て! あっ、どうしてそう言ったかっていうと、私の高校時代に好きだった人にそっくりなの。野球部だったんだけどね・・・だから、皐月さんも係わりがあったらすごいなって思って・・・分からない?』
    皐月の表情は明らかにそれまでの表情から変わっていた。
    礼子が一人だけ特別扱いするのが気に入らなかったかのように、皐月は荒い口調で言った。
    「本当に知らない人です!」と。

  • #777

    六輔 (土曜日, 22 5月 2021 19:18)


    この時礼子は、田川との会話を思い出していた。
    「レイちゃん…」
    『はい』
    「今日は、これから重里さんと何処で話すん?」
    『今日はねっ、スタバで待ち合わせなの』
    「そなんけ。ゆっくりお茶して来らっせない。んでさい、重里さんに写真を見せるのは構わねーんだきっとが、くれぐれも注意して欲しいことがあんせ…」
    『どんなこと?』
    「それまで穏やかに話していたのに、突然怒ったような口調になったりしたときには、決して重里さんを追い込むようなことをしちゃダメだかんない!」
    『怒ったような口調?』
    「ほだ。誰でもあっぺな。街中でばったり行き会った人が、向こうは自分のことを分かっていて、気軽に声をかけてきて、んだきっとが、こっちは見たことはあっけど、思い出せねーってときがせ」
    『うん、ある。とっても困るし、相手に申し訳ないから、こっちも適当に話しを合わせちゃうとき…でも後ですごい罪悪感に襲われる…』
    「ほだっぺ!誰でもそなんせ!で、記憶障害の人は、余計に自分を責めてしまうし、自分の病を憎んでいしまったりすんせ・・・したっくら、それが原因で“ウツ”になっちまったり、重里さんの場合、無理に思い出そうとすることで、その代償として忘れずに覚えていたことを忘れてしまったり…そうならないように、くれぐれも・・・だいじけ?レイちゃん」
    『うん、大丈夫!っていうか、そのことは何度か聞いてるよ!』
    「そだない。ただ、重里さんが俺らの後輩だから、なんとかしてあげたいっていう気持ちが強いために、“つい!”って、ならねーようにせ。レイちゃんならくらねと思うけどせ」
    『そうね、“つい!”って、ならないようにね』

    田川からしっかり注意事項を授かっていた礼子は、強い口調で「本当に知らない人です!」と、言った皐月に優しく声をかけた。
    『そっか、そっか。知らない人だったのね。写真はこれで終わりにするね』
    そう言って、もう矢神達洋のことに触れるのは辞めようと決めてスマホを鞄にしまおうとした時だった。
    「“たっちゃん”なんていう人・・・本当に…」
    と、つぶやきながら皐月は、目を閉じながら気を失ってしまったのである。
    『えっ?さ、皐月さん!…皐月さん!・・・皐月さーーん!』
    礼子の声にスターバックスコーヒーの店内は静まり返った。
    客の誰もが見守る中、礼子は院内で使用するピッチ携帯でSOSを送っていた。
    「田川ドクター、皐月さん…重里さんが!!!」

  • #778

    六輔 (日曜日, 23 5月 2021 19:22)


    田川の指示を受けた二人のナースが、ストレッチャーを押して店内に入ってきた。
    『ここです!』
    礼子の声に気づいたナース達は、進行方向を変え、皐月が横になっているベンチシートの横にストレッチャーを停めた。
    「どうですか?」
    『まだ、意識が戻らないの…』
    「田川ドクターが直ぐに処置室に運ぶようにと…」
    『はい、私も一緒に行きます!』
    三人で皐月をストレッチャーに乗せ、処置室へと向かった。
    処置室に着くと、そこには田川の他にもう一人のドクターが待っていた。
    『田川ドクター』
    「笹中君・・・」
    『すみません…わたし・・・』
    「君が責任を感じる必要はない。とにかく、直ぐに検査を始めてもらおう」
    『…はい』
    別の担当ナースが現れ、皐月は処置室へと運ばれていった。
    『田川ドクター』
    「ここからは、脳神経内科医に任せてある」
    『先ほどのドクターは?』
    「あぁ、まだ研修医なんだけど・・・いま、手が空いているのは彼しかいなくてね…」
    『・・・そうですか』
    「本来であれば、僕が一番信頼している渡辺ドクターに診てもらえたら良かったんだけど…」
    『渡辺ドクターは、不在なんですか?』
    「あぁ、今日は研修日なんだそうだ」
    『えっ?研修日?』
    「ここにいてもなんだ。戻ってどんな様子だったのか、聞かせてもらうよ」
    そう言って田川と礼子の二人は、田川の部屋に戻っていった。

  • #779

    六輔 (火曜日, 25 5月 2021 02:19)


    部屋に戻ってくると、田川は責任を感じている様子の礼子を宥めた。
    「大丈夫だよ、レイちゃん」
    『ごめんなさい、わたし・・・』
    「さっきも言ったべ…レイちゃんのせいじゃねーかんない!って」
    『でも・・・』
    「うん?それともなにかい? おらとの約束破って、無理に思い出させようとでもしたんけ?・・・してなかっぺ?」
    『・・・うん』
    「だべ。きっと、脳に相当の負担がかかって、一時的に脳がパニックをおこしちまった・・・そんな感じだろうから」
    『・・・はい』
    「しかしなぁ、よりによって渡辺ドクターが研修日とはなぁ…」
    『研修日って、ドクターが何処かに行ってお勉強でもしているの?』
    「そうじゃねんせ。研修日っていうのは、ようは、『外勤』している日ってことなんせ」
    『外勤?』
    「ほだ。聞いたことあっぺ?町の小さな個人病院では、何曜日は〇〇大学病院の先生が来てくれる日だ!ってなことで、大学病院の先生に診てもらえるからって、その個人院に行く人」
    『うん、私の実家の方ではそれが当たり前のように…』
    「そだない。ところで、どうして大学病院の先生が個人の開業医のところに行って診察を手伝うか分かっけ?」
    『えっ?大学病院の医療を広く患者さんに提供するため?じゃないの?』
    「ちがーんせ! 大学病院に勤務する医者のアルバイトだよ」
    『えっ?』
    「大学病院の給料はすげー安いんせ! そりゃぁ、びっくらするぐらい安いんだよ。で、大学病院はドクターに対して週一回の『研究日』を用意してくれるんよ。ようは、外に行っていろいろ学んで来なさい!ってね。ドクターは、『研究日』を利用して開業医に手伝いに行く。そこでその報酬、1日8万から10万円程度を受け取るっていう仕組みなんせ。もちろん、報酬は大学病院の医局をスルーしてドクターに直接支払われる・・・ただなぁ…医療ミスで多額の賠償を医師個人が要求されるケースも増えてっから、外勤中の事故に備えて賠償責任保険に入ったりすっと、大して残んねんせ。それでも多くのドクターは、東京医療福祉大学病院で働くことを望む。それは、ここの病院が、間違いなく国内トップレベルの医療が行われているからなんせ。公的な資金を獲得して研究を行いたい人にとっては、大学病院のネームバリューが圧倒的に有利になるかんない。まぁ、でも、患者さんは、東京医療福祉大学病院というネームバリューのあるドクターに診てもらえる訳だからせ・・・互いにウィンウィンの関係になっているってことなんせ」
    『そういう仕組みだったのねぇ』
    「田舎に行けば、当たり前のように何曜日は〇〇大学病院の先生が来る日!って、なってる病院がいっぱいあっかんね」
    『…そういうことだったのねぇ』

  • #780

    六輔 (火曜日, 25 5月 2021 21:58)


    礼子は素朴な質問をした。
    『あれ?清君は外勤には行かないの?』
    「(笑)それ聞くんけ? おらぁ行かねーよ。まぁ、精神科医っていうのもその理由の一つだきっとが、お金に執着してねーっつうか、ドクターはみんなそれぞれに将来の目的をもって働いている人が多いやね。出身地に戻って開業するとか、大学病院で教授になって、地位や名誉を得るとか・・・おいらの場合は、どちらも目標になってねーんせ。カッコつけた言い方に聞こえっちまうかしんねーけど、最先端の医療が行われているこの病院で、生涯、知識と技術を習得し続けていきたい・・・ただそれだけのために、ここで働かせてもらってんだよ。言い方変えれば、欲が無い!ってことかもしんねーけどない(笑)」
    『そんなことないよ。清君はいつも患者さんに一生懸命になって・・・尊敬してるよ・・・清君』
    「そんな、照れっぺよ」
    『ただなぁ・・・』
    「はっ?ただなぁって、なんだや?」
    『清君のその喋り方、なんとかならないの? 小説を読んでいる人から、何喋っているんだか、全く分からないんだけど…って、言われたわよ』
    「はっ?小説?…小説ってなんだや?」
    『いいの、こっちの話し!(笑)』
    と、二人がそんな話しをしているところに、脳外科から連絡が届き、それを新米ナースが伝えにやってきた。
    『失礼します!』
    「はいよ、どしたや?」
    『脳外科から連絡がきました。重里さん、意識が戻ったそうです。それと、脳波検査に異常は見られなかったということでした』
    「そっか・・・分かった、ありがとう」
    その結果を聞かされた礼子は不安そうな顔で尋ねた。
    『ねぇ、清君・・・清君にしか聞けないけど…研修医で大丈夫なの?』
    「(笑)明日、渡辺ドクターに検査結果を確認してもらうから・・・心配しないで、レイちゃん」
    『・・・うん、分かった』
    「さてと、重里さんのところに行っちんべ!」
    『はい、田川ドクター!』

  • #781

    六輔 (水曜日, 26 5月 2021 23:14)


    皐月の入った個室の病室に田川と礼子がやってきた。
    (田川)「はい、どーもねぇ、重里さん」
    (礼子)「皐月さん…どう?落ち着いた?」
    この時の礼子は、急に意識を失ってしまい、自分に心配をかけてしまったことを真っ先に言ってくる皐月を想像していた。
    だが皐月は、固い表情のまま礼子に視線をやり、トーンの低い声でこう言ったのである。
    (皐月)「あっ、さっき私に変な写真を見せた方ですよね?」
    (礼子)「えっ?・・・」
    (皐月)「おかげで急に頭が痛くなって・・・」
    (礼子)「皐月さん・・・」
    (皐月)「さっきの写真をもう一度見せてもらえますか? 確か、私の高校時代の同級生の写真だったような気がするんですけど・・・間違えていますか?」
    予想外の皐月の言葉に、到底応えることの出来ない礼子だった。
    代わって田川が口を開いた。
    (田川)「重里さん、ちょっと今日は疲れているのかなぁ。今の話しは明日にしましょう。検査はもう少し残っているみたいなので、そのために入院してもらうので・・・うん、そうしよう、今日のところは・・・」
    (皐月)「入院するんですか?どうして急にこんなことになったんですかね? 変な写真を見せられたからじゃないんですか?」
    (田川)「う~ん、そのことも含めて明日検査してもらおう。ねっ、重里さん」
    (皐月)「そうやって、ちゃんとしたことを患者に教えないまま、そちらの都合で入院させられるんですね・・・分かりました、病院の都合に患者が合わせるしかないですもんね!」
    皐月の変りぶりに、礼子は体の震えを抑えることが出来なかった。
    (礼子)「・・・皐月さん」

  • #782

    六輔 (木曜日, 27 5月 2021 21:05)


    自分たちがそばにいることが皐月の負担になっていると感じた田川は、部屋の担当ナースに指示をして早々に部屋を出た。
    礼子を連れ添い、部屋に戻ってきた田川は、珈琲を二つ用意し、まだ体の震えが治まらない礼子を椅子に座らせてそっと珈琲カップを置いた。
    『だいじだよレイちゃん、そんな心配しなくても』
    「でも、私が余計なことをしたから・・・」
    『記憶障害の人にみられる症状だよ。思い出したいと言う強い思いに対して、自分の脳が追いついていかない。そのことへの苛立ちがあって、ちょっと攻撃的な口調になっちったんだんべね。頭の中のどこかでは、レイちゃんに対して感謝している部分があんのに、それをコントロール出来ない…脳に異常とかが起きた訳ではないと思うから・・・』
    「・・・うん」
    『ところで、写真を見たときの重里さんはどんなだったん?』
    「5人の写真を見せたの。4人目までは明るく答えてくれていたんだけど、最後の5人目になった途端、強い口調になって『知らない人です!』って・・・そのあと意識を失ってしまったの」
    『無理に思い出させようとはしてねーんだべ?』
    「・・・・・」
    『したんけ?』
    「実は、最後の5人目に見せた写真の人が本命だったの。で、私が高校時代にずっと好きだった人にそっくりだとか…少し“知らないはずはないでしょ!”って、気持ちを込めた言い方をしちゃったのかもしれない」
    『・・・そっけ』
    「やっぱり私は“鋳掛屋の天秤棒”だったのよ!」
    『鋳掛屋の天秤棒?・・・出しゃばり者だったって言いてーんけ?』
    「・・・そう…私は、出しゃばり者!」
    と、田川はまるで「恋はつづくよどこまでも」の佐藤健であるかのようにしこって言ったのである。
    『礼子君・・・』
    「…えっ?な、なに?清君…いきなり」
    『出しゃばり者のどこが悪いんだい?…自分のことを心配してくれる人がそばにいる。それほど幸せなことは無いだろう?うん?…違うかい?礼子君。君がしたことは決して非難されることではない。仲間を思う気持ちがさせたこと。僕が重里さんの主治医として責任をもって診るから、だから何も心配するな!』
    田川が何故急に佐藤健風に話し出したのか、礼子には直ぐに理解できた。
    その場の空気を呼んで「なにその話し方!」と、笑っておちゃらけるのが一番だと思ったが、田川の優しさに胸が熱くなり、瞼にいっぱいの涙をためて応えることしか出来なかった。
    「・・・ありがとう…清君」と。

  • #783

    六輔 (金曜日, 28 5月 2021 19:49)


    田川と礼子が病室を出て行ったあとも、しばらく表情を強張らせていた皐月だったが、点滴により安定剤を投与されたことで徐々に落ち着きを取り戻し、ナースの勧めに素直に従って眠りにつくことが出来た。
    四時間近く眠れたことで、目が覚めたときにはパニック状態からは回復していた。
    だが、目を開けて飛び込んできた景色が見慣れないものであったことに声を震わせた。
    「えっ?ここはどこなの?」
    眠りにつく前には田川と礼子と話していたことも、ナースがそばにいてくれたことも記憶から消えていて、ここが何処で、どうして知らない部屋で寝ているのかも理解することが出来なかった。
    一瞬で不安のどん底に落ちた皐月は、ベッドの上で起き上がろうと上体に力を込めた。
    と、こめかみに鋭利な刃物を刺されたような痛みを感じ、起き上がることを慌ててやめた。
    「痛っ!」
    皐月はベッドに横たわったまま痛みが治まるのを待ち、恐る恐る目を開け、部屋の薄明かりの中に備え付けられた医療器具を見つけ、同時に部屋の匂いで自分が病院のベッドに寝ていることを理解した。
    「病院?・・・えっ?わたし入院したの?」
    自分が病院のベッドに寝ていることを理解すると、さらに不安な気持ちに襲われた。
    「どうして?」
    体が震えだした皐月は、恐怖から逃れるように布団の中にもぐり込んで強く目を閉じた。
    暗闇の中、自分の呼吸音だけを感じとると、そこが深い海の底であるかのような感覚に囚われ、頭の痛みはさらに増していった。
    「誰か助けて…」

  • #784

    六輔 (土曜日, 29 5月 2021 18:55)


    体の震えを抑えようと、両腕を自分の肩に回してさらに布団の奥へと潜り込んでみたが、それでも震えが収まることは無かった。
    布団の中で感じた恐怖心は、これまで一度も感じたことがないもので、想像を絶するものだった。
    「どうして?」
    それがいくつも現れては直ぐに消えた。
    「どうして病院にいるの?」
    「交通事故にでもあったの?…頭以外で痛いところはないから…違う?」
    「どこかで倒れて、救急車で運ばれてきたの?」
    次から次へと現れる疑問符は、答えが見つからないなかではただ消し去る他なかった。
    それからどれくらいの時間が経っていたであろうか。
    少しだけ体の震えが収まってきたことに皐月は、他のことを思い出そうと試みた。
    「私はどこに住んでいるの?」
    「私の仕事って?」
    「ねぇ・・・ところで、私の名前は?」
    皐月は、何も答えが見つからない自分を笑うしかなかった。
    「・・・これって、記憶喪失っていうんじゃないの?」と。

  • #785

    六輔 (日曜日, 30 5月 2021 23:08)


    何も考えることが出来ない皐月がそこにいた。
    自分が誰なのか分からないことの恐怖が、どれほどのものであるのかは、それを経験したことの有る者でなければ理解できないであろう。
    ずっと暗闇の中で、何も考えられないまま時間だけが過ぎて行った。
    どれくらいの時間が経っていたのかも分からないまま、ずっと布団にくるまっていたことで息苦しさを感じた皐月は、布団の中からゆっくりと顔を出した。
    「今って何時なんだろう…」
    と、部屋の中に時計を探してみたが、そこは病室だ、時計が設置されているはずはなかった。
    入院をした経験のなかった皐月は、病室には時計が設置されていないことを知らなかったのである。
    そもそも病室は安静や休息をとる場所で、検温や採決、リハビリテーションなどの時間は、看護師が時間になれば知らせてくれる。
    時間という概念は、各人に共通して降りかかるものだが、それは健常な人と病人ではその重みや価値が異なる。
    過ぎ行く時間を楽しみにする人ばかりであれば良いが、焦りや後悔などのネガティブな感情を引き起こしてしまう人もいる。
    それを防ぐために、病室には時計が設置されていないのである。
    時計が無いことを悟った皐月は、誰かに助けを求めようと枕元に設置されたナースの呼出ボタンを手に取った。
    と、迷いが生じた。
    「どんな看護婦さんが来るんだろう…」
    そう考えると、今は誰にも会いたくないという感情が勝った。
    ふと窓に視線をやると、カーテンの隙間が薄っすらと明るくなりかけていることが分かった。
    まだ、朝の早い時間であることを悟った皐月は、ナースを呼ぶことをやめ呼出ボタンを元の位置に戻した。
    「そのうち、誰か来るわよね」
    と、皐月はそう呟いて、現実逃避をするかのように深く目を閉じた。

  • #786

    六輔 (月曜日, 31 5月 2021 20:19)


    目を閉じた皐月は、知らぬ間に意識を失っていた。
    意識を失った理由が恐怖心に対抗する自己防衛策によるものだったのか、あるいは、再び眠りについただけだったのか分からないまま「無」の時間が過ぎて行った。
    医学的に言えば、皐月の脳は、身体は休息状態にありながらも脳は活動して覚醒状態にあるという“レム睡眠”状態だった言うのが一番に適した言葉であったのであろう。
    いずれにせよ、皐月は意識の無い中である夢のようなものを見ていたのであった。
    無意識状態の皐月の頭の中に一点の光がさし、それが徐々に明るさを増していくと同時に自分の名を呼ぶ声が聞こえて来たのである。
    その声は、ボリュームのつまみがゆっくりと回されているかのように徐々に大きくなっていったのだった。
    『皐月ちゃん・・・皐月ちゃん…』
    その声を聴いた皐月は、寝言のように目を閉じたまま応えていた。
    「だれ?誰なの?」

  • #787

    六輔 (水曜日, 02 6月 2021 20:19)


    自分の名を呼ぶ声が聞こえてきたことに、皐月は暗闇の中に人影を探していた。
    実際には布団の中にすっぽりと潜り込んでいたのだが、皐月の意識の中では、ベッドの上で起き上がり、辺りを見回して人影を探していたのである。
    「だれ!誰なの?」
    反応がないことに皐月は想いをめぐらせて、その声の主が誰であるのか記憶を辿ってみたが、思い当たる人物は浮かんではこなかった。
    すると今度は、前日にあった出来事が、鮮明に思い出されてきたのである。
    それは強い心的外傷を受けたときに、後になってその記憶が突然、かつ、非常に鮮明に思い出される“フラッシュバック”、ようは前日に礼子から受けた心的外傷後ストレス障害、PTSDの症状だった。
    フラッシュバックされた映像の中、礼子はこう言っていた。
    『知らない人? よく見て! あっ、どうしてそう言ったかっていうと、私の高校時代に好きだった人にそっくりなの。野球部だったんだけどね・・・だから、皐月さんも係わりがあったらすごいなって思って・・・分からない?』

    暗闇の中、皐月はこう言った。
    「あなたは、私に向かってサツキさんと呼んでいたわよね。それって、私の名前なの?ところであなたは誰?私とどんな関係のある人なの?」
    と、今度は礼子に写真を見せられたときのことが、鮮明に思い出されてきた。
    「坊主頭の高校生・・・誰なの?私の知らない人だよ。それとも忘れてしまった人なの?・・・そっか、思い出したわ。その写真を見せられて私は気を失ってしまったのよね。そして目が覚めたら、病院のベッドに・・・あっ!」
    と、今度は田川とその隣に立つ礼子の顔が思い出されてきた。
    「あなたは看護師さんなの?白衣を来た先生の隣に立っていたわよね?・・・いずれにしても、あなたに写真を見せられたことで、私は気を失い、そして記憶を失った・・・あなたのお節介って、私が望んだことなの?・・・違うわよね。こうなったのは、そう・・・あなたのせいよ!」と。
    皐月の脳の中では、礼子の映像を叩き壊すかのように両手で振り払っていたのだった。
    「私の頭の中から今すぐ出て行って!」と。

  • #788

    六輔 (木曜日, 03 6月 2021 19:29)


    と、自分の名を呼ぶさっきの声が再び聞こえて来たのである。
    『皐月ちゃん・・・皐月ちゃん…』
    皐月は、再び叫んでいた。
    「誰?誰なの?…ねぇ、応えて!」
    すると、その返事を待つ間の静寂のなか、まるで映画の回想シーンが写し出されるかのように、皐月の脳の中にスクリーンが立ち上がり、礼子から見せられた写真が再び浮かび上がってきて、その男の高校時代の記憶が鮮明に浮かび上がってきたのである。
    授業中、坊主頭をピクリとも動かさずに居眠りをしていた達洋。
    昼休みには多くの仲間たちと楽しそうに話していた達洋。
    5時限目の授業が終わり、掃除をサボって部活に走っていった達洋。
    校舎の屋上で待ち合わせをして、二人で話したときのこと。
    そして二人は大人になり、3年ぶりに東京で再会して居酒屋に行ったときのこと。
    皐月は、声を発していた。
    「たっちゃん?・・・たっちゃんなの?」と。

  • #789

    六輔 (金曜日, 04 6月 2021 19:18)


    誰からも返事が無いことに、皐月は人影を探し続けた。
    「ねぇ、たっちゃん…たっちゃんなんでしょ?」
    すると、皐月の脳の中のスクリーンに、二人で居酒屋に行ったときの映像が映し出されてきたのである。
    実は、これまで語られていなかったが、皐月は居酒屋で達洋からこんな話しを聞かされていたのであった。

    『ねぇ、皐月ちゃん…』
    「うん?」
    『俺、唯一無二の親友を交通事故で亡くしていてさ…』
    「えっ?…お友達を?」
    『うん。俺、今でもそいつのことを思い出すと辛くてさ…』
    「それだけたっちゃんにとって大切なお友達だったっていうことなのね」
    『そうだね。皐月ちゃんにとっての美代子ちゃんのような存在』
    「そんな言い方されちゃったら困るよ。だって、美代子がいなくなってしまうことなんて絶対に考えられないもん!」
    『ごめん、ごめん。例えが悪かったね。あいつが亡くなってから一日たりともあいつのことを考えない日はないんだ。あいつに会いたくてさ・・・あまりにも辛くなると、つい考えてしまうんだよ。あいつのことを忘れられたら、どれだけ楽だろう…って』
    「そんなぁ・・・大切なお友達のことを忘れてしまうなんて・・・」
    『もちろん、思うだけで、忘れることなど絶対にないよ。だって、俺があいつのことをずっと忘れずにいてやらなかったら・・・』
    そう言って目頭を押さえて達洋は尋ねた。
    『ねぇ、皐月ちゃん…』
    「うん?」
    『皐月ちゃんは、エリック・クラプトンっていうミュージシャンを知ってる?』
    「エリック・クラプトン?・・・知らない」
    『俺、あいつのことを考えて辛くなると、クラプトンのある曲を聴くんだ。そして、何度も何度も心に誓うんだよ・・・俺は絶対にお前を忘れない!ってね』
    「・・・なんていう曲なの?…たっちゃん」

  • #790

    六輔 (日曜日, 06 6月 2021 17:52)


    『Tears in Heavenっていう曲だよ』
    「ティアーズ・イン・ヘヴン?」
    『うん。クラプトンは、4歳の息子を事故で亡くしたんだ。自宅の階段を駆け上がっていたところ、たまたま開いていた踊り場の窓から息子は転落して亡くなった。その自宅は53階だったそうだよ』
    「・・・えっ?…そんなぁ」
    『あまりにも悲劇的な事態にすごいショックを受けたクラプトンは、自宅に引きこもってしまったんだ。クラプトンが酒とドラッグに溺れてしまうのではないかと、世界中のファンは心配したんだ。でもクラプトンは、1年後に息子にあてたこの曲を作ることで悲しみを乗り越えたんだよ』
    (ぜひ、和訳を読みながら曲を聴いてもらいたい)

    【Tears in Heaven】

    Would you know my name if I saw you in heaven?
    Would it be the same if I saw you in heaven?
    I must be strong and carry on
    'cause I know I don't belong here in heaven
    もし父さんと天国で会えたなら、ちゃんと名前を呼んでくれるだろうか?
    もしも君と天国で会えたなら、何も変わらない昔のままの君なんだろうか?
    その為にちゃんと強く生きなきゃいけないね
    だってまだ僕は天国には全然ふさわしい人間じゃないから

    Would you hold my hand if I saw you in heaven?
    Would you help me stand if I saw you in heaven?
    I'll find my way through night and day
    'cause I know I just can't stay here in heaven
    もし父さんと天国で会えたなら、手を握ってくれるだろうか?
    もしも君と天国で会えたなら、僕が立ち上がる助けをしてくれるだろうか?
    その為なら自分なりに人生を生きてみるつもりだよ
    まだ僕はこれからしばらくこの世界で生きていかなきゃならないようだから

    Time can bring ya down
    Time can bend your knees
    Time can break your heart
    Have ya beggin' please beggin' please
    Beyond the door there's peace, I'm sure
    And I know there'll be no more tears in heaven
    時に打ちのめされることも、ひざまずいてしまうこともあるだろう
    心さえも折れてしまうことだって、助けを乞うてしまうかも知れない、お願いだからと
    この目の前の扉を開ければ僕の願う幸せが待っているんだって
    分かってるんだ、天国にはこれ以上の悲しみはないんだってことも

    Would you know my name if I saw you in heaven?
    Would it be the same if I saw you in heaven?
    I must be strong and carry on
    'cause I know I don't belong here in heaven
    'cause I know I don't belong here in heaven
    もし父さんと天国で会えたなら、ちゃんと名前を呼んでくれるだろうか?
    もしも君と天国で会えたなら、何も変わらない昔のままの君なんだろうか?
    その為にちゃんと強く生きなきゃいけないね
    だってまだ僕は天国には全然ふさわしい人間じゃないから
    まだ君に天国で会う為に僕は頑張って生きていかなきゃならないから

  • #791

    六輔 (月曜日, 07 6月 2021 20:34)


    皐月は、脳神経内科の診察室にいた。
    『初めまして、脳神経内科医の渡辺といいます。ご気分はどうですか?重里さん』
    「・・・はい・・・なんか、よく分からないです」
    『何も覚えていないということですか?』
    「・・・それも分かりません」
    『重里さんは、昨日、うちの病院の田川ドクターの診察を受けたあと、笹中という保健師とお茶をしながら話しをしているときに、突然倒れたんですよ』
    「・・・そのことは少し記憶にあります。保健師さんに写真を見せられて・・・」
    『そ、そうだね。写真を見たことが原因という訳ではないと思うんだけど…』
    と、渡辺ドクターの聞き取りを遮るかのように、皐月はこう切り出した。
    「先生・・・」
    『はい、どうしました?重里さん』
    「よく分からないんですけど、わたし、昨夜、夢をみたのかもしれないんです」
    『夢?どんな夢でしたか?』
    「う~ん、きっと高校時代の同級生だと思うんですけど・・・それで、先生…」
    『はい』
    「先生の診察を受ける前にやりたいことがあるんですけど…」
    『やりたいこと?どんなことですか?遠慮なさらずに言ってください』
    「聴きたい曲があるんです。夢の中で友達が、私に聴くようにと言っていたような気がするんです」
    『聴きたい曲?誰の曲ですか?』
    「エリック…エリック・・・」
    『クラプトンですか?』
    「そ、そうです!その人です」
    『もしかして、聴きたい曲とは・・・Tears in Heavenという曲ではないですか?』
    「そうです!友達がそう言っていました」
    『重里さんは、大切な誰かを亡くしているんじゃないですか?』
    「えっ?・・・それが分からないんです。それを思い出せたら・・・そんな気がするんです」
    『…分かりました』

  • #792

    六輔 (火曜日, 08 6月 2021 21:42)


    病室に戻ってくると、ナースは窓際に置かれた椅子に皐月を座らせ、優しそうな顔でこう言った。
    『重里さん…』
    「はい」
    『昨日は、笹中と一緒だったんですね』
    「・・・そうみたいです」
    『笹中と私は同期でしてね。笹中が言っていました。早く重里さんに謝りたいって』
    「えっ?」
    『自分が出しゃばったことをしてしまったために…って』
    「・・・・・」
    『何か、きっかけをみつけてあげたかったんでしょうね…笹中は。ほんとお節介おばさんよね!(笑)・・・あっ、いま先生から頼まれたもの持ってきますね』
    そう言って部屋を出て行ったナースは、数分後にパソコンとスマートフォンを持って戻ってきた。
    『お待たせしました。YouTubeで見つかったから、それでいいかしらね?それと、歌詞・・・ドクターが是非見せてあげなさいって』
    そう言ってパソコンとスマートフォンを皐月に渡して部屋を出て行こうとすると、皐月がそれを止めた。
    「あっ、・・・あの、一緒にいてもらってもいいですか?」
    ナースは優しく微笑んでうなずいた。
    ナースはパソコンに歌詞を表示して皐月に手渡し、そしてスマートフォンでTears in Heavenを再生した。

    Would you know my name if I saw you in heaven?
    Would it be the same if I saw you in heaven?

    歌詞を直ぐに理解した皐月の目には涙が溢れていた。
    1番が終わり間奏に入ったときだった。
    皐月の頭の中に、薄っすらとウエディングドレスが思い浮かばれてきたのである。
    「えっ?」
    皐月は目を閉じて、その真っ白なウエディングドレスを誰が来ているのかと記憶を辿った。
    すると、ぼんやりと棺が見えてきた。
    「えっ?」
    さらに目を強く閉じ、意識を集中すると、棺の中で眠る美代子の顔がはっきりと思い出されてきたのである。
    「えっ?・・・み、美代子?…」
    皐月は、泣き崩れ嗚咽をあげた。
    「美代子ぉーーー」

  • #793

    六輔 (水曜日, 09 6月 2021 19:20)


    そばにいたナースは、嗚咽をあげ泣き崩れる皐月の背中を優しくさすりながらこう言った。
    『お友達のことを思い出したの?…重里さん』
    皐月は、ゆっくりとうなずいた。
    「はい」
    そして、皐月は肩で大きく呼吸をしながらこう言った。
    「あのぉ…、れ、礼子さんに会わせてください!」
    『礼子さん? 笹中保健師ね』
    ナースは優しい表情でうなずいた。
    『直ぐに来るように連絡しますね』

    実は、そのナースは渡辺ドクターから先にこう言われていたのであった。
    「これからCDを買ってくる訳にはいかないだろうから、YouTubeで探して、それを聴かせてあげてください。あっ、それとその曲はとても意味の深い曲なので、別のパソコンで歌詞を探して、それを重里さんに見せてあげてください」
    『はい、分かりました』
    「しかしなぁ、エリック・クラプトンのTears in Heavenが出てくるとは・・・その曲を聴くようにと夢で語った同級生・・・きっとその人も大切な誰かを亡くして、失意のなか生きている人なのだろうね」
    『私はその曲は分かりませんけど…そういう曲なのですね?』
    「あぁ。クラプトンが事故で亡くなった息子のことを思って作られた曲なんだよ。クラプトンは私の尊敬するギタリストでね。こう見えて私も若いころにはギターを弾いていたんだよ」
    『へぇ、ドクターにそんな趣味があったなんて、ちょっと意外です』
    「そうかね?(笑)」
    『重里さんが曲を聴き終えたらどうしますか?』
    「う~ん・・・もし、重里さんが曲を聴いて泣き崩れるようなことにでもなったら、その時はこう確認してください。「友達のことを思い出したのか?」と。そうだと答えたら、おそらく重里さんは笹中保健師に会わせて欲しいと言うはずです。そしたら、直ぐに笹中さんに連絡をして会わせてやってください。何も心配しないでも大丈夫です、これは田川ドクターから頼まれたことですから」と。

  • #794

    六輔 (木曜日, 10 6月 2021 23:17)


    田川は、礼子の前では“なまり言葉”を全開でしゃべるような、一見、だらしないようにも思える男だが、本来の姿は、ち密な情報収集と洞察力で患者を苦しめているものが何なのか、患者に寄り添ってあらゆる角度から考えるドクターなのだ。
    皐月の診察においても、皐月本人、皐月の母親、藤原、そして礼子から様々な情報を聞き取りし、皐月が何故一部分だけでの記憶喪失になってしまったのかを考えていた。
    そして、皐月の特殊な症状から、記憶を封じ込めてしまっているその原因に対してある仮設をたてていたのであった。

    田川は、情報を整理した。
    皐月が美代子という唯一無二の親友を失くしていること。
    毎月、美代子の月命日には美代子の夫、藤原の営む喫茶店に顔をだして、美代子を偲び続けてきたこと。
    フラワーコーディネーターとして、多くのクライアントから信頼を得ていること。
    母親から「実家の前の空き地に小さな店を出すこと」を父親が望んでいることを聞かされ、悩んでいたこと。
    そして、事故のショックで皐月の記憶から消えて無くなってしまったのが、一番に思ってきた親友の美代子のこと、その夫の藤原のことを“たっちゃん”と記憶が変わってしまったこと。
    皐月が仕事上で一番に大切にしてきた多くのクライアントのことと、父親に対する全ての記憶。
    その全ての情報から仮説をたて、それを渡辺ドクターと礼子にも伝えていたのであった。

  • #795

    六輔 (金曜日, 11 6月 2021 22:42)


    走ってはいけない病院の廊下を急ぎ足で駆けてきた礼子が、呼吸を荒くしたまま皐月のいる病室に入ってきた。
    『皐月さん!』
    「・・・礼子さん」
    皐月は立ち上がり、泣き崩れるように礼子の胸に飛び込んだ。
    『皐月さん・・・』
    「礼子さん」
    『思い出せたのね?…大切なお友達のことを』
    礼子の胸の中で皐月はうなずいた。
    「心配かけてごめんなさい、礼子さん・・・わたし、、、」
    声に詰まって言葉の出てこない皐月に礼子は優しく言った。
    『何も言わなくていいのよ、皐月さん。記憶が戻ってくれて本当に良かった』
    そう言って皐月を強く抱き寄せた礼子の頬を一筋の涙が伝った。

    皐月がようやく落ち着いたところで、二人は椅子に座って向かい合った。
    皐月から夢の話しを聞いた礼子は、田川から指示を受けていた通りに話しを始めたのだった。
    『昨日、皐月さんの様子を見た田川ドクターは、こんなこと言っていたのよ。何かのきっかけさえあれば、皐月さんは記憶を全部取り戻せるはずだ!ってね』
    「そうなんですか?なんか、わたし、礼子さんと先生にも酷いことを言ってしまったような…ごめんなさい」
    『だから、そのことはもういいのよ、皐月さん』
    「・・・はい」
    『その何かのきっかけとなってくれたのが、たっちゃんというお友達の存在だったのね』
    「はい」
    『彼氏なの?』
    「えっ?」
    『いやっ、田川ドクターは皐月さんが何故記憶を失くしてしまったのか、その理由は分かっていたようなの。ただしね、たっちゃんという人がどういう人なのか・・・それだけはどうしても想像がつかなかったみたいなの』
    「彼氏では・・・ないです。ただの同級生」
    『そうなの?ただの同級生じゃないでしょ?だって、皐月さんのことを救ってくれた人なんですもの』
    皐月は、柔らかい表情でうなずいた。
    「…はい」

  • #796

    六輔 (日曜日, 13 6月 2021 19:26)


    礼子は話しを続けた。
    『皐月さんが、どうして記憶を失くしてしまったのか・・・私から話すように田川ドクターに言われているんだけど・・・私から話すのでいい?』
    「はい、お願いします」
    『気に障ることもあるかもしれないけど・・・田川ドクターの言ったことをそのまま話すね』
    「はい」
    『田川ドクターの診立てでは、記憶を失ってしまったその全ての原因は、親友、美代子さんへの思いからだろうって』
    「えっ?・・・美代子への思い?…ですか?」
    『そうよ。事故で記憶喪失になってしまう人は沢山いるけど、皐月さんの場合、記憶を失ってしまったところが限定されていたでしょ? 田川ドクターはそのことと、皐月さんのお母さんから聞いた話とを合わせて仮説をたてたの』
    「仮説?」
    『そう。皐月さんと美代子さんがどれほどの仲であったのか、美代子さんが亡くなって皐月さんが心にどれほどの傷を負ったのか・・・親友が亡くなって12年が経った今でも、その傷が癒えることは無かっただろうって』
    「・・・はい。正直、美代子のことを思い出す度、一人で泣いていました・・・会いたくて、会いたくて…」
    『辛かったのよね。そんな折、皐月さんは悩みを抱えていた。実家に戻って花屋を始めるべきか…と。高齢になったご両親のことが、特に父親のことが心配だったんでしょ?』
    「・・・はい」
    『でも、実家に戻ってしまえば、美代子さんの月命日にご主人のところに行って、美代子さんの話しが出来なくなってしまう。それは美代子さんに対する裏切りになってしまうのではないか。それと、フラワーコーディネーターとしてこれまで頑張ってきたことが全て無くなってしまうのではないだろうかという思いもあったかもしれないって、だからクライアントさんの記憶が全て抜け落ちちゃったんだろうって。皐月さんは、ずっと思い悩んでいたのよね?』
    「はい・・・正直、本当にどうしていいのか決められませんでした」
    『そんなときに事故にあった心理的外傷で・・・皐月さんは殻に閉じこもってしまったの。親友を失った悲しみと悩みから逃れようとして』
    「えっ?逃れようとして?わたし、美代子のことを忘れたいなんて一度も思ったことないです!」
    『そうね、その言葉に嘘は無いわよね。でもね、皐月さん・・・心の奥深くのところでは辛くて、忘れられるものなら忘れてしまった方がいいという皐月さんもいたの。それはね、それだけ美代子さんを大切に思っていたからなの。田川ドクターは言っていたわ。それだけ友達に大切に思ってもらえる美代子さんは幸せだって』
    「わたしが・・・美代子を・・・」

  • #797

    六輔 (月曜日, 14 6月 2021 21:19)


    溢れる涙を拭おうともしない皐月に、礼子は優しく語り掛けた。
    『人間は弱い生きものなの。誰でもそう。強い人間なんて一人もいないの。皐月さんは知らず知らずのうちに、思い悩む辛い毎日から逃れたいという気持ちを抱いてしまっていたの。でも、それはそれだけ美代子さんを大切に思っていたからなの。それだけご両親のことを大切に思っていたからなの。それだけ、自分の仕事に誇りを持っていたからなの・・・ねっ、皐月さん』
    礼子の優しさに、皐月は唇を震わせながらうなずいた。
    『たっちゃんという人物に対して皐月さんがどういう思いを抱いていたのか・・・そのことだけは田川ドクターにも分からなかったそうよ。でも、間違いなく皐月さんが頼りにしてきた人だろうって』

    礼子のその言葉に、皐月は達洋とのことを全部話したのだった。
    『そう、そんなことがあったのね』
    「とっても不器用な人なの」
    『そんなたっちゃんが夢に現れて?・・・それって本当に夢だったのかなぁ…』
    「えっ?」
    『もしかしたらテレパシーで皐月さんにメッセージを送ってくれたのかもしれないわね』
    「ほんと、そう思いたいぐらいです。だって、たっちゃんが教えてくれた曲を聴いたことで、大切な親友を忘れずに…思い出すことができたんですもの。まるで、こうなることを知っていたかのような・・・」
    『たっちゃんのこと・・・今でも好きなの?』
    「えっ?…今でも?」
    皐月はしばらく考えてこう答えた。
    「良く分かんないです。でも、これだけは言えます。ずっと仲間でいてほしい人です。だって・・・だって二度も私のことを救ってくれたんですもの」
    『そうね』と、優しい表情で応えたこの時の礼子には、ある思いが芽生え、そして心の中でこうつぶやいていた。
    『そんな人が、毒をまいて多くの人を殺めるはずはないわよね』と。

  • #798

    六輔 (火曜日, 15 6月 2021 22:05)


    礼子は皐月に確かめた。
    『ねぇ、皐月さん…』
    「はい」
    『どう?記憶を全部取り戻せたと思う?』
    「はい…美代子とのことは全部思い出せたと思います。美代子の死を今でも受け入れることが出来ない自分もいるんだって、今回のことで分かりました」
    『大切なお友達の早すぎる死を、簡単に受け入れられる人ばかりではないわよね』
    「わたし・・・同じ女性として、美代子の体の異変に気付いてあげることができなかったこと・・・今でも自分を責めています」
    『…えっ?』
    「自分を責めて、美代子が戻ってくるわけではないことは分かっていますけど・・・それでも…」
    『皐月さん・・・そんな思いでいたのね…そっかぁ・・・』
    礼子は、改めて皐月が記憶障害になった真髄のところに触れた気がした。
    『美代子さんのことを忘れたかったってことじゃなかったのね。皐月さんは自分を責めて・・・』
    そう、心のなかで想った礼子は、皐月を優しく見ながらこう言った。
    『ねぇ、皐月さん・・・友達思いの皐月さんのことを美代子さんは天国でどんなふうに思ってみているんでしょうね?』
    「・・・えっ?」
    『自分を責め続けている皐月さんを、美代子さんは天国で辛い思いで見ているじゃないのかなぁ? 皐月さんと美代子さんは、今でも大切なお友達なんでしょ?』
    「・・・礼子さん」
    『たっちゃんに教えてもらったんでしょ? クラプトンの曲…美代子さんといつか天国で会えたとき、ちゃんと名前を呼んでもらうために、強く生きなきゃいけないよ!って』
    皐月の頬を綺麗な一筋の涙が伝った。

  • #799

    六輔 (水曜日, 16 6月 2021 18:44)


    礼子の気持ちを受け止めることが出来た皐月は、あえて明るく話題を変えた。
    「わたし・・・美代子の旦那さんのことも、しっかり思い出すことが出来ました」
    『喫茶店のマスターのことね?』
    「はい。藤原涼輔君、若いころは敏腕記者で今は「あんくる」のマスター。美代子の月命日には毎月必ず藤原君のところに行って、美代子の話しをしていたんです」
    『うん、そのことはマスターから聞いたわよ。マスター、言っていたわ…それだけ思ってもらえる美代子は幸せ者だって』
    「はい。だって、私が美代子のことを覚えていてあげなかったら・・・そうですよね、礼子さん」
    『うん、そうね』
    「でも、病にかかっていたときに、どうして藤原君のことを“たっちゃん”と呼んじゃったのかなぁ…やっぱりそのことだけはどうしても分からないです」
    『さっき話したように、田川ドクターにもそのことだけは、分からなかったそうよ』
    と、この時の礼子は、達洋がどこにいるのかという話題になることを避けたかったがために話題を変えた。
    『ねぇ、皐月さん・・・お父様のことはどう?』
    「父ですか?記憶を失くしていたことが嘘のように、全部思い出せました。ゴルフ好きの優しい父親です」
    『お父様のことも思い出すことが出来たのね。よかったわね、皐月さん。あとは・・・お仕事で関わっていた方のことはどう?』
    「沢山のクライアント様のこと、思い出しました。お顔を拝見すれば直ぐに名前を言えると思います」
    『そう、それは良かったぁ。ということは・・・事故にあう前に戻ったって言ってよさそうね』
    「はい」
    嬉しそうに微笑む皐月を見て礼子は思った。
    『この笑顔が皐月さんの本当の笑顔なのね。あんくるのマスターの話しも昔は敏腕記者であったことなども間違いないし、記憶は全部戻ったと思ってよさそうね。でも・・・だからと言って、皐月さんの悩みが全部解決したわけではないのよね。仕事もフラワーコーディネーターとして復活するのか、それとも実家のご両親のことを考えるべきなのか・・・』
    そんなことを考えたうえで、礼子はこう言った。
    『ねぇ、皐月さん…これからお仕事をどうするかとか、ご実家のご両親のこともあるだろうし・・・これからも皐月さんの相談になってあげたいなって思っているんだけど…お節介おばさんは必要ないかな?』
    「えっ?礼子さん、私のこれからのことを一緒に考えてくれるんですか?嬉しいです。ぜひお願いしたいです」
    『ほんと?邪魔になったらいつでも言ってね。わたし、時々、お節介が過ぎちゃうっていう悪い癖があるから(笑)』
    「分かりました、その時は遠慮なく切らせてもらいます!なんてね(笑)」
    二人は、見つめあって笑った。

  • #800

    六輔 (木曜日, 17 6月 2021 19:11)


    この時の礼子には、心配なことがあった。
    それは、あと数日で19日、美代子の月命日がやってくることだ。
    『皐月さんは、19日にはマスターのところに会いに行くわよね。もし、その時までにマスターが自宅に戻っていなかったら・・・』
    倭里町から戻ってきた際に藤原が言った「携帯を替えて直ぐにメールを送るから」という約束はこの時にはまだ守られていなかった。
    万が一のことを考え、決して連絡してこないようにと言われていたために、礼子が藤原の無事を確認する手立ても無かったのだった。
    『…大丈夫よね』
    と、根拠のないまま自分を納得させるしかなかった。
    礼子がそんなことを考えていると、それまで嬉しそうに話していた皐月が、急に表情を曇らせ、言いづらそうに口を開いた。
    「ねぇ、礼子さん・・・」
    『う、うん?なに?皐月さん』
    「わたし、早く退院したいです」
    『そ、そうよね。精密検査などは必要ないんだと思うけど…ドクターに確認するね』
    「・・・はい。できたら、今日直ぐにでも退院したいんです。何故かというと・・・わたし、嘘をついていたんです。ウサギの徳三郎のこと」
    『え?・・・うそ?』
    「実は、動物愛護センターに預けてしまったんです。さっき、そのことも思い出して・・・早く迎えに行ってあげないと…」
    『あれは嘘だったのね!もぉ~困ったご主人様ですね!分かりました、ドクターに私からしっかり伝えますから!』
    「ごめんなさい」
    『大丈夫よ、皐月さん。今度、一緒に食事にでもいきましょうよ!美味しいお店、紹介するわ』
    「ほんとですか?はい! 楽しみにしています」

    皐月は、その日のうちに退院し、そのまま動物愛護センターに向かったのだった。

  • #801

    六輔 (金曜日, 18 6月 2021 19:28)


    カーテンを開け、窓を全開にすると、爽やかな風が部屋に入ってきた。
    皐月は、部屋の端に追いやられ、雑誌が積まれて出入り口を塞がれたゲージを元あった場所に戻し、そこに徳三郎をそっといれて優しく微笑んだ。
    「徳三郎…ごめんね。おうちに帰ってきたからね」
    徳三郎は全てを理解したかのように、身体全体で嬉しさを表現しゲージの中でピョンピョンと跳ねてみせた。
    その様子を柔らかな表情で見つめていた皐月は、徳三郎に語り掛けた。
    「あなたにもう心配かけたりしないからね、また私の大切な相棒でいてね」
    皐月の言葉を理解したかのように、ピョンピョンと跳ねるのをやめ、首を少しだけ傾けて皐月のことを見る徳三郎のその真ん丸の目の奥に、皐月は、その日動物愛護センターで言われたことを思い出していた。
    『迎えに来ていただくのがあと一日遅かったら、徳三郎君は・・・』
    その言葉に改めて自分がしてしまったことを悔いるとともに、記憶を取り戻すことができたことに感謝の気持ちで一杯になった。
    部屋の中を見渡してみると、一日だけの入院だったにもかかわらず、もう何日も戻ってきていなかったかのように思えるほど、元気なときに暮らしていた部屋の様子とは違っていた。
    「なんか、とっても荒んだ暮らしをしていたのね」
    「ふぅ~」と、小さく息を吐き「…良かった」とつぶやいた皐月は、自分が元気になったことを真っ先に伝えるべく人に電話をしようと鞄の中から携帯を取り出した。
    電話帳のメモリーから相手の名前を表示すると、ふと迷いが生じた。
    「・・・どうしよう」
    迷いに対する答えを導き出すことは出来なかったが、とにかく自分が元気になったことだけは伝えようと決意し、通話ボタンを押した。

    「もしもし・・・」

  • #802

    六輔 (土曜日, 19 6月 2021 19:40)


    『皐月?…あなたから電話してくるなんて珍しいわね。何かあったの?』
    と、電話をもらったことを嬉しく思いながらも、突然の電話に不安なまま応答したのは、皐月の母親だった。
    「お母さん・・・」
    母親の優しい声を聞いた途端に、これまでどれだけ心配をかけて来たのかという思いに涙が一気に溢れだした。
    「お母さん・・・」
    『どうしたの? 何かあったの?・・・皐月』
    皐月は涙を必死に堪えながら、記憶を取り戻したその全てのいきさつを話したのだった。

    『皐月…』
    「…はい」
    『良かったわね、大切なお友達を思い出すことが出来て』
    「…うん」
    『あなたが、美代子ちゃんを亡くしてどれほどまでに辛かったのか・・・分かってあげられなくてごめんなさいね』
    「そんな、お母さんが悪いわけじゃないもの」
    『それでもさ、母としてさ・・・でも、皐月が記憶を取り戻してくれて、お父さんもホッとするわね』
    「ホッとする?」
    『…うん。実はね、私が皐月に余計なことを話してしまったことで、皐月を苦しめることになってしまったのって・・・お父さんに叱られるのを覚悟で話したの』
    「そうなの? お父さん、怒った?」
    『ぜんぜん、怒るどころか・・・お父さんね、今日は同級生の田塚さんたちと一緒に町内のゴルフ大会に出かけて行ったの。大好きなゴルフで、意気揚々と出かけていくかと思ったら、今日も出がけに、皐月はどうしてるかなぁ…って。元はと言えば、自分が母さんに聞こえるようにつぶやいたのが、一番の原因だからな!って・・・皐月には言わなかったけど、お父さん、ずっと自分のことを責め続けていたのよ』
    「えっ?・・・そうなの?」
    『・・・そうよ。母さんに聞こえるようにつぶやけば、必ず皐月に伝えてくれるはずだって・・・皐月の今の立場も考えずに、自分勝手なことを言ってしまった…って』
    「・・・お父さん」
    皐月の頬を一筋の涙が伝った。

  • #803

    六輔 (月曜日, 21 6月 2021 22:27)


    母親は、ゆっくりと話しを続けた。
    『ねぇ、皐月…』
    「…はい」
    『あなたは幸せ者よね』
    「えっ?」
    『だって、支えてくれる人がそばにいてくれるんですもの。支えるっていうか・・・お節介よね。昔の人は、当たり前のように自分の周りの人にお節介をやいたわ。でも、今は違うでしょ? 自分のことだけで精一杯っていうか、他人のことには関わりたくないっていうか・・・そんな世の中になってもなお、自分のためにお節介をやいてくれる人がそばにいてくれる・・・幸せなのよ、皐月。そんな人への感謝の気持ちを忘れないでね』
    「…はい」
    『笹中さんが突然家に来たときには驚いたけど・・・でも、笹中さんが皐月の卒業アルバムの写真を撮っていって、それを皐月に見せてくれたことで記憶を取り戻すことが出来たんですものね』
    「うん、礼子さんが矢神君の写真を私に見せてくれなかったら…どれだけ感謝しても感謝しきれない」
    『そうね。そういう人と巡り合えたのも、皐月・・・あなたの人生なのよ』
    と、母親は、それまでの口調から変えてこう言ったのだった。
    『皐月…』
    「うん?」
    『お父さんからその時がきたら皐月に言ってくれって、頼まれていたことがあるの』
    「えっ?・・・なに?」
    『親の勝手な思いを言ってしまってすまなかった。皐月の人生、皐月の思う通りに生きていきなさい…って』
    「・・・お父さん」
    それは、皐月が母親への電話を一旦躊躇った理由だった。
    『仕事はどうするの? こっちに帰ってくるの?』と、聞かれたときに、どう答えたらいいのか。
    その答えが決まっていなかったがために、母親への電話を一瞬躊躇ったのだった。
    皐月は、唇を震わせてこう言った。
    「これからどうするか・・・まだちゃんと考えていないけど、もう一度自分と向き合って考えてみるからね」
    皐月は一呼吸おいて優しく言った。
    「お父さんに伝えて・・・ありがとう…って」
    言葉に詰まった母親と、両親への感謝の気持ちで一杯になった娘の頬に同時に綺麗な一筋の涙が伝った。

  • #804

    六輔 (火曜日, 22 6月 2021 19:40)


    母親には、どうしても気になることがあった。
    そんなことを聞くのは野暮なことだと思いつつも、ずっと独身をとおしてきた皐月の将来を心配する気持ちから、聞かずにはいられなかった。
    『ねぇ、皐月・・・』
    「なに?お母さん」
    『矢神君だっけ? たっちゃんと呼んでいた同級生?』
    「あぁ、…うん。矢神達洋君。高校の3年間、同じクラスだったの」
    『その人も大切なお友達を亡くしていたのね?』
    「・・・うん。唯一無二の友達だったって」
    『矢神君と居酒屋で話したのって、いつのことなの?』
    「あぁ、私が社会人になった年だから・・・二十歳のときよ」
    『え~そんなに前のことなの? でもすごいね。その人が夢に出てきて、その時のことを思い出させてくれたおかげで・・・なんでしょ?』
    「…うん」
    『その人とは・・・』
    「あぁ、お母さん、なんか変なこと考えてるでしょ! 矢神君と付き合ったことなんかないからね!」
    『えっ?変なこと?べ、別にそういう意味で聞いたんじゃないんだけど…』
    「ほんとぉ~?私ね、矢神君に会って謝りたいことがあるんだ・・・でも、矢神君、大学も途中でやめちゃって・・・彼が今どうしているのか知っている人が誰もいないの・・・噂では、どこかの宗教団体に入ったって・・・宗教になんか興味っていうか、そういうことに係るような人じゃないと思っていたんだけど…」
    『宗教?そうなんだ。だとしたら、あまり関わってほしくないな』
    「えっ? お母さんって、そういうところに偏見を持ってるの?」
    『そういう訳じゃないけど・・・宗教に入れ込んでいる人って、偏った考え方をする人がいるでしょ? もし矢神君もそうだとしたら…そう思っただけ』
    皐月は、声のトーンを変えてこう言った。
    「たっちゃんは、そんな人じゃないから!」

  • #805

    六輔 (水曜日, 23 6月 2021 19:51)


    母親は「たっちゃんは、そんな人じゃないから!」と声を荒げた皐月が異様に心配になっていた。
    『皐月・・・本当に大丈夫なの?…矢神君という人は』
    と、その言葉はかろうじて飲み込んだが、母親が「宗教団体」と聞いて、直ぐに否定的なことを言い、達洋を好意的に思わなかったのには理由があったのだ。
    それは、母親の女学生の頃からの親友が家族全員で新興宗教に入信し、それ以降、親友とは絶縁状態になってしまったという嫌な経験があったからだ。
    親友は、周りの説得を受け入れず、不動産の全てを売却し、財産のほとんどをお布施として新興宗教に渡してしまったのだった。

    宗教団体の勧誘活動は、時と場所を選ばず行われているようだが、頻繁に散見されるのは、大学のキャンパス内だと聞く。
    毎年、新学期になると、サークル等を装い勧誘活動を行うカルト的宗教団体が現れる。
    食事の誘いを受けて落ち合ったところ、複数人に囲まれて入信を強要されたり、音楽やスポーツボランティアなどのサークルを装って勧誘され、知らず知らずのうちにマインドコントロールされてしまう人もいる。
    団体に入会すると、精神的・経済的に多大な被害を受け、人生が台無しになるばかりではなく、友人を勧誘することで仲間同士の信頼関係の崩壊に突き進むことになる。
    宗教への入信を全否定するものではないが、トラブルも多いという話しだ。
    そしてこのことは、母親は知らなかったのだが、母親の親友が入信した新興宗教は、倭里毒物殺人事件に関与していると噂されている団体だったのである。
    そう、そして矢神達洋は、その宗教団体の主席広報官なのだ。

  • #806

    六輔 (木曜日, 24 6月 2021 20:47)


    母親との電話を切った皐月は、病院のベッドの中で突然に浮かび上がってきた達洋の姿を思い出していた。
    授業中、坊主頭をピクリとも動かさずに居眠りをしていた達洋。
    昼休みには多くの仲間たちと楽しそうに話していた達洋。
    5時限目の授業が終わり、掃除をサボって部活に走っていった達洋。
    そして校舎の屋上で待ち合わせをして、二人で話したときのこと。
    「あの時たっちゃんは、いきなり“付き合ってる人いるの?”って、私が勘違いするような聞き方してきてさ・・・たっちゃんは美代子が好きだって分かっていたのに…」と、苦笑い。
    皐月は、携帯を取り出し、退院するときに礼子からメールで送ってもらった達洋の卒業アルバムの写真を画面に表示した。
    「たっちゃん…かぁ。どこで何してるんだろう」
    そんなことを考えていると、母親から言われた『宗教に入れ込んでいる人って、偏った考え方をする人がいるでしょ? もし矢神君もそうだとしたら…そう思っただけ』
    という言葉が思い出され、改めて悔しく感じた。
    「もし、どこかの宗教に入信していたとしても、たっちゃんはたっちゃんだし! 仲間を大事にするたっちゃんが、仲間を裏切るようなことしないし!」
    そう心の中で断言はしてみたものの、皐月自身、宗教に入信した人に対して、あまり良いイメージを持ち合わせてはいなかったのだった。
    そのモヤモヤした感情を払拭するには、一つしか方法は無いと思った。
    「たっちゃんに会いたい!会って居酒屋で叩いてしまったことを謝って、それから…たっちゃんに教えられた曲を聴いたことで、大切な友達を思い出すことが出来たことにお礼を言いたい! 絶対にたっちゃんは昔のままのたっちゃんでいてくれるはずだから!」
    ふと、カレンダーに目をやると、美代子の月命日が明後日であることに気づいた。
    「藤原君に心配かけたこと謝って、それから・・・うん、たっちゃんのこと相談しよっ!」
    そう言って皐月は、達洋を思いながら眠りについた。

  • #807

    六輔 (金曜日, 25 6月 2021 22:36)


    「主席広報官・矢神達洋」と書かれたネームプレートが置かれたデスク。
    その上に置かれた携帯が着信をキャッチし、マナーモードの機能が作動した。
    ≪ブルブルブル・・・ブルブルブル…≫
    携帯のディスプレイに【警視庁・那珂山】と表示されているのを確認した達洋は、部屋に自分一人だけであることを確認し、着信に応答した。
    「もしもし、矢神です・・・」
    表情を強張らせ、那珂山の話しを黙って聞いていた達洋は、重い口を開いた。
    「なんのために君に任せているのか・・・君はそれをちゃんと理解しているのですか? 見つからないです、すみませんで済む話じゃないんですよ、那珂山さん!」
    受話器の向こうで必死に言い訳をする那珂山の話しを遮るように達洋は言い放った。
    「もう言い訳は結構です!」
    そして達洋は吐き出すようにこう言った。
    「自分がそちらに行って藤原さんのことを探します」と。

    こうして達洋が20数年間の沈黙を破って動きだしたことで、物語の全てが動き出すことになるのであった。
    倭里毒物殺人事件の犯人として疑いをかけられ、瀧野瀬紘一の父親は自ら命を絶った。
    紘一自身も記者に食い物にされ、野球界から姿を消した。
    紘一の恋人であった水嶋陽菜子は、紘一の父親を自殺に追い込んだ新聞社に入社し、社会部の記者を目指して動き出した。
    あんくるのマスター、藤原涼輔は、12年ぶりに倭里町に訪れ、教団の異様な行動を目の当たりにし、しかも教団に追われる身となったことで、フリーランスの記者として復活することを決断した。
    そして、何も知らない皐月が藤原のもとへと・・・

    物語はエンディングに向かって一気に動き出すことになるのだった。
    ・・・慟哭のエンディングに向かって。

  • #808

    六輔 (土曜日, 26 6月 2021 21:11)


    7年以上も続いてきたリレー小説「仲間」は、第六章となって、いよいよ最終章を迎えた。
    その題名を「仲間・最終章」~ 鋳掛屋の天秤棒 ~として2019年2月にスタートした最終章は、リレー小説の全ての終わりを惜しむかのように様々な主人公たちが登場し、スタートから2年4か月も経った今もなお、その主人公たちが決して交わることなく物語は長い時間をかけて語られてきた。
    だが・・・いよいよその時は来た。
    これまでそれぞれの“点”として語られてきた主人公たちが、いよいよ一つの“線”となって結びつく時が来たのだ。
    エンディングに向かって物語を進める前に、時間の経過とともに忘れ去られてしまったその時々の主人公たちを思い出してもらうために、これまでの物語を振り返るとする。

    物語は、むかしむかし、兎と狐と猿のはルミちゃんの話しから始まり、「お月様」にまつわる逸話で時代の流れが語られていった。
    最初に登場したのは和住来翔(ワズミライト・R1年生)と、その祖母(和住藤子ワズミトウコ・S37年生)だ。
    途中、物語は藤子の親友、天方千暁(アマカタチアキ・S37年生)のことへと移り、日本で一番大きな絵画の公募展の審査委員長を務める九東唯誠(クトウ・ユイマ)という画家にその才能を認められた天方千暁と和住藤子の仲間への思いも語られた。

    小学3年生になった和住来翔は、学童野球を始める。
    そこで出会ったのが学童チームの監督を務める瀧野瀬紘一(タキノセコウイチ・昭和61年生)だ。
    紘一は、小学生たちのエラーに対して厳しく指導をしていた。
    孫を溺愛する藤子は、監督の紘一に対して不信感を抱くのだが、実はそこには深い訳があったのだった。

  • #809

    六輔 (月曜日, 28 6月 2021 19:21)


    物語は、瀧野瀬紘一の高校時代の話しに移っていった。
    例年、チームを編成し、大会に出場するのがやっとだった弱小チーム・県立東庄高校野球部に入部した紘一。
    活躍の舞台は直ぐに訪れた。
    まだ1年生だった紘一は、3年生に交じってベンチ入りしたのだ。
    ピッチャー高橋、キャッチャー黒岩、サード桧山、セカンド鈴木といったメンバーで、40年ぶり、夏の大会ベストエイト進出をかけて戦ったのは、甲子園8期連続出場の白進学院。
    白進の先発は、2年生の水嶋投手。
    そう、マネージャー水嶋陽菜子の1歳年上の兄だ。
    次期エースとして期待をされ先発を任された水嶋だったが、東庄高校キャプテンの頭部にデッドボールを当ててしまい、それをきっかけに全くストライクが入らなくなり、結果、3つの押し出しファーボールを与え降板してしまう。
    序盤は3-0と東庄高校の3点リードで終えたが、6回、ドラフト指名確実の高田選手に満塁ホームランを打たれ、3-4と逆転されてしまう。
    だが、8回裏、キャプテンに代わってショートについていた紘一の同点タイムリーで4-4と追いついたのだ。
    湧き上がる東庄高校ベンチと応援席。
    だが、事件は9回におきた。
    先頭バッターのなんでもないショートゴロを捕球した紘一は、ファーストへ慎重に送球しようとするあまりに、イップスを発症してしまったのである。
    紘一のエラーでピンチを招いた東庄高校だったが、3年生たちの「キャプテンを甲子園に連れていく!」という熱い想いで、そのピンチを切り抜けた。
    しかし、延長に入ってまで甲子園常連校を抑える力は、ピッチャー高橋には残っていなかった。
    プロ注目の高田選手に連続ホームランを許し、3年生たちのベストエイト進出という夢は敗れ去った。
    その場面をもう一度読み返してみたが、野球好きにはたまらない展開であった。

    3年生の抜けたあと、紘一はイップスに苦しんだが、それを救ったのは、紘一の才能を見抜いていた白進学院の監督だった。
    白進学院監督のアドバイスでイップスを克服した紘一は、3年生となり最後の夏を迎えた。
    度井垣、戸野間、岩城、里奈科、犬飼、坂田、微笑・・・記録員として水嶋陽菜子をベンチに入れ、東庄高校は決勝に進出した。
    そして甲子園出場をかけて戦ったのが、そう、白進学院だった。

  • #810

    六輔 (火曜日, 29 6月 2021 18:55)


    白進学院と東庄高校の決勝戦は、先頭バッターのいきなりのホームランで白進学院が先制した。
    試合は0-1のまま迎えた6回の裏、東庄高校の攻撃、セーフティバントで出塁した度井垣と戸野間の間で見事にヒットエンドランが決まり、ノーアウト2・3塁のチャンスとなる・・・はずだった。
    だが、ファーストランナーの度井垣は、セカンドベースを踏みそこない、3塁まで進めずにノーアウト1・2塁となった。
    度井垣の走塁をバックネット裏で見ていたプロのスカウトの一人がこう言った。
    「いまのは、わざと踏み外したのかもしれないな。ノーアウト2・3塁となってしまえば、続く3番瀧野瀬君は満塁策と称して堂々と歩かされてしまうだろうからな」と。
    この場面、白進学院は当然逃げることなく紘一との勝負に挑んできた。
    カウント2-2で、紘一が動いた。
    ランナーの度井垣と戸野間にフラッシュサインを送ったのだ。
    「走れ!」
    ノーアウト1・2塁の場面で普通では考えられないヒットエンドランが決まり、東庄高校は2-1と逆転した。
    鍛え上げられた白進学院の外野守備から、1本のヒットで逆転のランナー戸野間まで返すには、この方法しかないという紘一の考えによるものだった。
    試合は、東庄高校甲子園初出場まであとアウト一つというところまできた。
    だが、野球の神様は、そう簡単には甲子園への切符を手渡してはくれなかった。
    白進学院の脅威の粘りで同点に追いつかれてしまう。
    さらに逆転の場面でチームのピンチを救ったのはプロのスカウト達も驚く紘一のスーパープレーだった。
    9回に同点に追いついた白進学院は、プロ注目の投手、不知火(シラヌイ)をマウンドにあげてきた。
    不知火投手は、2年生でありながらMAX160キロを記録したことのある、高校野球界で一番注目を集めているピッチャーだった。
    だが、試合はたった1球で決した。
    9回裏、先頭バッターとして立った紘一が、不知火投手が初球に投じた158キロのストレートを打ち返した。
    「カキーン!!」
    甲高い音を残し大歓声の中、紘一の打った打球が高々と舞い上がると、打球を見上げたレフトは、直ぐにボールを追う足を止めた。
    「サヨナラホームランだぁ!!!」
    こんな時によく見かけるシーンは、勝ったチームの選手が一斉にベンチを飛び出し、ホームランを打った選手を抱きかかえ、「俺たちは1番だ!」と、高々と人差し指を天に伸ばして優勝を喜ぶシーンだ。
    だが、東庄高校は決してそれをしなかった。
    大歓声の中、紘一がサヨナラのホームインをはたすと、主審が両チームに整列するよう促した。
    そこで初めてベンチを飛び出した東庄高校の選手たちは、全員涙を流して整列した。
    「ゲームセット!」
    主審はそれだけをコールすればいいのだが、この時の主審は「ゲームセット」の後にこう付け足したのである。
    「ナイスゲーム!」と。

  • #811

    六輔 (水曜日, 30 6月 2021 18:44)


    甲子園初出場を果たした東庄高校の初戦の対戦相手は、昨年度優勝校で2年連続優勝の最有力校、弁慶高校だった。
    1番センター石毛雅也、2番セカンド北光男、3番ピッチャー義経雄一郎、4番ライト武蔵坊岳、5番ショート仲根一、6番ファースト渚恵一、7番キャッチャー雲竜五郎、8番レフト土門幸助、9番サード田中清美という最強布陣の弁慶高校。
    試合は1回裏の紘一の打席から動いた。
    義経が自信たっぷりに投げたボールが、紘一の胸元をえぐるようにインコース高めに入って来た。
    初球から打ちにいっていた紘一は、そのボールに対して肘をたたんで体を回転させ、バットの芯でボールをとらえた。
    「カキーン!」
    甲高い金属音を残し、ボールはレフト方向に大きな放物線を描いて飛んで行った。
    打球は4万人を超える観客が見守る中、レフトスタンドの上段に突き刺ささった。
    観客はその飛距離に度肝を抜かれ、一瞬言葉も発せなかったが、直ぐにそのすごさに絶叫した。
    『ウォー!!!』
    地鳴りのように沸き上がる歓声の中、紘一はガッツポーズをする素振りも見せずに淡々とダイヤモンドを駆け抜け、先制となるホームベースを踏んだ。
    そして紘一の二打席目。
    それが変化球だと分かると右足に重心を残し、ボールを手元まで引き付けてフォークボールをすくい上げた。
    「カキーン!!」
    甲子園2打席連続ホームラン、地方大会から数えて3打席連続ホームランに、そこにいたプロのスカウト全員が愕然として言葉を失った。
    紘一以外の選手は、義経投手に手も足も出ず、ほとんどが三振を喫していたなか、紘一の第三打席、甲子園に奇跡が起きたのである。
    甲子園球場から全ての音…ブラスバンドの鳴り物、メガホンを叩く音、飲み物を売る人達の声までもが一斉に消え去ったのである。
    それは、東庄高校3番バッター瀧野瀬選手と弁慶高校前年度優勝投手の義経選手のこの試合3度目の対決を見守るためだった。
    二人の勝負が決したのは9球目だった。
    弁慶高校バッテリーが選んだ最後の勝負球は、誰も予想のつかなかった外角低めいっぱいに落ちるカーブだった。
    ストレートのタイミングで打ちに行っていた紘一は、途中で体重を右足に残し、体の回転と右手の押し込みでボールをはじき返した。
    「カキーン!!」
    高々と舞い上がったボールは放物線を描いてバックスクリーンめがけて飛んでいった。

  • #812

    六輔 (木曜日, 01 7月 2021 19:10)


    誰もが紘一の3打席連続ホームランだと確信して打球を見守っていた。
    だが、その時甲子園の浜風が急に強さを増したのだ。
    ボールは強い浜風に押し戻され、外野フェンスいっぱいまで下がって真上を見上げていた石毛のグラブに納まった。
    浜風が強くならなければ確実にホームランになっていた打球だった。
    スタンドからは二人の勝負に惜しみない拍手がおくられた。
    試合は2-0、東庄高校2点のリードで9回の弁慶高校の攻撃に入った。
    それまで東庄高校2年生エースの君島投手は、一人のランナーも許していない完全試合まであとアウト3つのところまできていた。
    だが・・・9回の表、弁慶高校7番・キャッチャー雲竜の打席の時だった。
    ツーボール・ツーストライクから君島が投じた外角のスライダーを雲竜がバットの先で引っかけてショートにゴロが飛んだ。
    平凡なゴロだった。
    紘一がいつも通りに鮮やかなステップで捕球体制に入りグラブを差し出すと、その手前でバウンドが変わったのである。
    観ている誰もが分かるようなあからさまに飛び跳ねるようなイレギュラーバウンドではなかったが、間違いなくバウンドが変わった。
    紘一は、バウンドの変わったゴロをどうにかさばこうとしたが間に合わず、グラブに当たったボールは3塁方向へと転がった。
    カバーに入っていたサードの度井垣がその打球を掴み、急いでファーストへ送球したが、打者走者の雲竜は既に1塁ベースを駆け抜けていた。
    球場全体がスコアボードにHと表示されるのか、Eと表示されるのかを固唾をのんで見守っていた。
    結果、表示されたのはE、記録はイレギュラーによるヒットではなく、エラーだった。
    そこからは、ファーボールと送りバントで1アウト2・3塁でのセカンドゴロの間に1点を許した。
    ノーヒットで1点を与えた結果となった。
    そしてツーアウト1・3塁の場面で、義経の打った平凡なファーストごろで東庄高校の勝利だと思われた次の瞬間だった。
    打球がファーストベースに当たり、ボールが外野を転々としている間に一気に二人のランナーがホームベースを駆け抜けていき2-3と逆転されてしまう。
    9回裏の攻撃は、ランナーが一人でも出塁できれば紘一まで回る打順だった。
    だが、紘一の前を打つ戸野間が自信をもって見送ったボールがストライクと宣告され、試合は終わった。
    甲子園の魔物は、東庄高校に勝利を与えてはくれなかったのだった。

  • #813

    六輔 (金曜日, 02 7月 2021 19:43)


    その年の夏の甲子園大会は、弁慶高校の2年連続優勝で幕を閉じた。
    ピッチャー義経は、その大会、全ての試合に先発し、東庄高校以外のチームには全ての試合で完封試合を成し遂げた。
    打点はおろか、長打を打たれたのは紘一に許した2打席連続ホームランだけという完璧な投球内容だった。
    甲子園大会が終わり、次に待っていたのはWBC U-18ベースボールワールドカップだったが、紘一がそこに選ばれることはなかった。
    スポーツ通信の記者が、東庄高校が負けたのは紘一の怠慢プレイが原因だという記事を掲載したことによる騒ぎで、紘一自ら出場を辞退していたからだ。
    結局、スポーツ通信の古沢記者は、取材を断られた腹いせに、紘一を誹謗中傷する記事を掲載したことが世間から非難され、記者をやめることになった。
    だが、古沢記者の紘一に対する攻撃はそれで治まることはなく、自分が有名になることで、可愛い甥っ子たちが未解決の倭里毒物殺人事件の犯人として疑われた瀧野瀬一族だと言われ続けることを望まなかった紘一は、プロ野球志望届を提出することなく、野球界の全てから姿を消してしまったのだった。
    チームメイトの度井垣は、医者を目指して進学し、戸野間はプロのピアニストを目指して東京藝術大学音楽学部に進学した。
    将来、世界中の人々を感動させるピアニストになることを夢見て。

    話しは、水嶋陽菜子の大学時代へと移っていった。
    上京してアルバイトをしたいと考えていた陽菜子は、“アルバイト募集”と書かれた手書きの広告に誘われるがまま、喫茶店に飛び込んだ。
    そこで出会ったのが「あんくる」のマスター、藤原涼輔(フジワラリョウスケ・昭和37年生)だ。
    初めて陽菜子を見た藤原は、あまりにもの衝撃に言葉を失った。
    陽菜子が、死に別れた妻、美代子(カラシナミヨコ・昭和37年生)にまるで双子のようにそっくりだったからだ。
    そして話しは、美代子の高校時代の話しに移っていった。
    そこで登場してきたのが、重里皐月(シゲサトサツキ・昭和38年3月生)だ。
    皐月は、美代子との共同生活を条件に上京を許され、フラワーコーディネートを学ぶ専門学校に通った。
    ふとしたすれ違いから、美代子との共同生活が破局を迎えようとしていたが、それを救ったのが高校の同級生、矢神達洋(ヤガミタツヒロ・昭和37年生)だ。
    皐月が仕事帰りに立ち寄ったコンビニでアルバイトしていた達洋は、元気のなさそうな皐月を見つけ、居酒屋に誘った。
    そこで美代子との話しを聞いた達洋は、大切な友達を疑っている皐月に、自分自身で気づいて欲しい思いで、わざと美代子を悪く言った。
    それに怒った皐月は、達洋の頬を叩いて、居酒屋を飛び出してしまったのだ。
    それが達洋と皐月が会った最後だった。
    後で達洋の優しさに気づいた皐月は、達洋が通う大学へと足を運んだが、達洋は既に大学を中退していた。
    中退した理由は、後で倭里毒物殺人事件への関与が疑われることになる宗教集団に入信するためだった。

  • #814

    六輔 (土曜日, 03 7月 2021 20:06)


    水嶋陽菜子は、社会部の記者になることを目標に新聞社に就職した。
    そこで出会ったのが、東庄高校が甲子園で弁慶高校と戦っているときに、アルプススタンドで売り子のアルバイトをしていた小川治美(オガワハルミ・昭和61年生)だ。
    治美は、自分のことを殿馬治美と呼ぶほどにマンガ「ドカベン」が好きだった。
    ピンクレディーがUFOを歌っていたときの衣装と同じような赤パンをはいて、甲子園球場で売り子をしていた治美は、瀧野瀬紘一と義経の対戦をアルプススタンドで見ていた。
    そこに感動を覚えた治美は、記者になっていつか甲子園に行き、優勝監督に取材をして、人を感動させられる記事を書きたいと思うようになった。
    その夢を持ち、新聞社に入社してきた治美は陽菜子と出会い、二人は直ぐに意気投合し親友になった。
    新聞社への就職が決まったことを伝えるため、陽菜子が「あんくる」にやってきた。
    陽菜子が就職する新聞社が、倭里毒物殺人事件で紘一の父親をまるで犯人であるかのような記事を掲載した新聞社であることを知った藤原は、紘一の復讐のためにその新聞社を選んだのかと問いただしたが、陽菜子は違うと断言した。

    物語は、皐月の話しへと移っていった。
    皐月は、美奈子が亡くなったのは、自分が同じ女性として美代子の体の異変に気付いてやれなかったためだと、ずっと自分を責め続けながら、寂しさを紛らわせるためにフラワーコーディネートの仕事に没頭していた。
    そんなある日、父親が実家に戻って店を出すことを望んでいると母親から聞かされた皐月は、答えを見いだせないまま藤原のところに相談に行ったのだが、そこで藤原から小さな店を持つことに否定的なことを言われ、怒って店を飛び出し、そこで交通事故に巻き込まれてしまい、ショックで記憶を失ってしまうのだった。
    その場面で登場してきたのが、田川清ドクターと笹中玲子保健師(共に昭和27年生)だ。
    玲子は美しい女性だ。
    天地真理ちゃん、伊藤咲子ちゃん、キャンディーズのランちゃん、ピンクレディのケイちゃん、そして麻丘めぐみちゃんを足して5で割ったような美しさだ。
    そして玲子は、まさしく皐月にとっての鋳掛屋の天秤棒だった。
    皐月が自分の出た高校の後輩であることを知った玲子は、自分の実家に戻ったそのついでに皐月の実家を訪れた。
    そこで高校時代の卒業アルバムから矢神達洋らの複数枚の写真を撮り、「あんくる」に行って藤原にそれを見せると、そのうちの一枚の写真を見て藤原は叫んだのである。
    「こ、こ、これは…矢神達洋だ!間違いない」と。

  • #815

    六輔 (月曜日, 05 7月 2021 19:06)


    事件発生当時、新聞社の記者だった藤原は、教団が倭里毒物殺人事件に関与しているのではないかと、単独で取材を続けていた。
    その取材に応じていたのが矢神達洋だ。
    藤原は確信していた。
    「矢神は必ず事件に関わっている」と。
    ところが、取材を重ねていくと、突然、とてつもない大きな圧力がかかり、倭里毒物殺人事件に関わる一切の取材を禁じられてしまったのである。
    この時の玲子と藤原の二人の会話をそばで聞いていた陽菜子は、藤原が、倭里毒物殺人事件の取材を途中で断念していたこと、そして事件に一番近いと思われる人物が、皐月の同級生の矢神達洋であることを知るのだった。

    皐月に記憶を取り戻させてあげたいと強く願っていた玲子は、倭里町に行って矢神達洋を探してくると言い出した。
    その玲子の思いに負けた藤原は、結局、玲子と一緒に倭里町に行くのだが、そこで目にしたものは信じられない光景だった。
    倭里町の住人は一人残らずいなくなっており、街は廃屋だらけ。
    教団の施設であろうサクラダ・ファミリアのような豪華な建物が見えてくると、まるでそれをガードするかのように無数の監視カメラが設置されていた。
    「教団に追われる」と直観した藤原は、追跡されないよう東京に戻ってきて、万が一のことを考え、玲子との連絡を絶った。

    矢神達洋が“たっちゃん”と呼ばれた人物だと知った玲子が、診察にきた皐月に達洋の写真を見せると、そのことで皐月は気を失って倒れてしまう。
    だが、その日の夜のこと、皐月は病院のベッドの中で達洋の声を聞き、そして美代子のことを思い出すのであった。
    こうして皐月は記憶を取り戻し、二日後には藤原に会いに行くことになるのだが・・・

    松岡のマンションを出た藤原は、自宅には戻らず、1週間程度はホテル住まいをしようと決めていた。
    その間、身柄を隠すホテルは、1日ごとに変える念の入れようだった。
    フリーランスの記者として復帰すると覚悟を決めていた藤原は、長らく執筆から遠ざかっていたことから、ホテル泊で持て余している時間を有効に、リハビリを兼ねて自叙伝的な文章を毎日少しずつ書き綴っていたのだった。

  • #816

    六輔 (火曜日, 06 7月 2021 23:44)


    年号が昭和から平成へと変わって21年間の時が過ぎ、48歳になった小生が何故このような文を書き記すことになったのか、これからそれを少しずつ話していこうと思う。
    小生は、2年後に東京オリンピックを控えた昭和37年、鹿児島は薩摩半島、桜島を一望できる山あいの地に暮らすごくごく普通の家庭に生まれた。
    両親は、長男として生を受けた小生に「知的な子に成長してほしい」「いつも冷静で聡明な人になってほしい」と願いを込め、藤原涼輔と名付けた。
    幼少期の頃の涼輔は、どちらかと言えばおとなしい目立たない子供だった。
    親のしつけが良かったのか、真面目に勉強したおかげで小学校、中学校とも学校の成績は良かった。
    田舎町の各学年とも一クラスという小規模な学校へ通っていた涼輔は、子供ながらに東京の大学に行くことを夢見ていた。
    それを実現するためには、それなりの高校に進学しなければならないと、必死に受験勉強に臨んだ。
    その甲斐あって、涼輔は地元の進学校に入学することが出来た。
    運動が不得手だった涼輔は、高校時代の部活動は新聞部に身を置いた。
    新聞部は、活発に活動する部ではなかったが、そこで出会った顧問の先生が涼輔の人生に大きく影響を与えた。
    親に迷惑をかけずに東京の大学に通って記者を目指すなら、国立大学のしかも偏差値の高い大学に進むことだと顧問から諭された涼輔は、それから死に物狂いで勉強し、一橋大学にストレートで合格することが出来た。
    そこで涼輔は、ジャーナリストを目指す唐品美代子という女性と出会う。
    涼輔は、知的で聡明な美代子に恋をし、美代子もまた涼輔を心から愛した。
    大学卒業と同時に、美代子はルポライターに、そして涼輔は全国紙の新聞社に就職した。
    互いに仕事に没頭した。
    年齢を重ねていくことで、それなりのポジションで記事を書けるようになっていった涼輔は、念願の社会部の記者になった。
    社会部で記事を書くことになった涼輔は心に誓った。
    「真実をしっかり伝えられる記者になる」と。

  • #817

    六輔 (水曜日, 07 7月 2021 19:17)


    ニュースの出所がテレビや新聞などのマスコミであったら、「それは真実なのか?」
    と、疑ってかかる人間はほぼ皆無と言ってよい。
    それゆえ、マスコミが一度「疑わしき者あり!」と報じると、受け手には“そいつが犯人だ”というイメージが作られてしまい、結果、「あいつが犯人だ!早く逮捕しろ!」という世論が生まれてくる。
    その世論に乗っかるように、多くの報道機関が、同じような疑惑報道を繰り返してしまい、結果、生まれてくるのが冤罪だ。
    逮捕に至らなくても、世間から犯人扱いされるだけで冤罪は出来上がってしまうのだ。
    報道が冤罪を生み出してしまった事件は数多くあると認識しているが、私には決して忘れることができない事件がある。
    12年前に起きた倭里毒物殺人事件だ。
    社会部に所属していた私は、事件発生の連絡を受け、直ぐに現場に飛んだ。
    現場に到着し、直ぐに目に飛び込んできたのは、重傷者のみが病院に搬送され、街中に半分以上残された被害者たちの苦しむ姿だった。
    事件は、他に類を見ない悲惨な事件だった。
    散布された毒物により死者15名、500人を超える人が後遺症の残る被害を受けたのだ。
    社会部でそれなりのポジションにいた私は、慎重に取材を進めなければならないと直感した。
    だが、ある新聞社が、「事件現場の近くに、化学薬品工場に勤める者がいる」、「その者であれば、テロに使用された毒物の生成は容易いことだ」、「事件当日のアリバイも不明確だ!」などといった報道を連日繰り返し、それに乗っかるように他の新聞社やテレビ局による取材合戦が始まった。
    一人の市民を犯人に仕立て上げてしまったマスコミ、その報道を鵜呑みにして突っ走ってしまった多くの日本人たち、そして世論に動かされた警察。
    だが、疑われたその人は無実だったのである。
    一度疑われてしまうと、それを振り払うことはできず、彼が選んだ道は「自らの死で無実を訴える」ことだった。
    それでも、悲劇は続いてしまった。
    冤罪による悲しい事件が起きたにも関わらず、報道の気質はその程度では改善されることはなかったのだ。
    一度加熱した報道は収まることはなく、信じがたいことが起きた。
    先頭を切って犯人報道をした新聞社が汚名返上とばかりに、次のターゲットを見つけ出し、疑わしいと報道を始めたことで、結果、二人目の犠牲者を生み出してしまったのだ。
    全ての原因は、しっかりとした事実確認もせず、不確実であってもスクープ性や話題性を優先されるマスコミの報道姿勢にあった。
    他社のニュースに遅れてしまおうが、しっかりとした事実確認をして、真実のみを報道するという本来の姿を全社が貫けば、冤罪など決して起こりえることではないのだ。
    私は、記者時代、「真実のみを伝える」という信念をもって取材をし、確証が持てたことだけを記事にしていた。
    だが、悲しいかな、全ての報道機関も同じだとは、決して断言できる状態にはなかった。
    報道の中には、情報操作された報道もたくさんあり、それに流されるようにマスコミのみならず、一般市民も冤罪の発生に加担してしまう。
    そんな報道の現状に、私は世論に惑わされることなく、自分自身で判断し、日頃から報道が真実かどうかを疑う目を持つことが大事だと思うようになった。
    いち、記者として。

  • #818

    六輔 (木曜日, 08 7月 2021 20:06)


    私は、40歳のとき、18年間勤めてきた新聞社を辞めた男だ。
    天職だと思っていた記者という職業を捨てたのだ。
    その当時、“記者の仕事は夜討ち朝駆け”と言われるように、長い労働時間や不規則な生活を強いられていた。
    だが、ジャーナリストという仕事への情熱で常にモチベーションを保ち、記事を書き続けていたと自負している。
    ジャーナリストは、時として社会正義を担うことがある。
    不正や犯罪に立ち向かう場面はもとより、日常の出来事などに対しても、ゆるぎない正義感をもっていることが求められ、さらに政治や権力に対して、チェック機能を発揮するために、誹謗中傷や批判も恐れない反骨精神が必要となる。
    私は、どんな圧力にも屈しない精神力で社会に立ち向かっていた・・・つもりだった。
    だが、ある事件をきっかけに、私は記者を辞める決断をした。
    当時私は、政府与党、ある国務大臣の汚職事件に関して密かに取材を続けていた。そして、裏付けを取り付け、世間を揺るがすことになるであろう記事を書き上げた。
    しかし、その記事が世にでることはなかった。
    国家権力に圧力をかけられた社が、私の書いた“真実”を封じ込めてしまったのだ。
    国民の知る権利を付託されているのがジャーナリストであり、私益はもちろん、社益や国益すらも離れ、自分が考える正義に基づいて切り込む姿勢を保ちながら記事を書き続けてきた私のモチベーションはもろくも崩れ落ちた。
    私は、社から「奄美支局・営業部長」の辞令が発せられたその瞬間に辞表を提出し、社を去った。
    ところで、何故今になってそんな話しを持ち出したのか。
    その当時の国務大臣の犯した汚職事件を今さら明らかにしてどうなるものでもないことは、仮にも社会部の記者をやっていた私には計り知れるところだ。
    では何故・・・
    理由は、一つだ。
    12年前に起きた倭里毒物殺人事件に決着をつけなければならなくなったからだ。
    正直に言おう。
    私は、当時、何故急に事件に対する取材を社に止められたのか、実はその理由が分かっていたのだ。
    教団の莫大な資金にむらがる政治家と、さらには政治家を守る警視庁のそれなりの地位にある人物の権力行使による妨害があったからだと。

  • #819

    六輔 (土曜日, 10 7月 2021 22:35)


    大きな国家権力の前に敗れ去り無職となった私は、新たな仕事に、人や組織に雇われる身ではない自営業の道を選んだ。
    趣味が高じて喫茶店を開いたのだ。
    35歳のときに妻、美代子を病で亡くし、子供もいない私が、老後最低限の生活を送るには十分な収入を得ることができていた。
    誰に気がねすることなく、のんびりやっていこうと考えていたが、徐々に常連客も増えていったことで、店が一人では廻らなくなってきたために、アルバイトを雇うことにした。
    アルバイト募集の張り紙を手作りでこしらえ、店先に張り出して直ぐのことだった。
    まるでその時、その瞬間を待っていたかのように、張り紙を見て一人の女性が店に入ってきた。
    私は、その姿を見て言葉を失った。
    「ただいま」
    と、美代子が帰ってきたのかと見間違えるほどにそっくりな女性が入ってきたのだ。
    その子は大学進学のために上京したばかりの女の子で、名前は水嶋陽菜子。
    東庄高校野球部のマネージャーとして甲子園に出場したのだが、その野球部の主将を務めた選手が瀧野瀬紘一君だ。
    野球にあまり詳しくない私でも、瀧野瀬紘一君の名前は知っていたが、まさか、倭里毒物殺人事件の二人目の冤罪被害者の子供であったとは。
    私は、瀧野瀬選手がプロに進まなかった理由を彼女に尋ねた。
    すると、彼女の答えはこうだった。
    甲子園出場が決まって直ぐに、倭里毒物殺人事件の犯人の子供が甲子園に出場していいのか?という連絡が学校に届いた。
    さらには記者をクビになった男の逆恨みを買い、お前が有名になれば、必ず身内がまた悲しい思いをすることになると脅された。
    大好きな甥っ子たちに悲しい思いをさせないために、これ以上新聞テレビの前に自分の名前を出したくないと考えた瀧野瀬選手は、全ての野球界から忽然と姿を消したのだと。
    彼女の話しを聞かされた私は絶句した。
    『もし、私が倭里毒物殺人事件の真相究明を途中で辞めずに、事件解決の糸口を見つけ出していれば、一人の才能ある選手が野球を辞めずに済んだのではないか・・・未解決なのは事件だけではなく、冤罪を生み出してしまった報道そのものも、訂正されることなく誤ったままであり、世間もまだ瀧野瀬氏が犯人だったと思っているのだ』と。

  • #820

    六輔 (日曜日, 11 7月 2021 23:18)


    水嶋陽菜子、ヒナちゃんとの出会いは、何か因縁めいたものを感じずにはいられなかった。
    だが、私に倭里毒物殺人事件との“因縁”を感じさせることは、彼女との出会いだけではなく、もう一つあったのである。
    当時、倭里毒物殺人事件の真相究明のために取材をしていた教団関係者の矢神達洋という男が、妻、美代子と美代子の親友である重里皐月さんの高校時代の同級生であるということを知らされたのである。
    しかも、皐月さんが記憶障害になり、その病を克服するために矢神達洋に会わせたいということになったのだ。
    私は、矢神達洋に会える保障もないままに倭里町を訪れた。
    そこで見たものが、想像を絶する世界だった。
    倭里町の住人の姿を見つけることが出来ず、昔、教団の施設があった場所には、まるでスペインのサクラダ・ファミリアのような豪華絢爛な建物が建ち、しかも、その施設を守るように無数の監視カメラが設置されてあったのだ。
    私は身の危険を感じずにはいられなかった。
    教団から追われることを覚悟した私は、まず真っ先に身を隠し、冷静になって考えた。
    政治家、警察までを味方につけた教団が私の口を封じようとするのであれば、そこから一生逃げ切れるものではない。であるならば、逃げずに立ち向かうしかない。
    そのためにはフリーランスの記者として、再び倭里毒物殺人事件を追い、真相を究明する他ない、そう私は覚悟を決めたのだ。
    もちろん、“困難”という一言で言い表せられるような単純な状況ではないことは分かっている。
    何故なら、事件から既に12年もたっていること。
    事件の目撃者となるはずの、倭里町の住人が一人も住んでいないこと。
    そして教団のバックには大物政治家、さらにはその政治家の飼い犬と化した警視庁の人間が監視役としてついていること。
    事実、倭里町から戻ってきた時には、警視庁の覆面パトカーが私の帰りを見張っていた。
    日本は法治国家だ、さすがに抹殺されることはないだろう、と、そう勝手に信じ込むしかない。
    もちろん何があろうと無駄死にするつもりはない。
    であるからこそ、私が今から何をしようとしているのかをここに書き残しているのである。
    私は、確信している。
    真犯人は矢神達洋であると。

  • #821

    六輔 (月曜日, 12 7月 2021 21:53)


    そう断言する私だが、正直な気持ちは揺らいでいる。
    何故なら、矢神達洋は私の妻・美代子と重里皐月という女性の大切な「仲間」であるからだ。
    その揺らいだままの気持ちで取材を続ければ、そのことが私を死に追いやることになるかもしれない。
    それでも、私は冤罪で二人の尊い命が失われてしまったその責任を取らなければならない。
    もと、その事件に関わった記者として。
    私は、重里皐月という一人の女性に悲しい事実を突きつけなければならなくなるだろう。
    あなたと矢神達洋が「仲間」であったのは、遠い昔の“過去”のことなのだと。

    私は、明日、自宅へ戻る。
    明日が美代子の月命日だからだ。
    今になって思えば、私は、美代子の月命日が来るのを毎月楽しみに待っていたのかもしれない。
    何故なら、月に一度、重里皐月という女性に会える日だったからだ。
    この書が、万が一にも誰かに読まれることがあるとするなら、それは私がもうこの世に存在しないときだ。
    そうなってしまうと、言い訳ができなくなってしまうので、このこともしっかりと書き記しておく。
    私は、重里皐月という女性が美代子の親友でなかったなら、彼女を愛していたと思う。
    そう・・・親友でなかったら。
    その言葉の意味は、それ以下でもそれ以上でもない。
    皐月さんは、事故にあい、私の記憶を失ってしまったままだ。
    しかも、私のことを矢神達洋だと思ったのか、“たっちゃん”と呼んだのだから、皮肉であるとしか言いようがない。
    だがしかし、私の正直な気持ちは、彼女には記憶を取り戻さないで欲しいと願っている。
    理由は、書き記すまでもないだろう。
    最後に、
    倭里毒物殺人事件の冤罪で苦しむことになってしまった全ての人に誓う。
    私は、命を賭して真相を究明する。
    たとえ、それで皐月さんとの永遠の別れになろうとも。

  • #822

    六輔 (火曜日, 13 7月 2021 21:38)


    藤原のノートには、最後に「詩」が書かれてあった。

    天国
    それは、生き残った人間が発明したものだ。
    誰しもが死後にはそこに行きたいと願っていることだろう。
    何故なら、自分の大切な人が、先に逝ってそこで待っていてくれる、あるいは、そこにいれば大切な人といつかまた再会できると信じているからだ。
    事実、私は信じている。
    俺が逝けば、あいつが待っていてくれると。
    そして、また語り合うことが出来ると。
    俺なんか未だにこの世に未練があって、未練引きずりながら生き残っている。
    残された者に出来るのは、跡片付けだけだ。
    全ての跡片付けを済ませてから逝きたいと思っているが、どうだろうか。
    どうなるかは、分からない。

    人は、自分の姿を“鏡”に映して観ることが出来る。
    ただし、鏡に映っている自分は、本当の自分の正反対の姿だ。
    つまりは裏側の自分ということで、自分では自分の表側を見ることは出来ないのだ。
    それが出来るのは、自分が大切に想ってきた人。
    それは人それぞれで、祖父母、父、母、兄弟姉妹かもしれない。
    夫や妻かもしれない。
    そして大切な親友かもしれない。

    あいつは、俺の表側をしっかりと観ていてくれた。
    だからこそ、自分に意見をしてくれたのだ。
    俺は信じている。
    いつの日かまたあいつに逢えると。

  • #823

    六輔 (水曜日, 14 7月 2021 18:53)


    皐月は、押し入れの奥にしまい込んであった古いアルバムを取り出し、それを愛おしむように抱きかかえたまま徳三郎のゲージの横にゆっくりと腰を下ろした。
    そのアルバムは、高校時代の思い出のスナップ写真が収められたものだった。
    穏やかな笑みを浮かべながら1ページ目をめくると、そこには懐かしいクラスメイト達の笑顔が溢れていた。
    ゆっくりと2ページをめくり、そして3ページ目をめくろうとしたときに皐月は、上を見上げて目を閉じた。
    だが、目論見は成し遂げられずに、皐月の頬を一筋の涙が伝った。
    「なんか、みんなに会いたくなっちゃったな…」
    そうつぶやいた皐月は、達洋が写っている写真を見つけた。
    「あっ、こんなところにたっちゃんがいた!」
    それが意図的か意図的ではないのか定かではなかったが、達洋は皐月と美代子の間から顔を覗かせて写っていた。
    皐月は相棒に話しかけた。
    「ねぇ、徳三郎…」
    以前のように明るい声で自分の名を呼ばれた徳三郎は、ゲージのなかでおすまし顔で皐月を見た。
    「たっちゃんってね、不思議な人なんだよ。女の子が苦手!っていうのとは少し違うんだけど、その人と本当に親しくならないと、同級生でも他人行儀で・・・親しくなっちゃえば普通に話すのに、そうでないと丁寧語で話すのよ。だから知らない人には誤解されちゃうの。冷たい人だ!って・・・ぜんぜん違うのにさ…」
    そう言った皐月は、他のスナップ写真の中に達洋の姿を見つけては、穏やかな表情で眺めていた。
    アルバムを最後まで見終えた皐月は、もう一度徳三郎に語りかけた。
    「明日ね、『あんくる』に行ってくるね。美代子、私が来るのを待っていると思うから。藤原君に会ったら真っ先に謝らなくちゃね、心配かけたことを…それと、たっちゃんのこと・・・相談してくるね…徳三郎」

  • #824

    六輔 (木曜日, 15 7月 2021 18:53)


    大学卒業を間近に控えた陽菜子は、就職を機に学生時代の4年間を過ごしてきたアパートから引っ越すことを決意した。
    社会人になってからは仕事づけになることを覚悟し、通勤距離を第一優先にして引っ越し先のアパートを探した。
    ようやく見つけたアパートは、お世辞にも広いと言える間取りではなかったが、近くにスーパーやコンビニがあることが有難かった。
    これまでのアパートは、ベッドとテレビを置くのが精一杯で、好みの家具やインテリアに囲まれてといったお洒落な部屋にすることは叶わなかったが、新居は畳3枚分広くなることで、念願だったリビング・ボードを置くことが出来た。
    陽菜子は、引っ越し業者に運んでもらった梱包されたままの荷物を眺め、
    「明日は、美代子さんの月命日だし、マスターのところに会いに行こう!・・・というわけで、これから少し始めようかな…」
    と、つぶやき、段ボール箱から真っ先に六つ切りサイズの写真立てを取り出し、それを新調したリビング・ボードの上にそっと置いた。
    その写真は、東庄高校野球部が白進学院に勝利し、閉会式を終えた後に撮った集合写真だった。
    普通であれば、ベンチ入りした20人の選手で、キャプテンが表彰状を持って中央に構え、副キャプテン2名が優勝旗と優勝盾を持って撮るのが当たり前の構図だ。
    だが、東庄高校野球部は違った。
    ベンチ入りした20人の選手と記録員の陽菜子、ベンチ入り出来なかった下級生たち、1年生の女子マネージャー、そして監督、部長全員が揃って写っていた。
    中央には、優勝に大きく貢献した2年生バッテリーが二人で表彰状を持ち、その二人を囲むように3年生が。
    度井垣が優勝旗、戸野間が優勝盾を持って両サイドに立っている。
    ベンチ入りした選手は皆、誇らしげに優勝メダルを胸にかけているが、最後列の一番隅に立っている紘一の胸にはそれがなかった。
    紘一が授与された優勝メダルは、陽菜子と一緒にチームを支えてきた1年生の女子マネージャーの胸に掛けられていたのだ。
    「全員で写真を撮ろうぜ!」
    と、紘一の一声で、ベンチ入り出来なかった選手たちが、グランドに入ってくると、紘一は1年生マネージャーのところに行き、
    「これを掛けて撮ってくれ!」
    『えっ?キャプテン、そんなこと出来ませんよ!キャプテンがしっかり掛けて撮ってください!』
    「俺は、いいんだよ。水嶋と一緒にチームを支えてくれた君に掛けてもらいたいんだ!」
    『…キャプテン』
    その時の光景をしっかり目に焼き付けて覚えていた陽菜子は、写真に向かってこう言った。
    「紘一って、いっつもそうだったのよね…自分のことよりもチームメイトのことを考えて・・・」
    陽菜子の頬を一筋の涙が伝った。

  • #825

    六輔 (金曜日, 16 7月 2021 20:50)


    陽菜子は、高校を卒業して以来、紘一とは会うことも連絡を取り合うこともなく4年間を過ごしてきた。
    その間、紘一に関する噂も聞こえてくることもなく、何の情報もないままに大学を卒業し、社会人になろうとしていたのであった。
    陽菜子は、リビング・ボードに置かれた写真を見ながら、紘一と話した最後の日のことを思い出していた。
    それは、東庄高校野球部の伝統で、卒業式を終えたあとに3年生が全員揃って監督、部長先生への挨拶を行ったときのことだった。

    ホームベースの前に監督、部長先生が立ち、3年生全部員はマウンド付近に一列に並んで整列していた。
    坊主頭を卒業し、髪を少し伸ばした3年生たちを穏やかな表情で眺めていた監督がまず口を開いた。
    (監督)「君たちと過ごした3年間は、本当に中身の濃い充実した時間だった。野球で培った精神力、負けない気持ち、努力する心を忘れずに、これからの人生、歩んでいってほしい・・・卒業おめでとう」
    (部長先生)「君たちは東庄高校野球部に“甲子園出場”という大きな“軌跡”を残してくれた。やればできる!その精神をずっと忘れずに、立派な大人になってくれ!私のようにな!・・・おいおい、ここは笑うところだぞ!(笑)」
    【部員たちの気を使った笑い声】

    (度井垣)「えっと、ここからは副キャプテンだった自分が進行します・・・まず・・・岩城から!」
    (岩城)「お~、俺からか。じゃぁ遠慮なしに、花は桜木、男は岩城から挨拶させていただきます。監督!監督は幸せな男だぜ!岩城という超スーパースターと出会えたことで、甲子園監督になれたんだからな!岩城様に感謝しな!」
    (監督)「そうだな、岩城の言う通りだな。岩城にはいくら感謝しても感謝しきれないよ!ありがとな…岩城」
    (岩城)「お、お、おぅ、そんな真面目に言われると、調子狂うな!じゃぁ、仕方ないな、俺も・・・監督、俺を甲子園の超スーパースターにまで育ててくれてありがとう!一生恩に着るぜ」
    (監督)「あぁ、分かった・・・ありがとう、岩城」
    (度井垣)「次は、里奈科!」
    (里奈科)「…はい。先生・・・体の小さかった僕は、いくら食べても体も大きくならないし、体力も・・・みんなについていけずに野球をやめたいって先生に相談したときに、先生、言ってくれたよね・・・絶対に後悔はさせない!笑って卒業させてやる!…って。先生、約束を守ってくれて・・・ありがとうございました」
    (監督)「里奈科・・・よく最後まで頑張ったな」
    (度井垣)「次は・・・水嶋陽菜子!」
    (陽菜子)「はい!・・・えっと…」

  • #826

    六輔 (金曜日, 16 7月 2021 20:51)


    陽菜子は、高校を卒業して以来、紘一とは会うことも連絡を取り合うこともなく4年間を過ごしてきた。
    その間、紘一に関する噂も聞こえてくることもなく、何の情報もないままに大学を卒業し、社会人になろうとしていたのであった。
    陽菜子は、リビング・ボードに置かれた写真を見ながら、紘一と話した最後の日のことを思い出していた。
    それは、東庄高校野球部の伝統で、卒業式を終えたあとに3年生が全員揃って監督、部長先生への挨拶を行ったときのことだった。

    ホームベースの前に監督、部長先生が立ち、3年生全部員はマウンド付近に一列に並んで整列していた。
    坊主頭を卒業し、髪を少し伸ばした3年生たちを穏やかな表情で眺めていた監督がまず口を開いた。
    (監督)「君たちと過ごした3年間は、本当に中身の濃い充実した時間だった。野球で培った精神力、負けない気持ち、努力する心を忘れずに、これからの人生、歩んでいってほしい・・・卒業おめでとう」
    (部長先生)「君たちは東庄高校野球部に“甲子園出場”という大きな“軌跡”を残してくれた。やればできる!その精神をずっと忘れずに、立派な大人になってくれ!私のようにな!・・・おいおい、ここは笑うところだぞ!(笑)」
    【部員たちの気を使った笑い声】

    (度井垣)「えっと、ここからは副キャプテンだった自分が進行します・・・まず・・・岩城から!」
    (岩城)「お~、俺からか。じゃぁ遠慮なしに、花は桜木、男は岩城から挨拶させていただきます。監督!監督は幸せな男だぜ!岩城という超スーパースターと出会えたことで、甲子園監督になれたんだからな!岩城様に感謝しな!」
    (監督)「そうだな、岩城の言う通りだな。岩城にはいくら感謝しても感謝しきれないよ!ありがとな…岩城」
    (岩城)「お、お、おぅ、そんな真面目に言われると、調子狂うな!じゃぁ、仕方ないな、俺も・・・監督、俺を甲子園の超スーパースターにまで育ててくれてありがとう!一生恩に着るぜ」
    (監督)「あぁ、分かった・・・ありがとう、岩城」
    (度井垣)「次は、里奈科!」
    (里奈科)「…はい。先生・・・体の小さかった僕は、いくら食べても体も大きくならないし、体力も・・・みんなについていけずに野球をやめたいって先生に相談したときに、先生、言ってくれたよね・・・絶対に後悔はさせない!笑って卒業させてやる!…って。先生、約束を守ってくれて・・・ありがとうございました」
    (監督)「里奈科・・・よく最後まで頑張ったな」
    (度井垣)「次は・・・水嶋陽菜子!」
    (陽菜子)「はい!・・・えっと…」

  • #827

    六輔 (土曜日, 17 7月 2021 19:39)


    陽菜子は、必死に涙をこらえながら話し始めた。
    (陽菜子)「先生、わたし・・・記録員としてベンチに入るためにスコアブックの付け方を覚えるようにと言われたとき…正直、絶対無理!って思って・・・でも、チームのみんなが支えてくれて・・・ねぇ先生、それから…みんな・・・先生もみんなも私に支えてもらったって言ってくれるけど…違うよ!私が先生、それからみんなに支えてもらったんだよ。先生、ありがとうございました・・・ありがとう、みんな…」
    こらえていた涙が溢れ出し、声に詰まってしまった陽菜子を助けるかのように戸野間が話しを始めた。
    (戸野間)「度井垣、次はおいらの番ずら!」
    (度井垣)「おっ、おぅ。次は戸野間!」
    (戸野間)「おいら、この高校に進学して、ピアニストにとって命の次に大事な指をケガする危険性の高い硬式野球なんか、やるつもりはなかったずら。野球は中学の軟式野球で卒業!そう、決めていたずら・・・だけどこの学校に入学してきて、あの日、紘一という野球バカに出会って、しかも、このチームには紘一だけじゃねー、度井垣、岩城、里奈科、犬飼、微笑・・・それから水嶋。最高の仲間たちと出会えて・・・おいらの予定は狂ったずら。人生の寄り道をしたずら。3年間、仲間たちと一緒に野球をやったという寄り道ずら。本当に最高の寄り道だったずら。先生、こんなおいら達をしっかり引っ張ってきてくれて・・・感謝してるずら。おいら、必ず恩返しするずら!ショパン国際ピアノコンクールで優勝して、それでリサイタルをやるずら。そんときは、ここにいる全員を招待するずら!」
    自然と拍手がおきた。
    この時戸野間は、初めてチームメイトに涙を見せたのだった。
    (度井垣)「えっと、最後は紘一に締めてもらうから、次は俺が…」
    と、度井垣は、気持ちの整理をするかのようにゆっくりと息を吐きだしてから話し始めた。
    (度井垣)「俺、ただ野球が好きだっていう理由だけで、大きな目標もなく野球部に入部して、でも、紘一と出会って、紘一から絶対に甲子園に行こうな!って、言われて・・・正直、そんなの無理だし、ただの夢で終わるだろうって思ったんだけど・・・俺、中学時代に親友を亡くしていて、俺だけ甲子園に行くなんて出来ねー!って思ってて・・・でも、紘一は「亡くなった親友も一緒に甲子園に行くんだよ!」って、言ってくれて・・・ホンと、夢で終わると思ってたけど、亡くなったあいつを甲子園に連れて行ってやることが出来た。先生、紘一、それからみんな・・・約束する!俺は、日本一の外科医になる。病気で苦しんでいる人を助けてやれる日本一の外科医に。困ったら俺のことを頼ってくれ!それに応えられる医者になるから・・・そんな気持ちになれたのも、このチームで野球が出来たからだと思ってる。ありがとうございました、先生。ありがとう、みんな」
    この時の度井垣は、甲子園出場が決まった時にも流さなかった涙を流しながら、最後に紘一に締めるように促したのだった。
    (度井垣)「紘一・・・最後は頼む」
    紘一は、うなずいて目を閉じた。

  • #828

    六輔 (日曜日, 18 7月 2021 22:21)


    紘一は、心を落ち着かせようと「ふぅ~」と静かに息を吐き、話しを始めた。
    (紘一)「僕の父親は、僕が小学6年生の時に亡くなりました。どうして亡くなったのかは、話すまでもないのかと・・・僕は、ずっと…今でも父親が好きです。憎んだことなど一度もありません。甲子園出場が決まって、学校に僕を誹謗する連絡がきたことには、正直、驚きました。事件が解決していないのだから仕方ないのかと、自分に言い聞かせるしかなかったですし、正直、僕みたいな男が甲子園に出場していいのか?とも考えました。でも、監督、部長先生、それからみんながいてくれたから・・・監督、部長先生、僕の個人的なことでたくさんご迷惑をかけてしまい、本当に申し訳ありませんでした」
    (監督)「おいおい、瀧野瀬! 迷惑だなんて一度も思ったことはないぞ! そんな水臭い話しをするなよ!」
    (部長先生)「瀧野瀬!監督の言う通りだ! お前は、キャプテンとして本当によくチームをまとめてくれた。感謝の気持ちしかないぞ!」
    (紘一)「ありがとうございます、でも・・・最後ぐらいきちんと挨拶させてください・・・」
    と、紘一はマウンドとホームベースの中間まで歩いていき、チームメイトのいる方に振り向いて一人ひとりに話しをしていった。
    (紘一)「岩城…岩城の底抜けに明るい性格が、チームのピンチを何度も救ってくれた。大雑把な性格にみえて、実はすごく繊細な性格の岩城がいてくれたおかげで、チームはち密なプレイを全うすることが出来た。ありがとう、岩城…奈津子はんを大切にな!」
    (岩城)「おぅ、おとこ岩城…チームのために頑張る紘一をみていて、一肌も二肌も抜いてやったさ!一生、おとこ岩城の存在を忘れるなよ!…紘一」
    (紘一)「あぁ、・・・ありがとう、岩城。・・・里奈科…里奈科が野球をやめたいと思っている時期があったことは、俺たちみんな分かっていて、俺たちが里奈科のために何が出来るのか…いつもみんなで考えていたんだ」
    (里奈科)「えっ?そうだったのか?」
    (紘一)「あぁ。でも、お前だけを特別扱いすることはやめようって、みんなで決めて・・・里奈科、お前が陰で努力していたことは、みんな分かっていたからな。お前は自分自身で努力してハンディキャップを克服してくれた。小さくてもガッツあるお前のプレイがみんなを奮い立たせてくれた。お疲れ、里奈科」
    (里奈科)「…紘一・・・紘一やチームのみんながいてくれたから、最後まで高校野球をやり通すことが出来た。感謝してる、ありがとう・・・紘一、みんな」
    (紘一)「戸野間・・・戸野間の“秘打・しらさぎの湖”には、正直驚かされたよ。戸野間の人並外れた野球センスが、チームを強くしてくれた。ショパン国際ピアノコンクールでの優勝!戸野間らしいきっとすごくハードルの高い目標なんだろうな。世界一になった男のピアノリサイタル…必ず聴きにいくからな! 戸野間」
    (戸野間)「・・・ずら(涙)」

  • #829

    六輔 (火曜日, 20 7月 2021 18:33)


    戸野間の涙に、こみ上げてくるものを感じた紘一だったが、ぐっと涙をこらえて部員たちへの挨拶を続けた。
    (紘一)「微笑・・・お前のチームいち大きな声が、どんなピンチからもチームを救ってくれた。一番の努力家で、一番の友達思い。チームで唯一、大学に行って野球をやる男だ! 頑張ってくれよ」
    (微笑)「あぁ、お前の分も頑張る!って、言いたいところだけど…正直、不安でいっぱいだよ。いい仲間と出会えること願ってる」
    (紘一)「微笑なら大丈夫さ!頑張ってくれ!」
    そして紘一は、一番に頼りにしてきた男、度井垣のいる方に体を向けた。
    (紘一)「度井垣・・・俺は、キャプテンとして自分のプレーでみんなを引っ張っていくことしか出来なかった。でもそれは、度井垣が副キャプテンとして俺以上にチームのことを考えて常に行動していてくれたからだ…感謝してる」
    (度井垣)「(笑)褒め過ぎだぜ、紘一! 俺はお前のサポートをちょっとしただけだぜ!」
    (紘一)「度井垣・・・」
    (度井垣)「紘一が教えてくれた“夢”が、俺たちを大きくしてくれたんだ。決して諦めないという心が・・・俺は、いやっ、俺たちチームメイト全員がお前に一歩でも近づこうと思ってやっていた。でも、一生やっても叶わないって思ってたよ。お前のずば抜けた野球センスには、ただただ驚かされてばかりだったぜ! 紘一、お前と一緒に同じチームで野球が出来たこと、俺にとって、俺たちにとって一生の宝物になったよ。ありがとうな、紘一」」
    (紘一)「おいおい、ここは俺が挨拶している場面だぜ!」
    (度井垣)「そうだったな、すまんすまん(笑)」
    と、度井垣への挨拶を笑顔で終えた紘一は、最後に陽菜子のいる方に体を向けた。
    (紘一)「・・・水嶋」
    紘一の声にそれまでうつむいていた陽菜子が顔をあげ、二人の視線が合った。
    と、紘一は、陽菜子のその表情で言葉に詰まってしまい、複雑な感情が入り交じり、紘一はこう言って陽菜子への挨拶を終えようとしたのである。
    (紘一)「陽菜子の存在が、チームを強くしてくれた、ありがとう。陽菜子は陽菜子の人生をしっかり歩んで行ってくれ…」
    この時の紘一の陽菜子への言葉が、あまりにも無情に想えた選手たちは唇をかむことしか出来なかった。
    と、監督が口を開いたのである。
    (監督)「なぁ、瀧野瀬…」
    (紘一)「…はい」
    (監督)「お前、もしかして水嶋にも話していないのか?」

  • #830

    六輔 (金曜日, 23 7月 2021 20:17)


    監督のそのセリフに部員たちはブチ切れた。
    (度井垣)「監督!ちょ、ちょっと待ってくださいよ!今の話しは何ですか?」
    (監督)「えっ???」
    (里奈科)「まさか、監督は知ってる!とか言わないよね?」
    (監督)「えっ? う、うん???」
    (微笑)「紘一がこれからどうするのか・・・誰にも知らされていない!って・・・だから俺たちだって、聞きたくても我慢していたんだぜ!」
    (監督)「はっ???」
    (岩城)「監督!白状しろよ!」
    (監督)「・・・・・」
    (部長先生)「私も聞かされていない瀧野瀬君の今後!まさか、監督が知っているなら、部長である私に真っ先に話してくれているはずですよね?」
    (監督)「み、み、みんな何を言っているのか???」
    (度井垣・里奈科・微笑・岩城・部長先生)「監督!!!!!」
    (監督)「いやっ、ちょ、ちょっと口が滑っただけというか…あれ?・・・おい、瀧野瀬!助けてくれよ!」
    助けを求められた紘一が、ようやく口を開いたが、その表情は強張ったままだった。
    (紘一)「監督・・・僕も監督がいったい何を言っているのか…分かりません」
    (監督)「・・・瀧野瀬」
    紘一の言葉に監督が落胆の表情を浮かべたときだった。
    (紘一)「監督!実は、今日、みんなにちゃんと話そうと思っていたんです」
    (監督)「おいおい、それならそうと言ってくれよ!」
    (紘一)「すいません。いまいちタイミングがつかめなくて…」
    と言った紘一は、自分を落ち着かせようと、深く息を「ふぅ~」と吐いてもう一度部員の方に体を向け、話し始めた。
    (紘一)「俺、みんなに話しておきたいことがあるんだ。聞いてくれるか?」
    (全員)「おぅ」
    (紘一)「俺、親父は決して罪を犯していないとずっと信じてきたし、もちろん今も信じている。だから本心を言えば、親父には自ら命を絶つようなことをせずに、戦ってほしかった。でも・・・親父なりの優しさだったんだと思う・・・これ以上家族が追い回されることがないよう・・・その選択が正しかったかどうかは分からない。でも、親父の選んだことだから、受け入れるしかない。悲しいことに事件が未解決であるために、世間はいまだに親父が犯人だと・・・だから、俺がプロの世界に入って活躍して有名になることは許されないんだよ」
    (度井垣)「なぁ、紘一・・・それが冤罪に巻き込まれた家族の宿命だとでも言いたいのかよ?」
    (紘一)「そうだ!」
    (度井垣)「お前、さっき言ったじゃないか!親父には自ら命を絶つようなことをせずに、戦ってほしかったって。ならどうしてお前は戦おうとはしないんだよ?紘一らしくねーよ!」
    (紘一)「・・・・・」
    重苦しい空気が流れる中、里奈科が穏やかに語りかけた。
    (里奈科)「なぁ、度井垣・・・紘一の話しはまだ続くんじゃないのか?」
    (度井垣)「えっ?」
    (里奈科)「紘一がこれからどうする気なのか?とかさ・・・最後まで紘一の話しを聞かせてもらおうぜ…なっ、度井垣」
    そこにいた全員がうなずいて紘一を見た。

  • #831

    六輔 (日曜日, 25 7月 2021 19:20)


    陽菜子は、引っ越したばかりの慣れない空間で、リビング・ボードの上に置いた写真をもう一度手に取り、一人、紘一との思い出に浸っていた。
    野球部員とマネージャーという立場で過ごした2年半、そして甲子園から帰ってきてからは陽菜子が高校生活残りの半年間を受験勉強に費やしていたがために、恋人らしいデートをしていたわけでもなく、毎日の長電話をしていたわけでもない。
    ただただ、互いを大切に想う気持ちだけは、どんなカップルにも負けない二人だった。
    陽菜子は、写真の一番端、紘一が写るところに右手の人差し指を添え、つぶやいた。
    「考えてみたら、私と紘一って一度もデートをしたことがなかったのよね。強いて言えば、センター試験を間近に控えた高校3年生の元日、紘一の地元の小っちゃな神社に二人で初詣に行ったことぐらい。でも、あの日のことはまるで昨日のことのように覚えているわ。朝日に輝く筑波山がとても綺麗だったこととか…」
    気づけば、紘一とのグランド以外での思い出は元日の初詣だけだったことに、陽菜子は涙を浮かべて苦笑いするしかなかった。
    高校を卒業して4年が経ち、紘一のことで思い出されるのは、やはり卒業式の日に監督、部長先生、部員全員の前で言われた二つのことだった。
    「紘一、最後の日に私にこう言ったのよね。記者を目指すなら、真実だけを伝える記者になってくれ!って」
    その言葉があったからこそ、大学での勉強をしっかりして、新聞社への入社試験にも頑張れた陽菜子だった。
    そして、もう一つの言葉、
    「陽菜子は陽菜子の人生をしっかり歩んで行ってくれ…」
    陽菜子は、その言葉をそのまま受け入れることしか出来なかった。
    それが紘一の優しさだと分かったからだ。
    写真の紘一は、他のベンチ入りメンバーが全員かけている優勝メダルも無く、最後列の一番端で、キャプテンであるという存在感をあえて消しているかのように写っていた。
    「紘一・・・」
    決勝戦で白進学院に負け、甲子園に出場していなかったら、紘一の人生は違っていたのかもしれないと思うと、涙がとめどもなく溢れた。
    陽菜子は、涙を拭おうともせずにこう言った。
    「この時が私と紘一の最高の瞬間だったのかもしれないね…」と。

    どれくらいの時間が経っていたであろうか。
    ようやく涙のひいた陽菜子は、気持ちを入れ替えるかのように「ふーっ!」と、少し強く息を吐きだし、写真を元のリビング・ボードの上に戻してこう言った。
    「さっ、明日はマスターのところに行く日! 私の次のステージへのスタートの報告をしっかりしてこなきゃね!」と。

  • #832

    六輔 (月曜日, 26 7月 2021 19:07)


    3月18日夜半、
    30代半ばの青年が運転するワンボックスカーが教団施設の駐車場から出てきた。
    その後部座席には矢神達洋が乗っていた。

    『矢神主席広報官』
    「うん?なんだい? 橋本君」
    『矢神主席広報官は、東京に行かれるのは何年ぶりですか?』
    「東京に? 大学3年の時に大学を中退して教団にお世話になってから、一度も行ったことがないから・・・27、8年ぶりになるかな」
    『矢神主席広報官』
    「うん?・・・って、あのさ…施設内にいる訳じゃないんだし、堅苦しい呼び方をしなくてもいいから!」
    『でも…』
    「いいって! 矢神さん!とでも呼んでくれ。で、なんだい?」
    『はい・・・突然、東京に行かれることになりましたけど、何かあったのですか?』
    「あぁ、橋本君には突然運転手を頼んでしまって申し訳なかったね」
    『そ、そんな・・・矢神主席広報官の頼みですから』
    「だ、だからさっき言ったろう?堅苦しい呼び方はやめてくれって。ホンと、矢神さんでいいから」
    『・・・はい、分かりました。矢神さん』
    「何のために行くのかは、今はちょっと伏せさせといてくれ!君には後できちんと話すから。しかし、こんな夜の移動になってしまって、本当に申し訳なかったね。新幹線で行くか悩んだんだけど、東京に行ってからは、車の方がいろいろと便利かと思ってさ。どうしても、明日、19日の朝までには東京に着きたいんだ、すまないがよろしく頼むよ!橋本君」
    『はい、自分に任せといてください。19日が何か特別な日なんですね?』
    「19日?うん、ある人の月命日なんだ」
    『月命日?矢神さんのお知り合いが亡くなられたんですか?』
    「知り合いというか・・・まぁ、そうだな。知り合いのようなもんだな」
    『それで、東京の行先は、お茶の水女子大の近くと伺っていますが…』
    「あぁ、そうだ。大学の近くで那珂山という男と会うことになっている」
    『どういった方なんですか…ナカヤマさんという方は?』
    「私の昔からの知り合いだよ。東京についてからは一緒に行動することになると思うので、よろしく頼む」
    『分かりました』
    それ以降、会話の途絶えた車内で達洋は、車窓の暗闇の中に、時折見える灯りをぼーっと眺めていたのだった。

  • #833

    六輔 (火曜日, 27 7月 2021 19:35)


    橋本は、交差点の赤信号で車を停車させると、ルームミラー越しに達洋の様子を伺いながら話し始めた。
    『矢神さん、眠くないですか?気にしないで休んでくださいね。僕も途中、休憩しながら、明日の朝までには東京に着くように運転しますので』
    「あぁ、しっかり休憩しながら行ってくれ。僕は、不思議と眠気を感じていないんだ。橋本君の眠気覚ましになるのなら、何か話しながら行こうか?」
    『えっ?ホンとですか?そしたら、せっかくの機会ですし・・・矢神さんのこといろいろ聞かせてもらってもいいですか?』
    「(笑)僕のこと?」
    『はい。尊敬する矢神主席広報官のこと、知りたいんです』
    「尊敬?(笑)・・・君に尊敬されるような大した男じゃないけどね」
    『そんなことないです。いつも教団のみんなのことを平等に考えてくれて・・・矢神さんの学生時代って、どんなだったんですか?』
    「えっ?僕の学生時代? 一番記憶に残っているのは、やっぱり高校時代のことだろうなぁ」
    『やっぱり高校時代ですかぁ・・・みんなそう言いますよね。でも、僕はあまりいい思い出がないんです』
    「君の生まれ故郷はどこだい?」
    『自分の故郷ですか?自分は、秋田です。秋田の田舎町に生まれ、大学進学のために上京するまで、ずっと秋田で暮らしていました』
    「秋田かぁ・・・きりたんぽ鍋、ハタハタ寿司、稲庭うどん・・・旨いものがたくさんあるところだなぁ」
    『はい・・・って、しばらく地元に戻っていないので、何年も食べてないですけど…』
    「そっかぁ。地元に戻ってないのかぁ・・・高校の同級生とかに会いたいと思うことは無いかい?」
    『・・・ありません。自分、影の薄い存在でしたし・・・誰も僕に会いたいと思っている人はいないと思うので…』
    「そんなことないさぁ。きっと橋本君に会いたいと思っている人はいるはずだよ・・・って、そう言う僕も高校時代の友達にずっと会えずにいるんだけどな」
    『僕は、矢神さんが教団の施設から外に出たのを見るのは、今日が初めてです。実家に戻ったりしないんですか?』
    「実家?・・・もう両親は他界していないからな。橋本君こそどうなんだい?」
    『僕ですか? 両親は僕のことをもう子供だと思っていないと思いますし・・・』
    「そんな寂しいことを言わないでくれ。両親が元気なうちに会いに行ってきなさい」
    橋本は、渋々『・・・はい』と応えた。